シャンリットの学術都市アーカムにも、飲み屋街のようなものはある。 料理人やバーテンダーの専門学校もあるし、高級娼婦養成学校というものまである。 アーカムにおける歓楽街の外れ、場末のバーで管(くだ)を巻く男が一人。 バーテンの若い男がそれを大人しく聞いている。「だからさあ、あの吝嗇家(りんしょくか)の教授がさあ、写本させてくれないわけよー」「この間も言ってましたよね、まだ粘ってるんですか?」 バーテンの男は苦笑しながらカウンターに座る生真面目そうな男に尋ねる。 管を巻いている生真面目そうな男は、聞こえていないのか、壊れた蓄音機のように同じ話を繰り返している。 手には度数の高い蒸留酒が入ったグラスが揺れている。 泥炭の香りがついた独特の蒸留酒である。「カステル教授の持ってる本――『水神クタアト』って古書なんだけど――それをさあ、ちょっと見せてくれるだけでいいのにさあ」「あー、はい。その話ばっかりですよ。きちんと歩いて帰れます? チェイサーお出ししましょうか?」 バーテンの男が、磨いておいたグラスを取り出し、胸もとのポケットの中のIDカードに触れて、魔法を選択、起動させる。 この街ではこのIDカード型のマジックアイテムを用いて、誰でも魔法が使えるようになっている。 街全体を覆うインテリジェンスアイテムの端末となっているそのIDカードを操作することで、街全体を統括するインテリジェンスアイテムが魔法の使用を肩代わりしてくれるのだ。 だから使用者の精神力や魔法の才能に関わらずに、この街では皆がメイジになれる。 もちろん一定の試験を通過して魔法使用資格を取得すれば、の話であるし、場所や時間帯によって使用できる魔法の種類や威力は、細かく、そして厳しく制限されている。 魔法が使えるとは言っても、使える魔法の種類は数えるのも馬鹿らしいほどのバリエーションがあるし、その使い方や組み合わせは操作者の熟練の業の見せどころだ。 既存の小規模な魔法を細かく複雑に組み合わせて(プログラムして)、オリジナルの魔法を生み出すことも出来る。 バーテンの男は真球の氷を魔法で作り出すと、グラスの中に落とす。 氷の上に、宙空から『凝集(コンデンセイション)』によって水を取り出して注ぎ、さらに『錬金』でクエン酸やミネラル分などを作って味付けを行う。 水の味付け一つとっても、バーテンごとに個性が出る腕の見せどころだ。 この簡単に見える一連の工程においても、食品衛生法だとか諸々の法的知識の試験をパスして資格を持っていないといないと、他人に振舞う場合は違法だと罰せられることになる。 若く見えるバーテンであるが、その辺りはきちんと免許を持っているようだ。 グラスに注いだ水を、カウンターに座る客に差し出す。「どうぞ」「ありがと」 カウンターに座る男は、蒸留酒のグラスから水のグラスに持ち替えると、一気に飲み干す。 水に付けられた爽やかな芳香が鼻腔を満たす。 バーテンは空になったグラスに間髪入れずに魔法で水を注ぎ足す。「酔いは醒めました?」「ん。まあまあ。そう言えばさあ、この前ここで歌ってた娘はさあ、今日は居ないわけ?」「ああ、エリザちゃんですか。彼女は今日は違うお店に行ってますよ」 流しの音楽家や歌姫の卵たちが、ストリートやバーの一角を借りて自分の腕前を披露するということは、この街では珍しいことではない。 学術都市アーカムは、戸籍登録者にベーシックインカムを与えるという制度上、研究者のみならず芸術家の卵たちも、ハルケギニア各地から数多く流れて集まってくるのだ。 この都市で評価されて、世に大きく羽ばたいた芸術家は枚挙に暇がない。「エリザちゃんって言うのかあ。良い歌だったなあ」 飲んだくれている男が陶酔した様子で言う。「魂に響くものがあったよ。