私の意識、あるいは魂とも呼べるものが私自身の身体に戻ってきたときに、既に私の身体は稼働年数を過ぎており、規定の手続きに従って廃棄される寸前の状態であった。 身体のあちこちには悪性の腫瘍が出来ており、息をするのさえ苦痛であった。 その上、私は失われた精神が復調するまでに数日間意識朦朧とした状態になっており、危うく今にも頭部を分解されて記憶を喰って蓄える人面樹に捧げられ、脳髄を吸われる所だったのだ。 死ぬべき時を迎えた私の同胞たちはろくに動かない自分の身体を解体役に委ね、脳髄は記憶を引き継がせるために人面樹へ、その他は徹底的に解剖されたり実験に使われたりしてリサイクルされる。皮は鞣し処理されて皮革製品として生まれ変わるし、肉や骨は病理部分以外はバロメッツの肥料などに使われるだろう。悪性腫瘍は特にその遺伝子の変異部位の解明のために研究対象とされることが多いという。 他の同胞たちと同様にベルトコンベア上で最期の処理を待つばかりだった私は、唐突にその意識を取り戻し、実に数年ぶりに自分の――ゴブリンの身体のコントロールを取り戻した。 自分の身体のコントロールを取り戻して先ずやったことは、周囲の状況を把握し、刻一刻と機械的に迫る死の顎から逃れるために身を捩り声を上げることだった。四肢の動かし方を私はすっかり忘れていたが、それでも何とか腕をばたつかせ、喉の奥から呻き声を挙げることが出来た。 異常に気がついたラインの責任者が私の身体を作業ラインから外してくれたのは全くもって幸運以外の何物でもない。そのまま解体処理されてもおかしくはなかったのだから。これは異常事態=新しい発見の端緒というゴブリンたちに広く行き渡っている教育が功を奏したのと、解体ラインの責任者の直近の研究テーマが『解体前のゴブリンの心理状況』に関することだったというのが大いに影響している。 私は力を振り絞って、もはや腫瘍に蝕まれてボロボロになった身体を必死に捩って自らの意図を伝えようとしたが、やがて意識を失ってしまった。 その後、目を覚ました私は自分が粘性の青い溶液中に浮かんでいるのに気がついた。 恐らくは水精霊の涙をベースにした溶液だろう。生ぬるい溶液はまるで何かのハラワタの中に居るかのような錯覚を起こさせる。かすかに薄荷のような臭いを鼻腔にまで満たされた粘液から感じるのは、私の覚醒を促すための成分が溶液に追加されたからかも知れなかった。 体中の腫瘍は取り除かれたのか、それとも痛覚が麻痺されているのか、或いは首から下を丸ごと新しいクローンに替えられたのか、四肢を動かしても苦痛が襲うことはなかった。 粘液中で指を動かしてみると、違和感はあるものの自分のイメージ通りに動かすことが出来た。即ち、鋏のイメージだ。5本指の感覚に慣れるまでは、もう暫くかかりそうだと、親指とそれ以外の指――残り4本の指はまるで癒合したかのようにして一緒にしか動かせない――をかち合わせながら考える。 そうやって身体の具合を確かめていると、何処からか声が掛かる。「目覚めはどうだい、ミスタ・クァンタン」 眼球を動かして見回すと少し離れたところにメモ用の筆記具を持った白衣の男が座っているのが見える。 問われるのは良いが、現状では声を出せない。それが分からないのだろうか?「おいおい、魔法を使った発声の方法も忘れたのかい? 風の魔法のちょっとした応用じゃないか。水槽の外の空気を震わせるんだ。君の体内に根を張っている〈黒糸〉の杖は意識出来てるよな?」 そうだ、忘れていた。この身体では魔法を使うことが出来るのだ。 尤も、私自身、体感時間で数年間は魔法を使っていなかったし、その数年間この身体を占有していた精神体はハルケギニアの魔法なんて使わなかっただろうから、精神的にも肉体的にも数年ぶりの魔法行使となる。上手く使えるか自信が無い。 だがそんな私の心配は杞憂だったようだ。バロメッツの実から生まれる前の胎児の頃に刻みつけられた魔法の知識は、正常に私の意図する通りの魔法を発揮させてくれた。『あ゛あー。ああ、んん、うあううあ。――こ、れ、で、喋れて、いるか?』 掠れたような、出来の悪いスピーカを通したような声が水槽越しに響く。 魔法を使うに当たってルーンの詠唱は必ずしも必要という訳ではない。 必要なのは正確なイメージだ。 『錬金』の魔法など考えてもらえれば分かるが、詠唱のルーン自体は共通でも、そこから生じる結果は元素変換から形態変化まで、イメージによって様々だ。 魔法はイメージ次第ということの証左であろう。 青銅を『錬金』するときの杖の振り方と、鉄を『錬金』するときの杖の振り方を変えることで、イメージを補完している、というメイジも居るそうだ(人面樹に蓄積されたハルケギニアメイジの経験によれば)。 それを突き詰めれば、身体の一動作に詠唱の意味を持たせることで、例えば手話のように特定の動作にルーンを対応させることが可能だと思いつくだろう。 更に言えば、“『錬金』のポーズ”とか“『レビテーション』のポーズ”など、一呪文に一動作を対応させることで詠唱を代替させることも可能だと思い当たるだろう。 