「おきなさい、サイト」 むー、あと五万年……、むにゃむにゃ。「おきなさい、サイト」 うへへ、高凪ー、そんなこと言われると、俺、おれ……。「起きろヘタレガンダールヴ」「げふん」 ズビシと脇腹にめり込む何者かの手刀。「げほっげほっ、何? 何なの? ぐえっふえっふ、えふ」「無様ね、当代ガンダールヴ」 ベッドに寝ていたサイトが身を折って起き上がると、そこは夢時空だった。 いや比喩じゃなくて。 極彩色のマーブル模様をした背景が遠近感を狂わせる。 幼児が書いたような不恰好な体型の動物とも建物とも区別がつかない、輪郭が不鮮明な何者かが背景を闊歩している。 太陽は緑色で、その健康的な光で世界を植物色に染め上げ、逆にそれ故に植物の存在を許していない。緑の光では植物は生きられない。 ああそこかしこでカリカチュア(風刺画)のように身体の一部分が肥大化されたキメラたちが共食いをしては、癒合し、分かれ、また、生殖している。 罅割れた空は緑の太陽光をその断面で虹色に乱反射させ、オーロラのような極彩色の光のカーテンを作り上げている。おお空が落ちてくるようだ。 遠くに見える山々は有り得べからざる角度に捩れ、断崖は急峻を通り越して逆さまに湾曲し、鮮血の流れる血管のような大河が上へ下へと流れている。 海は血のように赤く染まり、沸騰して泡立つ水面は、その泡の一つ一つに恨めしげな眼差しを宿し、怨嗟の音色で弾けて消える。 不恰好な生物とも言えないような戯画のような獣達が還っていく先には、原始的な植物や菌類による太古の森林のようなモノが広がっている。 いや、それは蠢いているから植物ではないのだろう。絨毛のようなそれはざわざわと揺れている。 触肢や偽足を伸ばす肉色や蒼褪めた皮膚のような色の森は、不気味な動物たちを喰らい、喰らわれ、融け合ってとどまることなく変異していく。 唯一正常と言えるのは、サイト自身の身体と、彼が寝ている簡素なパイプベッド。 そしてその傍ら左側にふいよふいよと浮かんでいる、眠たげな目をしたスレンダーなエルフの美少女のみである。 しかし狂ったのが当然の世界の中では、逆にここだけが異常なのだとも言える。「なんという、なんというエキセントリックな世界。これは間違いなく正気の沙汰じゃない」 サイトが遠近の狂った世界の中で慄く。 何処もかしこもまるで書き割りのように平坦な景色だ。 狂った色彩でうごめく正視に堪えぬ何モノかが、ベッタリと世界を覆っている。「あんたの精神世界でしょ、蛮人のガンダールヴ。どんな精神構造してるのよ」「ウワァァァン! せっかく人が、残酷な、そうじゃなきゃいいなあと思って、目を背けていた現実を! 酷いよお姉さん!」 エルフ美女の情け容赦ないツッコミにサイトが慟哭する。 まあ、お前の深層心理は逝っちゃってるYO! とか突き付けられたら嘆きたくもなる。 昔はきっとそうではなかったのだろうけれども、それはもう思い出せないくらい昔の話だ。「……というかお姉さんは一体誰です?」 サイトはしげしげとその美女を眺める。 まず感じたのはインドの寺院で嗅ぐような、粉っぽいような異国の魅惑の香り。長い睫毛の下には、若干眠たげにたれたエメラルドのような翆色の瞳。繊細な金細工のような髪が、緑の太陽の光をプリズムか万華鏡のように散らして、不思議な濃淡を作っている。 整った顔は美人だが、引き締まった表情のせいか、どこか中性的な印象をうける。「私はあんたの左手のルーンに宿る精霊よ。この外見は初代ガンダールヴで、本名はサーシャ。異世界に召喚された挙句に惚れた男を殺した女、ってまあそれはどうでも良いわ」「え、どうでも良いんですか?」 結構重要な情報っぽいのに。 そこだけ聞くとなんか修羅場の果てに男が刺されたように聞こえて、少しワクワクしてたのに。 