シャンリット家の第三子、ロベール・ド・シャンリットが5歳の時の誕生パーティのことである。 ロベールは、父フィリップからは杖を、母エリーゼからは仕立てのいい服を、姉のメイリーンからは短剣とそれに塗るための毒薬と解毒剤をプレゼントされた。 ちなみにメイリーンの毒薬セットはメイリーンお手製のものである。幼い弟にプレゼントするものではないのだが、彼女なりに今の自分の最高傑作をプレゼントしようと考えた結果そうなったらしい。 そして長兄のウードからは見るも悍ましい幻獣がプレゼントされた。 丈夫な首輪をつけられて、調教役の矮人(系統魔法が使えるように品種改良されたゴブリン)に連れられたそれは、体長は1メイルほどの大きさであった。 見たこともないその幻獣は、一見すると竜の変種のようにも見える。 竜の顎、竜の頭、竜の首、竜の胴体、竜の尾。 しかしその四肢と翼は竜では有り得なかった。 翼に当たるところからは、左右3本ずつ、3対6本の鞭のように長い触腕が伸びている。 それぞれの触腕の表面はまるでミミズかウナギのような艶やかで滑らかな粘膜で覆われていて、妖しく蠢いている。その先には猛禽の嘴のような非常に硬質な物が付いており、そこは口としても使用できるようであった。 四肢はそのしなやかな触腕を何本も束ねたような、太い蔦を撚り合わせたような形になっている。動物の四肢の皮を剥いで筋繊維を剥き出しにすれば同じような外見になるかも知れない。先端は1本に纏められており、柔らかい触腕を保護するためか、硬い金属製の爪――馬の蹄に着ける蹄鉄のようなものだろうか――が装着されている。 背中からは6本の触腕の他にも、短い触手が悩ましげに伸縮している。「うわ、ウード、これは……?」 その外見に気圧されて、家長のフィリップが思わず尋ねる。「これはさる古代の生物と火竜とのキメラです、父上」「古代の生物……?」「はい、太古の昔からこの大地の奥深くに棲んでいる、知性を持った強力な魔獣です。最近偶然にも彼らと接触を持つ幸運に恵まれ、弟のためにと体の一部を分けてもらったのです」 ウードは父に、このキメラの謂れを話す。 実験の失敗によって全身に火傷を負いその皮膚を張り替えたのだと言うが、その後遺症かウードが浮かべた微笑は不自然に引き攣っている。 まるで人の皮を被った何か別のもののようだ。 ロベールは兄と父の会話を聞いているのか、自分の身の丈ほどもあるキメラを前に動きを止めている。 やはり幼い子にはこの悍まし気なキメラは少々ショッキングだったのだろうか。「あ、あにうえ! こ、これ、これ」「落ち着け、ロベール。何だ、やはり怖いか? 嫌なら幾つか他の幻獣も用意出来るから、そっちにするか?」「いやじゃない! ぼくこれがいい!!」 何とこの5歳児、触手を蠢かしてふしゅるふしゅると言っているキメラを気に入ったらしい。 流石はシャンリットの血筋、というか、ウードの弟。あの兄にしてこの弟ありといったところだろうか。 近寄っては恐る恐る触手を撫でて、その感触を楽しんでいる。「……。まあロベールが気に入ったんなら、私としては良いのだが。ウード、あれはどの程度まで大きくなるのだ?」「さあ、分かりません」「は? 分からない?」「恐らく、少なくとも全長30メイルは超えると思います。100メイルを越えてもおかしく有りませんね。寿命は1000年以上は保証します」 クトーニアンの平均サイズは30メイルであるが、そのなかで一番卓越した個体は1000メイルを超えるという。 寿命もクトーニアン基準で考えれば、数千年はあるだろう。韻竜でもその程度には長寿だ。「そうなら竜舎を新築せねばならんな」「もし必要ならば量産して、空中触手騎士団なんてのも出来ますが」 空中触手騎士団(ルフト・フゥラー・リッター)を想像したフィリップは頭痛を覚えた。 触手を蠢かせてその先から全方位にドラゴンブレスをまき散らして飛びまわる無双の竜騎兵。「襲われる方が不憫でならんな。というか竜騎士隊の所持は伯爵家では権限がないから不可能だ」「では陞爵するまで保留ということで」 設立する気はあるのかよ、とフィリップは心のなかでツッコミを入れる。ひょっとすればもう既に準備出来ているのかも知れなかった。ウードは人に内緒で事を進める事が多いのだ。 我が子ながらウードの思考回路はイマイチ理解出来ないフィリップであった。 ロベールは触手を生やした竜のキメラに跨って、嬉しそうにノシノシと歩きまわらせている。 御者の矮人が注意深く見守っているので、あちらは危険はなさそうだ。「ああ、そうだ父上。ついでなのでこの機会に言いますけれど」 一呼吸。「私を廃嫡してもらえませんか?」「……ん? 何だって?」 急に話題を転換したウードに、フィリップは思わず問い質す。 何やら穏やかではない言葉が聞こえたような気するが、頭が理解を拒んでいる。「廃嫡してください」「誰を?」「私を」「え?」「ウード・ド・シャンリットはシャンリット家の領地と爵位の継承権を放棄します」「えええええええ?!」 