ハルケギニアが存在している惑星は、この惑星が存在する太陽系の第3惑星である。 ハルケギニア太陽系の構成は、ウードの前世の太陽系とあまり差は無い。 小さな水星、ガスに覆われた金星、地球に当たるハルケギニア星、火星の4つの岩石系の惑星。 そして木星、土星、天王星、海王星にあたるガス状惑星。 火星と木星の間には、小惑星帯が広がっている。 海王星より遠くには氷や岩石で出来た準惑星や彗星が存在する。 地球に相似のハルケギニア星だが、魔法が存在したりなど地球とは様々な差異がある。 衛星の数も、その違いの一つである。 地球には銀色の月が一つ。 対してハルケギニア星には蒼い月と紅い月の二つの衛星がある。 月から見えるハルケギニア星は地球と同じように青い宝石のように見える。「蒼月よ! 私は、今、お前を! 蹂躙しているんですぞー!」 その蒼月の上に宇宙服を着たゴブリンが居る。 霜柱を踏み躙って、彼は月面に立っていた。 哄笑する彼の背後では見る見るうちに黒い悍ましい大樹が伸びていっている。 彼の頭上には紅月。地平線の向こうには青いハルケギニア星。 黒い急成長する大樹を背後に惑星を見下ろす彼は、まるで魔王のようだった。 伸びている黒い大樹はカーボンナノチューブ太陽光発電素子の集合体で、名前を〈偽・ユグドラシル〉という。 羽毛状の構造の発電素子がフラクタル的に大きくなっていく樹を模した構造体である。 〈偽・ユグドラシル〉の葉はその表面に受けた光子を余すこと無く電気的エネルギーへと変換し、発電した電力は“電力-魔力変換回路”によって魔力に変えられ、その魔力を用いて〈偽・ユグドラシル〉は周囲の質量を『錬金』しながら伸長していく。 “電力-魔力変換回路”とは、ゴブリンたちの、ここ数年のうちの最も大きな発明である。 基本的には“電子を『錬金』する”魔道具の回路逆転によって実現されたものである。 この回路の実現によって、ハルケギニア星の地下の風石が枯渇するのを恐れずとも済むようになったのだ。 さらにはこの蒼月のように風石が存在しない場所でも、宇宙船に搭載した少量の風石を呼び水に太陽光発電樹〈偽・ユグドラシル〉を作り、その電力から魔力を取り出して本当の樹のように光合成的に成長させられるようになったのだ。 〈偽・ユグドラシル〉が齎す電気的及び魔術的なエネルギーがを用いれば、地下に巨大な空間を確保し都市を作り運営することも可能である。 ゴブリンたちは、ハルケギニア星から隔たった場所にその領土を広げる技術を手に入れたのだ。 その時、哄笑するゴブリンの宇宙服の内部の通信機が電波を受信し、スピーカが鳴動した。「おい、いい加減に作業始めろ! 滞ってるんだよ!」 黒い大樹の根元で哄笑していたゴブリンの背後から、宇宙服に内蔵された無線のスピーカを通じたツッコミと共に『土弾(ブレット)』の魔法が突き刺さる。 そして『土弾』は笑っていたゴブリンの宇宙服を破って穴を開ける。「ふぉ?」 間抜けな言葉と共に、哄笑していたゴブリンの男の宇宙服からぷしゅっと空気が漏れ出る。 その漏れ出る空気の反動で笑っていたゴブリンが姿勢を崩す。「頭冷やせ、エドモン・シジェム・ウェッブ。まあ、ゴブリンの中で初めて月にやって来たんだから興奮する気持ちは分かるが」 笑っていたゴブリン――エドモン・シジェム・ウェッブの背後から這うようにして現れたのは、やはり宇宙服を着たゴブリンであった。 今現れた方のゴブリンが何故這いつくばっているかというと、彼が通り抜けてきた〈ゲートの鏡〉がギリギリ這いつくばってやっと通れるくらいの大きさしか無いからである。 一方、宇宙服に穴を開けられたゴブリン、エドモンの方は急減圧に対処するのに死にそうになっていた。「――っ! っ!」 何とか『錬金』の魔法が発動し、宇宙服に開いていた穴が塞がる。 急いでさらに宇宙服内に空気を『錬金』し、人心地つく。「おい! レイモン! 危ねえじゃねえですか! 死ぬところだったですぞ!」「何、ちゃんと頭部は回収しといてやるから安心して死んでおけ。蒼月から見た景色の記憶は皆欲しがっているからな。〈レゴソフィア〉の連中なんか『早く死なねえかな』ってホントに言ってたぞ」「非道いですぞ! なんて事を言うんですか! どうせ殺すならもっと蒼月を堪能してからのほうがお得で良いですぞ!」 若干突っ込み所がずれている気がしてならない。 死んでも頭が無事なら記憶を引き継いでコンティニューできるので、ゴブリンたちは死に対する忌避感は薄いという事情はあるのだが。 それはさておき、遂にゴブリンたちは宇宙進出を成し遂げたのである。 ロケットなんて上等なものでなく、電磁投射機によって〈ゲートの鏡〉と衝撃吸収材を詰め込んだ弾頭(『レビテーション』で重量軽減済み)を月に打ち込む方法によって。 数打ちゃ当たる方式である。 月に当たらずに外れたものも多いが、それはそれで内蔵された〈ゲートの鏡〉経由で、『宇宙空間を飛行しながら宇宙船を建造する』という暴挙によって宇宙開発の最前線基地へとあっという間に変貌してしまった。「まあ、それは良いから。さっさと〈偽・ユグドラシル〉をハルケギニア星の〈黒糸〉と連結しろよ。そうじゃなきゃ仕事進まねえから。今のままだとラインが細すぎる。