〈黒糸〉の伸展によって、この惑星“ハルケギニア星(仮称)”の地図の空白はほぼ埋まりつつある。 地上海中も含めての精度の高い地図だ。 その地図から入植出来そうな場所や地下資源がありそうな場所の特定を行ない、そこにゴブリンの一団を派遣して開拓していくことが今後の課題である。 未開地の調査を進める上では先住種族との交流もおろそかに出来ない。 彼らが祀る神の中には、現在も地上に影響を及ぼしているものもあるかも知れない。情報が必要だ。 シャンリット領のトロール(ヴーアミ族)やオーク鬼は絶滅させられているが、その他の種族については出来る限り穏便に接触する必要があるだろう。 というものの、〈黒糸〉による調査は地下からのものなので、実際に地上に何が住んでいるかというのは分からない。翼人のように季節ごとに住居を変える種族もあることだし。 先住種族との交流は現地に派遣された開拓団の出たとこ勝負になるだろう。 その辺りについて今後は空からの事前調査が望まれるところである。 アルビオンという宙に浮く大陸があるのだから、他にも空飛ぶ土地はあるかも知れない。 そのような浮遊大陸の発見は〈黒糸〉に頼らずに行う必要がある。 例えば電波式のレーダーであったり、人工衛星からの撮影だったり。 空から調査する手段として飛行型のガーゴイルや魔法生物の研究をゴブリンたちは行っている。 コスト的には魔法生物の方を採用することになりそうだが、果たして。 空中からの調査手法について担当している部門長曰く。「魔法生物にしても虫型か鳥型かはたまたドラゴン型か、悩むところであるが、それぞれにメリットが有るのだから、人員の許す限りは同時並行でも構わないだろう。 魔法生物を偵察用として採用した場合は、人面樹に喰わせることで偵察に行った魔法生物の見聞きした情報を統合することが容易いのも魅力だ。恐らくは使い魔化することが可能な昆虫類を採用することになるだろうが……。 ガーゴイルの場合、生物が侵入できない場所――火山地帯や超高高度での活躍が望まれるので、こちらも研究を進めている」 とのことだ。 シャンリットから未開の新天地に派遣する「開拓団」は最低5人の構成となる。 まずはキメラ人面樹(バロメッツと融合キメラ化)を使い魔にしたゴブリンメイジ。水系統だと尚好し。 入植地の食料生産・補給を一手に管理することになる。 人面樹を育てて知識を蓄積し、現地の動植物や環境の研究を行う要でもある。 初めに家名を賜った〈レゴソフィア〉氏族を中心とする者たちである。「些細な事が決定的に重要なのです。あらゆる記憶を蒐集し、全て記録することが使命です。あ、あっちに珍しい蟲が……」 次に〈黒糸〉と契約してそれを自在に操り、住居などを作り、土質改良も出来る土系統のゴブリンメイジ。 バロメッツが育成可能な環境を整えたり、拠点の作成・整備を行う土建屋だ。 全世界に張り巡らされている〈黒糸〉からの支援を受けられる者たちで、参謀役・情報管制官でもある。 〈黒糸〉を通じて各地の拠点と連絡を取り合う役目だ。 〈ウェッブ〉氏族と呼ばれる、特に〈黒糸〉の運用に特に長けた氏族から選ばれることが多い。「おーい、拠点の建物は作ったぞー。それと総本部からの通達も来たから、連絡ー。あれ? 一人足りなくない?」 前衛としては、使い魔として契約した身体強化型の寄生虫を宿した屈強なゴブリン戦士。 〈バオー〉氏族と呼ばれる彼らは、その屈強な体を活かして拠点の守りや未開地の積極的な開拓を行う。 その体力を活かして、皆を守り、サポートするのが役目だ。 肉弾戦闘のエキスパートでもある彼らは、氏族全体で連綿と武術を高め続けている。 人面樹に修行で高めた功夫を還元することが出来るので、彼らは生まれながらに熟練の経験を持っている。 とはいえ、経験だけあっても体がその経験通りに動くかどうかは別問題なので、彼らは常に研鑽を怠らない。単体での生存能力では最も秀でているだろう。「熊捕ってきたぜ、熊。いやー、結構手強かったね。久々に良い運動になったよ。あ、レゴソフィアならさっき擦れ違ったぜ。蝶を追いかけてた」 後衛としては、様々な幻獣種とのキメラ化によって魔法を強化された異形のゴブリンメイジ。 大規模な魔法を使うことを専門とするこの〈ルイン〉氏族は、多くの魔獣の因子を血に取り入れた者たちだ。 各個人によってその姿は竜鱗を持っていたり、水かきがあったり、羽があったりと様々だ。 〈ウェッブ〉氏族と協力して大規模な土地の開拓を行ったり、〈レゴソフィア〉氏族の植物栽培を魔法で助けたりと万能な活躍が可能だ。 魔法の実践に関しては、〈ルイン〉氏族の右に出るものは居ない。「スンスン。まだ匂いで追えますけど、どうします? 200メイル位離れた所に居るみたいですから、私の『念力』射程内ですし、充分連れ戻せますよ」 最後に彼ら4人を統率する指揮官役のゴブリンメイジ。 リーダー役は特にどのような特技を持っていなればならないとか決まっているわけではない。 統率に必要な経験と適性があれば、持っている技能は関係ないのだ。 先住種族との交渉や隊の纏めに相応の社交術が要求されるので、政治家や商人の経験をダウンロードした者が任命されることが多いが。「またレゴソフィアが先走ったのか。ルイン、頼む、連れ戻してくれ。そしてサンプル採取は後だともう一度伝えて欲しい。 あと、バオーは勝手に野生動物捕ってくるな。もし熊がこの辺の信仰の対象だったらどうするんだ。 ウェッブ、総本部からは何だって? ああ、この前要請していた翼人について詳しい人材の件だな。了解だ。 ……ああ、お帰り、レゴソフィア。この後は翼人との交渉もあるんだからこれ以上胃が痛くなるような事を増やさないでくれ……」 このような5人構成の一団をフネで狙ったポイントに降ろすことで、入植の足がかりとする。 彼らには、必要な物資、様々な品種のバロメッツの苗木と、使い魔契約済みのキメラツリー(人面樹とバロメッツのキメラ)を持たせて送り出す。 降り立った一団は、その土地を苗木の生育に適した土壌に変えて、襲ってくる現地の幻獣を排除したり、現地の生物のサンプルを採取したりしながら、苗木を植えて、『活性』の魔道具を作成し生活基盤を整えていく。 数カ月もすれば、『活性』の影響で成長が早められた苗木から、その土地生まれのゴブリンの第一世代が誕生するだろう。 現地に先住民族が居た場合には、彼らと交渉して拠点を作っても問題ない場所を教えてもらうか、何らかの対価(宝石や甘味料など)で土地を買い取ることになるだろう。 あとは徐々に数を増やしつつ、〈黒糸〉を介してトリステインの本拠地や他の開拓団と連絡をとりながらその地に浸透していくだけだ。 