淡々と言葉を重ねるウードに、フィリップは絶叫で返す。 確かにウードは魔法学院に入学する前にも、片腕を不具にしたことを理由に継承権を放棄したいと言っていた。 だがそれに対してフィリップが待ったをかけて、取り敢えず魔法学院卒業までは現状に留めておいたのだ。「何故にですのっ? お兄様!」 そこにシャンリット家の長女メイリーンが割って入る。 今は丁度13歳を過ぎた頃で、徐々に女性的な膨らみが目立ってきている。 金糸のような繊細な髪と、朝露に映える凛とした花のような顔立ちは母のエリーゼに生き写しであるかのようだ。 父を虜にして一目惚れさせ、あまつさえその衝撃でドットからトライアングルへと成長させてしまうような、あの魔性の美貌の片鱗を見せ始めている。 ただ、ブラウンの瞳は父であるフィリップから受け継いだ精悍さをその内に秘めているように感じられる。 自分の兄が言った言葉を、彼女は否定したがっていた。 彼女は自分の兄の優秀さを間近で見てきたし、風変わりだが自分に優しい兄のことを誇りに思っているのだ。 そんな兄がシャンリット領を治めてくれれば、きっと皆が繁栄を享受できるようになる、と、そう思っていたのに。「何故、何故なんですかっ!?」「そうだ、何故だ、ウード。その右腕のことか? それなら気にするものは居ないと前から言っているだろう」 メイリーンとフィリップは、その真意をウードに問い質す。「貴族の義務には、2つあると私は考えています」 そんな二人の質問には直接は答えずに、ウードは話し始める。「1つは領地を治め、領民を守り、繁栄させること。こちらに関しては、私は充分以上の自負を持っています」「ならば……」 ならば継げばいいじゃないかと言い募ろうとしたフィリップを遮り、ウードは続ける。「そしてもう1つ。血を残すこと。土地と血脈を保ってこその貴族です。私では、こちらを果たせません」 血を残せない。確かにそれは貴族として重大な欠陥である。不能者を領主に置いた後には、その次代で継承権を主張しあう親類縁者によって領地は切り裂かれることもあるだろう。「何故私が血を残せないのか。単純にこの身体が永くないというのが1つ。 もう1つ決定的な理由として……、アレがもげてしまいましたから、私には子供をつくることが出来ません」「は?」「アレ?」 一瞬、不理解の表情を浮かべるフィリップとメイリーン。 そしてウードの最後の言葉を理解して、オスとして蒼白になるフィリップと、思春期に差し掛かった乙女として顔を真っ赤に染めるメイリーン。 ちらりと両者ともウードの股間に目を向ける。ウードの履いているパンツは股のゆとりが普通の男性物よりも少なく、女性物の乗馬用パンツのような作りに見える。「うわあ、本当か? ウード? 大丈夫なのか?」「な、なななな、お兄様の破廉恥!」 心配げに訊いてくる父フィリップとは対照的に、メイリーンは真っ赤な顔のまま大きな音を立てて扉を開くと逃げ出すように広間を後にした。 そのやり取りをよそに触手でふしゅるしゅるなキメラと戯れるロベールはキメラに乗ったまま「姉上ー、待ってー」と追いかけていった。「まあ、そういう訳で、ロベールの教育が本格化する前に正式に私は継承権を放棄し、ロベールの方を跡取りとして育てて貰いたいなあ、と思いまして」「そういう事情なら、確かに仕方ないが。うわあ。ウード、お前平気なのか? というか何をしたんだ?」「実験に失敗して全身を大火傷したときに、玉と竿が完全に炭化しました」 それを聞いて更に血の気が失せるフィリップ。きゅっと、縮み上がったのだ。 この場に同席した男性の家臣や使用人も、顔面を蒼白にして同情の視線をウードに送っている。中には股間を押さえている者も居る。 取り敢えずこの話は充分だ、とフィリップは話題転換を図る。「あ、あと、だな。先が永くない、ということについても詳しく」「それは私の方から話します」 そこにフィリップの妻、エリーゼが口を挟む。 一連の衝撃的な流れについて動じていない所を見るに、彼女は事前にウードから相談を受けていたのだろう。「エリーゼ。それは水メイジとして、ウードを診断した結果ということだな?」「そうよ、フィリップ。 ウードはあなたのお父様やお兄様を襲ったのと恐らくは同種の奇病に冒されているわ。 幸い、発見が早かったことから封じ込めは出来ているけれど、完全じゃない」 シャンリットを度々襲ったという、謎の奇病。 ウードがそれに罹っているというのだ。 エリーゼは自分の息子の運命を沈痛そうな表情で語る。「他の人に感染しないように処置はしてあるけれど、本人の身体の中で進行するのは、その速度を抑えるので手一杯。 あと10年から15年、長く見積もっても20年の内に、ウードは死ぬでしょうね。 早ければひょっとすれば今日にでも、次の瞬間にでも。瞼を開ければ、ウードは皮だけを残して溶け消えているかも知れない。 それ程に、今の状態は危険なのよ」 自らの息子の死を予言する母親の心中は如何ばかりか。 