ジョルジュ・オスマンは、学術都市シャンリットの研究中枢区アーカムにある中央大博物館に勤める学芸員(キュリエータ)である。 身の丈3メイルに迫る巨人症の青年であり、恐らく学院内で“『巨人』のジョルジュ・オスマン”と言えば知らない人間は居ないだろう。 ジョルジュの専攻は古文書の修復と解析であり、中央大図書館(超巨大な直方体状の建物)に勤める古書回収部隊の面々とも仲が良い。 古書回収部隊が何処からか――一説には次元の狭間や深海の泥中から――回収してくる書物の中には、何語ともつかない言語で書かれた物も含まれる。 ジョルジュはその巨体に似合わずボロボロの資料を修復する手腕に長けており、多くの古文書が――陶片や木板、石板でもパピルスでも何でも――彼の下に持ち込まれる。 もちろんそれ以外の学芸員として必要な技能も粗方、人並み以上に修めている。「ジョルジュさーん! これ、よろしくお願いします!」「うを!? 急に入ってくるな、手元が狂うだろうが、ウジェーヌ!」 学芸員に学術都市から与えられたアトリエで修復作業をするジョルジュに、彼の助手であるウジェーヌ・ドラクロワが入ってくる。 ブラウンの髪と瞳を持つ助手ウジェーヌの手には木箱に厳重にかつ丁寧に納められた古文書があった。 恐らくは大図書館の古書回収部隊からの依頼だろう。「新しい依頼か? ウジェーヌ」「ええ。どこぞの墳墓だったかネクロポリスだったかから回収チームが見つけてきたものだそうです、修復と複製の依頼ですね。発掘時の周辺状況の詳しいデータはいつものように添付の書類を見てください」「ああ、その辺りに置いといてくれ」 ウジェーヌが入ってきた扉のほうを振り向き見もせずに、ジョルジュは応対する。 ウジェーヌは持っていた木箱を入口近くの棚に置くために部屋の中に進む。 縦長のアトリエには、左右に陳列棚が並んでおり、その奥では巨人ジョルジュが若干背を丸めて化石化した葉のクリーニング作業をしている。 棚は巨人症のジョルジュに合わせて作ってあるため、165サントほどの身長しか無いウジェーヌでは、棚の高さによってはモノを置くにも踏み台が必要になる。 修復が終わっている資料も棚に置かれ、ジョルジュやウジェーヌの研究を待っている。 棚に置かれたそれらの資料(ただしオリジナルではなくて複製)には学術都市全体で共通的に使用される各資料に固有の通し番号(資料ID)と簡単な説明を書いたラベルが貼られている。 ラベルに書かれている説明からは“エルトダウン・シャーズ”、“グハーン・フラグメンツ”、“ドジアンのスタンザ”などという文字が読み取れる。 これらは始祖光臨以前の遙か古代の超文明を記録したものと見られる錚々たる資料だ。 このアトリエに置かれている物は全て、ジョルジュが修復を行ったものだ。 修復されたオリジナルの資料は通し番号(資料ID)を付けられて、中央大博物館や大図書館に保管されている。 あらゆる資料は学術都市に於いては共通の資料IDによって管理されている。 論文で、ある資料について引用する際には資料IDを必ず付記しなくてはならない決まりだ。正式に発表されれば、論文の方にも当然通し番号が付けられて管理される。 そうすることで資料から関連する論文を逆引きすることが簡単になるのだ。先行研究の参照も簡単になる。 茶髪の助手ウジェーヌは、様々な修復中の陶片や研究中の石板の破片が並んでいる棚のうち、空いているスペースに、持ってきた木箱を置く。 ジョルジュにとっては胸ほどの高さだが、平均程度の身長しか無いウジェーヌにとっては背伸びするような高さだ。「よいっしょ、っと」「おいおい、落とさないように気を付けろよ。大体『念力』の魔法を使えばよかろうに。棚が高くて大変だろう?」「え? いや、制御ミスって壊したらマズイじゃないですか」 ウジェーヌは若干魔法制御が甘いところがあると自己申告しており、余り魔法を使いたがらない。 この街でIDカード型マジックアイテムを介して魔法を使う(正確には端末となっているIDカード型マジックアイテムを通じて学術都市を覆う巨大ネットワーク状インテリジェンスアイテムに魔法使用を代行させる)と、それに応じた費用が発生する。電気料金と同じようなものだ。だがウジェーヌが魔法を使わないのは、魔法使用に掛かる費用をけちっている訳ではないだろう。 学術都市に於いてキュリエータの助手はそれ程薄給ではないし、業務時間中――この街の研究者にありがちなことではあるが業務時間とそれ以外の時間は曖昧だ――ならば経費として魔法使用料金を申請できる。「貴重な資料を落とされた方がまずいことになる。気をつけてくれよ?」「あはは。はい、気をつけます。この間なんて他の実験室の手伝いで実験動物の脳だけ潰しちゃったことがあって……」「おいおい、何をどうやったらそんな事になるんだ」 巨人ジョルジュに合わせた特注の作業台の上には、ある地層から出土した、文字列が刻まれた植物の葉の化石があった。 ジョルジュは慎重に葉の化石を掘り出していた手を止めて振り返り、入り口のウジェーヌの方を見る。 ジョルジュの右目には精密作業用のルーペが嵌っており、もう何日も作業室に篭もりっきりなのか髭が伸び放題になっている。 研究者の嗜みとしてジョルジュは通称“引き篭もり魔法”と呼ばれる、体内や体表の排泄物の分解し、必要な栄養を空気中から『錬金』して摂取し、さらに疲労回復がセットになった研究廃人御用達の魔法を身に付けている。 