ウードが杖と契約してを覚えて1年ほど経ち、使える魔法も『錬金』(ハルケギニア一般レベル)、『固定化』、『発火』、『集水』、『治癒』、『レビテーション』とバリエーションが増えていった。 『ディテクトマジック』の性能調査も、コツが掴めてきたのか、脳のキャパシティが上がったのか、なんとか分子、原子レベルの把握ができるようになった。 そして、ついに彼は念願の金銀の『錬金』をマスターしたのだ! しかし同時に大量に鉛が出来てしまったという……。 やはり、鉛の方が核力的に安定だからだろう。 ハッキリ言って使う労力に対して身入りが合わない。金貨一枚分の金を作るのに何日掛かることやらと言う有様だった。 金に重さが近い水銀からならもっと効率良く作れるのだろうが、水銀は中毒が怖いのでウードは敬遠している。 実は内心、核をいじっていて放射線に被曝していないか戦々恐々である。 安心な作業環境のためにガイガーカウンターの作成が急務である。 だがまあ、収穫もあるにはあった。 炭をダイヤモンドに変換できるようになったのだ。屑石ばかりではあるが。 工業材料としてくらいなら使えるだろう。 何年かダイヤモンドの『錬金』ばかりやっていれば熟練して大粒のものも作れるだろうが、別にウードはダイヤモンド職人になりたい訳ではないのだ。 他の宝石も同様で粗雑な小結晶なら簡単に作ることが出来るが、大きな単結晶は数年は試行錯誤して作らないと難しいようだ。 ダイヤモンドよりも結晶構造の欠陥だとか添加物に気を使わないといけないから、むしろ色石の方が難しい。 ただ、ウードとしては様々な知識を蒐集したいだけなのである。 宝石屋になりたいのではない。人生が二度三度あればそういう人生を送ってもいいだろう、とは考えているが。 一年間の徹底的な修行と前世から引き継いだ認識のお陰で、一発でタンパク質分子の構造を決定できるくらいまで『ディテクトマジック』は上達したし、『錬金』も一般のハルケギニアのメイジとは違ったレベルで使えるようになった(恐らくは)。 何より、今まで見えていなかったものを『ディテクトマジック』という第6の感覚で見ることが出来たのは、彼としては非常に楽しかったようで、時間を無駄にしたとかそういうことは感じていない。 さて、ウードが一年間『ディテクトマジック』にひたすら時間を費やした結果分かったことは、安易に金銀を作って儲けることは出来ない、宝石も熟練が必要というものだった。 ハルケギニア5000年、流石にその歴史は伊達ではない。(研究資金を得るためには、貴族としてはやはり領地経営を効率化して、そこから資金を得るのが王道だろうか。 こちらの方が場合によっては宝石作りよりも時間がかかるかも知れないが……) 折角天与のもの(貴族の地位と領地)があるのだからそれを使うのが一番いいだろう。 まあ、ウードが経営に口を出せるようになるのは早くても十数年は後だが、そちらの道を考えるに越したことは無い。 このまま行けば、父フィリップの爵位と領地を継ぐのはウードなのだから。 先ずは領地について現状と過去のデータの分析が必要となる。(父上に過去の帳簿について聞いてみるか) 最近、庭の一角を改造して与えられた研究室と言う名の隔離場所を飛び出し、ウードはフィリップの執務室に『フライ』で低空飛行して向かう。 精神力鍛錬のために常日頃から魔法を使うようにしているのだ。◆ 蜘蛛の糸の繋がる先は 2.王道に勝る近道なし◆「父上……」「おお、ウードか、どうした」「執務中に済みません。お願いがあって参りました」 私譲りの濃いブラウンの髪をした幼子が、ふよふよと『レビテーション』で浮いてこちらに寄ってくる。この可愛い子はウード・ド・シャンリット。 我が愛しの妻、エリーゼとの間に生まれた、シャンリット伯爵家の長男だ。 