講義終了後、アルバイト先に向かって学院の構内を歩く。 構内はよく手入れが行き届いており、四季折々の花々が咲き乱れる様子は美しい。これも、ストレスなく研究できる環境を整えるためなのだとか。 色々と建物が増設されたり無くなったりして、刻一刻と姿を変えていくミスカトニック学院であるが、その中でも変わらないものは幾つかある。 遠目に見える黄色っぽい巨大な壁のような建物もその一つ。ミスカトニック学院中央大図書館。遠近感が狂うくらいに巨大な建物だ。横幅は1リーグ程もあるだろうか。 ここからでは巨大な直方体のような建物の一側面しか見えていないから、壁や塀のように見えている。黄色っぽい壁は図書館の北側の壁だ。ランドマークとして分かりやすいように各側壁の色を塗り分けているのだ。バカでかい建物だからランドマークに持って来いなのだが、飾りっけのない外観の所為で、色の塗り分けでもしないと却って現在位置が分からなくなってしまうという困りものだ。 薬学部の管理する薬草畑を通り過ぎて巨大な黄色っぽい壁の真下に到着。日陰でしか育たない薬草が多いから薬草畑は図書館の北側にあるそうだ。私はこの薬草の匂いに紛れて図書館に向かう時間が好きだったりする。 この建物は上空から見れば各階は一辺1リーグほどの正方形となっている。近づいて見上げれば、窓の無い外観の所為でまさに絶壁のようだ。 見上げても上端が見えない。左右を見ても同様だ。万年日陰の北側入口は、ジメジメして苔むしている。 街の住民全てに配られているカード型のマジックアイテムを扉に備え付けられたIDチェッカーに翳すと、錠が外れて入口が開く。個人証明証(ID)を兼ねるこのカード状のマジックアイテムによって街のあらゆる施設の出入りは管理されている。 中に入ると、そこは本の森だ。鼻孔に残っていた湿気った苔の匂いと薬草の香りが、紙とインクの匂いで上書きされる。 シャンリットはミスカトニック学院の中央大図書館、ここにはハルケギニア中の本が存在する。 地上20階、地下15階にも及ぶ、頑健な素材で出来た巨大な建物だ。素材の詳細までは知らないが、複合材料の複層構造になっているとかなんとか建築工学専攻の友人が言っていた気がする。 この大図書館の蔵書量は王都トリスタニアの王立図書館にも負けないだろう。間違いなく、ハルケギニア一の図書館だ。 シャンリットの大図書館にはトリステインの出版社の出す本だけではなく、ガリアやアルビオン、ロマリアなど他国の本も収蔵されている。 他にも自費出版の本でも司書達が駆けずり回って出来る限りは集めているという。 また個人的な日記もその蒐集の範疇にあるらしい。遺族に許可を取って故人の日記を貰って来たり、ゴミ捨て場から拾ってきたりしているらしい。後年に、往時の風俗を研究するに当たっては日記も貴重な資料になるのだとか。 噂によれば、エルフたちの領域や東方(ロバ・アル・カリイエ)の本も翻訳されて収蔵されているらしい。 確かに見慣れない綴りの著者名の本を書架整理中に何度か見かけた事がある。ひょっとしたらそれらはサハラ以東の本なのかも知れない。 まあ実際、エルフや東方の文化に関する研究もミスカトニック学院では盛んに行われているから、その為の資料があるのは当然なのだろうけども。 厖大な量の図書を収蔵するこの中央図書館は、それに応じて司書の数も非常に多い。 正規の司書たちだけでも1千人は下らないのではないだろうか。 パートタイムの学生アルバイトも含めればどれだけの人数がここで働いているか分からない。 下っ端も下っ端ではあるが、私もこの大図書館で書架整理のアルバイトをさせてもらっている。 元々は私が師事する数学科のユリウス・カステル教授の資料検索の手伝いをしていただけだったのだが、その過程でここの司書たちと顔なじみになり、たまたま人手が足りないとのことだったのでアルバイトとして働かせてもらえるようになった。 カステル教授は天文学にも詳しく、本来の専攻は占星術や数秘術なのだとか。数学者というので合理的な考え方ばかりをして、占いなど信じない人なのかと勝手に思い込んでいたので、本来の専攻を聞かされたときは驚いたものだ。