さらにさらに突き詰めれば、“詠唱したつもり”、“『錬金』のポーズを取ったつもり”になって周囲の魔力を動かすイメージをしてやれば、ただ思うだけで魔法を使うことが可能になるのだ。 今私が使っている喉を使わないで空気を魔力によって直接震わせて発声する魔法も、風の初歩の魔法『ウィンド』と『サイレント』の高度な応用である。 熟練の風メイジが杖の一振りで風を起こすように、私はイメージだけで空気を細かく震わせているのだ。「うん、聞こえているよ。ミスタ・クァンタン。じゃあ、君が何故、最終解体処理前に急に暴れだしたのか、説明してくれるかい?」 白衣のゴブリンメイジは私に向かってそう言うと、メモを取る用意をした。 彼の目は隠しきれ無い興味の色で爛々と輝いており、これから私が語る内容から何らかの新発見を掬い上げようという意欲に溢れていた。『では、ドクター。これから語る内容について、決して私の妄想ではないと信じて貰いたいのです。その前に質問なのですが、ドクターは私の脳髄に残るここ数年の記憶について『読心』の魔法を使用されましたか?』 先ず私は自分の魂の記憶について語る前に、私の魂がこの身体から離れていた間に、この身体に蓄積された記憶について、白衣のドクターが知っているかどうかを訊ねることにした。 星の彼方からの精神生命体によって私の身体が乗っ取られていた間の記憶は、今や私の魂からは読み出せないように封印が施されている。 だが、脳髄には確かに物理的なシナプスの結合としての記憶が存在しているはずであり、精神及び肉体の記憶を読み取る『読心』の魔法ならば、私が乗っ取られていた数年の記憶を読み取れるのではないかと思ったのだ。「ああ。君の記憶は覗かせてもらったよ、最終処理に掛けられる前のものだが。もし発狂していたら別の処理ラインに廻さないといけないから、前処理として記憶の簡単な確認を行うことになっているのは知っているだろう? 君は随分精力的に各地のフィールドワークに出向いていたようだね。大地深くの恐るべきクトーニアンたちや、深海底に居を構えるマーマンたちが崇める偉大なるクルゥルウ、サハラのエルフたちの一部が信仰している名状しがたきハストゥールについてなど、君は先住種族の信仰する神についてよく調べているようだった」 白衣のドクターは思い出すように筆記具をこめかみに当ててそう語った。『ありがとうございます、ドクター。私では、ここ数年の記憶が思い出せませんでしたので。自分自身に『読心』の魔法を掛ければ、読み取れるのでしょうけれども』「ふうん? それはなんとも不思議な話だね。まるでここ数年の君と、今ここで話している君が全くの別人で、その為に記憶のファイルが開けない――そもそも精神性が違うためか、それとも鍵がかけられているのか――、まあ、そんな話に聞こえるけれど?」 このドクターの頭の回転はかなり早いようだ。或いは、かの星辰の彼方へと精神的な拉致を受けたのは私だけではなかったのかも知れない。他にもこれまでに似た様な症例でもあるのだろうか。 ドクターの理解の早さに驚嘆の念を覚えながら私は話を続ける。『まさしく、その通りです、ドクター! 私は数年――もう3年は前になるでしょうか。3年前に突如として異星人からの精神投影を受けて、つい先ほど我を取り戻すまでにずっと暗黒星の彼らの大図書館に幽閉されていたのです!』「……続けてくれたまえ」 そこで私は堰を切ったかのように語り出す。自分の魂に焼き付いていた記憶は、今思い出してしまわないと掻き消えてしまうだろう。全て語りきってしまって、今のうちに自分の脳髄に刻みつけないとならない。『私が精神交換を受けて乗り移った――乗り移られた相手は、非常に高度な知性を持った種族の一員でした。私が乗り移った身体は3メイル程もある皺のある円錐形の巨大な胴体の持ち主で、頂点から生えた4本の蛇のように自由に動く触肢とその先に付いている幾つかの感覚器官で物を見、音を聞き、会話するのです。 しかし一番、最も知ってもらいたいのは、彼らが時間さえも超越した偉大なる種族だということです。あらゆる叡智は彼らのもとに蒐められ、編纂されているのです。私が軟禁された場所はそのような宇宙中のあらゆる時代の知識を集約した大図書館だったのです。私の記憶をもその大図書館の一葉に加えるべく、彼らによって私は尋問されました。 精神的な拉致によって魂――ここでは魂があるものと仮定して話を進めますが――その魂が大図書館に運ばれてきたものは、私のようなゴブリンだけではありませんでした。別の星の昆虫的な生物や、この星の遥か未来に栄えるであろう別の人類種の精神も存在しました。蜘蛛神教の神官であるウード様の魂の記憶に刻まれた西暦という暦を使う世界から来た者居たようです。私たちの惑星の数百年未来からやって来た者も居ました。あるいは数万年の昔からやってきた者も。 軟禁とは言いましたが、自らの持つ記憶を大図書館に加える作業を行う以外は、その非常に多岐に渡る蔵書や図書館の外さえも自由に見ることができました。大図書館は私には分からない未知の材質でできており、あの時ほど魔法が使えないのを悔しく思ったことは有りません。