「黄金の帝国」・会盟篇
第二二話「キャベツと乙女と・後」
独裁官公邸となっている船は女の園である。
竜也としてはファイルーズの行宮に自分が居候しているものと考えているのだが、そう思っているのはサフィナ=クロイでも竜也一人だけ。竜也以外の全ての人間が「独裁官公邸にファイルーズやミカ達が住んでいる」と考えている。口の悪い人間には「独裁官クロイの後宮(ハーレム)」と噂されており、竜也にもその陰口を否定することはできなかった。もっとも竜也と同衾することがあるのはラズワルドくらいのもので、それも単にたまに一緒に眠っているだけで他に何もないことは言うまでもない。
主人の竜也がただ一人の男で、それを取り巻く女性がファイルーズ・ラズワルド・ミカ・カフラ・サフィール。ファイルーズは自分付きの女官のほとんどを船に置いて、船の炊事掃除洗濯の一切を自分の女官の管轄としていた。つまり、竜也の衣食住の全てを取り仕切っているのはファイルーズ一派ということだ。ミカも、アミール=ダールと共にやってきた自分付きの女官を船に置いている。だがその人数はほんの二、三人で、自分の身の回りの世話以外のことはやらせていない。カフラもまた自分用のメイドを二、三人用意し、船に置いていた。船を内側から警護する牙犬族の女剣士達は形式上はサフィールの部下である。その剣士達に自分の世話をさせようなどと、サフィールは一度たりとて考えたこともないが。
つまり、ラズワルドだけがただ一人で、身一つで船にいるという状態だったのだが、それが急変する。ジブの月の中旬のその日、竜也を除く船に居住する人間のほとんどが船の前に集まっていた。
「……ラズワルドさん、その方々は一体?」
船の前で、ファイルーズとラズワルドが対峙する。音源が何なのか皆目判らないが「ゴゴゴゴゴ……」という謎の音がして、ファイルーズの背後に太陽神ラーが、ラズワルドの背後に巨大な白い兎がそれぞれ屹立しているように見えたが、それらは全て気のせいである。
ファイルーズの背後に控えていたのは実際にはファイルーズ付きの女官十数人である。一方ラズワルドの背後に控えている十数人の女性達は見慣れぬ衣装を身にしていた。白い、ゆったりしたワンピースは指先から爪先までを完全に包んでいる。白いフードですっぽりと頭部と顔の上半分を覆っているが、目を覆う部分は白いベールになっているようでちゃんと外が見えているようだ。そしてフードの頭頂部には二つの穴が空き、そこから兎の耳が飛び出していた。
皆似たような(細身で起伏に乏しい)体格で、全員同じ服を着て、全員顔を隠している。まるで同じ人間が十数人並んでいるかのような、一種異様な雰囲気を醸し出していた。
「何でそんな変な格好なのですか?」
服装についてはあまり他人のことは言えないサフィールが遠慮の欠片もなくひどい質問をし、
「日の光が嫌いだから」
ラズワルドもまたひどい答え方をした。ファイルーズの女官達が顔色を変える。
「アルビノみたいに瞳や皮膚の色素が少ない白兎族は、強い日差しが苦手なのが部族の特徴だから」
とちゃんと説明すればよかったのだろうが、ラズワルドのこの言い方では太陽神を守護神とするファイルーズ達に喧嘩を売っているとしか思えなかった。
「白兎族から出した、タツヤのための女官。今日からここに住まわせる」
ラズワルドは一同に白兎族の女性達のことをそう説明した。
「ここには既にわたしの女官達がいてくれています。その者達にしていただく仕事は特にないのではありませんか?」
ファイルーズは微笑みながら、やんわりと、だがはっきりと白兎族の受け入れを拒絶する。だがラズワルドも負けてはいなかった。
