「ここは何処だろう」 底の見えない深い谷と、その間に張られた蜘蛛の糸。 何匹もの巨大な蜘蛛が糸を紡いで、橋糸を強化している。 僕はその谷の切り立った崖の上に立っている。 目の前には細い細い蜘蛛の糸。 先の見えない崖のもう一端に向かって、細い細い糸が伸びている。 糸を紡いでいる蜘蛛はヒトよりも大きいものだけではなかったようだ。 よく見れば大小様々な蜘蛛が、遠くに見える撓んだ糸の橋を忙しなく行ったり来たりしている。 麦粒ほどもないもの、指先位の大きさ、拳大、人の頭くらい……色々な大きさの、いろいろな形の蜘蛛が谷に橋を架けている。 その中の一匹の大きな蜘蛛が僕に話しかけてきた。――ここは深淵の谷。 先程の独り言への返答なのだろう。 親しげに話しかけてきた蜘蛛に僕は更に問いを返す。「あなたは誰? 懐かしい空気がするけれど」――君の遠い遠い先祖。 そう言われて僕は混乱する。「え。でも蜘蛛じゃないか」――そう、だから君は蜘蛛の眷属。「な、何を」 駄目だ、それ以上聞いてはいけない。僕は心の底から湧き上がる嫌悪と本能的恐怖に従い、耳を塞いで逃げようとする。 しかし僕の足は貼り付いたかのようにしてその場から動かなかった。動けなかった。――アtらchなcha様の祝福を受けた蜘蛛の祭司。その末裔。 他の蜘蛛もその声に同調する。子孫よ、末裔よ、我らが神に感謝を捧げよ、と。 何匹もの蜘蛛が囁くように好き放題に喋り出す。谷にかかる糸の上を行き来しながら囁きを交わす。――君の祖父もここに来ているよ。――てぃじ・り・り ふんじいすく――君の兄もここに来るだろうね。――君自身はどうなるだろうか。――ここに来れると良いね。――君の兄はよくやってくれているよ。――んかい・い いあ いあ――兄の、何と言ったかね、彼は。――そうそう。確か。――ウード。――ウードだ。――ウード・ド・シャンリット。◆「うわああっ!」 トリステイン魔法学院、男子学生寮の4階の角部屋。 かつて“蜘蛛公子”と呼ばれたウード・ド・シャンリットが9年前まで使っていた部屋だ。 当時を偲ばせるものは、学生寮に備え付けの家具以外は残ってはいない。 ――表面上は。 実際はこの部屋を中心に学院中にびっしりとカーボンナノチューブで構成された〈黒糸〉のネットワークが張り巡らされている。 つまりこの部屋は蜘蛛の巣の中心に準えられるのだ。 そして蜘蛛の巣の中心に居るべき者は蜘蛛に決まっている。 だからこの部屋に居る者は蜘蛛でなければならない。 それ故にロベール・ド・シャンリットの血脈に宿る蜘蛛への『大変容』の呪いも促進されてしまうのだ、彼自身は気づいていないが。 その寮室のベッドの上で、ロベール・ド・シャンリットは汗まみれになって飛び起きた。 学院に入学してからまだほんの2、3ヶ月であるが、ずっと彼は悪夢を見続けている。 沢山の蜘蛛が糸を架けている谷の、その断崖の淵で立ち尽くす夢だ。「はあっ、はあっ、はあっ」 息を荒らげて上半身を起こすロベール。 外はまだ暗く夜明けまでは遠いようだ。 汗を吸ったシーツがじっとりと肌に纏わりつき、寒気と不快感を与えてくる。 直ぐに枕元の杖を手繰り寄せ、水の魔法を使ってシーツを乾かす。 随分昔に夜尿をこうして乾かしていたのを思い出して、恥ずかしいような擽ったい気持ちになる。あの時は貴重な精神力をおねしょの処理に使ってしまって、結局翌日にそれが原因でおねしょのこともバレたのだった。 悪夢を見て跳ね起きたのに、昔の事を思い出すと、ロベールは何だか安心してしまった。 安心するとさっきの夢のことが思い出される。 蜘蛛の夢。 深い谷に橋を架ける蜘蛛たち。 蜘蛛たちが口にする彼らが信奉する神の名前。 そして――。「僕の先祖か、蜘蛛だって? そんな馬鹿な」 彼らは何と言っていたか。 “祖父も来ている”? “兄はよくやってくれている”? 全く、質の悪い冗談だ。「冗談さ。冗談に決まっている。全ては夢だ。僕の夢が生み出したものさ……」 だがどうしても夢の中の蜘蛛たちの言葉が頭から離れない。 祖父のことは分からない。ロベールが生まれたときには死んでいたから。 だが兄は、ウードは、どうなのだろう。 ロベールの物心付いた時からウードはほとんどシャンリットの屋敷には居なかった。 ウードの残した“グロッタ”という名前の資料・標本小屋が屋敷の片隅にあるだけで、あとは家族の誕生日や何かの拍子に様々な珍品・貴重品を持ち帰って来たりするくらいだった。 ロベールの乗騎であるキメラドラゴンのイリスに付けられた調教役の矮人や、シャンリット伯爵家に出入しているアトラナート商会の矮人から兄の話はよく聞いていた。非常に立派な人間だと。 “アトラナート商会”。 蜘蛛の神の名前は何と言っていたか。あとらくなっちゃ? 商会の名前がその神の名前から取られたのか、ロベールの無意識が蜘蛛を戴く商会の名前を勝手にもじって夢の中に登場させたのか、ロベールには判別はつかなかった。 ロベールが5歳の時、彼の兄は廃嫡され、伯爵家の継承権を放棄した。 寿命も残り少ない、と父や母からは聞かされている。 その時以来、ロベールは伯爵家の跡継ぎとして厳しい教育を受け、ウードは彼自身の夢――シャンリットにハルケギニア中の知識を蒐めること――を実現するために東奔西走している。 魔法学院に入ってからは、古参の教師から兄の話題をよく聞いた。ああ、あのウードの弟か、と。奇人・変人の類で、独自の魔法理論を持っており、変態的に細かな作業が得意で、授業はサボり気味だったが、非常に優秀だったそうだ。兄に対する劣等感がないというわけではない。 そこまで考えて、歳の離れた兄とまともに話したことは数えるほどしか無いと、ロベールはふと気がつく。 最近は身体の具合が悪いのか、ウードは余り人前に姿を現さない。 姿を現しても、あちこちに包帯を巻いて素肌は晒さず、その顔色も非常に悪い。 病が顔にも回ったのか、奇妙な表情に凝り固まっており、幽鬼も裸足で逃げ出しかねない陰性の凄みを放っている。