現行のラインを保ったまま増強するのは〈ウェッブ〉氏族のお前にしか出来ないんだから」 よっこいしょ、と後から出てきたレイモンはさらに〈ゲートの鏡〉から何かを取り出そうとする。 最初に彼らが通り抜けてきた〈ゲートの鏡〉は50サント四方程度。 今、レイモンが取り出しているのは、その〈ゲートの鏡〉の対角線ほどの長さの板状の物体――鏡であった。「と言っても、レイモン、もっと大きな〈鏡〉を設置してからの方が良いんじゃないですか? どうせまた大規模〈ゲート〉の方経由で繋ぎ直すんでありましょうに?」「いや、それが皆、一分一秒でも早くデータが欲しいらしいからさっさと回線増強しろ、とさ。だというのにお前はトリップしっぱなしで……」「あーあー。了解了解、りょーかーい。さっさと繋ぐでありますぞ、サー」「頼んだぞー」 レイモンはエドモンと会話しつつ〈鏡〉を引っ張り出し続ける。 ズルズルと5メイルほどもレイモンは自分が出てきた〈ゲート〉から〈鏡〉を引き摺り出し、それを『念力』で縦に立てる。 幅70サントほど、高さ5メイルの細長い〈ゲートの鏡〉が月面に屹立する。 〈ゲートの鏡〉を設置するレイモンを尻目に、エドモンも自分の作業を行う。「じゃあ、さっさと〈偽・ユグドラシル〉と〈黒糸〉を接続しますですぞー」「おーおー。頼むぞ。しっかしホントに氷ばっかりなのな。月光のスペクトル解析から分かってたことではあるが、蒼月の色の由来は氷――H2Oなのか。日中は溶けるだろうに、陽の光が当たっても溶けてないってことは何か地下に冷却装置でもあるのかね」「それを調べるための今回の派遣でしょうに? そんじゃ、『錬金』ですぞ!」 トリガーワードと共に、エドモンの宇宙服の足元からカーボンナノチューブを束ねた太くて黒い綱が土壌から『錬金』され、蛇のようにうねりながら最初に彼らが出てきた方の小さな〈ゲート〉へと突き刺さる。 エドモンが『錬金』した〈黒糸〉のもう一端も月面を這うように伸びて、月面で絶賛成長中の〈偽・ユグドラシル〉の根元に融合する。 ゲートに突き刺さった方の一端は、今頃ハルケギニア側の気密室に待機していた〈ウェッブ〉氏族(〈黒糸〉の運用を専門とする氏族)がハルケギニア星中に根を張っている〈黒糸〉と繋げようとしている最中であろう。 〈黒糸〉の上を流れる情報の渦を脳裏で監視しつつ、エドモン・ウェッブは接続作業を続行する。 一方、縦長の〈ゲートの鏡〉を設置しているレイモンの方も作業を続けていた。 設置した〈ゲートの鏡〉に魔力を流して起動させると、〈鏡〉の表面が銀色の靄に変化し、その縦長の〈ゲート〉の向こうから幾人かのゴブリンが現れる。 新しく現れたゴブリンたちは縦長の〈ゲート〉の前にそのまま陣取る。 そして彼らに続いて、レイモンが支える縦長の〈ゲート〉からやはり〈鏡〉が飛び出してくる。「オーライ、オーライ」 『念力』で浮かされた新しい〈鏡〉――今度は5メイル四方の大きさだ――は、先に月面に来ていたゴブリンたちによってやはり『念力』で受け止められ、設置される。 これでハルケギニア星と蒼月を繋ぐ〈ゲートの鏡〉が設置できた。 今後はここを起点にして蒼月開発を行うことになる。「よーし、〈黒糸〉接続完了ですぞー」「お疲れ様、エドモン。こっちも〈ゲートの鏡〉の運びこみ完了だ」「つまり、予備の回線をそっちの〈鏡〉からも引けってことでありますな? 了解了解、働きますですぞー」 エドモンは自分の体を〈念力〉で運んで新しい鏡の前に降り立つ。 そしてまた〈黒糸〉を〈ゲート〉の向こうと繋ぐ作業に取り掛かる。 かつてウードの『前世の世界』の宇宙開発においてネックとなったのは、厳しい重量制限によって限られた燃料と、遠隔地だからメンテナンス出来ないということだった。 しかし、このハルケギニア世界では、重量制限は『レビテーション』によって誤魔化せるし、〈ゲートの鏡〉によって遠隔地でも直接燃料補給だって保守だってそれどころか〈鏡〉経由でそれを核に宇宙船だって建造出来るという反則技が使えるので、宇宙開発に対するハードルが異様に低いのである。 今も、〈ゲートの鏡〉を積んだ弾頭を大気圏外に射出しては宇宙空間で船体を建造するという方法で火星その他の惑星や太陽圏外への調査を進めている。 様々な方向へと散り散りに飛んでいった宇宙探査船の位置の観測特定は、各地の〈偽・ユグドラシル〉を電波望遠鏡代わりにして行っている。 この電波望遠鏡のお陰で、遠宇宙の観測も進んでいる。 電波望遠鏡は直径が大きいほど分解能が上がり、遠くを観測出来るからだ。 数百リーグ半径で点々と設置している〈偽・ユグドラシル〉から得られる情報を〈黒糸〉の管制人格によって統合させることで、擬似的に半径数百リーグの電波望遠鏡を構成し、非常に高い分解能を実現しているのだ。 管制人格〈零号〉は仕事が増える度に、愚痴と弱音を言っている。 電波望遠鏡の管制だけでなく、その他にも学術都市で使用する予定のシンクライアント的魔法端末に対応する魔法的サーバ機能――魔法の才能が無い者でも端末から〈黒糸〉を通じて〈零号〉にアクセスすることで〈零号〉に魔法使用を代行させることが可能なシステム――の開発実装などを行っているのだが……。