夢を見ている。 懐かしい夢。 そして夢のなかで見る夢。 幼いルイズは、ラ・ヴァリエールの屋敷の池の小舟の上で、泣き疲れて眠っていた。 6000年の歴史を誇る水の国トリステインの王家の血を分けた由緒正しき公爵家、その三女。 恐ろしき烈風を制する母と、水の国最高の『ブレイド』使いの誉れ高き父を持つ、将来を嘱望された、ヴァリエール美人三姉妹の末妹。 それがルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。 だが今、ゆらゆらと揺れる小舟の中で、あらゆるものから隠れるように蹲っているのは、か弱いただのルイズに過ぎない。 公爵家の娘であるとか、父や母が凄腕のメイジであるとかいうこととは全く関係ない、魔法の使えない、ただのルイズ。 この池の小舟の中では、彼女は自由だ。 その血筋から、魔法の才能から、周囲の期待から、誇りから、自制から、理性から、そして、信仰からも、彼女は自由であった。 この小舟の中でただのルイズとなった彼女は、何でも出来た。いつもは思いも寄らないことが、この彼女だけの揺れる船の中では可能なのだ。 血筋を恨み、魔法の才能を嘆き、周囲の期待を踏み躙り、誇りをかなぐり捨てて、自制を放棄し、理性につばを吐き、そして、神と始祖を呪い殺すことすらも、ルイズだけの、彼女のためだけの小舟の中では許された。 何故自分は魔法が使えないのか、なぜ世界はこうも自分に厳しいのか、何故、何故、何故。 嫌だ。こんな世界は嫌だ。自分に優しくない世界はもう嫌だ。だから――。 暖かな毛布に包まれて、空想の翼を広げ、小舟の中のルイズは夢の世界に旅立つのだ。 夢のなかのルイズは、夢見る前と同じような小舟の中で目を覚ます。 周囲を見渡すも、行先は見えず、岸辺も見えないほどの深い靄に包まれている。 景色だけではない。 最も大きく違うのは、彼女の身体。 背中からは、翼人のような羽が生え、下半身は詩に歌われる人魚のような艶めかしいラインとなっている。上半身も、ちぃねえさまに負けない、実りの女神の如き豊満さだ。ばいーんぼいーん、である。 もはや彼女は、か弱いただのルイズではない。 夢の世界を支配する、強力な力を持った異形の女王なのだ。 夢の中のルイズは自在に空を飛び、水を操り、天候を操作する。 母のように烈風を従え、父のように激流を制する。 この夢の世界では彼女は無敵の力を持った、絶対の支配者であった。 ある時、紺碧の水の中を飛ぶように夢の湖を泳ぐルイズは、その絢爛たる珊瑚に覆われた水底に、不思議な温水を発する穴を見つける。 ルイズはポッカリと空いたその温熱洞穴に、好奇心を擽られて潜っていく。 沈没した古代の文明の遺跡なのだろうか。 その温熱洞穴は、蔦やドラゴン、幻獣をあしらった絢爛たるレリーフに壁を覆いつくされていて、七十段の急峻な階段が、地底へと続いている。 壁面からは発光性のヒドロ虫や藻類が生えており、暗闇の階段洞穴を、ルシフェリンの淡い蛍光で照らしている。 一体この先に何があるのだろう。 ルイズは海竜のような力強さで尾鰭をくねらせて海底遺跡の階段を泳いでいく。 彼女の起こす海流に驚いて、階段の壁から生えたフサゴカイがエラを棲管に引っ込める。 色素の抜けた蟹たちが逃げ場を探して右往左往する上をルイズは微笑んで通り過ぎる。 泳ぐうちに遂にルイズは階段の最下層から繋がる広場に飛び出る。 浅き眠りの七十階段を降りた先には、轟々と渦巻いて立ち上る炎の柱に囲まれた、巨大な白亜の神殿が存在していた。 ルイズは戸惑う。いつの間にか水の中から空中に飛び出ていたことに、ではない。 彼女の力を受け付けない、目の前の神殿にだ。