そしてウードはこのシャンリット家が始まって以来の天才でもある。或いは鬼才と言っても良いだろう。 1歳になるかならないかで言葉を話し、文字を覚え、2歳から3歳の2年間で難解な蔵書を読み尽くした。 4歳の時には杖と契約し、5歳の今では土のメイジとしての才能の片鱗を見せ始めている。 子供とは思えない落ち着きを見せたかと思えば、時に突拍子も無いことをやらかして、私たちをひやひやさせることもある。 だが、血の繋がった我が子には変わりなく、愛しい。 そして、将来に期待が持てる。 私の無茶のせいで、現在はシャンリット家は窮状に立たされている。 子に親の負債を押し付ける気はないのだが、もしも領地立て直し半ばにして私が倒れても、あとにこのウードが控えていてくれるなら、安心出来るというものだ。 長い間仕えてくれた家宰の爺やも、もう年だし、早熟な我が子には爺やが存命なうちに存分に彼から学んで欲しいと思う。 妻もウードを溺愛し、熱心に教育している。 最近はそろそろ二人目が生まれそうなので、大事をとって安静にさせているが。 さて、今日は一体何の用だろうか。 ウードは手間のかからない子だったし、頼みごとなんて滅多に無いことだ。 以前に実験器具のガラス容器の作成を頼まれたことくらいだろうか。ガラスや水晶の『錬金』は私の得意とするところだからな。「父上、このシャンリットの事について、詳しく知りたいのですが、昔の帳簿などは何処にしまってあるでしょうか」「昔の帳簿か……。確か、先祖代々の日記などと一緒に、書庫の奥に仕舞ってあったはずだ。 とはいえ、帳簿だけでは分からないだろうから今後は礼法や魔法の勉強に加えて、領地のことについても教えるように爺やに伝えておこう」「ありがとうございます。ところで、もし今、時間が空いていましたら、現状の領地の状況について少し教えていただきたいのですが」 まあ、政務も一段落したところだし、ウードと話をするのも良いだろう。 領地の運営についてというのは親子の会話としては味気ない話題だが、これが思いの外盛り上がった。 まあ、貴族なのだから領地運営の話題で親子の会話が成り立っても全く不思議ではないのだが。「今日、領民から幻獣の討伐について陳情を受けていてな。ワイバーンという竜の一種なのだが」「腕が羽になっている竜ですよね。肉食だと図鑑で読みましたが、普段は何を食べているのです?」「普段は森の中の鹿やゴブリンなどの亜人、川に住む魚を食べているようだ。 人里に降りてくることは稀だが、風竜か火竜にでも住処を追われたのかも知れないな」「成程。討伐されたワイバーンの死体はどうするんですか?」「死体? 皮を剥いだり肉を取ったり、使える部分はすべて使うな。 骨も肝も秘薬の原料になるから、丸ごと全て売り払ったり領民に配ったり……ってどうした、微妙に沈んだ顔をして」「いえ、良ければ剥製や骨格標本にしたいと思っていたので、ちょっと期待が外れて落ち込んだだけです……」 感情をあまり顕さないウードにしては珍しく、分かりやすく沈んだ顔をしたので気になって聞いてみれば……。 ウードの奇癖として拾い癖がある。あるいは蒐集癖。 いつの間にかどこからか動物の死体を拾ってきては標本にしてしまうのだ。 今では庭の使用していなかった納屋を改築してウードの標本小屋にしている。 改築の際は興味深そうに人足や親方のメイジの動きをウードが見ていたのを覚えている。 シャンリットは辺境にある領地だ。 森が深く、特に蟲――中でも蜘蛛が多いことで有名だ。 必然、標本小屋には虫の標本が溢れ返ることになり、今では近づきたがる者はあまり居ない。 使用人たちの評価も、不気味な子、というので固定されている。 感情発露に乏しく、何を考えているのか読めないのがそれに拍車を掛けている。 