もっと聞きたいなあ」「エリザちゃんの歌はファンの人とそうじゃない人がはっきり分かれるんですけどね。嫌いな人はもう二度と聞きたくないとか言うんですが」 私は好きなんですけどね、とバーテンは続ける。 ここは数ヶ月交代でバーテン兼マスターが入れ替わる特殊な店である。 店の敷地を提供するオーナーは別に居て、学生バーテンの“自分の店を持つ”という夢を数ヶ月限定で叶えさせてくれるという場所だ。 そして今話しているバーテン兼マスターは、自分の気に入った音楽家に時折ライヴを開かせることを特に売りにしている。 二人が話題にしているエリザという女性も、そんな“音楽の名伯楽”を自認する彼が見つけてきた肝入りの歌姫である。 狭い店ながら“まるで大きな音響ホールに居るかのようだ”というのは、この店で歌う者、聞く者双方が持つ感想である。 バーテンの男は風系統の魔法で音響を調整するのも上手で、狭い空間をそれと意識させないように日々研究を重ねているそうだ。「アランさんも気に入ってくれて嬉しいです。彼女の歌、良いですよね」「ああ、素晴らしかった。きっとヴァルハラで奏でられている音楽ってのは彼女の歌みたいなものなのさ。天上の歌声ってやつだね」「“天上の歌声”ですか。良いですね、そのキャッチコピー」 ああそうだ、とバーテンはカウンターの客アランに二つの名刺を差し出す。「これは?」「こっちは彼女の名刺ですよ」 バーテンは一方の華やかな装飾文字の名刺を指差す。 そこには“エリザ・ツァン”と読める。「日毎に色んなバーで歌ってるらしいですよ。今日の今の時間だと、こっちの名刺のお店に居るはずです」 バーテンはエリザの名刺を裏返す。 エリザの名刺の裏には、確かに時間割のようなものが記されており、それが彼女が歌声を提供しているお店なのだろう。 バーテンはその時間割の一部と、もう一方の名刺を指す。 もう一方は“クラブ・オーゼイユ”という店の名刺らしい。 バーに掛かっている時計を見ると、20時を指していた。 エリザの名刺に書いてある時間割通りならば、この時間には彼女は“クラブ・オーゼイユ”で歌い始めたばかりなのだろう。「もし気に入られたのなら、行ってみては如何です? きっと彼女も喜ぶと思いますよ」「そうだねえ、じゃあそうしようかねえ」 アランは残っていた蒸留酒を一気に飲み干し、カウンターから立ち上がると、脇の席にかけていた上着を掴む。「じゃ、マスター。お勘定よろしく」◆ 蜘蛛の糸の繋がる先は 外伝7.シャンリットの七不思議 その3『エリザの歌声』◆ アランはさっきまで飲んでいたバーテンから貰った名刺を頼りに、“クラブ・オーゼイユ”を探していた。 ポケットからIDカード兼用のマジックアイテムを取り出すと、アーカム市全体を覆う巨大ネットワーク状のマジックアイテムに接続し、地図情報を呼び出す。 さらに空気中の炭素から投影用のシートを『錬金』、『硬化』でピンとシワを伸ばし、『遠見』の応用で仮想領域の地図情報をそこに映し出す。「お、あったあった。ここか。随分分かりにくい場所だな」 クラブ・オーゼイユはメインの通りから一本入ったところを更に一本入って、地下に潜ったところに店を構えていた。 少し陰気な感じの店だ。 扉の向こうからは喧騒が聞こえてくる。 喧騒? いや、これは怒号だ。 罵声だ。 何事かと思った次の瞬間には、クラブ・オーゼイユの扉が内側から開け放たれ、叩き出されるようにして一人の人間が出てきた。「おっと!?」「きゃあっ!?」 叩き出された人間は、女のようであった。 虎の目のような色をした艶やかなウェーブの掛かった髪。 胸元の大きく開いた深い藍色のドレス。 麝香の匂いが少し鼻を擽る。 アランが思わず抱きとめてしまった女性は、彼の腕の中でキョトンと見上げてくる。 スッと整った鼻筋と蒼月のようなサファイアブルーの瞳、真っ赤なルージュ。 