『ディテクトマジック』が使えれば私はあのセラエノの大図書館の蔵書を読む以上に多くの事を学ぶことが出来たというのに。彼らの居る星では私たちの使う系統魔法を用いることは出来ませんでした。 残念なことに彼らが私たちの惑星を探っているのは、この惑星に暮らす知的生命体に関心があるためではなく、自分たちの種族の緊急の避難先として用いることが出来るかどうかという調査のためでした。私の身体を乗っ取っていた精神生命体――イーシアンと仮称しますが――イーシアンが、水底のクトゥルウや名状しがたきハスター、地を穿つクトーニアンについて調べたのは、脅威となる惑星の旧い支配者たちが活動しているかどうかを確認するためでしょう。今のところ、彼らの中ではこのハルケギニア星は一定の脅威があるものの、来るべき時の移住先としては悪くないという判断をされているようです。その際に彼らが集団的な精神移住を行う対象が、エルフなのかゴブリンなのかニンゲンなのかは分かりませんが。恐らくは寿命の長いエルフたちがその対象になると思います。今彼らが使っている巨大な円錐状の植物体も非常に長寿を持っていますので』 それからも私は長いこと長いこと喋り続けた。 未来の都市のこと、彼らの科学技術について、他の次元に存在する多くの知的生命体について、それらの別次元の知的生命体の文化について、非常に大きな力を持つ神々の宇宙を縦断する戦いの歴史、かつて一時期このハルケギニア星の南方大陸に彼らの都市と大図書館があったはずであり、是非調べなくてはならないことなど……。『最後にこのハルケギニアにおいて私に乗り移っていたイーシアンが、彼らの拠点である暗黒の星に帰る時がやって来ました。こちらにおける私の身体の寿命が尽き掛かったことと、目星い場所や伝説については調べ終わったからでした。彼はハルケギニアに置いて精神移動装置を作成し――おそらく自壊装置も組み込まれているためもう残ってはいないでしょうが――それを使用して遥か星辰の彼方へと帰還したのです。しかし彼らはこの時空の監視を辞めた訳ではありません。こうして私が話している間にもイーシアンたちは私の魂の記憶がすっかり初期化されたかどうかを見張って、自分たちの存在がバレやしないかと監視しているのです。 幸いにも私は、記憶を消されるという、私たちゴブリン種族にとって耐え難い仕打ちに対して抵抗することが出来ました。今語ったことで、私の魂から脳髄の記憶回路への転写も行われたはずです。形而上から形而下に記憶は移されました。人面樹に私の脳が吸われれば、私が知った様々な時空の文明についての知識が、ゴブリン種族のものとなるのです。 語るべきことは以上です』 語るべきことを語り終えて、私は沈黙する。 そしてじっとそれを聞いていたドクターは立ち上がった。「ふむ。ミスタ・クァンタン。非常に興味深い報告だった」 私はこの時点である可能性を考えていた。 このドクターは物分りが良すぎやしないだろうか、果たして他に精神交換を受けて潜伏しているイーシアンは居ないのだろうか、そして今眼の前の人物の中身が、私の記憶を再度消しに来たイーシアンでは無いと言い切れるのだろうか、と。「是非ともこの知識を全体に還元させてくれたまえ」 だが身構えた私には意外なことに、すんなりと話は進んだ。 それが顔に出ていたのだろう、ドクターは私に問いかける。「私がイーシアンたちの精神投影を受けていないかと心配していたのかい? それなら心配ないさ。 君のように鮮明な記憶を持ったまま“還って”来る者は珍しいが、かのセラエノで過ごした際の断片的な記憶を抱えている者は居ないわけではない。 我らの同胞のゴブリン種族もそうであるし、墓場から掘り起こしたハルケギニア人の中にもそのような記憶を抱えたものは居たのさ。 あまり大っぴらにはされていないが、“偉大なる種族”イーシアンについてはそれなりの経験の蓄積があるんだよ、実は。 もっとも、私が研究を始めたここ数年のことなのだがね」 どうやら、私がイーシアンの精神交換を受けている間にこの若いドクターは、独自に人面樹の中のイーシアンに関する記憶の断片を集めて、全体像を解明していたということらしい。 非常に優秀だ。「まあ、私自身の先天性の記憶の中に、そういった遥か彼方の円錐生物に関する記憶が混ざり込んでいたのでそれを切っ掛けにね。 人面樹から生まれる前に与えられる記憶については、基本的なセット以外にランダムで付加される部分もあるのは知っているだろう? そこにたまたま精神交換を受けた者の記憶が混ざっていたという訳さ」 成程、充分に有り得る話だ。「という訳で、今後はイーシアンたちと交渉を行いたいんだけど、現在こっちに来ているイーシアンの精神と接触を取る方法は知らないかい?」 イーシアン同士の精神的な接触は何らかの呪文か機械の補助があれば可能な筈だが、残念ながら私に残された知識の中にはそれらに関するものは存在しない。 私が首を横に振って否定の意を示すと、大して残念そうな様子も見せずにドクターは話を続けた。「まあ、地道に行うしか無いか。