まあ、検索依頼される資料が「ネブラの天文盤」とか「シュメールの暦」だとかの時点で気づいて然るべきだが。 カステル教授から「君は大体の物事に対して真摯で鋭敏な感性を持っているが、奇妙な所で抜けているな」という評価をされるのもむべなるかな。 書架の隙間を抜け、IDカードを翳してドアを開けてはまた本の森を抜けるのを何度か繰り返すと、漸くアルバイト用の控え室に辿り着く。 自分のロッカーを開けて、学生アルバイト向けの制服である特製の緑のエプロンと白い手袋を装着すれば準備は完了だ。 いざ、我が愛しの本の迷宮へ。◆ 蜘蛛の糸の繋がる先は 外伝7.シャンリットの七不思議 その2『大図書館の開かずの扉』◆ 中央大図書館に関する噂でよく耳にするものは、読んではいけない本を読んでしまって発狂するというものだ。 ヒトの認識を侵食するような魔道書の類が書架に混ざり込んでいないとは言い切れ無いし、そういった悪質なトラップが仕込まれた本型のマジックアイテムも存在しそうだ。 というか、そういったものこそ嬉々として蒐集するだろう。ウチの司書達ならば。 ユリウス・カステル教授の下にも、教授の所蔵する稀覯本を写本させてくれないかと、大図書館の司書さんから依頼が来ていたと思う。 カステル教授は写本の依頼を断り続けているが、それでもめげずに司書さんは依頼に来る。 時折教授の部屋の前でその司書の方とすれ違うのだが、段々目付きが“ニア「ころしてでもうばいとる」”って感じになって来てるからそろそろ一悶着ありそうな気がする。 教授も写本くらいさせてあげれば良いのに、とは思うが口には出せない。教授に逆らうと怖いから。 深夜も早朝も関係無く24時間稼働している大図書館では、幽霊を見たという話はあまり聞かない。 どんな時間でも人気が絶えないし、本に掛けられた『固定化』のお陰で日焼けを気にせずに強い照明でガンガン照らせるから、幽霊が出るような雰囲気のある陰影が生まれ無いのだ。 ちなみに今、司書アルバイト仲間で一番盛り上がっている噂話は『大図書館の開かずの扉』だ。 大図書館最下層、地下15階にある両開きの一辺5メイルはある重厚そうな灰色をした金属製の門扉。 一月程前に出来たその扉は、なんと床に張り付いている。最下層の床に幾つも幾つも扉が張り付いているのだ。 ドアノブが床から飛び出している光景は酷くシュールだ。ご丁寧にグリフォンを象ったドアノッカーまで付いてる。誰を呼び出すというのか。 バイト仲間30人くらいで上に乗ってもビクともしなかった。鋼鉄製? いいや絶対にもっと違う何かだ。 ドアの下に空間があることはバイト仲間の土メイジの振動反響の診断で分かっている。 ドアノブを引っ張ってみてもビクともしない。図書館の全てのドアに付いているIDチェッカーも付いて無い。『アンロック』も全く効かない。 正規の司書の方に最下層の扉が何なのか聞いてみたが、苦笑いするのみで誰も教えてはくれなかった。その時の様子では知らないという訳では無さそうなのだが。 開かずの扉の先には何があるのか? 恐らくは、地下部分を拡張する工事を行っているのだろう、と予測は付いている。 だが、誰が? どうやって? 工事の音がしないのは『サイレント』の魔法を使っているからだとしても、一辺1リーグ四方の地下室を増築するのに、その人員を全く見かけないというのはおかしい。 後日見てみると、扉があった場所は階段になっており、昇降機の階数も地下16階までに増えていた。 地下16階には、いつの間にか本が詰め込まれていた。しかしそれらの本は分類等されておらず、ただ雑然と積み重ねてあるだけだった。 まさかこれを全て整理して、既存の書架もこれらを含めて配置転換をしろと……? 司書の方達に『開かずの扉』の事を聞いたときのあの微妙な表情はこれを意味していたのか。これだけの量の本の整理を行うというのなら、それは疲れたような曰く言いがたい苦笑を浮かべるしか無いだろう。ここに本を突っ込んだ人は、本の内容の把握と仕分けにどれだけ時間が掛かるか分かっているのだろうか。 何より恐ろしいのは、既に地下16階の床に、また『開かずの扉』があることだ。 二ヶ月もしないうちに、これと同じだけの量の本の山を再び相手にしなくてはならないのだろうか?