クルデンホルフ大公国、学術研究特区シャンリット。 千年以上に渡ってハルケギニアの知識を集約し続ける学術の都。あるいは異端の巣窟。人攫いの根城。 そしてどんな者にも出自を問わずに教育を施す学歴ロンダリング機関。 この学術都市に暮らす者は、最低限の生活をベーシックインカムによって保証されるし、魔法使用免許さえ取れば、街全体に張り巡らされたインテリジェンスアイテムを通じて誰でも相応の金銭的代価と引換に魔法を使うことが出来る。 おまけにここで暮らす者に税が掛かることはない。だが何もしない者はこの街では存在を許されない。 何でもいいから蒐め、あるいは研究し、あるいは創作しなくてはならない。 蒐集か、研究か、創作か。何れかを以て都市に貢献しなくてはならないのだ。 それをしない者に、明文化されたペナルティがある訳ではない。 だがしかし、真に怠惰な者は、何時の間にかこの街から居なくなっている。 公表されている人口動態を見れば、流入する人口に対して流出する人口が圧倒的に少ないにも関わらず、シャンリットの街(≒クルデンホルフ大公国)がほぼ一定した人口規模を保っていることが分かる。 全人口約1000万人の超過密都市シャンリット。おおよその数字であるが、毎年の国外からの流入人口が+10万人、都市で生まれる人口が+10万人、流出人口が-5万人、死亡人口が-10万人。 計算通りだと、毎年5万人ずつ人口が増えていくはずなのだが、次の年に調べてみても、全人口は約1000万人で殆ど変化しない。 つまり行方不明者が毎年5万人。 この人口の差分は、一体何処に行ったのだろうか? ほんとうにふしぎだなー。どこいったのかなー。 そんな不気味な異端の学術研究都市、あるいは芸術保護都市の実質上の頂点に君臨する男が居る。 その名をウード・ド・シャンリット。クルデンホルフ大公国風に言えば、アウデス・フォン・カンプリテ。 彼には様々な呼び名がある。“蜘蛛の祭司”、“僭称教皇”、“最大の異端”、そして“千年教師長”。 学術研究都市シャンリットに千年以上に渡って君臨すると噂される人外の者。 人外自体は、このシャンリットにおいては珍しくはない。 知性ある存在であれば、学術研究都市シャンリットは何であれ受け入れるからだ。 エルフでも、吸血鬼でも、コボルドでも、平民でも、インテリジェンスアイテムであっても、トロールでも、亡命貴族でも、魚人でも、翼人でも、死人でも、半端な混血であっても。何でも。 千年教師長ウード・ド・シャンリットは、しかし、新聞などのメディアへの露出も多い。 それを見れば、彼の外見は確かに老いて、何度も交代していることが分かる。教師長の地位は襲名制で引き継がれているものらしいのだ。 ……外見からは代替わりしているとしか思えないにも関わらず、彼の、いや歴代襲名した教師長ウード・ド・シャンリット(Ⅱ世~ⅩⅩⅩⅤ世)の発言はぶれない。 例えば――「全ての知識を、書物を、生物を、鉱物を、何がなんでもシャンリットに蒐めるのだ!! 道端でネズミが死んでいた? 結構! 直ぐに博物館に採取場所と採取時間と君の名前を添えて送ってくれ給え! それは貴重な生物学上の資料となるだろう」「いあ! あとらっくなちゃ! 全ての異端者よ、この学術都市シャンリットを訪れよ! ブリミルに見捨てられたものよ、私を頼れ! 私は君たちを拒絶しない!」「蒐めるだけではない、新しく何かを生み出すのだ。世界を豊潤にするために! 文章を、詩歌を、絵画を、論文を、法則を、公理を、定理を、彫刻を、音楽を!」「想像を具現化せよ! 君たちの頭脳の数だけ世界は存在し、私は、いや、シャンリットはそれを許容する! 君たちの頭の中の、ソレを発信するのだ! 世界に向かって! シャンリットはその為の支援を惜しまない」 何度代替わりしようと、“ウード・ド・シャンリット”の地位についた人物は概ねこのような事を繰り返し述べている。 要するに外見は変わっても“中の人は同じなんじゃないか”疑惑が絶えないのだ、ウード・ド・シャンリットという“役職”には。 そして歴代の教師長もそれを肯定する発言をしている。 曰く「姿形などファッションの一つに過ぎんよ」ということらしい。◆ 蜘蛛の糸の繋がる先は 外伝7.シャンリットの七不思議 その7『千年教師長』◆「なー、ウジェーヌ君。わし、もうここの学院長辞めたいんじゃが」 クルデンホルフ大公国の学術都市シャンリット、私立ミスカトニック学院の学院長室。 長い白髪と髭が特徴的な老爺、偉大なる魔法使い、オールド・オスマンは、自分の杖である無骨なメイスに向かってそう呟いた。 それだけではただの怪しい痴呆老人だが、彼の持つメイスは知性持つ武器であるから、話しかけるのも全然アリである。【だめですよ、オールド・オスマン。まだ全然任期が来てないじゃないですか。愚痴ってないでサッサと『偏在』作って書類片付けて下さい】 彼の傍らの無骨なメイスは〈ウード169号〉という銘であり、風属性の分身魔法『偏在』を特にサポートするように作られている。ウジェーヌというのは〈ウード169号〉が人型ゴーレムを纏った形態の時に使う偽名である。 このインテリジェンスメイスの『偏在』補助機能は、戦闘では勿論のこと、事務作業に於いても威力を発揮する。 オスマンほどの大メイジであれば、この魔道具の補助によって、毎日50人の独立思考する分身を作って、それぞれを8時間は働かせることが出来る。 1人雇うだけで50人分の労働力が! 何て経済的! ブラボー! 本人の精神的疲労を考慮の外に置けば、だが。 あとはそれぞれの偏在の記憶を統合できないという問題もある。 この『偏在』補助用の杖が量産されれば労働力に破壊的な革命が起きるだろう? いや、そんな事はない。 学術都市シャンリットにおいて、単純労働は、長年にわたって生産されて蓄積された高度なガーゴイルや、ドMで奴隷根性に染まった特製の矮人、都市全域を覆うネットワーク状インテリジェンスアイテムが担っているからだ。 学術都市の住民は、あくせく働く必要はない。いや、街が人を働かせない。働く暇があれば研究しろということだ。 好きなときに好きなことをして、好きな講義を受けて、好きなものを蒐めて、好きなものを研究して、好きなものを書いて、好きなものを作って、たまにその成果を発表すれば良い。 というより、それくらいしかすることが無い。かと言って何もしなければ街の暗部に喰われるという専らの噂だ。ここは地獄か、はたまた天国か。「10年のはずの任期を、もう3回は延長されとるんだが……」 ミスカトニック学院の学院長は、学術都市シャンリットの市長を慣習的に兼任している。 任期は通常は両者とも10年間である。 主な仕事は学術都市のあらゆることに対する監査だ。 