今まで何もかも思い通りにしてきた夢の異形の女王たるルイズの力が、炎の神殿には及ばないのだ。「おお、極と零の女王よ。この先に進むことを望むかね?」 いつの間にか神殿の前に神官らしき男が立っていた。「儂の名はナシュト。この炎の洞窟の神殿で、神官をしている」 夢のなかのルイズは、この偉大なる夢の神官であるこの老人が秘めた、恐ろしいまでの力を瞬時に感じ取った。 いや、正確に感じ取ったわけではない。感じ取れないほどに強大だ、ということを理解したに過ぎない。 夢の世界で好き勝手に力を振るっていた自分が、極めて世間知らずの矮小な存在であることに気が付き、ルイズは急に恥ずかしくなってしまった。 この偉大な神官の前で、自分はなんとはしたない姿をしているのだろう。 そう思ったルイズは、あっという間に、異形の体を作り変えて、自分本来の幼く可愛らしい身体に変化させる。裸同然だった先程までの姿と異なり、清楚なドレスに身を包んでいる。 ただ、これまで振るっていたあの異形の力を捨てるのは惜しかったので、羽根と鱗を組み合わせた意匠の宝石飾りに凝縮して、胸に付けておくことにした。「はじめまして、ナシュト様。私は、ルイズ・フランソワーズと申します。先程はお恥ずかしい姿をお見せして申し訳ありませんでした」 ルイズは社交界で行うように、ドレスのスカートの端を摘まんで礼をする。「おや、これはまた可愛らしいお嬢さんに化けたものだね、極と零の女王よ」「化けた、だなんて……。こちらが本来の姿ですわ、ナシュト様」 ルイズは口を尖らせて、抗議して見せる。 乙女として、先程の異形が本性だと言われるのは、心外である。 たとえそれが図星で、真実だとしても。「ほっほっほ、まあ、そういう事にしておこうかの。儂としても、先程の風と水を統べる女王よりは、こちらの可愛らしいお嬢さんの姿のほうが話しをしやすい」 豊かに蓄えられた顎髭を撫でながら笑う老神官は、ルイズを神殿内部へ導く。「深き眠りの七百階段を下る前に、このナシュトの話を聞いていくがいい。類稀なる力を持つ女王よ。 君の力は誇っていいものだ、まあ、儂らと比べればまだまだじゃが……。それでも余人には到底及びもつかないものだ。 母から受け継いだ魔風すら制する烈風の心、父から受け継いだ静かで激しい清流の有様、そして魂に刻まれた虚無たる極と零の力、さらには千人を束ねても足りないほどの霊体の器の巨大さ。 しかもそれらは全てまだ成長の途中と来ている。何とも恐ろしいものだ」 神殿内部へと歩き、応接室らしき場所にルイズを導いて、夢の大神官ナシュト老は話を続ける。 虚無云々というのは眉唾だが、この神官が嘘を付くとは思えない。嘘をつく必要もないくらいに実力が隔絶しているからだ。 狂える玉座の痴愚神アザトースに正気のまま拝謁することのできる高位の神官の一人であるナシュト老にとって、ルイズなど生まれたての小鳥の雛よりもか弱い存在に違いない。「ルイズ・フランソワーズよ、いくら巨大な力を持つとはいえ、そなたはこの幻夢郷【ドリームランド】においては新参者。 これからそなたが深き眠りの七百階段を下りようというのならば、儂はそなたに知識を授けようと思う。聞いていくかね?」「はい、是非ともお話しをお聞かせください、ナシュト様」 客人のために何かの飲み物を用意したナシュトの問いに対して、ルイズは即答する。 彼女は直観的にそれが必要だと理解していた。 それは彼女を待ち構える運命の過酷さを予感していたためかもしれない。「宜しい。知識とは広大な世界という名の暗闇を照らすための、唯一の光。 聞いていって損にはなるまい。気になったならば、神殿の書物を読むことも許可しよう。 ではまず何から話そうか、そう、まずは深き眠りの七百階段が繋がるあやかしの森のズーグたちについて……」 夢がぼやける。 