そう、腕の中の彼女は――「ミス・ツァン?」「あら? 何処かでお会いしました、ミスタ?」◆ 二人は取り敢えず、場所を変えることにした。 アランは先程まで飲んでいたバーへと先導する。 道すがらアランが彼女から話を聞くと、どうやら今日の歌が、ひとりの客の癇に酷く障ったらしい。「時々あるんですよ。私の歌が気に入らないって言う人が」「そうなんだ。僕は君の歌好きだけどねえ」「ふふ、ありがとうございます」 他にも取り留めない話をしているうちに、二人はアランが飲んでいたバーに到着する。 バーの扉を開けると、軽快なベルの音が鳴り、来客を知らせる。「マスター!」「おや、アランさん。お帰りなさい。どうしたんです?」 バーのマスターはさっき出ていったのに直ぐに帰ってきたアランを見て、訝しがる。「忘れ物でもありました? 席を片付けたときには何もなかったんですが」「いや、そうじゃなくてね。ちょっと色々あって、こっちで飲み直すことにしたんだ」 アランはそう言って店の中に入りカウンターに向かう。 その後ろから虎の目色の髪とサファイアのような瞳を持った藍色のドレスに身を包んだ女性が続く。 流しの歌姫、エリザ・ツァンである。「マスター、お久しぶり」「あれ、エリザちゃんじゃないの。どうしたの? クラブ・オーゼイユは?」「いやそれが……」 ここまで同道する経緯をアランは簡単にマスターに説明する。 クラブ・オーゼイユでエリザが歌っていると、彼女の歌声を気に入らなった客に詰め寄られて、文句をつけられて物凄い剣幕で叩き出されて、その時にアランとぶつかったのだと話す。 悪罵を浴びせられてクラブ・オーゼイユを追い出された段になると、エリザは悲しそうな顔をした。「何ででしょうね。時々、そういう事があるんです。理由を聞いても何処が下手とか、そういう事じゃなくて、声が嫌いとかでもなくて、兎に角“癇に障る”としか……」「うーん、何でだろうね」「勿論、アランさんやマスターみたいにとても気に入ってくれる人も居るから、やって行けてますけど」「そうそう、ファンは居るんだから、僕やマスターみたいに君の“天上の歌声”を気に入ってる人たちに、聞かせてくれれば良いんだよ」「まあ! 天上の歌声、なんて過分な評価ですわ」 エリザは顔を赤らめて謙遜する。 アランとバーのマスターは、口々にエリザを褒める。 美人を褒めるのは、男の義務であるからして。 その後、二人を前にエリザが歌声を披露することになったのは自然な成り行きだった。 簡易に設けられた歌唱台に立つエリザの口からは、賛美歌のような音律の歌が流れ出す。「――Look to the sky, way up on high,There in the night stars are now right――」 バーのマスターは、風の魔法によって音響を巧み調整する。 客の耳元に必要な音を正しく増幅し、それ以外の場所には伝えないようにと、精密に音の伝導、増幅、減衰を司る彼の腕は、バーテンじゃなくて音楽関係の道でも食べていけるのではないかとさえ思わせる。「――Scary scary scary scary solstice,Very very very scary solstice――」 アランの視線は壇上で歌うエリザに釘付けになっている。 彼女の歌を聞くということ以外には意識が向かず、口は開きっ放しで涎も垂れている。 アランのその様子は、まるで何かの薬物中毒患者のようだ。 彼は正しくエリザの歌声の虜に……中毒になっていた。◆ エリザの歌の後、それをアランは拍手で讃えた。 一人だけの拍手は、しかし、バーのマスターの音響操作の風魔法で多重化され、万雷の拍手となってエリザを打つ。 これもまた歌い手の間でこのバーの評判が良い一つの理由だ。「いやあ、素晴らしい! 