だが、学院長は、任期中に何も監査の仕事をしないでいることも出来る。 半ば以上名誉職のような役職であるのだが、オスマンはそれなりに真面目に務めているようだ。 通常は連続して学院長を務めることは出来ないはずなのだが、オスマンは3度連続してこの職に就いているらしい。【いえ、それは正確ではありません。それぞれの任期の継ぎ目に6ヶ月のインターバルが挟まれています】「そりゃあ、次の学院長に引き継ぎ行った途端に、その後任が発狂して、ピンチヒッターとしてワシが無理やり引っ張り出されたからのう……」 学術都市シャンリットの歴史を振り返ってみると、任期を全うした学院長は驚くほど少ない。 オスマンが任期を全うした後に、後任の学院長が選ばれたのだが、その者たちは精神を病んで6ヶ月もしないうちに退場してしまった。 ミスカトニック学院の学院長は、千年教師長ウード・ド・シャンリットに対抗出来る権限を持つ数少ない役職の一つである。 実務方トップの教師長に対抗出来るのは、監査役である学院長を除けば、あとは国家元首である大公のみである。 だから、学院長に任命された者は多くの場合、学術都市の権限を教師長から自分の手に移そうと張り切って、千年教師長の牙城を崩そうと色々とする訳だが……。【ええ。前任の方々は張り切り過ぎたそうですね】「ふん。見なくとも良いところまで見ようとするから発狂する羽目になるんじゃ」 学院長は、千年教師長ウードと同じく、学術都市で行われている全てのことを知る権限がある。 だが、知ることは……、知り過ぎることは決して幸福なことではない。 知らなかったほうが良かった真実というのは、この街に溢れている。 オスマンは手元の学術都市のバランスシートを見る。 これを軽く見ただけでも、借方の『被験者遺族年金の支払』(何の被験者だ? というか被験者が死亡しているのかよ……)とか、『生贄』(専用項目作る必要があるの? ねえ、隠そうよ少しは。というか生贄って資産扱い?)とか、貸方のやたらに金額が大きいアトラナート商会からの『寄付金収入』(税収代わりのこの項目だけで余裕で学術都市全域の運営が出来るんですが。一私企業の規模じゃねえ。まあ行政業務は殆どアトラナート商会に外注するから結局このお金はアトラナート商会に還流するんだけどねー。超意味無ぇ)とか、突込みどころが満載なのだ。 前任者たちは深く追求してドツボに嵌ってしまったのだろう。 そもそも市民に税金かけてないのに、ベーシックインカムでお金ばらまいて、更に各種の奨学金や研究助成金まで出しても、財政が破綻しないとか、何をどうやっているのやら。 ……オスマンは既に自分の相棒〈ウード169号〉から聞かされて知っているが、実はこの学術都市シャンリットは、恒星系規模に広がっているゴブリンたちの経済圏の余禄で運営されているものである。 今なおインテリジェンスアイテムに人格を写して生き続けるウードⅠ世・ド・シャンリット個人の趣味で営まれている箱庭と言っても良い。 太陽-金星のラグランジュポイントなどに建造された矮人たちの人工衛星都市群は、太陽光発電によって得たエネルギーを流用して様々な食料や工業製品を生産し、さらに電力-魔力変換回路によって風石や水精霊の涙を学術都市に供給している。 学術都市は太陽系に百億人単位で広がっているゴブリンたちのお零れに与っているのだ。 そのため、学術都市を擁するクルデンホルフ大公国は他国に比べると非常に小さな領土であるにも関わらず、完全に自給自足可能な不思議国家となっている。 尚、クルデンホルフ大公国から他国への輸出は、その必要がないので基本的には行っていない。輸出関税も馬鹿高く設定してある。 個人規模の輸出は行われているが、工業製品やマジックアイテムなどは学術都市のインフラを前提としているものも多くあるので、学術都市外では使えなかったりする。例えるなら、コンセントが無い場所にプラグからの電気供給を前提としている電化製品を持って行っても意味が無いという訳だ。「大体からして、学術都市全域を覆っておるインテリジェンスアイテムと教師長に、この街のことは全部任せとけば良いじゃろう。もう千年この街を治めておるベテランじゃろうに」【まあ実際、学院長は形式的な役職に過ぎませんからね】「教師長の独裁政権も良いところじゃ。じゃが、まあ。このまま扱き使われっ放しなのもシャクじゃ。精々存分に権限を悪用してあの性悪教師長にイヤガラセをしてやるかの」 ひょひょひょ、と笑うオスマン。 何処からかオスマンの使い魔のハツカネズミ(第79代目)がオスマンの机の上に現れて、ちょこんと立ってオスマンの高笑いの真似をして胸を反らしている。 学院長は半ば以上に名誉職なのだが、監査役という立場上、教師長が実行する様々なプロジェクトに対して横槍を入れて進行を遅らせることが出来る。 オスマンがそれなりに真面目に職務を行っているのは、偏(ひとえ)にこんな窮屈な地位に押し込めてくれやがった教師長ウードへ嫌がらせをするためである。 どれが介入の余地のあるプロジェクトか、遅延させても問題ないプロジェクトなのか……、それをじっくり吟味して、学院長権限で茶々を入れて鬱憤晴らしをしているのである。「ふーむ。この大公家の予算とか削れんかのう?」 早速バランスシートとにらめっこを始めたオスマンは、長い顎髭を撫でながら呟く。【それはウード様ではなくて、クルデンホルフ大公への嫌がらせでは】「でも教師長の実家じゃろう?」【ええウード様の弟の息子、つまり甥っ子から続く男子直系ですね。一時期、アトラク=ナクアの呪いが不意に活性化して絶滅し掛けましたが】 蜘蛛神アトラク=ナクアが空腹にでもなって生贄を求めたのか、それともただの気紛れかどうか原因は不明だが、数百年前に蜘蛛化の呪いが活性化して、シャンリットの一族が絶滅しかけたのだ。 ぎりぎりで呪いを活性化する蜘蛛神からの波動を、量産型ウードクローンを形代にして集約させることで、シャンリットの血筋の絶滅は避けられたものの、シャンリット本家は断絶してしまった。「ほう。難儀な家系じゃのう。そういえば、その絶滅しかけた時に、家の名前をシャンリット(カンプリテ)からクルデンホルフに改めたそうだの」 本家が断絶したので、直系の血を引く家系でなんとか生き残っていたクルデンホルフ家が大公位を継承したのだ。 学術都市の帰属は、トリステインからゲルマニア、そしてクルデンホルフ大公国と移り変わってきた。 学術都市を領有する家系自体は連綿と血脈を保っているが、その名前は帰属国家の変遷と共に変わっていった。 少し学術都市の支配者の変遷を見てみよう。 ミスカトニック大学設立当初に学術都市一帯を治めていたシャンリット侯爵家は、王族の降嫁があったりトリステイン王国への技術貢献などの功績によって最終的にシャンリット大公家に陞爵した(ブリミル歴5200年ごろ)。 