【もう無理、死ぬ、壊れる、勘弁してください、処理間に合いませんって、ホント、マジで、あああー……】 そうは言っているものの、〈零号〉は現在進行形で元の世界のムーアの法則も真っ青な速度で自己拡張と分散処理などを進めてるから問題ないだろう。 機械として進化しすぎてナイアールラトホテプの化身の一つ『チクタクマン』の依り代にされないかという懸念をウードは抱いているが、まあ、これは狂気に侵された人面樹を分析する〈レゴソフィア〉氏族が見つける深淵の真理や、クトーニアンたちから得る神話の知識を流用しないことには対策が難しいだろう。 大いなる邪神に目を着けられた時にどうするのか、というのが、俄に〈黒糸〉を発展させる上で課題として浮上してきている。 〈ゲートの鏡〉によって宇宙探査船と地上基地との間のやり取りをリアルタイムで行う方法では、〈ゲートの鏡〉が壊れた際に全てがおじゃんになってしまうという弱点がある。 勿論宇宙探査船には、予備の〈鏡〉は幾つも仕込んであるし、万一〈鏡〉が壊れた場合にも独立で行動可能なようにインテリジェンスアイテムや風石、電力-魔力変換回路などが詰め込まれている。 フェイルセーフは万全のはずである。それらの対策と共に並行して、〈ゲートの鏡〉の耐久性や表面積を向上させる研究もされている。「おい、エドモン。〈偽・ユグドラシル〉の根の方からデータ取得できるか?」「今接続作業中だからちょっとまっててほしいですぞー」「了解。ちょっと舞ってるわ」 言うやいなやレイモンは蒼い霜に覆われた月面から重力を中和させて地面を蹴って舞い上がり、周囲を見渡す。 彼方に見える月面の地平線はハルケギニア星のものより鋭く湾曲しており、ここが小さな衛星であることが分かる。 月面は日のあたるところも影の部分も氷河に覆われている。何処もかしこも霜が降り、巨大な氷柱が霜柱のように伸びては地面を持ち上げている。「大気が薄くて熱対流がないから、太陽光が当たるところは水も蒸発する温度になってるはずなんだが、何で氷が溶けないんだ?」 レイモンは重力に従って緩やかに下降し、再び月面に着陸する。 そこにエドモンが声を掛ける。どうやら彼の作業は終わったようだ。「まってろ、ってそういう意味じゃねーですぞ?」「茶目っ気だ。気にするな」「時々意味分かんねえ事しますよね、レイモンは。で、地下の様子を知りたいんですっけ」 地上に降りたレイモンとエドモンは細かな霜柱を折りながら歩みを進める。 向かう先は巨大な黒樹、〈偽・ユグドラシル〉の根元だ。「お前も気にならないか? 何で陽が当たっても氷が溶けないのか」「氷だけじゃないですぞ。所々に氷の柱に混じって何かの結晶みたいなものが生えてるのです」「おお? そうなのか?」 エドモンがそう言って軽く向こうを指さす。 大きく地面を持ち上げている氷の柱群の中に、若干屈折率が異なるのか、結晶同士の境になっている部分が見える。「んんー。言われてみれば氷の中に何となくそれっぽいのが見えるな」「他にも〈黒糸〉を『錬金』するときに地面に妙な結晶があったんですぞー」「ふぅん。何の結晶かは分からなかったのか?」「うーむ、〈水精霊の涙〉を固めた感じというか風石の純度が高いような感じというか。私の『錬金』も受け付けなかったし、正体不明ですぞ」 そうこう言っている間に〈偽・ユグドラシル〉の根元に辿り着く2人。「今のところ、地下100メイル半径で〈偽・ユグドラシル〉は根を張ってるんですぞ」「ふむ、接続しても大丈夫か?」「えーと、権限設定しますんで待ってほしいですぞ」 そう言ってエドモンは宇宙服からか細い糸を伸ばして〈偽・ユグドラシル〉の巨大な幹に接続する。「了解、舞ってる」「そのネタはもういいですぞ。――設定したんで繋いでもらって大丈夫ですぞ」 そのエドモンの言葉を受けてレイモンは宇宙服の袖口から、やはりか細い糸を伸ばす。 この月面に派遣されたゴブリンたちは、その体内に細いカーボンチューブの糸――〈黒糸〉と同じ素材の個人用の杖――をまるで根のように張り巡らせており、それを魔法を使う際の媒介としているのだ。 彼らが〈偽・ユグドラシル〉に伸ばしたものは、その体内の〈黒糸〉の杖を伸展させたものであり、〈偽・ユグドラシル〉を構成する素材とも同じものである。 レイモンは〈偽・ユグドラシル〉に自分の杖を伸ばして接続すると〈偽・ユグドラシル〉の根の広がり具合、地中の温度や地質などのデータを取得していく。 レイモンが先程設置した巨大な〈ゲートの鏡〉からは次々と月面調査および都市建設のための人材と機材が運び込まれている。 基地の建設は順調なようだ。 〈偽・ユグドラシル〉からデータを読み取ったレイモンが憮然として呟く。「……なんだここ」「どうしたんでありますか? 何かおかしな物でも――」「……さっきお前が言っていた結晶、あれあるだろ。あれが周りに沢山ある。そんでそれを中心にして温度が極端に下がってる。大きな結晶ほど温度降下が大きいみたいだな、中には絶対零度に近いのもある。地表や地底の氷は、水の氷だけじゃなくて二酸化炭素やなんかの結晶した氷もあるみたいだな」「温度が下がる結晶って、私聞いたことありますぞ」 レイモンとエドモンの二人は沈黙する。 彼らが思い出すのは、極限環境の探査に赴いた先人たちから受け継いだ記憶である。 月面を探索するに当たって、深海や極地の探検をしたゴブリンたちから還元された記憶を彼らは受け継いでいるのだ。 