私立ミスカトニック学院を中心とした学術都市、シャンリット。 百を超える教育機関、研究機関が集まったこの都市はハルケギニアの中でも異質な街である。 現存する大都市の多くは千年以上の歴史を有し、ソコに住む人々もその場の歴史に対して思い入れを持ち、誇りを持っている。だが、目魔狂しく新しい知識が現れ続けて飽和し、そこにいる人々も入学しては卒業して入れ替わっていくこのシャンリットの街では、人の入れ替わりと同じくしてその入れ物である街自体の様相も目魔狂しく顕れては立ち消えていく。入れ替わり立ち代り、立ち消えては顕れて。この都市にはその陰陽流転の狭間となる空隙が多く存在する。 シャンリットの深き森は開発によって消え行きつつある。そこに住んでいたゴブリンはある魔導師の同胞となって地下や宇宙に去り、オークやトロールは絶滅し、竜は飛び去り、他の幻獣も去っていった。だが、本当に森に住んでいたものはそれだけだったのか? 御伽話に語られるような魑魅魍魎悪鬼羅刹達は何処に行ったのか? 完全に消えて去った? 人の心の闇に紛れた? いやいや、もっと分かりやすい隙間があるじゃあないか。 御伽話(フォークロア)は都市伝説(レジャンド・ウルバン)に。 森から追われた闇の子らは、都市の隙間に蠢く影の下に。 森から都市へ。ああ、ああ、それは染み入るように広がっていくのだ。魑魅魍魎悪鬼羅刹もまた生きているのだ。実体のない者たちだが、それは生きている。 死者が本当に死ぬときは、忘れられた時だという。ならば実体のない者たちが死ぬとすればそれはどういう時なのか。 そう、それは彼らが語られなくなった時なのだ。 人々に忘れ去られた時に、幻想もまた死ぬのだ。 だから、自らの存在した形を残すために、魑魅魍魎悪鬼羅刹は都市の隙間に、住む者共の心の隙間に入り込んでいくのだ。 学術都市・シャンリットにて語られる千変万化の七不思議。それこそが、かつて森に棲んでいた闇の居場所。 ヒトが恐れる原初の暗がりが姿を変えたもの。ヒトの領域にありながら、なおヒトに恐怖されるもの。 最も古く、最も新しい恐怖のカタチ。それが“シャンリットの七不思議”。 ――「シャンリットの七不思議」の序文より/エドガール・モラン著◆ 蜘蛛の糸の繋がる先は 外伝7.シャンリットの七不思議は百八不可思議まであるぞ その1『グールズ・サバト』◆ ミスカトニック学院の芸術科にはハルケギニア各地から多くの人員が集まってくる。 芸術科と言っても、特に何か試験があるわけではない。よく見てもらっている教授が芸術系なら、それはつまり芸術科ということだ。 この街では一定の手続を経れば最低限の生活が保証されるだけの給付金が得られる。ベーシックインカムとか云うのだとか。ハルケギニア中の芸術家の卵たちのほとんど全てが食い詰めてやがてはシャンリットに流れ着くと言われている。 勿論、その最低以上の生活をするためには何かしらの手伝いなどをして働くか、パトロンを見つけて奨学金を出資して貰わなくてはならない。 僕が出資して貰っている奨学会は『グールズ・サバト(食屍鬼の夜会)』という少々物騒な名前の組織である。 正規会員および奨学生はそれと分かるように髑髏に噛み付く狼を形取ったバッジを付けている。僕の場合は袖にカフスボタンの代わりに付けている。 普通の感性の人間ならばまず『グールズ・サバト』だなんて名前の奨学会には関わらないだろう。 僕だってそう思う。では何故そんな組織から援助を受けているかというと、この街で知り合った絵の先輩からの紹介なのだ。 その先輩は、今は写実派の急新鋭として『グールズ・サバト』の正規メンバーの一人であるピックマン教授の指導の下で名を馳せている。――――今夜の双月の下、先輩はまたピックマン教授のアトリエで絵を書いているのだろうか。 『グールズ・サバト』の支援を受けるに当たって、必要な条件が一つある。 それは絵を描くことだ。まあ、これは芸術系の奨学会では決して珍しい事ではない。 優れた作品を制作し、何らかのコンテストで優秀な評価を得ることが援助継続の条件になっている奨学会は多い。 だが『グールズ・サバト』の援助継続条件は違う。 確かに『サバト』の出資者から一定以上の評価を得ることは必須だが、それ以上に、絵画のモチーフが限定されているのだ。 『グールズ・サバト』の奨学生に課せられたモチーフ、それはこの奨学会の名前に相応しいものである。 即ち――『死体』である。 扱うモチーフが決して一般的なものでない上に、この会の出資者は非常に目が肥えているため審査が厳しく、それ故に援助される奨学金は一般の奨学会の優に5倍を越える。 