他人の事情を覗くこと、つまりスキャンダル趣味は人類共通の趣味ですから。悪趣味だけど。「どうでもいいのよ、昔の話だし。終わった話に意味はないわ。それに結局姿を借りてるだけで、私は『ルーンの妖精』以外の何者でもないし。そして何故敬語?」「年上っぽいから」「……よく分かるわね。たしかにこの姿はあなたより年上よ」 エルフは人間の二倍の寿命を持つので見た目通りの年齢ではないのだ。多分サイトより十歳くらいは年上なのだろう。 精神の発達速度も肉体の発達速度に比例するのかというと、そうでもないのかもしれないけれど。 ルーンの妖精というのならば、六千年の昔から存在しているのだろうし、外見に意味などないのかもしれないが。「ところで、何か話すことがあったんじゃないですか? サーシャさん」「はいはい、“本日は私、ルーンの精霊が苦難と不幸続きの中をガンバルあなたを応援しに参りましたー。さあなんでもこの精霊様に言ってみなさーい”」 すごい棒読みで適当そうな声だった。カンペ見てるし。 事実、ふよふよ浮いて耳をほじりながらという、やる気の欠片もない態度であった。 しかしその一方でサイトは頭脳をフル回転させていた。(美人は何してもさまになるなあ。なんでも言っていいってことだけどそんな急に思いつかない。やっぱり美人だなあ。ここは夢の中なんだっけ。あれ、てことは全部俺の思い通りになるのか?) 考えた結果。「おねーさん! イイコトさせてー!」 飛びついた。「却下」 撃墜された。「けちー」 打撃を受けた頭頂部を押さえながら、サイトは口を尖らせて文句をいう。夢とはいえ、なかなか思うようにはいかないらしい。 これが上級の夢見人なら違ったのであろうが。 意志力と想像力の強い夢見人は、己の夢を思うがままにできるらしい。「おさわり禁止です。何か聞きたいことは?」「はいはーい!」 サイトは勢いよく手を挙げる。「精霊様、精霊様。不肖、平賀才人、これまで艱難辛苦にあふれた人生を送ってまいりました。今後もこんな不幸まみれの人生なのでしょうか?」 思い出されるのは昔のこと。モザイク必須な思い出たち。主に正気度的な意味で。ここから先はR指定だ! みたいな。 幼少期には頭が良くなるという変なヘッドバンドで精神を星辰の彼方に吹き飛ばされた。……たしかにその後遺症で頭は良くなったけど。イス人はホントにハタ迷惑だよね、死の危険はないからマシな部類だけどね。 中学の時にはスキー合宿に行った先の雪山で脳味噌を缶詰にされかけたり、他にもユールの日に中二病を拗らせた同級生の黒魔術がホントに発動したりするし。 高校の卒業旅行で海外に行けば何処をどう迷ったのかレン高原に迷い込むし。マジで蜘蛛はトラウマです。怖ええ。 いろいろあってミスカトニック大学に半ばスカウトされるような形で入学したらしたで、教授や先輩に引っ張りまわされて毎回何かしらのトラブルに巻き込まれるし。 なんだか回想してたら泣けてきた。背景の不気味な生物だかなんだか分からないものも、サイトの回想に合わせてぐるぐる回っている。 サイトの夢の世界だから彼の精神とリンクしているのだろうか。まるで異教のサバトのようだ。もちろんサイトは哀れな生贄の子羊役。 そんなハイライトが消えたサイトの目を覗き込んで、相変わらず適当そうな声でサーシャは断言する。「まーね」「ウワァァァン! 薄々そんな気がしてたけど!」 天よ裂けよとばかりに哭くサイトを見て、多少哀れに思ったのか、サーシャがフォローする。「あ、なしなし、今の無し。ノーカン、ノーカン。大丈夫、きっと色んな美女や美少女との出会いが待ってるから」「本当に? ヤッホォオ! 慰めるならついでにキスさせてー」「調子に乗るな、小僧」 鉄拳制裁再び。 