その後ロマリアの圧力を受けたトリステイン王国が、ロマリアの工作ででっち上げられた内乱を鎮圧する名目で、異教化しつつあったトリステイン東部へと出兵。それに反発したシャンリット以東の地域が、ゲルマニアとして独立。ゲルマニアの独立に伴いシャンリット大公家は、カンプリテ大公家へ読み方を変えた(ブリミル歴5800年ごろ)。 さらに前述した通り、蜘蛛神の呪いで本家が滅びかけたので、男子直系の流れを汲む分家であったクルデンホルフ家が大公に格上げされた(ブリミル歴5900年ごろ)。 その後、トリステインからの独立初期は国教を定めなかったゲルマニアが、ロマリアや周辺国の圧力によって再びブリミル教化するに当たって、大公家は反発。学術都市とそれに関連が深い地域を纏めてクルデンホルフ大公国として独立し直した(ブリミル歴6000年ごろ)。 大まかには以上のような流れとなっている。【難儀は難儀ですがその呪いの御蔭で、この学術都市の隅々に張り巡らされたインテリジェンスアイテムが完成したんですから、一長一短ですよ。教師長のウード様の魂が蜘蛛の性質を持っていた御蔭で、ネットワーク状アイテムを作るのに適性が高かったんですから】 街中どころか惑星中に張り巡らされたネットワーク状インテリジェンスアイテムは、そのまま各種インフラの基礎として利用されている。 電線として、あるいは魔力を各個人のカード型端末に供給するラインとして、あるいは街中を監視したり……。その用途は多岐に渡る。 惑星を覆うネットワークを十数年で、魔法の力があるとは言え、独力で創り上げたのだから、千年教師長ウードが相当な傑物(あるいは変態)であったのは確かだ。「魔法の杖を伸ばして地表を覆うとか、ゴブリンを改造して魔法使えるようにしたり、ホント、狂った男じゃの。いや、既に人間ですら無いのだったか」【ええ、ウード様は人格を巨大ネットワーク型インテリジェンスアイテム〈零号〉に写してしまっていますから……。現在、表に出ている教師長はその人型端末の一つに過ぎません】 千年教師長とは、千年前の異端者ウード・ド・シャンリットの亡霊が操る一つの端末、ゴーレムに過ぎないのだ。「ワシも大概人間辞めとるが、教師長も大概じゃの」 オスマンはそう呟いて、傍らの話し相手のインテリジェンスメイスを手に取って自分の『偏在』を作り出す。 オスマンも邪神クァチル=ウタウスの加護によって不滅の肉体を得ている人外であるので、教師長のことをとやかく言えた身ではない。【あ、漸く仕事ヤル気になったんですね?】「いやいや。やっぱりもう嫌じゃ。残りは『偏在』に任せてワシはエスケイプする。まだ見ぬ美女がワシを呼んでおるでなー!」【教師帳に嫌がらせするって意気込んでいたのはどうしたんですか……】「ふふん、それについても考えておるわい。女子(おなご)を求めて各国を遍歴するついでに、奴の悪名を調べて纏めて、所々に真実を織り交ぜた暴露本を書いてやろうと思うての」 取り敢えず大量の魔力を込めて数年は稼働できるように強化した『偏在』数体に手早く指示を念じて伝えつつ、オスマンは早速旅立つ準備をする。【……そしてまた正気度を削る魔導書が出来上がるのであった……】 ぼそりと〈169号〉が微かな声で空気を震わせる。「何か言ったかのー?」【いいえー、何もー】 オスマンはメイスを片手にクルリと回し、棚に安置していた〈カルナマゴスの遺言〉という彼にとっての生命線の魔導書を『念力』で引き寄せて小脇に抱えると、今度は学院長室の壁に掛かっていた姿見の鏡に向かってメイス〈169号〉を一振り。 鏡はオスマンの魔力を受けて水銀の湖面のように変化した。 姿見は、離れた場所にある同種の魔道具同士を繋ぐ〈ゲートの鏡〉という魔道具だったようだ。 昔は一対セットでしか運用できなかった〈ゲートの鏡〉は、技術の進歩によって自在に接続先を変更できるようになっている。 学院長権限を用いて、オスマンは、学術都市シャンリットとガリアの国境地帯の鏡の出口へと〈ゲートの鏡〉の行き先を設定する。「ひょひょひょ、じゃあバカンスと洒落込むかのー!」 机の上に居たオスマンの使い魔のハツカネズミがオスマンの腕に飛び移り、タタタ、と腕を駆け上がってオスマンのローブの中に隠れる。 意気揚々とオスマン(と一匹と一本)はその銀鏡に飛び込んでいく。 残された数体のオスマンの『偏在』による分身体たちは、早速、さてどうやって仕事サボるか、と碌でも無い相談を始める。 いやここは美少女量産計画を、とか、女子校に視察に行こうかのー、とかいう声も聞こえる。 まあこの辺りはオスマンにとっては“いつも通り”の事である。仕方ない。 だが、一点今までと異なることがある。 オスマンが手を抜いたのか、『偏在』ではコピーできなかったのか、彼らの杖〈169号〉のレプリカには知性が付与されていないらしい。 つまりストッパー(ツッコミ役)不在であった。学術都市の明日はどっちだ。◆ クルデンホルフ大公国とガリアの国境を越えて、オスマンは今、ガリアの火竜山脈の北側にやって来ていた。 火竜たちが生態系の頂点に君臨する“ガリアの背骨”とも呼ばれる標高の高い山脈である。「極楽鳥の卵は美味いのう! シャンリットの料理も各種調味料が揃っておって中々良いが、こういう郷土料理はやはりご当地に出向かねばならん!」 ふんわりと空気を含むように焼きあげられたオムレツを木匙で掬って、舌鼓を打つオスマン。 中は半熟でとろりとしており、とろとろの黄身が舌に絡みつき、その極上の風味を伝えてくる。 微かに香る食欲をそそる匂いは、香草エキスを滲出させた香りづけ用の蒸留酒の匂いだろう。 塩加減も絶妙なバランスである。 卵自体の濃厚な風味を存分に生かした逸品だ。 傍らに置かれた木製ゴブレットには、ワインから蒸留して作られた酒が注がれている。 オスマンはその食中酒としては些かキツイものを口に含み、口の中に残っていたふわふわとろとろの卵の黄身との混淆を楽しむ。「うーん、酒ともマッチしてベリーグッドじゃ。この酒は単体でもいけそうじゃのう」 酒精が喉を焼く感覚を楽しみながら、オスマンは杯を乾かす。 この蒸留酒、何でも、昔にシャンリットに学びに行ったとある農家の息子が、火竜山脈の地熱を利用した蒸留所をこの地に作って以来の隠れた名産らしい。 今でもそこの家系は発酵や熟成について学ばせるためにシャンリットの学校に息子娘を遣っているらしい。 その留学について、村に居るブリミル教の神官は余り良い顔をしないし、神官から毎週説法を受けている村人たちも眉を顰めることが未だに有るらしいが。「うひひ、村の娘っ子も、まさに卵肌じゃったし、中々良いところじゃのう」 昨日この村に到着して直ぐに、早速口説き倒した村娘のことを思い出しながら、オスマンは次々と皿を空にしてゆく。 