ジョルジュの草臥れた格好から、恐らくは一時も机から離れずに化石のクリーニングを行っていたのだろうと言うことが見て取れる。 振り向いたジョルジュの視界に、白衣を着たブラウンの髪の何処か人懐っこい印象のウジェーヌの顔が映る。「マウスをですね、持ち上げる時にですね」 助手ウジェーヌは小動物を持ち上げる動作をしながら話を続ける。「こうやってマウスを『念力』で持ち上げようとしたらですね……。マウスが急に動いたものだから『念力』の作用点がずれてですね……」「ああ、それでぐちゃっと?」「ええ。ぐちゃっと。脳味噌がぺちゃんこに」 はあ、と大男ジョルジュは溜息をつくと、椅子の背凭れに寄りかかり、眉間を揉みほぐす。 修復作業による若干の疲労もあるが、このおっちょこちょいな助手をどうしたものかと思案してしまったのだ。 ジョルジュとウジェーヌの凸凹コンビはもう数年の付き合いだが、どれだけ注意をしてもウジェーヌが手ひどい失敗(ファンブル!)をすることは無くならなかった。 まるで何かに呪われているかのように一定の確率で失敗をやらかすのだ。きっとダイスの神にでも呪われているのだ。 だが稀に、最悪な失敗をやらかすのと同じくらいの頻度で、有り得ないくらいに最上の結果(クリティカル!)を導き出すこともあるから、付き合いをやめられないのだ。 出会った時から全く相貌が衰えないウジェーヌの人懐っこい子犬のような顔を、疲れ目で凝視して、ジョルジュは溜息をつく。 助手のウジェーヌが老けないのは多少気になるが、きっとエルフか吸血鬼なんだろうと思ってあまり気にしない事にしている。 この街にはエルフや吸血鬼も変装魔法で溶け込んでいるというのは、よくある噂だが、信憑性は高いと思われる。学究の徒であれば、異教にも人外にも、この街は寛容なのだ。 老けないことで有名な教授や研究員というのは、この学術都市シャンリットには、教師長ウード・ド・シャンリットを初めとして、両手足の指でも数えきれないほど沢山居る。 きっとウジェーヌもそういった人外連中と同じような出自なのだろう、とジョルジュは考えている。 まあ、人並み以上に優秀な者なので、何も無い限りはこのままの付き合いが続いていくだろう。◆ 蜘蛛の糸の繋がる先は 外伝7.シャンリットの七不思議 その5『朽ち果てた部屋』◆ 学術都市シャンリットは元々は旧トリステイン領シャンリットであり、その中枢街区アーカムのミスカトニック学院を中心として拡大した大学・専門学校群はシャンリット領全体を緩やかに統合して一つの都市圏にしてしまっている。 約千年前の発動された『シャンリット領学術都市化計画』の顕著な成果である。その計画の提唱者の願い通り、シャンリットはハルケギニア中の知識を吸い蒐める機関となっているのだ。 学術都市の中核となった私立総合大学であるミスカトニック学院の創設者はブリミル歴5000年前後のトリステイン貴族(一代子爵)であったウード・ド・シャンリットだ。 彼は謎の多い、というか不気味な噂の絶えない人物であり、“僭称教皇”だとか“史上最大の異端者”とも言われ、多くの創作小説ではエルフと並んで人気のある悪役である。 学術都市シャンリットでは“千年教師長”という呼び名の方がメジャーかも知れない。 学院の教師長(教頭)は代々ずっとウード・ド・シャンリット(ゲルマニア風に読めば“アウデス・フォン・カンプリテ”)を名乗っており、嘘か真か、約千年前の学院設立当初から生き永らえているウードⅠ世が未だにその職に就いているとも言われている。 学術都市シャンリットに於いて変わらないものの一つとして、千年教師長ウード・ド・シャンリットは数えられている。 目魔狂しく建物やそこに住む人が入れ替わっていくシャンリットに於いて、変わらないものは幾つかある。 教師長の名前、中央大図書館の外観(地下は年を追うごとに拡張されているが地上部の外観は変わらない)、産業研究都市である旧ダレニエ市にあるシャンリット家の城砦などなど。 その変わらない物の一つが、中央大博物館とその付属の研究塔である。 ハルケギニア中の全ての本を集めようとする中央大図書館に並び称される中央大博物館は、各地の自然資料・遺物・美術品を無目的かつ無制限に蒐集することを目的としている。 例えば、奇妙に縦に避けた口と二股の腕を持つ巨人の骨格標本であるとか、世にも珍しいケイヴ・パール(岩屋真珠)の鉱物標本であったりとか、小箱の中に固定された妖しく輝く偏四角多面体の美術品であったりとか、象の頭を持つ遥か東方の神像であったりとか……。 集められた資料を収める標本庫も広大であり、また、『固定化』の魔法があるとは言えそれら標本の維持に必要なコストも安くはない。 そして眼を引くのは中央大博物館の隣に立つ付属の研究塔イエール=ザレムである。 研究“棟”ではなく、研究“塔”である。 何故なら数々のキュリエータのアトリエへの入り口が集まっているこの建物は、遥か静止軌道まで伸びる長大な軌道エレベータなのである。 晴れた日ならば遥か遠く隣国トリステイン首都トリスタニアからでも、この研究塔を見ることが出来るだろう。 研究塔の途中には巨大な八角形の蜘蛛の巣を水平にしたような形に広がる空中ポートが幾つも造られており、地上に降りるのが面倒臭いという研究者のための売店や食堂、リフレッシュ設備など様々な施設が存在する。 噂によれば、この天空研究塔イエール=ザレムで生まれ、それから一度も地上に降りたことのない人物もいるらしい。 