「兄上に、それとなく探りを入れて確認してみるか……」 気になったことはそのままにして置けないというのは、ロベールも彼の兄と同じようだった。 王都のシャンリット家の別邸、今は両親が詰めていて夜毎パーティを開いているそこに、月に何度かウードも顔を出している。 ロベール自身も、都合がつく日はパーティに参加し伯爵家次期当主として見聞を広めることにしている。 次に兄が王都のパーティに参加するときに、夢の話を聞いてみようと心に決めるロベールであった。◆ 蜘蛛の糸の繋がる先は 17.植民地に支えられる帝国と先進国からのODAに支えられる国って似てるような似てないような ◆ 王都の通りに一枚ビラが風に吹き流されて転がっていく。 多色刷りのカラフルなビラである。 左上と右下に蜘蛛の巣とそれに陣取る蜘蛛の意匠が印刷されている。 アトラナート商会の広告のようだ。 それによれば虚無の日の夕暮れ時に、王都郊外のアトラナート商会の倉庫の地下に設けてあるスペースにて何かの祭りが開かれるらしい。 ビラにはそこまでの地図と、ライトアップされた舞台で歌い踊る美女、美味しそうな料理や酒が無料で供されること、祭りの参加者にはもれなく1エキュー相当のアトラナート商会の商品券(使用期限付き)を贈呈することが書かれている。 ビラが吹き流されてきた方を見れば、目立つ衣装を着て音楽を鳴らしながらビラを配っている矮人の少女たちが見える。「宴会でーす! 皆様の日頃のご愛顧に応えまして、新作物や新酒の試飲会と楽しい歌と踊りのステージを用意していまーす」「来てくれた方には漏れ無く、アトラナート商会で使える1エキュー商品券を贈呈いたしまーす!」「参加費は無料でーす。お気軽にご家族ご友人と示し合わせてご参加下さーい」 やいやいと陽気な音楽と共に少女たちはビラを道行く人に配っていく。 少し学のある商人なら、幾ら何でも太っ腹すぎると疑うだろうが、アトラナート商会が試供品を大盤振る舞いするのは“いつものコト”だと市民には認識されてしまっている。 誰もアトラナート商会の無限とも思える物資がどこから湧いてくるのか気にする者は居ない。 余りに当たり前になりすぎているのだ。「へえ? また随分と太っ腹じゃないか」「ここ2、3年は不作が続いたっていうのにねえ」「まあ蜘蛛商会のお陰で日々の食事に汲々としなくて済むのは良いことさ」「楽しそうだし行ってみるか。損はしないだろう、別に」 それが全て蜘蛛の罠とも知らずに。「アトラナート商会……。ウードの商会だな、確か。一体何をやってるんだか」 ビラを受け取って呟くのは身なりの良い服を着た筋骨隆々とした赤髪の獅子のような男。 “炎獅子”の二つ名を持つ近衛衛士隊の新進気鋭の騎士である。 トリステインでは珍しい火のスクエアメイジであり、公爵家の一門であり後ろ盾もしっかりしているため、将来を嘱望されている。 現在の元帥である老齢の火のスクエアメイジから、王軍の秘伝のスクエアスペルを伝授されている日々である。 そのため末は元帥にもなるだろうと噂されている。 彼は魔法学院時代――もう9年は前――に“蜘蛛公子”のウード・ド・シャンリットの同級生であり、ウードに最も親しい人間であった。 彼自身は蜘蛛恐怖症(アラクノフォビア)であるために若干ウードに対しては苦手意識があるが。 その近衛の若きエリート、ジャン=マルク・ドラクロワはビラを片手に考える。「どうせウードの所の企画だから碌な事じゃないんだろう……。関わるのはゴメンだが、放っておくと絶対に致命傷になるだろうし……。うーむ、どうしたものか」 王都にはジャン=マルクの妻とその子供たちも暮らしている。 余計な騒乱は望むところではない。 少なくともウードが何を企んでいるのかくらいは把握しなくては安心出来ない。 ジャン=マルクは、ある意味、ウードの性質について絶対の信頼を置いている。即ち、絶対に碌でもないことになるという信頼だ。「確かシャンリット家の別邸のパーティの招待状が来てたはずだ。直接会って確かめるべきだろうな」 場合によっては妻と子を王都から逃がす方が良いのかも知れない。 手で弄んでいたビラを魔法の炎で燃やし尽くすと、ジャン=マルクは自分の居住地へと踵を返す。 パーティに出るなら、妻と子にも知らせなくてはならない。 エスコートするべきパートナーが居なくては格好がつかないから妻も連れていかなくてはならない。 折角だから息子娘の社交デビューを兼ねてもいいだろう。◆ 今日も王都のシャンリット家の邸宅ではパーティが開かれる。 出される料理は、トリステイン伝統のものよりも、新素材を使った奇抜な料理が多い。 だが、そこに外れはなく、好き嫌いはあるだろうが、凡そ万人に受けるような美味ばかりである。 邸宅の料理人が経営するレストラン(アトラナート商会資本)は、常に貴族や商人の予約で埋まっている。 夫人は今日も違う衣装に身を包み、客達を歓待する。 シャンリット伯爵――現在は教育に関する省庁の一部門を任されている――は各方面と渡りを付けるため、連日景気よく酒や料理を振る舞うパーティを開いている。 それもこれも彼の息子であるウードの夢であるシャンリット学術都市化計画のためだ。 招待客が門衛の名乗り口上と共に入場し終わると、伯爵の口上で今宵のパーティも幕を上げる。「やあやあ、紳士淑女の皆さん。本日も当家にお集まり頂いて有難う御座います! このトリステインの将来を真剣に考える皆さんと、今宵を共に出来ることを嬉しく思います!」 傍らには老いを感じさせない美しい伯爵夫人と、その息子のロベール。 それぞれが上品に着飾り、笑みを湛えている。 だがその中にはウードは居ない。 彼は廃嫡されているため、彼自身の意向で伯爵家側ではなく、一参加者として出席している。 給仕たちは各テーブルを回り、招待客に飲み物を配ってゆく。 