素晴らしい歌だったよ!」「ありがとう、アランさん。マスターも、音響サポートありがとう」 反響していた拍手の音が消え、閑散とした空気が戻る。「いやいや、エリザちゃんみたいな上手な歌い手のサポートが出来るなら私も本望さ」「ありがとうございます」 アランは未だ夢見心地である。 蕩けた様子で言葉を紡ぐ。 瞳孔は開いて焦点が合っていない。「いい歌を聞かせてもらったよ。また明日も絶対聞きに行くから。名刺に書いてある時間割通りにやってるんだよね?」「ええ、そうです、アランさん。あ、でも私、名刺渡しましたっけ?」「マスターから貰ったんだ。これで合ってるよね?」 そう言ってアランは数時間前にマスターから貰ったエリザ・ツァンの名刺を差し出す。 エリザはそれを一瞥する。「あ、これ、ちょっとバージョンが古いですね。最新の時間割はこちらです」 エリザは自分のIDカード型マジックアイテムを取り出し、直ぐに新しく名刺を『錬金』する。 そして新しく作った名刺をアランに差し出そうとして、手を止める。「どうしたの?」「……いや、クラブ・オーゼイユで騒ぎ起こしちゃったから、暫くは行けないなあと思って……」 エリザは自分の名刺に浮かび上がらせた時間割のうち、クラブ・オーゼイユの部分を見て困ったように思案する。 そこにバーのマスターが声を掛ける。「エリザちゃん、良かったらその時間はウチの店で演らないかい?」「良いんですか? マスター」「もし、良ければね。私もエリザちゃんの歌は好きだし。都合がつけば、君の友人で見どころのある演奏家や歌手が居れば、その彼ら彼女らを連れてきてくれても良いし」「わあ、助かります! それじゃあよろしくお願いします!」 商談成立、のようである。 エリザは直ぐに一度『錬金』した名刺を分解し、再び『錬金』し直した。 新しい名刺をエリザはアランに差し出す。「はい、アランさん。また聴きに来てくださいね」「必ず聴きにいくよ。ありがとう、ミス・ツァン」「エリザと呼んでくれても構いませんよ? アランさん」 エリザは悪戯気にウインクをする。 アランはそのサファイアブルーの瞳にすっかり参ってしまったようだ。「ああ、じゃあエリザさん。また聴きに行くよ。そうだ、夜道は危険だろうし、良かったら送って行くけれど」 アランはそう申し入れる。 変な下心は無い。 純粋に心配しての行いだ。 それに“天上の歌声”を穢してはいけないから、手を出すなんて以ての外だ。 彼は紳士だった。紳士の前に“変態”と付くかもしれないが。 エリザは微笑んで返事をする。「ふふ、じゃあお言葉に甘えちゃおうかしら」 マスターがそのやり取りに、一応定型句を挟む。「送り狼にはならないで下さいよ、アランさん」「ならないよ、マスター。お勘定を。エリザさんの分も」「あら、ごちそうさまですわ、アランさん」 美女と同席できて、素晴らしい歌を聞けたのだ。 奢るくらいしないと却ってバチが当たるというものだ。◆ それからアランは毎日エリザの歌を聴きに様々なバーへと足を運んだ。 仕事である古書の回収が上手く行っていなくてストレスが溜まっていたということもあるが、彼はすっかりエリザの歌の虜になってしまっていた。 そのアランの“エリザ行脚”の中でも、週に一度は音楽に造詣の深いあのマスターのお店でエリザを交えて飲み、その後は彼女の暮らす寮へと送って行っていた。 それはエリザの部屋まで送って行く何度目かの道すがらのことだった。 彼女がアランに、自分の近辺をうろつく怪しい人物のことについて相談したのは。「最近、誰かに常に見張られているような気がする?」「ええ、そうなんです。アランさん」 帰り道の街灯に照らし出された路地でエリザは不安そうにアランに告げる。 それに見張られているだけではないのだという。 