◆ 本の分類は大変だ。タイトルだけではなくて、内容まで吟味しなければいけない。 タイトルによって粗方分類し、分類に間違いがないかどうかはその分野に詳しい司書が確認する。 タイトルが書かれていないようなものや、分類が全く分からないものは別にどけておく。 『固定化』の魔法があるから劣化具合はマシだが、中には腐食してボロボロになっている本もあるから扱いには慎重にならざるを得ない。 学生アルバイトの仕事は第一段階である本の大まかな分類と、分類が終わった後の本のラベル貼り、ラベルの情報を大図書館の蔵書管理用魔道具のデータベースへ登録する作業だ。 内容の細かいチェックや、最終的な登録データと実物の齟齬が無いか等のチェックは、正規の司書の方々の仕事だ。 手に取った本のタイトルが気になると思わず内容まで見たい気分になるが、自粛する。そんなことをしていたら作業が終わらない。 大図書館に登録されたら、真っ先に借りようと心の中で決める。IDカードのメモ帳機能に気になった本のタイトルを登録しておこう。 次々とタイトルを眺めては本を各カテゴリに分けられた箱に入れていく。 『深海の驚異』、これは海洋学カテゴリか? 『マリンスノーと海流』、これも海洋学。『ウンダーゼー・クルテン(深海祭祀書)』、宗教学? いや海洋学? 『ハイドロフィネ(水棲動物)』、海洋学ってここら辺は深海関連ばかりだな。というかやけに湿気ってる。虫干し必須だな。湿気の所為か段々と寒気がしてきた。 次の本を手に取ったときに、怖気を感じた。全身の皮膚が泡立った。 手袋越しにもぬるりと吸いつくような感触を感じる。冷たいような温いような不思議な感覚。潮の香りがどこからとも無く香ってくる。 『水神クタアト』 水浸しになって半ば腐ったような、いや、まさに現在進行形で腐りつつあるこの書物は、手袋越しにその不気味な存在感を伝えてくる。 腐臭。深海底の神秘を目の前に凝縮したのなら、ひょっとしたらこの本のような形を取るのかも知れない。それ程の強烈な存在感。 アルバイトとしての仕事の領分は越えてしまうが、押えきれない好奇心、いや焦燥感、強迫観念に基づき内容を軽く確認しようと本を開く。そう、軽くだ。軽く確認するだけ。 深海に眠る半魚人の文明について、深海の生物について、深海における生物の長寿化と巨大化について、ルルイエについて、海底に眠る偉大な神クトゥルーについて、生贄を捧げる際の呪文について、魚を呼び寄せる方法について、ふんぐるいむぐるうなふくとぅるうるるいえうがふなぐるふたぐん……。 本を閉じる。腐りかけているから、崩れてしまってもいけないからな。ふむ。目次を見た限りはこれも海洋学カテゴリかな。 ただ、やたらと頭の中にそのタイトルが残ったのでIDカードに記録を残しておく。『水神クタアト(クタアト・アクアディンゲン)』。 だが、私は次の瞬間には、そのような本の存在すら忘れてしまっていた。誠に信じがたいことではあるが。◆ 光の届かない暗黒の中を私は泳ぐ。 纏わり付く水圧が重い。四方八方からそれは私を絡め取る。 重く重く、暗く暗い中を泳ぐ。ここはまるで牢獄だ。 海底から湧き上がるマグマが、得体の知れない生物の偽足のようにどろどろぼこぼこと固まっては内側から食い破られて海底を這う。 枕石。地球のカサブタ。マグマが血液だとすれば、それが固まった枕石はカサブタと言えるだろう。 偽足を伸ばすように、溶岩流は私の身に迫る。 冷えては溶けて周囲を沸騰させ、赤黒く瞬くその溶岩のみが、この深海底に置いては唯一の光源のようだ。 溶岩特有の硫黄の匂いを感じて、私はその毒を含む水の流れから身をそらす。 沸騰する水に巻き上げられた泥の、その腐敗した臭いがこの身に絡みつく。 溶岩の微かな赤熱光に照らされて、悠久の昔から変わらない青暗闇の帳の中から、それは私の視界の中に顕れた。 それは巨石であった。 それは神殿であった。 それは祭壇であった。 それは都市であった。 そして何よりも、それは墓石であった。 死者が生者の権益を犯さぬようにと蓋をする墓石ように、それは忌まわしい何者かを封じているように思われた。 