開拓団の派遣と並行して、ゴブリン型バロメッツの種を気球であちこちに向けて飛ばすという『ふ号作戦』みたいなものも行って居る。 こちらは種が何処に辿り着くか分からない上、落着した場所に『活性』の魔道具があるわけではないため、成功率や成長速度に大幅に劣るが、コストメリットが非常に大きい。 上手く樹が育ってゴブリンが生まれれば〈黒糸〉を通じて連絡が来る手筈になっている。 将来的には気球ではなくて、飛行型のガーゴイルに『活性』の魔道具を積み、運搬と着陸後の世話をさせようというプロジェクトも進行中である。 こうやって、徐々にゴブリンたちはハルケギニア文化圏の外にその勢力圏を拡大していっている。 現地の珍しい動植物のサンプルは、定期的に開拓団の元にフネが回って回収している。 持ち帰られたサンプルの研究は全く間に合っていないが、今は無制限かつ無目的に、そして貪欲にサンプルを回収している。 ウードは勿論のことゴブリンたちも、将来的にこれらのサンプルが研究されるのを心待ちにしているし、積極的に研究を行っている。 それはゴブリンたちが好奇心旺盛なように品種改良されているということもあるが、それ以上にウードの知的好奇心の衝動を移植されてしまっているからだ。◆ 蜘蛛の糸の繋がる先は 12.ぐはあん ふたぐん しゃっど-める ひゅあす ねぐぐ・ふ ◆ ウードはトライアングルに昇格してから水魔法のトライアングルスペルである記憶操作魔法が使えるようになっているのだ。 そして、〈黒糸〉のインテリジェンスアイテム化後からその魔法の練習を行なっていたウードは、記憶操作魔法に完熟するとゴブリンに自らの記憶の移植を行ったのだ。 記憶を読んだり、あるいは植えつける魔法というのは脳にダイレクトに影響を与えるため、非常に制御が難しい。 ……ウードが“記憶制御魔法は脳を弄るもの”という先入観を持っているからかも知れない。 ウードの魔法練習の実験台になったゴブリンたちの何人もが廃人になってしまった。 廃人になった後でも人面樹に記憶を吸わせてやれば、魔法で頭を弄られている時の感想を聞くことが出来るので、その感想をフィードバックすることでウードの記憶制御系の魔法熟練度は見る見る上達した。 また、ウードは、虚無の曜日には出来るだけシャンリット領に帰り、母エリーゼからも水魔法を教えてもらうことで、召喚儀式の頃までには記憶の読み取りと植え付けの魔法を実用レベルまで高めることが出来た。 記憶操作魔法は本来禁呪とされる術式であるためエリーゼはその習得に条件を課していた。“『集光(ソーラーレイ)』5発耐久”がその条件である。ウードはそれを耐え切ったのだ! 朝から晩まで、4回のインターバルを挟みつつも延々と降り注ぐ収束太陽光。時にそれは弱火でじっくり蒸し焼きにするように、時にそれは激しく地面を蒸発させて蒸気爆発(水蒸気ではなく岩石の蒸気化によるもの)を起こし、また時には何よりも鋭い光の刃になって鏡の盾を切り裂いたが、ウードはその全てを退け……退け……られたら良かったのにね。軍一つ丸々壊滅させる魔法を個人用に収束したものを防ぎきるなんて不可能だった。広い平原の10リーグ離れた場所から狙ってくるエリーゼに対して、ウードは障害物を構築して物陰を増やして一刻も同じ場所に留まらないように移動しつつ、彼女の集中力が切れるのを伺っていたのだが、狙いが絞れないときは広範囲の温度上昇を狙った攻撃をされ、身を晒そうものなら一点収束の光線で穿たれ、物陰に隠れたのを見れば物陰ごと蒸気爆発で吹き飛ばさんと狙われる。『集光』の魔法は空中の無数の水滴を操るというその性質上、応答性が悪いのでウードに収束光線が直撃することはなかったが、当たりをつけての広範囲攻撃は避けようがなかった。日が沈むころには、ウードは再起不能直前のボロ雑巾状態であった。「よく耐えました。ウード。約束通りに禁呪を教えましょう」「はぁっ……、ぜっ、是非とも、お願い、っ、します、母上」「傷を治してから私の部屋に来なさい。いつでも教えてあげるわよ」 ウードが記憶の植え付けが出来るようになって初めにやったことは、ウード自身のの記憶を適当なゴブリンに植えつけて、そのゴブリンを人面樹に吸収させることだった。 これによって、未だにゴブリンたちに伝えきれていない現代知識の殆どを、人面樹の記憶の群れの中に紛れ込ませることが出来た。 ウードが記憶操作魔法の慣熟訓練中に失敗して発狂させてしまったゴブリンたちには、ウードの心の底で渦巻く狂わんばかりの未知への探究心だけは植え付けられてしまっていた。 彼の狂的な探究心はそれを植え付けられた狂えるゴブリンを消化吸収した人面樹群、ひいてはそこから記憶を受け取るゴブリンたちの精神を汚染していった。 〈黒糸〉の管制人格〈零号〉を作り上げた時点で、〈黒糸〉を杖として契約している全てのメイジの精神力を統合して、賛美歌詠唱と同様の仕組みで、それでいて賛美歌詠唱より高い効率で強力な魔法を使えるようになっている。 ウードが記憶操作魔法を覚えたため、その魔法の媒体(杖)となった〈黒糸〉管制人格〈零号〉も、自らに流れたその魔力から同様の魔法を学習して、使用可能になった。 〈黒糸〉を使って魔法を使うと、管制人格〈零号〉もその魔法を覚えるというのは、この時に初めて明らかになった。「まさか魔法をラーニング出来るとは……」【マスター、もっと色々魔法を教えてください!】 もっと早くこの事実が知れていれば、ウードがわざわざ記憶操作魔法を習得しなくてもよかったのだが。 早くから分かっていれば、記憶操作魔法が使えるメイジの経験をダウンロードしたゴブリンメイジに〈黒糸〉と契約させて魔法を使わせることで、管制人格〈零号〉に記憶操作魔法を覚えさせることが出来ただろうに……。 ちなみに讃美歌詠唱とはロマリアの聖堂騎士団の十八番で、過酷な修練によって息を合わせた聖堂騎士たちが力をあわせて魔法を使うものである。 巷では、息を合わせるために聖堂騎士達は体を重ね合わせているのだとかいう陰口も叩かれている。 ……知りたくなかったことだが、以前に聖堂騎士の訓練風景をゴブリンたちが〈黒糸〉経由の『遠見』で偵察した際には、団員の寮からガチュンガチュンと夜ごと連結音が響いていた。 ロマリアは「光の国」だが、実は薔薇の国でもあったのだ。 閑話休題。 人面樹には多くのメイジの経験が詰まっているので、それを〈零号〉にも転写出来れば、〈零号〉は今よりも多くの魔法を使えるようになるだろう。 試しに管制人格〈零号〉に『読心』の魔法で人面樹の記憶を読み取らせてみたのだが、それは上手くいかなかった。 『読心』の魔法は、人面樹には対応していないらしい。 イメージとしては『読心』というアプリケーションに対して人面樹がストックしている記憶ファイルの拡張子が異なっているとか、そういう感じだろうか。 