ウードも人を避けたい時にはその小屋に籠ると決めているようで、何かしら私たちの理解の及ばない実験をする時はその離れの小屋を使っている。 人嫌いとまでは行かないようだが、人付き合いは苦手なようだ。「では、今日は色々とお話を有難うございました。 今後の習い事については領地のことについてもよろしくお願い致します」「うむ、良いだろう。爺やに伝えておくよ」「では、今日は一先ず残りの時間で、そのご先祖様の日記を読んでみることにします。 帳簿とは違って、そちらは知識無しでも読めるでしょうから」「そうするといい。まあ、あまり根を詰めすぎない様にな」「父上の方こそ」 そう言ってウードは『念力』で扉を開き、『レビテーション』で浮いて出て行く。 扉を閉める時は『念力』ではなくて手を使ったようだ。二つの魔法の同時使用は難しいからな。 日記は100年分、いや下手したら1000年分以上の量があるだろうから結構読み応えはあるはずだ。私は読んだことはないが。 爺やの方で教材を用意するのにも時間がかかるだろうし、一先ずは、その日記で我慢してもらうか……。 実践はともかく、知識という面ではウードは父である私を追い抜きつつある。 全く、我が子ながら頼もしいことだ。 しかもこんなに幼い時分から領地経営に興味を持ってくれるとは期待が持てる。 あんまりに本の虫だから研究者にでもなるのかと心配していたのだが、それは無用なお世話だったようだ。 しかしどうしたものか。 家宰である爺やにあまり負担を寄せるわけにはいかないし、別に家庭教師を雇うべきだろうか。 だが、今のシャンリット家の収入では雇える教師もたかが知れているし……。 来年生まれる子の為の出産時の秘薬も買わなくてはいけないし、ああ、全くどうしたものか。 妻と駆け落ち同然にこの領地に引っ込んだ時には、ここまで困窮するとは思わなかった。 ウードには苦労を掛けるだろうが、この子ならきっとと思わせるものがある。 ウードが生まれたときのあの銀糸が飛び交う光景は、きっとこのシャンリットの土地が祝福していたに違いないのだ。 不気味な趣味でも別に構わない。目を瞑ろう。 異端審問官の目も、利益が見込まれるのならなんとか逸らしてみせよう。 だから、頼んだぞ、ウード。シャンリットの将来はお前の肩に懸かっている!◆ ウード自身理解していたことではあるが、いつの世も、研究のためにはお金が掛かる。 研究に限らず何につけても金、金、カネ。世の中、金だ。 領地経営もその例には漏れない。 領地が豊かでもない伯爵家では、その収入も高が知れている。 金がないのは首がないのと同じだ、とはウードの前世の諺である。 収入を増やすためには投資が必要だが、どうやらそのような余裕も現在の所はシャンリット家には無いようだ。(さて、当面の課題は領地を富ませることですかね。 私が継ぐ予定の領地でもあるし、将来、研究に専念するためにも、収入は多いほうが良いですね) 膨大な量の本をパラパラと捲っていくウードの手は、決して休むことがない。 傍目には幼子がページを捲って遊んでいるようにも見えるだろうが、実は一瞬ページを眼に収めるだけでその内容を読み取っているのだ。 『ディテクトマジック』による超々精密計測を一年間修行した副作用により、ウードはかなりの情報処理能力を知らず知らずの内に身につけていた。 ……ゼロが30桁くらい続くような数の原子について処理を行っていたのだから、これくらい身に付かなくては困る。 というか、むしろそれにしては遅い。 脳がオーバーヒートして鼻血の海に沈むことを繰り返した一年間は何だったというのか。 ウードが原子や電子の概念を持っているからか、『ディテクトマジック』の精密化を徹底して修行した所為か不明だが、『錬金』の魔法でそれらを操作することも比較的容易であった。 それでも、原子数が多くなると頭が混乱して制御が甘くなるので貴金属の作成は難しい。 