改訂後の主な変更点を3行で↓。・ウードが邪神の呪いで8割くらい異形のスパイダーマンに(8話、9話)・ウードのタマとサオがもげたので、廃嫡されて結婚していない(14話)・全体的に禍々しめにして、文量も増加では21話をどうぞ。===================================「『五つの力を司るペンタゴン。我の運命に従いし、この末世に救いを齎す、強力無比な、救世主(ぼく)の右腕となる使い魔を、召喚せよ』!」◆「みず……を……」「うぅ……」「あぁぁあ」 山裾から少し離れた場所にある一つの村が死にかけている。 あちこちで呻き声が上がり、墓所には死体が溢れている。 墓所に死体を運び込む人員すら居ないのか、村のあちこちに死体がそのままに放置されている。 村は胸が悪くなるような死臭に満ち、死者どころか生者にも蛆が湧き、蝿が集る。 ヒトという大きな生命が貪り食われて、より小さな生命へと転化していく。 そんな、ある意味ではこの世界にありふれた風景。 そこに現れる異様な一団。 全身をすっぽりと隙間なく覆う灰色の服。 子供のような小柄な体躯から察するに、その中身は矮人たちなのだろう。 水死体のような、あるいは肉襦袢を着た道化のような、そのシルエット。 頭部には蠅を思わせるようなマスクを被っている。 目の部分は複眼のような細かな格子状の窓になり、口の部は蝿の口吻のように短く伸びている。 10人ほどの一団のうち半数ほどは背に、一抱えもあるような円柱状の金属質の輝きを帯びた物体を負っている。 その背負い荷物の上部からは人の手首の太さほどのチューブが伸び、一団の各員の手に持つラッパ状の器具に繋がっている。 消毒液の噴霧器のようだ。 あとの半分ほどは、大荷物を背負っている。 背負われた荷物には、何らかの液体が詰まった手のひら大のパックや、空の瓶が詰まっているようだ。 他にも長い棒や、ヒトを包めるくらいの布が束になったものも見て取れる。 サンプル回収用の瓶や担架であろうか。 最後尾の1人は自分の背の高さよりも大きな蟲籠を背負っている。 中は飛び回る夥しい数の羽蟲によって満たされ、蟲籠は真っ黒に見える。 現れた膨れ人形達の一団は、その名前を“ミスカトニック学院 教師長直下 対バイオハザード緊急防疫委員会 実働部”と言う。 防護服に身を包んだ一団のリーダーらしき人物から部隊員たちに指示が飛ぶ。 マスクに遮られてくぐもった音声が、熱病に冒された村に空虚に響く。「生存者への全身消毒、抗体注入措置、栄養点滴など必要な処理の後、学院都市のサナトリウムに転送する。 転送用の〈ゲートの鏡〉の設置を急げ。 生存者の居ない区画は順次、消毒措置を開始すること。家畜も処分しろ。 死体は回収。ヒトも家畜も野生動物も蟲も全てだ。放っておくと新たな感染源になるし、貴重なサンプルだ、分析に回せ。 ワクチンを分泌するように改造された蚊の散布は、風や植生を読んで、適切な間隔をおいて行うこと。 いちいち全ての動物にワクチン注射をしてはいられないからな、全域にワクチン蚊を行き渡らせるんだ。散布場所の記録は怠らないように。 念のために周辺の樹々のサンプルも採っておいてくれ」 防毒マスクを着けて、防毒服に身を包み、どこからともなく現れた彼らは、速やかに自らに課せられた作業を開始する。 この村に死をばらまいた病原体を封じ込めるのだ。 指示を終えた部隊長は、村の中心に視線を遣る。 部隊長の視線の先には、村の広場があった。 血染めの広場だ。 まるでヒトが内側から弾け飛んだかのように、広場やそこを囲む家々の壁に叩き付けられた血と臓物と脂肪によって斑に不気味な模様が描かれている。 広場のあちこちに抉れたような跡があり、その周囲にはまるで水風船を叩きつけたかのように、血の花が咲いている。 恐らくは、正しく“ヒトが内側から弾け飛んだ”という比喩の通りの事が起こったに違いなかった。 身体にダイナマイトでも内蔵していたのだろうか? 他にも煤だけ残して燃え尽きた人体(足首しか残っていない)や凍りついた人体、苦悶の表情のまま助けを求めるように手を伸ばして石化した死者、融合して混ざり合った親子など、様々な尋常ではない死に方をしたものが見受けられる。 それだけを見ればメイジによる襲撃があったのかとも考えられるが、しかし掠奪の跡は見られず、ただただ病と死が蔓延しているのみだ。◆ 発端は、ゴブリンたちの地底都市に数多くと存在する実験棟の中の、ある実験室に於いての話であった。 実験室とは言うものの、そこには病室のような部屋であった。 清潔に片付けられており、何かしらの怪しい機械や薬品は存在していなかった。 ここは、被験体となるヒト――大抵の場合はウードのクローンかそれをベースに遺伝子を改変したものである――を飼っておくための部屋なのだ。 この実験室がある実験棟は、丸々全てが、この部屋と同じような被験体の居住施設で占められていた。 被験体には過不足無く食事が与えられ、働くなくともある程度の娯楽については望めば与えられ、清潔な衣服も用意される。 本来であれば、この部屋には一人の被験者が居るはずである。 だがこの部屋には誰も居ない。 ベッドサイドの小物置には、湯気を立てる飲みかけのティーカップが残されていた。 他にも幾つも沢山の付箋紙を挟んだ読みかけの本が、積み上げられている。 