誕生会の広間に、陰鬱な沈黙が下りる。◆ 蜘蛛の糸の繋がる先は 14.命短し、奔走せよウード・ド・シャンリット ◆ まあ戯言だけどね、などとウードはその心中で赤い舌を出す。 そう、先程エリーゼが語ったウードの病状に関しては、1つ嘘がある。 まずウードは病気ではない。 これは呪いとも祝福とも言えるものである。 遠い遠い先祖から受け継いだ、蜘蛛の神様からの贈り物だ。 ウードはこの呪いについて、別に悪感情は持っていない。 隙があれば自分を蜘蛛へと変じさせようとすることには辟易しているが、二度目の生を授けてくれた神との絆でもあり、先日の火と風のオクタゴンスペルによる全身火傷の際には呪いがウードの命を繋いぐように働いたことをウードは体感しているからだ。 だが、呪いを病に置き換えたこと以外は本当のことである。 男性のシンボルが炭になってポロリともげたことも本当だし、彼の身が十数年しか持たないだろうというのも本当だ。 実はクローン技術によって外性器を復活させることは十分可能であるし、呪いに関してもゴブリンたちを生贄にして呪いを移して――かつて家宰の老爺にしたように牙から毒液の形で呪いを転嫁して――やればもっと命数を長引かせることも可能であるのだが。 重々しい空気の中、沈黙を破り、フィリップが口を開く。「そういうことであれば、よかろう。確かにウードを廃嫡し、ロベールに当主としての教育を行うべきだろうな。私自身、急に兄上が亡くなられて自分に家の正統が舞い込んできたときは苦労をした。ロベールもそうなると分かっていれば、先に手を打っておきたいとも思う」「ご理解いただき恐悦です、父上」「……というか、お前は平気なのか? ウード。男としては既に死に、命数も少なく、その上で廃嫡されれば、その後どうしようというのだ」 この質問をウードは待っていたのだ。 廃嫡され、貴族ではなくなったウードがどうするのか。 それを示さなくては、やがてロベールとウードの間で正統を巡ってお家騒動だなんてことにも成りかねない。 周囲の家臣も耳をそばだてる。「1つだけお願いを聞いて頂きたく思います。先の短い私へのせめてもの手向けとして」「無茶なものでなければ、な。言ってみろ」 ウードは礼をして、続ける。「ありがたき幸せ。 私は廃嫡された後、現在伯爵家の支援の元で活動しているアトラナート商会の会頭になることが内定しております。 今後は商人として、シャンリット領について、私の命があるうちは貢献いたします」 どよめきが周囲の者から漏れる。 ――だが、それは、それでは、何も現状と変わらない――。 もともとウードが勝手に人を集めて街を作り商品を用意し準備万端整ったところでアトラナート商会は発足したのだ。 どんな奇術を使ったのか分からないが、教育を受けた人材と新商品をこれでもかと引っ提げて、彼らは数年のうちにシャンリット領の流通と情報と金融を掌握してしまっている。 その商会のオーナーがウードであることはもはや公然の秘密であり、廃嫡後にその会頭に納まっとしても、それは名が実に追いついただけのこと。「そして、街を作ろうと思います。私が生きた証に。 今あるダレニエ村を更に発展させたものと、もう1つ」 生きた証に。 ウードが冷静に自分の死を見つめていることを感じ取って、ざわめいていた広間の温度が下がる。 あるいは、ウードが纏っている妄執が、その怨念の如きオーラが作用したのかも知れなかった。「アーカム。 もう1つの街は、そう名付けようと思います」 アイレムでもナコタスでも何でも良かったんですがね、と、ウードは呟いて続ける。 その手にはいつの間にか書類が握られている。 そしてこの場の参加者たちの前にも、同じ書類が一式、レビテーションによって浮遊している。 ウードは瞬時に空気中の二酸化炭素などから『錬金』したシート上に文字を浮き上がらせた事業計画書を右手の義手に掴み説明を行う。「街というのか、或いはシステム、機構と言えば良いのか。 題して、シャンリット領学術都市化計画。 ハルケギニア中の知識を吸い上げるための、システムです」 いつの間にかロベールの誕生会は、ウードによる事業説明の場になっていた。 確かにシャンリット家の当主を始め、主要な幹部が一同に会しているこの場は、説明にうってつけではある。「教会は押さえていますから、領内で蠕動させる分には異端だの何だのは言われないはずです。 今後、領内の平民に対する教育を、アトラナート商会主導で更に高度なものにします。 そして、今後10年掛けて学術研究・開発に特化した街を建設し、アトラナート商会資本のハルケギニア初の総合私立学院を開設することで、第一次計画を完了とします。 第二次、第三次計画もありますが、こちらは適宜修正を加えつつ、アトラナート商会とシャンリット家で協力して私の遺志を継ぐものが事に当たるでしょう」 ザッと、一同を見回して、彼は、ウード・ド・シャンリットは宣言する。「私は死ぬでしょう。 ですが、私の妄執は形となって残り続けます。 