地下水路の闇に逆さまに浮かび上がる、白い女性の上半身。何も隠すものがないたわわな乳房と細いウエストが目に眩しい。 黒い長髪は重力によって下に伸びている。顔はこれまた整っており、今にも舌なめずりしそうな、三日月のような笑みが張り付いている。 しかし彼女の下半身は見えない。いや、なぜこんな地下水路に裸の美女が居るのだろうか、腐臭に満ちたこの地下道に。 かちかち、きしきしという奇妙な音とともに、女性の身体が揺れて近づいてくる。乳房もぷるんぷるんと上下に弾む。「ワンプども! そこまでにしときー。こっから先はこのササガネが相手すっばい」 アンリエッタが使っていた『ライト』の魔法の残滓が、ついにその逆さまの美女の全容を顕にする。 彼女の下半身は、蜘蛛だった。毛だらけの甲殻に覆われた六本の節足によって彼女は水路の天井を歩いていたのだ。 大きく膨れた腹の中には、糸を出す器官が詰め込まれているのだろう。丸々とした腹には細かな毛が密生しており、柔らかそうな光沢を作っている。 ベアトリスの使い魔ササガネは半人半蜘蛛の幻獣、アラクネーなのであった。普段は『変化』の精霊魔法によってその姿を巨大蜘蛛に偽っているが。 術者たるアンリエッタが意識を失ったため『ライト』の魔法の残滓が薄れていく。 完全な闇となれば、視覚以外が発達したワンプの独壇場になるだろう。豚鼻の白いぶよぶよした餓鬼腹の九本足たちは、光の有無に関わらず、嗅覚や聴覚、また彼ら独特の感覚である“飢餓感”による生命探知によって、獲物を探し当てることが出来るのだ。 だが、暗闇で獲物を捕らえるすべを持っているのは、ワンプだけではない。 完全に明かりが消える前に、まずは手始めに、とササガネは腹を持ち上げ、糸疣から粘着性の糸塊をワンプに向かって飛ばす。 それは狙い過たず、サイトに近づいていたワンプを壁に縫い止める。「ぶぎゃ、ぎゃ!?」 ワンプが耳障りな声を上げるが無視。 取り敢えず、当面の目標は今動いているワンプの無効化。 完全に『ライト』の魔法が失われ、周囲は何も見えなくなる。 だが周囲を知る術は何も視覚だけではない。 ばいんぼいんなアラクネーであるササガネにとって最も発達した感覚というのは、触覚である。 蜘蛛の巣の上でもがく獲物の息遣いすら、糸から伝わる微振動で把握できる。水路の壁から各足先に伝わる振動を分析し、ワンプたちの現在位置を特定する。 そうなればあとは鴨撃ちだ。ワンプの動きを読んで糸をぶつけたり、奴らの進路上に糸を張り巡らせるだけで、無力化が可能だ。 蜘蛛の巣にかかったワンプたちを一匹、また一匹と雁字搦めにして動きを止めていく。 捉えられられたワンプたちが足掻くが、ササガネの強靭な糸はびくともしない。 ササガネが地下水路を蜘蛛糸で覆って行く間に、サイトが意識を取り戻したのか、がくがくと震えながら立ち上がる。 鳶色の左眼がらんらんと輝いている。 そして彼の口から、鈴を転がすような、少女のような声がする。同時に『月光(MoonLight)』の魔術による光の玉が発現し、周囲を淡く照らす。「ふふ、ササガネ、ご苦労様。あとは、私が始末をつけるわ」「えーと、誰ですかい?」 ササガネがサイトの方を見て、首を傾げる。 大きな胸がその動作によってぷるんと震える。 ……左眼だけ開いたサイトの視線が険しくなった気がする。「ふふふ、まあ、ルイズの分霊、とか、一ツ目翼蛇とでも呼んで頂戴」◆◇◆ 蜘蛛の巣から逃れる為に 12.アラクネーの狩りと翼蛇の食事◆◇◆ サイトは夢を見ている。 いつもの夢だ。 戦いの夢。 サイトは隻腕隻眼の戦士となって、羽の生えた蛇と戦い続けている。『カーの分配』によって植えつけられたルイズの左眼の分霊と戦う夢だ。 何時間、何十時間、何日、何週間、何ヶ月、何年、何十年、いや、何百年、戦い続けたのだろう。