ウードのやり方では大体、元素番号が鉄を超える辺りから急に元素変換の難易度が上がる。 また元素変換の『錬金』の亜種なのか何なのか分からないが、物質の状態を操作することは比較的簡単に実現した。 まあ、元素変換に比べれば状態変化くらい楽勝だろうとウード自身が考えていたからかも知れない。 固体から液体、または気体へと変化させることが出来たし、プラズマ化(イオン化)することも簡単に出来た。逆もまたしかり。 『ライトニングクラウド』という雷を発生させる風の上級スペルがあるが、そんなもの使わずに空気中の分子を電離させて電光を発生させることも出来た。 ……恐らくは『ライトニングクラウド』とは別の作用機序なのだろうけれども。 プラズマ化する魔法は火系統だろうし、気体を液体にする魔法は水系統なのだろうが、ウードの中では、これらの状態操作を広義の物質操作(=『錬金』)として捉えているので、『錬金』で再現出来るようだ。 魔法行使には本人の認識が大事だという証左だろう。 土水火風と魔法を4系統に便宜上は分けているものの、今後研究する上では別の分類を考えるのが妥当だと思われる。 閑話休題。ページを捲っていたウードの手がはたと止まる。(むー、自分で言うのも何ですが、ショッパイですね、シャンリット領って) ご先祖様が必死に治めてきた領地に対して酷い言い草であった。◆ さて、私が領地を富ませるにあたって、まずはシャンリット家が治める土地の現状分析が大事だ。 ということで私は暇を見てはご先祖の残した日記や、帳簿などをペラペラとめくっている。 シャンリット家に長年仕えてきた爺やからも、講義を受けている。 それによって、おおよそ、シャンリットがどのような土地なのかも分かってきた。 このシャンリット伯爵家の治める土地は、可もなく不可もなくといった土地だ。 痩せているという訳でもないし、特産品があるわけでもない。 強いて言うなら、代々の当主の使い魔がジャイアントワームだったりブラックウィドウだったりしたので、養蚕業というか絹の生産を少しだけしている位だろうか。 それでも特産品と呼ぶには程遠い生産量だ。 まあ、非常に高価なものではあるし、シャンリットのスパイダーシルクと言えばかつては高級生地の代名詞だったとか。 今は、落ち目になってしまっているそうだが……。 私は屑ダイヤモンドの『錬金』ぐらいは容易いのでそれを公開すれば特産にも出来るのだが、それは伏せておこう。 簡単に作ることができる屑石とはいえ、これを研磨に使えばダイヤモンドのカットがかなり簡単になるから、下手したらダイヤモンドの価格が暴落することにもなりかねない。 加工の困難さが、ダイヤモンドが高価な原因の一つであるからだ。 ……いや、そもそもこの世界ではダイヤモンドに宝石としての価値が認められていないということはないだろうか。 まあ『ブレイド』や『錬金』の魔法で加工は出来そうだから、流通してはいるのだろうけれど。 それでも私の屑石を使ったヤスリを用いれば、加工するのに金剛石を削れるほどの高位メイジの手が要らなくなるということで、一定の需要は見込めるかも知れない。 話をシャンリット領の事に戻そう。 領地は殆どが山と森に覆われており、そこにはゴブリンやオークが比較的多く生息している。 また森の中には糸を吐いたり繭を作ったりする虫・幻獣が多く生息しているらしい。シャンリットの土地の特色だとか。 森が多く平地は少なく、街道の発達は未熟で首都から遠く、そもそも人口が少ない。 多分森の中の亜人の方が人間より多いくらいだろう。このあたりはマイナスポイントだな。 まともにやったら、領地を富ませるまでに10年単位の時間が掛かるだろう。 プラスポイントとしては、土地がそこそこ広いことと森林資源が豊富なこと、水には困らないことだろうか。 