その妄執こそが学術中心都市“アーカム”とその中枢たる“私立ミスカトニック学院”。 この世界の全てを解剖し、解析し、統合して理解するための、私の分身たるシステム。 それを創り上げる許可を協力を頂きたいのです。父上、フィリップ・ド・シャンリット伯爵!」 ごくり、と息を呑んだのは、一体誰だったのか。 静寂。誰もが次の言葉を待っている。フィリップの言葉を。「~~っ! 良かろう、ウード・ド・シャンリット。 シャンリット家は、その学術都市化計画を受け入れよう。全ての知識がこの土地に蒐まるように! だが、この計画書のまま受け入れるわけには行かない。専門の者を交えて検討する必要がある」「はっ、ありがたき幸せ」 そして直ぐに皆が慌しく動き出す。 必要な法律の整備、都市計画、今後の税収予測、人口動態など調べなければいけないことは多い。 だが実は、必要なデータは既に、アトラナート商会が調査し、準備している。 蜘蛛の手は長い。この領地のことは既に、土地の測量や人口、職業の分布まで調査が済んでいる。 更に言えば、事業計画書も、領地の老役人や商人の死体から記憶を引き継いだゴブリンたちが作ったものであるため、問題はないだろう。「ちなみに、ウード。もし俺が断っていたら、お前はどうするつもりだった?」「空中触手騎士団を呼びつける、と、恫喝したかも知れませんね。あるいは商会の活動をサボタージュさせるとか脅したかも」「酷い奴だな、お前」「いえ、きっと子供に甘い父上なら見過ごしてくれると思ってましたから。何にせよシャンリット領が発展することに変わりはないのですから。しかも殆ど伯爵家から持ち出しは無しに。こんなおいしい話はないでしょう」 全部が全部、アトラナート商会が行うというのだから、領地が発展すればシャンリット家は丸儲けである。 実際に、商会が本拠地を置いているというダレニエ村は5年少々の間に廃村から完全に復興し、今では農業その他産業の研究開発の中心地である。 そこから上がる税収も今やシャンリット領の運営には欠かせなくなっている。 ウードがシャンリット家に要求している事は、法律の制定に便宜を図れ、規制は緩和しろということだ。「まあな。ダレニエ村――いやダレニエ市か、既に、人口規模的には。 ダレニエ市からのバロメッツの肉や生花、農作物の新品種、その他の日用品、カメラのような光学精密機器、タイプライターや電卓のような精密機器などなどは、税収やシャンリット領全体の発展に大いに寄与している。 一旦何か新商品を開発したと思えば、領内の他の商会や工房、農家に積極的に技術支援をしてさっさとその生産を任せてしまうから、他の村や街もダレニエ市に引き上げられるように発展しつつある。 まるで開発のみがその楽しみだとでも言うように、アトラナート商会の者たちは研究成果を投げ捨てていく」 それが何故なのか分からないと、首を捻りながら伯爵は言う。 そしてそんな利益も出ないような経営なのに、未だに倒産していないのが全く不思議である。 まるで彼らは、金の生る木でも持っているかのようだった。「くふふ、アトラナート商会の人員は皆、飽きっぽいんですよ、父上。 私と同じように。生き急いでいるんです。だから、常に新しいことをしていないと心が満たされないんです。 一回開発したものは、もう要らないんです。だから、売るのも作るのも、みんなみんな他のヒトに任せたいんですよ」 さあこれから忙しくなる、とウードは自分の黒羅紗のマントを翻して広間を後にする。「人間社会の知識はアーカムが蒐集する。ゴブリンたちは、地下に宇宙に退避退散。くふふ、ああ忙しい忙しい。でも、全くもって悪くない。くふふふふ」 彼は上機嫌だった。この上なく上機嫌だった。◆ その後の動きは慌ただしかった。 シャンリットから出ることが少なかったシャンリット伯爵夫妻は、政府への根回しのために王都の別邸に詰めて社交界に出入するようになった。 そういった社交の末に、先ずはメイリーンの婚約者が決まり、次にロベールの婚約者も決まった。 両方共にシャンリット領からは遠く離れた土地を治める貴族である。 メイリーンの婚約者の家は野心的な貴族であり、アトラナート商会の利権と持参金目当てであるようだ。 年の頃はメイリーンより1つ上で嫡男だ。婚約者の彼が、パーティで見かけたメイリーンの美貌に惚れ込んだのが縁談の切っ掛けのようだ。 メイリーン自身はウードの“もげた”発言から不抜けて上の空であったが……。「もげたなら生やす薬を作れば……」とかいう呟きを侍女が聞いたとかいう噂もあるが不確定である。 ロベールの婚約者は、クルーズ領というガリアとの国境を治める領地の次女である。 クルーズ伯爵とシャンリット伯爵フィリップは、使い魔の話題で意気投合し、この縁談がまとまる運びとなった。 クルーズ伯爵の使い魔はジャイアントスコーピオンであり、やはりシャンリット家と同様に代々昆虫系の使い魔に縁があるそうだ。 