老いた顔と、邪神の契約の証に捻くれた背骨と、それによって寸詰まりになった不恰好な胴体では口説けはしないだろうって? いやいや、高度なスクウェアスペルに『フェイスチェンジ』という便利な変装魔法が在るのだ。ジョルジュ・オスマン、設定年齢19歳、蟹座のB型。美形に化けたオスマンの魅力に抗える女性はいなかった。 宿屋には地熱によって湧いた温泉が引かれており、その点でもこの地に対するオスマン的評価は高い。【すっかり寛いじゃってますけど、良いんですかねー……】「何、25年以上もミスカトニック学院の学院長として勤めてやったのじゃ、5年くらいバカンス貰わんと割に合わんわい。のう、モートソグニル」 ぢゅ! と彼の使い魔のモートソグニルが机の下で返事をする。主人のご相伴に与っていたのだろう、オムレツの破片が口の周りに付いている。 オスマンはモートソグニルに追加の料理の欠片を投げつつ、「それにワシの居場所はお主(〈169号〉)の反応からバレておるじゃろうから必要なら迎えに来るじゃろう」などと言って飄々としている。【5年も経ったら任期終わっちゃってますよ】「ほう、そりゃあ丁度良いわい。前にトリステインの魔法学院から学院長にならんかと招待があっとったから、このバカンスが終わったらそっちに行くかの。故郷に錦を飾るというのも良かろう」 次々と運ばれてくる極楽鳥の卵の料理を、美味い美味いと言いながら腹に収めるオスマン。 時折ネズミのモートソグニルに料理の欠片を投げている。【……招待があったって、何年前の話ですか】「うん? 確か、1回目の学院長の任期が終わった時じゃったから、15年は前かのう」【それって向こうは、学院長として招いたことなんて、とっくに忘れてるんじゃ……】「気にすることはあるまい。何とかなるじゃろ」 忘れているどころかオスマンに招待状を出した担当者は代わっているだろうし、下手したら故人になっている。【そういえば、何でこの村に立ち寄ったんですか? まさか御飯が美味しいからって訳でも無いでしょう?】「うん? まあ昔に教え子からこの時期の極楽鳥の卵は美味いと聞いていたのもあるが、ここにはアレが在るんじゃよ」【アレ?】 オスマンは食べ終わった食器を置くと、親指を立てて首を掻き切るジェスチャーをする。「首じゃよ」【首?】「そう、ハルケギニアに幾つも点在する、“ウード・ド・シャンリットの首塚”じゃ」◆ 火竜山脈の麓の岩肌に設けられた簡素な祠。 近くで火山性のガスが湧いているのか、若干硫黄臭い。 周囲には生物の気配は無い。「首塚と言っても何も無いのう」【そりゃそうでしょう。だってウード様の首はシャンリットまできちんと飛んでいったんですから。まあ、ここで一旦休憩を挟んだ可能性もありますが】「確かにそうじゃ。ふーむ、どうやら昔からあった火山ガス溜りが、途中で“ウード伝承”と混同されたのかのう」 火山性のガスによって周辺の動植物が死んでいく様が、古来から悪魔や亡霊の仕業とされることはよくある。 この祠もそんなガス溜りを示す目印の一つなのだろう。 ただ、その“悪魔や亡霊の瘴気によって”という部分が“ウード・ド・シャンリットの呪いによって”という伝承に何時の間にか置き換わってしまったのだろう。 “ウード・ド・シャンリットの首塚”と呼ばれるものは、今回オスマンが立ち寄った村以外にも、ロマリアからガリア、クルデンホルフに掛けて点々と、ほぼ直線上に存在する。 トリステインやゲルマニアでは“千年教師長”としてそれなりに有名なウード・ド・シャンリットであるが、それ以上に彼の悪名はハルケギニア中に轟いている。 それはブリミル教が各地の寺院を通じて積極的に彼の悪名を広めているからであるし、アトラナート商会がそれに対する処置を特に何も取っていないからでもある。寧ろ面白がっている面もあるようだ。「まあ良い。一旦はこのまま“首塚”巡りをしつつロマリアの聖グレゴリオ寺院を見物に行くかの。余り長居するとモートソグニルがガスにやられて死んでしまうわい」【聖グレゴリオ寺院というと、ウード様が斬首された広場に建てられた寺院ですね】「そうそう、見応えはあるらしいからの」 からからと笑いながらオスマンは踵を返す。 どうやら彼ら一行は火竜山脈を越えてロマリアを目指すつもりらしい。 千年教師長ウードの悪名は様々ある。“ブリミル教史上最大の異端”、“蜘蛛の化物”、“疫病の化身”、“悪魔”。 ブリミル教は徹底的に彼を悪者に仕立て上げた。 東に疫病が流行ればウードの所為、西に幻獣が大量発生すればウードの所為、南に飢饉が起きればウードの所為、北に喧嘩や訴訟があればウードの所為、日照りも夏の寒さも皆みーんなウードの所為という具合だ。 ロマリアによれば、世に蔓延る政治の腐敗や悪徳は全て、悪魔ウードが操るアトラナート商会に原因があるし、ブリミル教会のあらゆる醜聞は実はウードが仕掛けるブリミル教徒と宗教庁に対する離間の陰謀なのだそうだ。 彼らに掛かれば、政敵は異教者ウードに唆された背教者だし、シャンリットの土地で作られる全ての物品書籍は堕落に誘う悪魔の果実であるということになる。 シャンリットの土地では血筋に関わらず魔法が使えるというのも、汚らわしい悪魔の手による、偽の奇跡であり、“敬虔なるブリミル教徒は、そのような悪魔の甘い罠に乗ってはならない”と神官たちは口を酸っぱくして言っている。 ……そう言われればあまり間違っていないような気もするが、実際は学術都市成立以降は、ウードやアトラナート商会は学術都市に引き篭っていて、他国に対して生徒募集や資料蒐集以外には積極的に介入はしていなかったりする。 つまりロマリアが流した数々の噂は言いがかりである。 完全に言いがかりである。 だが虚言でも百回繰り返して聞かされれば「ひょっとしてそうかも?」位には思ってしまうものだ。 況や千年に渡っての刷り込み教育(現在進行形)である。 ロマリア、ブリミル教会を中心としての、ブリミル教圏各国におけるアンチ・シャンリットというのは相当根深いものがある。 “ウードの首塚”とされていた火山ガス溜りから幾分離れたところでオスマンは一息入れる。 山道の脇の手頃な大きさの岩に腰掛ける。 ローブのポケットからモートソグニルが顔を出して、鼻をひくつかせて新鮮な空気を吸い込んでいる。「老体で山越えは無理かのー」【そりゃ無理でしょう】「あと50年若ければ!」【あんた老体固定だから変わらんでしょう】「百年前もジジイ! 二百年前もジジイ! 今もジジイ! これから先もジジイ! 未来永劫ジジイ!」【自分で言ってて虚しくならないですか】「少しだけ」 そんな不毛な掛け合いを続ける彼らの上を何匹かの竜の影が過ぎていく。 それを見たオスマンが唐突に、天啓を得たりといった様子で立ち上がる。