今夜は、アトラナート商会が造った酒で、伯爵令嬢の結婚を祝って作られた『メイリーン』というワインが振舞われているようだ。 まあ、味は悪くない、というのが以前に振舞われた際に飲んだ貴族たちの評価である。 伯爵の親バカっぷりと超豪華な持参金――北部と王都付近を繋いだ“婚礼街道”――は有名なので、高級品で無くとも大っぴらな非難は起こらなかった。「それでは皆さん、給仕よりお飲み物は受け取られたでしょうか?」 周囲を見渡して、全員の手に飲み物が行き渡っているのを確認すると、伯爵が音頭を取る。「では、このトリステインの繁栄と国王陛下に。乾杯!!」 そこかしこでグラスが掲げられ、招待客はそれぞれに歓談を始める。 主催者の伯爵の下にも参加者が次々と挨拶に訪れる。 やがて緩やかに音楽が流れ始め、ダンスが始まる。 筋骨隆々で凛々しい伯爵と可憐な夫人のダンスに皆が見蕩れ、孫世代の小さなレディとジェントルマンのステップを暖かく見守ったりして時は過ぎる。 ウードはぎこちなく体を動かして、早々に壁際へと退散する。 彼の連れ役の女性はアトラナート商会の矮人――とはいえ14歳くらいには見える比較的大柄な氏族なのでウードが連れていても不自然には見えない――であり、ウードの側に付き従い周囲に油断なく気を配っている。護衛も兼ねているのだ。 巨大な柱時計――見た目は振り子時計だが、実際は電池とクオーツの振動子を組み合わせたアトラナート商会の最新式――の下が、シャンリット家のパーティにおけるウードの定位置だ。 参加している婦人の多くは奇妙に歪んだ表情のウードを見て顔を顰めるが、彼がアトラナート商会の会頭だと知っている者は積極的に彼の下に挨拶に訪れる。 その中に近衛騎士のエリート、ジャン=マルク・ドラクロワの姿もあった。「よう、ウード」「ジャン=マルクか、久しぶりだな。細君もお久しぶり。相変わらずお美しい」 ウードとジャン=マルクは実に数年ぶりの再開を祝ってグラスを合わせる。「乾杯」「ああ、乾杯」 ぐっと杯を呷る二人。 それぞれのパートナー同士も会話を始める。「随分久しぶりだが、どうしたんだ? 今までは全く来なかったくせに」「何、聞きたいことがあったってだけだ。商会が平民向けに開いてる集会があるだろ、その件についてだ。何企んでやがる」 ああ成程、とウードは頷く。「その件か。ただの実験さ。詳しくは、そうだなこのパーティの後に……は人と会う予定があるし」「その後で構わないさ。待っているから」「じゃあそうするか」「ああ、また後でな」 去ろうとするジャン=マルクをウードは引き止める。「まあ待て。このパーティで他の伝手はあるのか? まあお前は顔が良いからご婦人の相手をするには困らないだろうが……。幾らか他の貴族にお前の事を紹介するから暫くここに居ろ」「……ああ、そうだな。折角だからその言葉に甘えさせてもらう」 ジャン=マルク・ドラクロワはシャンリット家が構成する派閥(辺境派)とは対立する派閥(公爵派)に属しているため、このパーティでは聊か肩身が狭かったのは事実だ。 ジャン=マルクを居合わせた貴族に紹介したり、他にも挨拶をしているうちに時間が過ぎる。 ウードは自分の弟のロベールから時折鋭い視線が投げかけられるのに気づいていたが、努めて無視した。 話しかける気があれば、自分が帰る前にでも適当なタイミングで話し掛けてくるだろう、とロベールについては放っておくことにしたのだ。 やがて宴もたけなわとなり、めいめいにテラスや別室へと引き上げてゆく。 ここからは、ただの顔合わせに留まらないもっと深い話をする時間だ。 何組かは近くの自分の別邸まで客を招き、更に親交を深めるつもりなのだろう。門まで迎えの馬車が来ている。 社交パーティは、顔合わせの前半とその後の密会で成り立っている。 ウードが参加しているのはこの後半の密会のためだ。 ウードが呪いに侵された歪な体を晒してまで社交界で活動しているのは、シャンリット領に私立の総合大学を設立するための根回しのためだ。「ウード様、いつも申し訳ありませんなぁ。ぐふふ、ふふふ」「いえいえ、チュレンヌ卿にはいつも便宜を図って頂いています故。この程度は、くふふふふふ」 今も彼は別室で黄金色の菓子を渡しつつ何やら悪巧みをしているようである。 因みに彼の父母である伯爵夫妻は、アトラナート商会が行う教育改革が如何にシャンリット領を豊かにするのに貢献したのか、まともに宣伝している。 腹の中が黒い、というか、邪道外法に慣れ親しんだウードには賄賂の方が性に合っているというだけだ。 近年トリスタニアには腐敗が蔓延っている。 憲兵隊への賄賂次第で犯罪は見逃されたり、税が不当に多く徴収されて差額が徴税官の懐に消えたり。 それは大元を辿ると、アトラナート商会の金満主義的な賄賂攻勢に因る倫理観の歪みに行き着く。 何か大きな事件があれば、市井の噂では「大体アトラナートの所為」と言うことになっている。 徐々にアトラナート商会はその利便性から市民生活に無くてはならないものになりつつあるが、それでも彼らはトリステイン社会においては異物であり、なかなか信用されないのであった。それがよく表れた言葉だと言えよう。 今のところは巧妙に動いているので、賄賂による腐敗の中心が彼らにあるとの確証は掴まれていない。 とはいえ、宮廷の主流派である国王派や公爵派(シャンリット・クルーズ辺境派とは対立している)の中心人物は、賄賂で動くような程度の低い人材ではないし、賄賂騒動の中心に誰かが居ること位は感づいているだろう。 買収された者たちが何の案件に賛成しているかなどを注意深く観察すれば、賄賂の大元がアトラナート商会に繋がることが感づかれるのも時間の問題だ。「ぐふふ。本日は初めてお招き頂き有難う御座います。我々の輝かしい未来に乾杯」「ええ、輝かしい未来へ向けて。乾杯。くふ」 金を貰ってホクホクのチュレンヌ卿と、学生の頃から変わらず目の下に隈を作った左右非対称の歪な凶相のウードは蜂蜜酒の入ったグラスを傾けて呷る。 