夢の中で魚になった私は、その忌まわしくも恐ろしい石造りの円筒が並ぶ街に、ぬめるように滑るように侵入していくのだ。 眼下に見える溶岩は都市の境界でその流れを止めて、見えない壁に押し付けられるように広がっていく。 境界。結界。隔てるもの。閉じ込めるもの。内と外。分けるもの。何と何を? その溶岩流の様子は、私が何気なく通り過ぎたソコに、彼岸と此岸を分ける境界があるのを示しているように思えてならなかった。 私は此岸に帰ってきたのだろうか? それとも彼岸に向かってしまったのだろうか? 否、彼岸も此岸も分ける意味など無いのだ。偉大なるクトゥルフにとって所詮この世は泡沫の夢。 ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん 久遠に臥したるもの、死することなく、怪異なる永劫のうちには、死すら終焉を迎えん ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん そは永久に横たわる死者にはあらねど、測り知れざる永劫のもとに死を超ゆるものなり ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん ルルイエの館にて死せるクトゥルー夢見るままに待ちいたり 忘れ去られたはずの太古の暗黒の調べに耳を澄ませている内に、私は、どこからか伸びてきた触手に絡め取られて半身を食いちぎられた。◆ 『開かずの扉』が開放された翌日、海中に棲む魚になった夢を見て目が覚めた。 肌に纏わり付く冷たい暗黒の海流。微かな光りに照らされる海底。巻き上がる有機質を多分に含んだ泥は腐臭がしたような気がする。目が覚めても、腐った海水の匂いが体に纏わり付いているような気がして、神経質なまでに執拗に部屋の備え付けのシャワーを浴びた。 紅茶をしこたま飲んで、喉の奥に揺蕩う泥の匂いを洗い流す。 遅れないように自室を出る。教授は他人の時間には厳しい人だから、遅れたら何と言われるか分からない。教授自身は自分の時間には無頓着だけれども。 実際、いつも朝は教授が居ないからと遅刻して行くのを繰り返していたら、ある時すれ違いざまに「27回も遅刻したね。明日からはもっと早く来るように」と釘を刺された。カステル教授曰く“蛆虫(マゴット)が見ているから分かる”ということだが、何かしらの比喩なのだろうか。 研究棟に赴き、ユリウス・カステル教授の元にいつものように顔を出す。カステル教授は幸い在席されていた。この方はいつも何処にいるか分からないから、今日はたまたま日取りが良かったのだろう。 しかしカステル教授は、顔をしかめて鼻を袖で覆って私の方を見ると、朝の挨拶もせずに一言。「『クタアト・アクアディンゲン』に心当たりは?」 ゾッとした。 思い出されたあの古書の気色悪い感触に当てられたわけではなく、今の今まで私がその『水神クタアト』について忘れていたという、その自分自身の精神の有り様にだ。「カステル教授、どうして?」「ふむ、どうして、とは何に対してのことだか分からないがね。 君が尋常ならざる水気(すいき)を立ち上らせているのは分かる。 私の心当たりでは悪い魔道書に当たったのかな、と、自分の心当たりの魔道書を言ってみただけなのだが、正解のようだ」 今日の私は星の巡りが良いかも知れないな、と零すカステル教授を前にして私は愕然としていた。何で今まで忘れていたのだろう。昨日はあれほど強烈な印象を持っていたはずなのに。「まさか持ってるんですか?」 今やハッキリと思い出される、汚泥のようなぬめりを持った『水神クタアト』の独特の表紙。水を滴らせて腐りかけたそれは、潮の匂いがしたような気もする。本当に何で今まで忘れていたのか、今朝の夢と関係があるのか。 古書マニアのカステル教授なら、あのような古い本を知っていても、それどころか、持っていても不思議ではない。もしも教授が持っているなら、何かあの不気味な本について話を聞けるかも知れない。「持っているとも。そのお陰で最近は大図書館の司書に付きまとわれていたがね」 成程、教授の下に通っていた大図書館の司書の方が欲しがっていたのはあの本なのか。『水神クタアト』について更に問おうとした私を遮るようにカステル教授は言う。