私が最初にあの片腕を吊った陰気な貴族様に遭ったのは少し前のことでした。 その日、私は寮棟の掃除当番でした。 学院の男子寮の一角には誰も近寄らない場所があると先任のメイドから聞いていました。 ここで働かせてもらえるようになってから、まだ日が浅かったのですが、やはりそれはいけないと思ったんです。 責任感の欠如というか……。職場の暗黙の了解というのがあるのだとは思いますが、お給金を戴いている以上はきちんと仕事をしないと。 まあ私がそういうやり残しというのが気になる性格だというのもありますが。周囲の人には神経質過ぎるとよく言われます。 しかし、実際来てみると誰も近寄らないという割には、その一角は清潔そのものです。 ここの部屋の住人の方が掃除をしているのでしょうか? そうだとしたら益々、学院のメイドの怠慢です。共用スペースの清掃は、私たちの役目なのですから。 何かの香が焚き染めてあるのか、花のような果物のような爽やかな香りが満ちています。 その部屋の住人は、そういった細やかな気遣いが出来る人のようです。 それは兎も角、掃除をしようと私はそこに近づいたんです。「あっ!」「……ん?」 その時です。不意に開いた扉から出てきた貴族様に、私はぶつかってしまいました。 黒いマントで全身を覆って、右腕を吊っていて、何処と無く不吉な印象を与える深い隈が特徴の……って。 ……悪名高い、シャンリットの蜘蛛公子? 私、どうなっちゃうんでしょう。 メイドの先輩から聞かされる幾つもの不気味な噂話の主人公、それがシャンリットの蜘蛛公子、ウード・ド・シャンリット様です。 王都で良くも悪くも評判のアトラナート商会の、実質的なオーナだそうなんですが……。 というか何でこんな時間に寮の部屋に居るんでしょう? 今はまだお昼前。授業時間中のはずです。そうじゃなきゃ、私だって男子寮の廊下を一人で歩くなんて真似はしません。「申し訳有りません!」 とにかく、謝っておきました。 貴族の方と、それもあの蜘蛛公子とトラブルになったらどんな目に遭うか分かりません。 頭一つ下げるだけでそれを回避できるのなら安いものです。「ん、ああ。気をつけてくれ。あ、そうだ、これも何かの縁だから、君の職場仲間にこれを分けてもらって良いかな?」 ぶつかったことに対しては大して気にした風もなく、ミスタ・シャンリットは部屋の中から一抱えもある紙の箱――アトラナート商会の荷物配送に使われている段ボール箱を魔法で引き寄せました。 そしてそれを何とこちらにさし出してきたんです。「ウチの商会から送られてきた試作品の菓子類なんだけどさ、流石に私一人じゃあ食べきれなくってね。良ければ給仕の皆で食べてもらえるかな」「ふえぇ?」 少し呆然とする私に対して、それだけ言うと、ミスタ・シャンリットはお菓子の詰まっているという箱を置いて、颯爽と去って行きました。 置かれた箱からは確かに甘い匂いがします。 少し離れた場所からまたミスタ・シャンリットの声がして。「ああ、そうだ。これはチップね。食べた人から感想を貰って来るのも忘れないで欲しいんだ。じゃあ、まあ、急がないけど絶対に忘れないでね」「ええっ、あの?!」 その言葉と共に金貨(!)が数枚飛んできます。 太っ腹すぎてもはやここまで来ると怪しいレベルです。 しかも反射的に飛んできた金貨を受け取ってしまいました。 返そうにもミスタ・シャンリットはもはや見えなくなってしまっていますし、貴族の方からの贈り物を返す訳にもいきません。 その後案外重い段ボール箱を運ぶためにメイド仲間の先輩を呼んできたり、中に入っていたお菓子が上等な砂糖を沢山使った高級品でとても美味しかったり、それによってミスタ・シャンリットの評価が若干上がったりして。 ちなみに金貨を頂いたのは内緒です。 というかよくよく聞いてみるとミスタ・シャンリットはいつもメイドにチップをあげているそうですね。 それがあまりに法外な額なので、“アレなサービス”を期待されているのでは?、という疑惑がメイド仲間ではあるみたいです。 いやいや、多分、そんな感じじゃないですよ? きっと。視線に思春期の男子にありがちなねちっこさも有りませんでしたし。 それにワザワザ学院のメイドに手を出さなくても普通に娼婦くらい買えるでしょうし、そうじゃなくても縁談くらい幾らでもありそうじゃないですか。 ああいや、大量のチップを貰って勘違いしたメイドの先輩がモーションかけても全然気付いてもらえなかったって話もありますね。不能か同性愛者なんじゃないかという話もあります。何にしても目立つ人です、ミスタ・シャンリットは。 えーと、何の話でしたっけ。ああ、そうだ。 それで貰ったお菓子の感想を一通り聞いて、紙に書いて纏めたんです、私。字の読み書きくらいは出来るんですよ。 感想記入用の紙は段ボール箱に同封されてましたし、親切なことに。 それで私が、忘れないうちにその感想をミスタ・シャンリットに渡そうと考えて。 え、部屋にそっと紙だけ置いてくれば良いじゃないかって? それがですね、多分、ミスタ・シャンリットは箱の中身のお菓子も見てないみたいでしたし、私の名前も知らないでしょうから、紙を置いただけじゃ誰からの何の感想か分からないんじゃないかと思ったんです。 まあお菓子の感想を書き込んだ紙を手渡しして、それが縁で、その後も何度か同じように試食を頼まれたり。 それから数日後のある日の真夜中でしょうか。確か、スレイプニィルの舞踏会があった週だったと思います。 夜中に誰かに呼ばれたような気がして目が醒めたんです。 ……その3日前くらいから、時々どこかから声が聞こえてたんですよね。 最初――その3日前のお昼は『お腹空いた』って聞こえたんです。 貴族の方の悪戯かな、と思ったんです。時々、風メイジの方が『伝声』の魔法って言うんですかね、遠くまで声を届かせる魔法で、こう、卑猥な事を囁いてきたりって、あるんです。その類かと思って。 でも何か変だったんですよね。その後は『蜘蛛の味、不味い』とか『身体痒い、脱皮』とか何かよく分からない事を言ってくるんです。 幻聴、かも知れないって、そう思いました。 新しい環境に慣れなくて、参ってるのかなって。 でも、そうじゃ無かったみたいでした。 その最初に幻聴が聞こえた日の夕暮れ、丁度夕食の時間でした。 幻聴じゃなくて、幻痛、と言うのか。いえ、幻聴も勿論聞こえたんです。『――――っ!』って声にならない声でした。幻聴なのに変ですよね? もっとおかしいのは、同時に感じた幻痛の方です。