兜割りにて平賀才人、夢枕に沈む。 それはさておき、と宙に浮いたままのサーシャは何事もなかったかのように仕切り直す。「ああそうだった、こんなコトしてる場合じゃなかった。今、あなたの魂にゴイスーなデンジャーが迫ってるのよ」「イテテ。はあ。ゴイスーなデンジャーですか」「そう。ゴイスーなデンジャーなの」 サーシャはさっきとはうって変わった表情で真面目くさって言う。 サイトの方も、ただならぬものを感じ、表情を引き締めて問い返す。「で、具体的には何なんですか? そのデンジャーって」「ん」 エルフの美女サーシャは浮いている自分の足元、サイトの寝ているベッドの左側の地面を指差す。 サイトがベッドから身を乗り出して見てみると。「井戸?」「まあそんなもんね」 そこには古く苔むした井戸があった。 和製ホラーでよく死体が投げ入れられたり、亡霊が這い上がって来たりとかする感じ。来ーるーきっとクルー。 普通なら底知れない不安感を煽る小道具だが、この狂った夢時空の中では逆に清涼剤のようにも感じられる。 むしろサイトは、ああ普通に怖がらせようとしてくれている! 俺の精神にはまだまともな恐怖観念が残っていたんだ! という安堵すら覚えていた。 ……もうサイトの精神は駄目かもしれない。「で、この井戸がどうかしたんですか? 落ちたら危険とか?」「いや、まあそれもあるけれど。何も感じないかしら、その古井戸からは」 サーシャにそう言われてサイトはもう一度井戸を見る。 あまりにも深く、底の見えないそれは、奈落にでも通じていそうだ。 しかし、何故かその井戸を見ていると、サイトの心の一番奥の部分から、勇気というか安らぎのような気持ちが湧いてくる。「飛び込みたくなりますね」「頭大丈夫?」 ついつい思ったことを口に出したサイトに、サーシャが突っ込む。 なかなか良い突っ込みをするエルフ美女だ。 きっとハイキックなんかが得意技だろう。天国まで吹っ飛ぶ快感、げふん、衝撃だ。「いや、でもですね、何というか喚ばれているというか、そんな感じがしません?」「あんただけよ」「なんででしょうねー」 いつの間にかサイトの左半身がベッドからはみ出してきている。 今にも古井戸の中に落ちそうになってきているが、彼は気づいていないのだろうか。 不思議だなー、などと言いつつも、彼はどんどんと身を乗り出していく。「そりゃあ、あんたの左眼がその井戸の中にあるからだし……」「うぇ?」 サーシャの言葉で漸くサイトは我にかえり、自分の身体がずいぶんとベッドから乗り出していることに遅ればせながら気がつく。 身を乗り出していたのは全く無意識の動作だったらしい。 サーシャの台詞に混ざっていた左眼という単語に反応して、慌ててサイトは自分の左手を自分の顔の左半分に持っていく。 しかし左手が空を切る。そこに左眼は、無い。 それどころか、眼窩周辺、顔の左側が根こそぎになっていた。 削り抉られて露出した断面を指でたどると、それに対して軟組織がにちゃりと湿った触感を返す。「え、無い。なんで?」 世界が書き割りのように平坦に見えたのは、もとからこの夢時空の世界がそうだったのではない。 サイトが片目だったから平坦に見えていただけだったのだ。 混乱して事態の理解を拒むサイトの、その視界が回る。 引きずられて、落ちる。「……そして、あんたのご主人様が喚んでるからよ。強欲なご主人様が」 サーシャの声が遠くなる。 違う、サイトが遠ざかっているのだ。 井戸の中へと転落して。引き込まれて。惹かれて。「あれ? あれ? え?」「今代の虚無の遣い手は、随分と強欲みたいよ。何せ、使い魔の魂までも、自分のものにしようというのだから」 いつの間にかサイトの身体は、井戸から出てきた大きな蛇に絡め取られていた。 