ベッドの上の布団は上半分が盛り上がっていたが、その下は空洞だった。 壁に上半身を預けて、脚だけを布団に入れていたのだろう。 布団は乱れた様子がなく、抜け出た形跡はないのが不思議だった。 定期的な回診の際に、担当者であるクァンタン・ウンズィエム・ウェッブが異常に気づいたときには何もかも手遅れだった。『被験体が居なくなっている』 クァンタンは、着込んでいる厳重な対ウイルス感染用の防護服の中で、顔を真っ青にした。 脱走か? と考えたが、この病室――飼育室とも呼ばれる――の入り口は鍵がかかっていた。 中に入っていたのは系統魔法が使えないように遺伝子を調整された被験体だったはず。 尤も、クァンタンの実験が成功していれば、ウイルスがもたらす脳回路の変化によって、コモンマジックくらいは使えるようになっていても可笑しくはない。 そうなれば、ひょっとするとこの部屋の錠を『アンロック』し、外に出た後で再び『ロック』を掛けて錠を下ろすことも可能かもしれない。 ……とはいえ、この施設の錠は“なりたて”のメイジの『アンロック』で解除できるほど簡単な構造のものではないが。 クァンタンは念のために『ディテクトマジック』でX線透視をするように部屋中を探査して反応を探ってみたが、全く何の痕跡も発見できなかった。 「まさか溶けて無くなった訳ではないだろうが……。あの被験体に投与したウイルスは組織を溶解させるような類ではなかったはず」 この部屋に居た被験体に感染させて、経過を観察していたのは、そういった所謂“人食いウイルス”ではなかったはずだ。 別の隔離実験棟では、兵器転用も可能なほどに強力な人食いウィルス――その犠牲者は骨と皮とウイルスのウヨウヨ泳ぐプールとなった溶解した血肉しか残らないそうだ――を研究しているそうだが、各病室は完全に隔離されているため、別の病室からウイルスが伝染することはあり得ない。 コンタミネーションが起こらないように隔離は確実に行われている。 念のために行った『ディテクトマジック』による探査でも、溶けた血肉が混じり合った腐汁などは、この部屋からは当然ながら見つけられなかった。 では被験体は一体何処へ? クァンタンは頭を切り替え、上長に指示を仰ぐべく部屋を後にする。 被験体の様子を記録しているマジックアイテムに何が起こったか映っているかも知れないし、この建物全体を統括するインテリジェンスアイテム――建物一つまるごとがインテリジェンスアイテムの知性が宿る器なのだ――が何か知っているかも知れない。 クァンタンの上長はクァンタンから報告を受けた後、直ぐに被験体が居た病室の映像記録を確認した。 その結果、被験体は瞬時にして実験室内から消え去ったことが判明した。 記録映像には被験体が消える直前に、銀色に輝くゲートが現れ、それが被験者を飲み込んだ様子が映されていた。「『サモン・サーヴァント』……! 想定外も良いところだっ!」 クァンタンは悪態をつく。 彼の上司はそんなクァンタンの様子を気にも留めずに面白がった口調で言う。「ふふん。そんなに苛立つこともあるまいよ。これは貴重な事例(ケース)だ。しかも召喚されたのはウイルスによって変異途中にあるとは言え、人間だぞ。非常に非常に、貴重な事例だ。喜ばないのかね?」「貴重なケースで心躍るのは確かですが、私のサンプルだったんですよ? しかも唯一経過が良好だったものです。残りの被験体は全部死んでしまって……、居なくなった被験体は最終段階で、もう殆ど完成して、あとはデータを取るだけだったのに!」「そりゃあ、お気の毒ではあるがね。何なら取り返しに行くかね? 被験体識別用のチップは埋め込んであるのだろう?」 上司はそうやってニヤニヤしながら尋ねる。 明らかにからかっている様子だ。「確かに被験体には情報チップをインプラントしていますけれど、あれは完全に受動的な装置で何の信号も発信していませんから、追跡できるものではありませんよ? ご存知でしょう? ああ、本当、これからどうしよう……」「何、今後の研究テーマについては心配することはあるまい。君の次のテーマは決まったも同然だよ」 その言葉にクァンタンはキョトンとした顔で自分の上司を見つめる。「一体どういう事です?」 上司の笑みが深まる。「今まで誰もがやろうとして遂に実地での許可が降りなかったことだよ。だが、事故なら仕方ない、と許可を下ろさざるをえないだろう。君の次の研究テーマはだね――」◆ 蜘蛛の糸の繋がる先は 21.バイオハザードにおける感染拡大の実例研究――パンデミックへの対処方法の有効性の検証――◆ 病いを身に宿した男が光り輝く銀の鏡を潜った先には、大きなブリミル像があった。 男には名前が無かった。 番号で呼ばれ、識別用の小さなチップを埋め込まれ、人でなしの実験に使われていたので、名前など必要ではなかった。 そもそも彼の身体は、ある男のクローンであった。 何者でもない男は、それでも何一つ不満を覚えずに生きてきた。 男は知識さえ与えられれば充分に満ち足りていた。 彼のオリジナルとなった者の持つ、強烈な飢餓感を伴うほどの知的欲求には及ばないものの、彼も人並み以上に――寝食忘れて本を貪り読む程度には――知的好奇心が強かった。 例え実験動物であろうとも、彼はその運命を受け止めていたし、自分の身が貴重なデータとなるというのならば、それは寧ろ喜ばしいことだった。 科学という宗教に身を捧げた殉教者。 