一気に全身が痺れた、というか、急に全身の感覚が無くなってガクーンってなって。何て言うんでしょう、高いところから墜ちて地面に叩き付けられたらそんな感じになるのかなって感じで。もう、ホント、頭の中はパニックで。身体に力は入らないし。 その、幻痛と言うのは他の人も感じたみたいでした。 私ほど酷く痛んだわけじゃないみたいですけど、全身にピリっと痺れるような感じがしたそうです。 その時は私は全身の痛みで気絶しちゃってて、後から他の同僚から聞いた話ですけど。 結局そのあとは次の日まで私は目が醒めなくって、そのまま眠ってしまったんです。 気絶している間に変な夢見たんです。 土の中を泳ぐ夢。 長い身体をくねらせてスイスイと土の中を泳ぐんです。 不思議ですよね、土の中なのに全然何も抵抗なんて無いんです。 で、やっぱり声が聞こえるんです。 昼間に聞こえたのと同じ声で。 『お腹空いた』って。『おなかすいた、おなかすいた、おなかすいた』『獲物見つけた、接近、血を吸う、お腹空いた』『逃がさない、鹿、森の中、関係無い、逃がさない、逃がさない』 夢の中で、森の中を走る鹿を捕まえて、触手を――あれ、触手? まあ兎に角、鹿の首筋に口を近づけて血を吸ったんです。暴れるのを手――触手? で押さえて。 美味しかったなあ。 今まで食べたどんなお菓子より、ずうぅっと美味しかった。 すっごくすっごく美味しかったんです。 吸血鬼の気持ちも分かるかも、なんて。 次の日起きたとき、思わず同室の女の子の上に乗っかって首筋に噛み付こうとしちゃいました。いやあ、うっかりうっかり。 まあ途中でその娘が起きちゃって、なんか変な誤解されちゃいましたけど。 その日も、その次の日も声が聞こえたんです。 でも相変わらず『お腹空いた』くらいしか聞こえなくて。あとは『味を変えて』とか『蜘蛛はやっぱり不味かった』とか『ニンゲンも食べたい』とか。 もう仕事中も関係無く聞こえてくるんです。参っちゃって参っちゃって。2日連続で同室の娘の首筋に噛み付きそうになって、危なかったですね。 えっと、それで、そう、最初に声が聞こえた日の3日後ですね。 夜中に、これまでとは違う声が聞こえて。 『ぐはあん ふたぐん』とか『しゃっど-める』とか、何とか。 崇めよ、讃えよ、グ・ハーンに眠るシャッド=メルを。 え、あれ、何か私今言いました? あれ? まあいいです。 その声に釣られて起きて、気がついたら学院の建物の脇に来ていて。 月光に照らされる3本の太いモノがグネグネと蠢いて、いい眺めでした。太いのが2本と、小さいのが1本。肉感的でー、存在感が凄くってー。 その波動がですね、こう、ぐわーっというか、じゅわわーっていうか、もう凄くって。 恍惚って感じですよー! きゃー、恥ずかしいっ。何だったんだろう、あれ。 え、人? そう言えばその3柱の間に何か居たような気がしますけど。 んー、確か蜘蛛? 兎に角、蟲っぽい人。いや、人っぽい蟲? 太い2本が地面の中に帰って行ってですね、私は何かこう、感動に打ち震えるって感じで腰が抜けちゃって。その後かな。 まあ、それでその蜘蛛の人、多分ミスタ・シャンリットだったんじゃないかな、が、ヘタリこんでる私の方に来て言うんです。 気味悪い笑顔で。普段笑わない人の笑顔って、なんか違和感ありますよねー。蜘蛛なのに笑顔って、ねー、自分の中身を分かってやってるのかって感じ。 で、その蟲の人、人? が『ここで見たことは忘れろ。人には言うな』って言うんです。 その後の記憶は無いから、多分そこで眠らされたのか、気を失ったのか。気がついたら自分の部屋で寝てました。 同じ部屋の娘によると、夜中にフラッと起きていった私は、おんなじ様にフラッと帰ってきたらしいですけど。 で、起きた私は寝ぼけたまま『そういえばねー、ミスタ・シャンリットって蜘蛛なんだよー』って言っちゃったんです。 口止めされてたんですけどね? ついつい……。 え、その娘の反応ですか? 『その話はもう先輩から聞いたよー』でしたね。 前から噂になってたので、何も不思議はないって感じですね。 寧ろ生粋のニンゲンだったらソッチの方が皆は驚くかも? あれ、そんなに肩を落としてどうしたんです? そう言えば、あなた見かけないメイドですね? 新人さん? 美味しそうだから吸ってもいいですか? ああ、待って、少しだけ、少しだけだから! あれ? ここの角曲がったはずじゃ? 居ない? ハッ!! あれが噂に聞く“学院校舎の妖精”!?◆ ところ変わってウードの部屋。 『遠見』の魔法によってウードはメイドの会話の一部始終を見ていた。 いや、見ていたというのは正確ではない。 最後に立ち去った方のメイドはウードが魔法によって創りだした精巧なゴーレムであり、最初から最後まで、メイドと会話をしていたのは他でもないウードだったのだ。「うーむ、下手に記憶を操作しなくても大丈夫そうだな。 私の蜘蛛の腕とか顎とか見られたかと思ったが、そりゃあ、一緒に居たクトーニアンの方が印象に残るよな。 しかもあの三つ編みメガネのメイドの娘はなんか感受性が強いのか、クトーニアンのテレパシーを傍受してるみたいだし」 そのメガネのメイド娘は血液嗜好症(ヘマトフィリア)に成り掛けてるような様子だったが、その程度の異変はウードには異変のうちには入らないようだ。「しかし、普通に私が人間じゃないような噂が流れてるのか……。まあ放っておくか」 ついでに自分の評価についてもあまり気にしていないようだ。 変に否定して回る方法も無いし、そんなことをして回ったら逆に疑惑が深まるだろうから、この場合は放置しておくのが正解なのかも知れない。◆ 蜘蛛の糸の繋がる先は 13.呪いの侵食は留まらず、迂闊な性格は治りもせず ◆ ウードの使い魔のルマゴ=マダリだが、一年間で一般的なクトーニアンの成虫サイズである30メイルの2倍、60メイルの巨体に成長した。 しかもまだまだ彼女の成長は止まっていないのだ。 詳しく調べてみたところ、ルマゴ=マダリに刻まれたルーンの効能は『成長』であるようだ。 全組織に入り交じってしまってルーンの全体像が分からなかったが、三次元トポロジー的な解析とか、発生時の細胞の移動を逆算することで何とかルーンを導き出したのだ。 このルーンは、ヒトより長命な使い魔の幼生を呼び出したときに刻まれやすいもので、ドラゴンの幼生などによく刻まれる。 召喚主が存命なうちに成体になれるように成長速度が強化されるのだ。 