単眼の、羽の生えた腐り蛇(クサリヘビ)。ケツァルコアトルスのような蛇。鳶色の瞳をした、羽のある蛇。風を司る翼と、水の化身たる蛇を合わせた、風と水を受け継ぐ化物。 その鳶色の瞳は、見覚えがある。「ルイズ……っ」 植えつけられた左眼と同じ鳶色。 ハルケギニアにサイトを喚び出した、とんでもない性質を内に秘めた美少女魔法使いの、あの意思の強い瞳と同じ色。 主人の名前を呟きながら、サイトは片目を押さえたまま、井戸の底へと引きずり込まれていく。 明らかに自由落下よりも速い速度で、サイトは井戸の中を落ちて行く。 ものすごい速度で井戸の壁が上へ上へと過ぎ去っていく。 サイトの視界の中、井戸を覗き込むサーシャの顔が遠ざかる。「最初はもっと小さな蛇だった。あなたは覚えていないけれどね、当代の。 その単眼の蛇は何度か既に、あんたの霊体を齧り喰らっている。だから、それに応じて顔の孔も大きくなって、蛇も育った。 頑張りなさい、当代のガンダールヴ。自分の魂を守りたければ」 極彩色の狂った世界に残されたのは、エルフの美女だけ。 それもすぐに蜃気楼のようにゆらいで、掻き消える。 ガンダールヴのルーンに宿った精霊である彼女は所詮幻影。 宿り主であるサイトが居なくなれば、当然彼女も投影されなくなって消えるのだ。 夢の主たるサイトが消えたことで、この狂った夢時空も崩壊を始める。 緑の太陽は空ごと砕けて剥がれ落ち、紅い海は叫びをあげながら蒸発し尽くし、地面は地平線の彼方からめくり上がって、蠢く肉塊たちを巻き込みながら狭まっていく。 世界が縮み、端から消滅していく。その断末魔に合わせて、剥がれずに残っていた極彩色の空も、ぐるぐると目魔狂しくマーブル模様に渦巻き、激しく明滅する。 夢時空の収縮は臨界に達し、練り混ぜられた世界は、最後まで中心に残っていた古井戸に吸い込まれるようにして消えてなくなった。◆◇◆ 落ちる。 落ちる。 落ち続ける。 その間にも、ルイズの瞳を持つ翼蛇はサイトを絞めつけて離さない。 絞めつけて絞めつけて、たとえその果てにサイトが四分五裂になったとしても、その肉片を胃の腑におさめてしまう腹積もりだ。 鳶色の瞳には、執着と独占欲がメラメラと燃え上がっていた。「なんだ、なんなんだお前は、一体!? 『忌まわしい狩人』か?」 『忌まわしい狩人』とは、邪神ナイアルラートホテプが好んで使役する眷属で、翼の生えた蛇のような化物だ。 先日戦った三眼悪魔、ナイアルラートホテプの化身である『闇をさまようもの』の影響力の残滓が、この悪夢を形作っているのかと、サイトはそう考えた。 だが、目の前の鳶色の瞳を持つ単眼の翼蛇からは、邪悪な気配は感じない。 それどころか、サイトは安らぎを感じてすらいた。 蛇に触れている皮膚から伝わる、そのひんやりした鱗の感触が心地良い。赤と黒の腐り蛇のような模様が素敵だ。桃色がかった朱鷺色(ときいろ)の羽根は美しい。 抉れた左顔面にめりこむように載せられた単眼翼蛇の頭から感じる息遣いが愛おしい。「ふ、ふふふ。『忌まわしい狩人』なんかと一緒にしないで頂戴。私の愛しいガンダールヴ」 自由落下の無重力感の中で、蛇が囁く。 まるで閨房での秘め事の最中のように、優しく。「ねえ、サイト。もっともっと、一つになりましょう」 人類に知恵の実を食べさせ、楽園から追放させたのは、蛇だった。 蛇の甘言。 サイトの主のあの桃髪の美少女の声音で、翼蛇は誘う。「私、あなたの何もかもが欲しいの」 甘く濡れた声。「身体も、人格も、記憶も、魂も」 脳髄が痺れるような声。 声だけではない。 翼蛇が羽ばたくたびに、そこから何かの果実のように甘い、女の香りがして、サイトの精神をぐらぐらと揺らす「そして運命も。あなたの全てを私に頂戴。