クルーズ伯爵令嬢は禁書マニアであり、アトラナート商会の出版した種々様々な発禁本を集めるうちにシャンリット家のファンとなったらしい。 じゃあ年も近いし、当主同士の気も合うし、ロベールと婚約させるか、という運びになったとか。 ウードには婚約者は居なかったから、廃嫡云々で縁談が無くなるということもなかった。 実はウードが幼いときにはシャンリット領の近所でウードの婚約者になってくれる娘さんを探していたそうだが、その際は相手が見つからなかったらしい。 シャンリットの付近の家の貴族は公爵家に睨まれているシャンリット家と縁戚になってとばっちりを受けるのが怖くて、婚約者探しの際には全く乗ってこなかったそうだ。 そんなに警戒しなくともいいのに、というのは酷な話か。 そこに追い打ちをかけたのが、ウードが11~12歳の時の幻獣大移動だ。 〈黒糸〉から発せられる何を嫌ったのか知らないが、シャンリット領内の幻獣達が次々と周辺に縄張を移していったのだ。 周辺の領は田畑や村落を荒らされ、それによってシャンリット家に対する周辺貴族の感情は更に悪化。 さらに少なくない数の周辺領の領民が荒らされた土地を捨てて、豊かになりつつありなおかつ税率を下げたシャンリット領に流入でますます悪化。 その後、アトラナート商会の台頭で勢いが盛んになると、今度は乗っ取りを恐れてか周辺の家との対立がもっと深まってしまった。 逆に領地が離れていると乗っ取りの危惧とか幻獣移動の被害はないため、アトラナート商会の当世風な流行の品の数々とそれが生み出す利権の方が大きく見えたのだろう。 辺境の貴族たちとシャンリット家が姻戚関係を結ぶことになったのは、そんな背景があってのことだ。 もちろん、相続権は失っているとは言え、ウードたちの母であるエリーゼは公爵家という尊い血筋の出なので、その魔法的に濃い血筋を狙ってということもあるだろう。 母エリーゼの実家の公爵家(ウードの親友ジャン=マルク・ドラクロワの主家筋)とメイリーンやロベールの婚約者の家は派閥的に対立関係にあるらしい。 そういった派閥力学も働いての縁談のようだ。 アトラナート商会はウードの母方の公爵家とは対立路線を取っているというわけではないが、向こうからは歓迎されていないからあまり進出していない。 逆にクルーズ伯爵家の方からは商会に対して熱烈にラブコールがあったため、シャンリット伯爵領内と同様に各村への進出やそれに伴う商会員の手による教育なども実施している。 シャンリット領内では各村落にて行っていた教育(青空教室)を強化している。 禁書確定な内容の本をのさばらせているとか、信仰を否定するような教育をしているとかいう噂を聞きつけて、時々ロマリア本国から密偵が来たりしている。 だがロマリアからの密偵はゴブリンたちが引っ捕まえて人面樹に食わせた後に、ガーゴイルに置き換えて送り返している。 何気にロマリア本国への侵食率は徐々に上昇中である。 まあそんな訳で、管区長の報告でも密偵の報告でも(全てガーゴイルに置換済みなので)問題なしとなっているので、ロマリア本国も怪しいなと思いつつシャンリット家には手を出せない状態らしい。 アトラナート商会に厳重注意が来るくらいである。 念には念を入れて、密偵やらアトラナート商会にたかりに来た悪徳神官連中をガーゴイルに置き換えて、それらを中心にロマリア本国で派閥を形成して主流派へ派閥闘争を仕掛けている。 もちろん、その派閥――正式な名称はないが、『アトラナート派』と呼ばれている――にはアトラナート商会からたっぷり寄付を行っている。 現在ではガーゴイルに置き換えられた神官以外にも、普通の神官でもアトラナート派の金回りの良さに惹かれて派閥に加わるようになっている。◆ ハルケギニアの文化圏で、空港といえば何を指すかといえば、それは塔である。 巨大な石造りの塔や天高く聳える世界樹の残骸。それが、空を飛ぶフネを迎えて送り出す玄関口なのだ。「建築は順調か」「おやウード様。これは珍しい」 花畑と肉の生る樹の林に囲まれた土地、ダレニエ市――蜘蛛の城下町。 この街は他の街とは全く違う様相をみせている。 先ずはそこにある建物の高さが、まるで違う。 地上300メイルまで伸びた建物が林立し、そこは人工の渓谷のようになっている。 それぞれの建物は1つとして同じものはない。 それは建造物の構造についての様々な試行錯誤の跡であるからだ。 理論を実践するためや新素材を検証するために、何度も建物は造られては崩され、あるいは補修する際の理論を確認するために態と劣化させられては補修される。 ダレニエ市では常に何処かで工事が行われている。1ヶ月もしないうちに街並みは一変していく。 今ある高層建築群も、ほとんどが半年以内に建てられたものであるし、また半年以内に破壊されるだろう。 或いは、ある建物に誰か買い手が着けば、その建物ごと厖大な量の風石を用いて、浮かして移動させられるかもしれない。 過去にはそうやって他の領に移設された建物もある。 そのダレニエ市(蜘蛛の街)で、現在最もアツイ建造物が、今回ウードが視察に訪れた建物だ。 