その中には南極の忌まわしい山脈へと探索に赴いたゴブリンたちの記憶も含まれている。「冷却作用が残るくらいに精神力――マジック・ポイントが蓄積されているなら、“古のもの”たちは彼らの家畜たちをまだ従えられているということか?」「もっと探索を進めないといけませんですぞ。この結晶装置があの原形質の“ショゴス”を隷属させるものなのかも、まだ確定ではないですぞ。大体、ショゴスも流石に月面では生きられないはずですぞ」「しかしこれだけ地表に氷が結晶しているなら、この蒼月の地底に海があってもおかしくない。そこの水分が地表で凝結してるのかも知れないし、地底湖があってショゴスもいるかも知れない」 急いで二人は現在建設中のベースへと飛んでいく。 空中で自らの身体に『念力』による加速度を与え続ける。「最悪なのは、これが“ショゴス”じゃなくて、もっととんでもないものを封じている場合だ。 余波だけで月面全体に霜を降らすくらいの量の結晶装置が必要だとすれば、一体どんな化物が封じられてるか見当もつかないぞ」「一番ありそうなのはこの蒼月が“古のもの”の結晶装置作成所で、“古のもの”が絶滅した後も装置を作り続けて溢れて月面を覆い尽くしたとかですぞ」 それが一番良いがね。でもきっと早々上手くことは運ばないですぞ。と、会話しつつも彼らは設営地に向かう。 さて、鬼が出るか蛇が出るか。 穢れたスライムが行く手を塞ぐのか、ヒトデが付いた樽が飛んでくるのか、はたまたもっと理解を超える何かが顕れるのか。 その時、宙を飛ぶ二人の通信機が電波を受信した。『おーい、こちら設営チーム。モンモンコンビ、応答願う』「モンモン?」『エド“モン”とレイ“モン”だから“モンモン”コンビ。って聞こえてるなー? このまま用件話すぞ。設営場所の地下に人工的な空間を発見した。このまま設営を続けると陥没するおそれがあるから場所を移す。そっちで確認された結晶装置を作る製造施設かも知れん。探査は現在土メイジが『ディテクトマジック』で行ってるが、結構大規模な遺跡みたいだ』「コンビ名については後で訂正を求めるとして。遺跡らしき地下空間と基地建設場所の変更については了解した。“古のもの”関連かも知れないから俺達が戻り次第探索チームを組んで基地設営と並行して探索を行う。地上の本部に応援は要請したか?」『応援は――今、応援要請が終わったところだ。“古のもの”に詳しい人材が良いよな?』 一瞬設営チームからの通信にノイズが混ざる。 地上本部と通信していたのだろう。「ああ、その方が良い。それと最悪の場合――何らかの事故で〈ゲートの鏡〉が全損した場合に備えて、人面樹と〈レゴソフィア〉氏族の派遣を頼む。こちらの受け入れ準備も急いでくれ。蒼月に取り残された時に記憶を貯蔵できる奴が必要だ」『了解。要請しとく。基地の設営も急ぐよ。“古のもの”が使ってたって言う異世界へのゲートでも残ってりゃ大発見なんだけどな』「ドリームランドやサイクラノーシュに繋がっているとかいう奴か。伝承に残っているものだな。そう上手く行くとは思えないが」「でも未知の発見が待ってるかも知れないと思うと心が躍りますぞー!」 確かに、と通信を聞いていた皆が頷く。 彼らが月面までやってきたのは、勿論クトーニアンなどの脅威に晒されている地表からの逃げ場所を確保するためということもあるが、その未知への探究心が非常に大きな原動力となっているのだ。 知らないことを知るために。世界の成り立ちをより深く理解するために。或いは前人が残した遺跡を暴くために。その為に彼らは虚空へと躍り出たのだ。◆ 蜘蛛の糸の繋がる先は 15.宇宙に逃げれば良いと思った? 宇宙的恐怖を相手にホームグラウンドに飛び込んでどうするよ ◆「はあ? 遺跡?」 シャンリット領の街の仮設執務室で、アトラナート商会会頭ウード・ド・シャンリットは頓狂な声を上げた。 彼は魔法学院にいた時のような義手は着けておらず、両腕とも奇妙な甲殻になっているのを晒したままにしている。 右の首筋からは腕とは別の、先端に牙がついた大きな蜘蛛の上顎が生えている。 彼の手には報告書らしき紙の束が握られている。「“古のもの”の残したらしき遺跡を発見。稼動状態にあるが、肝心の“古のもの”や“ショゴス”は見当たらず。調査続行中……って、まあそれはそのまま続行してもらうしか無いな。できるだけ遺跡は傷つけないように、と」 そう言ってコメントを付けると、紙の束を秘書役のゴブリンたちの方へと放る。 放られた書類は素早く回収され、担当部署へと返されることとなる。 一方、ウードは複数の書類を肩の後ろ辺りに浮かべて、さらに自分の周りに配置したタイプライターを『念力』で打刻して処理していく。 背後の書類が見えるのか? という疑問は当然だ。普通の人間は背後に目はついていない。 だが、ウード・ド・シャンリットはただの人間ではない。 彼は現在、上半身裸で仕事をしているが、その姿は異形のそれだ。 背中はほとんど甲殻化しており、肩甲骨に当たる部分には赤い単眼が幾つか見える。これで背後に浮かべた書類を確認していたのだ。 前から見れば、右の肋骨に当たる部分が大きく抉れ、そこに蜘蛛の顎――今は右首筋から生えて自由に動いている――を収められるようになっている。