イーシアンに関する知識がゴブリン種族全体に広まれば、彼らも静観するわけには行かないだろうし、その内に接触があるだろう。 ではミスタ・クァンタン、今度こそ安心して、人面樹の中へと還っていってくれ。 おやすみ、また会う日まで」 ドクターがそう言うと、私が入っていた水槽の底が開き、水精霊の涙の溶液と共に私の身体は排出される。 深い深い奈落の底へ向かって、母なる記憶の海へと私は還るのだ。 次に目覚める時には、私という人格の構成要素は分解され、次世代の別人(別ゴブリン?)の一部となっていることだろう。 ゴブリンは一世代は10数年と短命だが、精神的群体としては非常に長寿な存在だ。 思い出すべきことを充分に思い出した安堵からか、あるいは何かの魔法の作用か、私の意識は泥濘に沈むかのように深い眠りに落ちた。永い眠りになるだろう。◆ 蜘蛛の糸の繋がる先は 16.時を翔ける種族は水精霊の記憶の中に ◆ 結婚式。 神の前で永遠の愛情を誓う儀式。 男女間の相互扶助契約。 ウード・ド・シャンリットは悩んでいた。 彼の妹メイリーン・ド・シャンリットが魔法学院を卒業し、その後直ぐに婚約者であるアントワープ伯爵公子のテオドール・ダントワープと結婚することになっていた。 ウードとしてはもはやヒトとしての人生を全うできなくなってしまっている自分の代わりに、せめて兄弟姉妹は人並み以上の幸せを手にして欲しいと考えている。 妹とその婚約者は端から見ても相思相愛のカップルであるし、その結婚については盛大に祝福してやりたいと、ウードは考えている。 またウードとメイリーンの父、フィリップ・ド・シャンリット伯爵(親馬鹿)からも、豪華絢爛な結婚式にして欲しいという依頼を受けている。 同時にテオドール・ダントワープの祖父に当たる現アントワープ伯爵からも、同様の依頼を受けている。 ウードは多種多様な産業に手を広げているアトラナート商会の会頭としての名が売れてきたので、一部の親しい者たちからは完全に便利屋扱いされてしまっている。「さて、ただ単に豪華な結婚式にするだけではなくて、どうせならば何かこのハルケギニアで誰もやったことがないような記録と記憶に残る結婚式にしたいものだな」 ウードは月面の地下に作られた都市で考えを巡らせる。 一先ず、蒼月にも紅月にも先住種族は居なかったので、安心して月面開発と“古のもの”が残した遺跡の調査を進めている。 他にもハルケギニア星の南方大陸の失われたイーシアンの記録の都、ナコタスの調査も進められており、イーシアンが残した貴重な記録の復元と、イーシアンと敵対していた“フライング・ポリプ”の現在の居場所の特定が行われている。 月面地下に作られたアトラク=ナクアを祀る神殿の執務室で、幾つかの案件を並行処理しながらウードは考える。 蜘蛛に変化してしまう呪いは、上半身から下半身にまで侵食が進みつつある。 体内の〈黒糸〉で組織の変容を物理的に抑制し、水魔法でそれを補助し、さらにゴブリンたちの一部を生贄(形代)にして呪いを肩代わりさせることで、呪いの進行を随分と緩和することは出来ているのだが。 それでも月面都市やその他の地下都市にアトラク=ナクアの祭壇を作る際には、ウード自身が祭祀として仮面を用いた神降ろしなどの儀式を行っているため、否が応にも蜘蛛への変化は進行してしまっている。 左右の肩に出来た蜘蛛の単眼で幾つもの書類に目を通しつつ、完全に肩から2本に分かれてしまった腕を自在に振るい、また同時に『念力』の魔法で見えない腕を作って、書類を裁く。 この数年のうちに両腕は完全に蜘蛛のそれへと変化してしまっている。 首筋からは短い触肢が生えており、右首筋には毒牙の付いた蜘蛛の上顎が生えている。左の毒牙はまだ生えてはいないが、時間の問題のように思われる。 顔面には、儀式で用いていたアトラク=ナクアの仮面が張り付き、癒合してしまっている。もはや剥がせなくなってしまったのだ。 ウードの顔はその黒と紫の斑によって形成される、左右非対称な表情に固定されてしまっている。 即ち、あらゆる事物に対する好奇心と、既存の物事全てに対する猜疑心に彩られている。「先ずは、アントワープ領全体で同時に結婚式を祝う祭りを開催したいな。共同体意識を強めさせるためにも。祭りには音楽と踊りが付き物だから、その手配をしなくては。 〈遠見の鏡〉の強化版で結婚式の様子を各村落に中継できれば、もっと共同体意識の結束効果は上がるだろう。 あとは食料品と酒か。不足する分はゴブリンたちの地底都市で生産してるのを回せば充分だろう。新商品も試してもらういい機会だ。あとは――」 見た目は完全に異形のそれとなったウードである。 何かしらハルケギニア社会に出なければならない時は、『フェイスチェンジ』の魔法を使うか、人型のガーゴイルを用いることにしている。 因みに〈スキルニル〉というヒトの血から情報を取って血を取った相手に変身する魔道具を使おうとしても、ウードの血には反応しなかった。もはやヒトの血液だとは認識されていないらしい。 キシキシとウードの節足の甲殻が擦れる音が響く。 最近ウードは専ら月か地底のゴブリンたちの都市で業務を行っている。 