だが、ゴブリンからは『読心』の魔法で問題なく記憶を吸い出すことが出来た。 そのため、面倒だが、人面樹を使い魔としているゴブリンメイジに一旦人面樹がストックしている記憶を引き出させて、そのゴブリンメイジの脳から〈黒糸〉の〈零号〉に記憶(知識・経験)ダウンロードさせるという迂回経路を用いている。 これで、ラインだろうがドットだろうが関係なく〈黒糸〉と契約すれば〈零号〉の補助によって大魔法を発動させることが可能になった。 まあ、可能になったからと言って、それを誰でも使いこなせるというわけではない。 膨大にストックされている魔法術式の記憶の中から目当てのものを探し出して使うというのは非常に面倒くさいのだ。 〈黒糸〉と契約しているゴブリンメイジたちは、〈黒糸〉に刻一刻と蓄積されていく各地の情報と、人面樹から転写される記憶を分かりやすくかつ使い易いように整理する事に日夜追われている。 人面樹を使い魔とするゴブリンメイジも同様の悩みを古くから抱えていた。 日々増え続ける死者の記憶情報の中から意味のあるものを拾い上げ、あるいは害悪となるものを隔離したりする作業は気が遠くなるほど時間がかかるものである。 作業中に気狂いの意志に触れて正気を数日失うということも結構ザラにあるようだ。 バロメッツとのキメラ人面樹が作られるようになってからは、新たに生まれるゴブリンに植えつける記憶をコーディネートする役割も生まれた。 まあ基本的には一年から数カ月に一度“基礎記憶”――義務教育課程みたいなもの――を共同体全体で制定し、氏族や職業によって更に専門性が必要な場合はオプションを追加するという具合になっている。 特にオプションを定めない場合は、ランダムに記憶を追加して、それによって新たな発想や発明が生まれるのを促している。 一方で功績著しい者については、生前の人格をまるごと移植することすら許されている。 ここに至り、〈黒糸〉の管理を行う〈ウェッブ〉氏族と、人面樹を使い魔とする〈レゴソフィア〉氏族の間で、記憶ファイルの拡張子や整理大系についての論争が巻き起こった。「人面樹の記憶体系の方が古いんだからこのままじゃ駄目か? 今更新しいやり方に変えるなんて無理だ」「しかし、今後は〈黒糸〉経由で情報を検索することも多くなります。今の体系では対応できなくなります」「将来的には統一の必要があるのは明白だし、整理する情報量がこれ以上増える前に対応するべきだと思います」「じゃあ、人面樹側と〈零号〉の側で使いやすいように、実践的で見易い整理体系を新しく作り直さないと」「それでしたらこちらに案があります」「半年で新体系をまとめるぞ」「では半年後に記憶再整理用の人員を大幅増員するように人口生産管理部門に申請してきます」 最終的にはどちらの長所も取り入れた形の基準を制定するに至り、〈ウェッブ〉&〈レゴソフィア〉の両氏族をバロメッツで大幅に増員して今までに記憶蓄積された情報の再整理を一気呵成に行った。 再整理後に過剰となった人員はそれぞれ開拓中の土地に送られたり、それ以外の未開地の開拓に赴くことになった。 まあ、実験動物の扱いになるよりはマシということで、一時増員された両氏族のゴブリンメイジ達は散り散りに広がり、さらにゴブリンメイジの文化圏が広がることとなる。 また、誰でも高ランクの魔法が使えるとそれはそれで困ったことになるため、〈黒糸〉上の情報へのアクセス権や〈黒糸〉経由での魔法発動にはその危険度や機密度によって一定の認定試験を課す免許制をとることになっている。 ウードは認定試験関係なく最上位者の設定である。造物主特権というわけだ。 免許が無い者が〈黒糸〉を杖として使おうとしても、込められた精神力は分散され〈黒糸〉の全く見当違いの場所で発動したり、タイミングが合えば別の者が行使する魔法に上乗せされたりすることになる。 元々、セキュリティ対策に作り出された管制人格〈零号〉であったため、使用者認証や権限設定には抜かりはなかった。 免許を持ったゴブリンなら実際の本人のランクに関係なく高度な魔法を使えるようになったため、体質的にライン辺りが才能限界となっている一般のゴブリンメイジ達でも『読心』を使用可能になった。 魔法専用に調整されている〈ルイン〉氏族ならば生まれながらにスクエアなのだが、それ以外の氏族では頑張ってもラインが良いところだったのが大進歩である。 誰でも高度な魔法が使えるようになったので、魔法特化の〈ルイン〉氏族の存在価値が消滅したように思えるかも知れないが、〈ルイン〉氏族はその内に取り込んだ種族の特性を生かした固有魔法を使えることが強みでもあるし、〈黒糸〉に登録されていない先進的な魔法の使い方の研究実践部隊としての役目がある。 読心魔法の使い手が増えた為、エルフの高度な魔法技術を掠め取るべくサハラに駐在させているゴブリンメイジ達を現在暗躍させているところである。 精霊力の利用に関してはエルフにかなり水を開けられているため、その分野に関して特に諜報を強化している。 持続可能な発展のためには、環境に大きな負荷を与えないエルフ式の技術が大いに参考となるだろうからだ。◆ 学院の男子寮の4階。 ジャン=マルク・ドラクロワはその見事な体躯で風を切りつつ、その角部屋を目指して歩いていた。 目指す先は多くの生徒、どころか清掃のメイドですら滅多に近づかない部屋。 魔窟と言われるその部屋は住人が蜘蛛愛好家(アラクノフィリア)であるにも関わらず、常に蜘蛛の巣一つない清潔さを保っている。 精神を落ち着かせる花の香りが漂う一角は、そう、何あろうウード・ド・シャンリットの居室である。「入れてくれー、ウード」 ノックを二回。寮の部屋の扉は、密度の高い高級木独特の感触を返してくる。「あー、ジャン=マルクか。ちょっと待ってろ、今開ける。『念力』」 『アンロック』の魔法ではなく、錠の内部を精確に遠隔地から『念力』で操作して開けるなんて無駄なことは、この学院でもウードくらいしか行わないだろう。 何でも『アンロック』が使えないという噂もあるが、真実かどうかは不明である。 ウードの『念力』は解錠に引き続いて行使され続ける。追加の呪文が唱えられることなくドアノブが回り、扉が開く。 ウードは執務室然とした寮の一室で、黙々と書類を処理しているところだったようだ。 衝立で見えないように仕切られた向こうで、ウードが書類を打っている軽快なスタンプ音が聞こえる。「ジャン=マルク、来てもらったところ済まないがそこに掛けて待っていて貰えないか。目を通さなくてはいけない書類が山とあるのでな。あと書類は覗くなよ?」「分かってる分かってる。紅茶と茶菓子はいつもの所にあるよな?」 勝手知ったる他人の部屋ということで、ジャン=マルクは自分で勝手に紅茶を準備しようとする。 