夢とは潜在意識の顕れであるという。 或いは、昼間に記憶したものを再整理する間に生じるノイズ。 或いは、普遍的無意識から浮かび上がる、何がしかの啓示。それは原初の混沌から放射される精神エネルギーを、自我まで届ける道筋。 或いは、現実と表裏一体の夢の国(ドリームランド)で過ごす、私であり別人でもある誰かの記憶。 はたまた、前世の記憶。生まれ変わる時の記憶。 夢の中で、私は絹糸に覆われていた。 纏わり付くこの糸は、私を捕らえているのだろうか。 それとも、蚕の繭のように外敵から守ってくれているのだろうか。 自分が人の姿をしているのかどうかも、定かではない。ドリームランドにて知性ある者はヒトだけではないのだ。 何も見えない。瞼も閉じているのかどうか分からない。 何も聞こえない。自分の鼓動さえも聞こえない。この身体に心臓はあるのだろうか。 何も匂わない。果たしてこの身体に鼻があるのか。 身体に触れるのは、さらさらした絹の感触のみ。 あとは痛覚。あるいは痛みの記憶のフラッシュバック。幻痛。でも痛いものは痛い。痛い。痛い。痛い。 刺された。痛い。切られた。痛い。剥がされた。痛い。轢かれた。痛い。潰された。痛い。焼かれた。痛い。溶かされた痛い凍らされた痛い分かたれた痛い返して痛い砕かれた痛い混ぜられた痛い引き千切られた痛い痛い心細い植え付けられた痛い埋め込まれた痛い返してもらった少し痛くない生えてきた分からない掻き分けられた痛い食われた痛い吸い尽くされた分からない置き換えられた痛くない同化された痛くない育っていく痛くない。 もう、痛くない。くふふ。痛くない。くふふふふふ。 痛いって何だっけ。くふふ。 分からない。くふふふふふ。何にも分からない。 なら教えてもらおう。くふふ。どうやって? 傷つけて? そう、傷つけて。切り開いて。腑分けして。そうすれば分かる。 じゃあ誰を? 私を? 誰かを? 世界を? くふふふふ、さあ、分からない。何にも分からない。 だから知ろう。全部試そう。調べ尽くそう。全部全部全部。◆ 右肩が疼いて目が覚めた。どうやら、研究室で資料を見ながら眠ってしまっていたらしい。椅子の上で資料を広げた机に突っ伏していたようだ。何か夢を見ていた気がする。 いつもと変わらず、寝起きには、四肢の感覚に違和感がある。もう2、3本手足が多くても良いような、そんな感じ。アタッチメントでも着けてみればしっくり来るだろうか、何て思いつつ、伸びをする。 背骨を鳴らして反り返りつつ、周囲を見回すと、薄ぼんやりと光る窓辺が存外に近くにあると気がつく。月光に照らされた蔓植物が窓枠の端に手を掛けているのが見える。そんなに伸ばしても月には届かないよ、なんて思いながら伸び過ぎた蔓を『念力』で壁から引き剥がしておく。蔓はゆっくりと向こう側に倒れていった。 屋敷の庭の片隅の研究室は“ウードの洞窟(グロッタ)”と屋敷の者からは呼ばれている。この部屋とも、もう十年近くになる付き合いだ。 確かに一見不気味な標本たちで埋め尽くされたこの研究室からは、洞窟と呼ぶに相応しい神秘的で幻想的なものを感じ取れても不思議ではない。「イタタタタ。やっぱり、まだ骨が馴染んでないのかな」 盗賊討伐の際に、体内に溜まりに溜まった蜘蛛化の呪力の毒素を排出した。取った方法は、右の鎖骨から右肺にかけて毒素を凝縮させ、そこを毒牙へと変化させて他の誰かに呪いを打ち込むというもの。 その際に捕縛した盗賊の一人を生贄にした。“呪い”という性質上、誰かを形代にして移すことしか出来なかったのだ。 呪いを移された盗賊は、無数の蜘蛛になって死んだ。ヒトを犠牲にしたが、領民を生贄に捧げたであろう先祖たちの所業に比べれば、万倍もマシだ。いや、言い訳に過ぎない。このままでは私は、次は“家族を生贄にするよりマシ”と言いながら領民を容易く手に掛けることだろう。自戒しなくては。 生贄に捧げた男は、果たして死んだのだろうか。確かに蜘蛛に変化した。しかし、蜘蛛に変化しただけで、彼の魂は死んでいないのかも知れない。 出来ればあの時に化生した蜘蛛たちは回収しておくべきだった。 そうすればその蜘蛛が盗賊の男と自我の連続性を保っているか調べられたかも知れない。蜘蛛になっても彼は彼のままの思考を保っていたのかも知れないのに。魂の本質に迫る研究が出来たのかも知れないのに。 残念だ。「まあ、あの時は変じた蜘蛛を回収するとかどうとか以前に、自分の身体がピンチだったから仕方ない。 肋骨やら肩甲骨やらの骨の修復で一杯いっぱいだったから……」 文字通り骨抜きにされた右肩周辺に、近くの廃屋に詰め込まれていた死体から材料を移送して骨やら肉やらを一晩掛けて再構築したのだ。 あの後は右肩周辺を中心に熱が出て、屋敷に帰った次の日から暫く寝込んでしまった。家族にも心配をかけた。 ふと、ケースに入れて壁に掛けられた、何かの甲殻類の脚のようなものを見る。 それは、艶のない黒い色の、二の腕ほどもある大きな犬歯のような形をした大きな甲殻であった。 牙の先端には、更に鋭い爪のようなものが付いており、逆の牙の根元側は節になっていて牙本体よりは幾分か細い甲殻が連接している。 この甲殻は私の身体を食い破って生えてきた、大蜘蛛の毒牙だ。 これが右の首元から生えてきて、盗賊の男に『蜘蛛化の大変容』の毒を注入したのだ。 野盗が化生した蜘蛛は持ち帰ることは出来なかったが、こちらの牙は持ち帰ることが出来た。 この毒牙を研究して分かったのは、これが矢張り私自身の組織が変成して生じたものであるということだ。 私の首元には、この毒牙が確かに私と連接していた証拠である、甲殻の関節の名残がある。 DNA的には、この甲殻も、私の蜘蛛化していない部分も同一なのではないだろうか。 今のところ制限酵素やPCR法などが開発中であるため、正確には把握できないものの、おそらくはDNAは私自身のものと変わりはないのだと思う。 水魔法による探査の感触は、この毒牙と私とが同一のDNAのようだと伝えて来る。 蟲とヒトの遺伝子の違いというのは驚くほど少ない。 では、蟲とヒトとを隔てるものは何か。 それは端的に言えば、遺伝子の発現順序である。 どの建物も使う材料は大差無い。 それでも、この世に出来上がる建物は千差万別だ。 それと同じように、ヒトも蟲も使われている材料は似たようなものなのだ。 違うのは、それをどう組み立てるのか。「蟲もヒトも似たようなもの」 だから、遺伝子に何かで――例えば水の魔力で影響を与え、その発現順序をあたかも蟲と同じように調整(エミュレート)してやれば、その部分は蟲になるはずなのである。 