ハルケギニア人の目がある場所では、姿を偽るためのマントや義手や『フェイスチェンジ』などを使わなくてはならず、羽を伸ばせないせいだった。「後は結婚式の神官の手配か。ロマリア本国のアトラナート派の枢機卿を呼びつけるかな。まあ、結婚式についてはこんな方針で良いか。細かい所や儀礼の部分は専門知識を持ったゴブリンに任せてしまおう」 ウードは妹の結婚式についての書類を決裁済みのボックスへと投入すると、他の案件へと意識を移す。「『アトラナート商会主催写真コンテストについて。賞金は最優秀賞が300エキュー、その他副賞として最新鋭カメラなどプレゼント。応募期間は……』、ああOKOK。昨年と同様の手順で良し、ただし宣伝にもっと力を入れること、と。次。『火星の探査について。新種の知的生命体との接触時の想定マニュアルの改訂の必要あり……』、何だ? 何か問題があったのか? 私が出向いたほうが良いんじゃないか、これは」 昼夜も無い月面都市の蜘蛛神の神殿で、ウードは事務作業を進めていく。 最近は下から上がってくる案件の報告を聞いたり、その決裁や関係各所の折衝、祭祀としての宗教行事への参加ばかりである。 妹メイリーンの結婚式に力を入れようとしているのは、忙しくて碌にシャンリットの家族とも顔を合わせられていないという事情の埋め合わせでもある。 およそ1年後。 メイリーン・ド・シャンリットとテオドール・ダントワープの結婚式は彼らが学院を卒業して直ぐに行われた。 挙式場所はトリステイン北部の海岸沿いのアントワープ領だ。 王都からアントワープ領の首都へ向かう方向へ幹線道路を整え、そこをおよそ1ヶ月掛けて行幸するという豪華な結婚行列だ。「アントワープ公子、万歳!」「テオドール様、万歳!」「メイリーン姫様、万歳!」 “瀝青”の二つ名を持つテオドール・ダントワープに因んで、馬車が6台は擦れ違う事が出来る広さの幹線道路はアスファルトで舗装されている。 山を切り開き谷も塗りつぶして王都近辺から一直線に延びるその道路の周りには種々様々の花々が咲き乱れている。 事前にアトラナート商会が全ての村々に伯爵公子夫妻の結婚式を布告していたため、新しい街道には多くの人が詰め掛けている。 街道の周囲に用意された新しい宿場町は直ぐに満杯になった。「飲めや歌えや! 祭りだぁ!」「新しいアントワープの未来に乾杯!」「乾杯!」 そして挙式に掛かった費用は全面的にシャンリット家――というかメイリーンの兄ウード率いるアトラナート商会が負担した。 豪華壮麗な結婚式はアトラナート商会、引いてはシャンリット家の財力を見せつける目的があったのだ。 アントワープの領内全体を上げて、どんちゃん騒ぎと相成った。「いやあ、メイリーン様さまだぜ!」「大層豪華な持参金だねえ!」「ああ、何せ王都までまっすぐ見えるんじゃないかって道路を一年で引いちまうんだもんな!」「その上食べ物まで全部の村に配ったって言うじゃないか! 最近不作だったが、こんだけたんまり小麦や家畜を貰えれば冬も充分越せるってもんさ!」 その準備の為に、アトラナート商会が発注主となってアントワープ領の様々なギルドに対して仕事の注文を行なった。 勿論アトラナート商会の量産ゴブリンの数の力と、各地のゴブリン地底都市の生産物があれば、アントワープ領の地元の商人や職人に一切仕事をさせずに準備をすることも可能であるが、そんな事をしても恨みを買うだけなので、金だけを出してアントワープ領の経済を活性化することにしたのだ。 嫁ぎ先のアントワープ領全体に結婚記念の行進を行うための幹線街路(『ライト』の魔道具による街灯付き)を行き渡らせたり、花嫁花婿が逗留する場所に壮麗な城館(結婚式後は集会所や祭典を行う場所として流用予定)を建築したりした。 その他にも各村落に〈遠見の鏡〉とそれを用いるゴブリンメイジを派遣し、村から離れられない人々にも婚礼行列の様子を中継した。「綺麗な花嫁さんだねえ」「伯爵の若様もご立派になって」 その他、領民にその婚礼の1ヶ月間のみ使える商品券(アントワープ領のどこの商店でも使用可能なように手配済み、アトラナート商会で換金可能な金券)を一人当たり1エキュー分配って、小売の面からも経済の活性化を図った。 つまり諸々合わせるとおよそ数百万エキューは下らない金額がアトラナート商会からアントワープ領に流れ込んだことになる。 同時に1エキュー商品券をアトラナート商会からアントワープ領の領民に配布する際に、戸籍情報を収集して一本化した。 メイリーンの嫁入り先のアントワープ領の家臣団と協力して戸籍情報と徴税を連動させる予定である。 アントワープ領の家臣団にはそのようなノウハウが不足しているし、そもそも人員が足りないという問題はある。 だが足りない人員や足りない予算は、アトラナート商会が補う方向で交渉を進めている。 この結婚式に格好つけたアントワープ領の大規模な開発は、アトラナート商会――いや、ゴブリンたちの実験である。 幹線道路が齎す影響について、また道路開発後に必要な法整備などを見るために、ゴブリンたちは予算を組んで開発を行わせたのだ。 