「あ、ワシ良いこと考えた」【碌なもんじゃないでしょう】「竜に乗れば楽に山脈越えられね?」【正気ですか】「もちろん。楽勝じゃろ、火竜調伏程度」【まあ確かに】 オスマンは手にしたメイスを一振りして『偏在』を1人創り上げると、上空を舞う火竜に向けて『フライ』で射出する。 砲弾の如き勢いで空に打ち上げられた『偏在』の分身体は大音声を張り上げて火竜の注意を引く。「ヘーイ! ドラゴーン! カッモーン!!」 轟然と飛来するメイジを見て、火竜たちが宙を飛んで集まってくる。 火竜たちは空を飛んでいるメイジなど、無力な存在だと思い込んでいる。 このまま空中で弄んで最後に引き裂いて喰らってやろうと、面白半分にオスマンの『偏在』に躍りかかる。 だがそこで既に慣性飛行に移行していた『偏在』がすかさず詠唱する。「『スリープクラウド』!!」 3匹集まっていた火竜は、『偏在』の周囲に作り出された『眠りの雲』に突っ込んでしまう。 『スリープクラウド』が効いたのだろう。そのうちの2匹が朦朧としつつ、弱々しく鳴きながら遠ざかる。 そして残りの1匹が昏倒して墜落する。【あ、墜落しますよ】「直ぐに『偏在』が『レビテーション』唱えるから平気じゃろ」 オスマンの言葉通り、昏倒した火竜の落下速度が鈍る。「ほら、な」【……それで『偏在』の方は誰が助けるんです?】「……。あー」 どしゃ、と何か水分が多いものが岩肌に叩き付けられる音がしたかと思えば、地上3メイルくらいまで緩やかに下降していた火竜が、がくりと一気に高度を落として墜落する。 自由落下する『偏在』が山肌に墜落して消滅し、火竜の『レビテーション』が解けたのだろう。 ずどん、と地響きがして、それに反応してびゃあびゃあと火竜たちが喚き立てる。 オスマンは取り敢えず墜落した火竜の元へと向かうことにした。◆ 墜落した火竜は肋骨や翼が折れて負傷していたが、オスマンはその傷を『治癒』の魔法で癒して、ついでに脳味噌をちょいちょい弄って従順にしてその火竜を従えた。 火竜の脳構造もシャンリットでは既に解き明かされているので、脳の適切な部位を水魔法で不活性化させての擬似ロボトミー手術も可能であるのだ。 ちょっと大人しくなってもらった火竜に乗ってオスマンは一路ロマリアへ。 風魔法の皮膜で包んで風を和らげて、火竜山脈上空を通過。 ロマリア側の麓に降り立った一行は、用が済んだ火竜の脳回路を阻害していた水魔法を解除して火竜をリリース。「ありがとうよー」「ちゅ、ちゅちゅー」「GRU?」 気がついたら山脈を跨いで反対側に居たぜ、一体どういう事だ、とでも言いたげな火竜。 それを見送るオスマンと使い魔のモートソグニル。 そしてオスマン一行は火竜山脈とは逆側に向き直る。 遥か向こうに見えるは、千年前に千年教師長ウードが処刑された土地、ロマリアだ。◆ ロマリア連合皇国。 ハルケギニアの秩序を司る宗教であるブリミル教の総本山。 異端者の流刑地とも言われるクルデンホルフ大公国シャンリットとは千年来の敵対関係にある、と、ロマリア側では思っている。 光の国とも言われるロマリアは、各地の寺院荘園からの富が集まる都でもあり、同時にその始祖の威光に惹かれて集まる各地のあぶれ者たちが集う都でもある。 綺羅びやかな聖職者と、信仰を頼みに救いを求めて集まる貧民たち。 光と影のコントラストがこれほど強い街も、他にあるまい。「相変わらず、何と言うか落差が激しい国じゃのー」【貧しいからといって不幸だとは限りませんけど】「それはどうかの。目の前に富める者がおれば、嫌でも自分の境遇を顧みて惨めになりそうじゃが」【さあ。そればかりは本人たちに聞いてみないと分かりませんね】 数日掛けて火竜山脈の麓からロマリアまで遥々やって来たオスマン一行。 女の子をナンパしつつの旅路であったが、ロマリアの伊達男たちから日々ちやほやされているロマリア娘たちに対しては、オスマンの勝率も芳しくなかったようだ。 大きな門の外には、入市税を逃れるために集まった貧民によるゲットーや、それらの貧民向けの日雇い斡旋所や市場が立っている。 入市税を支払って市内に入った先にも、貧民街が広がっている。 遠目には幾つもの壮麗な尖塔が見える。 貧民たちはシャンリットに向かわないのか? もちろん向かう者も居るが、シャンリット行きは、最後の手段なのだ。 学術都市にして異端都市であるシャンリットに向かうことは、基本的にはブリミル教圏からの決別を意味する。 それはシャンリットで知識を身に付けて故郷に戻って来ても、異端者として見られるからだ。 多様な価値観に触れる比較的裕福な層はともかく、狭い世界で生きる平民たちにとってみれば、悪魔ウードが支配する異端都市から帰ってきた者は、即ち悪魔の使徒なのである。彼ら平民たちにとって、世界とは、神官が教えるものが全てであった。 何処に行ってもブリミル教が“シャンリットは異端だ”と繰り返しているので、学術都市シャンリット出身者たちはそれとなく除け者にされ、居づらくなって、最終的に学術都市シャンリットに出戻ることも多い。 ガリア側の火竜山脈の麓で、シャンリットで学んだ蒸留酒造りの家系がそこに根を張っていたのは、元々その家の影響力が大きかったのか、その地の神官が寛容だったのかどちらかだろう。「本当に食い詰めたら、シャンリットに向かえば良い話じゃしな」【そうですね。シャンリットは来る者拒みませんし】「掃き溜めみたいなもんじゃがな」【そうですねえ。でも、王族の血を引く者の割合は一番多いかも知れませんよ】 庶子、正統、亡命者問わず、各国王家縁のものを受け入れているシャンリットは、実は潜在的な生粋のメイジの割合も高いのかも知れなかった。 まあ彼らが学術都市に居る限りは、その魔法の才能を発揮することはないかも知れないが。 王族でも政治的理由や本人の興味によって学術都市シャンリットへ留学する者は多いが、それはその留学者が王位継承レースから脱落することを意味していた。 『神授王権を担う王が、異端に汚されるなんて以ての外だ』と考える貴族・神官たちによって、そういった風潮が作られたのだ。 尤も、王になるものは学術都市シャンリットで学んだ自分の親戚を助言者として重用する場合が多い。旧来とは異なった観点から齎される知識の有用性を、流石に王は認識している。「それで、聖グレゴリオ寺院はどっちかのー」【それよりも先に路銀を調達しないとマズイのでは】「そうじゃの。アトラナート商会の建物でお金を下ろさねばならんかの。それで、アトラナート商会のロマリア支店は何処にあるのじゃ?」 というかブリミル教の総本山に異端のアトラナート商会はあるのだろうか。【5ブロック先をとりあえず右ですね】 あるらしい。