このままいけば、大首魁シュド=メルに匹敵する巨体になれるかも知れないと彼女は浮かれている。 ……あと、このルマゴ=マダリというクトーニアンだが、実は雌らしい。クトーニアンに貴重な雌である。 クトーニアンの雌というのは、およそ8~9匹に1匹の割合でしか生まれないのだ。 新しく生まれた雌は、彼らの種族にとって非常に貴重なのだ。 彼女の成長速度を鑑みれば、その繁殖周期も通常のクトーニアンの周期よりも短くなるのではなかろうか。 おそらく一度に産み落とす卵の数も、巨体にふさわしい数になるだろう。 ルマゴ=マダリの言う所によると、身体が成長し、知性が成熟し魔力も増大してシュド=メルに相応しい位階になれば、その偉大なる大首魁の子を孕む栄誉に与ることも出来るかも知れないという。 シュド=メルの直系クトーニアンが、ウードが使い魔召喚したせいで量産されるようになるかも知れない。「私のせいで旧支配者大復活で人類終了のお知らせ、という事になるのは嫌だなあ。とはいえ、私に出来ることはもはや無いからどう仕様も無いんだが」 ぶつぶつと呟きながら寮の部屋でタイピング仕事を行っているウード。 ちなみに現在は『深海の驚異』という題名で、マーマン(深きものども)やその他の深海に封ぜられた魔神たちについてそれとなく仄めかしつつも割と真っ当な深海紹介本を執筆中である。「ルマゴ=マダリの力は今の私を大きく上回っているし。使い魔に出来たのは力が弱い卵の時だったからであって現在は支配できてるわけじゃないし。旧支配者どもを敵に回すなんて考えたくも無いな。かといって文明保護の観点から人類絶滅は考え直してもらいたいのだが。ああ、そうかそうだな避難場所として何処か空中か宇宙にコロニーでも作ってハルケギニア人類文明を保存するくらいしとくべきかな」 クトーニアン達を退治したい場合は、彼らの近くまで〈黒糸〉を伸ばして、そこに弱点の放射性物質を大量に『錬金』すれば大打撃を与えることは出来るかも知れない。 そこまでして敵対する理由がないからウードは決してそんな事はしないだろうし、そこまでやってもクトーニアンの首魁たるシュド=メルは死なないだろう。 60メイルもの巨体になったルマゴ=マダリを学院近くに置いておくわけにはいかないので、彼女は既に地中のクトーニアンの集落に戻ってもらっている。 トリステイン付近は彼女の苦手な水が多いということもある。 ルマゴ=マダリにはアトラナート商会が開発した水除の魔道具を埋め込んでいるので、理論上は彼女の魔力が尽きない限りは海の中でも平気で動けるはずだ。 流石に実際に水をかぶっても大丈夫かどうか試すのが怖くて実験出来ていないが。 時々、彼女から話を聞いたクトーニアンの一部が同じ水除の魔道具を埋め込んでくれと地表に頼みに来る。 以前に召喚の草原の地下を不透水層に錬金したため、そこを通り道として地上付近に来ては、精神感応で学院の使用人を操ってウードを呼びに来させている。 大抵伝令役には冒頭でウードのメイド型ゴーレムと会話していた血液嗜好症を発症した三つ編みメガネのメイドの彼女である。 ウードを直接精神操作できないのか聞いてみたところ、別の神性の加護があるため不可能ということだ。 絡みつく糸のビジョンが見えるから、加護神性は恐らくはアトラク=ナクアだろう、とも。まあ加護と言うよりは呪いらしいが。 ウードはクトーニアンたちに魔道具を埋め込んでやる代わりに、この惑星に現存する旧支配者達の情報を聞かせてもらうことにしている。 今のところ聞けたのはルルイエ(?不確定)にはやっぱりクトゥルフが眠ってると言うくらいだが。 ウードのところに来たのは年若いクトーニアンばかりで、その他の旧支配者については確実そうな情報は無かった。 あと、魔道具を埋め込むついでに恋の相談もされたりしている。最近急成長の注目株、ルマゴ=マダリの気を引きたいんだそうだ。 取り敢えず、ウードはルマゴ=マダリの好物の人工飼料について教えておいた。 高カロリー飼料はルマゴ=マダリの要求を元に様々なバリエーションをゴブリンたちに作らせているので、地表に来るクトーニアンには定期的に持っていって貰っている。 既にゴブリンたちとクトーニアンも面通しをしている。 クトーニアンという恐るべき種族がこの星の地核に居ることや、アトラク=ナクアのような神性が他にも居るだろうことはゴブリンたちにも伝わっている。 これで別の神性を崇める新興宗教が台頭してゴブリンたちの内部が宗教的に割れても困るが、今のところはそんな事は起こっていない。「地下都市の建設とか宇宙コロニーとかも現在プロジェクト進行中だっけ。商会の拡張もそろそろもう要らないよなあ。地下都市が出来ればゴブリンたちだけで経済完結できるし。ハルケギニア人の社会に影響与えすぎるのは宜しくないし、と。んーと、『地下都市作成後の土砂の再利用方法:大規模太陽光発電塔の建設』? 良いね、どんどんやれ。ついでに電力・精霊石の変換回路の研究も急げ、と追記しとこう」 高速でタイピングして執筆しつつ、合間合間に報告書にも目を通していくウード。 報告書へのコメントについてはもう一台のタイプライターを『念力』で動かして打刻している。 ウードの身体意識的には腕が4本あるような認識がしっくり来ているので、2台のタイプライターを使うのも余裕綽々である。「そういえば二つ名って何を名乗れば良いんだろうか。ジャン=マルクは“炎獅子”とか言われてたが。自称? 他称? 自称だと私は“黒糸”だな、シャンリットで暮らしてた頃から言われてたし。他にも“蜘蛛”とか“狂気”とかあるが、なんだかなあ」 他のことに考え事を割きつつも、ウードは自著『深海の驚異』を書き進めていく。 その一方で様々な報告書も目を通して消化していく。「うーん? ああ、もう少ししたらロベールの誕生日か。5歳だから、何がいいかなー。杖は父上か母上が贈るだろうし。うーん、総天然色の図鑑とか? ちょうど世界中の生き物の図鑑も作ろうと思ってたんだよなー。いや、新種の飛行型のキメラの幼生体とか良いかも。どうせロベールも私や父上と同じように普通の馬には嫌われて乗れないだろうからな。調教役のゴブリンも一緒につけて、幼い頃から懐かせれば使い魔じゃなくても大丈夫だろう。うむ、そうしよう。大型幻獣の所有許可については今度王都に行く時に申請するかな」 自分の弟にプレゼントするものを考えて、ふとタイプしていた指と『念力』の不可視の触腕が停止する。 そこに丁度ノックの音が重なる。 