そのままその経験をシャンリット領に新しい学術中核都市アーカムを作るにあたって流用出来るとは限らないが、ある意味では試金石とも言える。「ねえ、テオドール。私、今とっても幸せよ」「僕も幸せだよ、メイリーン」「愛してるわ、テオ」「愛してる。もっと幸せにするよ、メイ」 純白の衣装に身を包んだ美しい花嫁とそれをエスコートする美丈夫は非常に見栄えがして、後の絵画にもよく表されることとなる。「でも、流石に1ヶ月も宴会続きじゃ疲れるわね。まだ半分くらいしか来てないのだけれど」「……確かに」 二週間もずっと幹線道路の馬車上で見守る見物客の前で手を振り、夜はパーティを開いて商人や貴族と社交をしてというのを繰り返せばそれは疲れもするだろう。「疲れたならガーゴイルとでも入れ替わるかい? 私なら君たちにそっくりなガーゴイルを作れるよ」「いつもぬうっと現れますわね、お兄様」 社交パーティの会場から退出して、用意された二人の寝室に向かう途中の廊下。 闇の蟠っている所から生えるようにして、半ば以上暗闇に埋もれて花嫁の兄ウードが佇んでいた。 ウードの纏う暗黒の気配にテオドールは一瞬気圧されるが、直ぐに気を取り直して挨拶をする。「義兄上、これはこれはご機嫌麗しゅう」「テオドール君も壮健そうで何よりだ。それでどうするね。婚礼行列の日程はずらせないが、途中で身代わりを立ててやっても構わないが」「いえ、それには及びません。これもまた貴族の義務ですから」「いい心掛けだ。貴族の位を無くした私にはとても真似できない」 ウードがこんな時間にこんな場所に居たのは、商会会頭や蜘蛛神教神官の業務が忙しくて中々アントワープ領に向かうことが出来なかったからだ。 この後も精々半時もしない内に業務に戻らなくてはならない。「済まないね。こんな姿ではパーティの会場に乱入するわけにもいかないし」 ウードは肩を竦めて見せる。 首筋や手首など目に見える場所は全て隈なく包帯に覆われている。 顔面は『フェイスチェンジ』で変えているが、表情は引き攣ったかのように左右非対称に凝り固まっている。 シルエットは人というには余りに歪で、見る者には嫌悪感しか抱かせないだろう。「改めて、結婚おめでとう」 ウードは人前に出られない姿になった己を恥じて、裏方に徹しているのだ。 それでもせめて、妹への祝福の気持ちが伝わるようにと豪華な結婚式を企画して。 テオドールはウードから得体の知れない怖気を感じて思わず妻のメイリーンを抱き寄せる。 彼はこの不気味な義兄が苦手だった。「それでいい、テオドール君。そうやって、あらゆる脅威からメイリーンを守ってくれたまえ。特に私のような破滅的な人間からは適切に距離をとるべきだ」「お兄様、それはどういう……?」 何事か問いかけたメイリーンをテオドールの腕の中に残し、ウードは黒羅紗のマントを翻してその場を後にする。 ◆ メイリーンの弟ロベールは婚礼行列の上空を飛ぶ空中触手騎士団(ルフト・フゥラー・リッター)を統率し、一糸乱れぬ編隊飛行を行って、彼の姉夫婦の婚礼行列に華を添えていた。 日中の婚礼行列を空中から監視し、何か騒乱が起きそうになっていれば地上の商会員に連絡する役目も担っている。 魔法の花火を空中に咲かせながら空を駆ける竜騎士に、観客たちが目を向ける。「おおお!」「とうちゃん、見た!? 今の凄かったよ!」「かっこいー!」 宙返り。錐揉み回転。空中交差。 次々と離れ業を見せる空中触手騎士団たちを下から見上げる見物客は感嘆の溜息を漏らす。 『煙幕』の魔法の亜種によって綺麗な航跡を描く竜騎士たち。 彼らの乗るドラゴン(クトーニアンと火竜のキメラ)は一応、商会の竜籠用の竜で、軍用ではないという建前であったが、実態としてはシャンリット伯爵家に貸し出されており、戦時には徴収されて竜騎士隊として機能することになっていた。 他にも商会が永年継続雇用している傭兵という名目の実質上の私設常備軍が存在しており、こちらも随時シャンリット伯爵家に貸し出されることになっている。 アトラナート商会がそのような兵力を抱えている事はほぼ公然の秘密となっている。 しかし、王政府からは表立った文句は付けられていない。 シャンリット伯爵家とアトラナート商会は不可分な程に癒着している為であり、また王政府にもその規模に応じた税を払い付け届けを行っているため、危うい所で摘発を免れているのだ。 空中を縦横無尽に飛び回る竜騎士の中でも、一回りも二回りも大きな竜を駆るのがロベール・ド・シャンリットである。 100メイルにも迫ろうかという巨竜は、背中から生える触肢を二股に割くようにして形成される3対6枚の膜翅を大きく広げて悠々と空を飛ぶ。 かと思えば急加速して轟音と共に視界から消えたりなどして、観客を湧かせている。「ひゃあっはぁーーー!」 キメラ巨竜――名前をイリスという。名付け親はウードだ――を乗り回すロベールは、スピード狂であった。 幼い頃からこの触手まみれのキメラドラゴンを乗り回していたロベールは、すっかり空を飛ぶこととその速度の追求の虜になってしまったのだ。 弱冠12歳でありながら、速く飛ぶための新魔法の研究に非常に貪欲である。 