黄金のそれはとろとろと彼らの喉を通り過ぎて、胃を満たして全身に運ばれるとともに、その魂に霊的な作用を及ぼすのだ。 この蜂蜜酒を飲むことが許されるのは、ウードと繋がりを持つ者の中でも一部の者だけである。 ウードを中心として利害や思想で結ばれた彼らは、一種の秘密結社の様相を呈しており、それぞれがそれぞれの思惑を持ってお互いに繋がりを保っている。 それは金銭であったり、コネクションであったり、あるいはこの場でしか供されない黄金色の蜂蜜酒の齎す得も言われぬ高揚感や予知的な酔夢であったりなどなど。 彼らのコネクションは、その蜂蜜酒に因んで『ミード・クラブ』と自らを称している。 その存在は、不明確な噂として密かに社交界で広まりつつある。人の口に戸は立てられぬ、ということなのだろう。「それにしても、ウード様、何故、私立学校なのです? 我が国にも魔法学院ならあるでしょう」「くふ。そんなものでは到底足りないのですよ。チュレンヌ卿。 私が求めるのはもっと多様なことを研究する場所なのです」「はあ」 ウードが不意に立ち上がり、相手の座るソファとの間にあるローテーブルに手をついて身をズイと寄せる。「チュレンヌ卿は昔に思ったことはありませんか? “鳥はどうやって飛んでいるのだろう?” “魚が溺れ死なないのはなぜだろう?” “何故魔法が使えるのだろう?” “属性はどうやって決まっているのだろう?” と」「それは……」「多くの人はそれをいつの間にか忘れ、始祖に感謝しながら日々を生きていくのでしょう。 しかし私は今でもずっと、こんなことを疑問に思っているのです。 そして、それを完璧に理解できた時に、人間の可能性はもっともっと広がるのだと思うのです」「そう、かも知れませんな」「そうなのです!」 ウードは急に立ち上がり、感極まったかのように天井を仰ぎ、両手を広げる。「新たなことを知ることのなんと甘美なことか!」 くるりとターンして今度は客人の対面のソファーに勢い良く腰掛ける。 風の魔法を内蔵するソファは勢い良く座ったウードを優しく受け止める。「この、“知の感動”というものを万民に伝えたくて」 足を組んではにかむようにウードは言うが、彼がそんな表情しても気色悪いだけである。 蜂蜜酒に酔っ払たらしきウードの様子にチュレンヌ卿は若干引き気味だ。 だが、金蔓への追従は忘れない。「ええ、その崇高なお気持ち、私にも理解できます」「そうでしょう。そうでしょう。さすがはチュレンヌ卿。見込んだだけのことはあります。 “私立”学院でなければならないのは、国益に囚われること無く研究を行うためです。 私立学院でありながら、無私の学院を目指すつもりなのです。 何モノにも囚われず、この世界の疑問を解明するためだけの学院を作りたいのです」「確かに、アトラナート商会の後ろ盾があれば、それも可能でしょうな」 アトラナート商会の財力があれば、そのような機関も作れるだろう。「ええ。シャンリットを私は大きな箱庭にしたいのですよ。 研究のための大きな箱庭に。 いくらなんでも、トリステイン中を巻き込んで引っ掻き回すわけにはいきません。 私はこれでも、歴史というものに敬意を払っていますから」 もう充分お前と従僕の矮人たちたちはこの国を引っ掻き回している、とチュレンヌ卿は口に出かかった言葉をなんとか止める。「はあ、ですが、もともと領地とは領主に取って箱庭のようなものでしょう?」「勿論。ですが、自分の所の領地を引っ掻き回すに当たって、私は王政府のお墨付きが欲しいのですよ。 その第一歩が、私立学院の創設許可です。協力していただけますよね? チュレンヌ卿」 チュレンヌ卿は返答に詰まる。 これは下手をすると、反乱にも繋がりかねない話なのではないだろうかと、背筋に冷たいものが流れる。 その時、表に馬車が来たのが、窓越しに見えた。 紋章はチュレンヌ卿の物のようだ。「おお、迎えの者が来たようですね。今日は有意義なお話を有難う御座います」 渡りに船、とチュレンヌ卿は立ち上がる。「いえ、こちらこそ。お付き合い頂き有難うございました」 ウードもグラスを置いて立ち上がる。 ウードは恰幅の良い貴族の男を先導し、部屋の扉を開け放つ。「私の同僚にも、ウード様の理想をよく話しておきましょう。きっと、共感して力になってくれるでしょう」「ええ。ですが、くれぐれも慎重によろしくお願い致しますよ。 白百合の君のお耳を汚したりすることのないように、くれぐれも」 ウードの口元が一瞬釣り上がり、もう一度言葉を紡ぐ。 光の加減か、ウードの目は赤く光ったように見える。「そう。くれぐれも……」 チュレンヌ卿はそれを聞いて、総毛立つような思いを味わう。――目の前の男は、自分を決して信じてなど居ない。――表情からは猜疑の感情しか読み取れない。裏切るのではないかと疑っている。――いや、あとは、好奇心か? 私に裏切るだけの度胸があるかどうか知りたいということか?――裏切りすらも目の前の男には単なる一つの興味の対象でしかないというのか……?――早く眠りたい。――蜂蜜酒が齎すという開放感と全能感に溢れた夢を見ながら眠りたい。 そう思って、チュレンヌは迎えの馬車に乗り込む。 王都トリスタニアの貴族街。 権謀術数渦巻くこの街の夜は、静かに更けてゆく。 闇の中を一両の馬車が心なしか急いで道を走っていった。◆「待たせたな、ジャン=マルク」「何、それほどでもない」 ウードがチュレンヌ卿と話していたのとはまた別の部屋。 幾分落ち着いた調度の部屋である。「細君はどうした?」「お前の所の商会員が送って行ってくれたよ。よく気がつくことだ」「くふふ、従業員教育はしっかりやっているからな」 教育というか、実態としては生得的な知識なのだが。「じゃあ聞かせてもらおうじゃないか、今度は何を企んでるのか」「分かってると思うが、他言無用だぞ」「……善処する」「くふふ、まあ、君にも立場があらぁな」 くつくつと笑うウードと渋面のジャン=マルク。