夢のなかの夢、懐かしい昔のこと、幻夢郷を訪れる切欠となった始まりの出来事を思い出していたルイズの、その肉体が覚醒に向かっているのだ。◆◇◆「っ、痛ぅ……」 夢から醒めたルイズを襲うのは、頭痛をもたらすほどの悪意の波動。 不覚にも彼女は眠ってしまっていたのだ。 僅かな時間だったが懐かしい夢を見た。夢の世界と現実の時間の流れは必ずしも一致しない。 あれはルイズがドリームランドに初めて訪れた時の夢だった。 あの後、現実世界ではクルデンホルフからの使者たる黒糸のアシナガオジサンが来たのだったか、確か。 そう、あの時から彼女の運命はその歯車を狂わせて急激に道を外れ始めたのだ。 ベッドの上で軽い頭痛を覚えるこめかみを押さえながら、ルイズは「うぅん」と呻く。 ピンクブロンドの長髪が、ゆるゆると振られる頭の動きに合わせて、空気をはらんで広がる。 ルイズはこの悪意の波動が満ちる中で眠ってしまったことを不覚に思う。 だがそれも無理からぬこと。彼女を眠らせたのは大メイジ、オールド・オスマンの全身全霊が込められた〈眠りの鐘〉による催眠波動だったのだから。 強烈な、ルイズを以てしても抗うことのできなかった程の、エーテルを伝播した催眠音波は、一度巨大ゴーレム崩壊時の振動によって目覚めていた彼女を、瞬時に再び夢の世界に誘ったのだ。 では、狂気から魂を守る夢の世界から、悪意が満ちた現実に彼女を引き戻したものは何者か。 ズキズキと脳細胞を苛む側頭部の偏頭痛を振り払うように頭を振って、ルイズは周囲を見回す。 いつもと変わらないグロテスク(グロッタ調)の三つの鏡、ベッドサイドに立てかけられた袱紗に包まれた長物、そしてベッドの傍らに生えている生首。(……、生首?) ざ、と勢い良く振り見れば、花瓶が置かれたサイドテーブルから生えているその生首は、赤髪のユージェニー・ロングビル学院長秘書。 いつものメガネは付けておらず、普段は束ねられている髪の毛も、だらりと妖艶にサイドテーブル上にばらまかれている。 口の端に掛かる一筋の髪束が扇情的である。さらにいくつかの髪束はルイズの方へ伸びている。おそらくはこれを使って電気ショックか何かでルイズの覚醒を促したのだろう。 幽鬼のようにも見える生首の鋭い瞳は、ルイズの方を捉えて離さない。「おはようございます、ミス・ヴァリエール」 ロングビルは寝起きに生首を見て凝固したルイズに構わずに話しかける。「事態は逼迫しています。学院生徒レイナールを媒介に〈輝くトラペゾヘドロン・レプリカ〉が発動、化身『闇の跳梁者』が召喚されました」 その報告を聞いて、瞬時に頭を切り替えるルイズ。 なるほど、先程から襲い来るこの頭痛は、そのナイアルラートホテプの闇の化身の齎す波動が原因か、と当たりを付ける。 しかも生徒の――人間の身体を媒介に顕現しただって? そんなこと、許しておけるものか。 人間をどうにかして良いのは、人間のみだ。邪神ではない。 あらゆる邪悪の介入を、このルイズ・フランソワーズは決して許さない。 極度の人間至上主義者、それがルイズの在り方だった。「オールド・オスマンは?」「学院長は〈眠りの鐘〉の発動に全力を使い、しばらくは動けません」「そう。……初めから私に任せるつもりっだったんじゃないでしょうね?」 ロングビルの生首が状況を説明する間にも、ルイズは準備を整える。 先祖伝来のタクト状の杖、クルデンホルフ大公国のシュヴァリエの証であるIDカード型アイテム、そして学院外れの森の地下にあるウードのグロッタ(洞窟)に繋がるグロテスクの壁掛け鏡を一枚。「まさか。もし仮にそうだとしても、貴女は見過ごすつもりですか?」「それこそまさか。