戸棚からティーセットを取り出し、ティーバッグの入った缶の蓋を開ける。紅茶の茶葉の香りと共に柑橘系の良い香りが広がる。ベルガモットという柑橘類から採れた精油をまぶしたフレーバーティだ。 これはウードが実質的なオーナーを務めるアトラナート商会で卸している新商品の紅茶である。 ジャン=マルクは毎週毎週ウードの部屋に届けられる、アトラナート商会の様々な新商品の紅茶を飲むのを楽しみにしているのだった。「うむ、今回もいい香りだ。お前の所は毎回毎回いい仕事してるなあ」「そう言って貰えるとウチの従業員も喜ぶよ。飲んだらそいつの感想聞かせてくれ。参考にさせてもらうから」 カタカタとタイプ音をさせながらウードはジャン=マルクに答える。 ウードの舌はもはや人間の舌とは味覚が違っているらしく、彼が試作品を食べても全くハルケギニア人向け商品に対しては意味を成さないらしい。 そのため最近はジャン=マルクたちを始めとした同級生に試飲やら試食やらを頼んでいる状況である。 ちなみにウードが読んでいるのは、各地に送り出された開拓団からの報告書や、回収されたサンプルの研究結果、電気関係や数学関係の各種法則の実証結果、新しいマジックアイテム、作物の新品種、キメラ人面樹から生まれるゴブリンに関する記憶の制御技術、寄生融合型使い魔とその宿主の共進化的強化の進展、アトラナート商会の経営状況などなど……である。 新種や自然法則の発見、新技術・新商品の開発もそうだが、それらにともなって引き起こされる社会構造の変化やそれに対応するための組織再編、法律の整理など、考えなければいけないことは沢山ある。 大半の業務はゴブリンたちに任せてしまっているが、それでもウードが決裁する書類は多いのだ。 報告連絡相談は〈黒糸〉と契約したメイジ同士で『遠見』の魔法を用いてテレビ会議風に行うことも出来るので、学院の森の外れの地下に作った研究室には、『遠見』会議専用の部屋が設けてある。 また、ウードがシャンリットの実家にいた頃に培った写本のプロセスを応用して書類はFAXのように遠隔地と送受できるようになっている。 ウードが今見ている書類は、そうやって送られて来たものだ。「ふんふんふーん。『集水』してー、『加熱』で適温にしてー、と」「ああ、そうだ、茶菓子も今回のは新作だから感想が欲しい。何なら彼女に持って行ってもらっても構わんから」「んー、了解了解。……あとは蒸らすだけー、と」 ジャン=マルクが茶葉に湯を注ぐと、その香りが部屋に満ちる。 フルーティな精油の香りと紅茶本来の芳香が絶妙なバランスでマッチしている。 ちゃきちゃきと手馴れた様子で二人用が精々の小さなテーブルに、茶器を配置していく。「それにしてもこの“ティーバッグ”ってのは便利だよなあ。よくこんなものを考えついたよ」「潜在的な需要はあったと思うがね。そのまま湯に入れても問題なくて雑味が出ないで薄くて丈夫な紙ってのが、技術的には他の商会では真似できなかったんだろう。まあ、紙じゃなくても絹でも何でも良いんだが」「絹なんか使って作ってもお前の所の商会より安くはならないだろうけどな」 アトラナート商会の扱う紅茶は、その品種や香味の豊富さだけでなく、ティーバッグという便利な発明によって一気に市場に食い込んだのだ。 これはウードの発案ではなく、ウードの記憶を転写されたゴブリンが思いついた(思い出した?)ものだ。「いや、そうでもないだろう。高品質の多品種を扱うのがウチの商会の売りだから。安価品の市場開拓については、他所の所に丸投げだ」「商人たちには呆れるよな。アトラナート商会で新商品が出たら、直ぐに真似するんだから。生き馬の目を抜くとは良く言ったものだ」「まあ、品質でウチが後続に負けることは有り得ないから真似されても平気だがな。きちんと固定客はついてるし、質の違いが分かる人は買ってくれる。蜘蛛の看板騙る奴らには消えてもらうが」「かはは、おお、怖いねえ。王都でそんなことをやる奴が居るものか。“蜘蛛の巣に飛び込む蝶の末路は――”って皆が噂してるぜ」「最近は他国にもアトラナート商会のブランドが広まったから、詐欺まがいにウチの看板掲げて騙す奴がまたぞろ湧いてきた。信用を汚す輩には相応の末路を、ということでお陰で消毒部隊がてんやわんやだ」 カタカタ、と続いていたタイプ音が漸く止まる。 ギシリと椅子の背もたれが軋む音と、ウードが伸びをする不抜けた声がする。 もしこの場にジャン=マルクが居なければ、ウードは右脇腹に畳んでいる蜘蛛の大顎も伸ばして晒していただろう。その場合のシルエットは軽くホラーである。 ちなみに、先程から響いいていたタイプ音はウードがゴブリンたちに頼んで作ってもらった、タイプライターもどきが発していたものである。 基本は地球式のタイプライターと同じで、インクリボンと各文字型のスタンプとそれに対応するキーなどから成る機械である。 機構学の発展に伴って複雑な機械も作ることが可能になってきたのだ。複雑な機械の作成には、歯車等の部品の精度向上もだが、それを設計する際の理論の発達も必要である。 とはいえまだ量産には至っておらず、このタイプライターはゴブリンの職人たちの技術の粋を凝らした一点物である。 地球式と違う点は打刻するスタンプに『レビテーション』を掛けてあり、動かすのに必要な力を軽減していることと、打刻する時の騒音対策として『サイレント』を常時発生させる魔道具が組み込まれていること、タイプ後の紙に自動的に『錬金』で表面保護加工して『固定化』を掛けるくらいである。 スタンプする部分には定期的に『固定化』と『硬化』を掛けているから摩耗もそれほどしないし、もし摩耗しても『錬金』で簡単に修理できる。 また、規格消耗品のインクリボンや紙を自動で作成する付属の魔道具も開発してあるため、精神力のみのコストでこのタイプライターを運用出来るようになっている。 半導体の研究も進んでおり、そのお陰で、トランジスタが開発出来たらしい。真空管と同時開発中である。 まだ信用性が足りないが、これで2~3年中には電卓が出来るはずである。恐らく初期型は重さ1リーブルくらいになるだろうが。 カーボンナノチューブが作成できるので、職人の粋を凝らした一点物ならば、現時点でもかなり高集積なものが作れるだろうと思われる。 トランジスタがあれば真空管は要らないのではないかと思うかも知れないが、大電流を流す際にはトランジスタより真空管の方が適しているので真空管の研究も必要である。 風魔法で真空も簡単に作れるし、クリーンルーム内でゴーレムに作業させるのも簡単に実現出来そうだ。 何より、ウードの記憶から西暦2000年代以降の情報化社会の青写真を見てしまったゴブリンたちの発奮ぶりが凄まじい。 