森は開墾すれば良い農地になるだろう。 山も領境になるくらい峻厳なものだが、なにか鉱脈があるかも知れないし。 こちらの世界には魔法なんて出鱈目な力があるのだ。 領地開発にはこれを活用しないわけには行かないだろう。 というか、なんでそういう方面に魔法が活用されていないのだろうか。 きちんと計画を立てれば、10年といわずにもっと短い期間でも発展させられるはずだろうに。 例えば領内に鉱山があれば、手っ取り早いのは流通の改善だろう。 鉄道機関車は無理だとしても、領内に鉄道馬車を引いて、製錬所を作れば税収は増えるだろう。 シャンリットには今のところ特産品になるような鉱石は産出しないけど。 現状、手を着けられそうなのは、正確な領内の把握(人口や耕地面積その他諸々)とそれに伴う徴税の適正化、農作の効率化や道路整備、公衆衛生の指導や幻獣討伐などの若年死亡率の低下策くらいだろうか。 しかし、私が表立って何かやれば、さすがにそれは行き過ぎだろうし……。 私は、今はまだ伯爵家の嫡男に過ぎず、改革を断行出来るほどの権限もない。 というか、意見を出してもそれが採用されるとも思えない。 色々意見を出しすぎれば、今以上に怪しまれるだろうし、場合によっては腐れ神官につかまって異端審問にもかけられかねない。 良くて廃嫡されて、気狂いとして一生領地に幽閉されるくらいか。 異端審問の拷問の末に火炙りにされるのはゴメンだ。 死病にかかって死ぬより苦しいのではないだろうか? それともあっさり酸欠で死ねるのだろうか。 いや、神官連中なら、水魔法で延命させて、より長く苦しめさせそうだ。 ふむ、しかしどうしたものかな。 自分が実権を握るまで大人しくしておくか? いや、それまで待てないぞ。 この知的好奇心と呼ぶに生ぬるい衝動を持て余す。 今でさえ狂いそうだというのに。 標本を作成して、並べて見て悦に入ることで軽減できてはいるが。 バレないようにこっそりと魔法を使って、色々やってみよう。 魔法の練習にもなるし。というか娯楽に乏しいから他にやることも無いし。 そうだな。今植えられている作物の品種改良や、土壌改良ならば今までの延長だし、もしバレても、いきなり異端審問ってことはないだろう。 ……ないはずだ。……ないといいなあ。 何にしても着手するなら第一次産業からだろう、先ずは。 作物の遺伝子を弄れるようになれば、幻獣や魔物にも適応出来るだろうか。 幻獣の家畜化や改良を行うのも良いかもしれない。 例えば、繭を作ったり糸を出す幻獣を家畜化し、細々とやっている絹の生産を立派な産業にするとか。 ゴブリンなどの亜人を従順にさせて奴隷化するとか。 まあ、魔法で何が出来るのかの限界を実験する意味も込めて色々やってみるか。 むしろ私としてはこちらの実験の方がメインになるな。魔法研究か、楽しみだな。 異端審問に掛けられないように、秘密裏に事を進める方法を考えなければならない。 畑に『錬金』で肥料を施すにしても、その様子をあまり見られたくないし、そもそも頻繁に出歩くことも出来ない。 遠く離れたところから魔法が使えればいいのだが。そうすれば屋敷の中から領地の畑に『錬金』したり、他にも色々出来るだろうし。 しかし、杖から離れたところに魔法を使うのは難しい。 ……ということは、杖そのものを伸ばせばいいんじゃなかろうか? 逆転の発想。この考えはイケそうな気がする。◆ 部屋のベッドの中で私は杖に意識を集中させる。 とはいっても、私の握るそれは通常のメイジが持つタクトのようなものではない。 それは黒く光沢を持った、自分の身長の1.5倍の長さはあろうかという鞭。 カウボーイが牛の群れを誘導する際に用いる“牛追い鞭”だ。 それを手に持ち、ベッドから垂らして床に這わせる。 