「下働きに呼んだわけじゃない。それはそっちでやってくれればいい」
ファイルーズの女官達が怒りを見せるが、ラズワルドはそれを無視して続けた。
「ギーラみたいな連中からタツヤを守る。それが白兎族の仕事」
「既に警護隊があるのではないですか? サフィールさん?」
ファイルーズに話を振られ、サフィールは言いづらそうに答える。
「あの、『白兎族の女性を船に住まわせる』という決定はバルゼル殿から聞いていました。ただ、こんな大人数だとは……」
ファイルーズはラズワルドの方に顔を向けると、華やかだが仮面のような微笑みを見せた。
「警護隊長の決定でしたら是非もないことです。ただ、もう少し人数を減らしていただけませんか? この船もそれほどの大きさはないのですよ?」
だがラズワルドは傲然と「そっちが減らせばいい」とうそぶく。そして人差し指をファイルーズの背後の女官に向け、
「それと、それと、それ」
と三人の女官を指差した。
「その三人にはケムトの宰相の息がかかっていて、宰相から渡された毒を隠し持っている。その三人は今すぐここから追い出して」
ファイルーズの女官達は無言のまま恐慌状態に陥った。ファイルーズの笑顔が凍り付き、仮面が剥がれそうになる。だが何とか笑顔を取り繕った。野次馬気分で事態を見守っていたカフラやミカ達も心身を凍り付かせたが、白兎族の女達にも動揺の仕草が見られたため多少は気が休まった。
「あ、悪魔……!」
指名された女官の一人が絞り出すように怨嗟の声を上げる。だがラズワルドは、
「悪魔じゃない。『白い悪魔』」
と冷笑を浮かべるだけだ。
「あと、そこの女官はタツヤを誘惑して寝取るつもりでいる。追い出した方が先々面倒がないと思う」
ラズワルドは追加で一人の女官を指名する。指名された女官は怒りと恐怖で過呼吸を起こしそうになっていた。
「……まだ減らす?」
ラズワルドが小首を傾げて問い、ファイルーズは首を横に振った。仮面のような微笑みは浮かべたままだが、仮面の隙間からわずかに敗北感が垣間見えた。
「……その力でタツヤ様をお守りくださいね?」
ファイルーズの言葉にラズワルドは「ん」と頷く。ファイルーズとその女官が道を開け、白兎族の女性を連れたラズワルドが船へと進んでいく。その姿を、慄然とした顔のミカやカフラ達が見送った。
「……白兎族の人達も平静ではないようですが」
「……みたいですね。タツヤさんに聞いたことがあります。あの子のあの恩寵は白兎族の中でも特別だと」
「それはそうでしょう。今日来た白兎族の人達が皆あの子みたいなのだったら」
ミカは自分で口にして、その想像に身震いする。
「あんな子はあの子一人でも充分すぎます」
「あの子がタツヤさんの敵でなくてよかった、としか言いようがありませんね」
ミカやカフラ達はそんな所感を述べ、深々と頷き合った。
白兎族の女達がサフィナ=クロイにやってきたのと同時に白兎族の男達もまたこの町に到着しており、竜也は総司令部で彼等と会見を持つこととなった。なお、白兎族の男達は揃って白人のように白い肌と赤みがかった瞳を有している。アルビノっぽいのはラズワルド一人ではなく白兎族全体の特徴で、ラズワルドはその特徴が特に強く表れているようだった。
白兎族の男達が集められたのは裁判所の一室だ。竜也はこれまでの裁判の調書や判決文の束を白兎族へと示した。
「白兎族には司法関係の仕事を委ねたいと考えている。治安警備隊が逮捕した犯罪者からあなた達が事情聴取をし、事実を見極める。ラズワルドのおかげでサフィナ=クロイの法廷は冤罪知らずだ。あなた達にもそれを期待したい」
白兎族の男達は無言で頷いた。
「裁判所の仕事は、今は犯罪者相手が中心だけど平和になれば商売上の諍いの調停とか多岐に渡ることになるからそのつもりで。