パソコン、もしくはその類似品の開発による事務仕事の負荷軽減は、現在のゴブリンたちの最重要課題となっている。「ふぅ~~~あっ。ああ、疲れた。済まん、待たせたな。書類仕事が長引いた」「ああ、いや丁度紅茶も入った所だ。問題ない」「紅茶飲んだら、少し胃を落ち着けてから走って組み手とするか。それで良いよな? ジャン=マルク」「大丈夫だ。じゃあ、茶菓子は後の方が良いかね」 衝立の向こうから出てきたウードは、ジャン=マルクが紅茶を入れているテーブルの椅子を引くとそこに腰掛ける。 今は新学期。ウードとジャン=マルクは魔法学院の二年に無事進級したのだ。 つまり、進級試験である使い魔召喚の儀式はクリアしたわけだが、ウードが呼び出した使い魔が問題だった。 彼の望みどおりに雌のアラクネーでも呼び出せていたら、今頃はこうやって男二人でお茶なんかせずにウードは美人アラクネーとの親睦を深めているところだろう。 紅茶に口をつけていたジャン=マルクの視線が、ふと戸棚の一角に鉱物標本のように安置されている金属色の球体に向けられる。 直径20サントほどの鈍色の真球が、赤いふかふかの台座の上に置かれている。「なあ、ウード。あれってやっぱり卵なのか?」「……多分」「何の卵だ? 竜か? 孵ったら教えてくれよ」「……私が生きてる間には孵化しないで欲しいね。あと生まれても、君は見ない方がいいと思う。トラウマを増やしたくなければ」 遠い目をしてさらに何事か呟きつつ卵を眺めるウード。 疑問符を浮かべつつも、ウードと会話が通じないことはままあるので、気にせずに紅茶に集中するジャン=マルク。フレーバーティも中々良い、無醗酵のグリーンティにも手を出すべきか、いや、紅茶を究めるのが先かなど思いを馳せる。 いつこの卵の親御さんが来るか夜毎に戦々恐々、とか、邪神はもうアトラク=ナクア様だけで充分、とかいうウードの呟きはジャン=マルクには聞こえなかったようだ。 鈍い輝きを返す卵が、中に入っているものの胎動に合わせて微かに揺れた。もう明日にも孵化しそうだ。◆ ウードが呼び出したのは真ん丸い金属光沢を持つ直径20サントほどの球体だった。鉱物学者ならば岩屋真珠(ケイヴ・パール)とでも名付けるかも知れない。 監督の教師は「何かの卵だろう」と言っていたし、ウードもそう判断した。彼の感情はその判断を否定したがっていたが。 一応、監督教員の見守る中、卵の殻に『コントラクト・サーヴァント』を行った。 ウードが懸念していた契約による召喚者側の肉体改造(使い魔との感覚共有を受信するための変化など)の影響による彼自身の蜘蛛化の呪いについては、若干活性化したものの充分に押さえ込める範囲であったため問題を生じなかった。 卵の方には目に見える範囲にルーンは刻まれなかった。 しかしウードが感覚共有を試したところ、これまで彼自身では感知出来なかった感覚を感じたので、契約は成立したものと思われた。 その時ウードが感じ取った感覚は名状し難く、深い泥濘の中でもがくようなと言えばいいのか、あるいは竜の腹の中で溶かされていくようなと言うのか、とにかく粘液質の狭い空間に閉じ込められているようなものであった。 また、そういった触覚自体も未だ未熟な状態であるようで、卵の中の使い魔と感覚同調したウードは、むず痒いような感覚と共に、その感覚神経自体が成熟し研ぎ澄まされていくのを感じ取った。 そう、それはその球体の中で急速に成長していたのだ、まるで、使い魔契約を発端に眠りから覚めたかのように。 光沢のある球体はウードの部屋に持ち帰られ、ふかふかの布の上に鉱物試料のように安置されている。 そうして召喚から一週間程度の時間が経った。 今、その球体はかすかに振動している。 もうすぐ孵化するのだ。 胎動する卵を前にウードは、その時が来るのを待っている。「――これが私が思っている通りの、恐るべき地中種族の卵だとすれば、孵化したあとには大量の液体状有機物……血液などが必要になるはずだ」 卵が一際激しく振動し、その殻が溶けるようにして孔が開いた。 中からは腐った肉汁のような不快で不衛生な臭気が溢れ出し、花の香りが焚き染められていたウードの部屋を汚染していく。 まるでこの部屋の主が瞬時に卵の中の物へと書き換えられたかのような錯覚を覚える。 はたして殻を破って出てきたのは、粘液に包まれた灰色のイカのような生物だった。あるいは細長いイソギンチャクのような。 細長い先細りの灰色の円筒状の身体を持ち、頭部に当たる場所には無数の触手がイカかイソギンチャクのように蠢いている。 全長は30サント弱といったところだろうか。 巨大な灰色のミミズのように見える。 やはりこれは「クトーニアン」の卵だったのだ! 慄然とするウード目がけて、腐汁を滴らせる妖虫はその全身を躍動させて襲いかかった。「うをえあ?!」 急な事態にウードの対処は遅れてしまった。充分予期していた事態であったのに! 邪悪で穢らわしい気配に当てられて動きが鈍ったところを付け込まれたのだ。 びたん、とウードの剥き出しの左手に、クトーニアンの妖虫は纏わりつき、その触手の先に開いている円形に歯の並んだ口を捩じり込ませて、穿孔させて行く。「あづぁっ、ちい、は、な、れ、ろ!」 ウードは自分の体液を啜って脈動する触肢を見るや、反射的に左手を思いっ切り振り抜き、妖虫を遠心力で引き剥がそうとする。 なんども振り回されるうちに妖虫はその加速度に負けてウードの左手から離れ、部屋の壁の方へと吹き飛んでいく。 妖虫が壁にぶつかる寸前、ウードの『念力』が妖虫を捉えて、宙吊りにする。「はあ、はあ、危ない危ない。結構跳躍力あるのな、こいつ。びっくりした」 一先ず危機を脱したウードは、『念力』の不可視の触腕に捉えられてびたんびたんと蠢くクトーニアンの幼生に目を向ける。 感覚共有を行うと、生まれたばかりのクトーニアンの感情が伝わる。 どうやら卵の中に居た幼生体にもルーンは無事に刻まれていたようだ。(……おなか……すいた……。おなかすいたおなかすいたクワセロすわせろおなかすいたおなかすいた――) 感覚共有で繋がったウードさえも狂わそうとするような圧倒的な飢餓感が使い魔のラインを通じて襲ってくる。「ああ、やっぱりそう来たか! しかし、既に準備済みだ! だから私の血は吸うな!」 クトーニアンの生態について何故か知識を持っていたウードは、木っ端肉を細かく砕いてミルクを混ぜあわせたものに、ゴブリンを高速成長させる際に用いる高カロリー飼料を混ぜたものを餌として予め用意していたのだ。 知識が前世からのものなのか、それとも『コントラクト・サーヴァント』によってウードに新たに刻まれたものなのかどうかは判然としない。「思う存分喰らうが良い!」 というわけでウードはタライになみなみと注いだ餌の前に幼虫を『念力』で運んで降ろしてやる。