材料について言えば、既にヒトである私の遺伝子にも蟲と同じ素材が揃っているのだから、不足はないはずなのだ。 この額縁に飾ってあるこの蜘蛛の大顎は、そのようにして出来上がったのに違いないのだ。ヒトの材料を使って蟲を組み立てたのだ。 何か呪的な力によって遺伝子の発現順序が書き換えられたのだろう。「魔法で遺伝子の発現を上書き出来るのかなあ、DNA自体には影響与えずに……? それが可能だとして、じゃあ、その魔法だか呪いだかは何を参照してるんだ? 何か魔法的な核のようなものがあるのか、それともアカシックレコード?」 未だこの世界には分からないことが溢れている。 そのことを思うと胸が躍る一方で、焦りも大きくなる。「私が生きているうちに一体どれほどの事が出来るだろう? もっと知りたいのに」 もっと精密な観測機器が必要だ。 もっと多くの志を同じくする人手が必要だ。 もっと時間が、エネルギーが、資金が、権力が必要だ。 なによりもっと知識が欲しい! 際限ない知への渇望が、魂を焦がしていく。「もっともっと知りたい。何もかも。 もっと、もっともっともっともっともっと……」 ぎしり、と、無くなった右肺が軋んだ気がした。◆ ウードが管轄しているゴブリンたちには『ウード・ド・シャンリットが死んだら、その死体は何があっても蒐集しろ』という命令が下されている。それこそ墓暴きでも何でも、手段は問わない、という風に。 これで、ウードがヒトのまま死んで、なおかつ、頭部が無事ならば、ウードしかこの世界で持っていない『前世の世界』の知識は、人面樹の中に残るのだ。 だが、ウードの人格までを含めて、ずっと引き継いでいくことが出来るかどうかは不明である。彼としては、永劫に知識の蒐集を続けたいのだが。 所変わって、ここはその為の技術の検証施設。ゴブリンたちの暮らすシャンリットの森の奥深くに用意された施設だ。 その中の『ライト』の魔道具によって真昼のごとく照らされた実験畝に、ゴブリンたちを生み出す樹(バロメッツ)と、記憶を喰らう人面樹が配置されている。 バロメッツには幾つかの実が生っている。実の中で動く胎児の影が、透けて見える。 その内の一つが、熟したのだろうか。白衣を着た褐色の肌の子供が駆け寄り、実の付け根から『エア・カッター』で切り取って収穫する。白衣の子供は、素早く実の皮を切開する。実の中からは漿液が溢れ、ヒトの胎児よりさらに小さなゴブリンの胎児が姿を現す。 生まれた胎児は担架で運ばれ、無菌ケースに入れられると、身体中に栄養注入用のチューブを刺される。 そして成長を促進させる『活性』の魔法が効いた区画に移され、さらなる成長を促されるのだ。「……ぅう。ここは? オレは確か、戦場で……」「ハイ! ミスタ……えーと、何だっけ?」 先程の実が収穫されて3時間ほど。収穫された胎児は、喋ることが出来る程度には成長した。 だが、通常は直ぐに喋ることが出来るようにはならない。 知能が育っていないのだから当然だ。 にもかかわらず、この赤子は言葉を話している。 それを覗き込む白衣の少女も、その事に疑問は抱いていないようだ。『ミスタ・スミス、です。ドクター。私が読み取った記憶によれば』「ああ、そうだった。ありがとう、ミス・プリマ・レゴソフィア」『関係ないことはすぐに忘れますね、ドクターは』「いやいや、面目ない。些細なことはつい忘れちゃうね」『些細なことが決定的に重要になることもあります。くれぐれもお気をつけを』「あはは、さすが〈レゴソフィア〉氏族。耳が痛いね。“無目的にかつ無制限に蒐集すべし”だっけ」『その通りです。我々はどんな些細な記憶であれ蒐集することを家訓にしていますので』 どこからか“プリマ・レゴソフィア”と呼ばれた女性の声が響く。何かしらの魔道具でこの部屋をモニターしているのだろうか。この声も魔道具か何かで隔たった部屋に届かせているのだろう。 ドクターというのは目覚めた赤子を覗き込んでいる少女だろう。彼女は年の頃は5歳か6歳ほどに見える。「ど、くたー?」「ええ、私はドクター。目覚めの調子は如何? ミスタ・スミス」「ここは何処だ? オレは、死んだと思ったんだが」 その赤子の問い掛けにドクターはニコッと笑って答える。「ええ、ミスタ・スミス、あなたは死んだ。でも、ここは残念ながら天国じゃない。あなたは生き返った、いえ、生まれ変わったの」「……冗談はよしてくれないか、お嬢ちゃん」「冗談じゃないんだなあ、これが」 ドクターはケース越しに赤子――ミスタ・スミスに答える。「そして、更に残念ながらあなたは悪い魔法使いによって実験材料にされる……いいえ、今、正に実験材料になっているところなんだなあ、これが」「……は?」「今は人面樹が死体から取り出した記憶を、人面樹に接木してキメラ化したバロメッツの中の胎児に摺り込む研究をしている。あなたはその栄えある被験者というわけ。おめでとう!」「え、ああ、ありがとう?」 赤子はよく分からないという表情を未発達な表情筋で何とか表現している。「それで今は、移植する記憶について、どこまで削って良いか、とか、何が人格を構成する要素なのか、とか、移植する記憶を調整する方法とかについて研究を行ってる」「は、はあ」 そんな赤子を無視して、ドクターは話を続ける。赤子が理解してるかどうかなど関係無い。話したいから話しているだけ、という事のようだ。「ミスタ・スミス、その被験者であるあなたの記憶は虫食いになっているはずなんだけど、その辺どうよ? 昔の記憶がなくても、それでも“あなた”は自分を“ミスタ・スミス”だと認識できてる?」「う、え? 記憶?」「そう、具体的には15歳以前の記憶が無いはずなんだけど」「……え?」 赤子のミスタ・スミスは、そう言われて思い出そうとする。 だが、全く思い出せない。 混乱する赤子に、何処からとも無く“プリマ・レゴソフィア”の声が掛かる。『あなたが5歳の時に3歳下の弟が風邪を引いて亡くなったことは覚えているかしら? 6歳の時に村の教会に新しく赴任した若いシスターに初恋を抱いたことは? あなたが12歳の時にあなたの父親と母親は流行病で亡くなって、あなたも半死半生になったのだけど記憶に残っているかしら? 14歳の時に村を飛び出して傭兵になったのだけれど、その時に“大金持ちになって帰ってきてやる”と決意したことは? 15歳になったばかりの頃に初めてヒトを殺したことは覚えている? 戦勝祝いの端金で娼婦を抱いたことは忘れてしまっている?』 