だが、それ程の収入を得ていてもこの奨学会の殆どの奨学生は一般の人間が避けるような後ろ暗い、或いは血生臭い職業に就いている。 ゴミ回収員、葬儀屋、剥製屋、特殊清掃業者、検死官見習い……。珍しいところでは医者や看護士、幻獣遣いなんてのも居るが、これらは例外だろう。――――そういえば、ここの路地は『グールズ・サバト』が所持するアパルトマンの隣人の奨学生(確か清掃人だったはず)が担当している区域だったろうか。 いずれにしても、これらは自分がモチーフにするべき死体に近づくためのものだ。ひょっとしたら職業・殺し屋なんてのも居るのかも知れない。 奨学金に加え、それらの人が嫌がる故に高報酬な仕事に就いているために、『グールズ・サバト』の奨学生の殆どはかなりの月収がある。 尤も、それでも多くの資金は画材に消えてしまう。中には自分で画材を作り出す事の出来るメイジも居るが、殆どは出来合いの画材を用いている。 何しろ素人が下手に『錬金』するよりも、アトラナート商会や、でなければ化学専攻の学生の方が安くて上等なものを用意できるのだ。 絵画と顔料合成の二足のわらじでやっていけるほど、『グールズ・サバト』の評価基準は甘いものではない。 顔料の合成に気をかけるよりも、絵画の腕前を磨くべきだ。――――私にもっと腕前があれば、こんなに期日間際になるまで制作が延びることもなかったのにな。いいイメージが浮かばないおかげで、今夜もこうして資料漁りに出なくてはならなくなった。 いや、そういえば、ここを紹介してくれた先輩が学生だった時は全体が真っ黒の絵を提出して評価を貰っていたような。 一面真っ黒な絵では技量は関係ないだろうから、使用された画材が評価されたのだろうか。 絵画の技量ではなくて顔料の精製の腕前でも奨学金の継続は認められるのだろうか。 しかし、黒一色ではあったが先輩のあの絵は不思議な仄暗さがあった。 まるで死体をそのままにキャンバスに塗り込めたような……。 ……まさか絵の具の材料は、いや。まさか、いくらなんでも。――――でも考えようによっては今まで完成させなかったお陰で、このモデルに巡り会えたわけだし。まあ、良いか。 変なことを考えるのは止めよう。 今は、一刻も早く絵を完成させなければ。幸い、イメージを補完するモチーフには事欠かない。――――それにしても今夜は幸運だ。こんなにいいイメージを喚起させるモチーフに会えるなんて。 本当はイケないことだが、この街で起こった殺人事件の被害者達の写真が自分の部屋には沢山ある。写真は警邏巡察官の友人からこっそり融通してもらったものだ。 全く、カメラというものを開発してくれたシャンリット侯爵には感謝しなくてはいけないな。何しろ、その場の光景を『固定化』出来るのだから、画家にとってはこれ以上無い道具だ。 カメラがあれば画家は要らないという人も居るが、それは違う。写真は見たままの光景を写すものだが、絵画は写真よりもより主観的で画家の世界を反映させ易いという面がある。 世界に自分の解釈を加えたものを提示するのに、絵画以上に優れた手法はないと僕は思っている。いや、写真や小説、詩歌などを貶めるつもりは決して無いのだが。 ああ、違う違う。考え事をするとあちこちに思考が飛ぶのは僕の悪い癖だ。それよりも早くこの光景を絵にしなくては。 カメラがあれば一枚パチリと写し取ることが出来るのに。残念でならない。 まさか本当にグールをこの目で見られるなんて。流石は人外魔境のシャンリット。吸血鬼も、その下僕たるグールも居るだなんて。――――狭い路地。セメント造りの壁。湯気の立つ犠牲者の腸。散りばめられた血化粧。蒼白なグールの皮膚。街灯の逆光で伸びる影。本当に良いモチーフだ。 赤い、紅い、アカイ、吸血鬼の舌舐めずり。血よりも紅く爛々と光る吸血鬼の瞳。 早く絵にしたいのに。絵にしたいのに。絵にしたいのに。――――描かなきゃ。描かなきゃ。描かなきゃ。 殺される前に、描かなきゃいけないのに。 なんでぼくは、きゅうけつきのほうへと、あゆみだしているのだろう? ほら、早く逃げないと。 吸血鬼の下僕がコチラに向かって駆け出している。 ああ、でも、殺されるのならそれはそれで良いかも知れない。 惜しむらくはその自分の様子を絵に出来ないことだろうか。きっと美しいに違いないのに。彼女の下僕に殺された自分はさぞかし絵になるだろう。 初めて死体を書いたのはいつの日だったか。 あれは死んだ祖父の肖像(デスマスク)を書いた時だっただろうか。 