ウードは『念力』でドアを開けると入室を促す。「どうぞ、開いてるよ」 中に入ってきたのはメイド服を着た少女だ。大きな円形のメガネと後ろで三つ編みにした長い黒髪が特徴的だ。 少女はずかずかとウードの部屋に入ると、唐突に切り出す。その目の瞳孔は開いており、焦点は合っていない。 腐った土の匂いが半ば実体を持って、瘴気のように押し寄せてむわっと匂ってくる。土の魔物の気配である。「ミスタ・シャンリット、庭に来て下さい」「……クトーニアンの方ですか。またこのメイドを操って……。了解です、すぐに向かいます」「早く」 メイドの少女は訥々と言葉を繰り出す。 ウードの方でも一応仕事は一段落したところであり、丁度クトーニアンに用があったところだ。 向かうのは吝かではない。 メイドの少女を退出させると、扉を閉めて窓からクトーニアンが待っているであろう召喚の草原へ向かう。 相変わらず双月が矢鱈に明るい。「避難所としての宇宙コロニーとか地底都市とか、あとは月面都市なんかも検討中なんだったか、ゴブリンたちの方では確か。ムーンビーストあたりが月に居そうなもんだが……」 『フライ』でクトーニアンの元に向かうウードは月を見て宇宙へ広がらんとしている彼の作品群を思う。 その調子でこの世の全てを解剖しつくして、あらゆる秘密のヴェールを剥がして貰いたい、と彼は願う。 たとえその先に混沌の破滅しか待っていないとしても、である。 考え事をする間にクトーニアン用のマントル-地表間の通路となってしまった草原の一角へと降り立つ。 樹樹や下草からの湿気がウードの体感温度を下げていく。 若干の寒気を覚えたウードは羅紗のマントを『錬金』で少し伸ばして、その前面を閉じる。それで冷気は遮られた。 辺り一帯に腐敗した臭いが満ちている。そこに地中からの声が直接頭蓋に響く。 クトーニアンからの精神感応だ。 その感触の微妙な差異から、ウードはルマゴ=マダリとは異なる個体のようだ、と判断する。 そもそも、ウードの使い魔たるルマゴ=マダリならば使い魔特有の共感覚によって連絡可能なのでメイドを操って寄越すなんてことはないのだ。「何用でしょうか?」(よく来た。この身体に貴様らの言う〈水除の魔道具〉とやらを埋め込んで欲しい)「承知しました。お安い御用です。その代わりに埋め込む際に生体組織を少し頂いても宜しいでしょうか」(うむ、構わん)「ありがたき幸せ」 ウードは早速地中に居るクトーニアンまで〈黒糸〉の杖を伸ばす。 〈黒糸〉に付加された知性である〈零号〉が記憶している『錬金』のバリエーションから『ウォーター・ウィップ』の魔道具の拡張発展版の設計図を読み出し、それをクトーニアンの身体の近くに幾つも作成する。「これから埋め込む魔道具は水を意のままに操る魔道具です。矮小な人の身では精々数分水を操るのが関の山ですが、クトーニアンの方なら湖一杯の水を何時間でも操ることが可能でしょう。基本的には操ろうと意識しない場合は体表に触れようとする水を弾くのみとなります」(うむ、承知した)「では、埋め込み手術を開始します」 ウードは多くの魔力を注ぎ込んだ『ブレイド』でクトーニアンの頑丈な表皮を小さく切り裂き、そこに先程作成した『ウォーター・ウィップ』の魔道具を埋め込んでいく。 体幹に沿って幾つも同じ作業を繰り返す。本当は一つで十分なのだが、複数埋め込むむことで万が一魔道具が作動しなくなった場合の危険を低くしているのだ。(ふむ、少し擽ったいのだな)「動かないでくださいよ。もうすぐ終わりますので」 最後に傷口を『治癒』して終了である。「終わりました」(ご苦労。して、採取した我の組織はどうするつもりか)「くふふ、弟にですね、キメラの相棒をプレゼントしようと思いまして。より強い種族の細胞を使いたくて、ですね。もしあなたさまの組織を使わせて頂ければ幸いです」 ウードは丁寧に礼をしつつ申し入れる。見えてはないかも知れないが、その辺りは気持ちの問題である。(……ふむ。家族、血族のための贈り物ということならば、我にもそのような気持ちは理解できる。良かろう、使うがいい) 自分の細胞がニンゲンのペットにされることに対して反感を持たれるかと思われたが、案外とすんなり話が通った。(その代わり、あのルマゴ=マダリに刻まれたルーンの効果についての研究を進めろ。アレがあれば我が一族はさらに強力になる)「分かっております。使い魔のルーンの研究成果が出れば、クトーニアンの皆様にもご報告いたします」(ああ、頼むぞ。では、我は帰る。蜘蛛の祭司よ、さらばだ。……まあ、またあの伝令の女絡みで会うこともあるかも知れないがな)「あれ? 気に入ったんですか、あのメガネのメイドの娘? まさか」(ふん、何、たまには人間社会に混ざってみるのも良いやも知れんと思っただけだ。水も克服したわけだしな) 地中深く遠ざかっていくクトーニアンの気配を確認しながら、ウードは笑みを浮かべる。 夜の草原で堪え切れないといった様子で笑い出す。 やがてその表現の一角が泥状に変化し、その中から、先程のクトーニアンの体組織を収めた一抱えほどの容器がごぽりと浮上してきた。「くふふふふ。ふふふ、ふふ。久しぶりに自分の手で研究してみるのも良いかも知れないなあ! どんなキメラにしようか。クトーニアンと火竜のキメラなんかどうだろう。触手を悍ましくくゆらせながら空を飛ぶもの! くふふ、早速研究室に行って制作に取り掛からないといけないなあ。くふふふふ」 その何やらわからないブユブユとした肉塊を収めた容器を『念力』で掴み上げて、ウードは夜の闇を湛える森へと足を踏み入れる。 彼の地下研究室はその闇の向こうに進んだところ、深い森の下にあるのだ。 不愉快な囁くような笑い声を漏らしながら、ウードは森へと消えてゆく。 ちなみに後日、血液嗜好症でひと騒動起こしたメイドにウードはとある人物を紹介して、その結果見事彼らは夫婦となり、そのメイドは結婚退職したらしい。 夫となった人物が、濃い土の気配を纏わせていたことは些細なことだろう。 遥か古代からこの惑星に棲んでいる先住種族たるクトーニアンが、全身の姿を変える高度な先住魔法たる『変化』の魔法を知っていても不思議でもないというのも、また些細なことだろう。 その夫婦はとても幸せそうだということだ。 特に妻の惚れ込み具合が激しいらしく、夫と自分は心と心で繋がっていると周囲に触れ回っているという。 彼らの住居の近くで行方不明になる者が多いとしても、些細なことなのかも知れない。