分からない、分からない、分からない。 何処からか聞こえてくる少女の声が語る内容には覚えがない。 合っているのか、間違っているのか、それも分からない。 何が欠けているのかすらも、思い出せない。 父の顔は? 母の顔は? オレの兄弟は? 出身の村は何処だった?「まあ、尋問はこの辺にしておこうか。それで重要なことなんだが、私たちは記憶を読む魔法が使えないんだ。だから、あなたが忘れているか覚えているかというのは現状じゃあ確かめようが無い。でも、死体からは記憶を蒐集することが出来る。そこで君には生まれてすぐで申し訳ないんだけど、また死んで人面樹の糧になってもらわなければならない」「…………」「ありゃ、聞こえてないかな? まあ良いか。じゃあおやすみ、ミスタ・スミス」 ドクターはケースに『眠りの霧』を注入し、眠った赤子ごとケースを運ぶ。 そして先程の実験畝のある区画に移動すると、その赤子を収穫したバロメッツの隣の人面樹の前に立つ。 人面樹の枝は水平に幾つか伸びていて、周囲を取り囲むように植わっているバロメッツの幹へと融合している。 人面樹の傍らには、ワインレッドの長髪の幼子が寄り添うように立っている。「じゃあ、あとはよろしくねー。ミス・プリマ・レゴソフィア」「はい、ご苦労様です。ドクター」 ミスタ・スミスと呼ばれた赤子は、ケースから出され、“プリマ・レゴソフィア”と呼ばれた紅い長髪の幼児に足を持たれて無造作に逆さ吊りにされる。 そして、そのまま人面樹の幹に空いた大きな虚(うろ)に放り込まれた。 虚から投げ入れられた餌に反応して、触手のような蔦が内部の壁から伸びて赤子を絡めとり、その口や目や耳から内部へと押し入って根を張っていく。 人面樹の幹に刻まれた使い魔のルーンが輝き、虚の中の赤子からその記憶や人格を根こそぎ吸収し、その身体も消化する。「次の被験者はどういう条件だっけ?」「次も“ミスタ・スミス”です。詳しく言うと、今度は15歳までの記憶しかない筈の“ミスタ・スミス”です」「ん、了解了解。じゃあ、死産とか奇形にならないようにきちんとバロメッツを見張っとくよ。アトラク=ナクア様の御加護を、ミス」「よろしくお願いします。あなたにもアトラク=ナクア様の御加護を、ドクター」◆ 人面樹を使い魔にするゴブリンの氏族は、別に生まれつき記憶を植え付けなくとも、人面樹経由で知識や経験を継承できる。 しかし、その氏族だけで集落を形成するとゴブリンたちに多様性が生まれなくなってしまう。 同じ種類の使い魔を安定して召喚するには、かなりシビアな遺伝的条件をクリアしなくてはならないのだ。 人面樹を召喚出来るゴブリンは総じて体力がなく、筋肉も付きづらいという特徴がある。 だが、それらの欠点を遺伝的に克服させると今度は人面樹を召喚できなくなってしまう。 ジレンマだ。 力が強い氏族とか、魔法が得意な氏族とか、他にも様々に特化した氏族を作成しようとしており、現在は原種のレパートリーも増えていっている。 そして知識の継承は非常に魅力的であり、人面樹の〈レゴソフィア〉氏族だけに限るのは惜しいというのも事実だ。 それゆえの人面樹とバロメッツのキメラの研究である。 継承するのは知識や経験のみではない。 信仰心や忠誠心といった強い情動を先天的に植えつけることも簡単になるはずだ。 人面樹に吸わせたのは人間だけではない。 集落のゴブリンは基本的に死んだ後には人面樹の糧となり、その知識と経験を一族のために還元しているのだ。 その知識と経験を蓄積するのと同時に、人面樹は数万のゴブリンの感情(例えば知的好奇心や蜘蛛神への信仰)をも吸って蓄積しているのだから、それを植えつけるのも容易いはず。 実際、研究を初めて1年くらい経っているが、人面樹とバロメッツのキメラは一応形になっている。 現在は実用化のための実験を進めている段階だ。◆ 話は変わって、ゴブリンのメイジ化技術であるが、漸く最大でライン程度ランクまでの改造が可能になった。 しかも、遺伝的な改造も継続して施しているため、脳改造を施さなくてもコモンマジック程度は使えるようになった。 この進歩は盗賊の中に居た高ランクメイジの遺伝子や脳構造を直接研究出来たのが大きい。 それに味をしめて、ゴブリンたちは近隣で戦争が起こる度に死体の首を漁りに行っている。 メイジが戦死することなんか早々無いが、それでもいくらか収穫はある。 死体の他にも未使用の水の秘薬や、マジックアイテムなんかも運が良ければ回収出来る。 戦場で息絶えた高位の幻獣の死骸からサンプルも手に入り、それらの幻獣を調教するために必要な知識も幻獣乗りのメイジの死体から手に入れられた。 ゴブリンメイジの魔法ランクと知能が上がったことで、任せられる作業も増え、研究の進展も早くなっている。 現在はウード自身が行っている研究は少なくなり、専ら現場で研究を行っているゴブリンから寄せられる報告書を読んで、指示を行う日々を送っている。◆ 蜘蛛の糸の繋がる先は 9.入会儀礼(イニシエーション)は共同体の絆を深めるのに有効 ◆ 『サモン・サーヴァント』の研究だが、未だに探査術式やゲート術式のみを抽出することは出来ていない。 その代わり、術者と被召喚生物の関連について大まかにだが判明している。 現在は、その関係性を利用して、被召喚生物を使い潰す形で、ゲート輸送を実用化しようと奮闘中だ(ゴブリンたちが)。 例えば、ネズミを召喚したメイジが居たとする。 そのネズミ(オリジナル)のクローンをバロメッツで作り、クローンを離れた場所に持っていく。 オリジナルのネズミを殺して、再び召喚の呪文を唱えれば、ほぼ100%の確率でクローンネズミの前にゲートが開く。 あとはそのゲートに輸送したい物を突っ込めばOKだ。 高等な動物だとクローンとオリジナルで記憶などが違う所為か、完全に100%ゲートがクローンの前に開くというわけには行かないようだ。 かと言って単純すぎる生き物だと個体間の違いが少なすぎてクローン以外の個体の前にゲートが開いたりしてしまう。 あとは術者の体調によっても召喚ゲートの開く先が異なる。 術者の体調や、召喚される側の記憶とか、そんな些細な違いを読み取れる『サモン・サーヴァント』の探査術式というのも凄まじいものである。 研究の結果、被召喚生物として最適だと判断されたのは巨大なカブトムシの幼虫のような幻獣――ジャイアント・ラーヴァだ。要するに巨大な蛆虫である。 動きが鈍いため誤ってゲートに飛び込む危険も少ないし、現れるゲートの大きさも手頃な感じで非常にグッド。 