「そういう事なら、こっちも大したこと話せない、と言いたいところだが。まあ今の私は、ミードを飲んで酔っ払っているから口が滑ることもあるかも知れんな」「『ミード・クラブ』か……」「入会するなら歓迎するぞ。私の推薦付きならクラブ内でも箔がつくだろうし」 備え付けの棚からグラスを2つ『念力』で取り出し、冷やしてあった白ワインを開けて注ぐ。「要らん。お前に関わると碌なことにならん」「何だ? “蜘蛛の小部屋”はトラウマか?」「思い出させるな。それよりさっさと本題に入れ」 ワインを注いだグラスを浮かせたまま空中でぶつけて鳴らすと、それぞれの手元に『念力』で運ぶ。「まあ飲め。そうだな、話す前にちょいと寄り道をさせてもらうが、まあ焦るなよ?」 ジャン=マルクはグラスを受け取るとひとくち口をつけてローテーブルに置く。「いいから話せ」「始祖以来5000年の歴史を誇るブリミル教だが、今まで他の宗教は無かったのか。気にならないか?」「……。考えたこともなかったが、異端審問がどうとかいうのは良く聞くな。それなりに発生しているんじゃないか?」 先住種族の信じるものもあるだろうし、とジャン=マルクは付け加える。「そう、その先住種族だ。或いは使い魔の問題と言うべきか。メイジは使い魔を従え、感覚を共有する。そこにある傾向がある事は知っているか? シャンリット家のように蟲ばかりを召喚する家系もあれば、魚ばかりを召喚する家系もある。実力のあるメイジは自然と強力な種族を召喚するし、強力な種族は決まって長命だ」「つまり?」「メイジと使い魔は一心同体。相互に影響を与え合っている。蟲や小動物を召喚するメイジは視点が近視眼的になりがちであり、鳥を使い魔とするメイジは鳥瞰的な視点を取ることが多く、長命な使い魔を抱えるメイジは長期的な戦略を考えるのが得意な場合が多い。国家や組織の重鎮は血統上から言っても実力のあるメイジになるだろうから、長期的な視点を持ったメイジが多くなる」「……言われてみればそうかも知れない。俺の使い魔は火竜だが、あいつを召喚してからモノの見方が変わったような気がするな」 ウードはワインを飲んで喉を潤す。「私も使い魔召喚してから人生変わった気がするよ」「お前の使い魔は、ほら、あれじゃないか、語るもはばかられる」 地中を泳ぐ巨大なミミズのようなナマコのようなイソギンチャクのようなウードの使い魔を思い出して顔色を青くするジャン=マルク。「まあ、彼女のことは置いとこう」「雌だったのか!? いや、もう置いておこう。トラウマが掘り返される」「賢明だ、ジャン=マルク。どこまで話したか」「使い魔が長命だとメイジも気が長くなるから統治者に向く、までだ」「ああ、そうか、ありがとう。で、だ。そこで異端云々の話に戻るんだが、そうやってヒト以外の視点を容易に得ることが出来るメイジたちは、ヒトの為に考えられたブリミル教という宗教に対して疑問に思わなかったのか、ということだ」「どうだろうな」 ウードはグラスにワインを注ぎ直す。 フルーティな香りが広がる。「東の方では数百年前に召喚された韻竜が守護竜となって主人の死後も守り続けているって街がある。守護竜は始祖と同様に信仰されていると聞く。それは異端だろうか?」「分からない、な。そういうのは神官が考えることじゃないのか?」「思考停止は駄目だ。考えなくてはいけない。先祖に感謝するのは異端か? 王や女王を崇めるのは異端か? 恐るべき強力な先住種族を崇めるのは異端か?」「バランスの問題だろう。統治や生活を乱すなら、それは鎮圧されるべきだろう」「確かに、バランスは大事だ。私が思うに何度か自然発生的に異端思想は民衆や貴族の中から発生したと思う。だが、根付かなかった。先導者のカリスマ不足か、ブリミル教会の弾圧が功を奏したのか、何かが精神的土壌にそぐわなかったのか……」「何が言いたい? 何をやっているんだ、お前は」 ウードはまたワインで口を潤す。「広間で言っただろう? 実験だ、と」「何の実験だと聞いているんだ」「まだ分からないのか? 今まで何の話をしてきた? 思い出せ」「異端の話だ。まさかと思うが」「そのまさか、だ。異端の宗教をハルケギニアに根付かせるためにはどうすれば良いかと、そういう実験だ」 絶句するジャン=マルク。 その顔を見て、くふふと笑うウード。「お前、今どういう事を言ったのか分かっているのか?」「何、取り敢えずトリステイン中の主要な教会は買収済みだ」 実際は買収よりももっと悍ましいチェンジリング(成り代わり)によってであるが。「そういうことじゃない。何だ、ハルケギニア中全部を敵にまわすつもりか? 正気か? ロマリアは黙っていないぞ」「くふふ。ロマリアにもウチの商会の息の掛かった派閥がある。次のコンクラーベで選出される教皇は、アトラナート商会派閥かも知れんぞ? それに、ロマリアに潰されるとなったら、それはそれで、どういう経過になるか観察するだけだ。一向に構わない」「狂ってるな。常々そう思っていたが、それにしても限度があるだろう」「褒め言葉だ、ありがとう」 キシキシと、ウードの右胸の部分から異音が響く。 収められた蜘蛛の毒牙が軋む音を聞いて、愉快そうにウードは顔を歪める。「どうする、ジャン=マルク? 告発するならすれば良い。誰もとり合ってはくれないだろうがな。蜘蛛の毒牙はトリステインの懐深くに食い込んでいるからな。それに今アトラナート商会が手を引けば、あっという間に国中が飢えるぞ」 ウードの言葉を受けてジャン=マルクは鋭い視線を向ける。「くっふっふ。良い視線だ、流石は近衛のエリートという所か。最近トリステインの景気は上向いているが、何故か知っているか? ウチの商会が毎週の虚無の曜日に開いている集会で、集まった人に一人当たり1エキューの商品券を配っているのは知っているな。その商品券を使ってアトラナート商会で日々の糧を買い、浮いたお金で嗜好品や娯楽に手を出しているから景気が良いのさ」 アトラナート商会は地下や宇宙に大規模な食料生産プラントを持っている。 