◆ 学院3年生ともなれば、卒業課題というものもそろそろ気にしないといけなくなる。 ウードはそんなもの既に終わってるが、ジャン=マルクを始めとして、まだテーマも決めてない輩も多いようだ。「ウード、卒業課題は決めたか?」 もはや習慣となったと言っても過言ではないウードの部屋での男ふたりのムサイお茶会にて、ジャン=マルクから卒業課題の話題が振られたのは自然な成り行きであった。 コトリとウードがティーカップをソーサーに置くと、口を開く。「伊達に授業サボって研究してるわけじゃない。そんなもんはとっくに終わっている」「自慢できることじゃないだろう。参考までに聞いても?」「『クトーニアンの生態とその脅威~古の先住種族について~』」 これはクトーニアンについての研究結果と、彼らから聞いた様々な旧支配者についての話をウードがまとめたものだ。 一応、クトーニアン達のレビューを通ったもので、上手い具合に直接的表現を避けて仄めかしに留めている。「絶対、禁書に指定されるぞ。そんなもの」 ウードの使い魔を一度遠目で見たことのあるジャン=マルクは、その時に感じた本能的な恐怖を思い出して鳥肌を立てる。あれはよくないものだった。「うちの商会から出すのは大体禁書にされるから、今更だな。 それにある程度の精神力の持ち主じゃないと見えないように細工してある。 精神力が多ければ多いほど読めるページが増えるようになっている。 最終章まで読めば、この星の古い神性についてはほとんどマスター出来るだろうな。 まあ、結構な読解力が必要だろうけど」「学院の教師を全員発狂させるつもりか!?」「そのためのプロテクトだっつーの。発狂しないギリギリのラインまで見極めて開放するようになってる。 まあ、もし誰かが写本したとしたら、そっちの写本を見た奴の精神までは責任持てんがね」 提出用に製本したものは、持ち手の精神力を感知して文章を浮き上がらせるようなインテリジェンスアイテムに仕立ててるが、写本までは流石にその範疇外である。「というか、全く読める教員が居なかったらどうするつもりだ。落第するぞ」「そんな事はないだろ。学院長とかかなりの精神力だし。あれくらいあれば全部読める。というか、火のスクエアのお前くらいの精神力があれば、大体読めるようにしてある」 それでも駄目な時は別の課題を提出するよ。例えばこの前見せた『世界地図』とか」 ジャン=マルクはウード(というかアトラナート商会)が使っているという『世界地図』を思い出す。 広大な海原と大陸、思ったよりもずっと小さなハルケギニアのトリステイン。 彼はその時確かに自分の世界観が崩壊する音を聞いた。「それはロマリアの神官が来るだろ。というか、誰か信じるのが居るかね。俺も未だに半信半疑なんだが。 もっと普通なのは無いのか。具体的には俺が参考に出来そうな奴」「君が参考に出来そうなやつねー。何かあったかなー」 ウードは『念力』で積み上げた書類の山を掻き分けて、探してみる。「あ、火メイジならこれとかどうだ、『生ける炎の召喚と使役について』」「却下だ」 炎が生きている、とはどういう事なのだろうか。 考え込むジャン=マルクを尻目に、この辺一帯焼き尽くされてもかなわんわな、と呟きつつ捜索を続行するウード。「まあ、これはネタだからな。ホントに呼び出せるかどうかも分からんし。というか夜空の星のどれがフォーマルハウトか分からんからなー」「いいから、次だ次。」「それが人にモノを頼む態度か。……あ、これとかどうだ。『温度と炎の色の関係』」 黒体放射とか含めるとかなり奥深いテーマではある。 色とは何か、から始めると一年では終わらなくなるだろうが。「良いテーマだが、既に貴様が商会の人間に全部調べさせとるだろうが。アトラナート商会の売店の書籍棚に同じものが並んでたぞ」 学院のアトラナート商会支店は昨年から営業を始めており、ウードやゴブリンたちが執筆した本も店頭に並べられている。「あ、そういやそうだ。昔同じテーマでやってた人が居たからそれの増補改訂版ってことで出させたんだった。珍しく異端審問とか気にしなくていい内容だったし、直ぐ出版指示したんだったか」「また別名で出版か? お前は一体幾つペンネーム持ってるんだか。」 アトラナート商会の出版した本は、内容によっては“信仰を否定するものである”として発売禁止処分を喰らうことが多々ある。ウードはその度にペンネームを変えているのだ。「さあ? 禁書指定されるたびに名前変えてるからもう分からん。 じゃあ、これなんかどうだ?『熱の仕事当量について』。恐らく歴史に名が残るぞ」「『仕事』ってなんだ、一体」 というかその前に、先ずは単位系の正確な定義から行わなくてはならないだろう。「そこの概念から説明せなならんのかよ。面倒だな。じゃあ、『低温の限界、高温の限界』とかどうだ?」「う~ん、高温はともかく、低温の方がなあ。」 低温の方は火メイジの領分じゃないのだろうか? ウードの認識では、熱エネルギー関連は火魔法というイメージを持っているので、極低温も火メイジの領分だと思い込んでいる。「わがままなやっちゃな。じゃあこれだ。『熱膨張とそれに伴う機構の破損』」「職人がやるようなもので、貴族的じゃない。もっと魔法に関するものはないのか」 職人になるメイジも多いが、貴族専門の魔法学院に来るような生徒は普通は職人にはならない。 というかそれ以前に熱動力の機関が存在しないハルケギニアでは熱膨張によって機関が変形して破損するなんて現象自体が生じないだろうから需要もない。「じゃあ、『熱と光の違い ~『ライト』は火魔法か否か~』でどうだ」「お、それ良いな」 実際、『ライト』が火魔法なのかコモンマジックなのかというのは、この時代の専門家の間でも議論が分かれている。 というか、土水火風の分類自体が何か間違っているような、とウードは常々考えている。 そのため、作用する力によって系統を分ける試みがゴブリンたちの中では行われている。電磁力系、重力系、ファンデルワールス力系、核力系……、と。 だが、肝心のそれら全ての力に影響を与え、かつ万能の触媒としても働く“魔力”というものの正体が不明なので、頓挫している分野でもある。「じゃあ、それで決定と。参考資料にこのメモをやろう」「助かる。……あー、ついでに彼女の分も何か見繕ってくれるとありがたいんだが……」「あー、まあいいけど。風メイジだったよな、彼女。じゃあ、まあこの辺の風石関連の書類を持っていってくれ。 