ねえ、お願い」 サイトは答えることが出来ない。 きっとこれに答えてはいけない。 本能が屈服しても、理性が警鐘を鳴らし続けている。「ねえ。お願いよ」 その間にも、一ツ目蛇はどんどんと羽ばたいて、井戸の中を飛び落ちて行く。 いやそこは既に井戸ではないようだった。 周囲の暗闇は、ただの隘路から、いつの間にかもっと広大な空間に変わっているようだった。 遠くに燐光が見える。 ここは何かの鉱山洞だろうか。 目を凝らせば、遠くの壁から生えたクリスタルが光を放っているのが分かる。 一ツ目翼蛇の誘惑から逃れるために思考をずらそうと、サイトは周囲の様子を観察してみることにした。 サイトの体温に温められた蛇の鱗は艶めかしくて、皮膚に吸いつくように感じられる。 蛇の熱い吐息と甘い囁きを無視するために、サイトは努めて周囲の闇へと意識を向ける。 闇の中、薄ぼんやりと光る結晶柱や、蛍光性のキノコが広い洞穴の岩肌の所々に生えている。 クリスタルの中には、何かの胎児のような物体が見える。中程から破れているクリスタルもあり、その破れたクリスタルの中には胎児のような影はなかった。ひょっとすれば、光って見える結晶は、鉱物ではなくて何かの卵なのかもしれない。 キノコやクリスタルの周りには、その光を食べるために集まった半透明のサルパのような生き物が浮遊している。光るキノコの中に紛れて、所々に光らないキノコも生えている。その光らないキノコが、突如として傘を裂いて拡げて牙を剥き出しにして、光に惹かれて集まっていた海棲軟体動物の幼生のような光食動物をバクバクと食いちぎった。キノコに擬態した何か別の生物だったのだろう。半透明のサルパを食い荒らしたキノコに似た何かは、柄の根元から虫のような節足を幾つも出してカサコソと闇の中に去っていく。弱肉強食はこの夢の世界でも通用するルールらしい。「ねえ、聞いているの? あんまり無視すると、食べちゃうんだから」 鳶色の瞳の蛇が囁く。 彼女の朱鷺色の翼は休まずに動き、サイトもろとも夢の洞窟の奥へ奥へと飛んでいく。 まるで門柱のように生えている、ひときわ大きな二つの結晶の間を抜けて、一ツ目翼蛇は行く。「なあ、お前、一体何なんだ? ルイズなのか?」 気を逸らすために、サイトは翼蛇に話しかける。食べられては堪らない。 瞳の色はルイズと同じ鳶色だし、なんとなく印象も彼女に近いが、この一ツ目翼蛇があの美少女と同一とは考えづらい。 サイトの問い掛けに答えるために、蛇はズルリと首を伸ばして、サイトの残った右眼を覗き込む。「ふふ、それは難しい問い掛けね。『果たして私は何者か』。これほど数多の哲学者を狂気の彼岸へ押しやった問いもないわね」「そういう意味じゃない。もっと単純で具体的な質問だよ」「私はルイズ・フランソワーズとも言えるし、そうじゃないとも言える」 一ツ目翼蛇は目を細めて曖昧に答える。「私は『カーの分配』によってあなたに植えつけられたルイズ・フランソワーズの霊体の断片。だからその意味では、私はルイズ・フランソワーズだとも言える」 サイトの左眼窩に移植されたルイズの左眼には『カーの分配』という魔術がかけられている。 この魔術は、術者(この場合はルイズ)の霊体および魂の一部を、術者の身体の一部(今回の場合は左眼)に封じ込めることで、霊的な繋がりを保ったままに臓器を本体から分離する術である。 サイトの夢の世界に現れた一ツ目翼蛇は、その、ルイズの魂を内に秘めたまま移植された左眼に由来しているのだという。「だけど断片は所詮断片に過ぎない。今の私がルイズ・フランソワーズと同一かというと決してそうではない。そのうえ――」「そのうえ?」「――私はサイトの、あなたの魂を食っている。あなたの左眼がないのは、私が食べてしまったから。