――ネゲヴの大抵の町では裁判は長老会議の管轄だ。法律も量刑も慣習法に則っている。でもこの町にはまだ長老会議がないから、他の町の慣習法を参考に俺が量刑を独断で決めている。……窃盗とかの小さな犯罪は難民の出身地ごとに作った自治会に任せられるようになったけど、殺人等の大きな犯罪や自治会をまたぐ事件は俺の管轄だ。あなた達白兎族には事情聴取だけでなく、裁判官に対して求刑することもお願いしたい。
『慣習法に基づけばこの程度が適当である』
『これまでの判例に従えばこの程度が適当である』
『慣習法と判例ではこの程度だが、犯罪に至った事情を考慮すると一定の減刑が妥当である』
……とかそういう判断をして、俺に助言してほしいということだ」
要するに、主として検事の役割を求めているということだ。白兎族は戸惑ったような顔を見合わせた。竜也は構わず続ける。
「勿論判決を出すのは裁判官、この町では俺の役割だが、そのための助言だけであっても決して簡単な仕事じゃない。慣習法に関する知識、これまでの判例に関する知識を蓄積し、深めていかなきゃいけない。でも、誰かがそれをやる必要がある。法と正義を司るこの仕事に最も相応しいのは白兎族だと思っている」
竜也の真摯な瞳が白兎族の男達を射貫く。白兎族は痺れたように小さく身を震わせた。
「わ、判りました独裁官クロイ。身命を賭してやりましょう」
生真面目を絵に描いたような白兎族の青年がそう申し出る。
「呪われた、忌まわしき部族と呼ばれた我が白兎族。その名を法と正義の使者となし、ネゲヴの民の心に刻み付けてやりましょう」
「白兎族の名誉と繁栄のために……!」
「一族の命運を懸けて!」
白兎族の男達は静かに、熱く燃え上がった。竜也は満足げに頷き、付け加えた。
「当分はこの町だけだけど、将来的にはあなた達を司法官としてネゲヴ全土に派遣することを考えている。それぞれの町の長老会議の主催する裁判に加わり、冤罪をなくし、適切な求刑を助言するんだ。だから先々にはネゲヴ各地の町の慣習法を、各地の判例を把握しなきゃいけない。そういう積み重ねを経て、白兎族には司法の専門家になってほしい」
白兎族の男達は力強く頷いた。
「それじゃ、総司令部の司法担当官をベラ=ラフマさん、あなたに――」
だがベラ=ラフマは首を横に振った。
「恐れ入りますが独裁官タツヤ、その役職はそこのハカムに任せたい」
生真面目そうな青年が驚きながら「私が?!」と自分を指差した。
「ハカムは私などよりずっと恩寵が強く、勉強家で知識が深く、何より正義感が強く真面目な性格です。私などよりよほど司法担当官に相応しい」
竜也は少しの時間何かを考えていたが結局「そうか」と頷いた。
「それじゃハカムさん。今日からでもお願いする」
「わ、判りました。死力を尽くします」
ハカムは全身を硬直させながらもそう返答した。こうして白兎族はその恩寵を司法に活用し、ときに恨まれ、ときに感謝され、大体の場合において敬遠されるようになる。だがそれまでのように単に忌まれ、怖れられるよりは境遇的にはかなり改善したと言える。後々にはネゲヴ社会の安定に欠かせない存在となっていくのだがそれはかなり先の話である。
一方、白兎族の女達は女官として公邸に居着いているが、彼女達が普段何をしているのかは部外者にはよく判らなかった。炊事掃除等の下働きは現地雇いの侍女にさせ、ラズワルドを囲んでのんびり過ごしているようにしか見えない。ファイルーズは各地の太陽神殿と連絡を取り合い指示を出す等し、その女官も精力的に動き回っているのとは対照的である。