ジャイアント・ラーヴァがこの輸送システムの犠牲者として選ばれたのは、もともとゴブリンの集落で流通していた小型コンテナのサイズに近かったからという理由もある。 ジャイアント・ラーヴァは個体間の遺伝的多様性は大きいようだが、精神性はあんまり発達していないようで記憶の違いを考える必要はないという要因もある。 脱皮の月齢を間違えなければ狙ったとおりの幼虫の前に召喚ゲートを開くことができる。 バロメッツによってジャイアント・ラーヴァのクローンを簡単に作ることができるので、物資の輸送に関しては前述の方法で召喚ゲートを通じて一瞬で離れた2地点を結ぶことが出来るようになった。 ゲートを閉じたいときは呼び出される側のジャイアント・ラーヴァを殺処分すればいい。 次の日には別の若い月齢のクローン幼虫が脱皮しているので、再びゴブリンが『サモン・サーヴァント』の呪文を唱えれば前日と同じ場所にゲートを作成出来る。 まだ召喚ゲートを用いた輸送では、荷物の輸送は行っているが、生物の輸送は殆ど行っていない。 せいぜい実験レベルで行っているくらいだ。 それは召喚ゲートの通過でどんな影響があるのか不明だからだ。 少なくとも、ゲートを通った生物を朦朧化させる効果は確認されているし、他にも何らかの洗脳効果はあると思われる。 ゴブリン達は宗教を絡めた道徳教育を基幹にして、信仰によって社会秩序を構築している。 だが指導者である巫女ゴブリンはウードが同時制御出来る数に限りがあるため、今後ゴブリンの生息圏を広げるなら巫女ゴブリン無しでもきちんと社会秩序を維持できるようにしなければならない。 そのために巫女ゴーレムなしでも社会運営出来るように、三権分立など、ウードの前世の社会制度とハルケギニアの社会制度を参考に整えてきている所である。 とはいえ、やがては全ゴブリンに対して知識の継承を行い、基礎知識としての道徳心や常識をプリセット出来るようになるので、現在の宗教中心の社会制度はそれが実現できるまでの繋ぎという位置付けになるだろう。 人面樹とバロメッツのキメラ化によって知識や経験が継承されるようになれば、非常に大きなパラダイムシフトが起こるだろうし、それにともなってゴブリンの精神性や社会形態も変容するはずだ。 ここ一年は行政・立法・司法のそれぞれの機関の整備、憲法となるべき基本方針の設定、その他の細々としたことを行ってきた。 今では改造ゴブリンたちの集落の運営については、殆どウードの手を離れてしまっている。 実際の運用面では、ゴブリンたちの方が人面樹に吸わせた知識と経験を利用できる分、ウードよりも上手(うわて)なのだ。 あとは、他の地域に拡大浸透していく際に実地で微調整すればいいだろう。◆ ゴブリンたちの憲法について。 ――ウードの研究室に保管されているメモからの抜粋。『3つの基本理念を置き、それとアトラク=ナクアの蜘蛛神教の戒律を合わせて統制を行う。 基本理念は以下の3つ。“真理探究”、“全体最適”、“日進月歩”。 “真理探究”とは、無論、私の知識欲を満たすための各種の研究を行わせるために掲げた目標である。 ゴブリンたちを改造したのは元々こういったことに使う手足を確保するためだったのだから、当然だ。 ここに基本的人権の概念は考慮しない。人体実験が真理の探究に必要なら、それを妨げない。 人面樹があるのでゴブリンたちは死を恐れない。 それは死んでも人面樹の形作る広大なネットワークに溶けて祖霊と一体化することが分かっているため。 死を恐れないから生きていることに対して余り執着を覚えず、人体実験や優生学に対する忌避感もとても薄い。 その分、人面樹に知識を継承されないような死に方……焼死などの頭部が著しく損傷する死に方は忌み嫌われているようだ。 さらに近年は前世の記憶持ちとも、黄泉がえりとも言えるゴブリン達も増えている。 実体験として死後の世界を経験したものがいるので、死への不安は非常に小さくなっている。 ……死を経験したことで狂気に侵され、その辺りを気にする感性などなどが摩滅しているだけかも知れない。 “全体最適”というのは種の利益を常に考えると言うこと。 個人の利益ではなくて、常に広い視野を持って全体の利益を目指すということ。 その為には自己犠牲も厭わない精神。寛容さ、道徳心などなど。 “Un pour tous, Tous pour un(一人は皆の為に、皆は一人の為に)”の精神。 “真理探究”と種の繁栄のために最適化を行い続けるという精神。 “日進月歩”というのは社会の停滞を防ぎ、技術的・思想的に常に新しいものを目指すということ。 より早く、より簡単に、より安く、より楽にを心がけて、相互扶助でゴブリン全体を繁栄させるためのスローガンとしてこの理念を置く。 上記二つに反しない限りは優先される。 まあ、もとからゴブリンたちは好奇心旺盛になるように交配を重ねられているからわざわざ掲げなくても勝手に色々と新しいことを開発していくだろう。 ~(中略)~ うまくこれらの制度を回すためには、後数年は現在のシャンリットの領地内の集落で経験を積まないといけないだろう。人面樹に蓄積されたトリステインの官僚の記憶なども上手く使う必要がある。 私にはあまり時間は残されていないので、全世界の動植物などを調べ尽くすためには、社会制度の構築と同時並行でゴブリンの本格的な拡大政策を実施する必要がある。 ~(中略。次第にゴブリンの憲法とはかけ離れた話題になっていく)~ 改造ゴブリンの生息域拡大について 進出先 ガリア(リュティス)、サハラ、その他ハルケギニア諸国の首都(アルビオンは空中大陸で〈黒糸〉の範囲外なので除く) 地図の未開部分、東方、海洋、未知の空中大陸(存在不確定) 進出の目的 地質調査、地図作成、先住種族の捜索・交流(特にアラクネー!)、図書の蒐集、動植物の蒐集、ヒト(或いはエルフ)の死体からの知識及び経験の蒐集など←←墓暴き? 拉致? 進出方法 風船でバロメッツの種を飛ばす、フネで空挺部隊を運ぶ、〈黒糸〉伸展(風石の魔力を用いた自己組織化で幾何級数的に伸ばせないか)、空中型ガーゴイルの利用、いっそICBM、月まで届けごぶりんろけっと ~(中略。段々と文字が乱れていく)~ んぐああ、いあ、あとらっくなちゃ、ふんくすふ、びひい・いた、いいぐうるうるぅ、いいぐるぁああ、いあ、あとらっくなちゃ、ん・かい・い、ほおる・うふる、てぃぎい・いり・り、いいぐるぅ、くぶとぅか、ふんじいすく、あとらっくなちゃ、いあああ、いあああ、じい・いふうる、とぅぐじいふす、ふんじいすく、ふんくすふ、るくとぅうす、ん・かい・い、いあいあ、あとらっくなちゃ ~(後略。