「うわあ、左手がねとねとで穴だらけに……。暫くはあのヌルヌルは触りたくない。卵の状態で契約出来たのは幸運だったかも知れない。 孵化直後だったら、契約のキスした途端に血を吸われていただろうし。……いや逆にルーンを刻む痛みで幼生の方が死ぬか。 彼らは生まれた直後は熱にもダメージにも弱いからな……。あのまま振り払った勢いで壁に叩きつけてたら殺してしまっていたかも知れん」 ウードは『治癒』で左腕を修復しつつ、使い魔に食事のイメージを送り、目の前のタライの中の流動食が餌なのだと教えてやる。 クトーニアンの幼生はそのイメージを受けて、触肢を蠢かせる。そして流動体状の餌に触れると、触肢を脈動させて啜り始めた。(えさ、しょくじ、おいしい、うま……うま……) どうやらお気に召してくれたようだ。見る見るうちにタライの中の餌が減り、それに応じてクトーニアンが膨らんでいく。 この勢いだと今月から学内に出店したアトラナート商会魔法学院購買部支店に、近いうちに飼料の追加発注をする必要がありそうだ。 さて、とウードは考える。 一応、彼が思っていた通りのものが生まれてきたわけだが、一体どうしたものだろうか。この記すことすら憚られる使い魔を。 さらに言えば、成体のクトーニアンはその子供に対して異常な執着を見せるという性質があったはずである。 最小サイズで30メイル級の成虫の群れに押しかけられたらたまらない。 素直に押しかけてくるならともかく、クトーニアンの能力で巨大地震でも起こされたらハルケギニアが滅ぶ。(にんげん、たべもの、もっと。おまえのち、まずかった。うまいもの、もっと)「もう食べ終わったのか。早いな。ちょっと待ってろ。あと勝手に吸っておいて不味かったって酷い感想だな。 まあ、餌を食べつくしても大丈夫なように、更にその5倍は用意してあるんだ。ほら、たんとお食べ~」(……うま~、うまうま……)「よく入るな。……というかさっきより体が大きくなってないか、こいつ」 この短時間で消化して成長しているというのか? 確かにウードの記憶によればクトーニアンは非常に成長が早く、半年で数メイルになるということだが。それにしても成長速度が早いのではないだろうか。「今のうちにもっと追加の飼料を持って来るか、『錬金』しなくては足りなくなるな……」 クトーニアンは個体同士でテレパシー機能がある。 現在、封印から起きているクトーニアンがどれだけ居るか不明であるが、ここトリステイン魔法学院に幼生が居ることは掴んでいるだろう。 ……だが、ウードも伊達に〈黒糸〉を地球上に張り巡らせてはいない。 地中を移動するクトーニアンの影をソナーのように振動反響で捉えることは出来るはずだ、とウードは思いつく。「先ずは、アフリカに当たる地域から確認だな。 確か、記憶によるとクトーニアン達がその首魁のシュド=メルと共に閉じ込められていたのがあの辺りだ」 ウードは身体の中の〈黒糸〉を伸ばし、惑星を覆う巨大な〈黒糸〉のネットワークに接続する。「……〈黒糸〉の管制人格、〈零号〉よ、アフリカ地域の地中に何か居ないか、探査を頼む。あと、このハルケギニア地域に地中から向かう何かが居ないかどうか、監視してくれ」【あいあい、マスター。まあ、5分ほど待っててくれ。それにしても厄介な使い魔を引き当てたねー】 返事をしたのは、この間〈黒糸〉をインテリジェンスアイテム化した際に作り上げた管制人格、その名も〈零号〉だ。 この管制人格のおかげで、各地の情報収集や、蒐集した資料の管理が格段に楽になっている。「とりあえず、成体がこちらに向かってなければ問題ないんだが。……いや、成体のクトーニアンとコンタクトが取れなくても問題か。クトーニアンの育て方なんか全く知らんしな」【じゃあ、クトーニアンの成体を見つけたら、取り敢えずはコンタクトを取ってみるってことで。もし『子供を返せー』って言ってきたらどうする?】「返すしか無いだろう。親元に居る方が幸せに決まってるんだし、クトーニアンはそこまで敵対的な種族じゃなかったと思うし。自信ないけど」 というか、返さないって選択肢を取ったらハルケギニアの大地がマントルに沈む事になるのは明らかである。少なくとも耐震性という概念もない魔法学院の建物は、地震攻撃によって無残に倒壊するだろう。【あいあい、解析結果来たよ。……今のところ、振動探知が効く範囲ではクトーニアンらしき影は無いね。 大体、あれって惑星の核付近に居るんでしょ?普通は振動探知が効く範囲に居ないよ?】「それもそうか……。まあ、引き続き警戒頼む。 それと火山活動や地震活動が活発化したり、マントル対流がおかしいところがあったら直ぐに知らせてくれ」【あいあい、了解。……ん、ちょうどシャンリットの辺りでマントルの流れが乱れてるね。 結構なスピードで何かがマントルの中を泳いでるっぽい。振動探知の範囲内には捉えられないけど、これ、クトーニアンかな?】「ハルケギニア終了のお知らせ」【猶予は余りないみたい。……そこの幼生ちゃんから使い魔の感覚共有通してテレパシー使ってコンタクト取れない?】「……。はっ! そうだな、やってみるよ」 ウードは意識を部屋の中に戻して、クトーニアンの幼生に目を向ける。 食事はたらい6杯目に突入しているところのようだ。ストックはもう無いようなので、また作っておかないとならないだろう。 ウードが念話で話しかけようとしたその時、クトーニアンが丁度鎌首をもたげてこちらに頭を向けた。 液状飼料が滴って、脈動する触肢が悍ましげだ。(おい、人間、メシ寄越せ) 先に向こうから念話が来た。しかも何か知性上がっているように感じられる。やはり成長している? 傍に脱皮殻も見えるから恐らくそうだろう。 などと高速で思考しつつ、ウードは返事をする。「ご飯持ってきてあげるから、今のうちに親御さんに話しつけてもらえないかな~? 何なら、他の幼生の餌をこっちで一括で準備してもいいし。 迎えに来るなら出来れば穏便に、とお願いしたいんだけど……テレパス使えるよね?」(早くしろよ、人間。まあ、大人たちには話をつけて置いてやろう。 メシはなかなか美味かったしな。)「頼むよ~。マジで」 今のうちに無くなった餌を補充しようと、ウードは『錬金』の魔法を行使する。 〈黒糸〉に付加された人工知性体〈零号〉が記憶しているレパートリーの中から、高カロリー流動食や各種のミネラルなどなどを選び、幾つか配合比率の異なる餌を作り出す。(……おい人間。話つけたぞ。大人たちから伝言だ。 『取り敢えず、地震とかは勘弁してやるけど、そっちに行くまでに子供になにかあったら分かってるだろうな?』だそうだ。)「『もちろんです。