その何者かの気配を感じるようになってから、不可思議な出来事が起こるようになったというのだ。「その、信じてはもらえないと思いますが、変な気配だけじゃなくて、歌を歌っている間は全く時間が進まなくなったり、とか……」「錯覚じゃないんだよね?」「ええ、10分の歌曲を歌い終わったのに、時間は1分も経っていなかったりということがありました」 不安げな女性を捨て置いておけようか。いや、捨て置けまい。 アランはエリザの身辺を警護することを申し出、直ぐにそれは受諾された。「なんだか申し訳ありませんわ。そこまでして頂くなんて」「いえいえ。貴方(の歌声)を護る為ならばこの程度手間でも何でもありません」 そう言ってアランは彼女を送っていった直後から、彼女の寮の近くで張り込みをすることにした。 話によると、今もその何者か分からないモノの視線を感じるということだったからだ。 その何者かは彼女の歌に合わせて、さらにその気配を濃くするというので、彼女が部屋に帰って直ぐに歌曲を歌うことで誘き出そうと、アランは提案した。 エリザはアランの提案を危険だと止めたが、彼は譲らなかった。 美女の前で格好をつけたいのは、悲しいことに男の性であるからして。◆ エリザが彼女の部屋に帰ってから間もなくして、何処か異界を思わせる、彼女の歌の調べが響いてくる。 本当は近所迷惑になるので良くないのだが、アランは彼女にお願いして、彼女の部屋の『サイレント』を発生させる防音魔法機構――音楽を嗜む住人のために、この寮にはかなり上等なものが備え付けてあるらしい――を切って、さらに窓を開け放って貰っているのだ。 魂を奪い去るような極上の歌声を耳にして、いつものようにアランの意識がトリップしかける。 だが、直ぐに頭を振って、意識を持ち直した。 今は彼女の歌に聴き惚れている場合ではないのだ。 彼女の寮の部屋の前の通りのすぐ下で、周囲に気を配りながら待っていたアランは、直ぐに異常に気づくことができた。 いや、彼のように気配を探ってなくとも気がつくだろう。 何せ、件の怪しい人物は、アランのすぐ隣りに忽然と現れたのだから。 彼は虚空から現れ出たとしか思えないその人物に声を掛けようとする。 その人物は宙に浮いているようであった。 灰色とも虹色とも判然としない、奇妙な色のヴェールに包まれた小柄な人間……のように見える。 というのも、その不思議な色合いのヴェールがアランの隣に浮いている者の全てを覆ってしまっていて、ヴェールの中を窺い知ることは出来ないからだ。 アランが“宙に浮いている”と判断したのも、隣の妙な塊を覆っているヴェールから足が出ていなかったためである。 ただ何となくではあるが、その濁った虹が渦巻きしかし無色にも見える不可思議な宇宙的色彩をしたヴェールの中身は、ヒトのようにも見えた。 マネキンの頭と胴体を『レビテーション』で浮かせて、それにシーツを掛ければ同じようなシルエットに見えるかもしれない ヒトか或いは、それよりも進化した異次元の生物。 否。 そもそも生物というカテゴリに収まらないのではないか。 否。 生物や無機物といった観念よりも遥かに根源的な。 この世に時間や空間という概念が生まれる前の。 そう。 時間や空間の父祖。 全にして一なるもの。 古ぶるしきモノを讃える歌声が木霊する。 アランが、夜空に響く歌声を認識した途端に、たちまち彼もまたその歌声の虜となってしまう。 歌姫を付け狙う何かしらの邪悪を挫こうというアランの侠気は、奇しくも彼女自身の歌声によって奪い去られてしまう。 美しいエリザの声。 天上の歌声は天外のモノにまで届いていた。 単なるヒトでしかないアランが、その魅力に抗えるはずもない。 虹色が混ざり合いすぎて混沌とした妖しい無色のヴェールを被った奇妙な人影と、アランは、同じ歌姫の声を好む同好の士として、肩を並べて彼女の歌に聴き入った。 