だが実際には白兎族の女官達もケムトの女官に負けないくらいに動いているのだ。ただ、船の外に出るときには服を換え、ウサ耳を外して髪も染めているので白兎族の女だとは誰にも判らないだけである。彼女達は総司令部の内外に潜入し、情報収集に従事している。船からろくに出もせず惰眠を貪っているようにしか見えないラズワルドだが、女官達が集めてきた情報をまとめて整理するのは少女の役目だった。
「……もういい、わたしが確認する」
ただ、彼女達が懸命に集めた情報よりもラズワルドが軽く読み取ってきた情報の方がよほど正確であることが少なくないのだが。
こうしたラズワルドの諜報活動の成果はまとめて竜也に報告された。
「総司令部のうちギーラと協力関係にあるのがこの人達。あとこっちは聖槌軍に情報を流している人達。ついでに、総司令部のお金を横領しているのがこの人達」
ラズワルドが差し出す各種リストを竜也は頬を引きつらせながら受け取った。ラズワルドは普段とあまり変わらない仏頂面だが、竜也の目には「ほめて、ほめて」と満面の笑みでせがんでくるラズワルドが見えている。
「ありがとう、助かった。この連中をどうするかはベラ=ラフマさんと相談して決めるから」
ラズワルドはここでようやく自分の失敗を理解する。竜也に喜んでほしくて、竜也に働きを認めてほしくて直接竜也に手渡したブラックリストだが、ラズワルドはそれを竜也にではなくベラ=ラフマに渡すべきだったのだ。
「名前が挙がっている人間が全員いなくなったら総司令部が動かなくなる。よほど悪質な連中以外は手出ししないでくれ」
リストには実に総司令部に属する人間の三割の名が連ねられている。竜也は何度も念押しした上でそのリストをベラ=ラフマに渡した。ベラ=ラフマも総司令部の現状については理解があり、竜也の要請を承諾する。
「総司令部と名乗ったところで元々が各町の寄せ集めでしかない。自分の利益になりそうな副業があればそれに手を出すのも自然なことだ。独裁官に対する忠誠心を求めたところで無理があるのだ。粛清や下手な締め付けは独裁官に対する反発を招き、総司令部の機能を低下させるだけなのだ」
ベラ=ラフマがラズワルドに説明する。ラズワルドも現状は理解したがそれでも不満な思いは抑えられなかった。
「でも、それじゃタツヤは守れない」
「判っている。特に悪質な人間は見せしめに処分していいと許可は得ている」
……後日、総司令部の官僚二人が横領の罪により逮捕され、全財産を没収の上奴隷として鉱山送りとなった。さらには別の官僚二人が何物かに撲殺されるという事件も起きている。竜也がそれ等の事件について述べた言葉は誰も聞いておらず、何一つ残っていない。一つ明らかなのは、ただでさえ細かった竜也の食がさらに細くなってしまったことだった。
「……ともかく、バール人があまり好き勝手をしないよう監視役がいる」
竜也はミカを総司令部へと呼び出し、ある辞令の発令を告げた。
「兵站担当……わたしがですか?」
「そうだ。武器・弾薬・食糧の確保、各戦線への補給、それをミカに任せたい。それ等は今までジルジスさんの管轄だったけど、それをミカの担当として分離独立させるってことだ」
「ですが、わたしには他の仕事も」
とミカが渋い顔をする。
「今の仕事よりこっちの仕事の方が重要なんだ。バール人の商人がいなきゃ兵站は維持できないけど、バール人だけに任せていたらろくでもないことになりかねない」
「確かにそうです。あの連中はタツヤや父上の足元を見て兵糧や矢玉に通常の何倍もの値段をふっかけてくるでしょう」
と深々と頷くミカ。タツヤも大いに同意して見せた。
「その通りだ。市民の負担を減らすためにもバール人の暴利を抑えなきゃいけないが、俺じゃ適正な数量も価格も判らない」