この鞭は、初めにもらった杖を中心にして、前世ではカーボンナノチューブと呼ばれていたモノを杖を覆うように『錬金』で作り出して覆い、それを束ねて作ったものだ。 もとはどれくらい小さな対象を杖として認識できるか、そしてどこまで大きい対象を杖として認識できるかを試すために始めたものだ。 結果は、小さい方はおよそ視認出来る大きさなら問題なかった。 大きい方は検証中だが、感触としては、ひと繋がりの分子としてカーボンナノチューブを伸ばす分には、どれだけ長く大きくしても杖として認識出来そうである。 材質がカーボンナノチューブなのは、簡単には千切れないようにするためだ。 あとは、現代科学的ロマンとも言える。 実際的な問題として、材料となる炭(炭素単体)が安価で手に入るというのも大きい。 珪素も地殻には多いが単体の入手が困難なので却下である。 いつかカーボンナノチューブを利用して軌道エレベータでも作ってやろうかと思っている。 風石の魔力を調整していけば、案外簡単に衛星を打ち上げられるのではなかろうか。 風石がどんな原理で浮いてるのか分からないが。重力遮断だろうか? 天空大陸たるアルビオンごと宮崎映画のラピュタのラストみたいに宇宙に飛ばせたりするかも知れない。 『レビテーション』や風石の浮力が、重力操作あるいは質量操作によるものなら非常に興味深い。 私が元居た世界では未だ発見されていなかったが、重力の媒介となる重力子、もしくは質量を発生させるヒッグス場に対して何らかの影響を与えているのだろうか。 そうだとすれば、重力(あるいは質量)の軽減だけではなくて逆に加重をかけたり質量を増大させることも出来るかも知れない。 最終的にはマイクロブラックホールも出来るかもしれない? 現在、重力加速度の値を知る為の実験を行っているのだが、そのうち『レビテーション』下での実験も行うつもりだ。 真空下で実験を行えば、『レビテーション』の作用が質量の減少なのか、重力加速度の軽減なのかハッキリするだろう。 話をカーボンナノチューブに戻そう。 カーボンナノチューブの束(私は〈黒糸〉と言っている)の一端は私の体の中に入り込み、全身に根を張るように張り巡らされている。 これは神経系に並行する形で全身を覆っており、今後、ディテクトマジックでの体内の状況把握や、水魔法による成長促進などに使おうと思っている。 最近、移動にも常に『レビテーション』や『念力』を用いていたので筋肉が萎え気味であったのを気にしていたのだ。 もちろん、体内の〈黒糸〉も杖として契約しているものの延長であるので、今後は一見無手でも体内の〈黒糸〉を媒体に魔法を使えるだろう。 間違って体内で『ブレイド』の魔法を発動したら、体中がぐずぐずのミンチになるだろうが……。 〈黒糸〉のもう一端は床に触れたところから伸ばして、領地の地面の中を縦横無尽に這わせている。 “秘密裏に領地を豊かにする方法”として私が考えたのは、伸ばした杖によって遠隔地から『錬金』による地質改良を行うというものだ。 地味だが、確実に効果があがるだろう。 幸いにして杖を伸ばして魔法を使うという試みは成功し、コツを掴めば伸ばした杖の何処ででも魔法を発動させることが出来そうだ。 とはいえ、領地に広げている方の〈黒糸〉とは常時接続している訳にもいかないので、必要なときに応じて手持ちの鞭状の杖か体内から〈黒糸〉を伸ばしては地下のネットワークに接続するとしよう。 手元の鞭状の杖と地下のカーボンナノチューブネットワークは接続した時点でひとつの巨大な単分子になるため、ありがたい事に、接続の度にいちいち杖として契約しなおす必要は無いようだ。 地下のネットワークの方はまだ、この領地の主要街道をカバーしたくらいだが、それでもなかなかの広範囲をカバーしていると言えよう。 夜な夜なこれの拡張に気絶するまで精神力を注ぎ込み、〈黒糸〉のカバー範囲を伸ばしているおかげだ。