半径2リーグほどの空中ポートはおよそ1000メイル間隔で備え付けられており、真下から見上げれば、風に吹かれて振動している天空研究塔イエール=ザレムは、まるで積み重ねられたヒドロ虫のポリプ幼生が海中で揺れているような錯覚を与えてくる。 高緯度地域(学術都市シャンリットの中枢街区アーカムの緯度は約50度)に軌道エレベータを造るなど、頭が沸いているとしか思えないが、それをやり遂げてしまうのがアトラナート商会の力である。何でも赤道で建設してからここまで引っ張ってきたとか言う話もある。 研究塔イエール=ザレム周辺の気流を風魔法の『サイレント』で減衰させることで、気流による大きな揺れを防ぎ、さらに各部材は『硬化』『固定化』『レビテーション』によって軽量化と強靭化が成されている。 天空研究塔イエール=ザレムは一本の弦と看做されるので、稀に固有振動数に合致する強烈な揺れが発生することがあるが、その揺れは水平蜘蛛の巣型の空中ポートを適切に上下させることで打ち消すようになっている。 軋軋と各ブロックパーツを軋ませながら大気の海の底を揺蕩う天空研究塔の麓に向かって3メイルの巨人が歩いている。 シャンリットの腕利き学芸員、“巨人”の二つ名を持つジョルジュ・オスマンだ。 その傍らには子犬のような雰囲気の助手ウジェーヌ・ドラクロワが付き添っている。「ジョルジュさん、あのイエール=ザレムがゆらゆらと撓って揺れてるのを見ると何時か倒れるんじゃないかと思ったりしませんか?」「いや、そんな事は思わないな。そうならないように何重もの安全策が取られているのは知っているだろう、ウジェーヌ」「そりゃあ知ってますけど。でも、こう、不安になったりしません? 自分がいつか死ぬんじゃないかとか」 唐突にそんな事を問うてくる助手に対して不審に思いつつも、ジョルジュはニヤリと傲岸不遜に笑って答えを返す。「は、タナトスって奴かい? 残念ながら俺は今まで一度もそんな事を考えたこともないね。自分が死ぬ様なんて想像もできないよ」 この世の全てが滅びても自分だけは生き残ってみせる、と、莞爾として微笑むジョルジュを前に、ウジェーヌは俯く。 雨に打たれた子犬のような儚げな雰囲気の茶髪の助手を前に、ジョルジュは逆に質問をする。「何で急にそんな事を聞くんだ? 何かあったのか?」「……、あの、先日運んできた古書があったじゃないですか。あの、私が他の実験室の手伝いでヘマをやって実験動物の脳を潰したって話をしたときに持ってきた……」「ああ。確か、〈カルナマゴスの遺言〉とか言う古書だったな。とあるネクロポリスの修道院の地下の死体安置所から見つかったとか言う」 ネクロポリスとは死者の鎮魂のために造られた死者のためだけの都だ。 多くの場合は生者の住む都市の横に、生者の都にそっくりのゴーストタウンを造る。 〈カルナマゴスの遺言(テスタメント・オブ・カルナマゴス)〉というのは、あるネクロポリスの風化して崩壊しつつあった修道院に安置してあった魔道書と思われる古書である。 先日ウジェーヌが運んできたのは、その古書であった。「ええ、その〈カルナマゴスの遺言〉を触ってから、なんだか不安になってしまって」「ふうん? そういう精神作用があるのかも知れないな」 シャンリットの中央大図書館所属の古書回収部隊が見つけてくるものの中には、そういった危険な精神作用や妙な魔法効果を持つものがあるのだという噂はある。 実際にジョルジュが復元・修復した書物の中にもそのような危険な効果があったものはあった。 しかし巨人ジョルジュはこれまで一度も致命的な事態に陥ることはなかったので、自分の技術あるいは天運というものを過信していた。「ま、俺には効かないだろうけどな!」「ジョルジュさんのその根拠のない自信が羨ましいです……」「は、イメージするのさ。遥か未来のことをな。あらゆる事を想定しているが、今の所そのありとあらゆる想定で俺は生き残っている。絶対に死なない自信がある」 大きな男ジョルジュ・オスマンは笑ってバシバシと子犬のような助手ウジェーヌの背中を叩く。「イメージだよ、イメージ! 魔法を使うにしても、生きていくにしてもそれが一番重要だ」「はあ、分かりました。頑張ります」「そうだそうだ! イメージってのは大事だぞ! 古資料の復元にもイメージが大事だ! ま、俺は復元専用の補助魔法も開発しているんだがな」 バシバシと叩かれるままになっていたウジェーヌの目に鋭い光が宿る。 親方の技術を盗もうとする徒弟の剣呑な眼だ。「教えてくださいよー、その魔法ー。もうそろそろ教えてくれても良いでしょう?」「うん? それについてはいつも言ってるだろう。 基本的には『ディテクトマジック』で、そこに残っている業子(カルマトロン)の残滓を見るんだよ」「そのカルマトロンというのがイマイチ理解出来ないんですよねー。ジョルジュさんが提唱しているんですっけ。 “それを見ればその物質の来歴が分かる。それとは即ちカルマトロン。あらゆる存在は業(カルマ)を持ち、全ての行いはカルマトロンを単位として蓄積される。その挙動を予測することはイコール未来予知となる。それこそが業子力学”でしたっけ。 まあ、僕はまず杖の契約をして、学術都市のIDカード経由じゃなくて、自力で魔法を使えるようにならないといけませんけど」「そもそもお前にメイジの血は入ってるのか?」