「父上の部下には経理に明るい者もおります。その者に実務を委ねて、わたしの仕事は彼等の管理監督ということですね」
ミカの確認に竜也は「そうだ」と頷いた。
「判りました。微力を尽くしましょう」
ミカは胸を張って偉そうにそう答える。竜也は「そうか、助かる」と安堵のため息をついた。
ラズワルドの諜報活動が今のところ総司令部内とその周辺に限定されているのに対し、ベラ=ラフマはネゲヴからエレブにまたがる諜報活動を展開している。とは言っても活動の大半はオープンソース(噂話や公式発表のように誰でも知ることができる情報)の収集とその分析である。だがこれだけの規模で情報収集を展開し、またそれに注力している国は三大陸には他に存在しない。
「情報を制するものは世界を制する」
それが竜也とベラ=ラフマの合い言葉だった。
「西ネゲヴの戦士がイコシウムに集まっています。イコシウムは西ネゲヴ有数の城塞都市として有名です。籠城して聖槌軍に戦いを挑むつもりのようです」
イコシウムは元の世界のアルジェに該当する町である。ニサヌの月の上旬には竜也はその報告をベラ=ラフマから受けている。
「……使者を送る手配を。籠城をやめてこっちに合流するよう伝えてくれ。それが無理なら町の女子供だけでもスキラに逃すよう船の手配を」
竜也の指示を受けて使者が送られ、イコシウムの将軍ムタハウィルと面談する。だがムタハウィルやイコシウムに集まった戦士達を翻意させることはできなかった。
「元より、生き残ることは考えていない。スキラの口出しも支援も不要」
ムタハウィルは非戦闘員を避難させる手配だけを受け入れ、それ以外の竜也の要請の一切を拒絶した。
「独裁官クロイの戦略は理解できる。確かに百万と戦うには焦土作戦しか方法はないだろう。だが、スキラにいる独裁官には判るのだろうか? 父祖の地が荒れ野となっていく我々の思いを。故郷の町を捨てさせられた我々の気持ちを。飢えた子供を抱える難民の気持ちを」
ムタハウィル直筆のその手紙を握りしめ、竜也は打ち震えた。
「俺が好きでこんな作戦を採っているとでも思っているのか……!」
時間をおいて何とか冷静になった竜也は非戦闘員を避難させる手配を進めさせた。そしてジブの月の下旬。サフィナ=クロイ近海で海上臨検を実施していたハーディから竜也の元にある報告が送られる。それを受けた竜也は急遽スキラ港へと向かった。
港にはハーディ達により抑留された一隻の船が着港している。竜也はその船を見上げた。
「今回捕縛したのはカーセル商会のカーセル。このスキラを拠点とする、大手の奴隷商人です」
船からは、まず縄で縛られた十人程の男達が兵士に連行されて出てくる。次いで、最後の力を振り絞っているような足取りで、何十人もの女性が。女性達は全員泥や垢に汚れ、襤褸布しか身にまとっていない。最後に船から出てきたのは、兵士が運ぶ女性の数体の死体だった。
「……イコシウムの避難民か」
「はい。避難民を奴隷として売るつもりだったようです」
竜也は憤りに歯を軋ませた。
「船員は全員奴隷として鉱山送りだ、商会当主と幹部も同様に。商会の全財産は没収する」
竜也はその指示を出した上で救出した女性達に歩み寄った。
「あなた達の身の安全は総司令部が保証する。まずは療養所で治療と休養をしてくれ」
そう告げられた女性達だが、虚ろな目を竜也に向けるだけだ。やがてその中の一人が竜也に問うた。
「……どうしてこの町は、独裁官はわたし達を見捨てたんですか」
返答に窮する竜也に別の女性が問う。
「……これだけの船があるなら、これだけの戦士がいるならイコシウムに送ってくれれば、わたしの夫だって……」