ゴブリンたちの運営する地底都市や月面都市、金星-太陽のラグランジュポイントに建造している宇宙都市は、トリステインを始めとするハルケギニア諸国にとって謂わば“善意の植民地”と言えるような存在になっている。 或いは先進国から途上国へのODAのようなものと捉えてもらっても良いだろう。「ここ数年は不作が続いているし、ウチの商会が撤退すれば、どれだけの人が死ぬかな」「お前……」「そう怖い顔するなよ、ジャン=マルク・ドラクロワ。それもこれも、言わば慈善事業の一端さ。その代わり、そうそう旨い話は存在しない。集会に参加するうちに、すっかり蜘蛛神教の信者になっているという訳さ。それに週に一回宴会を開いてやることで、不作で不安になってる平民達のガス抜きにも成っているんだ。感謝して欲しいものだね」 ブリミル教への信仰を捨てることで、日々の安寧が手に入る、という訳だ。 圧倒的な物量(現世利益)が、古来からの信仰心を上回るかどうか。 アトラナート商会にとってはそういう実験なのだ。「まあ安心しておけ。その内に全部シャンリットに撤退する、長くとも10年以内にはな。後々まで影響は残るだろうから、完全にそれを根絶するには50年はかかるだろうけれど、な」「……撤退したらしたで、飢え死にする民が出るんじゃないのか」「くふふ、そん時は君が商会を興せよ、ジャン=マルク。親友の誼でアトラナート商会から安く卸してやるからさ、私が生きていればだが。そうすりゃ民は飢えないだろう」 話すことは以上だ、とウードは席を立つ。「何でだ、ウード。そんな事をして何の得がある」「くふふ、実験だ。実験でしか無いんだ。それだけだ、知りたいだけなんだよ、どうなるのかって。本当はもっと穏便に進めたかったんだけれど、先も長くないから一気呵成に進めてしまおうと思ってね。作り上げて叩き壊すまでが実験だからね、後始末は必ずすると約束するよ」「狂ってる、狂ってるよ、お前は」「くふふ。知ってるよ。じゃあ、良い夜を、ジャン=マルク・ドラクロワ」「……ああ、さよならだ、ウード・ド・シャンリット」◆ ジャン=マルク・ドラクロワを見送った後、ウードはシャンリット家の邸宅から商会の建物に向かおうと、自分の荷物を取りに、与えられた部屋に向かって廊下を歩く。 そこを、藪から棒に彼の弟のロベールが声をかける。「兄上、探していました。今までどちらに?」「おおロベール久しぶりだな。学院時代の友人と旧交を温めていたんだ」 温めるというか液体窒素をかけて粉々のバラバラに砕き尽くしたというか。「兄上」「何だ? ロベール、改まって」「兄上のアトラナート商会、その名前の由来をお聞きしても良いですか?」 そのロベールの質問を受けて、ウードは全てを悟ったような顔をする。「由来、ね。夢のお告げとでも言えば満足か? ロベール」「……」「何、心配することはない。お前が私や祖父のような人外に堕ちることはないから安心しろ。私の術式がお前を守っているからな。詳しくは母上に聞くといい。だが父上は何も知らないから、父上には聞くなよ」 それでも不安そうな顔をしているロベールに対して、ウードは現在できる対処法を教えることにする。「そうだな、今お前は学院に居るのだったな。ならば出来るだけ私の関連した場所からは離れておいた方が良いだろう。寮の部屋は別の場所に替えてもらえ。あと手っ取り早いのは女を抱くことだ」「女、ですか?」「そうだ。血脈に宿る毒素を別の者に移すのには、胤を女の胎に出すのが一番手っ取り早い手段だからな。まあ私のはもげてしまっている訳だが、父上の場合も母上が搾り取って呪いを抑えたらしいし」「“もげた”って……。“搾り取った”って……」 顔を青くしたり赤くしたりと忙しいロベールであった。 さっと夜空の双月に雲が掛かり、廊下が暗くなる。 そんな慌てた様子のロベールを見て、ウードはぎこちなく引き攣ったような微笑を浮かべると、自分の顔に掛かっている『フェイスチェンジ』の魔法を解き、着ている服の袖を肩口まで風の魔法で裂き、蜘蛛の腕を晒す。 月に掛かった雲が晴れたとき、そこには異形の蜘蛛男が現れていた。 左肩からは短い毛に覆われた1本の触肢と2本の脚が生えており、右肩からは左と同じものに加えて、大きな牙の付いた蜘蛛の上顎が生えている。 顔面は蝋で出来た仮面のようで、左右非対称に、好奇と猜疑で凝り固まっていた。「ひっ」 それを見てロベールは悲鳴を上げそうになるが、身内を前に悲鳴を上げるということに気が咎めて、必死に押し殺す。「悲鳴を上げてくれても構わなかったのだが、頑張ったなロベール。まあお前がこのような異形になることは無いだろう。お前に行くはずの呪いも俺が全部引き受けている筈だからな。それでも不安ならさっさと女を抱くことだな。母上に言ってお前の婚約者との結婚を早めてもらっても良いし、ウチの系列の娼婦を買っても良いし。何なら今日抱いておくか? 今から都合付く娘もいた筈だし、蜘蛛の呪いを胎に受けるというのなら喜んで抱かれてくれる筈だ」「いえ、結構で……」 言い募ろうとしたロベールの眼前に右の第一脚を突き付けて遮る。「眠れていないのだろう? 悪夢を見るのだろう? もう夢で先祖の蜘蛛に会うのは嫌だろう? 悪いことは言わん、兄の心遣いを受けておけ。というか、もう決定だ」「そんな無茶な……」「問答無用、『スリープクラウド』」 極楽を体験して来い、とウードはロベールを眠らせて、適当な部屋に放り込む。 直後に娼館のゴブリンメイジの娼婦に連絡し、搾り取るように言付ける。 娼婦の経験に特化したゴブリンメイジがシャンリット家の邸宅に来るのと入れ替わりに、ウードはアトラナート商会のトリスタニア支店へと向かう。まだまだ仕事は沢山あるのであった。 ロベールがその後悪夢を見ることは無くなったとだけ、付け加えておこう。◆ 騒乱罪による逮捕者が最近王都では増えている。 