だから、ある意味では私はサイトの一部でもある。主導権というか、核はルイズ・フランソワーズが担っているんだけれど」 夢の中のサイトの、失われた左顔面を、この一ツ目翼蛇は食って、その血肉にしたのだという。「おかげで私はこんなに大きくなれた。あなたを引きずって、本体の、ルイズ・フランソワーズの夢の国にまで飛んでいけるほどに」 一ツ目翼蛇の彼女は、朱鷺色の翼を力強く羽ばたいて、グングンと進んでいく。 周囲の結晶洞穴が、凄まじい速さで後ろへと流れていく。 新鮮な空気の匂いを感じる。出口が近いのかもしれなかった。「でもね」 蛇が囁く。 惜別するように。 愛惜して語りかける。「でもね、サイト。このままあなたを本体の所まで連れていくのは惜しいと、私は考えているの。だって――」 その声は欲望に濡れていた。 荒い息遣いから、蛇の興奮が伝わる。 二股に別れた細い舌がサイトの頬を這いずり回る。「だって、あなたってば――」 もう洞穴の出口は間近だ。 白い光が行先にぽっかり開いた出入口を示している。 蛇が愛惜しむようにサイトを一層絞めつける。舌なめずりをしながら。「とぉっても、美味しいんですもの」 弾む声で蛇が語る。サイトはそれを聞いてゾッとした。 蛇はサイトに言い聞かせるでもなく、自分に、いや離れた本体たるルイズ・フランソワーズに釈明でもしているのだろうか。言葉を連ねる。「確かに、ルイズ・フランソワーズの夢の国にあなたを連れていかなければいけないけれど、私の役目はそこまでの水先案内だけど、でもでもっ! あと少しくらい食べたって良いと思うの! クックベリーパイより千倍は美味しいんだから、これは仕方ないのよ!」 朱鷺色の翼の羽ばたきが緩やかになって、速度が落ちる。 ちょうど半ばから折れて台のようになった3メイルも幅がある発光結晶があり、一ツ目翼蛇はサイトをそこに下ろす。 そして名残惜しそうにサイトから身体を離す。5メイル近い長い胴の翼蛇が巨大な天使の輪のようにサイトの頭上を旋回する。獲物を狙う猛禽のように。「クソッタレ! 来るな!」 サイトは急いでこの夢の捕食者から距離を取ろうとする。食べられるのは怖い。でも、食べられても良いと思ってしまった自分が、一番怖い。 だが、限られた結晶台の上ではそこまで遠くには逃げられない。 急峻な洞穴の底は見えず、サイトはここから帰るすべを持たない。「ねえ、食べられるのってとっても素敵なことよ。だって一つになるんですもの。私とあなたが溶けて混ざって、新しい魂の形が生まれるの。それって本当に素晴らしいことよ!」「やめろ、来るなあァァぁああ!」 拒否の意思を反映して、サイトの腕は前へと伸ばされる。蛇を少しでも遠ざけるために。 だが、猛禽のように旋回していた翼蛇は、その腕に狙いを定めた。捧げるように突き出された、その右腕に。 本当に遠ざけようとして手を出したのだろうか? サイトは自分の本心が分からなくなっていた。「うふふ、いただきまーす♪」 一ツ目翼蛇は大きく顎を開き、一直線に飛来する。 そしてサイトの右腕を、まるごと呑み込んで食い千切った。 その瞬間にサイトが感じたのは、はたして痛みであったのか、それとも、快楽であったのか。◆◇◆ 蜘蛛の巣から逃れる為に 8.夢のなかの夢のまた夢のなかで見る夢◆◇◆「うわぁあああああああああああ!?」 サイトが叫んで飛び起きる。 全身にびっしょりと汗をかいている。 首を素早く左右に振って確認するが、何か異常があるわけではない。 ここは学院の庭の一角に建てられた粗末なバラック小屋の中だ。 全身の怪我が治ったサイトは、ルイズの従者として、この小屋を宛てがわれたのだ。 小屋の窓からは朝の日差しが入り込んでいる。春先のこの時期、朝はまだ冷え込む。