抉れた部分は硬いクチクラで覆われててらてらと光っている。 右手は歪な甲殻に覆われ、手首から先が二つに分かれている。爪先には三本の鋭い爪と無数の感覚毛が生えている。 左手は二の腕の所々が硬質化し、こちらは肘から先が二本の蜘蛛の脚になっている。 ウードの姿は、人の形に無理矢理蜘蛛を押し込めようとして失敗したような、正常な人には嫌悪感しか齎さないような冒涜的なデザインになってしまっている。 全体的に皮膚がクチクラや感覚毛を生やした風に変化しており、黒や紫の甲殻の隙間に時折肌の色が見える。 顔だけはヒトと同じような造形のままだが、首筋までは蜘蛛への変化が侵食している。 彼は蜘蛛の神の祝福を受けた蜘蛛人間なのだ! ウードはアーカムの地下にアトラク=ナクアを祀る祭壇を作るために、礎を聖別する儀式を行った。 彼の背中の赤い単眼はその儀式の際に、アトラク=ナクアの力を受けたためか、呪いが進行したせいで発生したのだ。 それは仮面を用いたそれっぽいだけで適当な儀式ではあったが、無事にこの都市――アーカムの礎に神性の加護が宿ったようである。 その証拠に、聖別された祭壇の奥から時々、この世のものではありえない異形の進化を遂げた生物がやって来るのだ。 恐らくは、アトラク=ナクアが深淵に架けた橋を渡って迷い込んだ“アブホースの落とし仔”だろう。 異形の化け物たちはゴブリンたちに捕獲され、この世の生命の神秘を解き明かすための貴重な資料として扱われることとなる。「ウード様、そろそろお時間です」「うん? ああ、了解だ」 秘書のゴブリンメイジが書類を読んでいたウードに声を掛ける。 ウードは頷いて執務机から立ち上がる。 すかさず秘書が上着や義手を準備し、歩いて出口に向かうウードに着せていく。 扉に向かう間もウードの周囲には資料が魔法で浮いて付き従い、視界に入り続ける。 今読んでいるのは秘書から渡されたもので、この後に赴く会議の確認用のレジュメだ。「えーと、何だ。翼人との会合か。〈偽・ユグドラシル〉を営巣場所として使って良いかって交渉が纏まったんだったか」「はい。以前から問い合わせが来ていた件です。漸く先方との交渉が纏まりましたので、今日は翼人の方との友好記念パーティですね」 執務室を出て〈ゲートの鏡〉が置いてある部屋へと向かう。 LEDによって真昼のように照らされた廊下を歩きながらウードは資料の確認を続ける。「……〈偽・ユグドラシル〉に近づいた翼人を『ガンマレイ・ライト』で被曝させて撃墜したって報告とは別件か?」 『ガンマレイ・ライト』は文字通りγ線を発する『ライト』であり、曝露された犠牲者は急性放射線障害や細胞の死滅による各種の身体障害によってまさに呪いのような様相を呈する。 『ガンマレイ・ライト』はヒトの目では捉えられないため、相手に気付かれないうちに充分に照射することが出来る。 急性症状として吐き気や倦怠感が生じ、限界を超えた被曝で細胞は次々と死んで行く。特に細胞分裂の盛んな部位は影響が大きく、造血幹細胞の破壊による白血球・血小板の減少や腸内幹細胞の死滅、水晶体の懸濁が起こる。味蕾や嗅覚細胞も破壊されてしまうだろうし、皮膚の上皮幹細胞もやられてしまう。 それによって一週間も経たないうちに細胞死の影響によって免疫力は低下し、出血が続き、下痢が続いて栄養はろくに取れず、目は霞み、味覚と嗅覚は失われ、毛は抜け落ち皮膚は爛れる。 20日から50日のうちに多くの人は死んでしまうだろう。 また、運良く生き残っても傷つけられた遺伝子は将来の発癌リスクを高めるため、永くは生きられない。外道魔法である。「えー、それは今回申し出があった部族とは別の部族だそうです」 翼人の中にも様々な部族があるようで、今回〈偽・ユグドラシル〉の使用申請をしてきた部族とは別に、勝手に〈偽・ユグドラシル〉に近づいたために『ガンマレイ・ライト』で撃墜された部族があるようなのだ。「ちゃんと〈偽・ユグドラシル〉に近づいた奴には、引き返せってアナウンスはしてるんだよな?」「はい、翼人に限らずハルケギニア人でも誰でも、3回警告してからの『ガンマレイ・ライト』照射となっております。警告音声は1から3まで順に『引き返せ、引き返せ』、『聖樹を穢すな、引き返せ、さもなくば呪う』、『最終警告、引き返せ、死の呪いを受けたくなければ』を演出付きで低い音から高い音まで各種取り揃えております」 その警告アナウンスと『ガンマレイ・ライト』の効果も合わさって、〈偽・ユグドラシル〉は“呪いの黒樹”として有名になりつつある。 ほんの数カ月で1000メイル近くまで急成長する不気味な樹なので、その成長速度と呪いの件もあり一部では祟り神として畏れられて信仰されつつあるとか。「まあ3度警告して去らなければ呪われても仕方ないな」「はい。仕方ありません」 件の被曝した翼人だが、肝試しということで蛮勇を奮って噂の呪いの黒樹へとアタックしたらしいことが分かっている。 自業自得ではあるが、おどろおどろしい警告や陽の光が完全に遮断された葉の陰の暗闇を越えて大樹の根元まで辿りつく勇気は褒めても良いかも知れない。 翼人の他にも、〈偽・ユグドラシル〉を空港に使おうとしたり、または素材として使うために切り倒そうとしたりなど、やって来るものは後を絶たない。 