アランがハッと気づけば、既にあの異次元の色彩をしたヴェールの人影の姿はなく、エリザの歌声も終わってしまっていた。 体感時間としては数時間もずっと聞き惚れていたと思っていたのだが、時間を確認してみれば数分も経っていなかった。「しまった。つい聴き惚れてしまって見失った。まだ近くに居ると良いが」 先程の人影が、アランと同じく“エリザ中毒”ならば、おそらくは彼女の歌が終わるまではこの場に居たはず。 ならばそう遠くには行っていないだろうと判断し、先程の人影を探しにアランは周囲を歩くことにした。 エリザの暮らす音楽学生寮の周囲を、先ずは建物沿いに右へ。そしてまた右へ。 すると最初の場所に帰ってきた。 異状無し。痕跡も無し。では次はもっと範囲を広げて――「あれ?」 ……最初の場所? 二回しか角を曲がっていないのに?「そんな馬鹿な」 ザッと後ろを振り返る。 異状なし? ……いや、周辺の街灯が消えたのか、先が見通せなくなっている。 周囲の建物の明かりも消えている。「おかしいぞ」 そう、何かがおかしい。 もう一度振り返り、前を見る。 前の方も闇が降りて見通せない。「……まずいことになったな」 アランは胸元のIDカード型マジックアイテムから魔法を使おうとする。 使用する魔法は『念力』。 アランの持つ魔法使用免許では自重と同じ程度の出力しか出せないが、この場はそれで充分。 「上から見れば何か分かるか……?」 目の前に『念力』足場を作り出して、上空へと駆け上がって見渡すだけだ。 前方30サント、空中20サントに上向きの力場を設定。 その設定を繰り返して、階段状に力場を形成するようにプログラム。 条件設定は終わったので、実行するのみ。 このような細かい設定をするかどうかは個人の好みの問題だが、アランはそのような細かい魔法の使い方が好きだった。 設定した魔法の実行をIDカード型マジックアイテムで選択する。 そしてアランは見えない階段に向かって足を踏み出す。 スカッ。「うおあっ!?」 踏み外した。「……魔法が起動しない?」 いよいよ以て異常であった。 学術都市アーカムにおいて、魔法が起動できないということは早々あり得ない。 使用資格が剥奪されでもしない限りは。 もちろん使用資格が剥奪されるような心当たりは無い。 大体、使用資格無しに魔法を使おうとすればそれに応じた警告が出るはずである。 しかしそれは出なかった。「何だ? 何が起こっている?」 アランは混乱する。「そうだ、エリザさんは? 大丈夫なのか?」 狼狽しつつもアランは音楽学生寮へと入る。 そして直ぐ様外に出た。「はあ?」 学生寮の建物の内部に入った筈が、いつの間にか外に出ていた。 何を言っているか分からないと思うが、その状況を体感した本人が一番訳が分かっていない。「は? え? なんで?」 混乱、混乱、混乱。 どういうことだ。 座標がバグった? いや仮想現実じゃあるまいし。 じゃあ時空が捻れている? 何が原因だ? 怪しいのは、虹色のヴェールを被った先程の人影か? あの、なんとも言えない、超越的で宇宙的な雰囲気を纏った人影……。 その時であった。 再びエリザの歌声が聞こえてきたのは。 同時に出現する、ヒトではない何か偉大なるモノの気配。 虹色のヴェールを被ったナニかだ。 急いでその虹色が濁りすぎて無色に感じられるヴェールを被った超時空的な存在に話しかけようとするが、エリザの歌声によってアランの意識は圧倒的な快感の海に投げ出されて掻き消えてしまう。◆ アランが再び我を取り戻したときには、ヴェールを被った何モノかは消えていた。 彼はまたしても見渡せない闇に取り囲まれた空間に取り残されてしまった。 まるで環のように捻れて繋がった不自然な時空。 出口の無い迷宮のような。 