寝汗が冷えて、サイトは寒気に一度身体を大きく震わせる。「はぁ、はぁ、はぁ」 荒い呼吸を落ち着ける。 何かとんでもない悪夢を見たような気がするが、どういう悪夢だったのかは思い出せない。 いや、忘れてはいけなかったはずだ。そんな気がする。だが思い出せない。何か、何か致命的なことだったような――。「おいおい、また魘されたのか?」 一生懸命夢の内容を思い出そうとするサイトに、同じ部屋に設けられたもう一つのベッドに寝ていた、ガタイのいい男が心配そうに話しかけてくる。 彼はこのバラック小屋の先住者で、名をルネ・フォンクと言う。 もともとルネ一人が寝起きするための小屋だったのだが、サイトが入居することになったため、急遽増築と家具の運びこみを行ったのだ。 ルネ・フォンクは、クルデンホルフからの留学生で大公姫でもあるベアトリスの従者として、トリステイン魔法学院に駐留している。 彼とサイトが寝起きしているバラック小屋には、竜舎が併設されている。 そう、彼はクルデンホルフ大公国が誇る空中戦力、SAN値直葬と悪名高き、空中触手竜騎士団(ルフト・フゥラー・リッター)の一員なのだ。トリステイン魔法学院に現在派遣されているのはルネ一人だけだ。「ああ、ルネ。起こしちまったか。済まない」「いやいいさ。もう起きるところだったしな。それより大丈夫か? ここに越してきてからずっとそうじゃないか。ちゃんと眠れてるか?」 ルネが気遣う。 サイトは、退院してこのバラックに移ってきてからずっと、夜明け前に悪夢に魘されて起きることを繰り返している。 ルネがサイトを心配するのも当然だ。普通の人間は眠らないと死ぬ。……まあ一部、魔法によって眠りのリフレッシュ効果をエミュレートして何ヶ月も眠らずに活動を続けたりする変態メイジも居るが。「ああ、眠るのは、きちんと眠れてるよ。大丈夫だ。訓練に支障が出るような事にはならない」「無理なら休めよ? 倒れても良いことはないんだから」 ルネはそう言って、ベッドから抜け出て、顔を洗うためにバラックの外へと向かう。 蛇口は外にしかないのだ。バラックの上の貯水タンクから重力によって蛇口まで水が流れる構造になっている。 触手竜の身体を洗ったりするために蛇口は外に設けられている。室内に配管されていないのは、このバラックが所詮仮住まいに過ぎない間に合わせだからである。 今は最低限の機能しかないが、虚無の曜日などにルネが魔法で増改築して機能を拡張していっているので、そのうちに室内にキッチンくらい出来るだろう。「ふぅぁああああ~っ」 サイトがベッドの上で伸びをする。 悪夢は気になるが、思い出せないものは仕方ない。夢の内容を覚えていないことなどよくあることと言えばよくあることだ。 それよりも、早く訓練の準備をしなくては。サイトもルネに引き続いてバラックの外へと向かう。 ここでルネとサイトが言っている訓練というのは、彼らが主人の護衛としての任を全うするために行っているものである。 基礎的な体力づくりの鍛錬はモチロンのこと、剣術の練習や、各種のハルケギニアの知識の習得の為の座学も行っている。体力だけでは従者は務まらない。深い教養、広範な知識が必要だ。 ルネの場合はこれに魔法の鍛錬と、触手竜への騎乗とコンビネーションの訓練が加わる。 サイトの場合は剣術に加え、遠近各種の武器の訓練を行う。 教官は誰かって? ルネの乗騎の触手竜(千年近く生きていて喋れる)とサイトの持ち剣であるインテリジェンスソード・デルフリンガーだ。 今日も地獄のような鍛錬が始まる。【ルネ坊、立て! 休むな! 走れ! そんなんで私の竜騎士が務まると思っているのか!】「ひぃ、はぁ、無理。ヴィルカン、これ以上は無理、」【無理無理言っている間はまだ行ける! 