「こういう時、アトラナート商会の節操無さは便利じゃの」【それが他の国で嫌われる原因でもあるんですけどね】 異端者であるにも関わらず、無節操にあちこち出店し、品物のラインナップにも節操がなく、更に裏では生き物の死骸から宝石、果ては人間まで何でも買い取って蒐集するというアトラナート商会の姿勢は、トリステインを始めとして各国で嫌悪の対象である。特に伝統と慎みの国であるトリステインでは激しく嫌われている。 言うこと聞かない悪い子供には、『アトラナート商会に売っ払っちまうよ!!』と言って脅すのが子育てする親の定番の文句である。 実際にアトラナート商会はこっそりと人身買取(売却の方はしていない)を行って学術都市シャンリットへと、口減らしなどであぶれた人員を連れ出しているので脅し文句としても真実味がある。 学術都市のIDカードに付属している銀行口座からは、ハルケギニア各地のアトラナート商会の支店でもお金を下ろすことができる。 それも当地の貨幣でだ。学術都市、引いてはクルデンホルフ大公国では住民全員がIDカード型マジックアイテムに付属している口座を使って経済活動を行うため、貨幣は流通していないし、独自の通貨を用いている。 アトラナート商会はエルフ領にも進出しているので、エルフ領の支店ではエルフたちの通貨を下ろせる。因みにクルデンホルフ大公国と他の国の通貨との交換レートは固定である。 25年間貯めこんで、唸るほど金が余っている口座から旅の資金を下ろしたオスマン一行は、当座の宿を探して街を徘徊する。 お金はあるので豪華で飯が美味い場所を、と、オスマンは自分の愛杖〈169号〉にナビを頼む。 〈169号〉は素早く大地に張り巡らされてあるネットワーク状マジックアイテム〈黒糸〉に接続し、長年蓄積された情報(当然のようにご当地グルメの情報も記憶されている)からロマリアで人気の宿を探し当てる。 では夕食を、と酒場も兼ねるその宿屋へと一行は向かう。 その酒場兼宿屋兼飯屋は大層流行っているようであった。 巡礼にと赴いたブリミル教信徒たちが騒いでいる。 禁酒禁欲何のその。恐らくは何処かの貴族の一行なのだろう。陽気に杯を交し合っている。 オスマンは酒に酔う人の隙間を縫ってカウンターに辿り着くと、どしゃりと金貨袋をそのオーク材のカウンターに置く。「部屋は空いておるかの?」「ええ、空いておりますよ」「ならば一部屋。それと美味い料理とそれに合う酒を頼むわい」 オスマンは空いていたカウンター席に腰掛け、持っていた凶悪なデザインのメイスをその傍らに置く。「のう、ところでマスター」「はい何でしょう、ミスタ」「この辺でウード・ド・シャンリットに縁の……」 オスマンがウードの名を出した途端に、店内は水を打ったように静まり返る。 皆がぎょっとした顔でオスマンの方を見ている。「ミスタ……」「おっとスマンスマン。呆け老人の戯言として忘れてくれい」「頼みますよ……。この街でその名前はタブーなんですから」「ふむ、ロマリアに来るのは何分久し振りなもんでなー。かれこれ千年ぶりかの。かっかっかっ」「千年って、ご冗談でしょう」 マスターが気を取り直してオスマンに話しかける。 周囲もそれぞれの食卓の話に戻っていき、再び喧騒が満ちる。「かかか、まあ千年は言い過ぎじゃの。精々が百年ぶりくらいじゃ」「またまた」 料理と酒を受け取って、オスマンは食事を始める。「してマスター、さっき口に出しかけた語るも悍ましい男についてじゃが、そんなに恐れられておるのか?」「……いや、その蜘蛛の某がどうって訳じゃ無いんですよ。あんなの所詮お伽話でしょうし」「蜘蛛に化けたり、首だけで笑いながら飛んでいったり?」 蜘蛛男ウード・ド・シャンリットに関する昔話は色々だが、『長寿の人外』、『蜘蛛が化けている』、『殺しても死なない』、『千里眼』、『蟲を操る』、『矮人を従えている』、『高価な魔道具や金銀財宝を蒐めて蓄えている』辺りの要素を押さえておけば良いだろう。 先に挙げた属性は概ね真実だが、それに加えて一度は聖人に負けていることや、ロマリア市内に入ってから動きが鈍ったことから、『聖なるものに弱い』という属性が付加されることもある。 弱点の無い悪役など、魅力がない。というか神官が説法で用いる物語の都合上、そういった弱点がないと扱いづらい。始祖に祈れば悪魔ウードを退けられますよ、だから始祖に祈りましょう、と神官は言うわけだ。「そう、その昔話です。皆子供の頃に聞かされるものですが、まともに信じている者は居ませんよ。馬鹿馬鹿しい」「じゃあ何で名前を出すのを嫌がるのかの?」「……異端審問官が怖いからですよ。あの蜘蛛の某の名前を出すと、異端審問官がやって来るって噂なんです」「……市内に蜘蛛商会の支店まであるのに、高々名前を呼んだくらいで?」「それは宗教庁にショバ代として随分賄賂を握らせてるって話です」 なるほどなるほどと呟いて、オスマンはちらりと傍らのメイスに視線を送る。「賄賂ねえ。どうなの、ウジェーヌ君」 オスマンはむしゃむしゃとトマトソース的な何かが掛かったパスタ的な料理を食べながら、自分の傍らの武骨なインテリジェンスメイス〈169号(ウジェーヌ)〉に問う。 ちなみにトマト的な野菜はアトラナート商会がどこかから持ってきて品種改良してハルケギニアに広めた作物の一つだ。 他にもジャガイモ的な何かとか、様々なものがアトラナート商会経由で広まっているが、その悪魔の広めた作物を利用することに対する抵抗は、ロマリア市民には無いようだ。……広まったのが千年も前だから当然か。【確かですね。拠点確保のために結構な額を献金しています。現教皇様が蜘蛛排除派なので、その対立派閥に賄賂を渡して手を回してもらっていますね】 すかさずインテリジェンスメイスは答えを返す。 その様子を見た酒場のマスターはちょっと目を見張る。「へえ、インテリジェンスアイテムとはまた酔狂なものをお持ちで」「なかなか使えるんじゃよ? あとはこれが美女にでも化けてくれれば最高なんじゃが」【化けられますよ?】 愛杖の何気ない言葉にオスマンは愕然としてフォークを取り落として音を立てる。 何時の間にかオスマンの懐から出てちゃっかりご相伴に与っていたハツカネズミの使い魔モートソグニルが、その音に一瞬驚くが、彼は両手で挟んでいたパスタを取り落とすことはなく、引き続きにゅるにゅると頬張り続けた。「なんじゃと?」【一応義体は女性バージョンも作れますよ?】「マジで? なら今夜見してくり」【良いですけど変なことしないでくださいよ】「インテリジェンスアイテムに欲情するほど落ちぶれとらんわい」【じゃあ何するつもりですか】「義体のデザインは調整できるんじゃろう? ワシ好みの美人秘書に仕立て上げようと思っての」【はあ、さいですか】「む、馬鹿にしとるな。美人秘書が付いておるか付いておらんかで、やる気が百倍は違ってくるのじゃよ!?」 