寛大な対処、感謝の極み』と伝えてくれ……」(伝えておくから、メシを早く持って来い) クトーニアンの成虫たちへの取り成しは何とか見通しが立ちそうであった。「今、魔法で作っている所だから。もう少しだけ待ってね――」(メシ持ってこないなら、お前から吸うぞ。ちゅうちゅう吸うぞ、不味いけど我慢して――)「すぐ作るから! だから吸わないで、死んじゃうから」 ウードは『錬金』の魔法を使って、クトーニアンの餌を合成していく。 合成しては流動状にして幼虫に渡し、また『錬金』で餌を合成して……、とわんこ蕎麦状態である。 ウード自身が慣れてきたので工程をルーチンワーク化して、全自動に切り替えようとした時に〈零号〉から通信が入った。【マスター。マントルの対流の乱れが少し収まったみたい。このペースなら明後日くらいにはクトーニアンの皆さんが到着するんじゃないかな】「〈零号〉、モニターご苦労様。 ……え、“皆さん”? “皆さん”って言った?」【大体30匹くらいは居るみたい。】「シュド=メルさんは? シュド=メルさんは居ないよね、流石に?」 テレパシーで会話を傍受していたクトーニアンの幼虫がそのやり取りに割り込む。(人間、大首魁はわざわざ一匹のために出張ったりしない。まだ孵化を待つ卵が沢山あるのだからな。 それよりメシだ。さっさと次のを用意しないとホントにお前から吸うぞ、蜘蛛男) クトーニアンの幼虫はいつの間にか1メイル近い巨体に育っていた。 既に跳躍などしなくとも、この狭い部屋の中でならば充分に妖虫の触手の射程内にウードは収められている。「えーと、このままだと部屋に入りきらなくなりそうだから校庭に出てもらえないかな?」(うむ? 別にこのまま床を掘って、下の階の者を吸っていっても――)「やめなさいねー。『レビテーション』」(問答無用か。普通のニンゲンも食べてみたかったのだが)「そのうちに、ということで。今は勘弁を」 ウードは数百リーブルの巨体にあっという間に成長した使い魔を『レビテーション』で窓からそっと校庭に降ろす。 その間に学院中に張り巡らせた〈黒糸〉を通じて、校庭にクトーニアンの餌を『錬金』で生産する自動作業ラインを作っておく。「……一気に大きくなり過ぎだろう。何なんだ、一体」 再びわんこ蕎麦状態に落ち着いた使い魔を、寮室の窓から見下ろしてウードは呟く。 既に大きくなる過ぎて変化が分かりづらいが、クトーニアンの幼生は着実に大きくなっているようだ。◆「えーと、ここを『錬金』すればいいのか?」(そうだニンゲン。この辺りは水が多いからな。地下深く、マントルまでな)「マントルまで!?」 現在は夕暮れ。双月が明るく照らし始めている召喚の草原にウードは立っている。クトーニアンの姿は見えないが、地中からテレパスを飛ばしているのだろう。 クトーニアンの卵が孵化した日の夕刻である。 敵対的な者の手に落ちたのでは無いということを幼生から成虫たちにテレパスで説明してもらったウードは、何とかトリステインにやって来るクトーニアンを2体まで減らしてもらうことに成功していた。 この3日後の深夜には、成虫のクトーニアンが到着する。 真夜中にしたのはウードが周辺住民に配慮したためである。流石に隠匿するべきモノについては隠匿しようという気が残っているらしい。 今回のクトーニアンの来訪は、ウードの下で生まれた幼虫の今後についての方針確認のためである。 とはいえ、実際は既に大凡の合意は両者間で取れている。 テレパスで幼虫にクトーニアン式の教育を行い、ウードからお願いをする使い魔の仕事についてはほぼ免除すること。ただし幼虫に対して充分な対価を示し、それに幼虫が合意すればその限りではない。 幼虫が傷ついたり死ぬようなことがあれば、ウードは死刑確定。先ずはシャンリットの地下にある標本庫などを破壊しウードの蒐集したコレクションを消滅させて精神的ダメージを与え、その後は血族を惨殺して絶望の淵に陥れた後に本人を殺すとクトーニアンたちは言ってきている。 しかしアトラク=ナクアの封ぜられている土地であるシャンリットを攻撃するということは、蜘蛛の祭司であるウードの全面的な抵抗を意味する。ウードに幼虫を殺す利益がないのでそのような事態には発展しないだろうけれども、もしそうなれば両者にとって不毛な争いになるだろうと予想される。「マントルまで何十リーグあると思ってるんだ……」(何。別に掘り返せと言っているわけではない。水を通さないようにして欲しいだけだ)「……取り敢えず、やってみる」 クトーニアンという地中種族はその種族的特性として大量の水が弱点で、水を浴びると酸をかけたかのように身体が溶けてしまう。 そのため水の国トリステインの地下から幼虫をマントルまで送り返すにしても、マントルからクトーニアンの成虫を誘き寄せるにしても、マントルまでの水気を排した安全な通路を造らなくてはいけないのである。 ウードは精神を集中する。 次の瞬間、草原の中央が急に爆発して吹き飛んで、その衝撃で地面が揺れた。爆発に伴う大音響は『サイレント』の魔法によって掻き消された。地響きはおよそ震度1と言ったところか。学院の者は誰も気づかないだろう。(ぐうう。何だ、今のは。ニンゲン、何をした!?)「何って、地下構造の震動探査のために衝撃波を」(事前に言え、馬鹿者! 身体に衝撃が響いたぞ!)「ああ、多少はダメージあるんだ、やっぱり」(実験か!? 実験なのだな!? 貴様!!) ウードが『錬金』した発破を爆破することで衝撃波が生じ、その伝わる速さや反射・干渉を〈黒糸〉で拾うことによって地下深くの地形を観測するのである。 波の速度と媒質となる固体の粗密に関する方程式は既にゴブリンたちが研究しているので、それを流用してやれば地下の組成を知ることが出来るという寸法だ。この研究は近い将来に地下都市を建設するための布石でもある。 先程その探査のために生じさせた衝撃波が地下に居たクトーニアンの幼虫を直撃したようだ。「ん~、大体地下の水脈や地質のイメージは掴んだ。あとは該当部分にまで〈黒糸〉を伸ばして、『錬金』でこの広場の下を迂回するように水脈を変えてやれば良い訳だな」(さっさとやれ)「無茶言うね。まあ、なんとか3日後までにはマントルまで不透水層の通路を作ってみせるが」 ウードは地下から風石の魔力を汲み上げて、水を通しやすい礫の層と水を通さない粘土の層を入れ替えるようなイメージで草原の地下とその周囲を『錬金』していく。草原の地下に位置する土地から段々と水が押し退けられて、不透水層に変化していく。地下水脈の流れが巨大な杭を刺されたかのようにして変化する。 ある程度その作業が進むと、ウードは地質改変に使用していた『錬金』の制御を、彼の杖である〈黒糸〉のネットワークに宿る人工知性体〈零号〉に譲り渡す。「〈零号〉、魔法の制御は覚えたよな? この調子でマントルまでの道を作ってくれ」【あいあい、マスター。