「多分先祖のどっかで入ってるでしょう」 彼らとしては何度目か分からない会話を交わしつつ、ジョルジュとウジェーヌは遥か上空まで揺ら揺らと伸びる天空研究塔イエール=ザレムへと入っていく。 因みにこの研究塔は、地上部分をザレム、静止衛星軌道より少し上のバランス用の錘替わりの天空都市をイエールと称し、併せてイエール=ザレムという名称なのである。 巨人ジョルジュと助手ウジェーヌに学術都市から与えられたアトリエは、この軌道エレベータ型天空研究塔の中程にある。……と思われている。 正確なアトリエの位置は分からない。何故なら――「IDカードを翳せば」 ジョルジュとウジェーヌは研究塔地上部ザレムのエレベータボックスのような箱に入り、スライド式のドアを閉めるとドア脇のIDカード読み取り部分に自分たちのIDカード型マジックアイテムを翳す。 直ぐに認証が行われ、認証パネルに【乗員2名。接続しますか?】という文と、その下に【Oui】と【Non】の選択肢が提示される。 慣れた様子でウジェーヌは【Oui】の表示に指を伸ばす。ジョルジュはその巨躯を窮屈そうに丸めている。 ウジェーヌの手がパネルに触れると、電子的な音とともにパネルの表示が切り替わる。 【アトリエに接続中です。しばらくお待ちください】という文字列と、その下に刻一刻とカウントダウンする数字が示される。 5、4、3、2、1、0。「5秒でアトリエ、と。〈ゲートの鏡〉を使った移動は早くて快適ですね」 カウントがゼロになったと同時に二人を内に入れたエレベータボックスのドアがスライドして開く。 そこは先ほど入ってきた地上部の花々が咲き乱れる目に優しい光景ではなく、瘴気を醸しだす古物が陳列された、ジョルジュのビッグサイズにアジャストされた彼らのアトリエになっていた。 この研究塔内部では〈ゲートの鏡〉によって各所が繋がれている。公共スペース以外ではIDカードに与えられた権限に応じた場所にしか繋がらないようになっている。 空間をゲートで超えてしかアトリエには入れないため、一応は天空研究塔の中腹辺りに位置するということに書類上はなっている彼らのアトリエであるが、実際は何処に位置するものか分からないのだ。 ここは宇宙空間を漂う小惑星都市の一角かも知れないし、どこかの惑星の地底都市の一角かも知れなかった。 あるいは何か人智を超えた亜空間に位置しているのかも知れない。 ジョルジュは背を屈めて頭をぶつけないように慎重にアトリエへと入る。 それに続いてウジェーヌもトコトコとアトリエへと入る。 そこで二人は異変に気がつく。 床に異様に埃が降り積もっているのだ。「うわ、これはヒドイですね。一体何が……?」「……、『ディテクトマジック』」 ウジェーヌが驚きの声を上げ、巨人ジョルジュは自分のペンのように先が細くなった小さな杖――IDカード型マジックアイテムではない――を用いて『探知』の魔法を唱える。 ウジェーヌは埃の上に足跡を残しながら、羽根ハタキを取りに入口近くの掃除道具入れに向き直る。 棚の資料の上にもまるで何十年も放って置かれたかのように埃が積もっている。「悪戯でしょうかねー?」「いや、悪戯じゃあなさそうだ」 杖を再び振ってそこら中に『固定化』の魔法をかけ直しながらジョルジュは返事をする。 ウジェーヌはぱたぱたと羽根ハタキを振り回しつつ、IDカード型マジックアイテムで風を制御して舞い上がる埃が散らばらないようにする。「『固定化』をかけ直してどうしたんですか? そう簡単に解けるものではないでしょう? 確かジョルジュさんお手製の固定化なら100年は持つって話じゃ……」「いや、解けている。〈カルナマゴスの遺言〉を除いて、他の全ての資料に掛けていた固定化が解けている、まるでこの部屋の物自体が何百年もの時を経たかのように。この埃も恐らくは、〈カルナマゴスの遺言〉が原因だろう。先日から違ったものといえば、その〈カルナマゴスの遺言〉くらいのものだからな」 げげ、と大げさにウジェーヌは驚いている。 ジョルジュは杖を振って『念力』の魔法で棚に安置されていた〈カルナマゴスの遺言〉を慎重に作業台へと移す。「まさかジョルジュさん、それ解読するつもりですか? ただ置いていただけで部屋がこんな風になるなんて、絶対に碌なもんじゃないですよ。封印した方が良いんじゃ……」「いや、読まなくてはならない、奇妙な直感だがな。何にせよ仕事だから、少なくとも修復だけはしないとならん。それに」「それに?」「気にならないか? 周りが朽ち果てる中で、変わらずに在った本だぞ、まるで不滅の加護があるかのように。俺はその秘密を知りたい」 不滅、その単語に惹かれて、ジョルジュは〈カルナマゴスの遺言〉が入れられたケースを開ける。 ケースの中には幅60サントほどの何かよく解らない生物の革で作られた巻物が丁寧に折り畳まれて納められていた。 ケースに積もっていた埃が周囲に舞って、アトリエの照明の光が心なしか灰色になったような気がする。「止めましょうよ、絶対不味いやつですって、それ!」 魔道書から発散される恐ろしい気配に助手ウジェーヌは及び腰だ。 ウジェーヌは今にもジョルジュの巨体に飛び掛り、彼を引き倒してでも忌まわしい腐敗と風化をもたらす魔道書から遠ざけようとしていた。 稀代の修復家であるジョルジュ・オスマンを喪わない為に、それこそがウジェーヌの役目であるかというかのような必死さで追いすがる。「……何、心配するな、ウジェーヌ。