既にマスターは勝手に掛け合いを始めた老メイジとその所持品の杖を放っておいて、他の客の相手をしている。 ちなみにオスマンと〈169号(ウジェーヌ)〉が話し合っているうちに、残りの料理はモートソグニルが美味しく頂きました。小さな身体のどこにそんなに食べ物が入ったのかというと、このハツカネズミに刻まれた使い魔のルーンの効果である。 モートソグニルのルーンは“マルディ・グラ(謝肉祭宴の最終日)”と言って、物理法則を無視して食い溜めが出来る能力を付与するルーンである。小鳥やネズミなどに刻まれることが多く、ズボラなメイジに召喚された場合でも代謝が激しい使い魔が飢え死にすることが無いようにという始祖の配慮の賜物なのだとか。学術都市の研究によれば、このルーン“マルディ・グラ”が刻まれた使い魔が食い溜めた食物のエネルギーは、風石や水精霊の涙のような高魔力エネルギー結晶となって体内に溜め込まれているのだとか。◆ 次の日、オスマンによって義体ゴーレムを女性型にカスタマイズされたインテリジェンスメイス〈ウード169号〉、ウジェーヌ・ドラクロワ(偽名)改めウジェニー・ドラクロワ(仮名)は、ふたり仲良くロマリア観光をしたのだとか。 それに味をしめたオスマンは、ナンパが上手く行かなかったときはウジェニーを様々にカスタマイズして――服や髪型のみならず顔や身長や体型も――連れ歩くことを楽しんだ。【……土人形のボディ相手に着せ替えたりこね回したり色々と、何か虚しくなりませんか? オールド・オスマン】「どうせ時間は腐っても無くならん程保証されておるのじゃ、我が魔道書〈カルナマゴスの遺言〉の術式によって。たまには邪道を試してみるのも良いものじゃと思わんかの? 造形作業も中々楽しいしの」【はあ、まあ、コメントは控えさせていただきます】 後のフィギュア萌え族の開祖となるとは、この時点では誰も考えなかった。「そうじゃ、たまには名前も変えてみないかの? 今日はアルビオン風に“ユージェニー・ロングビル”とかどうかの!?」【ロングビルって誰ですか】「知らん。昨日の宿帳に書いてあったどっかの誰かの名前じゃ」 なおウード処刑跡地に建てられた聖グレゴリオ寺院には、特に記すべきものは何も無い普通の寺院だったことを追記しておく。 伝説の武器が封印されていたりとか、語るも悍ましい化物の巣窟などにはなっていなかったようだ。◆ 所変わってアルビオン。 過去の大地殻変動『大隆起』によって宙に浮かび上がった大地である。 現在はテューダー王家が治めている国であり、大昔に大火事に遭ったために、建造物に木材を使うことが禁止され、その代償として風石の力で空を飛ぶ木造船の製作が活発になった、空軍大国。 狭い浮遊大陸にも関わらず、旧い支配者たちや遥か宇宙からの生命体が犇めいているため、それを恐れてアトラナート商会の進出は活発ではない……かというとそうでもない。 遥か宇宙に逃げ場を確保したゴブリンたちにとって、強大な力を持った旧支配者たちとの交流を躊躇う理由は最早存在せず、彼らの技術や能力の解明に力を入れ始めているのだ。……宇宙に逃げたと言っても、その程度で逃げ切れるか解らないから、極めて慎重に、だが。 系統魔法とも精霊魔法とも虚無魔法とも科学技術とも異なった、異次元の技術、魔術。それについての蒐集と、体系化と新規開発を目標に、矮人たちは動いている。 既にそれらについて幾許かの知識はある。 水の精霊に狂わされた調査員が持ち帰った遙か古代の神々の戦いについての記憶。 火星で出会った古のものから学んだ超技術。 セラエノ帰りのエルフから伝え聞いた、異世界の歴史。 古の偉大な魔導師たちが書き記した秘術の記録。 千年掛けて営々と蒐集し続けたその結果を以て、ゴブリンたちとウード・ド・シャンリットの亡霊は、世界のホントウの真理へと手を掛けようともがいているのだ。「なんつうか、あれじゃの。この国はシャンリットに近しいものを感じるの」【空気が汚染されているんでしょう、異教の神々が齎す混沌に】 オスマンとその連れの女性型ガーゴイル(インテリジェンスメイス内蔵)は、ロマリアのアトラナート商会支店から、〈ゲートの鏡〉を抜けて空間を超越してアルビオンの首都ロンディニウムにやって来ていた。密入国である。 インテリジェンスメイス〈169号〉は、理知的な鋭い目付きに紅い長髪の美しい女性の姿の肉人形(ゴーレム)に身を包んでいる。 この姿の状態の時は、オスマンからは“ユージェニー・ロングビル”という偽名を与えられている。「地下にはアイホートの迷宮が縦横無尽に広がり、森には黒山羊がうろつき、シャッガイの蟲が飛び回り、湖底にはグラーキが潜み、と。難儀な国じゃの」【知識を得るために、シャンリットの矮人たちが彼らに対して奉仕種族のように振舞っているせいで、ここまで混沌の雰囲気が助長されたのですけどね。千年前はもっと穏便な雰囲気の国だったそうですよ】「ふうん、テューダー王家もアルビオンの民も不幸じゃの」【しかし、彼らアルビオンの民が犠牲になる身代わりに、ゴブリンたちが神々を慰撫しているという面もあります。ですから民にはそこまで直接的な被害は出ていないと思いますよ。……狂気的な波動が満ちているせいで精神を病む人は多いそうですが】 ゴブリンたちはこの地に棲む神や宇宙生物たちの監視や世話をし、時に必要以上に献身的に仕えてきた。 それは千年前のウードの使い魔であった穿地魔蟲クトーニアンに対する関わり方と似ている。 望むものを与え、どうか災いを齎すな、知識を授けてくれ、と慰撫し懇願するのだ。 この天空の土地アルビオンでは、ウード・ド・シャンリットに関する噂はそれほど多くない。 当然だ。 ウード・ド・シャンリットがこの恐ろしい存在に満ちた天空大陸を訪れることは殆ど無かったのだから。 だが、シャンリットと最も接触が薄かったにも関わらず、そこに流れる空気が一番シャンリットに近いとは皮肉なものだ。 この白の国には、未だに太古の幻想たちが息づいている。ウードの作った蜘蛛の眷属のゴブリンたちよりもずっとずっと旧い者共が。 アルビオンの者は皆が皆、人智を超えた何かが直ぐ自分たちの傍に居るのだと、無意識のうちに感じ取っている。 地下に。 森に。 暗闇に。 墓地に。 沼地に。 そして足元の影の中に、吹きすさぶ風の中に、雪山の頂きに、部屋の角に――。 ナニかが居るのだ。確実に。 眼に見えるものだけが真実ではない。 薄皮一枚剥けばそこには人間には耐えられような恐ろしい世界の有様が横たわっているのだ。 それをアルビオンの民は無意識のうちに知っている。 始祖が最初に光臨したサウスゴータの土地から、なぜ始祖ブリミルは下界へと降りなければならなかったのか。 恐ろしかったからではないのか、この土地に棲むナニかをブリミルは嫌ったのではないか、と、アルビオンの民は不安に思っているのだ。 