ばっちり覚えましたよー】「じゃあ宜しく頼む」 ウードは〈零号〉に魔法行使を任せると、自らは寮の部屋へと戻るために『フライ』を使って浮かび上がる。(ニンゲン、食事は何処に用意するのだ?) そこに思念で問いかけるのは彼の使い魔となった地虫の幼虫だ。 その問いにウードは森の一角の適当な場――彼が学院の近くに設けている地下研究室からは遠く、しかし人目につかない場所を思い浮かべ、それを共感覚によって己の使い魔に伝達する。「今イメージした場所に自動で食事を用意させる装置を準備して――準備し終わった。3日後まで大人しくしてくれよ」(……ふむ、成程。場所は分かった。食事が不味かったら承知しないぞ)「不味かったら先ずは私に言え。改善してみるから。ヒトを喰うと面倒になるから、絶対にやめろよ?」(お前が用意する食事によるな) ウードは自分よりも明らかに高位の存在が何故使い魔として呼ばれたのだろうと頭を抱えたくなった。 しかし、先ずは3日後である。クトーニアンの卵を喚び出した自らの運命とやらを呪いつつも、ウードは意識を切り替え、夕闇の中を寮棟へと飛翔した。 そして3日後。時は真夜中。煌々と双月が草原を照らし出す。草原にはウードとクトーニアンの幼生がその姿を現していた。 それまでの間ずっと食事を続けていたクトーニアンの幼生は、二~三度脱皮して10メイル程に成長していた。驚異的な成長スピードである。 予定通り、成虫のクトーニアンが地上へとやって来るための杭状の不透水層は準備出来ている。 その時であった。地の底から湧き上がる不気味な詠唱が聞こえてきたのは。《――け・はいいえ えぷ-んぐふ ふる・ふうる ぐはあん ふたぐん け・はいいえ ふたぐん んぐふ しゃっど-める――》 ウードはその精神を抉るような詠唱に、本能的に飛び退る。《――はい ぐはあん おるる・え えぷ ふる・ふうる しゃっど-める いかん-いかんいかす ふる・ふうる おるる・え ぐはあん――》 彼の身体は臨戦態勢に移行する。腰を低く落とし、普段は仕舞われていた蜘蛛の右腕と大顎が姿を現す。《――えぷ えぷ-ええす ふる・ふうる ぐはあん ぐはあん ふたぐん しゃっど-める ひゅあす ねぐぐ・ふ――》 微かな地響きと共に、何本もの人の胴体ほどもある大きな触手が勢い良く草原から突き出す。 そしてそのぬらぬらと月光を反射する触手に引き続き、その大元である頭部と思われる部分が現れる。 2匹のクトーニアンの成虫が、まるで久々の地上に歓喜するかのように触手を振り乱して立ち上がったのだ。 2匹のクトーニアンの成虫は、何がしかの精神的な手段で幼虫と会話を交わしたものと思われる。 彼らはその触肢を怪しげにくねらせ身悶えすると、早々に地中へと去っていった。 交わされた会話の内容はウードには知る由もなかったが、クトーニアン達は、ウードの使い魔となった幼虫に以下のようなコメントを残していったそうだ。『これだけ大きければ、もはや庇護の必要もないな』 ……何しに来たんだアンタら。 地響きを立てて詠唱と共に地面を溶かして颯爽と去っていくクトーニアンたちを前にして、ウードはそう思ったそうだが、口には出さなかった。 彼とてまだ命は惜しい。咄嗟に出してしまった蜘蛛の牙を、再び右脇腹に収めつつ、先程どのような会話を交わしたのか自らの使い魔に尋ねてみる。 それによると、クトーニアンとしての教育はテレパスで行うこととし、イザという時に備えてシャンリット家の領地の地下に1匹待機することになったそうだ。 王都近くは水脈が多いため大地が湿っぽくて、居心地が悪いとのこと。さすがは水の国である。「でもなんでシャンリットの領地の地下なんだよ。せめてどっか別のところに行ってくれ。ウチの領地の地下には研究室やら地下道やらが沢山あるんだぞ。何かの拍子にダメになったらどうしてくれる」 地表に来たクトーニアンはウードの使い魔になった幼生に名前を付けていった。 人間には発音不可能だが、あえて発音するなら『ルマゴ=マダリ』という名前だという。 『成長の早いもの』とか『簡単に成長する』とかいう意味らしい。 やはりクトーニアンの中でもルマゴ=マダリの成長スピードは異常だったようだ。 ひょっとするとこれは使い魔のルーンが何か変な効果でも発現している所為かも知れない、とウードは考える。 卵の中の胚の段階でルーンを刻んだためか、ルマゴ=マダリのルーンは胚の成長にともなって身体のあらゆる場所に複雑に織り込まれてしまっていて、その全容を確認することは出来ない。 主と使い魔の間の共感覚は正常に作用しているが、一度調査してみる必要があるだろう。 御せる筈もない使い魔を得てしまったウードであるが、一転して考えを切り替えることとする。「クトーニアンはもう数万年も、いやひょっとすれば十数億年もこの惑星に居着いているんだ。 高度な独自技術も持っているし、上手く取引を行うことが出来れば彼らの技術を学ぶことも出来る、か。使い魔としてクトーニアンの卵を召喚できたのは良い切っ掛けかもしれない。 問題は私の側から提供できるものが何か有るのか、ということだが……。 水を操って退ける魔道具か、あるいは食料くらいだろうか……。彼らの嗜好品について分かれば何か用意できるのだが」 クトーニアンが使えるような水除の魔道具の開発や、彼らが好むような食料について研究させる指示をアトラナート商会に出すべく、ウードは考えを纏める。 何にしても、使い魔となったルマゴ=マダリとのコミニュケーションは必須である。 彼は使い魔に尋ねるべき事柄を脳内でピックアップしつつ、寮棟に戻ろうとしていた。 そこで、はたと建物の影に人影を認める。 ウードはらしくもなく焦りを覚える。 一部始終を見られていたのではあるまいか、そんな危惧が頭をよぎる。「しまった、見られたか!?」 クトーニアンたちを見られただけならばまだ良い。 使い魔とその親が来ていただけだと誤魔化しも利く。 だがあの時彼は迂闊にもクトーニアンから感じ取った根源的な怖気に反応して、自らの半ば蜘蛛に変化した右腕と、明らかにヒトには存在するはずもない大顎を掲げてしまっていた。 茫然自失としているように動きを止めたその人影に向かってウードは急いで、しかし警戒を抱かせないように慎重に近づいていく。==============================というわけで呼び出されたのは【地を穿つ魔】クトーニアンでした。ウード君は触手プレイでも楽しめばいいと思うよ。タイトルはクトーニアンが穴を掘る時の詠唱というか鳴き声というか、まあそんなのから。2010.07.18 初出2010.07.21 誤字修正2010.10.11 修正2010.11.01 誤字修正