触手竜を駆っている他の騎士隊員たちも、ロベールと同様に速さに魅せられた漢たちだ。 騎士団としての訓練とともに、新魔法の探求も行っている。 例えば彼が現在開発中の魔法には、『レビテーション』の一要素を抽出した“重力偏向魔法”や“絶対座標固定魔法”というものがある。 “重力偏向魔法”は、その名の通り重力の方向をある程度操る魔法である。 これによって重力を横方向に傾ければ、“水平に落ちる”ことで永続的に加速度を得ることが出来るようになるのだ。 “絶対座標固定魔法”というのは、『レビテーション』の慣性減衰作用を抽出した魔法である。 動いている物体の勢いを止めようとする作用を拡大解釈し、慣性をカットして“地球の自転に対して置いていかれる”ことで速度を得ようという発想である。 開発に際してちょっとした曰くがある魔法である。 端的に言うと。『自転に置いていかれたらすっげえ速く飛べるんじゃね?』『ジャック、お前天才じゃね?』『早速やってみようぜ!』 ↓『行くぜ必殺、『座標固定(ポイント・ロック)』!!』 ↓ 問1.地球の自転・公転などなど様々な天体運動の速度に置いて行かれたらどうなるでしょう? ↓『ぶべらっ』『じゃ、ジャックー!』 答え.空気の壁にぶち当たって飛び散ったり燃え尽きたりします。無茶しやがって。 その事故を聞いた過保護な兄から弟に『偏在』を簡単に発生させるインテリジェンス・メイスが送られて、危険な実験は『偏在』の分身体に行わせるように通達が行ったりした。 同時に航空魔法実験の手引きも整備されたため、哀れなジャックの二の舞はもう恐らく発生しないだろう。 現在では『座標固定(ポイント・ロック)』の魔法はその加減などが研究され、安全に使うマニュアルが整備されている。 婚礼行列の上空を飛ぶ触手竜騎士たちが加速に用いているのも、それらの新式魔法である。「あははははははははは!!」『RUOOOOOOOoooooN!!』 超ハイテンションになっているロベールであった。乗騎の触手竜イリスも上機嫌だ。 完全に眼下の婚礼行列のことは忘れている。 雲を切り裂き、音を置き去りにせんばかりの勢いで巨大なドラゴンが飛んで行く。 彼らがハイテンションなのは、久しぶりの高速飛行であるということが原因である。 シャンリットの領空ではフネや飛行型ガーゴイルが所狭しと行き交っているため、厳しい飛行制限があるのだ。 思いっきり明るい内からシャンリットの空を飛べるのは、年に数回開かれる航空レースの時くらいである。 だから、きっと今彼らがハメを外しすぎていても、それは仕方が無いことだろう。「うひゃはははははははは、あはははははっ!」『GAAAAaaaaa!!』 ドップラー効果を伴って哄笑が響き渡る。 示威行為にはなっているのでそれでもきっと問題ないだろう。 何処かで蜘蛛男が仕方無い奴だなと、溜め息を付いたかどうかは誰も知らない。 まあこの様子は『遠見』の魔道具によって方々に中継されているから、それを見ていたんだろう。◆ ラグドリアン湖。 トリステインやガリア、及び周辺国の水利を司る巨大な湖だ。 そして水精霊の機嫌さえ損ねなければ無限に淡水が手に入るという素晴らしい水源でもある。 とはいえ、ウードの実家シャンリット領はには距離と標高の関係もあって余り関わりがない。 そんなラグドリアン湖の湖畔にゴブリンたちが5人一団となってとある調査のためにやって来ていた。 少し前にあるゴブリンが閃いたのだ。 “水精霊=不定形=ショゴス”なんじゃないか、と。 そこでそんな閃きを一笑に付さないのがゴブリンたちの主義である。 分からないものは確かめてみるべし、と。 どちらにせよ上手く行けば旧いモノたちの話を聞けるだろう、と。 虚無の魔法の話も出来れば聞いておきたいことであった。 エルフやクトーニアンや韻竜に伝わる伝承を纏めようとしているが、遅々として進んでいない。 『サモン・サーヴァント』や『コントラクト・サーヴァント』の解析は難航しており、それらの解析に虚無の魔法が必要なのではないかという推論もなされている。 水精霊を呼び出す方法は分かっている。 水精霊が認めた交渉役の血液を湖に垂らすのである。 何故呼び出し方法が分かったかといえば、ゴブリンたちの常套手段であるボディスナッチ(死体盗み)によってである。 交渉役の墓を暴いて死体を肉人形と入れ替えて、その死体からDNAと知識を収奪したのだ。 一団の中の一人のゴブリンが腰に下げたサンプルポーチから試験管を取り出す。 さらに別のゴブリンが自分の使い魔のタガメを懐から出す。「じゃあ、血を吸って水精霊様を呼んできて頂戴」 サンプルポーチから取り出された試験管には保冷された血が入っていた。 過去に蒐集された水精霊の交渉役の死体から取った細胞を培養して手に入れた血液だ。 試験管の蓋は非常に薄い膜で密閉されている。 試験管を持ったゴブリンは一度試験管を逆さにして、蓋を二重蓋にするように『錬金』して、また試験管を元の向きに戻す。 薄い膜の二重蓋の間に、若干量の血液が閉じ込められた。 使い魔のタガメは、自分の主の手から翅を広げて飛び立ち、ぶぶぶ、と掲げられた試験管に止まる。 