あらゆる邪悪を私は許しはしないわ。あんたたち蜘蛛の眷属を含めてね。いつかこの地表から追い払ってやる。……ベアトリスには悪いけれど」「ふふふ。千年教師長のアイテムを利用して、大公姫を親友としておきながら、尚も諦めないのですか。私たちアトラナート様の眷属がそんなに気に入りませんか」 ロングビルの生首が挑発的に笑う。 ルイズは額に縦ジワを作りながら答える。「気に入らないわ。ハルケギニアはあんたたちの飼育箱じゃないのよ。同じ異種族のエルフとは大違い。出しゃばり過ぎなのよ、あんたたちは。絶対に駆逐してやるから覚悟なさい」「凄まじい信念、いや情念ですね。おお怖い怖い」「うるさい。それで、問題の場所は? あと私の使い魔を知らないかしら」 ベッドサイドの袱紗から日本刀を取り出しながら、ルイズは問う。「場所は学院の寮棟前の中庭です。貴女の使い魔のアーシアン(地球人)は、その邪神の現身(うつしみ)の下に居ますよ」「ふぅん、つくづく受難体質のようね、サイト・ヒラガという男は。惚れ込んじゃいそうだわ」 ルイズはサイトの記憶を『読心』の水魔法で読み取って、彼の数奇で類稀な体験の数々を垣間見ている。 疫病神に魅入られているかのような悪運を持つ、あの使い魔ならば、あるいはルイズを、世に蔓延るあらゆる邪悪な企みのその中枢に、自然と導いてくれるかも知れない。 現に、今この瞬間、サイトを召喚してまだ二十四時間経っていないくらいだというのに、学院はこの混沌とした状況に陥っている。 それこそがルイズの求めるものだ。 トラブル万来、悪運万歳どんとこい、である。「全く、〈輝くトラペゾヘドロン・レプリカ〉なんてものがこの学院にあるなんて知らなかったわ。念の為に確認するけれど、その〈トラペゾヘドロン・レプリカ〉は私の好きにしていいのよね?」「勿論です。オールド・オスマンが若い頃に内包歴史の業子(カルマトロン)ごとコピーした、極めて本物に近い贋作とはいえ、所詮はレプリカ。煮るなり焼くなり、お好きになさってください」 それだけを伝えると、ロングビルの生首は髪の先からその紅色を失って黒色に変化し、頭部全体もバサリと砕け落ち、バラバラの黒い糸の塊へと還元されていく。 ロングビルの生首は遠隔操作によって作られたゴーレムだったのだ。 この魔法学院には千二百年前から蜘蛛の巣のように、細かな糸状のマジックアイテムのネットワークが張り巡らされている。 ロングビルはそれを自在に使いこなせるので、先程のような芸当も可能なのだ。 なにせ彼女の正体は、そのネットワーク型のマジックアイテムと作者を同じくする、兄弟姉妹とも言うべきインテリジェンスアイテムなのだから。 ルイズはそんな生首ゴーレムの成れの果てを見ることもなく、寮室の窓へと足を向ける。 『念力』の魔法で窓を開けると、ルイズは鏡と日本刀を伴って、そこから身を躍らせる。 彼女の見据える先には、燃える三眼の漆黒の悪魔が、その身体を確かめるように四肢や羽を伸び縮みさせていた。◆◇◆ 蜘蛛の巣から逃れる為に 6.本分――使い魔の場合と魔法使いの場合――◆◇◆「かかって来なさい、邪神の化身。跡形もなく消し去ってあげるわ」 ルイズはそう言うのが早いか、お得意の『爆発』を夜鬼を象った邪神へと向ける。彼女は口より先に手が出るタイプなのだ。 炸裂した『爆発』は人体無害、しかし、それ以外には致命的になるように調整。 虚無の『爆発』の一番の特徴は、その破壊選択性にある。わずか一小節の詠唱でも、その選択性は十分に発現可能。 例えば、延々と食事の度に胃の中身だけを『爆発』で消滅させ続ければ、お手軽に美味のみを味わって太らずに延々と食事を続けることもおそらくできるだろう。 自分相手にやればダイエットだが、他人相手にやれば極上の拷問になりそうだ。 