真実への生贄。 それがこの男の在り方だった。 ドクタ・クァンタンのウイルス接種が終わり、死ぬような熱病(実際に彼の同輩たるクローンたちは十数人は死んでいる)に魘される日々を乗り越えて、漸く病態も安定して、さあ本が読めるぞ、と思ったら、これである。 召喚の銀鏡を潜り抜けた際の精神的な動揺が漸く治まり、周囲を見渡す余裕が出来る。 立ち上がり、周りを確認しようとする。 見知らぬ場所……一瞬目に入った始祖像から考えるに、おそらくはどこかのブリミル教会の聖堂だろう。 ステンドグラス越しの柔らかい光が降り注いでいる。 陽の光を浴びるのは初めてだな、などと彼は思った。 この身体は日光に耐えられるように出来ているのだったか。 はてメラニン色素産生遺伝子はノックアウトされていなかっただろうか、と彼が自分の身体のスペックを思い出そうとした所で、初めて彼に声が掛かる。「き、君は誰だい? 何時の間にここに入り込んだんだ?」 名前の無い病み男は、ここになって初めて傍らに一人、少年が立っていることを認識した。 病み男は少年に問い掛ける。「なるほど、少年が私のマスターか」 病院服を着た病み男は実の所、この時点でおおよその事態を把握していた。 “自分は使い魔としてこの少年に呼ばれたのだ”と。 自分があの隔離病棟から『サモン・サーヴァント』によって喚び出されたことも、“まあヒトよりも遥かに上級な存在であるクトーニアンが召喚されるなら、病み上がりの半死半生である自分が召喚されるのも不思議ではないか”と思っていた。 あどけなさを残すその少年は、目の前の不健康そうな男の言葉を聞いて目を剥いた。「じゃ、じゃあ君が、僕の使い魔、なのかい?」 信じられない、といった様子で呟く。 それは人間が召喚されたことよりも、召喚の魔法自体が成功したことを訝しんでいるようだった。「何かの間違いじゃないのか。魔法を失敗ばかりしていた僕が、成功? しかも人間を呼び出すなんて……。いや夢? 夢なのか?」「少年、錯乱するのは良いが、『コントラクト・サーヴァント』は良いのかい? 君が何を願って『サモン・サーヴァント』を行ったのか知らないが、必要だったから喚び出したんだろう?」 病み男は、読みかけのまま持ってきてしまった本を片手に、聖堂をぐるりと見渡す。 人影はこの少年以外には見当たらない。 どんな化け物が出てくるか分からない『サモン・サーヴァント』を、たった一人で行うということは、何かしらの理由があったのだろう。「……夢だ夢に決まっている。こんな目の下に隈を作って今にも死にそうな男が運命で結ばれた僕の使い魔だなんて。世界を救うパートナーだなんて」「おい聞いているのか少年」「そんなバカな、あんまりだ。ああでも始祖ブリミルよ、これが運命だというのですか。どうせ人間ならもっと可憐な妖精のような女の子の方が――」 なるほどパラノイアか。 どこかにトリップしている少年を、病み男は持っていた本で殴りつけた。本の角の部分でガツンと。「痛いっ!」「目が覚めたか?」 ちなみに少年を殴りつけた本の名前は『屍食教典儀』という。コボルドの亜種と思われる不潔な亜人たちが崇める神々について書き記した本である。 このような邪悪な書籍は、ゴブリンたちの居る地底都市だけでなく、シャンリット領アーカムに設立された私立ミスカトニック学院にも所蔵されている。 男は乱読家だった。「うう、現実は過酷。目の前には不健康そうなヒョロ長い男がいるだけなのでした……。おお神よ、始祖ブリミルよ、分かりましたこれが試練なのですね」「現実を受け入れろ。世界を救うと言ったな? 手伝ってやろうじゃないか、少年。さあ、契約をするが良い」 歌劇のように大げさな様子で嘆く少年――大げさな仕草から察するに恐らくはロマリア人なのだろう――を、病み男は醒めた目で見つめる。 意を決したように少年は契約の言葉を口にする。「使い魔契約は神聖なもの、だものね……。仕方ない。我が名はグレゴリオ・セレヴァレ。『五つの力を司るペンタゴン。この者に祝福を与え、我の使い魔と成せ』」 少年は病み男に近づくと、男の血の気の引いた蒼い唇に口付けをした。 ステンドグラスから差し込む光りに照らされて、始祖像の前で接吻を行う。 非常に絵になる光景だ。聖堂はある種の神聖さに包まれる。 グレゴリオは直ぐに唇を離して、簡素な修道士服の袖でゴシゴシと拭う。 少年の目はどんよりと濁っている。 ファーストキスだったのだろうか?「使い魔契約だからノーカン、ノーカン……」 グレゴリオはぶつぶつと何事か呟いている。 その間、病み男は自分の体内に感覚を集中させていた。(使い魔にされるなどという経験は滅多に得られるものではない。じっくりとルーンが刻まれる感覚を味わって、その記憶を持ち帰ってシャンリットの人面樹群に加えなくてはならない。帰還方法については心配あるまい。この身体は貴重な実験体であるから、その内にゴブリンたちが見つけ出すだろう。さて、どんなルーンが刻まれることやら……) 病み男の身体に魔力が流れ、渦巻いては右手の甲へと流れ込む。 焼印を押し付けるような痛みが走るが、男は歯を食いしばって耐える。 数瞬のうちにルーンは刻まれ終わった。 そして右手の甲に現れたルーンを目にして病み男は驚き叫ぶ。「――ヴィンダールヴ!」 少し前にに暇に飽かせて読んだ、古代の本の中に記されていた伝説の使い魔。 “神の右手”、“神の笛”、“獣を操るもの”。 つまり病み男を喚び出したこのグレゴリオ・セレヴァレという少年は――。「虚無の担い手か! 凄いぞ! 大発見じゃないか! ふは、はは、ふふふ!」「何なの、急に。怖い。変なの」 急にテンションを上げた病み男に、グレゴリオは困惑する。「何が嬉しかったのか知らないけれど、そんなことより、君の名前は何て言うんだい? 教えてくれよ。使い魔になってもらうのに、名前も知らないという訳にもいかないからさ」「くふふ。名前、名前ね」 一頻り笑った男は、紅顔の美少年グレゴリオに向き直ると、恭しく跪く。 主に仕える下僕のように跪く。 ここはロマリア風に、歌劇のようにやったほうが良いだろうと思ったのだ。 ――誰も気づかなかったが、この時に一匹の蚊が跪く男の首筋に止まり、血を吸った。そしてこのたった一匹の蚊が、後に何百万という命を奪う病の猖獗の切っ掛けとなるのだが、誰一人知る由もなかった。「名前はありません。“デニエ”と呼ばれたりすることもありますが、“最後の生き残り”という以上の意味はありません。だから私に新しい名前を下さいませんか、主殿」 言葉遣いも改め、先程までの狂奔ぶりが嘘のように、病み男は、ともすれば神聖とも思える雰囲気を纏い、膝をついている。 それに合わせてグレゴリオ少年も頭を切り替える。 この少年、乗せられやすい質であった。 その目立ちたがりで乗せられやすい性格を見抜いた司祭は、グレゴリオが魔法が不出来なことについて慰める度に、“君は救世主になれるのだ”とか“君には特別な才能があるのだ”とか“よっ、ロマリアの若き星!”とか“御大将!”とかおだて上げた。 そしてこの少年グレゴリオは、司祭の言葉を真に受けて中二病を拗らせる位には、頭の中が単純に出来ていた。 この世の中には何かしらの打倒するべき邪悪があり、それを成し遂げればこの世界は救われるのだ、自分こそがその為の救世主なのだ、救う救うとき救え救おう救わねば! 使い魔を得てからは、彼の内側にさらに沸々と湧き上がるものがある。 最初はこんな陰気で不健康そうな男が何故使い魔に、と感じたが、いざ契約してみれば、ああなるほど確かにこの使い魔は正しく自身の半身なのだと理解できた。 何よりこの体中を駆け巡る魔力の奔流が雄弁に物語っている、“時は満ち、遂に運命は我に味方せり”と。 今なら双月だって砕けそうだ。アルビオンすら墜としてみせる。海を割ってガリアとロマリアを結ぶ道を作ろうか。火竜山脈を掘り抜いて遥か北まで攻め上がり、大王ジュリオ・チェーザレの成し遂げなかったハルケギニア平定を成し遂げようか。僕にはそれだけの力がある。 高揚感に包まれ夢見るようにグレゴリオは思う。 ああハレルヤ。始祖の名の下に全てのブリミル教徒に救いあれかし。 救う者がいなければ僕が救世主になろう。 いや、僕こそが救世主なのだ! 使い魔となった男が、グレゴリオの前に跪いて言葉を待っている。 そうだ、名前をつけなくては。 お誂え向きにここは聖堂。 神と始祖の前でこの男に洗礼を施すのだ。「ごほん。うむ、名前ね。君はちょっと身体が弱そうだからね、“サーノ”なんてどうだろう?」「“サーノ”。はい、ありがとうございます、主殿」「宜しい。我、グレゴリオ・セレヴァレの名において、汝をサーノと名付ける!」「有り難き幸せ」 ウイルスの巣窟である自分に“サーノ(健康な)”とは、随分と気の利く主殿だ、と病み男改めサーノは思った。 その顔はクローンである彼のオリジナルである所のウード・ド・シャンリットが人の姿形をとっている時と全く同じ相貌であった。◆「“魔力暴走ウイルス脳炎”というのかね」 アトラナート商会元会頭、ミスカトニック大学教師長、トリステインの子爵という肩書きを持つウード・ド・シャンリットは、緊急報告として齎されたものについて天井に張り付いたまま聞いていた。 ウードはもはや人の形を留めていなかった。 彼の姿形を一言で表すならば、“大きな蜘蛛の頭の部分に人の頭を取って付けた異形”だ。 だが、よくよく見ればこの蜘蛛とヒトとの混合物が、実はヒトの骨格をベースにしていることが分かる。 背面からウードの胴体を見れば、頭、頚、肋骨が形作る胸腔部分、脊椎、骨盤の場所に、黒と紫の毒々しい甲殻が、かろうじてヒトと分かる形を残しているのが見て取れるはずだ。 脇腹部分が抉れているから、蜘蛛というよりは蜂か蟻にでも見えるかも知れない。 蜘蛛にもヒトにも成り切れない異形だった。 頭の方から背中側に向かって順に見ていくと、先ずは首筋から伸びている大きくて鋭い左右の毒牙(鋏角)が目に入る。 次に、唯一人の面影を完全に残している頭蓋が前方を向いて付いているのが分かる。人の形は留めているものの、その皮膚は既に甲殻に変化しており、左右非対称な好奇と猜疑に凝り固まった表情のまま動かない。 かつて肩があった部分からは左右それぞれ短い触肢と二本の細長い脚が生えている。 肋骨は頑丈な甲殻に変わってしまっている。果たして内部に心臓や肺が残っているかは定かではない。 脇腹に当たる部分は抉れて何もなくなっていて、脊椎だったと思われる細い甲殻が、上半身と下半身を繋いでいた。 さらに視線を下に向ければ、骨盤があったと思われる部分からも左右に二対四本の脚が伸びている。骨盤のすぐ下には膨れた蜘蛛の腹がついている。 