近衛衛士隊所属のジャン=マルク・ドラクロワの直接の管轄ではないが、王都の治安維持隊の同期――階級は下だが――が一緒に飲んだときにボヤいていたのを彼は思い出していた。 ほとんど譫妄状態になった人々が度々現れて騒動を起こすのだという。 それでも全体で見れば貧しさによる盗みなどは減っており、全体的に王都は活気づいているし治安は改善している。上層部は腐敗しているものの、だ。 譫妄状態の逮捕者とは言っても、何か禁制の薬物をやっているわけでもないようだという。 何でも「神を見た」とか「始祖の再臨」とか譫言を言っているらしい。 参加者はその前に何処か郊外に出かけていっていたらしく、周囲の人間には“パーティに行く”ということを漏らしていたそうだ。 治安維持隊の方では彼らの証言を元に、彼らが参加したという集会を摘発するべく調査を進めているそうだ。 恐らくは先日旧友のウードから聞いた実験――新興宗教の普及に関するもの――の影響なのだろう。 ジャン=マルクはあの日以来、よくよくアトラナート商会の動きを見るようにしていた。 そうするとどうしたことか、道行く人の多くがアトラナート商会の紋章が入った紙袋や薄い手提げ袋に買い物を入れて歩いているではないか。「タダでもらった商品券だし使わなきゃ損じゃないですか。アトラナート商会は品揃えも多いし、品質も良いし」 アトラナート商会以外の商店に並んでいる品も、数年前とは様変わりしているように見受けられた。 例えばパン屋では今までの素っ気ないパンよりも、様々な味や香りが付けられたパンが多くなったようだし、質も向上しているようだ。 何でも、アトラナート商会の小麦は安いわ質は良いわで、質の悪い小麦は王都では見向きされなくなって、不作だった他国へと流れているようだ。 そのため小麦商たちも王都の市場は失ったものの損をしているという訳ではないようだ。足元を見て高く売っているらしい。 また様々な香辛料の類もアトラナート商会は充実しており、それがパン屋を始めとする飲食店の品揃えに反映されているようだ。「最近は一捻りした商品じゃないと売れないねえ。まあ色んな目新しい材料も手に入って、料理人として創作意欲ってのが湧いてきてるって事情もあるけどよ」 他にも、清掃夫や商館の丁稚などにアトラナート商会からの人材派遣と見られる矮人たちが多く見受けられ、他にも教会やあちこちの町屋で文字や計算、果ては法律まで教える教室が開催されているのだという。 低賃金で人気の無い職業は矮人が掌握しつつあり、暇の出来た市民は学習芸術に精を出している、とのことである。 何でもアトラナート商会の催す教室の中には、武術教室や平民メイジへの魔法教室、起業教室まであるとか。「やっぱりきちんと教えてもらえると違いますね。魔法の才能を継いでも、使い方を教えてもらえなければどうしようも無いですし。僕は風の才能があったようなので、治安維持隊にでも入れないかと思ってるんです。治安維持隊の入隊試験対策もやってるって話だし、その講座も受けてみようかなあ」 市井に出回っているお金は、国家貨幣とアトラナート商会の商品券を合わせれば、従来のおよそ1.2倍になっている。 その2種類のお金の内、アトラナート商会の商品券の方は一週間という使用期限が決められているため、これが活発に交換され経済を活性化させているのだ。 幾つかの商店ではエキュー金貨と同様に商品券も取り扱うところが増えている。商品券の期限が切れる週末までにアトラナート商会から仕入れを行えば良いからであった。 インフレ気味になって物価も上昇しているが、食料品はアトラナート商会で商品券と交換してもらえば大丈夫ということで、あまり問題視はされていない。「確かに多少は高くなったかなと思いますけど、その分質は良くなってますし、生活に苦労するようになったわけでもないですし。寧ろ前より良いもの食べて、良いもの着られるようになりましたねー」 その商品券であるが、これは虚無の曜日にアトラナート商会支店の地下の集会所で配られるもので、毎週毎週絵柄が違う。 集会に2時間ほど参加することで、料理と酒と1エキュー相当の商品券が貰えるとなれば、最近では都合が付く者は殆ど参加するようになったとか。 裕福な者の中には、種々様々なその綺羅びやかな絵柄に魅せられて蒐集している者も居るという噂もある。 集会はジャン=マルクがウードから聞いた通りであるとすれば、異端の祈りの場でしか無いはずだが、市民たちにはそのような後ろ暗い雰囲気は見られない。 寧ろ週末のその集会を心待ちにしているようであった。 話を聞けば、集会には楽しい歌や美女の踊りや肝の冷えるような曲芸が披露されているとか。 そして最後には決まって皆で神を称える歌(始祖ではないことに注意)を歌って一体感を演出して散会することとなるとか。 さらにさらに市民たちに罪悪感がないのは、その集会に教会の神父も出てきて説教をして神を讃えているからであった。「さあ皆さん、一緒に神を讃えましょう。異教じゃないのかって? ははは、何を仰る。始祖に魔法を授けた神を讃えるのです、問題ありません。讃える神が多少違っても問題ありませんよ、きっと神様同士友達ですから。いあいあ。ヴィヴ・ラ・アトラナート。この場を設けてくれたアトラナート商会に感謝を」 一度試しにとその集会に出てみたジャン=マルクだったが、その熱狂と一体感は凄まじいものであった。 ステージで踊っている女性の着物には魅惑の魔法でも掛かっているのか、非常に愛らしく見えたものだ。 料理も旨く、酒も旨く、金券は貰えて、楽しく、教会のお墨付きもある上となればこれだけ流行るのもいっそ納得が行こうというものだった。 しかも王都の外からやって来た行商人に聞けば、トリステイン中の何処の村でも同じような集会は開かれているとか。 村によっては教会の地下に集会スペースを設けている所もあるらしい。 その中でも聞き逃せない話があった。 