草木の生えない沙漠や山脈の頂上に巨大な樹が立っていては目立って仕方ないからである。 そして人がやって来る度に呪いの『ガンマレイ・ライト』が突き刺さり、人々を苦鳴の底へと突き落とすのだった。「あんまり人里に近い〈偽・ユグドラシル〉は破壊してしまうべきか? 人間社会への影響が大きすぎるからなあ」「確かに月面へ進出して〈偽・ユグドラシル〉を更に増やせますので、ハルケギニア星の〈偽・ユグドラシル〉を幾つか破棄しても充分に地底都市その他のエネルギーは賄えるでしょう」「ふむ、じゃあ電気や風石、水精霊の涙の生産は徐々に月面へシフトさせよう」「そもそも現状でも大洋に生やしている〈偽・ユグドラシル〉だけで充分にエネルギー生産を賄うことが可能です」 千数百本という数の〈偽・ユグドラシル〉が現在ハルケギニア星上の洋上や沙漠上に存在している。 またゴブリンたちは蒼月と紅月の月面にも探索と並行してエネルギー生産設備である〈偽・ユグドラシル〉を生やしている。 それらで発電されたエネルギーは、使用された分を除けば、超伝導コイル中の永久電流や、風石、あるいは水精霊の涙の形で蓄えられる。 風石などの形で電力を蓄えることによって、天候や昼夜の日光量変動によって発電量が左右されるという太陽光発電の弱点を克服しているのだ。 話している間にウードとその秘書は〈ゲートの鏡〉を設置した部屋に辿り着き、起動した〈ゲートの鏡〉を潜っていく。「ガーゴイルと入れ替わってサボりたい。読みたい研究報告が溜まってるんだよ。駄目かな」「駄目です。会頭のウード様本人が出向くことに意味があるんですから」 最近、対外折衝の場にアトラナート商会代表として駆り出されることが多いウードは、細かい末端の研究報告をあまり読むことが出来ずにいる。「ああ学院時代あたりが懐かしい。特に学院一年生の時は使い魔のクトーニアンも呼び出してなかったし、研究報告は常に読めてたし……」「もう5年は昔じゃないですか。大昔ですね」「君らにとってはね。まあ今の生活も気に入っては居るけれど。今回の翼人たちとの交流も、それはそれで彼らの間に伝わる伝承を聞けそうだから楽しみではあるし」 そう言って二人は銀の靄の先に姿を消す。 アトラナート商会の会頭としてウードは“シャンリット領学術都市化計画”を現在も進行させている。 方々に伝手を広げたり、教師になってくれそうな人材を探したり、都市を造ったりなどなど……。 既存の魔法学院のカリキュラムの調査・分析なども、魔法学院内部の商会支店に駐在しているゴブリンが行っている。◆ トリステイン魔法学院の魔法練習場。 特に何処かと決まっているわけではなく、学院の外の草原――召喚の儀式などにも使われたりする――を好き勝手に区切って熱心な学生がめいめいに練習を行っている。 学院の生徒が独りで練習を行う場合は、学院のアトラナート商会支店から矮人を借り出して、的になるゴーレムを作らせたり、残骸の後始末をさせたり、その他様々なサービスを頼むことが出来る。 今その草原で対峙する男女が二人。 二人は10メイルほどの間を開けて向きあっており、そこは草は生えておらず地肌がむき出しになっている。 そこに数人、アトラナート商会の矮人が付き添っている。 女の方はメイリーン・ド・シャンリット。 シャンリット伯爵家の長女で、金糸のような美しい長髪と見るものを魅了する魔性の美貌を持っている。 現在は魔法学院の1年生で、水の使い手。 対する男は、名をテオドール・ダントワープ。 メイリーンの婚約者である、同じく学院の1年生。歳はメイリーンのひとつ上。 彼の実家は北部の海岸地帯を治める家であり漁業が盛んであり、彼とメイリーンの婚約後のここ数年はアトラナート商会からの資本投下によって様々な海産物の養殖に取り組んでいる。 シャンリット家との婚姻は俄成金のシャンリット家からの持参金目当てだという噂もある。 だが実際のところは、テオドールがメイリーンに一目惚れしたのが発端である。 テオドールはメイリーンと同学年になるために、わざわざ入学を一年遅らせている。 ベタ惚れである。「では、練習場の準備をお願いします。アトラナート商会の方々」「心得ました、お嬢様」 商会のゴブリンメイジたちが『錬金』の魔法を行使する。 土が剥き出しになっていた所が10メイル四方、先ずはドロリとしたコールタール状のモノに変化し、続いてその上に水が張られる。「では練習を始めましょうか、テオ」「ああ、そうしようメイ」 二人が杖を構える。「では“瀝青”のテオドール、参る」「“虹彩”のメイリーン、行きます」 矮人たちが整えた練習場は、この二人の得意とするフィールドを併せたものだ。 水を操るメイリーンと瀝青を操るテオドール。「『ウォーター・ウィップ』」「『タール・ウィップ』」 お互いに自分が操る媒質を鞭状に持ち上げて叩き付け合う。 1本、2本、3本、4本……と叩き付けられる鞭の数が増える。 粘度の点で言えばテオドールの瀝青の鞭の方が優っているのだが、メイリーンの水の鞭はそれに負けることはない。 メイリーンの水の鞭は常に高速でドリルのように回転していて、それによって瀝青の鞭を弾いているのだ。 鞭の本数が10を超えたところから、戦況はメイリーンに傾いた。「くっ!」