旧い御伽話に語られる化け物たちは、始祖すら敵わず逃げ出したようなモンスターが、本当は現実に居るのではないだろうか、と。「うーむ、飯もマズイしサッサとトリステインに行くかのー」【天空大陸だから調味料が手に入りづらいんですかね】「いや、アルビオンの奴らには美食という感覚が伝統的に存在しない所為じゃの。とにかく茹でて、とにかく揚げて、最後はお好みに塩コショウとソースで味付け、ってそんなん料理じゃないわい」 数日滞在し、アルビオン料理を堪能して、もうそれに懲りたオスマンはさっさと天空大陸を後にする。 〈169号〉が覚えていたグライダーの設計図に従って、それを『錬金』で作り上げると、アルビオン大陸の端からすいーっと降りていく。 カヌーから長い板を左右に張り出させたかのような、蚊トンボのような華奢な印象を与える機体だ。 メイジが『錬金』で作る物質の品質は、少量ならともかく、大量に作ると安定しないというのが定説だ。 しかし、インテリジェンスアイテムを媒介に『錬金』を使えば、その魔道具が持つ機械的な性質が、人間の不完全なイメージを補完してくれる。 それによって設計図の要求通りの品質の材料を揃えることが出来るのだ。「アイ、キャン、フラーイ!!」【何故にグライダーで……】「折角じゃから白の国の威容を拝んでおきたくての」 オスマンと使い魔のネズミ、メイス形態に戻った〈169号〉をキャノピー内に収めたグライダーは、大きく弧を描きながらアルビオン大陸の回りを一周する。 雲海に聳える巨大な陸塊は、太陽を浴びて光り輝き、非常に美しかった。「おおう、これが」【アルビオンからの追放刑に服した者たちが最期に拝むという光景ですね。別名『絶望の白い断崖』】「……杖没収の上でノーロープバンジーとか残酷な刑罰じゃの」【トリステインのダングルテールの人たちは、その自由落下の試練に生き残ったアルビオンからの流刑者の末裔だとか】「ダングルテール――アングル人の土地――ってそういう意味かい……。つか絶対“風に乗りて歩む者”の眷属じゃろ、そいつら」 風の魔神、“風に乗りて歩む者”イタクァは気まぐれに人をさらって遥か上空から落とすという。 しかし絶死のスカイダイビングを経ても生き残る者たちは居る。それはあまりに長く神に触れすぎて、その神の性質に感染してしまった者たちだ。 風の神イタクァの性質を移されたものは、その本来の棲み家である遙か高空の凍気に適応した低体温に陥り、さらに人喰いの衝動が抑えられなくなって、やがては獣のような風の精ウェンディゴへと完全に変貌して、主神イタクァの待つ大空へと飛んでいってしまうそうだ。 オスマンを乗せた十字架のような形のグライダーは、雲を抜けてゆっくりとトリステインに向かって降下していった。◆ トリステインに着陸したオスマン一行は、20年近く前に受け取った『トリステイン魔法学院学院長への就任の打診』を携えて王政府を訪ね、そこでポストが空くまで数年待たされたものの、首尾よくトリステイン魔法学院の学院長の座に就くことができた。 オスマンはトリステインで時間を潰している数年のうちに、一冊の書籍を書き上げる。 “うーど・ど・しゃんりっとノ全テ”と題されたその書籍は、オスマンがハルケギニア各地を巡って集めたウード関連の伝承や、オスマンが学術都市シャンリットに居た間に見知った千年教師長ウード・ド・シャンリットについての噂話を纏めたものである。◆ ・『千年教師長』の噂 @クルデンホルフ大公国 教師長ウード・ド・シャンリットは千年前から生き続けている蜘蛛の化物らしい。 @ゲルマニア 異端の統括者、アウデス・カンプリテは千年前から生きている。 @ガリア 各地の首塚に祀られている人外の化け物、ウード・ド・シャンリットは今も尚、シャンリットの土地に君臨している。 @アルビオン 学術都市のトップはおよそ千歳らしい。 @トリステイン ウード・ド・シャンリットは今も生きている。邪教の悪魔の力を借りて不死となり、千年ずっと、ハルケギニア征服の機会を伺っている。 @ロマリア 悪魔の街シャンリットでは、千年来の怨敵ウード・ド・シャンリットが、聖人による処刑の手を逃れて地獄から蘇り、ブリミル教徒全てに対する恐ろしい謀略を巡らせている。だが神と始祖の名の下に、必ずや邪悪が打ち破られる日が来るだろう。=================================クトゥルフ成分無し。済まんです。その上山なしオチなし……時間軸的には、第0話の後って感じです。多分カリンちゃんが生まれたくらいの年代? トリステイン英雄王は即位しているだろうか第二部に向けての各国の軽い状況説明的な何かトリステインの状況は今後語る機会がいくらでもありそうなので後回しクルデンホルフ大公国が金持ちなのは何故? → 千年前に好き勝手やった転生者の末裔だからだったんだよ! ナ、ナンダッテー(AA略クルデンホルフ大公国は実質的に鎖国状態、みたいなもの。“未開人の宗教を崇めるとは、なんとも不愉快だな。 -4”、“お前は邪悪だ。 -4”って感じで近隣諸国からはハブられ気味。……お金の無心だけは各国からじゃんじゃん来るけど。貴様ら恥を知らんのか。でも別に外交する必要無いし、財政はチートだから大公は気にしていない。順調に膨れ上がる各国貴族への貸付は確実に不良債権だけど気にしない、利子ウマー。一気に取り立てたらどうなるか好奇心が刺激されるけど、今の所妄想だけに留めているそうなただしハルケギニアやサハラ、東方各地には学術調査団をバンバン派遣している。金も武力も技術力も血筋も揃ってるけど別にハルケギニア統一とかは考えてない。国家規模で千年単位の蒐集癖で知りたがりなだけモートソグニルのルーン“マルディ・グラ(謝肉祭宴の最終日)”は捏造オリジナル設定ハルケギニアの暦的には、“エオー・グラ”の方が正しいのかも?(エオーの曜日が火曜日(マルディ)に相当すると思われるから)ユージェニー・ロングビル(中身はインテリジェンスメイス〈169号〉)の外見は、マチルダ(フーケ)の色違いって感じのイメージです。2Pカラー過去改変の影響のため原作編時間軸では盗賊フーケは出せなさそうなので、その代理のオスマンの秘書役(予定)です魔道書〈うーど・ど・しゃんりっとノ全テ〉 正気度減少〈0/1d4〉 蜘蛛の祭司についてまとめられた書物。著者は永劫を生きると言われる大メイジ、ジョルジュ・オスマン。学術都市シャンリットの制度や風俗もかなり詳しく紹介されている。 『“蜘蛛の糸はいつも貴方の足元に”の、アトラナート商会の提供でお送りしております』 ↑正気度チェックに失敗し、本の内容を真に理解すると上の文言がただの企業宣伝キャッチコピーに思えなくなる不思議。2010.12.12 初投稿