タガメは試験管の口に脚を動かして近づき、自分の鋭い口吻を突き刺し、試験管を覆う薄い膜を1枚突き破って、二重膜の間に収められた血を一滴吸う。 そして再び試験管から飛び立つと、太陽をキラキラと跳ね返すラグドリアン湖へと飛んでいく。 残り3人のゴブリンは周囲で植物や昆虫、プランクトンなどの採取を行ったりトラップを仕掛けたりしている。 試験管を持ったゴブリンは二重膜の部分を『錬金』し直して、不要分の血液を廃棄すると再びサンプルポーチに収める。 もう一人は使い魔であるタガメと感覚を共有しているのか、目を閉じてじっとしている。 湖から涼しい風が吹いて来る。 待つこと暫し。 水面が盛り上がり、ボコボコと形を変える。 タガメの使い魔の主が、風の魔法で声を変調させて威厳を持たせるようにして偽りの自己紹介をする。「水の精霊様。旧き盟約の家系の末席、セバスチャン・ド・モンモランシで御座います。覚えておいででしたら、私たちに分かるやり方でお返事をお返しください」 水精霊はぐねぐねと蠢き、筋骨隆々のヒゲ紳士の形を取ると次々に表情を変える。 喜びのダブルバイセップスフロント、怒りのラットスプレットフロント、哀しみのサイドチェスト、満足げなダブルバイセップスバック、苦悶のラットスプレットバック、慈しみのトライセップス、名状し難きアドミナル&サイ……。 一名を除いて顔を背けるゴブリンたち。 男の裸なんぞ見たくない。 水精霊は血を湖に垂らした交渉役の姿を真似て現れることが多い。 つまり今回用意された培養血液の元となった人物は生前あのような暑苦しい姿だったのであろう。 4人のゴブリンたちは血液を用意したゴブリンを見遣る。 血液を用意したゴブリンはキラキラした瞳で水精霊が模す筋肉に見惚れていた。 確信犯であった。あなたが犯人です、と他の4人のゴブリンが思ったとか。 一通りポージングを終えた水精霊はゴブリンたちに話しかける。「単なるモノよ、我は貴様に流れる血液を、覚えている。して、何用か」 タガメを使い魔にしているゴブリンメイジが問う。「私たちは旧い者たちについて調べております。永い時の向こうに忘れ去られた種族達について。そして虚無の魔法について。宜しければ、私たちに御身に流れる歴史の記憶の一部を開帳して頂きたく」「単なるモノよ、偽りのモノよ。旧い旧い支配者達は、我にとっても、思い出すのも忌まわしいものだ。我を、偽りの盟約で呼び出して、さらに不愉快にさせるとは、許せぬ」 いつの間にか、ゴブリンたちの足元にラグドリアン湖の水が浸食してきていた。 ぬるりと触れるのは、水精霊本体から伸びた偽足だろう。 そこから呼び出した相手がモンモランシ家の一員でも何でもない者だとバレたのだろう。 水精霊はそのスライム状の身体を怒りのラットスプレットフロントに変える。 直ぐに異常を察知して難を逃れられたのは5人のゴブリンの内3人。ある者はフライで飛び上がり、ある者は素早く飛びすさって後退し、ある者は圧倒的な火力で自分の周囲の水を吹き飛ばした。 しかしポージングを取る水精霊の筋肉に見惚れていたゴブリンと、直接水精霊と会話して怒りの波動を受けたゴブリンは硬直してしまっていた。 水精霊の触手が伸び、逃げ遅れた二人のゴブリンを湖上に持ち上げる。「その上、我を、あの穢れたショゴスと間違える、だと。ウボ=サスラなら、まだしも。許せぬ、許せぬ」 水精霊の表情が、ポーズが目魔狂しく変化する。「知りたくば、知るが良い、単なるモノよ、蜘蛛の眷属よ。この星の、旧き旧き者共の、忌まわしく、悍ましい、記憶を」「あああああああああああああっ!?」 水精霊の身体が耳や鼻から入り、その粘性の透き通った体に記憶されている、忌まわしい古の光景を二人のゴブリンの脳裏に焼き付ける。「うああ、ぁぁあ、あっ、ひぃあ、ううああああああ?!」「その卑小な身で、受け止めきれる、モノならば」 水精霊の食指から逃れて残った3人は、囚えられた2人が狂っていくのを震えながら見るしかなかった。===================================『ポイント・ロック(座標固定)』“ぼくのかんがえたかっこいいコモンマジック”第二弾。ある座標と、もう一つのある座標(例えば自分とハルケギニア星の中心)との位置関係を固定する魔法。当然、地面や惑星、太陽系はものすごいスピードで動いているわけで、急に座標を固定すればどうなるかというと……。本文中のジャック君はハルケギニア星の中心と自分の位置関係を固定したので、自転に置いて行かれて大気との摩擦で燃え尽きた。『レビテーション』に慣性を減衰させる効果がありそうなので、それを拡大解釈して、特化させて取り出してみた。ロベールの必殺技はこの魔法で相手を狙撃すること。宇宙の果てで光速を超えて離れていく星々をイメージ出来れば、光速を超えることも夢ではない?2010.07.24 初出2010.07.24 誤字訂正×22010.08.09 一部修正。襲爵は当主の死を以て行うものらしいから、この時点ではまだ爵位は継いでない。2010.10.21 全編書き直し。でもプロット自体はほぼ変更なし。