以下延々と雑多な走り書きとも象形文字とも分からない線の集まりが続く。最後は用紙の左上に向かって一直線に線が端まで伸びており、用紙中程にヨダレか何かで濡れた跡がある)~』◆ 地平の彼方に峻険な山脈が見える。 その山裾から、豊かな森林が一面に広がっている。 その森の中を貫く土色が一本。街道なのだろう。 その街道をノシノシと歩く巨大な蜘蛛が見える。全高は周囲の木々の梢と同じくらい。5メイルはあるだろうか。 ユウレイグモのようなシルエットをしたその巨大蜘蛛は、細長い脚をゆらゆらと運びながら、その長大な脚に見合った歩幅で、街道を馬の走りと同じくらいのスピードで進んでいく。 蜘蛛の背の甲は何故か透明になっており、その中にあるリクライニングシートに座っている人影が見える。「眠い。眠い、眠い、眠い。延々と森だ。単調な景色で眠くなるな。 ガーゴイル化技術を応用して自動操縦に出来ないだろうか。地図を登録して、目的地に向かう感じで」 中に座っているのはウード・ド・シャンリット、14歳である。 その目元には深い隈が刻まれている。「んー、結構森の木の実が食われているみたいだな。蛙苺なんかが全然見当たらない。オークやゴブリンが居なくなったから森の動物が増えてるのかな。領民には狩猟や開墾を推奨してるが、亜人が居なくなって出来たニッチを早々埋められはしないか」 オークを絶滅させたのは早計だったかなー、などと呟きながらウードは蜘蛛型ゴーレムを進めさせる。 すると下草の生えた森から、手入れの行き届いた果樹園へと風景が一変する。 だが、この果樹園、ただの果樹園ではない。仔羊や仔牛、家鴨などがその実の中から現れるという、バロメッツの食肉生産用品種が植えられているのだ。 微かに漿液の甘ったるい匂いが広がり、分厚い革のような果皮の下では時々胎児達が動いているのが見える。「んー、バロメッツの栽培も順調そう。新しい品種が出来たら、それを一気に量産できるのは強みだな。特にこの間の仔牛の頬肉の煮込みなんか、もう柔らかくって甘くって濃厚で、最高だったなあ」 シャンリット伯爵家に納められた物品の中に、この果樹園で採れた仔牛があったのだ。 ちなみに未だに税を金納ではなく物納にしている地域もある。例えば他にも、新しい小麦の品種なども税の形として認めている。 とはいえ、各村落の貨幣経済への組み込みは労働力の流動化上必要な課題であるので、やがては金納に一本化されるだろう。 ウードが回想しているのは、仔牛の頬肉を赤ワインとハシバミ草などの香味野菜でじっくり煮込んだ料理である。それに濃厚なソースを掛けて頂くのだ。 ウードの弟ロベールの誕生会で饗された料理で、家族の誰にも絶賛された。 まだ幼いロベールでも食べられるように、ほとんど噛まずに飲み込めるくらいに柔らかく煮込まれた頬肉は、シェフ特製の赤ワインベースのソース(炒めた小麦粉と各種野菜の出汁、鶏や仔牛の肉汁を濃縮したものだとか)をかけた絶品である。 蜘蛛ゴーレムがバロメッツの肉林の中を進んでいく。 木々の間に生成り色の服を着た子供くらいの人影がちらほら見える。 よく見ると杖を振って果樹の世話をしたり、収穫したりしているようだ。「おー、やってるやってる。改造ゴブリンたちもこの村に馴染んできてる、のかな? 報告書では『交流は順調』としか書いてなかったけど。もっと村の人達と交流してるところを見てみないと判断できないな」 実は今、ウードが向かっている村は、二年弱前に盗賊団によって廃村にされた村である。 その村はウードが実験農場にすると言う名目で、父フィリップから借り受けたものだ。 シャンリット領のあちこちに分散している改造ゴブリンの集落から、選りすぐった精鋭を集めて村の復興を行い、シャンリット領の発展に使えそうな技術を普及させる拠点にしようと現在開発中の村である。 やがてバロメッツの林は途切れ、パレットに置かれた絵の具のように綺麗に色彩が分けられた一面の花畑と、その向こうの灰色の6階建てから10階建てほどの墓石のような建造物群、更に向こうに堀と城壁に囲まれた要塞のようなものが目に飛び込んでくる。 村の中心に立つ要塞はシャンリット家の別邸である。……ということになっているが、ウードたちシャンリット家の面々は一度も訪れたことがない。村の雇用創設のためだけに作られたような館である。 バロメッツの林は墓場より不気味だということで、村の生き残りの女性達は作業をしたがらなかった。その為彼女たちの労働の場として、別に職場を作る必要があったのだ。 今現在は館の維持のためのメイドとして多くの村人が働いている。庭師とか料理人として働く少年たちの姿もちらほら。 村は働き盛りの年代が全滅しているので、かなり人口構成が偏っている。 館のメイドの他にも、蚕などの絹糸が取れる動物を利用した織物作りや、村の清掃などを生き残りの村人たちには行ってもらっている。 その他、魔道具に使う部品作りや、簡単な電気部品作りの為の工場を建設中であり、将来的には更に職業選択の幅を広げたいと、ウードは思っている。「まあ、今現在は建物ばっかり先に建ててしまって、人手は全く足りてないんだが。足りない人手はゴブリンで補填中な訳で。実際、各ゴブリン集落とは地下に鉄道引いて繋げてるし、そこから労働力や物資を移しているが、その内、シャンリット内の他の人間の村からも出稼ぎとか移民を募らないとな」 村の復興初期に物資を運ぶために各ゴブリンの集落と地下鉄で繋げてある。 そういった経緯からこの村が地下鉄(ゴブリンのみ利用可能)のハブになって居る。 地下道や村の建物、城砦の建築にはゴブリンメイジが総出で関わっており、『錬金』、『浮遊』、『硬化』、『固定化』を使って建築した。 地下道なんかは巨大オケラの使い魔が活躍した。ぷよぷよぷにぷにの腹と頑丈な前脚が魅力的な奴だ。「この村には将来的にはシャンリット領の稼ぎ頭になって貰わないといけないから、最低でも数万人くらいは収容できるようにしときたい。 けど、都市計画の立て方なんて知らないからなあ。街路を整備して、分かりやすい番地をつけるとか、商業区と工業区と農業区と居住区を分けるとか位しか思いつかない。 まあ、現状はこれまで通り、試行錯誤でやるしか無いか」 ウードが今回村を訪れたのは、この村を中心としたゴブリンの商会を立ち上げようという計画の進捗確認の視察のためである。 