全長1000メイルに迫る巨大建造物。 用途は空港、及びフネの開発・メンテナンスのためのドックである。「ふうん、まあ9割近くは完成しているみたいだな」「はい。まあ、外側の箱だけですが」「中身は別の所で作っているのだろう? ラボで使う開発機器などは運びこむだけじゃないか」「まあそれはそうなのですが」 その空港塔は幾つもの天秤量りを互い違いに積み重ねたような形になっていた。 緩やかな弧を描くアーチ状の腕が、中心となる巨大な柱から何本も付き出している。 それぞれのアーチの先にはフネを吊り下げたり、補修するためのドックが取り付けられている。 中心柱から出るアーチは何本もあり、果実が枝先について緩く撓った樹の枝のようにも見える。 この建造物は謂わば人工の世界樹なのである。 ウードと、この場の工事責任者かつ設計者の風メイジはその世界樹の頂上最先端部分で話をしている。 さて、人工世界樹や、その周囲の無数の墓標のような高層建築は、どこからその材料を供給されているのだろうか。 それは地下からである。 と言っても、ダレニエ市の地下からではない。 ここからは少し離れた場所、学術研究都市アーカムの建設予定地の地下からである。 アーカム建造予定地の地下数千メイルの場所に、ゴブリンたちの新しい街が造られているのだ。 地底都市の第1号、その建造のために繰り抜かれた岩盤を地上に運び、地上にて『錬金』の魔法で元素変換・形状加工をして建材とするのだ。 土砂の移送には〈ゲートの鏡〉のレプリカを用いている。 アーカムの地下とダレニエ市の建材置き場を直通で繋ぐ、巨大な〈ゲートの鏡〉。 ようやく〈ゲートの鏡〉のレプリカを作ることが出来るようになったのだ。「しかしこの空港もいつかは破壊されるのでしょうか」「まあな。壊すために造っているようなものだからな」「そうですよね。聞いた私が馬鹿でした」 責任者の男は肩を落とす。 建築家なのに、自らが作った作品が形に残らない、というのは非常に悲しいのだろう。 アーカムの地下から土砂を持ってきていると述べたが、勿論、ダレニエ市の地下も拡張されている。 こちらは地下50メイル以内を開発しており、軌条を走る水平移動装置や垂直に人や貨物を運ぶエレベータによって縦横無尽に結ばれている。 地上部と異なり、ダレニエ市の地下部は補修改装はされるものの、基本的には変化のない安定した街並みになっている。 多くの人は地下部に生活基盤を持ち、昼間は地上部の建築現場、オフィスや農場に働きに行くという生活を送っている。 この責任者の男もダレニエ市の地下に住んでいるから、この街の移り変わりはずっと見てきている。 今造っている空港塔が壊されるのも、仕方ないと諦めている部分はある。 現に今までにもこの責任者の男が設計した高層建築は作っては壊されというのを繰り返されている。 中には、要点に一撃を加えれば内側へと崩壊するような建築を、と完成したそばから崩すのを前提とした建物もあったくらいだ。「じゃあ、私はまた別の場所へ行かなくてはならないから、お暇するよ」「はい。あ、次にもっと高い建築物を作るときには、また私にお声がけ下さい」「勿論だよ。ここで積んだ経験を更に活かして欲しいからね」 ウードは地上1000メイルの尖塔から身を投げる。 出来ればあなたの死後にあなたの経験をゴブリンたちの人面樹に食わせたいんだが、とウードは耳の良い風メイジの工事責任者に聞こえないように心の中で呟く。 逆さまに落下するウードの目にダレニエ市の様子が映る。 遠くの森、バロメッツの林、蜜や香水のための色とりどりの花畑、無数の墓標のような高層建築と、その間に植えられた植物たち、唯一姿を変えていないシャンリット家の城砦、道を行く人々。 轟々と鳴る風切り音を『サイレント』でカット。乱流を制御された影響で、空気抵抗が減って、若干落下速度が上がる。 致命的な高度になる前に、ウードは『フライ』で姿勢を立て直す。 逆さまの視界がぐらりと回って正立に戻る。 落下の勢いのままに人工世界樹を尻目にウードは建材置き場へと向きを変える。 この後は、アトラク=ナクアの神官としてひと仕事しなくてはいけないのだ。 向かう場所はダレニエ市の建材置き場から繋がっている、アーカム建設予定地の地下である。◆ ウードは地下に来ていた。 地下数千メイル。 地熱で熱湯のような温度に熱せられるはずのそこは、意外にも快適な温度を保っていた。 熱を持った壁との間に風の魔法で真空の断熱層が作ってあるのだ。 ここは半径数千メイルの球を半ばから割って間に高さ数百メイルの円柱を入れたような、カプセルのようなカタチの空間であった。 その一番標高が低い場所。球の下半分の一番下の場所。 ウードが立っているのはそこへ向かう長大な通路だった。 ウードは常とは異なり、その異形の両腕を隠しもしていない。 手首から二股に別れた全体に歪な右腕。肘から先は蜘蛛の脚となった左腕。 更に言えば何も纏っていない。全裸。