食べても食べてもお腹が空くだなんて、正真正銘の悪夢。最悪だ。まあその程度は系統魔法でも再現可能だけれど。『錬金』の魔法の場合は逆に、延々糞を食わせてから胃の中で適当な炭水化物に変化させて餓死を防ぐとかいう拷問方法もありそうだ。 それはさておき。 連発する小爆発が、闇の跳梁者のコウモリのような膜翼に炸裂する。「ギァ」 ナイトゴーントの一対二枚の膜翼が虚無の光に焼かれて穴だらけになって消滅する。 だが闇の跳梁者は、それに対してわずかに身を捩っただけで、ダメージは意に介さず泰然自若。 ずるり、とすぐに闇に満ちたゴムのような膜翼は再生する。 その後も何発かルイズは小規模の『爆発』を放つが、一定以上の効果を与えることはできない。 特に闇を彷徨う者の習性として“脳を喰らう”というのがあるので、マスク内部に満ちた闇の霧を祓うように頭部に優先的に当てている。 まあ依代となっている生徒を喰らい殺せば、『錬金』による遮光膜の再生ができなくなるから、恐らくは暫くは生かしたままにしておくとは思われるが……。(それにしてもさっさと決着をつけるのが最善ね) ルイズは移動力を削ぐために翼を、そして依代の被害を防ぐために頭部を重点的に、非殺傷の『爆破』で狙う。 余裕がある時には、胴体部の、恐らくは胃の中にあるのだろう〈トラペゾヘドロン〉を直接狙うが、その周りを取り巻く高密度の闇に吸収減衰されて、爆発の光は届かないようだ。 小爆発では、どうしても相手の再生の速度と高密度の闇の衣を上回ることができない。動きを封じることは出来ているが、どうにも千日手だ。「ふん、生意気ね、苛立たしい。かといって、詠唱を完成させるには、時間が足りない」 大威力の虚無魔法を放つには、それ相応の精神集中と時間が必要だ。 そして彼女は典型的な魔法使いタイプ。 前衛はできない。 IDカード型アイテムの借力で魔法を放つにも、結局のところ魔法を操るのがルイズであるというところは変わらない。 通常生活であれば幾つもの系統魔法をカードから同時に喚び出せる熟達した操作者であるルイズだが、どうしても虚無魔法と同時には制御できない。 ルイズの能力が足りないのではなく、虚無の詠唱はそれだけ脳に負荷がかかるということなのだ。「じゃあ、時間稼ぎが必要ね」 だがオスマンは消耗中。全く肝心なときに使えない。 ロングビル、というかクルデンホルフゆかりのインテリジェンスアイテム群は静観するつもりなのだろう。奴らは観察と記録と蒐集がその習性だから。 ルイズでは時間稼ぎと詠唱を両立できない。虚無がリソースを喰い過ぎる。ならば――。 後ろに浮かべた日本刀がルイズの『念力』によってずい、と差し出される。 浮遊するグロッタ調の鏡の表面が、ルイズの魔力を受けて銀色の靄のように揺らぐ。 何か行動しようとする三眼の敵対者の動きを止めるために、杖を握ったルイズの手は休まずに爆発を作り出す。爆音が重なり、燃える三眼の夜鬼を釘付けにする。「起きろ、使い魔! 働き時よ!」 こういう時のための使い魔だ。 ルイズは顔の左を覆っていた眼帯をめくると、左眼に意識を集中させる。 彼女の左眼は、右眼と異なり、黒い瞳をしていた。 ヘテロクロミア、月目。だが黒い瞳は彼女生来の色ではない。 ルイズの言葉を受けて、蹲るように意識を失っていたサイトの身体が、どこか操り人形じみた動きで立ち上がる。 サイトの右眼は閉じられたまま。 しかし左眼はこれでもかと見開かれ、爛々と輝いていた。 彼の髪と同じ黒色に、ではない。 サイトの左眼は彼の主人ルイズの右眼と同じく、鳶色に輝いていた。「早く目覚めろ、駄犬! まだ、カー(精妙体)が馴染んでなくって上手く操れないんだから、さっさと起きろ! 