ゴブリンたちだけではどうしても入手できない品物(火石や土石、水精霊の涙、古い魔道具など)もあるので、商会設立によってそれらを既存のハルケギニア経済圏から入手する窓口とする、という目的もある。 表向きは『シャンリット領の流通改善、産業育成、雇用創出に民間と領主とが協力して当たるための新しい形の事業主体の設立』という長ったらしくよく分からないが、如何にも説得力がありそうな題目を掲げている。「先ずはそれっぽい目的を設定することが大切なのだ。 私企業なのに利益獲得を明言しない辺り胡散臭さが漂っているが……、第三セクターみたいなもんだと説明すれば父上の了解も何とか……」 事業説明案のレジュメを見ながらウードは呟く。 最終的には『総合私立学院』を設立し、ハルケギニアの研究を行うための学術組織を立ち上げるところまで行きたいと、ウードは構想している。 父フィリップに説明する予定の商会設立の目的には、今のところ含めていないが、事業が軌道に乗れば機を見て説明するつもりである。 『総合私立学院』なんてものを創ろうと思ったら、領主であるフィリップの協力は欠かせない。 ウードが商会関連の資料を見ている間にも、一直線の道をユウレイグモ型のゴーレムは進んでいく。 花畑に差し掛かり、ゴーレムのキャノピーに花の香りが満ちる。 養蜂や香水精製、生花の栽培も商会で行う予定の事業には含められている。 生花は地下の風石の無尽蔵のエネルギーと成長促進水魔法『活性』の組み合わせが最も活かしやすい分野でもある。 何気に花の品種改良はゴブリンが主体となって行っている。 ウードから言い始めたことではなくて、ゴブリンたち自ら言い出したのだ。 花はゴブリンたちにとっても安らぎらしい。ストレスのない研究環境作成に必須なのだとか。彼らは全く意思のない家畜ではないのだ。 ついでなので、花の蜜の代わりに〈水精霊の涙〉を分泌する植物が無いかどうか、あったとしたら栽培できないか、無かったら作れないかというのを研究させている。 それを集める蜂の開発も並行して研究中だ。蜜蜂を使い魔にしているゴブリンの氏族もあるので、彼らが中心となって進めている。 この研究成果が実れば、医療衛生に革命が起きるだろう。「商会の運営は商人の記憶を引き継がせたゴブリンメイジとかに任せりゃいいだろう、多分」 最近は人面樹に知識を蓄積させるために、戦場の死体漁りだけでなく、王都や近隣の村の墓暴きなどもしている。 そこで老練な職人や商人の死体を手に入れ、知識を収奪するのだ。 死んでいったゴブリンたちも人面樹の糧にし、さらに経験を循環蓄積させている。 これで、バロメッツとのリンクが完全なものになって生前の知識経験を備えたゴブリンを作ることが出来るようになればさらにさらに技術と経験の蓄積は加速するだろう。「……なんか墓暴きとか人として倫理的にかなり致命的なことに手を出しているが、今更なので気にしない。気にしない。時間が無いんだから形振り構っちゃいられないんだ」◆「若様、ようこそいらっしゃいました」「お久しぶり。どうかな、調子は?」 村の城砦に到着したウードは、村落の代表、兼、城砦の名代に任命している家臣の男に迎えられる。 男はウードが従者もつけずに来ていることに驚くが、昔からウードがそういう格式事に無頓着であり、使用人たちもウードの趣味を気味悪がっていて及び腰だったことを思い出すと、一人納得する。ウード様だから仕方ない。「若様が遣わしてくれた子たちが働き者で助かってますよ」「それは良かった。まあ、その位の援助は当然だ。私の発案した初の事業なのだからな。 ここにはこれから設立するシャンリット領内最大の商会になる予定の“アトラナート商会”の本拠地にする予定なんだし」「そ、それは責任重大ですな」 名代の男は急に聞かされてうろたえる。「まあ、今まで通りにやってくれれば良いさ。面倒なことは全部、私の子飼いの矮人たちがやってくれる」「はあ、そうですか。それはそれで、物足りないというか、寂しいというか」「くふふ、まあ、ちょっとした休暇だと思えば良い。その内、ここを発展させた功績ということで、父上も君を大きく取り立ててくれるだろう。それまでの辛抱だ」 ウードの発案した開発事業であるのに、その功績を奪って良いのだろうかと男は考えるが、本人が良いと言っているのだから良いのだろう。「しかしまさか2年もかからないうちにここまでの規模の村になるとは……」「全ては始祖の御業である“魔法”の御蔭さ。それにここまで大きくしてしまえば、父上に商会設立を説明するにも楽だ」 堀に架かっている跳ね橋の上を歩いていく。 堀の中には色鮮やかなタニア鯉が泳いでいるのが分かる。 食用ではなく観賞用の品種を育てているのだ。 今のところ錦タニア鯉の飼育は全くブームになっていないから、先ずは商会の方で魚飼育のブームを創り出す必要があるが。「おお、タニア鯉も綺麗に育っているな」「はい、最近は私も教えてもらって、鯉を育てております。 他にも様々な魚を育てさせていただいています」「くふふ、そうそう、どうせ時間はあるからそういう趣味の時間に思いっ切り費やすと良い。 出来れば、観賞魚の飼育を他の人に広めて貰えれば最高だな。観賞魚の入門本でも書いてみないか?」「それも良いですね。考えさせていただきます」 跳ね橋を渡ると、ずらりと並んだ使用人たちが頭を下げて出迎える。「若様、ようこそいらっしゃいました」 ウードが入城すると一斉に歓迎の挨拶を唱和する。「ああ、ご苦労」「さあ、若様こちらです」 ウードは14歳ながら精一杯鷹揚に頷き、名代の家臣の先導に従ってさらに館の中へと向かう。 城館の前庭にも花が咲き乱れている。 噴水や水路も複雑な幾何学模様に組み合わされており、水路には色鮮やかな魚たちが泳いでいるのが見える。「綺麗に整備されているな。良い事だ」「恐れいります、若様」 ふと、ウードは水面に映った自分の姿を見る。 身長は170サントほど。胴体とはアンバランスに長い手足はまるで蜘蛛のようだ。黒い羅紗、紅い裏地のマントを纏い、黒い牛追い鞭を腰に付けているのは、ミスマッチで道化のようにも見える。 だが、纏う雰囲気は不吉そのもの。目元の深い隈が、凶悪な印象を加速させる。 そして死神を傍らに置いているかのような寒気を纏っている。臨死の大病人のような、死の気配。 振り返ると、この城を初めて訪れる主を見て、使用人たちの間に緊張が走るのが感じ取られた。 正気からは程遠い雰囲気を纏ったウードは、二年ほど前のあの盗賊どもによる略奪の日を想起させるのだろう。 