風石機関の効率とか、風石の精錬とか、いくらでも研究テーマはあると思うし。 あ、風石の自然発生機序はやめとけよ?」 なぜか自然増加する地下の風石鉱脈であったが、その元となっているエネルギーは不明である。 地核の熱であるとか、別宇宙から流入するエネルギーだとか……色々な説があるが、中には、大気や海洋に蓄えられた太陽熱エネルギーが何らかのシステムで地中に移送されるのではないかという説もある。 簡単にいえば“台風→風石”の仮説である。幾ら何でも無理があるだろう。「ん? なんかあるのか?」「世の中には知らない方が良いことが色々とな。全く世界は謎に満ちている。 それとも風ならこっちにしとくか?『雷の発生原理とその本質について』とか『雲の種類と発生状況』とか。 ……風石関連と天候関連両方持っていってくれればいいか。それと解説が必要なようだったら呼んでくれ」「恩に着る」「いいってことよ」 これで惚気話をもう少し抑えてくれたらなお有り難いのだが、とウードは思う。 だが瞬時にそれを諦める。あの二人が惚気話を出さないというのが逆に想像できない。それほどのバカップルなのである、ジャン=マルクとその恋人は。 一時期、ジャン=マルクの彼女に嫉妬した女子の一部が嫌がらせしようとしてたが、あまりの人目を憚らないイチャつきっぷりにその気を挫かれていたのをウードは知っている。 嫌がらせはしなくて正解だろう。 当時から既に風のトライアングルだった彼女(現スクエア)の感覚からすれば、遠くの声もまるで耳元で囁いているように聞こえていただろうし。 嫌がらせを実行に移していたら、きっとそいつは竜巻に巻き上げられて強制的に紐なしバンジーをする羽目になっただろう。「ああ、しかし風属性か。対人戦では風属性が一番使い勝手がいいよな。大体何でもできるし」「殲滅戦なら火メイジの独壇場だぞ。誰にも負けん。既にこの火の腕前を見込まれて王都の近衛からも誘いが来ている」「さらに風と火がタッグを組むと、殲滅力が格段に上がるもんなあ。実はジャン=マルクとその彼女も込みでの入隊の誘いじゃないのか?」 ジャン=マルクとウードが組み手をやってる最中に、ジャン=マルクの彼女がこっそり援護して炎を強風で焚きつけてくることもよくある。 本人はこっそりやっているつもりなんだろうが、実際に魔法を使っているジャン=マルクと、命の危険が倍増するウードにはバレバレである。 その時は危うくウードは消し炭になるところだった。むしろ一気に蒸発しかねん勢いだった。死ねる。「きっと君ら二人の相性なら、王家のみに伝わるというヘクサゴンやオクタゴンのスペルも使えると思うよ」 ウードは茶化すように言う。 ゴブリンの人面樹に吸わせた知識の中には、王族の知識も含まれており、そのため秘伝とされるスクエア以上のスペルもウードは知っている。 さっき渡した書籍の中にそういうのを紛れ込ませておくのも一興か、とこっそりウードは書籍の隙間に、秘伝についての記述を浮かび上がらせた薄いシートを『錬金』で瞬時に作成して挟み込ませる。 もしも本当にジャン=マルクたち二人がオクタゴンスペルを会得して次の組み手で使って来たら塵すら残らない可能性があるが、まあなんとかなるだろう、とウードは軽く考えていた。 ……尤も、その認識が甘かったことを次の組み手で思い知る事になるのだが。 その後数日してから、ウードはジャン=マルクとその彼女と組み手を行った。「ジャン=マルク、この間の本に“オクタゴンスペル”のコツを挟んでおいたと思うんだが、読んだか?」「ああ! やっぱりお前だったのか、あれ。本当にやるのか? 王族にしか使えないって話じゃないのか」「大丈夫だろう。血の繋がりよりもなお強い二人の愛情があれば、不可能も可能になるというのは物語の定番じゃないか」 適当にウードが二人を煽る。「じゃあ、ミスタ・シャンリット。的を用意して下さらないかしら?」「了解了解」 ジャン=マルクの彼女の要請を受けて、ウードは20メイルほどの高さの人形の土人形を作り出す。「ちょっと大きすぎやしないかしら」「オクタゴンスペルは何でも一軍を滅ぼせるそうじゃないか。あのくらい俺達の愛があれば吹き飛ばせるさ、ハニー」 ジャン=マルクは彼女のことをハニーと呼んでいる。 土人形を前に気炎を上げるジャン=マルクとその彼女。 ウードは巨大ゴーレムの脇へと退避する。「じゃあ、二人共、息を合わせて巨大な火炎竜巻をイメージして。詠唱中はお互いの魔力的リズムを感じて互いに高め合っていくように気をつけてくれ」「わかったわ」「言われなくても」 ウードの合図で二人が詠唱を始める。 ジャン=マルクの“火”の4乗、その彼女の“風”の4乗。 お互いが相手のことを思う気持ちが、精神の繋がりが、呪文の詠唱を噛みあわせて魔力のうねりを高め合う。「おおお……」 芸術的なまでの魔力の高まりに、ウードが思わず見とれてしまう。 ――その一瞬が明暗を分けた。「『フレイム』……」「……『トルネード』!!」「おおおおお! 素晴らし――」 最後のトリガーワードと共に土人形を火炎竜巻が包み、見る見るうちにそのゴーレムを蒸発させて小さくしていく。 輻射熱だけで竜巻の周辺の木々や草は発火し、その残骸は次々と吸い込まれて燃えてゆく。 そして火炎竜巻の威力はそれだけに留まらなかった。「――ぃぃいいい?!」 周囲のモノを呑み込みながら肥大する火炎竜巻はあっという間にウードを燃やし尽くそうと迫る! 輻射熱だけでウードの服と皮膚が一気に燃え上がり、沸騰する。 瞬時にウードは『フライ』の魔法で効果範囲から逃れ、間に何枚もの金属光沢の壁を作り、輻射熱を反射して防ぐ。 それでも竜巻に一番近かったウードの左腕は、半ば以上熔け落ちてしまった。 洒落にならない威力であった。 地面は溶けて、学院の壁一面丸ごと膨張する火炎竜巻で吹き飛ばされた。 慣れない呪文はジャン=マルクたち二人の精神力を全て吸い尽くしてしまい、精神力の枯渇によって二人は意識を失った。 ガラス化した灰が降り積もる中、瀕死で裸のウードと気を失った二人が残された。 なぜ王族が諸侯貴族のトップに立てるのか、ウードはその身で思い知った。 自分の迂闊さを呪いつつも、彼は全身を冷やして『治癒』を掛けつつ、変異した右腕を隠すように燃え尽きた義手を『錬金』で再構築する。 体内の熱ショックを起こしている細胞のタンパク質やDNAの損傷・変性を修復しつつ、出来る限りの火傷を治していく。 王家単体でほかの雑多な貴族を圧倒できる武力を持っているから、彼らは5000年の永きに渡って君臨しているのである。 