「あら、もう出せないんですか? こんなものじゃ到底満足できませんわっ!」 テオドールが操る瀝青の鞭は10本で打ち止めのようである。 対してメイリーンの水の鞭はすでに15本を超えている。「分かれなさい! 『ウォーター・ストリングス』」 さらにその15本の水の鞭が10本ずつの糸のように細い鞭に分かれる。 高速でうねる細い水の紐が、150本。 それぞれに意思を持って揺らめく。「うわ、メイ、それやっぱり反則!」 テオドールが抗議の声を挙げるが、そんなものは意に介さずメイリーンは魔法を行使。 150本の鋭い水紐がタールの鞭を切り裂き、バラバラに分解する。 だが動じた風に見えたのは演技だったのだろう。テオドールは更に魔法を使う。「なんてね。『瀝青弾(ブレット)』」 バラバラに分かたれた瀝青の鞭が、今度は数百の弾丸となってメイリーンへと向かう。 一発一発は脆弱で、肌を穿つことも出来ないだろう。 しかし、それゆえに弾丸に込められた運動エネルギーは余すこと無く肉体へと伝わり、完膚なきまでに相手を打ちのめすはずだ。「甘いわ、テオ。当方に迎撃準備ありっ」 それに呼応してメイリーンは水の紐を操作して瀝青弾を防ぐ。 数百に分かれた瀝青の弾丸は、水紐に絡め取られて、あらぬ方向へ誘導される。 水のレールの上を導かれて、弾丸は全て外れてしまった。「そしてこちらのターン! 『集光(ソーラーレイ)』」「あ、タンマ、それ無し」 問答無用、と、ゾッと、光の柱が突き刺さる。 メイリーンの背後を始め、練習場のあらゆる場所に虹が浮かんでいる。 先程瀝青の鞭と打ち合わされていたときに弾けた水滴、それがすべてレンズや鏡のようになって太陽光線を捻じ曲げたのだ。「うわ、くそ。ゴーレムよ!」 光線が完全に収束する前に、急いでテオドールが瀝青のゴーレムを作り出す。 ぬるりと立ち上がった5メイルはある瀝青ゴーレムは、主を守らんと立ちはだかる。「無駄無駄ァ! ずっと私のターン! 光よ薙ぎ払えっ!」 メイリーンのその声を合図に光線は収束し――テオドールの頭上を通りすぎ、彼の背後に浮いていた鏡のような水滴群に反射されて、彼を焼き切り裂いた。 右腕の肘から先と両足を一直線に焼き切られ、テオドールがぐらりと傾ぐ。 テオドールは、自分の意思とは関係無く崩れ落ちる自分の身体とくるくると飛んでいく千切れた右手を見ながら、思った。 虹を背にした彼女はやはり美しい、と。 そんな彼を追い討ちの光条が襲う。 瀝青で出来たゴーレムはその光条の熱で燃やされながら飛び散る。 そして沸騰して燃えるタールが、倒れたテオドールに降り注いだ。「あぁ……」 テオドールはメイリーンと魔法の練習をするようになってから何度目かの死を覚悟して、身体を襲う灼熱によって意識を手放した。 前回は彼岸に立つ曾祖父に追い返されたが、今度こそ私は冥府の門を潜るかも知れません、でも何だかこの瞬間が病み付きに……、とか思いつつ。「うわ、やりすぎたわ! 治療!」 自分の魔法が齎した予想外の惨状にメイリーンが焦った声を出すと、周囲の矮人に治療を命令する。「はい、お嬢様」 そう言ってその場に付き従っていた矮人が素早く『念力』を使ってテオドールにこびりついた灼熱のタールを剥がす。 即座に患部の熱を冷まし、切断された四肢を繋ぎつつ、テオドールの身体に、予め持ってきていた水の秘薬をぶちまける。 メイリーンも『治癒』に加わり、速やかにテオドールの負傷は修復されていく。 問題なくテオドール・ダントワープは何の傷もない状態に復元された。「お嬢様。ミスタ・アントワープは私どもでお部屋に運びましょうか?」 矮人たちは泥沼のようになっている練習場を元に戻しつつ、メイリーンにそう訊ねる。 もちろんこれは形式上のことであり、テオドールを散々に打ちのめした後の彼らカップルの行動は決まりきっているのだが。「いいえ、それには及ばないわ。テオの看病は、私が、責任を持って、十全に行ないますっ!」 ふーっ、と毛を逆立てかねない剣幕でメイリーンは返事をすると、『レビテーション』でテオドールと自分を浮かせると、テオドールの身体に密着して寮棟の方へと飛んでいく。 全くもってお熱いことである。 商会の矮人たちは、そんなメイリーンたちを見送ると、周囲で魔法を練習している生徒たちの様子を見るために三々五々散らばっていく。 学院生徒がどのような交友関係を築いていて、どのような魔法を使うのかということをデータ化して蒐集するためである。 何も慈善事業で魔法学院に支店を置いているわけではないのだ。 最近では『始祖の血統は本当に王家に受け継がれているのか』というテーマでハルケギニア中の貴族、メイジの家系図を作って、最初期の魔法遣い集団が何処にどのくらいの時期に現れたのかを探ろうとしている矮人(ゴブリンメイジ)たちのグループもある。 魔法学院やその他アトラナート商会の支店に配属されている矮人たちは、そういったハルケギニア社会の研究や教育内容についてなどをテーマとしている者たちが殆どである。 彼らはさり気なく貴族子弟の様子を観察し、部屋の掃除や洗濯物を洗う際に毛や体液を採集したりしている。 ストーカーではない。学術研究のためである。 断じてストーカーではない。 誰それと誰それが恋仲で、などという人間関係相関図も作られているが、断じてストーカーではないのだ。