「ああ、魚臭いから君はもう今日は帰りたまえ。 ろくに抵抗処置もせずに魔道書に触るからそうなるのだ未熟者め。 私につきまとっていた司書もその本が入ったと知ればもう来なくなるだろうし、君から伝えてくれないか。 妖蛆共は塩気を嫌うのだから、メッセージを伝えても水気を落とすまでは帰ってくるな」 しっし、と鼻を覆いながら手で追い払うジェスチャーをするカステル教授。 ジェスチャーと連動するように軽い『エアハンマー』が、呆然と立ち尽くす私を、私から漏れ出た教授曰くの“水気”ごと部屋から押し出した。 目の前でカステル教授が行使する『念力』によって扉が閉まり、直ぐ様『ロック』によって封が成された。 よろめいて尻餅を付いた私は、そのまま呆然と扉が閉まるのをただ眺めているしか出来なかった。◆ 教授に追い出された私は、とぼとぼ惨めに大図書館への道を行く。 カステル教授の言うとおりに私の身体からは魚臭い匂いがしているのかも知れない。すれ違って道行く人も鼻を抑えているような気がする。被害妄想ならば良いのだが、どうだろうか。明日から同級生から半魚人とか言われないだろうか。 少なくとも自分の鼻が効かなくなっていることは確かなようだ。大図書館に向かう道すがらの薬草畑の香りが今日は感じられないのだから。 意気消沈しつつも、件の司書を探すために図書館に入る。 やたらと陽気な黄色い壁が今日は恨めしい。今日は東側の青い壁から入るべきだったか。 まさか魚臭くなる呪いに掛かる本があるだなんて思わなかった。解呪のコストは経費で落ちないだろうか? そもそもどうやって“水気”とやらを落とせばいいのか。 悶々としたものを抱えつつも、出来るだけ人に会わないようにして司書の詰所を目指す。 アルバイトのロッカーと正規司書の詰所は違う場所なのだ。 ……。あ、私はカステル教授からのメッセージを伝えるべき相手の司書の名前を知らない。 内線を繋いで教授に聞かなければなるまい。 図書館のカウンターで内線を借りる。内線通話機はシャンリットの構内なら殆ど全ての部屋に備え付けてある。いちいち相手のもとに出向かなくても声を伝えられるという優れものだ。「あ、カステル教授。すみません、伝言相手の……「水気が伝染するから内線通話も掛けるな。さっきより酷くなっているぞ。 ブチッ……」」 切られた。酷い。私が何をしたというんだ。 ……まあ、あれだけカステル教授の下に通いつめていた司書さんなら、きっと職場の仲間内でも知っている人が居るはずだ。そうに違いない。いや、そうであって欲しい。この時ばかりはカステル教授の奇妙な方面での有名さに縋りたくなった。◆ 結論としては、司書さんの行方を知る人は居なかった。 いや、古書専門の蒐集部隊に所属しており、カステル教授の持つ古書の幾つかを写本させて欲しいと交渉に出向いていたという司書さんが居たのは確認出来た。そのように辞令を出した主任司書さんから話も聞けた。 しかし行方を知る人が居ない。彼の部屋に繋がる内線通話機も、全く返事を寄越さない。 最後に彼の行方を見た人は、場末の音楽バーの方へと歩いて行くのを見たという。 何でも最近入れ込んでいる歌手がいて、その女性歌手に会うために昨日もバーに飲みに行ったのではないかということらしい。 ……ひょっとして行方不明の司書さんに言付けを伝えるまで、カステル教授の下には帰れないのだろうか? また水気が酷くなったと教授も言っていたし。話しかけるたびに、皆が鼻を押さえるし。最悪だ。 司書の方を探すよりも、今からあの本を読みたい気持ちがまた大きくなってきた。何で私が言付けをしないといけないんだ。図書館に来たからには本を読まないといけない。図書館はそういう場所なんだから。伝言なら、彼の上司に伝えたから別に良いだろう。 ほら、地下から立ち上る濃い水の気配が、私を呼んでいる。 眠れる墓所の大司教が。 死してなお生きているモノが。 星辰の戒めの下に封ぜられた偉大なる支配者が。 私の半身を喰いちぎったものが。 ふらふらと地下へ繋がる昇降機の所へと足を進める。 着替えもせずに書庫へと向かう私をバイト仲間が見咎めるが、気にせずに歩く。向こうから近づいてくるバイト仲間は一瞬鼻を覆う。