脇腹に詰まっていた内臓は、いかなる変態の経過を辿ったのか分からないが、骨盤よりも下の位置に移動しており、黒と紫の縞によって彩られ、不吉に膨らんだ蜘蛛の腹になっている。 ウードは会議室の天井に張った蜘蛛の巣に逆さまに張り付いて、報告を聞いていた。 近頃では、呪いが強まり、日に一人は生贄のウードクローンに『大変容』の毒液を注入して、呪いを移さなくては、正常な意識を保てなくなってしまっている。 油断をすると、アーカムの地下の地底都市のさらに奥底にあるアトラク=ナクアを祀る祭壇に開いた時空の裂け目から、暗黒のン・カイの谷へと旅立ちそうになる。 『サモン・サーヴァント』による予期せぬバイオハザード、“魔力暴走ウイルス脳炎”の担当責任者に抜擢されたクァンタン・ウンズィエム・ウェッブは天井に張り付くウードを見上げて、さらに説明する。「はい、私が行っていた研究は、“非メイジをウイルスを用いて後天的にメイジにする方法”でした。実験のためのウイルスベースとして使用したのは、神経系に特異に感染する脳炎タイプです」「血液感染するタイプか? 蚊や蚤が媒介する?」「はい、そうです。またウイルスの外殻(カプシド)は、脊椎動物全般に対して有効なように改造されています」「キメラ化技術を応用したのだったな、確か」 ウードはクァンタンの説明を聞いて記憶を掘り起こす。 あらゆる動物に感染するようにと、水と土の魔法によって改良――あるいは改悪――されたウイルス外殻は、非常に強力な感染力と伝染力を持っている。 この“汎用ウイルス外殻”の原案は、ずいぶん昔にウードが考えたものであった。 様々なウイルスをキメラ技術によって合成し、どんな実験動物に対しても使えるように汎用化するというアイディアだ。 実験用の“汎用ウイルス”はその強力な感染力のために、バイオハザードを起こさないように厳重に管理された施設以外では使用が禁止されていたのだが。「まさか被験体ごと『サモン・サーヴァント』で略取されるとは想定外でした」「それについては済んだことだ。別の部門で原因調査と対策協議がなされている。人間が召喚されたということで、ブリミル教に伝わる虚無系統の伝承と絡めて考えたりしているらしいが」 そう言って、ウードは続きを促す。「“魔力暴走ウイルス脳炎”について、続きの説明を頼む」 クァンタンは背筋を正して、天井を見上げ、説明を再開する。「はい、私がデザインしたウイルスは、感染してヒトの脳まで侵入すると、脳内に新しく、メイジと同様の神経組織を構築し、系統魔法を使えるように感染者の脳を改造します。ですが、その改造の為のプログラムを組み込んだウイルスの遺伝子は複雑で、非常に長大になってしまったので、幾つかに分ける必要が生じました。最終的には、4種類のウイルスに分けて遺伝子を封入し、それを特定の順番で然るべきタイミングで感染させることで、感染者をメイジに改造するように調整いたしました」「なるほど」「私の実験では正しい順番で正しく感染させた場合の試験を行っていたところでしたので、それ以外のケースについては何の実験も行っておりませんでした。現在急ピッチで、考えられうる限りの感染パターンについて再現実験を行っておりますが……」「その再現実験の結果として顕れたのが“魔力暴走ウイルス脳炎”か」「はい。再現実験では被験体のうち幾つかが、系統魔法発現のための脳回路新生の過程で、体内の魔力の暴走を招き、風の魔力を暴走させて内側から炸裂して死亡しました。元々、ウイルスが所定の性能を発揮して脳改造が成功した場合でも、高熱や脳炎による致死率が非常に高かったので、さらなる改善を目指して研究中でした」「だが問題点を改善する前に、召喚事故によって被験体は失われた、と」「はい……。魔力の暴走による身体内部からの爆死の他にも、脳炎や全身ショック症状など様々な症状が確認されています。再現実験における魔力暴走では爆死するパターンが一番多いのですが、他にも土の魔力暴走による石化や死蝋化、火の魔力による人体発火現象やミイラ化、水の魔力による凍結や周囲の生物との融合キメラ化など様々な現象が発現するようです。ウイルスの増殖自体にも感染者の魔力が用いられるようです」 ウードはその報告を聞いて、困ったような雰囲気を醸し出す。 報告者のクァンタンは恐縮してしまっている。「なるほど。つまり、家畜や鳥や鼠に無差別に感染して劇的に広がる、非常に感染力が強いウイルスが野に放たれた、ということだな」「その通りです」「おまけに感染者は一定の確率で物理的に爆散し、その血肉ごとウイルスを広範囲にばらまいてしまう、というわけか。偏西風にでも乗ったら厄介だな。いや、ベクター感染や血液感染しかしないなら、そこまで気にする必要はないか。因みに致死率は?」「感染実験の致死率は、何も処置しない場合は9割を超えます。抗ウイルス剤などの投与や、水魔法による治療は有効ですので、きちんと対処すれば致死率は3割以下に抑えられるでしょう。またワクチンによる予防が有効だと確認されています」 バイオハザード。 絶対に何時かやらかすと思って、充分に対策を練ってきたはずだったのだが、それらの対抗措置は『サモン・サーヴァント』によって一気に覆された。 即座に対策を取らなければ、かつてウードの前世の世界で、何千万と犠牲者を出した中近世のヨーロッパにおける黒死病の猖獗(しょうけつ)にも勝る被害が出るだろう。