あちこちが斑に昆虫のように硬質化している。 右脇腹は大きく抉れ、右の首筋からは蜘蛛の上顎にあたるであろう甲殻が生えている。「ウード様、祭壇を用意しております」 そのウードを案内するのは、やはり何も纏っていないゴブリンメイジ。 薄明かりで分かりづらいが整った幼い顔立ちをしており、100サントばかりの身長で、足元まで届くような長い真紅の髪を流れるままにしている。 その手には、何か仮面らしきものを恭しく持っている。何かの樹脂で出来ているような軽くて丈夫そうな仮面だ。 彼らはこの地底にアトラク=ナクアの神殿を建てるために、その建立の儀式をしに此処へ来たのだ。 緩やかに湾曲した通路は壁や床など全てが絹糸――スパイダーシルクに覆われていて、柔らかな感触を返してくる。 通路は長く長く続いておりその先が見通せない。目的地までは随分と歩く必要がありそうだ。 この空間を絹糸越しに照らしているのは、試験的に運用されているLEDである。 電力はこの地底空間の壁から滲み出る水を用いた水力発電や、地上の様々な場所に建造している〈偽・ユグドラシル〉という巨大樹木型のカーボンナノチューブ素子による太陽光発電によって賄っている。 風石がいくら自然に増加するものだとは言え埋蔵資源は何時枯渇するか分からないので、太陽光発電などによる発電力の利用も並行して進めているのだ。 それに〈黒糸〉を構成するカーボンナノチューブの特性と研究の結果、太陽光発電素子や超伝導電線への応用もそこそこ簡単であったという事情もある。 太陽光発電は、全高1000メイルに達しようかという巨大な樹のようなもの――名称〈偽・ユグドラシル〉によって行われる。 〈偽・ユグドラシル〉はその高さに合った巨大な幹と、大きく広がる枝、そしてそこから無数に葉のように繁る羽毛型の発電用カーボンナノチューブによって構成される。 余さず光を吸収して、熱エネルギーのロスを発生させずに全て電気エネルギーに変換するため、その羽毛のような発電素子は漆黒の色合いだが過熱することはなく、ヒートアイランド現象を起こしたりしないため周辺への影響は抑えられている。 地下は巨体を支える根が広がっており、根から伸びる超伝導状態の〈黒糸〉を通じて各地の地底都市に電力を供給するようになる予定だ。 〈偽・ユグドラシル〉は世界各地の沙漠地帯や山頂などの不毛地帯、あるいは大洋の真ん中などに千数百本は建造しており、世界中の地底都市のエネルギーを補って余りある量のエネルギーを生産可能だと計算されている。 さらに〈偽・ユグドラシル〉の生えている場所が沙漠ならば、それによって生じる日陰と湿気の滞留を利用して沙漠の緑化を行ったりしている。 地下都市と〈偽・ユグドラシル〉の組み合わせならば、月や他の惑星にも生息圏を広げられるかも知れないということで、この二つを組み合わせたテラフォーミングの研究もされている。 現在進行中のプロジェクトはこれの第一段階として〈ゲートの鏡〉を双子月に運び込むというものだ。 その後は運び込んだ〈ゲートの鏡〉を通じて〈黒糸〉を月に伸展させるという計画になっている。 現在のゴブリンメイジの集落の運営には電気エネルギーと共に〈黒糸〉経由の風石の魔力に頼っている。 他の星をテラフォーミングする際にも風石や水精霊の涙は欠かせないだろう。 研究の結果、水精霊の涙は光と水と栄養があれば、植物の生産物として蜜のように作れるようになったが風石はそうはいかない。 だが、欲を言えば風石も水精霊の涙も太陽光発電した電力から直接工業的に作成出来るようにしたい、と研究が進められている。 太陽光発電では昼夜で出力にムラが出来るし、それを均一化したり蓄積しておくためのギミックとしても電力を精霊石へ変換するのは有効だろう。 その為に、風石の構造や地下での自然発生機構についてや、水精霊の涙を溜め込む植物のその生成機構についてゴブリンたちは研究を行っている。 また、エルフが操る先住魔法による精霊力の結晶の作り方をエルフから『読心』の魔法で読み取ったり、電子を『錬金』する魔道具を作ってその回路の逆転によって電流を魔力に変換出来ないかといった研究を行っている。 それらと並行して赤道直下の〈偽・ユグドラシル〉の頂点から『レビテーション』で重量を誤魔化しながらアンカーを飛ばして徐々に〈黒糸〉を上空に伸ばして軌道エレベータの足がかりにするという実験も行っている。 当然、ロケットによる宇宙進出の実験も行っており、様々な面から月や静止衛星軌道への進出が図られている。 地上から宇宙へと、ゴブリンたちの狂わしい好奇心は、その捌け口を求めたのである。 他の惑星を調査し、他の恒星系を観測し、遙か宇宙の深淵を覗き、遠宇宙より飛来するものを捕え、銀の鍵の門を抜けて過去と未来を解剖し、アザトースに伏して許しを請いてその原初の混沌の知識を掠め取り、ウボ=サスラから生命の根源の秘技を得なくてはならない。 宇宙の神秘を知るためには、物理的な手法だけではなくて、もっと悍ましい秘術を用いなくてはならないだろう。 