シャンリット領の方では、その集会にて全くの平民に何やら石版のようなものを、熱心な信仰の証として与え、それを持った平民がそれに祈りを込めることで魔法を使わせたのだという。 実際にシャンリット領では多くの平民がその石版状のものを持っており、火打石の代わりに『着火』の魔法を使ったり、水汲み場から水を運ぶのに『レビテーション』を使ったりなど、初歩の魔法であるが、祈りの言葉と共に使えるようになっているそうだ。その“石版”の実態としては恐らく幾つかの魔法を込めた、非常に高度で汎用的なマジックアイテムなのではないかと、魔法に関する知識があるものは予想している。 王都でも“アトラナートの集会に参加すれば魔法を授かることが出来る”という噂は流れており――恐らくは意図的に流されたものだろう――ますます市民の熱狂ぶりが上がっている。 それでいて景気は上向き、税収は増えて治安は改善し、文化的にも始祖開闢以来5000年の歴史に恥じないものが芽吹こうとしている、と、政府としても文句の付けようがないのだ。 公僕の多くが賄賂漬けで買収されている事情もあるが。 貴族の中にはアトラナート商会に借財している者も多くなってきているようだった。 借金をしたまま没した貴族の領地は借金ごとシャンリット伯爵家が買い取ってしまい、飛び地ではあるがシャンリット家の領地は増えている。 このあたりが懸念といえば懸念だろうか。 諸外国はトリステインの好景気はアトラナート商会という無限とも思える金蔓がもたらしているものだと認識しており、昨今の不作によって足元を見て穀物を売りつけてくるトリステイン商人に対する反感も相まって、戦火が燃え広がりかねない趨勢になって来ている。 この年の麦も不作であれば、恐らくはアトラナート商会という打ち出の小槌を狙った侵攻があるだろうとは、想像に難くない。◆「気温変動がおかしい」「どうしたのさ、唐突に」 ここはシャンリットはアーカムの地下に広がるゴブリンの地底都市。 その中でも気象庁に分類される所であった。 一人のゴブリンが世界各地の気温変動表をここ数年のものと見比べているのだ。「黒点が減ったわけでもないのに、こんな氷期みたいな気温になる訳無いんだが」「気温を決める要因としては、太陽活動(太陽放射)地表や大気からの放射、アルベドとかあるけど?」 表を見ながら頭を捻るゴブリンたち。「太陽活動は変化なし。アルベドは別に氷が増えたわけでもなし。地球放射も変動無いと思うんだけど」「誰かハルケギニア星のエネルギー動態のレポート作ってないか?」 問いかけるゴブリンにフロアの注目が集まる。 そんな中で少し離れた場所のゴブリンが手を上げる。「俺作ろうとしたけどさ、〈ゲートの鏡〉経由で宇宙各地の基地開発に使われたエネルギーが分からなくて挫折したんだよね」「……!! そ れ だ」「え? 何さ?」「そうだよそうだよ太陽光発電で得たエネルギーをバンバン別の場所で発散させてたじゃんそりゃあ気温も下がるわ何で気づかないんだよ誰もうわーマジやばい」 どうやら天候不順による不作はゴブリンたちの所為らしかった。「落ち着け、取り敢えずだな〈零号〉さんにハルケギニア星のエネルギー動態をシミュレーションしてもらってだな、原因がそれだとはっきりしたら報告しよう」「これってハルケギニア星各地の〈偽・ユグドラシル〉を破棄するとかそんな話になるかな?」「まあ遅かれ早かれ撤退するつもりだったんだし同じだろ、多分」「取り敢えず〈零号〉さんに依頼出しときますねー」 ハルケギニア星に張り巡らされた〈黒糸〉に宿る知性体〈零号〉は、所謂、技術的特異点の突破(人工知性が人工知性をデザインすることで加速度的に技術や知性の発展が成されること)を成し遂げており、ゴブリンたちにとって非常に頼りになるパートナーなのだ。 それと同時に調査すべき事柄は幾何級数的に増大しているため、〈零号〉の拡張も間に合っているとは言いがたいのだが。 〈零号〉が人間だったら疾っくの昔に過労死しているだろう。「〈零号〉さん、お願いがあるんですけどー」【あいあいー……。今、結構火星の“古のもの”関連で忙しいんだけど】「ハルケギニア星のエネルギー動態についてシミュレーションしてもらえます? この星の気温低下が宇宙開発に太陽光エネルギーを注ぎ込み過ぎたからじゃないか疑惑が出てですねー」【あー、確かに宇宙開発に使ったエネルギーはある意味地球放射の一種とも捉えられるねー。盲点だったわー】 後に〈零号〉が計算し直したところによると、今年もまた天候不順で不作になることは確定的だということであった。◆ そして秋、収穫後。 不作を予期していたゴブリンたちにとっては予定調和のごとく、周辺国からトリステインへの侵攻が発生した。 具体的にはガリアからクルーズ領(ロベールの婚約者の実家)へと、それとは逆サイドの国境線において、都市国家が連合した上にシャンリットより東部のトリステインの一部諸侯が寝返ってと、2方面から挟みこむようように侵攻が行われた。 シャンリット領は国境に面していなかったのだが、この東部諸侯の寝返りによって最前線へと早変わり、という具合だった。「くふふ。まあシャンリットが攻められるのは自業自得みたいなもんだが、攻めて来るならば壊滅させねばならぬ。聖域シャンリットを蹂躙させる訳にも行かぬから、精々華々しく散って貰うしかあるまい」 ウードの陰気な笑い声が地底都市の神殿内の執務室に響く。「取り敢えず、処理案件を増やしてくれた侵略者どもには、きっちり報復してやらねばな……」 格好つけた台詞を吐きつつ、彼は戦争に伴う処理案件の増大によって紙の海で溺死しそうになっていた。================================当作は邪教系チート内政モノです?大幅修正したけれど戦争フラグは無事に?立てられました2010.08.07 初投稿2010.08.10 加筆・修正2010.10.24 大幅修正2010.10.25 誤字修正