「出来る限り早急に鎮圧、あるいは被害極限をしてくれ。他の生物に感染した際の影響は? 費用は……まあ度外視して良いから、速度を優先で。ゴブリンメイジの人員も大幅に増産してくれ。これはその為の予算増額決裁書類だ」 ウードはペラリとサインした書類をクァンタンに向かって落とす。「了解いたしました。早急に対処いたします。他の生物についての影響は、現在のところ不明ですが、目下調査中です。魔法の使えない平民ではなくメイジが感染した場合の調査についても続行中です。感染拡大に対する策としては、ワクチンを唾液腺から分泌するように遺伝子改良した蚊を、被験体が召喚されたと思われる地域周辺にばら撒くことで、周辺の動物に接種させる方法を考えております」「ふむ、それでイケそうだな。ヒトだけじゃなくて、全生物に対処しなくてはならないからな。ゴブリンたちにはワクチンや抗体の接種は終わっているな?」 ヒトもそれ以外の動物も差別しない。 全て同様に研究対象だから、全て同様に保護しなくては。 ゴブリン種族だけは身内だから例外的に特に手厚く保護するが。「はい、終わっています。ウード様はもう受けられましたか?」 ウードに感染しないかとクァンタンは心配する。 ウードは苦笑した様子でそれに答える。「心配ありがとう、でも、私はこの身体だからな。脊椎動物用のウィルスは効かないと思うよ。一応ワクチンは接種しているがね。それと分かっているとは思うが、先程言った方法だけではなく、他の方法も考えておいてくれ。外に解き放たれたウイルスがどんな変異をするか分からないからな。では引き続き宜しく頼む」 全く何の因果でそんな危険物が『サモン・サーヴァント』で召喚されたんだか、と、ウードは内心で溜息をつく。 蜘蛛の体になってから、溜息をつく機能は失われているのでつきたくてもつけないのだが(肺組織は腹部へ移動して書肺となっており、喉ではなく腹に開いた気孔を通して空気を交換している)。「ああそうだ、肝心の被験体が喚び出された場所は分からないのか?」「あ、はい、そうでした。現在の所、新興ゴブリン種族の地底都市や人工衛星都市に召喚されたのでは無い、ということは分かっています。トリステイン国内でも確認されておりません。現在〈零号〉様に依頼して、ハルケギニア中を探してもらっていますので直ぐに見つかると思いますが……。各地のアトラナート商会に配置されている駐在員にも情報を集めさせていますが、今のところは“魔力暴走ウイルス脳炎”と思われる伝染病の患者は発見されていません」 それを聞いて、一先ずウードは安堵する。「報告ご苦労。迅速な対処を期待する。いあ あとらっくなちゃ」「了解いたしました、必ずや。いあ あとらっくなちゃ」 サインした書類を持って、急ぎ足でクァンタンは退出する。 会議場を出て行くクァンタンを見送ると、ウードは蜘蛛の巣から脚を離し、天井から落下する。 空中で半分捻りを入れて、8本の脚で衝撃を殺して着地。 ウードは思考する――あるいは本当に『サモン・サーヴァント』が、神聖で、始祖の御心とやらに適った儀式だというのならば。 増えすぎたヒトという種を減らすために、疫病のタネをこのシャンリットから召喚したのかも知れない、と。 決定的な絶滅を避けるための間引きとして、被験体を召喚したのかも知れない。 しかも召喚されたのがよりにもよって『感染して生き残ったヒトをメイジにするウイルス』だって……? 出来過ぎにも程がある。「ブリミル教徒の連中ならば、天罰とか言って甘受するかも知れないな。天罰でなければ試練、とでも受け取るか? “神に選ばれし者は生き残り、メイジに成れる”とか何とか神官なら言いそうだ。何にせよ早急に調査を進めなくてはならない。召喚された被験体は早晩死ぬかも知れないし、そうなれば、ひょっとするとまた同じように、厄介なウイルスの保菌者がゴブリンたちの都市の実験施設から召喚されるかも知れないな……。全く本当に厄介だ」 ウードはカサカサと会議室の扉まで歩を進める。 この後は“魔力暴走ウイルス脳炎”の件について、エルフとの会合があったはずだ。 ウードにとって気が重い会合だ。 ひたすら謝ってウイルスの封じ込めに協力してもらわなくてはならない。 ハルケギニア諸国では国を跨った国際組織が未だ存在しないから、そのような会議は開けない。 ……というか、ハルケギニア諸国を跨ぐ巨大組織というのは、アトラナート商会があるから充分だとも言える。 それ以前にウイルスという概念、公衆衛生という観念が通用するとは思えない。 エルフとの会合に出るために、ウードは、蜘蛛の姿から、人間の姿に変化する。「『我が糸よ。我を鎧って姿を変えよ』」 天井に張り付いていた蜘蛛の糸が、ウードの口語詠唱に従って独りでに蠢き、空中を泳いで、彼を覆っていく。 繭のようにウードをスッポリと覆った蜘蛛糸は、彼の蜘蛛の身体を絞め上げて、徐々に四つん這いのヒトのような形に整える。 深淵の蜘蛛神アトラク=ナクアから先祖が受けた呪いの進行によって、9割以上はヒトを辞めてしまっているウードは、その所為かどうか分からないが、精霊魔法まがいの事が出来るようになったのだ。 エルフほどには上手く扱えないが、それでも、『変化』に近い魔法は使えるようになった。人面樹に納められた知識の中には先住の魔法に関するものもあったので、そこからも学習した。 