トラウマが蘇ったのか、震えている女性使用人も見える。「……どうしました? 若様?」「何でもない。案内してくれ」 促されて、ウードは現在の村の開発状況の進捗を訊くために城の中に入っていく。 その瞳には、悼むような色が微かに浮かんでいたが、すぐに消えてしまった。◆ 城の中での話を終えて、ウードは村に設けられた教会へと足を運ぶ。 先導するのは神父と、その助手か何かだと思われる褐色の5歳くらいの少年だ。 生成の簡素な服と短パンを履いている、活発そうな男の子だ。 だが、この子は人間ではない。この村に派遣されたゴブリンメイジのうちの一匹である。 代々寄生虫を使い魔にし、その寄生虫を身に宿すことによる身体能力などの強化を持ち味とする氏族の一員だ。 使い魔となる寄生虫は、彼ら氏族の肉体とともに品種改良されている。 ゴブリン氏族との共進化によって、もはや元の寄生虫とは殆ど別種だ。 使い魔との共生を行う彼らの氏族の名前は〈バオー〉である。 まだ、無敵の生物とまではいかないが、共進化の最終的な終着点として、ウードはあの来訪者〈バオー〉を目指している。 『メイジと使い魔は一心同体』を文字通り体現した氏族でもある。 ウードはこの村で漸く、巫女ゴブリン型ゴーレムを介してではなく、“ウード・ド・シャンリット”として初めてゴブリンとコンタクトを取ったのだ。 そして、実は先導する神父も、人間ではない。ガーゴイルだ。 ここに赴任した神父が少しタチが悪かったので、排除し、特製のガーゴイルで成り代わらせたのだ。 今からウードが向かっている教会には、ブリミル教の礼拝所に加えて、地下部分に蜘蛛神教の礼拝スペースを設けている。 ウードは今からソコに向かい、アトラク=ナクアに誓いを立てるのだ。 ゴブリンたちに信用してもらうための“入会儀式(イニシエーション)”を受けるのだ。「……ウード様。本当に宜しいのですか?」 ゴブリンの少年がウードに尋ねる。領主の息子がブリミル教を捨てて異端に身を染めることについて聞いているのだろう。「勿論だ。この身は既に半分近くアトラク=ナクア様の眷属に成り果ててしまっている。その私が信仰を捧げない訳には行かないだろう」「それなら宜しいのですが……」「……この地の領主の使い魔に蜘蛛が多かったこともあって、蜘蛛に関する逸話は元から結構な数がある。 蜘蛛に祈りを捧げていてもそれらの逸話にあやかっているのかと思われるだけだろうから早々異端だとは思われないだろう。 この地の逸話の中には、『サモン・サーヴァント』で喚び出した“アラクネー”という半人半蜘蛛の幻獣と結ばれたなんて話もあるくらいだ」「そうなのですか」 ゴブリンの少年は目を見開く。本当に知らなかったのだろう。「ブリミル教の宗教的権威はハルケギニア社会では強固なものだ。 だが、それを誤魔化す手がない訳でもない」 そう言ってウードは神父の男を指す。神父はガーゴイルに入れ替えられる前は、神職にありながら強欲だと有名だった。「そこの彼みたいに、異端審問と称して成金を処刑して財産を掠め盗ろうとするような奴は、どんどん排除してくれて良い。 そちらの方が世のためだろう。 今は打って変わって、清貧な暮らしで聖職者の鑑だと評判だそうじゃないか、ええ、神父さん」「この身体になってからは、味が良く分かりませんので。食欲もなく、眠りも欲さず、性欲の欠片もないというのでは、研究する以外に無聊を慰める手段がないのですよ」「結構なことだ。研究第一というのは私も同意する所だ」 神父の姿をしたガーゴイルが受け答えをする。 系統魔法は、術者の覚悟がその威力や効果を引き上げるということが分かっている。 土系統の才能に優れたメイジが決死の覚悟でその生命を燃やして作ったガーゴイルは、非常に完成度が高いのだ。 人を完全に模すほどに。 土系統に優れたゴブリンメイジに寿命が迫れば、自身の命を燃やして自身の人格を焼き付けたガーゴイルを作るのがゴブリンの村での習わしだ。 命を燃やし尽くしたゴブリンメイジの遺体は、人面樹に捧げられ、死の間際までの経験が――決死でガーゴイルを作ったノウハウがまでもが蒐集され、次世代に還元される。 成り代わらせるに当たっては、対象となる汚職神官の人となりや交友関係を徹底的に調べ上げた上で殺して人面樹に捧げる。 そしてその記憶を人面樹からダウンロードしたゴブリンは、そのゴブリンの生命を犠牲にして精巧なガーゴイルを作り上げるのだ。 ガーゴイルは神官の記憶とゴブリンの記憶と人格を引き継いでいるので、外見を神官に似せてやれば、入れ替わりは完了だ。「ウード様、着きました」「地下への入口は?」「ブリミル像の下です。こちらへ」 教会に着いた3つの人影は、するりと中に入っていく。 礼拝堂の奥にあるブリミル像を、ゴブリンの少年が『念力』で動かすと、地下への穴が現れる。 そこに神父のガーゴイルが飛び込むと垂直に10メイルほど落下して、静かに着地する。 ガーゴイルは魔法が使えないので、内部機構のみで落下の衝撃を殺しきった。生体素材を埋め込んで魔法を使えるようになるガーゴイルの研究も行われているが、実現はしていない。 ウードとゴブリンの少年も、神父に続き、『レビテーション』でふわりと落着する。 玄室の中には特殊な香が焚き染められていた。 幻覚性の薬草やキノコを用い、水魔法を得意とするゴブリンが調合したものだ。 見回せば薄暗がりの中に赤く輝く目が幾つもあると気がつく。 地下空洞の礼拝所の中には既に大勢のゴブリンがウードの宣誓を見届けようと集まっていたのだ。 玄室内に、太鼓の低いリズムが満ち始める。太鼓の音は風の魔法によって大きく、低く響き、聞く者の細胞を揺らす。 ゴブリンたちがリズムに合わせて身体を揺すり、足踏みをする。 外は丁度、逢魔が時。 ウードはその怪しげなリズムに揺られながら、ゴブリンたちが開けた花道の上を前に進み、祭壇の前に立っている巫女ゴブリンの横に並び立つ。ウードが操る巫女ゴブリン型のゴーレム。 ……そう、これから始まるのは自作自演の茶番劇なのだ。巫女ゴブリンを操っているのは、ウード自身なのだから。 本当は、こんなイニシエーションなど行わずとも、ゴブリンらがウードを裏切るというのは殆ど有り得ないし、ウードがゴブリンたちを切り捨てることも有り得ないのだ。 だが、ポーズというのは実社会では、形骸化していても重要である場合がしばしばある。今回のイニシエーションではハッキリとウードが彼らゴブリンの身内になったことを示す必要があるのだ。 