純学術的調査なのだ。◆ 魔法学院の他にも、各国の王都や主要大都市にはアトラナート商会の支店が存在し、〈ゲート〉を用いた迅速確実な宅配サービスや種々の新商品が人気である。 市井の噂を恣意的に利用した世論操作の方法や集団心理などについても研究されている。 その一環として新興宗教の普及についてというのも研究されており、蜘蛛神教が新興宗教として密かに勢力を伸ばしつつある。 またアトラナート商会と繋がりを持つための実業的な秘密結社が組織されつつあったりなど、ハルケギニア社会の地下で彼らは蠕動しているのだ。 王都トリスタニアのある粗末な宿屋。 連れ込み宿に分類されるそこで重なる男女が一組。 女の方は随分小さい、いや、幼いようだ。初潮を迎えるか迎えないかという年齢に見える。 シーツに隙間から覗く褐色の肌は、行為後の汗にまみれて、艶っぽく『ライト』の光を反射している。「ねえ、お兄さん。私を買えるくらいの金を何処で稼いできたの?」 言わんと知れたこの少女、娼婦である。 しかも、技術と教養とサービス精神を兼ね備えた、それなりにお高い娼婦である。 その上頑丈でちょっとやそっとのことでは壊れないし、魔法も使えるために傷ついても自分で治してしまうという、店側にとっても優秀な娼婦なのである。娼婦仲間の病気をタダで治してやったりもしているし、禁制の秘薬の合成までもお手の物だ。 まあ幼年趣味の無い客にとっては意味が無いが、逆にその趣味がない者も一度抱けば幼年趣味に開眼するとまで下品な男たちの間では噂になっている。「ん~、まあ傭兵だからな。羽振りの良い領主さんの下で戦えたのさ」「まあ! 傭兵! どちらで戦ってらしたの?」「東さ、東。ここんとこお天道様の機嫌が悪くて不作が続いたらしくて、隣同士で取ったり取られたりってとこさ。都市国家は相変わらずドンパチやってるよ」 精悍な身体つきをした若い男は、気怠そうに返事をする。そのうちトリステインの方にでも戦火が来ても不思議じゃない情勢になりつつある。 彼は大層稼いだらしく、袋いっぱいの金貨を持って「この店で一番上等な女を頼む」と言ってきた漢である。 そしてつい先ほどまで、少女の献身的なサービスによってまるで初心な少年のように喘がされていた男だ。 熟練娼婦の経験や、或いは男の経験すらも引き継いで持ち合わせている少女にとって、その程度は朝飯前であった。「あら、そうなんですの? 私も東の出ですが、そういった話は聞きませんでしたわ」「東ぃ? 何処よ?」「シャンリットですわ、お兄さん」 シャンリットと聞いて、男は一瞬眉をひそめる。「シャンリットは景気良さそうだったな。でも変な所だったぜ。森ばかりで麦畑も碌に見えやしないのに小麦粉が随分安かった。しかもかなりの高級品だったな。んで、確かにお嬢ちゃんみたいな子供みたいな奴が沢山働いていたな」 変な街だったと、男は思う。 根本からして自分たちとは相容れないものが君臨しているような、そんな気配がする街だった。 行為をして汗をかいたせいか喉が乾いていた。ベッドサイドの水を飲む。「ふふふ、何でも質が良いのがシャンリットの自慢なのよ。労働者も娼婦も含めて、ね」「……まあ確かに気持ちよかったがなあ」 くすくすと先程みっともなく喘いでいた男の様子を思い出して少女は笑う。その笑いもどこか計算された艶やかさがあるようで、非常に絵になっていた。 少女の首元で蜘蛛の意匠をしたペンダントが揺れる。「ねえ、私、前に占い師のお婆さんに占ってもらったことがあるの」「へえ? 何だ、面白い話か?」「ふふふ、何でも始祖の奇跡が再び舞い降りるとか」「はあ?」「ねえ、魔法をメイジしか使えないのを不公平に思わないかしら? 何で始祖は平民にも魔法を授けてくれなかったんだろうって」「……まあ、俺も魔法が使えれば、ってのは何度思ったか分からないが、世界はそういう風に出来てるのさ。仕方ねえよ」 そう、仕方ない。それがハルケギニアの大多数の民の認識だ。「仕方なくなんて無いわ。あと数年の内に、シャンリットでは平民も魔法を使えるようになるわ。絶対に、ね」「そんな馬鹿なこと言ってからに」「まあ、覚えていてもらえれば良いのよ。何かの拍子に“知り合いの知り合い”が言っていた事にでもして、酒の肴にでもして頂戴。それより、もっと出来るんでしょう? 続きをやりましょうよ」 もう無理だって、どんだけすればいいんだよ、と思いつつも、男は自分の体の疲労が抜けていることに気付く。 「ふふふ、疲労回復の秘薬がさっき飲んだ水に混ざってたのよ。禁制ギリギリだけど、罪にはならない合法の媚薬よ。さあ、折角大枚叩いたんだから楽しまなきゃ損よ?」 二人の夜はまだまだ長そうであった。============================【チクタクマンフラグがオンになりました】 ニャル様が〈零号〉を乗っ取るためにアップを始めたようです。2010.07.21 初出2010.07.24 誤字訂正2010.07.31 誤字訂正2010.08.09 襲爵について修正。2010.10.18 修正というか書き直し?2010.10.21 誤字訂正2010.10.25 誤字訂正2011.08.16 誤字訂正 ☓サイノクラーシュ ◯サイクラノーシュ ご指摘ありがとうございます!