剣を取れ! 踏み潰すぞ!」 ナニを。 プルプルと立ち上がるサイトの隣の地面に、ルイズの背後から『念力』で射出された日本刀がくるりと飛来し、鞘ごと突き刺さる。 がちがちと動きながら、サイトは地面に突き立った日本刀の柄に手をかける。 その次の瞬間、サイトの動きが自然なものになる。とはいえ下手な人形繰りが、稀代の人形繰りになったくらいであるが。「へえ、意識がない操り人形の状態でもガンダールヴのルーンは発動するのね。流石に私の肉体までは効果は及ばないみたいだけれど」 移植した左眼のカーがもっと馴染めばガンダールヴの能力を支配下におけるかしら、などとルイズは考える。 鳶色の左眼を見開くサイトの意識は未だ戻らず。 では、彼の身体を操っているのは、何者か? 言わずもがな、それは彼の主人たる可憐な魔法使い、ルイズ・フランソワーズである。 今、ルイズがサイトの肉体を操っているのは、はるか古代のエルフ暗黒王“ネフレン=カ”の神官団が用いたという『カーの分配』という魔術の効果である。 『カーの分配』という魔術の効果は、自分の臓器に、自らのカー(精妙体、霊体、あるいは生命のエッセンス)を注ぎこんで封じ込め、その臓器を生かしたままに自らの身体から分離させて保存するというものである。 例えば心臓を『カーの分配』によって摘出し、どこかに隠してしまえば、その術者は心臓を取り出したあとの空っぽの胸を穿たれても死ぬことはなくなるだろう。 代わりに切り離して隠した心臓を破壊されれば死に至るが。物理的距離を超越して、術者と臓器は繋がりを保っているのだ。 ルイズはサイトを召喚した日の夜に、『カーの分配』の魔術を施した左眼を抉り出し、さらにそれをベアトリスを助手としてサイトの左眼と交換する手術をしたのだ。 ルイズはサイトの近眼を治療したが、なぜ眠っているサイトの視力がわかったのだろうか? それは眼球の交換によって、実際にサイトの眼球を使用して(・・・・)みたからであった。 そしてサイトの脳髄を度々襲った、ハルケギニアの知識の奔流による頭痛……、これはサイトに植え付けたルイズの左眼に込められた彼女の知識が流れ込んだ為に生じたものである。 さらに『カーの分配』によって術者の霊体を移植された者は、それを通じて術者の思うがままに操られてしまう。 ルイズは肉体の緊急避難として『カーの分配』を使ったのではなく、その副次的効果、被移植者のコントロールに目をつけたのだ。 サイトに移植した左眼およびそれに付随したカー(霊体)は、まだ完全にはサイトに馴染んでいないため、ルイズによる肉体の支配は完全ではないが、直にそれも問題なくなるだろう。「ちぃ、まだ起きないか。デルフリンガー! ガンダールヴの身体の指揮権を奪え! あの混沌の使者を足止めしなさい!」 サイトの被った精神的ダメージは案外深いようだ。 移植した霊体経由で意識を揺さぶっても起きないサイトに業を煮やしたルイズは、サイトに握らせた日本刀に指示を飛ばす。【うぅ~。なあ虚無の嬢ちゃんよぉ。今度の担い手は長生きするかなぁ~】 ルイズがサイトの身体を操って、日本刀を引き抜く。 すると、意識のないサイトの手に握られた日本刀から鬱々としたしゃがれた声がした。 喋る剣、銘をデルフリンガーという。 始祖の使い魔初代ガンダールヴに使われていた歴史ある魔剣で、6000年の時を経て意識を保っているインテリジェンスアイテムだ。 外見は、初代ガンダールヴが使っていた片刃の大剣から、紆余曲折あって日本刀に変化している。 具体的には蜘蛛商会の研究者による性能試験に耐え切れずに器が壊され、しかしその内部に宿った意思はエルフキメラのゴブリン研究者によって呪縛されて別の剣に憑依注入されて……というのを繰り返して、今の日本刀フォルムに落ち着いたのだ。 