そう、茶番劇だ。――茶番劇のはずだった。 巫女ゴブリンの姿をしたゴーレムが意味のない詠唱を、太鼓のリズムに乗せて捧げる。ウードもそれに続く。 周囲のゴブリンも、低く唸るような詠唱に合わせて、心臓の鼓動のようなリズムで詠唱を行う。 そして祝詞は終盤に差し掛かる。「アトラク=ナクア様に宣誓を。ウード・ド・シャンリット」「私、ウード・ド・シャンリットはアトラク=ナクア様に血の忠誠を捧げる。魂の忠誠を捧げる。全てを捧げる。その証に我が身に刻印を」「その血脈に刻印を。その魂に刻印を。その忠誠に刻印を。いあ、あとらっくなちゃ」 ウードは跪き、右肩を露出する。刻印をすれば、あとはウードが巫女が言った聖句を繰り返すことで入会儀式(イニシエーション)は終了する。 巫女ゴブリンが跪いたウードの右肩に手を当て、水と火の魔法を使って、蜘蛛の形をした刻印を施す。 じゅう、と焼ける音と共に黒くて紅い刻印が、ウードの右肩に顕れる。 異変が生じたのはこの時であった。 右肩の刻印が独りでに蠢き、その右前脚にあたる部分が、ウードの右肩から右腕へと侵食したのだ。「がっ、がああああああ!?」 その侵食に伴う焼け付く痛みに、否、右肩を中心に身体の中から引き裂かれるような痛みに、ウードがのたうち回る。 ウードの思考が途切れたために、巫女ゴブリンはその動きを止めている。「ああああっ!?」 周囲のゴブリンたちはウードのその醜態に驚くが、直後に起こった事態に動きを止めてしまう。 転げまわっていたウードが痙攣しながら跪き、右腕を捧げるように祭壇の方へ向けたときにそれは起こった。 ウードが掲げた右肩に向かって、周囲の壁や地面から、紅黒く輝く無数の糸が伸びて、絡みついたのだ。 禍々しい力の奔流を、その場に居る誰もが感じ取った。 それは何本ものか細い糸が寄り集まるようなイメージで、掲げられたウードの右腕へと収束する。「あああああぁぁぁああああぁぁああっ!!」 ウードの右肩から先が弾け飛ぶ。 右腕は縦に二つに裂けて、硬質化していく。 肩からは、大きな蜘蛛の顎と、短な触肢が生じる。 大きな顎は、かつての夜に盗賊に突き刺した顎とそっくり同じものだ。 見る見るうちに、そこには右の首筋から肩、腕にかけて、蜘蛛の大顎と、短い触肢、そして2本の脚へと変じていく。 蜘蛛の異形への変異。纏わり付く糸のような呪力。 それはアトラク=ナクアの眷属の証。 自然と、ゴブリンたちは皆、跪き、新しい蜘蛛の祭司、ウード・ド・シャンリットに平伏する形になる。 皆がウードを自らの戴くべき神官として認めたのだ。「ぐううう、あああ。いいいぃぃああぁぁ、あああとらああっくなああちゃぁぁああ!!」 ウードは痛みに神経を焼かれながらも吼声をあげて、最後の祝詞を唱える。 ウードに取って誤算だったのは、デタラメのはずの儀式が、アトラク=ナクアの居城の上で繰り返され、ゴブリンたちの信仰を集めていくうちに、本当にアトラク=ナクアの加護を得るに相応しいものに昇華されていたことであろう。 アトラク=ナクアは神である。 邪神であっても神である以上、捧げられる言葉の如何に関わらず、そこに真摯な想いが捧げられ続けていれば、それに応えることもある。 “神”という存在が、そういうものであるというだけだ。信仰とはそういうシステムなのだ。 さらにウードは、転生の過程で魂がアトラク=ナクアに直接触れ、その血脈にもアトラク=ナクアの毒の祝福が与えられているという、神官に成るに十分過ぎる条件を備えていた。 幾万の信仰によって形成された新しい儀式と相乗して、彼の血脈の呪いが一気に進行し、この事態を引き起こしたのだ。 ゴブリンたちの崇める蜘蛛神教は、アトラク=ナクアの呪わしい祝福を受け継いでいるシャンリットの血脈を得て、真に、その宗教として完成を見たのであった。 一方ウードは自分の全精神力、そして〈黒糸〉で集めることの出来る風石の魔力も限界まで運用して『蜘蛛化の大変容』を抑えこもうとしていた。 彼の右肩、右肺を蝕んだ呪いは、更に蠢いて彼を本当の眷属に相応しい形に変容させようとしている。「あああああっ!! まだだ、まだ、私は! 何も、何も何も、成し遂げていない!!」 ウードは、正に身を裂く激痛に耐え、その呪いに抗う。 流れる呪いの魔力を体内に張り巡らせた〈黒糸〉へと導き、コントロールしようとする。 そうして〈黒糸〉に乗せた呪いの力を、それを上回る精神力の勢いを以てして、押し流そうというのだ。「世界は、謎に満ちている! 分からない、分からない、分からないことだらけだ! だから!!」 〈黒糸〉の上を呪いを押しのけて流れる精神力の源は、変容への恐怖と、未練。 未知の知識への未練、真理への渇望。魂が砕けてもなお残った、ウードの源泉。「だから、まだ、死ねない!!」 ウードの精神力が大きくうねる。 地下から汲み上げる風石の魔力が、更に強くなる。 脈動する魔力のオーラが、呪いと拮抗し、飽和する。 腰に結わえていた〈黒糸〉で出来た牛追い鞭が独りでに解け、二つに別れたウードの腕と肩から生える触肢に巻きついていく。 それは不気味に燐光を発しながら、蜘蛛の脚となった右肩、右腕を再び一つにしようと絞めつける。 〈黒糸〉は蜘蛛脚の外骨格に融合し、不恰好ながらも2本の節足をヒトの腕ような形に無理やり纏め上げていく。 再び一つに纏め上げられたそれは、ヒトの腕のように見えるが故に、却って不自然で冒涜的であった。 そしてウードの身体を変容させようとする毒の呪いは、諦めたかのように勢いを失い、右の首筋から生える大顎へと収束され、そこに蟠って毒袋を作る。 やがて、その変異は落ち着き、ウードは精神力を使い果たして崩れ落ちる。 静寂、そして歓声。ゴブリンたちは、彼らの崇める神が齎したその変容の奇跡に熱狂した。 右肩から異形の毒牙を生やし、右腕を無理矢理に固めたウードは、その熱狂的な歓声の中も昏々と眠り続けた。============================2010.07.18 初出2010.07.21 誤字修正2010.10.02 修正。9割近く書き直した気がする。あとウード君が邪気眼スキル「く、オレの封印された右手が疼く……!」を獲得しました。もう諦めていっそ蜘蛛になっちゃいなよYOU。ヒトとしての意識は残らないかもしれないけども。2010.10.05 修正。呪いに打ち克ったのは、ダイス神のお導き。クリティカル(絶対成功)が出たということで。2010.10.11 副題変更(旧題:フランケンシュタイン・コンプレックス)