閑話休題。 そうこうしている内に、ウードと赤髪のゴブリンは地底空間の底に辿り着いたようだ。「ほう」 思わず、といった様子でウードが感嘆の声を漏らす。 その前に広がっていたのは、鬱蒼とした林であった。 100メイル余りの直径の円盤型の空間に、所狭しと木々が生えている。 しかし、ただの林では無い。 この林は、狂気の林である。 林の木々を構成するのは、人面樹だ。 その内に蓄えた狂った遺志を反映してか、その枝々はあらぬ方向に伸び、互いに絡み合い、融合している。 所々に人の頭が生っており、おおおぉぉんと虚ろな叫びを挙げている。 ゴブリンたちは人面樹に死者の記憶を蓄える。 そして、死者の記憶がマトモな訳が無いのだ。 生きていた時から狂っていたものも居るだろうし、死の際に狂っていったものも居るだろう。 そういった狂った意識の狂った部分のみを集めた人面樹というのが、全体の人面樹群を健全に保つためには必要である。要は狂気の掃き溜めだ。 この場に集められているのは、狂った意識を蓄えた人面樹たちなのだ。 そして、ウードを案内したゴブリンは、狂える人面樹を管理する使命を帯びたゴブリンの一族の一人なのだ。 人面樹を使い魔として記憶を蒐集し司る〈レゴソフィア〉氏族の中でも、最も狂っていて、それ故に最も神に、アトラク=ナクアに近しい一族だ。 呻きを挙げる生首の実が吊り下がる中を、ウードとレゴソフィア氏族の者は進む。 おおおぉぉん。 ――うをぉおおおん。 あああぁぁぁ――。 気狂いの遺志が満ちる中を二人は黙々と進む。 マトモな精神の持ち主ならば一秒だって耐えられないような、狂気が形を持つほどに充ち満ちた中を、狂気を吸い込んで進む。 反響する聲の中を、その中心に向かってただ進む。 さんざめく木々の枝は、邪教の神官であるウードの到来を心待ちにしていたかのようだ。 遂に二人は――邪神の祭司と巫女は狂気の林を抜け、地下空間の中央の最も濃く邪悪な気配が蟠った場所に到着した。 その場には蜘蛛の脚を組み合わせた簡素な鼎が置いてある。 蜘蛛の脚は、黒と紫の縞模様である。ウードの左腕と同じものだ。 先日何度も移植し直しては、その都度蜘蛛の脚へと変容していった、ウードの左腕の残骸を利用した鼎である。 鼎のみが置かれた簡素な祭壇に紅髪の少女は、ここまで捧げ持ってきた無表情の仮面を慎重に、ゆっくりと、祈りを込めて置く。 それを見届けて、ウードは跪き、祝詞を捧げる。「いあ いあ あとらっくなちゃ」 瞬間。 静寂。 今まで好き勝手に怖気立つ呻きを挙げていた人面樹たちが、一斉に口を噤む。 しん。と静寂が満ちる。 だがその空気は欠片の神聖さも孕まない。 より邪悪な気配が満ちる。 悍ましいモノがこの場を満たす。「とぅぐじいふす ふんじいすく ふんくすふ るくとぅうす ん・かい・い」 ウードの、蜘蛛の祭司の祝詞に従って、一斉に周囲の人面樹が詠唱する。 低い声で。 高い声で。「いいぐうるうるぅ いいぐるぁああ」 人の声で。 獣の声で。「ん・かい・い あとらっくなちゃ うがふなぐる ふたぐん」 囁き声で 叫び声で。「ほおる・うふる てぃぎい・いり・り いいぐるぅ」 この世の声で。 声ならぬ声で。「いあ いあ あとらっくなちゃ」 詠唱が空間に飽和し、深淵の蜘蛛神を賛頌して、また静寂。 しん、とした空気の中、今にも張り裂けて溢れ出しそうな邪悪な気配の中をウードは仮面の下へと歩く。 その仮面は、表情を変えていた。 無表情から、猜疑と好奇の入り交じった表情へと歪んでいた。 この仮面は、数年前にウードの右肺を根こそぎにして変異した大顎から削り出したものだ。 仮面には神が宿る。 能狂言の仮面然り。原住民が崇める仮面然り。 ヒトならざる者である神を表すためにヒトは仮面を作り出したのだ。 今、祭司と巫女と狂ったモノたちの詠唱を受けて、おそらく仮面に蜘蛛の神が降ろされたのだ。 神の力が宿った仮面を持ち上げ、ウードは自分の顔へとそれを導く。 仮面を着けた所でウードは意識を失う。 しかしその身体は動きを止めない。 ゆらり、ゆらりと、仮面に導かれて儀式は続く。 周囲の木々に吊られた生首は再び十重二十重に詠唱を始め、紅髪の巫女はウードと共に舞い踊り、一心に祈りを捧げる。 人面樹群に真白い絹糸が何処からとも無く絡みつき、儀式場を覆っていく。 もはや正気は駆逐され、異界の理に侵されていく。 邪教の神殿の、その礎を聖別する儀式が人知れず進んでいく。==========================================メイリーンは13歳。ロベールは5歳。ロベールにプレゼントしたイリスは全長5メートルほど。普通にロベールを乗せて飛べる。2010.07.21 初投稿2010.08.17 誤字修正2010.10.15 修正 改訂しているうちにだんだん違う話になってるけど、本筋の流れは変わりません。あとホントにアレがもげた主人公はなかなか居ないんじゃないかと思ったり