まあ、シャンリットでは街道自体がそれほど発達していないというのもあるが。 毎晩倒れるまで精神力を酷使していれば当然だが、ドットメイジながらも精神力のキャパシティはかなり伸びている。 精神力のキャパシティはランクが上がれば増えるというものではない。メイジとしてのランクが上がることで変化するのは、足せる系統の数と消費する精神力の効率だ。 ラインになればドットの時の半分の精神力の消費でドットの魔法が使える。 しかし、ラインの魔法はドットの魔法の倍の精神力を消費するため、ドットの時にドットの魔法8発で息切れしていたメイジなら、ラインになってもラインの魔法8発で息切れしてしまう。 ドットの魔法なら効率が上がった分、16発使えるようになるが。 だから、系統を足す訓練とは別に、精神力のキャパシティを増大させる訓練が必要なのだ。 ゲームで言えばIntとMPの違いと言ったところだろうか。 まあ、それはともかく、毎日『錬金』で〈黒糸〉の杖を伸ばしているばかりではない。 ナノチューブのような細かいものの『錬金』と同時に、私はこれまでの一年と同様にマクロレベルからナノレベルまでの解析にも力を入れている。 『ディテクトマジック』という魔法は、精密に使えば、電子顕微鏡も真っ青な性能を発揮することが出来るのだ。 これを使わない手はない。 〈黒糸〉を作る際にも『ディテクトマジック』は大いに役に立った。これが無ければ、カーボンナノチューブが出来たかどうか確認できなかっただろう。 将来的には、この〈黒糸〉のネットワークを用いて、様々な物質の特性や領地にいる生物の生態など何から何まで解析したいと思っている。 特に地質学や生態学、系統学に対する興味がある。 中世の時代なら博物学と言った方がいいかも知れない。 領地に張り巡らせているのは、そういった博物学的調査を行うための下準備だ。 あとは面積調査や地形調査などの為でもある。 だが、解析のためにはまず記録が必要であり、記録には多くの人員や、作業効率化のための専用の魔道具が必要となるだろう。 正確な時計や、正確な量り、正確な定規も必要だ。 以前、領内で使われている幾つかの定規を見せてもらったが、精度が悪くて使い物にならなかった。 出来ればこれも早い内に改善したい。 そうだな、領内を調べるためだけの新たな幻獣やインテリジェンスアイテムを創りだすのも有効かもしれない。 それらの魔道具やキメラ作成の研究もしなくてはならない。まあ、先ずは足元固めか。 やりたい事が多すぎてこれではいくつ身があっても足りないな。 そういえば、風の魔法には、分身を作ることが出来る『偏在』という魔法があるそうだ。 その原理も気になるが、できる事なら、その『偏在』の魔法を使えるようになりたいものだ。 それとも土メイジの私ならば、遠隔操作型のゴーレムを複数使役できるほうが効率が良いのだろうか? いやいや、それとも、それとも…… 延々と今後のことを考えながら、私はいつものように魔法の使いすぎによる精神力切れで意識を手放した。 気絶する前の浮遊感と落下感は、前世の死に際のことを思い出す。 底の見えない深淵と、掴んだ蜘蛛の糸。 遠く暗闇に浮かぶ赤い瞳は、蜘蛛の巣の主のものだろうか。 ――ああ神だか仏だか、邪神だか知らないが、あなたには本当に感謝している。 さあ、二度目の生を存分に楽しもうじゃないか。======================================================ウードは転生に気づいた時点でSAN値激減。正気を失って、異常な好奇心と、蜘蛛への偏愛を獲得しています。『先代の日記』は重要アイテム?2010.07.18 初出2010.07.21 誤字等修正2010.09.26 人称など修正