ウードの使い魔であるクトーニアン、ルマゴ=マダリだって先住魔法を使える。精霊を囚えて呪縛するコツを、ウードはルマゴ=マダリとの間の感覚共有で以て、体感して身に付けた。 ぎりぎりとウードを絞めつける絹糸の繭は、やがてすっかりその色艶触感までも変えて、ヒトらしき姿にウードを固め上げた。 四つん這いの姿勢からウードは震えながら立ち上がり、ぎこちなく四肢を動かして確かめる。「違和感が酷い……、もっと練習しないとな。だが、まあ、会合は短い時間だから平気だろう」 自分を見下ろすと、彼は自分が全裸であると気がついた。 人間の体をイメージするのに夢中で、服をイメージするのを忘れていたのだ。 適当な服を用意するために、彼が契約している魔法の杖〈黒糸〉に付加された人工知能〈零号〉を呼び出そうと、ウードは指を鳴らして合図しようとする。 しかし、慣れないヒト形態のためか、指がうまく動かずに失敗する。 結局は拍手で合図をすることにした。 実際は〈零号〉は声で呼べば応えるし、ウードの様子も常に観察しているのだが、様式美というものだ。 ウードが手を叩く音が響く。 直ぐに、何処からとも無く、いや、部屋の何処かしこからも返事が返る。 ウードが幼い頃から大地に張り巡らせた炭素極微小繊維の網〈黒糸〉、それに付加された人工知性〈零号〉が返事をしたのだ。【あいあい、マスター。服だよね?】「ああ頼む」 一瞬で、空気や天井にこびりついて残っていた蜘蛛糸の残滓などから、上等な服が『錬金』によって用意される。 ご丁寧に綺麗に折り畳まれている。 だがウードは上手く身体を動かすことが出来ない。 つまり満足に一人で服を着ることも出来ない。「……着せてくれ」【あいあいさー】 締まらない話であった。◆「聖戦ですか?」 シャンリットの実験室から召喚された病み男サーノは、主の美少年の言葉を反復した。 彼の主たるサーノは、上気した様子で言葉を続ける。「そうだよ、サーノ! 異教のエルフに奪われた聖地を取り戻すんだ! まだ正式に発動された訳じゃないけどさ」 ここはグレゴリオとサーノの主従に宛てがわれた部屋だ。 サーノが召喚されてから数日が経過している。 修道院らしい質素な調度の石造りの部屋。 暫く前まで住んでいた人間が不潔だったのか、ベッドに蚤やダニが湧いていたが、それらはサーノのヴィンダールヴのルーンの効果で追い払っている。 サーノはここ数日で“神の笛”ヴィンダールヴのルーンの効果を確認していた。 他の事はすっかり思考の埒外に置いて、ルーンの性能検証に夢中になっていた。 やはり彼は、ウードクローンであり、オリジナルと同様に一つのことに集中すると周りが見えなくなる質であった。 そしてハルケギニア人類にとって致命的なことに、サーノはウードと同様に、迂闊な性格でもあった。 召喚されて直ぐに、彼がアトラナート商会と接触を持っていれば、あるいはバイオハザードの趨勢は異なっていたかも知れない。「はあ。主殿も参戦なさるので?」「もちろんだよ! そりゃあ、まだ、魔法は使えないけれど、それでも僕にしか出来ないことがきっとあるはずなんだ! 今日だって教皇様直々に言葉を頂いたんだ。『サモン・サーヴァント』が成功したと申し上げたら、我がことのように喜んでくださったんだよ」 サーノは興奮した様子で語る主グレゴリオの様子を見て、頭を抱えたくなった。 オツムが単純だとは思ったが、これ程とは。 いやずっと修道院の中で育ってきたローティーンの少年に何を求めているのか、と頭を振る。「まさか人間を召喚したことも仰ったので?」「当たり前じゃないか。教皇様に隠し事なんて出来ないよ」 つまり教皇にはグレゴリオが虚無だとバレたと言う訳か。「ひょっとして教皇……様に呼ばれていたりしますか?」「よく分かったね! サーノも一緒に連れてくるように言われていてね。だから呼びに来たんだ」 あ、確実にバレてる、とサーノは思った。 ブリミル教会の総本山に虚無についての伝承が伝わっていない訳がなかったのだ。 “人間を召喚したメイジは虚無”というのは教会も知っているのだろう。 これまでの歴史で何例あったかは知らないが、グレゴリオとサーノの例が初めてではあるまい。 サーノは今のハルケギニアの情勢を、少なくともグレゴリオよりは詳しく把握していた。 土地が支え得る許容量一杯にまで人口が膨れ上がっており、昨今の不作によって、飢餓の兆しが見えつつある。 豊作で蓄えた食料もそろそろ底をつくだろう。 ハルケギニア全体に漠然とした不安が漂っている状態であり、そしてその不安はストレスとなって民にのしかかり、その捌け口を求めている。 それらの不安解消の為の聖戦発動なのだろう。 『まだ見ぬ土地には我らが知らないだけで肥沃な大地が広がっているはずだ』、『ここよりは豊かなはずだ』、『救いは彼の地にあり』。 いつの時代でも人間が考えることは変わらない。 そしてお誂え向きに、虚無の系統が目覚めたという訳だ。 何とも都合の良い話だ。 聖職者はこの始祖の再臨を天啓だと捉えるだろう。 赤く上気した顔でグレゴリオが続ける。「さあ、早く行こう、サーノ。教皇様も待って……る……」「主殿?」 言葉を続けようとしたグレゴリオの身体が傾ぐ。「主殿!?」 傾いだ身体はそのまま重力に従って崩れ落ちる。 サーノは急いで駆け寄り、グレゴリオの体を支える。 グレゴリオの呼吸は浅く、熱に喘いでいる。 