「……こんな目に遭うくらいなら元の村に残っていた方がずっとよかった」
竜也は何も言えない。何も答えられない。竜也はまるで逃げるように――いや、まさしく逃げたのだ。女性達に背を向けて総司令部への帰路に着く竜也。だがいくら逃げようと竜也の脳裏から避難民達の姿は離れようとしなかった。
そしてジブの月も月末となる頃。
「……ごめん。今日はこれだけでいい」
今日の竜也の朝食は、茹でキャベツのサラダ、それだけだ。竜也はついにパンにも手を付けられなくなっていた。ファイルーズが心配そうな瞳を竜也へと向ける。
「タツヤ様、少しだけ、今日だけでも総司令部のお仕事をお休みしてはいかがですか? 大事な身体なのですからご自愛いただかないと」
「そうもいかないだろう。今日は商会連盟と打ち合わせがある」
食事を終えた竜也は身体をふらつかせながらも総司令部へと向かう。それを見送っていたファイルーズだが、意を決して竜也の元に駆け寄りその腕を取った。
「? 何を」
「おつらいのなら、わたしの方に体重を預けてください。少しは歩きやすくありませんか?」
とファイルーズは優しく微笑む。思わず目が潤んでしまった竜也だが、そっぽを向いてごまかした。
「ああ、ありがとう」
あさってを向いた竜也が礼を言い、ファイルーズが「いえ、お気になさらず」と受け流す。竜也とファイルーズは腕を組んで総司令部へと歩いていった。
その翌日。
「……ごめん。今日はこれだけでいい」
今日の竜也の朝食は、コンソメみたいな味付けのキャベツの煮物。それだけである。
「わたしもそれだけでいい」
とラズワルドは竜也と同じ料理を同じ分量だけ食べた。二人の食事はあっと言う間に終わってしまう。
「いくら何でもそれだけじゃ足りないだろう。もう少し食べたらどうだ」
「タツヤが食べるならわたしも食べる」
竜也がいくら勧めてもラズワルドは食べることを頑なに拒否。仕方ないので竜也は無理にでもキャベツ以外の食事を口にするしかなかった。
さらにその翌日。
「……ごめん。今日はこれだけでいい」
今日の竜也の朝食は、キャベツとキャベツとキャベツの野菜炒め。それだけである。
「タツヤさん、少しは精の付くものも食べないと身体が持ちませんよ」
心配そうにカフラがそう言うが、竜也は憂鬱そうな目をカフラへと向けるだけだ。
「……判ってはいるんだけど」
竜也はそれだけを言い、ふらふらとおぼつかない足取りで総司令部へと歩いていく。それを見送っていたカフラだが、意を決して総司令部から背を向けて町へと向かって歩いていった。
そして夕方、カフラがある人物を連れて竜也の元を訪れる。
「タツヤさん! スキラで高名な調薬師を連れてきました!」
竜也はその老人の調薬師の診察を受け、胃痛に良く効く薬を調合してもらう。その夜から、その苦い飲み薬を無理矢理飲み干すのが竜也の日課となった。
またさらにその翌日。
「……ごめん。今日はこれだけでいい」
今日の竜也の朝食は、ボウルいっぱいのキャベツの千切り。それだけである。
「何でこんなキャベツ尽くしなのですか、ここの食事は」
と偉そうに竜也を見下ろしているのはミカである。竜也は死相が出ていそうな顔をミカへと向ける。
「キャベツは胃痛改善に効果があるんだ」
と言いながら、もそもそと牛みたいに千切りを口にする竜也。一方ミカは竜也の説明に「なるほど」と納得する。
「そういうことでしたらわたしもいただきましょう」
とミカは竜也と同じ食卓に着き、キャベツの千切りを猛然と食べ出した。
「ミカ?」
「戦争をしているのですから、指揮官の胃に穴が空きそうになるのは当たり前です。前線で戦う兵とは別の、これがわたし達の戦いなのです」