やはり私から不快な匂いがするのだろうか。すたすたと彼の横を通り過ぎようとした私に対して彼は左側から話し掛けつつ、私の左肩に手を置く。馴れ馴れしい。肩に置かれた手を引き剥がし、彼の手を左手に握ったままにっこりと笑う。嫌味なくらいの笑顔が出来ているだろうか。相手がなにやら赤面しているが、よく分からない。人間の表情はこんなに分かりづらいものだっただろうか。まだ魚の方が表情豊かだろうに、この目の前の男は顔面神経失調症にでも掛かっているに違いない。そして男の手を左手に握ったまま歩き出す。歩き出した私に引き摺られる同僚を尻目に、歩き続ける。引き摺られた同僚が本棚にぶつかる。私はいつもきちんと通路の左側を歩くように気をつけているのだ。だからそりゃあ左にバイト仲間を引き摺ったままではそうなるに決まっている。なんだ、当たり前のことじゃないか。当たり前だから気にする必要は無い。だというのに何でそんなに騒いでいるのか。ああ、本棚の本が落ちたからか。どうやら床に転がっている男が本棚に突っ込んだせいらしい。駄目じゃないか、本は大切に扱わないといけないのに。それと、周りの人も五月蝿い。IDカードのマジックアイテムを取り出して、登録されている魔法から『サイレント』を選択。図書室では静かにしないとね。悲鳴を掻き消して、昇降機の前に辿り着く。かちかちかちかち。ボタンを連打するがまだ来ない。 水の匂いがする。下に向かわないと。あの本を読まないと。『水神クタアト』を読まないと。夢で食われた半身を取り戻さないと。 何時まで経っても来ない昇降機に業を煮やした私は、昇降機のドアを食い破るべくIDカードから魔法を選択。『念力』を最高出力で行使。軋んで音を立てる両引き戸をこじ開ける。魔法使用免許A級は伊達じゃない。さあ、口をあける暗黒の洞穴に身を投げよう。ほら見えない触腕が私を歓迎するように絡めとる。半身が呼んでいる。ああ矢張り私の半身は『水神クタアト』の下にあるのだ。取り返さないと。捧げないと。取り返す。捧げる。半身を。捧げる。取り返す。捧げる、捧げるのだ、偉大なるクトゥルフに――――。◆ ・『大図書館の開かずの扉』の噂 最下層の床に張り付いている扉。いつの間にか図書館の階数が増えている。本もついでに増えている。妖精さんの仕業とか。 新しい階にある本はどんな魔書があるか分からないので素人は手を出してはいけないらしい。======================================有名な二聯句を出してみました。ユリウス・カステル教授は“妖蛆の王”のジュリアン・カーステアズをフランスっぽい読み方で。『水神クタアト』も彼の持ち物からの連想ですね。今回の主人公は3連続くらい魔道書(ハイドロフィネとか)の正気度チェックやって、現在正気度が磨り減りました。その上トドメに『水神クタアト』でファンブルした感じ。以下、設定とか言い訳。スルー推奨で。内線通話機はシャンリット内のみ張り巡らされている。〈黒糸〉を流用。交換手の役目をするマジックアイテムもあるという想定。カード型マジックアイテムはシャンリット内で行動するためには必須。あらゆる施設を動かすためには、IDとその為の権限が必要。セキュリティに厳しい街。市民は幸福ですか? いや、そこまで監視社会ではない。カード型マジックアイテムは非メイジが〈黒糸〉の補助を受けて魔法を使うための杖替わりにもなる。非メイジの魔法使用は免許制。例:魔法使用免許D級→レビテーション(20リーブルまで)とか。免許が高いランクになれば使える魔法も増える。エム×ゼロのプレートのイメージで。当然シャンリットの外では〈黒糸〉の補助がないために魔法は使えない。メイジの場合は自分の杖を使っても良い。が、街中での魔法の使用は厳しく制限されている。これは非メイジも同様。ここまで来るともはやゼロ魔じゃないですね。でも実はこのSSを書き始めた当初に思っていたことの一つは、科学革命じゃなくて魔法革命したいということ。イアイアしたいってのも動機としては勿論有りましたが。平民皆が魔法を使えるようになるのが、ハルケギニアのあるべき未来図なんじゃないかと電波が囁いたので。2010.09.17 初投稿/修正