研究するにしても、先ずは完璧にこの魔道書を修復してからにするさ」 ジョルジュは服の裾を掴んでいるウジェーヌをやんわりと引き離す。「頼みますよ~。まだジョルジュさんから修復術について学びきって無いんですから」「……俺の身の心配じゃないのか」「だから心配してますってー! 勝手に死なないでくださいよ?」「ふん、分かっている」 拗ねたように作業台に向かうジョルジュ。 ウジェーヌは羽根バタキを持って周囲を掃除して回る。 舞い立つ埃は助手ウジェーヌの使う風魔法によって制御されて、部屋の一角に設けられた空気清浄機の方へと静かに誘導される。 空気清浄機は内部で塵埃を静電吸着し、さらに『錬金』によって無害な物質へと分解する機構が組み込まれている。 埃やウイルスなどは分解されて、窒素や酸素や水蒸気などに『錬金』で変えられ、大気と同じ組成になるように混合される。 そうやって浄化された新鮮な空気は部屋に張り巡らされたパイプを通って、空気清浄機とは対角線上の部屋の角から放出されて部屋全体に緩やかな空気の流れを作り出す。 巨人ジョルジュがペンのように細長い形の自前の杖を、古書に慎重に当てては『ディテクトマジック』を用いて、その〈カルナマゴスの遺言〉が劣化する前の状態を読み取っていく。 物品に刻まれた業(カルマ)を読み取るというジョルジュの探知魔法は、遥か昔に作成された物品の初期の状況を彼に知らせてくれる。 例えば、この巻物に使用された生き物の革について、呪力を帯びた特殊なインク(恐らくは魔物の血液をベースにした物)で記されていること、これがカルナマゴスという太古の預言者が残した預言書であることなど……。 ウジェーヌは、ジョルジュが確かに『ディテクトマジック』の魔法のみを使っており、やたらと書物を解読しようとしていないことを確認すると、ほっと安堵して彼のアトリエを後にする。 ウジェーヌは他にもアルバイトで助手業を受け持っており、別の学芸員の手伝い(偵察)にも行かなくてはならないのだ。「じゃあ、ちょっとアルバイトに行ってきますね。危ないことはしないでくださいよ、ジョルジュさん」「……ん、ああ」 集中しているのか、生返事をする巨人ジョルジュ。 そんなジョルジュの背中を最後にもう一度見て、ウジェーヌはアトリエを後にする。 ウジェーヌがきちんとジョルジュの傍についていれば、後の悲劇は防げたのかも知れない。◆ 巨人ジョルジュにとって、古書の復元作業とは、業子(カルマトロン)を『ディテクトマジック』で読み取ることから始まる。 そしてカルマトロンを読み取るということは即ち、その存在に秘められた業(カルマ)を読み取るということであり、つまり物品に刻まれた歴史あるいは思念を読み取るということだ。簡単にいえばサイコメトリーである。 助手ウジェーヌにとっては完全には理解出来ていないことであったが、ジョルジュにとって修復作業と研究の両者は、殆ど同じ事象であった。 ジョルジュは『ディテクトマジック』によって、先ずは〈カルナマゴスの遺言〉の皮相的な物性を調べる。 未知の生物の革で作られたもののようだが、幸い(?)ジョルジュは似たものを知っていた。 〈カルナマゴスの遺言〉から『ディテクトマジック』で得た感触は、中央大博物館の生物資料室に保管されていた巨大な液浸標本を興味で調べたときの『ディテクトマジック』の感触を彷彿とさせる。完全に〈カルナマゴスの遺言〉の生地と同じではないが、似ている。 『アブホースの落とし子』というカテゴリ名がつけられた一連の不気味な標本群のうちの一つ、進化の道筋を外れた不恰好なカリカチュアのような、軟体動物と鹿を組み合わせたかのようなこの世のモノではない生物の皮膚と、同じような材質で出来ているようだ。戯画的に頭部と前腕部を肥大化させた鹿の腐敗しかけた死体を粘菌状の生物が捕食したかのようなその液浸標本の姿は、見るものに不快感を与えるものだった。そして『アブホースの落とし子』という名のラベルが貼られた一連の生物標本資料群は、一体たりとも同じものが存在しない。皆それぞれが異なった進化系統樹上の枝に位置することは明らかであり、同一のカテゴリ分けがされているのが不思議な程にチグハグでバラバラの形をしていた。しかしそれらは既知のハルケギニアの動物種とは全く合致しないという点では、確かに同一のカテゴリ分けが妥当なものであった。 その『アブホースの落とし子』という生物標本群の採取場所は、確か『アーカム地下の蜘蛛神の祭壇』とかいう場所になっていた。ジョルジュが後に調べてみてもそのような場所は存在しなかった。いや、存在しなくて幸いだ。あんなものがこの学術都市の地下に居るだなんて考えるだけで恐ろしい。 しかし現に悍ましげな標本は存在するし、今ジョルジュの杖の下にある魔道書も同じような素材で作られているということは『ディテクトマジック』による感触では明らかであった。 〈カルナマゴスの遺言〉の巻物の生地を復元するためには、調達部に依頼して、『アブホースの落とし子』の皮膚を解析して複製してもらう必要がある。 特殊な生地を『錬金』するためには、学院都市からIDカード型マジックアイテムを介して提供される標準化された魔法ではなく、もっと応用が効く生粋のメイジの『錬金』を用いなくてはならない。 ジョルジュも『錬金』によって簡単な生地なら復元することは出来るが、〈カルナマゴスの遺言〉のような特殊な生地を作るためには精神力を使うので、専門の者に依頼した方が良い。 