元から青白いサーノの顔がさらに蒼白になる。「しまった、私のウイルスに感染していたのか!? しかし、何時……」 サーノの身体を侵している脳炎ウイルスは蚊などが媒介してベクター感染するタイプである。 サーノ自身もその事は充分承知していた。 だから、ヴィンダールヴの能力を用いて、蚊や蚤を操り、それらの吸血生物に自分のウイルスまみれの血は吸わせないように気を配っていたのだが。「知らないうちに血を吸われていたのか……?」 サーノは自身に宿るウイルスについて甘く見すぎていたし、ルーンの力を過信していた。 自分が完治し、ウイルスを駆逐するまでの数日間、新たに備わった使い魔のルーンの力で血液感染を阻止すれば良いと思っていたが、事はそう簡単には運ばなかったようだ。 いつの間にか、彼は何かの吸血性の昆虫に血を吸われてしまっていて、それがグレゴリオに感染したのだろう。 こうなってはもはや一刻の猶予もない。 主を治すためにも、ウイルスの流行を防ぐためにも、早急にアトラナート商会と繋ぎを取らなくてはならない。 グレゴリオに感染したウイルスは、恐らく修道院中、いや、町中、国中に広がっているかも知れない。「主殿! 気を確かに! 直ぐに薬をお持ちします!」「サーノ、だい、じょう……ぶ、はやく、きょうこうさまに」「なりません! 今は安静にしておいてください。教皇様に病を移したくはないでしょう!?」 浅い息を繰り返して苦しげな主を、苦虫を噛み潰したような表情で見つめるサーノ。 彼はグレゴリオをそっと寝台に横たえ、周囲に在る全ての生き物にグレゴリオの身体を守るようにヴィンダールヴのルーンの力で命令すると、部屋を飛び出した。 例えルーンの力によって齎された感情であろうとも、今この瞬間に愛しい主の為だけを思って行動できることを、彼は有り難く思った。「おい、誰か! 誰か! アトラナート商会のロマリア支店の場所を教えてくれ!」◆ 結論から言えば、アトラナート商会の手によるウイルスの封じ込めは失敗した。 召喚された被験体サーノの血を吸った一匹の蚊が、何人もの人や何匹もの動物にウイルスを感染させたのだ。 サーノがグレゴリオの容態からそれを悟ったときには手遅れだった。 感染は拡大してしまっていた。 彼のルーンの能力で町中の動物を集めて病状を調べたり、アトラナート商会の協力でワクチンを分泌する蚊を放って操つり広範囲の動物に接種させて予防措置などをしたのだが、それでも燎原の火が広がるかのように病は伝染し蔓延した。 鳥にも家畜にもネズミにも感染するというウイルスの特性も相まって、あっという間に街を越えて国境を跨いでウイルスの感染は拡大していった。 森や街は小動物の死骸で溢れ、突如魔法の力を暴走させて倒れる感染者たちを目の当たりにして、人々は恐怖のどん底に陥れられた。 突如として発火して燃え尽きる者。 鎌鼬によって内側から引き裂かれる者。 苦悶の表情のままに、末端から徐々に石になる者。 生きながらに凍り付き、フリーズドライ様のミイラとなる者。 川には死体が浮かび、悪臭を放ち、脳炎ウイルスの他にも伝染病が広がった。 飢餓、戦乱、そして疫病。 社会的不安は頂点に達した。 神の試練と呼ぶには、余りにも重すぎた。 時の教皇さえも病に倒れた。 人々を守るはずの魔法の力が牙を剥き、人々を内から引き裂く。 そして、病に沈んだ村々に現れる不気味な矮人の“消毒部隊”の噂。 人々は捧げるべき生贄を求めていた。 人々は打倒するべき悪魔を求めていた。 人々は末世を救ってくれる英雄を求めていた。 そんな情勢の下だった。 教皇の病の治療のためにと、蜘蛛子爵ウード・ド・シャンリットがロマリアに呼び出されたのは。===================================当作において、ヴィンダールヴのルーンは蟲も操れる設定です。飛蝗の群れもOK。ヴィンダールヴは、ウイルスを直接は操れませんが、ウイルスを感染させた動物の“ウイルス産生能力”を限界まで強化して一気にウイルスを増殖させたりは出来ると思います。酵母を操って美味しいお酒を作ったりもできると思われ。かーもーすーぞー。対象をルーンの力で操れるかどうかは、POWロールで競わせて勝ったら可能というイメージ。ただしヴィンダールヴ本人のPOWには感情の振れ幅によって補正(主人のピンチには×10、とか)が掛かります。キメラ化したウイルスによるバイオハザード、パンデミックというのは前々からアイディアだけはあったものです。“魔力暴走ウイルス脳炎”というギミックは、中近世ヨーロッパの黒死病の代替ですね。最近では黒死病は、ペストと炭疽菌の複合流行だったのではないかと言われているみたいです。家畜に感染するかどうかが大流行するかどうかの分かれ目だそうです。今回の作品内で流出したウイルスは家畜にも鳥にもネズミにも感染する設定なのでバンバン広がります。でも媒介する蟲が居なければ広がらないので、突然変異が起こらない限りは、沙漠は越えられないでしょう。アルビオンには鳥にくっついたダニが媒介して上陸するかも。キメラ作成技術を悪用したらお手軽に生物兵器が作れそうな気がするんですよねー。多分次でウード君の時代の話は終わりです。漸く。実は今回でウード君が死ぬはずだったんですけどねー。第一回聖戦(原作の約千年前)はまだ発動していません。2010.11.06 初投稿2010.11.08 誤字修正