頑張れ頑張れイケルイケル、諦めんなよ! ダメダメダメダメ諦めちゃ! あと呼び捨てはまだ早いから、ルネ坊】「はひぃ、ヴィルカン様ー!」 ルネが背中から無数の触手を生やした20メイルほどの大きな竜に追いかけられている。竜の名前はヴィルカン。これでも千年生きた触手竜の中では小柄な方である。 竜の背中からは三対六枚の膜翼が生えている。それぞれの膜翼は、Y字に分かれた触手の間に膜が張られた形だ。腕や脚も触手の束のようになっていて、その先を金属製の爪甲が覆っている。 他にも背中からはたくさんの細い触手が出て蠢いており、それぞれが先端にドラゴンブレスを蓄えたまま、ひぃはぁ息も絶え絶えに走るルネに狙いを定めている。「なんで俺までー!?」 あとサイトもついでに追いかけられている。んで時々ルネと一緒にドラゴンブレスで吹き飛ばされる。 ガンダールヴは発動させてはいけないので、デルフリンガーは没収中である。ノー強化である。【いやぁ、相棒、そりゃだって『身体鍛えないとなー』って言ってたからじゃないか】 デルフリンガーは触手竜ヴィルカンの背から生えた触手の一つに剥き身で握られている。 最初こそなんかアレな容貌のヴィルカンに退いたものの、今ではお互いに自らの相棒を鍛えて高め合う良き強敵(とも)である。サイト育成計画進行中。「ちくしょうっ、デルフの裏切り者ー!」【いやぁ、でもよ~、相棒~……、鍛えないと死ぬぜ? マジな話】「ああ、もう! 知ってるよ! その通りだっ!」 サイトだって鍛えなきゃ死ぬってことくらいは分かっている。 何せ召喚の翌日に、早々、這い寄る混沌ナイアルラートホテプの化身(劣化版だったそうだが)と戦うハメになったのだ。 これから何が襲い来るか分かったものではない。ただでさえサイトはトラブル誘引体質なのに。 触手竜のヴィルカンとデルフでも教えきれない範囲は、赤槌のシュヴルーズが好意で教導を引き受けてくれている。 座学でも実践でも、過激でかつバリエーション豊かな罵倒語で彼らを追い立てて教導してくれる。 ルイズやベアトリスを交えた放課後の連携訓練の際もシュヴルーズが監督し、懇切丁寧に指導してくれる。 そんなこんなで一日が終わる頃には疲労困憊になってしまうサイトは、悪夢を見ると分かっていつつも、睡魔に抗うことができない。 この日の夜も、おそらく、あっという間に眠りについてしまうことだろう。◆◇◆ 疲れ果てたサイトはすぐに夢も見ないくらいに深い眠りに囚われる。 彼が夢をみるのは、充分に睡眠をとって疲労が回復する夜明け前ごろだ。 サイトが夢をみるころ、ルイズの魂の本体は、幻夢郷【ドリームランド】に自力で築いた夢の王国の、その翡翠の玉座で、自分の左眼の分霊が帰還するのを今か今かと待ち構えているのだ。 しかし一向に分霊がサイトの魂を連れてくる気配はない。「……遅い。迷っているってことはあるまいし、道草でも食ってるのかしら……」 惜しい。 食われているのは草ではなくて彼女の従僕だ。 彼女はメイジと使い魔の、魂レベルでの麻薬的なまでの相性の良さを見誤っていた。 さて、サイトは無事にルイズの夢の宮殿まで辿りつけるのだろうか? そして無事に辿りつけたとして、そのあと一体どうなってしまうのだろう。 それとも彼は彼の主人から逃げきってしまえるだろうか? ……昔のハルケギニア人が残した言葉に次のようなものがある。 『メイジと使い魔は一心同体』 それがあるいは彼の未来を暗示しているのかもしれない。=================================頑張れサイト、負けるなサイト。ヒロインがラスボスっぽい雰囲気もあるが君ならイケルユールの日=クリスマス、冬至の祭り、ミッドウィンターフェスティバル2011.01.28 初投稿