世界からエリザの歌を聞くためだけに、この場所を切り出したような、そんな不自然な舞台。 愕然としてアランはその孤独な時空に立ち尽くす。◆ 歌が聞こえる。 美しい歌。 この世のものとは思えない清澄な歌声。 アランは聴き入っている。 ずっとずっと聴き入っている。 ずっとずっとずうっと、聴き入っている。 彼がこの時空に閉じ込められてから、一体どれほどの時間が経過しただろう? 何時間経っただろう。 何日経っただろうか。 何週間経った? 何ヶ月? 何年経ったのだ? あるいは何十年? ひょっとすれば何百年。 最初のうちはインターバルを挟んでいたエリザの歌声も、今は全く途切れない。 同じフレーズを繰り返し、あるいは巻き戻り、或いは全く別の歌を継ぎ接ぎにして、魔性の歌声は聞こえてくる。 歌声を加工して好き勝手に継ぎ接ぎのリミックスにしたような風に聞こえることもあるが、アランにはそうではないと言うことが直感的に分かっている。 これはあの不思議な無色のヴェールに包まれた存在が、エリザが歌っている時空ごと、切ったり、繰り返したり、継ぎ接ぎにしているのだ、と。 円転する時間。 出口のない環。 いつの間にか、歌に聞き惚れるアランの隣や後ろには無数の人影。 皆が皆、蕩けたような表情でエリザの歌に聴き入っている。 アランには分かっている。 ここに居る全員が彼女の歌声に惹かれて集まってきたのだろう。 私や、あのヴェールを纏った存在と同じように、天上の歌声に惹かれて。 そうだ。この歌が聴ければ他には何も要らない。 永遠にこの歌を聴いていられれば、それで良いのだ。 そう考えれば、この捻れた時空も悪くない。 いや最高の場所ではないか。◆ エリザを始め、様々な人がアランを探したが、見つからなかった。 アランがその“切り取られた円環の時間”から帰ることは、終(つい)ぞ無かったのだ。 彼が居なくなったポイント付近では、エリザ・ツァンがこの学術都市から去っていった後も行方不明者が多発することになる。 行方不明者らは居なくなる直前に皆、こう言い残していたのだという。 “歌が聞こえる”と。◆ ・『エリザの歌声』の噂 とても綺麗な歌声のエリザという歌手がいる。あるいは“いた”らしい。美しい歌声は遥か星辰の彼方にも届くとか。 彼女が暮らしている――暮らしていた――という音楽家専用寮の前には、時折、彼女の歌声に囚われたファンたちが時空を越えて現れては、彼女の歌声に耳を傾けているそうだ。 耳慣れない美しい歌声を夜道で聞いたら注意すること。 その歌声に魅せられて、彼女のファンの集まりに加わってしまえば、あなたは二度と戻って来られないだろう。=================================エリザの歌声に惹かれてやって来たのは“【門の導き手にして守護者、古ぶるしきもの】タウィル・アト=ウルム”というヨグ=ソトースの比較的安全な化身。ウルム・アト=タウィルとも。“【音楽の使者、生命ある音】トルネンブラ”の話にしようと思ったけれど、結局ヨグ様の話になってしまった。エリザ・ツァンとクラブ・オーゼイユは、ラブクラフト御大の作品『エーリッヒ・ツァンの音楽』から取って命名。ヨグ様はちょいと窮極の門の守護という仕事の息抜きに歌を聴きに来たのだが、無自覚に周囲の時間を捻じ曲げてしまってるっぽい。アランはそれに巻き込まれて時空的に孤立。多分トルネンブラとヨグ=ソトースの間でエリザ争奪戦が繰り広げられていると思われ。「この歌声、ティンと来た! ぜひアザトース様に献上せねば!」「もっとこの娘の歌を聴いてたいから、もうちょっと待ってー」途中でエリザ・ツァンがバーで歌ったのは『旧支配者のキャロル』というあるクリスマスソングの替え歌。2010.11.09 初投稿2010.11.13 追記。若干流れが唐突だったので……