ジョルジュ自身の精神力は業子(カルマトロン)を読み取るための特殊な『ディテクトマジック』に注ぎ込むだけで精一杯なのだ。 生地作りまで彼自身の手でやっていては埒が明かない。 続いてジョルジュはペン状の魔法の杖を動かして、文字を形作っているインクの上へと移動させる。 生地に引き続いてインクの解析を行うためだ。 ジョルジュは再び『ディテクトマジック』を唱え、その組成や素材の来歴を読み取ろうとする。 瞬間彼の脳裏によぎったのは、その乾ききってしまった血のようなどす汚れた色のインクの原料となった何かの液体についての作成風景の記憶であった。 薄暗い魔術師の研究室。棚に並んだ秘薬の数々。マンドラゴラの滲出液、ヒトか猿のミイラと思しき乾いた何かは削り取られた跡がある、毒液をとるための毒ガエルが入っている飼育箱も棚にある。部屋の中心には大きな台が備え付けてあり、燐光を放つ魔方陣がその上に描いてある。ある種の洞窟棲の集団生活性のウジ虫が分泌する発光液を使用しているのだろう。淡く光る魔方陣の中心には漏斗を差したフラスコが置いてあり、その中には何かよく解らない粘り気のある琥珀色の液体が入っている。遙か古代の琥珀を再び溶解させたものかもしれない。漏斗の直上には逆さ吊りにされた何かの生物らしきものが見える。それは未発達なヒトかあるいは亜人の胎児のようであった。大きな頭部、細部が判然としない四肢、ぬらぬらと燐光に照らされる瑞々しい肌。その胎児らしきものの全身には細かい傷がつけられて、滴る血が重力に従って漏斗に落ち、フラスコの琥珀色の溶剤をどす汚れた色に変えていく。 どうやら生地と同様に、インクも一筋縄では行かない素材で出来ているようだ。 もう生地やインクについては充分だ。 ジョルジュは『ディテクトマジック』で読み取る業子(カルマトロン)のピントをずらす。 皮相的な材質についての記憶から、もっと根源的な、この書物に込められた思いへと。 この〈カルナマゴスの遺言〉の本質を記憶したカルマトロンの構造へと焦点を合わせる。 悍ましい生き血を古代の琥珀(換言すればこれも植物の“血液”である)で溶かして作ったインクを使ってこの遺言書を記したのは、枯れ木のような一人の老人。 おそらくこの男こそが、カルナマゴス。 邪悪だが偉大な賢者。過去世を見通し、未来さえも知った預言者。ブリミル光臨より遥かに昔の恐ろしい力を持った魔導師。 そして彼が崇拝し加護を得ていた邪神、窮極の腐敗の魔神、時間と風化を司る最果ての神、塵を踏むもの。 その名をクァチル・ウタウス。 〈カルナマゴスの遺言〉はこの神について記している。その偉大なる神と“契約”する方法も。 ジョルジュが『ディテクトマジック』によって魔道書のカルマを直接に読み取るにつれて、周囲にどんどんと塵が積もっていく。 まるで何十年も経過したかのように風化は進み、部屋の電灯は寿命が尽きたのか切れてしまうし、『固定化』が切れた棚は腐食して錆が広がっていく。 ジョルジュ自身も皮膚の張りは失われて皺が寄り、もはや老人のような姿になってしまっている。 筋肉も衰え、目も霞み、しかしそれでもジョルジュは『ディテクトマジック』によって〈カルナマゴスの遺言〉に秘められた業子(カルマトロン)から直截的に魔術の秘奥を読み取っていく。 取り憑かれたかのように、彼は解読を進める。 いや、正に彼は取り憑かれていた。カルナマゴスの遺言に。あの邪悪な魔導師の遺志に。 そしてジョルジュ自身の持つ甘美な滅びへの欲求と、それを上回るさらに強烈な不滅への欲求に、彼は取り憑かれていた。 読み進める。 ――遙か古代のエルフの暗黒王ネフレン=カの信奉者が用いた、自らの臓器を生きたまま分離させて保存する冒涜的な秘術について。 読み進める。はらはらと幾らか抜け落ちた髪の毛が杖を持つ手の甲に散らばる。 ――土星(サイクラノーシュ)からやって来た蟇蛙神の落とし子である、逃げ水のように滑る影のような漆黒の不定形で無形の異形を召喚し従属する方法。 読み進める。筋肉が衰えてしまったためペン型の杖を持つ手が震える。 ――星の彼方のクスクス笑うように鳴く吸血生物、不可視の恐怖、牙のある無数の口吻と鉤爪に覆われた無色の怪物を招来する方法と、それを支配する呪文。 読み進める。黄色く変色して萎縮した指の爪がもげ落ちるが痛みは無い。神経や血管が風化した体細胞の破片で阻害されているのかも知れない。 ――意思が強くない者の自由を奪う紋章である“バルザイの印”の創造方法。蘇った死者を崩壊させる呪文。邪悪なる星やみる=ざくさについて。 読み進める。喉が乾き目が霞む。心臓の鼓動が緩くなっているのか、それに呼応して精神の働きも遅くなっているように思える。 ――カルナマゴスが見た過去の出来事、強大な邪神たちの戦いの歴史、そして彼が予知した遥か未来のこと、同年代の魔術師エイボンから聞いた冒険譚、原初の秘密を記した銘板を覗き見ようとした魔術師ゾン=メザマレックの活躍……。 読み進める。不吉な予感に駆られて。大いなる存在の到来を予感して。塵が積もる中、読み進める。灰色の光が落ちる中、杖を振るって秘められた歴史を読み取る。 ――遥か未来を見通す預言者カルナマゴスが時間さえも塵になる最果てで遭遇した、時間と風化を司る魔神について。クァチル・ウタウス。その神を呼び出すために必要な呪文、禁じられた言葉。 ――“イクスKloぴおs、QuあチL うtタuス”。 ジョルジュは終にその言語を読んでしまった。 