ミカは親の敵みたいな勢いでキャベツを食べ続ける。竜也はミカの言葉に感銘を受けた様子だった。
「……確かにその通りだ。胃痛くらいで泣き言を言っていられない」
竜也はミカに負けない勢いでキャベツの千切りを食べ出した。
またまたさらにその翌日。
「……ええっと」
今日の竜也の朝食として皿の上に乗って出てきたのは、キャベツ丸ごと一玉、それだけだった。料理?を持ってきた女官が恐縮する。
「も、申し訳ありません、料理の担当者がついにへそを曲げてしまって……」
「ああ、気にしなくていい。別にこれで構わない」
竜也はキャベツの葉を千切り、塩を振ってそのまま食べた。キャベツの葉を数枚食べて、それで竜也の朝食は終わりである。
「……タツヤ殿、その、少しは休まないと身体が持ちません」
サフィールがそう諫言するが、竜也は首を横に振った。
「今日は避難民の長老方との打ち合わせがある。休んでいる暇はない」
食事?を終えた竜也は総司令部に向かおうとする。が、その前にトイレに向かい、胃の中のものを全て吐き出した。船を出、迎えに来たバルゼルのところに行こうとする竜也の前に、サフィールが立ち塞がる。
「サフィール?」
サフィールの悲痛な色の瞳が竜也を見据える。
「どうか今日はお休みいただきたい。タツヤ殿のお身体はタツヤ殿だけのものではないのです」
「仕事があるんだ、どいてくれ」
竜也は立ちはだかるサフィールの横を通り抜けて進んでいく。が、足をもつれさせて倒れそうになった。咄嗟にサフィールが身体を支える。
「タツヤ殿、このまま船に戻りましょう」
首を振った竜也がサフィールを押し退けて前に進もうとする。が、サフィールは腕にかかった竜也の身体を決して離さない。
「駄目です! タツヤ殿に万一のことがあったら、わたし達は、ネゲヴはどうなると思っているのですか!」
竜也がじたばた暴れるのでサフィールは拘束する腕にますます力を込めた。その腕が竜也の喉にかかり、柔道の裸締めみたいな状態になっていることにサフィールは気付いていない。
「おいサフィール、タツヤ殿が」
バルゼルに指摘されてサフィールは初めて気が付いた。竜也が意識を失っている。白目を剥いた竜也に、
「ああっタツヤ殿! だからあれだけ言っていたのに!」
とサフィール。締め落としたのはお前だ、とバルゼルは内心で突っ込む。
「バルゼル殿、タツヤ殿を! わたしは医者を呼んできます!」
サフィールは総司令部に向かって走っていく。サフィールが走り去るのを確認し、バルゼルは竜也に活を入れた。
「……え、あれ?」
と竜也はすぐに意識を取り戻す。不思議そうに周囲を見回し、
「……何があった? 何で俺は倒れている?」
気絶した前後の記憶が飛んでしまっているようだ、と見当を付けたバルゼルは、
「過労のため意識を失い倒れたのです」
と断言した。
「そうなのか?」
竜也の問いに、バルゼルは無言で頷く。その有無を言わせぬ雰囲気から竜也はそれ以上の質問をしなかったが、いまいち納得がいかない様子で首をひねっている。
そうこうしているうちにサフィールが医者を連れて戻ってきた。竜也は自室のベッドに放り込まれ、結局その日一日はベッドの中で休眠を取ることとなる。
「もっと部下を信頼して仕事を任せるようにしてください」
「心配した」
「倒れたら意味がないじゃないですか」
「自己管理がなっていません。休むのも仕事のうちです」
「ともかく今日はお仕事禁止です」
五人の乙女がベッドの脇に立ち、看護しながら口々に竜也を責める。実際に倒れた以上何も言い訳できない竜也は、ひたすら恐縮して彼女達に謝り続けた。
「……倒れた理由は何か違うような気がするんだが」
と腑に落ちないものが胸に残っていたけれども。