心を通わせた担い手ガンダールヴが壊れていくのを、デルフリンガーはここ二百年ほど見続けている。 伝説の剣デルフリンガーの外見が変わる以上のサイクルで、蜘蛛商会の実験体のガンダールヴクローンは消費されたので、デルフリンガーは鬱々としているのだった。 しかもエルフの血が混ざった研究者の手による精霊魔法によって、デルフリンガー自身の意思は、消滅することも、それらの辛い記憶を忘れることも許されないのだ。 その上、研究者は隙あらば改造しようとしてくるし……。 唯一の癒しは、やがて死ぬことが確定している実験体の担い手たちとの交流であるのだが、仲良くなっては死んで別れてを繰り返すことになるという無間地獄の悪循環。 デルフリンガーが鬱々としているのも仕方ない。 つい先日も、蜘蛛商会の都合で担い手が廃棄処分になってしまったのだ。 それを嘆く間もなく、デルフリンガーは新しい担い手が居るというトリステインまで、クルデンホルフからはるばる運ばれてきたのだ。 デルフリンガー、傷心中の約六千歳である。 魔剣としての特殊能力は魔法吸収と、吸収した魔力を用いた担い手の身体の一時的な操作。 その他の追加能力は不明だが、きっと碌でも無い改造がされているに違いない。「ふん、心配しなくても、私の使い魔をそう易々と殺させやしないわよ。……というか、担い手を殺したくなければさっさと魔力で身体を操って戦いなさい! 魔力の貯蔵は充分でしょう!?」 ルイズはそう叫ぶと、背後に浮かせた鏡から何やらフラスコを二つ、『念力』で取り出す。 背後の鏡は空間を超えてどこかに繋がっているのだ。 ルイズが取り出した一方のフラスコには、薄い青色の液体――恐らくは水魔法の秘薬である〈水精霊の涙〉――が入っている。 もう一つのフラスコには、何やら怪しく緑色に蛍光を発する粘菌のようなものが蠢いている。 フラスコを取り出す間にもルイズは爆発を連発して、その光威で以て闇の化身の動きを封じている。 ずっと私のターン状態である。 ゆらゆらと揺れるフラスコに不吉なものを感じ取ったのか、デルフリンガーが慄く。【おいおい嬢ちゃん、それは一体なんだ? 非常に嫌な予感がするんだけどよぉ……】「イイものよ。今から投げるから、中身がサイトに掛かるように迎撃しなさいよー。そーれっ」【ひぃっ】 ルイズがフラスコを、三眼の跳梁者と対峙するサイトへ投げる。まずは緑に光る粘菌、次に〈水精霊の涙〉。 デルフリンガーがサイトの身体を操り、日本刀の鞘で素早く迎撃する。 自分の刀身でフラスコを壊すのは嫌だったらしい。 べしゃばしゃと割れたフラスコから、サイトに粘菌と溶液が振り注ぐ。【これは何だい、嬢ちゃん……】「生体装甲(バイオニック・アーマー)、プレゼンテッド・バイ・ユゴス」【うわぁ】 〈水精霊の涙〉からエネルギーを吸収した粘菌状の物質は、みるみるうちにぐちょぐちょ増殖して甲殻類を思わせる形に固まっていく。 外骨格式の生体装甲である。 ユゴス(冥王星)からの菌類が持っていた技術を、ハルケギニア風にアレンジした使い捨ての生きた鎧である。「防御力の向上と、電撃、炎、打撃への耐性がつくわ。今からその三眼の悪魔を完全に吹き飛ばすための詠唱するから、三十秒足止めなさい!」 怪人カニ男みたいになったサイトが、デルフリンガーに操られて刀を構える。 闇の跳梁者を釘付けにしていたルイズの小爆発が途切れる。 大規模な『爆発』のための詠唱に入ったのだ。「エオルー・スーヌ・フィル・ヤルンサクサ……」 漸く虚無の光爆の戒めから解放された闇の化身は、その三眼を燃え滾らせてルイズに向かって飛びかかろうとする。 