誰に頼まれたのだったか、あれは。家族に頼まれたのか、それとも誰か他に。 ああ、昔、祖父に懸想していたという人が頼んできたのだったな、確か。でも、その割には随分若くて綺麗な人だったような。そう、ちょうど目の前に居る吸血鬼のような、紅い紅い唇が印象的な……。 そうこう考えているうちにグールが石畳を砕き、路地の壁を跳ねて三次元的な挙動でコチラに向かう。反射的に僕は腕を上げて防ごうとする。袖のカフスが街灯の光りを反射して煌く。――――そんなに周りを壊してはいけない。折角の死体に、ほら、瓦礫が掛かっているじゃないか。いや、これはこれで、趣きのあるモチーフ? 引き伸ばされた時間の中、カフスの輝きが目に入る。「止まりなさい」 吸血鬼の言葉で、グールは急停止する。 もしグールが息をしていたら、その吐息は僕の頬にも掛かるだろうというくらいに近くだった。 かなり際どいタイミングだったようだ。「ふふふ、いけないいけない。『グールズ・サバト』の規則に違反しちゃうところだったわ」 彼女の紅い瞳は僕の袖口に向いている。正確には『グールズ・サバト』の会員証である髑髏と狼のバッジに。 ……なるほど。『グールズ・サバト』。その規則に曰く。「会員及び奨学生はお互いに」「殺し合わぬこと。そして、会員及び奨学生の犯した殺人は」「隠蔽されるべし。ということですよね? ミス・ヴァンパイア」 目の前の吸血姫は、どうやら僕と同じく『グールズ・サバト』に所属する正規会員か奨学生らしい。 だらりと長い黒髪に、血の滴るアカイ唇。美しく均整の整った骨格に、透き通るような白磁の肌。夜会に赴く貴婦人のような扇情的なドレス。ひょっとすれば娼婦? いやそれに格好つけて餌を引っ掛けるためだろう。腹を引き裂かれた死体は、如何にも精力の余っていそうな体育会系の輪郭をしている。 よく見れば、ドレスの胸元に『グールズ・サバト』のバッジと同じく、髑髏を噛み砕かんとする狼のブローチが。 見た目の年齢としては学生だが、吸血鬼だからそれも当てにならない。「ふふふ、規則に従って今日は見逃してあげるわ。 でも、気をつけないと今度は“マテ”が間に合わないかも?」 くすくすと、グールに引き裂かれた死体を傍らに笑う彼女は、どうしようもなく美しく、魅力的だった。 祖父の葬儀の翌日に、僕が描いた祖父のデスマスクの絵を受け取った女性も、同じように真っ赤な唇で微笑んでいたような。 目の前の彼女は、どうしてもあの時の彼女を思い起こさせる。「待って下さい!」 下僕を従えて路地を跳ね飛んで去ろうとしていた吸血姫を引き止める。 彼女が振り向く。双月に照らされて青白く輝く肌、均整の取れた輪郭。 どうしようもなく自分の胸が弾んでいるのが分かる。本当は彼女が十数年前に祖父の葬儀に現れた人かどうかなんてどうでもいいのだ。 でも、女性と付き合った経験どころか告白した経験すら無い僕にはこれ以外の言葉なんて思いつかなくて。「あ、あの! どこかであったことありませんか!? ここ以外の何処かで……」◆ ・『グールズ・サバト』の噂 死体画家の集まりらしい。モチーフになる死体を集めるために殺人を犯すことも厭わないとか。 メンバーの中にはヒトでは無いものも居るとか居ないとか。=================================“レジャンド・ウルバン(都市伝説)”は発音的には“レジャンデュルバン”の方が正しいはず。リエゾン(連音)するから。文章中ではややこしいので分節してますけど。あと、本当は「ピックマンのモデル」をパクっt……げふん。リスペクトして人間が怪物に変わっていく話にしようと思って書き始めたのに、なんで死体画家の青年と吸血鬼のボーイ・ミーツ・ガールになったんだか。本気で謎だ。あと分かってるとは思いますが、108不可思議(不可思議=10の64乗もしくは80乗)も七不思議の話を続けるつもりはありませんので。シャンリットの七不思議は適当に追加していく予定です。一応考えてるネタは既に7本以上あったり。むしろ本編で書きたいネタがもう尽きている罠。一気に原作時間軸までキング・クリムゾンしたい。追記本編のネタは一応ウードが死ぬまでは出来そうなので、そこで第一部完という感じにしようかと思います。クトゥルフ神話で言う屍食鬼はイヌ頭の化物なので吸血鬼の下僕のグールとは別物だと考えています。ゼロ魔の世界ではむしろコボルトか獣人に当たるでしょうかね。人間から転化できるのは同じようなもんですが。2010.09.11 初投稿2010.09.16 一部追記