全てを塵にする灰色の魔神を呼び出す“禁断の言葉”を。◆「ジョルジュさん、戻りま……? うわ!?」 ウジェーヌが用事を終えてジョルジュのアトリエに入ろうとしたところ、急な突風に押されてしまい、前のめりにたたらを踏んだ 正確には突風は後ろから吹いてきたのではない。 ジョルジュのアトリエは何故か減圧されており、それによってエレベーターボックスからウジェーヌは空気と共に吸い出されたのだ。 びょうびょうと空気が流れる音がして、部屋中に分厚く積もった埃が舞い上がっている。 空気清浄機は部屋の中から空気が失われていることを察知して、フル稼働で壁や床の部材から空気を『錬金』して生産しているようだ。 ウジェーヌが舞い上がる塵埃に目をやられている間に、アトリエのスライド式ドアが閉じられる。それでも空気の流出は止まらない。 空気清浄機が『錬金』で作り出す空気のおかげで窒息しないレベルには保たれているが、それも何時まで持つだろうか。「ジョルジュさん!? 大丈夫ですか!?」 ウジェーヌが埃の砂嵐の中、なんとか目を開けて巨人ジョルジュの姿を探す。 周囲の標本棚が、ウジェーヌが歩く際の振動で錆を零れさせて次々と崩れていく。 棚に載っていた数々のレプリカも風化し、落ちた拍子に砕けて砂になっていく。 見ればジョルジュの座っているはずの作業台の前には、古木のような老人が一人。 そこには何処からか――仰ぎ見ればアトリエの壁に出来た亀裂から――灰色の光が降り注いでいる。 灰色の光が入ってきている壁の亀裂の外側は、真空の宇宙となっていた。 ジョルジュのアトリエは、書類上は軌道エレベータの中腹に位置するとなっていたが、実際にはどこかの星間宙域に浮いているのだった。 周囲には同じような直方体のアトリエと思われるブロックが鎖のようなもので連結されて、漆黒の宇宙空間に整然と浮遊している。 ジョルジュのアトリエ内部の空気が亀裂から漏れ出て行っているのは、周囲が高真空の宇宙空間だからであった。 そして遥かな星辰の彼方から降り注ぐ灰色の風化の光は、ウジェーヌが見ている間に、ジョルジュを朽ちさせているようだった。 ウジェーヌは直感的にジョルジュを包んでいる灰色の崩壊光が、致命的なものだと認識する。 そして、その崩壊光から感じる感触から、ウジェーヌ・ドラクロワ――正式名称〈ウード169号〉というインテリジェンスアイテム――は、彼が信奉する蜘蛛神アトラク=ナクアと同様の、何らかの慮外の宇宙的存在が関与しているに違いないと結論。【ジョルジュさん、今助けます!!】 ウジェーヌの目の光が消えて、頭部が項垂れお辞儀するような格好になると、延髄部分から一本の70サント程のメイスが猛烈な勢いで射出される! 稀代の修復師、巨人ジョルジュ・オスマンの護衛と、彼からの技術習得を命じられていたインテリジェンス・メイス〈ウード169号〉は、自らの仮初の義体(ボディ)を棄てて、ジョルジュの元へと飛翔する。 長い時間をジョルジュと共に過ごしてきたウジェーヌ、改め〈ウード169号〉は、充分にジョルジュの魔法使用媒介の杖としての資格を持っていた。 そして〈ウード169号〉の特性は――【『偏在』!!】 そう、風のスクウェアスペルである分身作成魔法『偏在』をサポートすることである。 『偏在』特化型インテリジェンス・メイス〈ウード169号〉は、もはや何時死んでもおかしくないほどに衰えたジョルジュから無理やり魔法を引き出す。 ウジェーヌの擬似ボディからジョルジュの下へ射出されて灰色の光をモロに浴びることになった〈169号〉は、自身に掛けられた『固定化』が灰色の光の影響で猛烈な勢いで解けていくのに戦慄しつつも、ジョルジュの分身体を『偏在』で作り出す。風化の呪いの光線を遮り、呪いを肩代わりさせるためだ。 ジョルジュの『偏在』を灰色の光の盾にしつつ、〈169号〉はジョルジュに話し掛ける。【ジョルジュさん! 何やってるんですか!? 何があっても死なないって、そう言っていたじゃないですか!?】「……ぅぁ、……」 最早殆ど動かないほどに衰弱したジョルジュが、〈169号〉――助手ウジェーヌ――の声にぴくりと反応する。 アトリエの亀裂から入ってくる、灰色の崩壊光に曝されて、〈169号〉が生み出した『偏在』たちは一瞬のうちに風化して塵になって――恐るべきことに、魔法が解けて風に還るよりも早く、『偏在』は塵になって――散り消えてしまう。【絶対に死なないって、そう言っていたじゃないですか!? 不滅のイメージはどうしたんですか!? ジョルジュさん!!】「う、うぁああ、あ……」 〈169号〉――助手ウジェーヌ――の声に衝き動かされるようにして、ジョルジュはノロノロと魔道書〈カルナマゴスの遺言〉を『ディテクトマジック』を宿したペンでなぞりながら読み進める。 ジョルジュを衝き動かすのは、不滅への欲求だ。 もはや死への希求、タナトスなど、とっくの昔に風化してしまった。 残っているのはギラついた生存への欲求のみだ。 風化の魔神『クァチル・ウタウス』を喚び出す禁断の言葉の更に先、魔神と契約を結び、彼の神性の加護を得て永劫を生きる方法を、ジョルジュは読み取ろうとする。 不滅への欲求、生への渇望。それが奇跡を呼び込んだ。 〈169号〉が次々と作り出す『偏在』の分身たちが、崩壊の灰色光を遮っている、時間にして数秒もない内に、ジョルジュは〈カルナマゴスの遺言〉を完全に理解する。 