先程の小爆発の連鎖から、ルイズを最優先で排除すべき敵だと認識したらしい。◆◇◆「やめてくれ母さん、その『頭の良くなるヘッドギア』は、イス人の精神交換装置なんだ! 確かに頭はよくなるけど、色々失うから! 具体的には正気とか! やめてくれ、というか何で通販でそんな物騒な物が売って、アッー!?」【おう相棒、ようやく目を覚ましたか。随分エキセントリックな夢見みたいだったが大丈夫か?】 サイトが幼い時の夢から絶叫と共に目が覚めた時、そこは瘴気溢れる決闘場であった。 サイトは、何故か自分が日本刀を持ち、迫り来る黒いラバースーツの悪魔の鋭く伸びた爪と鍔迫り合いをしていることに気がつく。「うおおおお!?」 左手のルーンによって強化された膂力によって、サイトは黒い悪魔を弾き飛ばす。「一体何だ!? つかさっきの声は誰だ!?」【混乱してるとこ悪いが、説明してる時間はねぇんだ、ガンダールヴ。とにかく三十秒だ、それだけの間、あの三眼の黒いのを後ろに通さなきゃそれでいい!】「お前誰だよ!? 幻聴か!? 電波か!?」【良いから戦え!】 弾き飛ばされた位置で、ぎししし、と笑う悪魔。 その時、燃える三眼が更に怪しく輝く。 サイトを魅入らせるように、三眼はゆらめき、その精神に直接働きかける。 魔眼が行うのは『支配(DOMINATE)』の魔術。“ほら敵は後ろだ”“俺を守れ”“桃髪の女を殺せ”“ルイズ・フランソワーズを殺せぇ” 囁くように『支配』の魔術の効果がサイトを苛む。 いくらレプリカで召喚された劣化版とはいえ、あの這い寄る混沌の化身による魔術である。その魔術の威力は絶大なものである。 同士討ちを命じるその内容は、悪意に満ち溢れており、いかにも混沌の化身が好みそうなものだ。 ただの人間ならば、決して抗うことなどできず、恍惚のうちに命令を遂行してしまうだろう。 ただの人間ならば、だ。「だぁぁああああっ! 五月蝿い! 小細工してんじゃねえ!!」“ッ?!” サイトはしかし、伝説の使い魔ガンダールヴ。 その魂の根本、本能よりもなお深い場所に、主人の護衛という在り方を刻まれた、神の盾。 使い魔の本分を捻じ曲げるような命令など、無効。 『支配』の魔術を跳ね除けて、サイトは蝙蝠羽の異形に突撃する。 日本刀デルフリンガーを振りかぶり、空中へ。「オオオッ!」 三眼の異形は、五指を鋭く針のように伸ばしてそれを迎撃。 影のように鋭い五槍がサイトに向かうも、サイトはそれを日本刀とは逆の腕に纏った甲殻の腕当てで弾く。「何なんだよ畜生っ! 何か襲われてるし! 刀が喋る幻聴が聞こえるし! いつの間にか変な鎧着てるし!」 サイトは更に素早く腕を翻して、弾いた指槍を空中で握る。 その伸びた悪魔の五指を起点に、悪魔を引き寄せると同時に、サイトは空中で加速。 サイトの視界の端で、ピンクブロンドの少女が、杖を大きく振り上げる。 サイトは知る由もないが、いよいよ邪悪を吹き祓う詠唱が終盤に差し掛かったのだろう。 だがそんなことは関係なしに、朗々と響く霊威に満ちた可愛らしい声が、サイトに作用し、彼の精神の奥底から勇気と力を湧き上がらせる。「――だけど、あの声を聞いていると、そんなのはどうでも良いと、とにかく守りたいと思えるのは、何でだ!」 我が身の全ては主人のために。 それこそが使い魔の在り方。 虚無の詠唱が響くこの戦場こそが、神の盾(サイト)の居場所。 斬、とサイトが日本刀を振り切る。 両断される悪魔。 次の瞬間、輝く虚無の光が戦場全てを包み込んだ。=================================次回、第二部第一章「平賀才人はツイてない」エピローグ第二部五話までの長ったらしい後書きは感想板に移動させました2011.01.19 初投稿