オクタゴンスペルは城砦を灰燼に帰せるほどのものであるのだ。 余波だけでウードは瀕死の重傷に陥っている。戦場で軍隊にぶつければ一体どうなることか。 術者であるジャン=マルクたちに被害が出なかったのがせめてもの幸いか、とウードは考える。 かつてウードが行っていた、双子のゴブリンたちによる同時多重詠唱の実験結果を元に考えれば、ウードの立ち位置は充分に効果範囲外だったはずである。「やはり“愛”が威力を引き上げたのか? ……否定出来ないのが辛いな。全くこの世は分からないことだらけだ。だから、今回も死んでやるわけには行かない……」 ウードは自分の身体の修復を〈黒糸・零号〉に任せると、意識を落とす。 ジャン=マルクたちもあれだけの威力になるとは思わなかったようで、意識を取り戻した後で必死にウードに謝った。 ウードの傷は深刻であったが、ウード本人は気にした風もなかった。 寧ろ、ジャン=マルクたちがオクタゴンスペルを使えるということを王室に知られないかということを、逆にウードが心配していた。 オクタゴンスペルの流出は王家による武力を背景とした統治に大きなダメージを与えるだろう。 諸侯がオクタゴンスペルを運用し始めたら、武力のバランスは崩れて世の中はあっという間に乱世になりかねない。 それも戦場で戦略級魔法が飛び交うような乱世に。 それを防ぐために、王家はオクタゴンスペルの流出を防いでいるのだろうし、流出させた者は誰であれ許さないに違いない。 オクタゴンスペルが使えるとバレたら彼らも王家に追われるようになるだろうから、無闇矢鱈と喋ったりはしないだろうが、ウードからも念を入れてジャン=マルクたちに秘密にするようにお願いをしておいた。 オクタゴンスペルの秘密厳守をもって、ウードの負傷に対する慰謝料代わりとする、ということをウードから申し出たのだ。 甘い措置だと思われるかも知れないが、ウードはそのくらいで充分だと考えている。死ななければ安いものだ、と考えているというのは、達観し過ぎだろうか。 まあ、最初に唆したのはウードなので自業自得だと思っている節もある。 ちなみに吹き飛んだ学院の外壁修繕はウードの伝手でアトラナート商会に頼むことで割安にし、その費用は3人で均等に負担することとなった◆ ウードは学院をサボって王都に来ていた。 目深くローブを着込んでいるが、その中身は包帯まみれである。 ジャン=マルクとその彼女のペアの放ったオクタゴンスペルによる火傷である。 包帯の下には〈水精霊の涙〉を染み込ませた湿布を全身に貼っている。 学院には負傷の療養のために一旦実家の領地に帰ると申請を出している。 何しろ、左腕の二の腕の半ばまでが熔け落ちて欠損し、その他の皮膚もかなりの部分が炭化してしまっているのだ。 普通ならばいつ死んでしまってもおかしくはない重症である。 彼が生きているのは、単に彼自身の生への未練――世界に残る未知への未練の成せる業だ。 勿論、彼自身の血に宿る呪いが一役買っているということもある。 魔法への抵抗力が高いのか、単に偶然か、ウードの蜘蛛の右腕は殆ど無傷のままであった。 そしてまた、再生した皮膚の大部分は、ヒトの皮膚ではなくて蜘蛛のような丈夫なクチクラを分泌する層へと斑(まだら)に置き換わりつつある。 包帯でぐるぐる巻きにされているウードの後ろには、従者らしき小柄な人影――ゴブリンが2名付き従っている。 一人はウードの手荷物を持っており、もう一人は覆いで半ば以上隠された大きな檻を引きずっている。 実際には『レビテーション』によってその檻は地面から若干浮いているから、引きずっているという表現は正確ではないが。 雑踏を抜けて、ウードとその従者たちはアトラナート商会のトリスタニア支店へと入っていく。 そこに置いてある〈ゲートの鏡〉を通って、商会の本拠地が置いてありウードの実家でもあるシャンリット領へ赴くためだ。 シャンリット領へと帰る理由の一つは、言わずもがな、ウードの治療のため。 もう一つは、檻の中に閉じ込められたキメラを弟であるロベールにプレゼントすること。 最後は学院卒業後のウード自身の進路についてだ。 一応、アカデミーからウードに誘いは来ているが……、まあこれは蹴っても問題ないだろう。 アカデミーに属すると、大っぴらにゴブリンとの繋がりを利用できなくなって、却って研究の幅が狭められてしまうと思われた。 生活費という意味ではウードは、仕事に就く必然性は薄い。 むしろ数々の異端本の著者であると目されているウードにオファーが来たのが不思議でならない。ロマリアが怖くないのだろうか。あるいは異端本を幾つも出しつつもロマリアに決定的な手を打たせていないという、アトラナート商会の組織力を取り込もうと目論んだのか。 ゲートによって鏡同士を繋ぐという魔道具も解析が進み、その試作レプリカも学院卒業までには出来そうである。 現在稼働している〈ゲートの鏡〉は、王都とシャンリット領を結ぶもののみである。それと解析用の予備がもう一組。 アトラナート商会の建物の中をウードたち3人は通って行く。 途中、折衝の資料を持った商会員と彼の担当取引先の者と思われる男たちとすれ違う。 この王都の建物は主に商談を行うための部屋を設けてあり、調度もそれに合わせて華美過ぎず、しかし足元を見られない程度には高級そうなものを揃えてある。 普段であればウードも商会のオーナーとして取引先の男たちに挨拶をしたりなどするのだが、今回はちょっと人に見せられない顔になっているので、それはパスである。 〈ゲートの鏡〉を設置してある部屋に辿り着くと、その扉を従者役のゴブリンが恭しく開く。 6メイル四方ほどの部屋の真ん中に一つの鏡が凛と鎮座している。 ウードは鏡を作動させるキーワードを唱える。 鏡の表面がそれに呼応するように、景色を反射するのではなく靄のような銀色になり、湖面のように静かに揺らぐ。 ウードはその銀色の鏡面へズカズカと歩んでいき、直ぐに呑み込まれた。 揺らぐ鏡面に、従者のゴブリンが急ぎ足で飛び込んでいく。◆ ウードがシャンリット領へ〈鏡〉の転移通路を抜けて到着してから2時間ほど経過した。 ウードは現在、シャンリット領のゴブリンの村の地下施設で皮膚再建手術を受けている。 移植用の皮膚はウードの細胞を培養したものである。 現在は〈水精霊の涙〉を満たしたプールの中で張り替えた皮膚が馴染むのを待っている。 〈水精霊の涙〉を蜜として分泌する植物の栽培が軌道に乗ってきたのでこんな贅沢な使い方ができる。 