ジョルジュ・オスマンは、この土壇場で風化の魔神『クァチル・ウタウス』と契約する方法を身に付けたのだ!「“イクスKloぴおs、QuあチL うtタuス”!!」 ジョルジュのカサカサに乾いた、顔に開いた亀裂のような唇から、“禁断の言葉”が漏れ出る。 しかし漠然と読んだ最初の時とは異なって、今度は確固たる不滅への欲求を持って、契約の意思を携えてそれは口にされる。 ――時の魔人よ、全ての滅びの果てに居るものよ、崩壊と風化を司る偉大なる神、クァチル・ウタウスよ、俺は貴方との契約を望む! 果たしてジョルジュの願い通りに、契約は果たされる。 瞬時に降臨する、数千年も経ったかのように皺だらけの、顔の凹凸が削り取られたような小柄なミイラのような神。 死後硬直そのままに固まったように前に突き出された両手と、強張って爪先までまっすぐに固められた両足。 周囲のものを尽く灰色の、原子すらも崩壊し尽くした塵に変えて、クァチル・ウタウスは現れた。 小さなミイラのような魔神は、一瞬だけ、その全ての起伏が削り取られた顔を向ける。 ジョルジュとクァチル・ウタウスの視線が交錯した瞬間、ジョルジュの身体に異変が訪れる。 ジョルジュの背骨が何重にも折れ曲がり、その度に、ジョルジュの上半身は右に左に、前に後ろにと、壊れた操り人形のようにばきぼきと揺れ動く。「ぐああ、ぎっ、ぎいぃいっ、が、らっ」【大丈夫ですか!? ジョルジュさん!?】 背骨が折られ、上半身が揺れ動き圧縮される度にジョルジュの口から苦鳴が漏れる。 ものの数秒のうちに、元々3メイルはあったジョルジュの巨躯は、背骨を折り畳まれて、180サントほどに縮んでしまった。 それを見届けると、クァチル・ウタウスは、現れたときと同様に忽然と、この世界から消失した。 百年近くは年老いたジョルジュは、クァチル・ウタウスが施した契約の証――複雑に折れ曲がった背骨――が刻まれるとともに、気を失って倒れてしまう。【ジョルジュさん!? しっかりしてください!!】 『偏在』で風化の呪いを肩代わりさせ続けていた元助手ウジェーヌであったインテリジェンスメイス〈169号〉が、ジョルジュに声を掛ける。 アトリエの壁に出来ていた大きな亀裂は、時の魔神からの干渉が無くなると同時に、アトリエ自体に張り巡らされている管理用のマジックアイテムによって自動的に応急処置が成され、直ぐに塞がる。 ジョルジュらの周囲には、何もかもが風化して原子すら砕けた灰色の塵が、山のように積もっている。 その塵埃の中、未だに何の変化もなく形を留める魔道書〈カルナマゴスの遺言〉の傍の塵の山の頂上に、二つの窪みが残されていた。 クァチル・ウタウスの別名は“塵を踏むもの”。 塵の頂上に残された二つ窪みは、あの風化の魔神の遺した足跡なのだ。◆ クァチル・ウタウスの不滅の契約者として生き残ったジョルジュ・オスマンが、人間に化けていたかつての助手であるインテリジェンスメイス〈ウード169号〉と共に、ハルケギニア中を騒がせる大泥棒『ねずみ小僧』として名を馳せるのは、この事件からしばらく後のことである。 ジョルジュ・オスマンはこの一件以降、生存本能つまりエロスの権化となってしまい、そちら方面でも大層有名(ハルケギニアの夜の帝王とかなんとか)になるのだが、それは余談である。◆ ・『朽ち果てた部屋』の噂 中央大博物館に付属している天空研究塔イエール=ザレムは、〈ゲートの鏡〉によって各アトリエのドアを繋いでいる。 だが稀に〈ゲートの鏡〉が誤作動を起こしてしまい、過去に何らかの理由で廃棄されて朽ちたアトリエへと繋がってしまうことがあるらしい。 何百年も放ったらかしにされているような、その廃棄されて埃だらけの朽ち果てた部屋に入った者は、二度と戻って来られないという。=================================オールド・オスマンの捏造過去話300歳とか言われるオスマンが、実際に300歳だとしたら、どうやってそんな長寿を保っているんだろうか? → 邪神の加護のせいだったんだよ!アニメの設定資料集見たらオスマンの身長180センチメートルでビックリ。どうせだから巨人症にしてみた。でもオスマンはオーガとかトロールではないですクァチル・ウタウスについては、まあ本文で書いている通りです全てのものに滅びをもたらす魔神です契約すると不死を授けるってことになってますけど、これはTRPGだけの設定の模様軌道エレベータ『イエール=ザレム』とか業子力学は、銃夢という漫画から引用ディテクトマジックで業子(カルマトロン)を読み取るのは、有りうるのではないかと思ってます恐らく虚無魔法の『記録(リコード)』は、業子(カルマトロン)を高精度で読み取っていると推察ゼロの使い魔原作3巻でコルベールが、ゼロ戦の精製されたガソリンからそれが微生物の化石由来だと分析できたのは、ディテクトマジックか何かの魔法(魔法を使ってるかどうかの記述は原作には無いが)に物質の由来を解明する作用があるからだと個人的には解釈してますので、そこからカルマトロンへと連想しましたエルフの古代の王様が暗黒ファラオ・ネフレン=カ(這い寄る混沌ニャルラトテップの化身)ということにしてますが、完全に捏造ですネフレン=カが暴政を敷いたので、その反動でエルフたちは王政から脱却したという妄想設定です2010.11.30 初投稿2010.12.02 誤字修正2011.08.16 誤字修正 ☓サイノクラーシュ ◯サイクラノーシュ ご指摘ありがとうございます!