だが、その皮膚は、全ての部分を張り替えたにも関わらず、斑に蜘蛛のクチクラ外殻に変化したままだ。「……蜘蛛の外殻に変化した部分が治らない?」「はい。ヒトの皮膚に張り替えた直後に、殆ど瞬時にクチクラを分泌する組織へと変化してしまうようです」「うーむ、やはり呪いか?」「そこは祝福と言って下さい、蜘蛛神教の神官としては」「くふふ、まあ確かにね」 〈水精霊の涙〉の補助と人面樹からフィードバックされた経験に裏打ちされた確かな魔法行使、そして長年の魔法生物研究によって、ゴブリン村の医療技術はハルケギニアでもトップクラスになっている。 ウードの前世の世界よりも高水準なのではないだろうか。 全身の皮膚の張替えなんていう無茶も、この村ではそう難しくない手術に分類されるのだ。 当然明日は抗生物質を飲んで一日安静にしなくてはならないが、その程度だ。 〈水精霊の涙〉でも抗生物質の代わりにはなるが、コスト的には抗生物質の方が安いので術後の服用は抗生物質を用いている。 抗生物質をはじめとする薬品類は『錬金』による分子レベルでの設計が可能であるため、ゴブリンの集落では副作用が少なくかつピンポイントで効果を発揮するものが作成されている。 この高度医療センターに詰めているのは殆どが、基礎記憶の他にオプションとして治癒専門の水メイジの経験を複数人分先天的に持っているような熟練のゴブリンメイジだ。 テーラーメイドの医療というのも実用レベルに至ろうとしていのも、彼らが長年に渡って細胞や病原菌の酵素などの働きを調べてきた積み重ねの賜物である。 全身に〈黒糸〉を張り巡らせているウードならば、抗生物質等使わずとも、自分の体内のウィルスを一つ一つ物理的に潰して回るなんてこともできるのだが。 体力や集中力の消耗が激しいし薬飲んだ方が早いからそんな事はしないだろうけれども。「うーむ。自分の体内の〈黒糸〉で診察してみても何でそんな変化が起こってるのか分からないんだが。余りに自然に変化している、不自然なはずなのに」「私も、ついこれが自然な状態かと思ってしまいました。それほどにさり気なくしかし完膚なきまでに変化しています。『ディテクトマジック』では異常が感知できません」「まあ、これも我らが神の齎した奇跡ということか? 右腕といい、この皮膚といい……」「我々も総力を上げて必ずや解析して見せます」「ああ、症例の記録と解析を宜しく頼む」 同じフロアではウードの他にも移植手術後の馴化処置を受けているゴブリンが居る。 皮膚の移植の他にも、腕や脚や翼の移植手術なんてのも行われている。 ゴブリンたちは先天的に知識や身体特性を与えられているが、全くその後の道の選択自由が無いというわけではない。 大半は氏族ごとに職能も固定されているし、氏族以外の者がその固有の職業に入っていくのは確かに難しいが、本人が望んでなおかつ対価を払えば、人面樹からの追加の知識・経験の獲得だって肉体的な改造だって行うことが出来るし、それらによって能力さえ得れば望む職業に就くことが出来る。 とは言っても実際は、生まれる時点で知識技能と共に興味の方向もある程度決められているため7割5分は予定されていた職種に就くことになる。 100%興味の方向を固定化しないのは、流動的な残りの2割5分によってうまい具合に社会制度の硬直化を防いでもらいたいという目論見があるからだ。 そういう背景も有り、皮膚の移植による強化くらいは刺青を入れるような気軽さで行われているのである。 羽根を生やしたりするのに比べれば皮膚移植程度どうってことはない。 移植のほかにも〈水精霊の涙〉をベースにした刺青によってルーンを刻んで魔法的な強化を施すというのもこの施設では行っている。 ちなみに人気があるのは『レビテーション』の刺青だ。魔力を流すと刺青に接している物の重量を軽減する効果がある。 荷物を軽くするのに便利だからという理由で手のひらに彫り込む者が多い。 この技術には使い魔のルーンと身体の魔法的な結び付きの研究と、マジックアイテムに刻むルーンの研究を応用している。 流石に始祖の使い魔のルーンは再現出来ていないが。せめて実物があればレプリカくらいは可能にしてみせるとその道の研究者ゴブリンたちは息巻いている。 ブリミル教の研究を行っているゴブリンたちは、誰かが意図的に始祖やその使い魔たちの痕跡を消して回ったのではないかなどと議論している。「で、左腕の方もこれ以上はどうしようもないわけだな」「ええ、こちらも半ばまで熔けた部分を腕ごと培養して移植したのですが……」 ウードは青い粘性の液体から左腕を掲げる。 ウードは首筋から順に左腕に視線を動かしていく。 二の腕の半ばまで失われていた左腕は、肩から肘の部分までは生白い人工培養の皮膚に張り替えたばかりだ。 そこを部分的に黒っぽいのような紫色なような甲殻が覆っていて、蟲とヒトを交ぜた冒涜的なオブジェとなっている さらに肘から先に視線を動かすと、そこからは完全に蜘蛛の甲殻に変化してしまっているのが分かる。 硬いキチン質とタンパク質の多い柔らかな関節が組み合わされた巨大な蜘蛛の脚となって、肘から先は2本に別れてしまっている。 それぞれの脚の先には右手と同様に3つの爪が見える。 ウードの右腕が掌から二股の蜘蛛足に別れているのに対して、左腕は肘から別れてしまっているのだ。「何度か付け替えたんだが、全部こうなってしまうんだよな」「そうですね。付け替えを何度も行ったお陰で、変異していく際のデータは多く揃いましたが」「それはせめてもの僥倖だな」「ですね」 そう言って、ウードは〈水精霊の涙〉が満たされた浴槽に全身を浸ける。 顔まで完全に浸かる。 酸素供給は気管に孔を開けてそこからチューブを通して吸入させている。 明後日には完全に皮膚も馴染み、シャンリット家の本邸の方へ出向くことが出来るだろう。◆ 皮膚再建手術から3日後。 ウードはシャンリット家の本邸で母であるエリーゼと膝詰めで話し合っていた。 エリーゼの侍女は同席していない。 そして、家宰だった老爺は、もう、いない。 ウードが殺してしまったから、もういない。 シャンリットの血脈の秘密を知る者たちが密談を行っている。「本気なのね?」「ええ、母上。私は家を継ぐことは出来ません。――爵位と領地の継承権を放棄します」============================2010.07.18 初登場2010.10.13 修正 まるで別の話になってます