夢の世界に終わりはない。 サイトを喰おうと襲いかかる蛇を、サイトは左手に握った曲刀で弾く。左手のルーンが輝き、サイトに力を与える。だが、蛇の鱗一枚を切り裂くことすら叶わない。羽根の一枚散らすことすら叶わない。 空を飛ぶ蛇が突撃の駄賃に、サイトの持つ曲刀を尾で絡めとる。 サイトの手を離れた曲刀は、一ツ目翼蛇の締め付けで、あっという間に砕け散り細片となる。 蛇が空中に散った刃の細片を、一つ残らず舌で掬い、大きく開いた口で呑み込む。目を細め、如何にも美味そうに、刃の欠片を――サイトの夢の欠片を――呑み下す。「うふふ、美味しいわ、サイト。もっと、もっともっと、あなたの世界を、あなたの魂を、私に頂戴っ!」 蛇が再び空中を泳いで飛来する。 しかしその時には、既にサイトの手には別の武器が握られている。 蛇と戦ううちに、サイトは自在に夢の武器を創りだすことを学んでいた。サイトも成長しているのだ。 武器と鱗が打ち合う音が、極彩色の狂った空の下に響く。 緑色の太陽の輝きの下で、火花が散る。 永遠とも思える時間、翼蛇と戦士がダンスを踊る。舞踏。死の武闘。 しかしそれもやがて終りが来る。 またしても武器を奪われ、砕かれ、飲み干された。 そして今度は、武器だけでは済まなかった。「ねぇ、サイト。おなかがすいたわ。いっぱい我慢したんだから、今度はあなたの身体が欲しいの」 蛇が情欲にまみれた声で囁く。 サイトの肌が粟立つ。それは恐怖と期待によってだ。 食べられること。一つになること。混ざっていくこと。それはとても怖いけれど、とても気持ちが良いこと。 蛇がサイトに絡みつく。 耳にかかる蛇の吐息がこそばゆい。 朱鷺色の羽根から香る女の匂いに、意識が飛びそうになる。 さらさらと肌にこすれる鱗の感触が快い。「じゃあ、今度は左足を食べちゃおうかしら」 一ツ目翼蛇が、サイトの左足に狙いを定める。 蛇の胴体がサイトの身体を雁字搦めにする。 サイトの首に、艶めかしい光沢を持った蛇の尾が絡みつき、サイトの鼻先を蛇の尾先が擽る。(……おいしそう) サイトは蛇の尾を見て何故かそう思った。 靴やズボンには頓着せずに、蛇はむぐむぐと、サイトの左足を丸呑みにしていく。 靴も衣服もサイトの夢の一部であるということには変わりない。武器の破片を呑み込むことの出来る一ツ目翼蛇にとってみれば、その程度は障害には成り得ない。 呑み込まれる足が、蛇の食道に絞めつけられる。ズボンが溶けて、肉襞が直接サイトの皮膚に絡みつく。とても気持ちがいい。徐々に皮膚が溶かされているのか、感覚が鋭敏になり、蛇がさらに深くサイトを咥えていく度に、こすれる肉襞からの快感が脊髄を駆け巡る。「くあぁっ!」 理性が溶ける。蛇が満足気に目を細める。 サイトの目の前で、物欲しげに蛇の尾先が揺れる。 ゆらゆら、ゆらゆらと目の前を行き来するそれに、サイトはたまらずしゃぶりつく。「んぐっ?!」 突然の刺激に一ツ目翼蛇がビクリと身体を跳ねさせる。案外敏感らしい。 だがすぐに気を取り直して、蛇は蠕動運動を続けていく。驚愕に見開かれた目が、また気持よさそうに細められる。 先程よりも陶然としている様に見える。 サイトの方も興奮していた。 足先から呑み込まれていくのが気持ち良い。ずるずると引きこまれていく感覚と、皮膚に張り付く蛇の体内の肉襞の感触。 そして口に咥えた蛇の尾先のヒンヤリとした感触。サイトの舌と蛇の尾先が絡み合い、快感を与える。尾先がサイトの口内で暴れまわり、口蓋や頬肉をさらさらと擦る。 ついに蛇の口は、サイトの左足の太腿にまで到達した。 愛おしそうに蛇は身体全体を締め付け、サイトの左足を絞るように刺激する。「ふぁっ」 サイトの口から情けない声が漏れ、蛇の尾を吐き出しそうになるが、蛇はそれを許さない。 尾をさらに突き込み、サイトの口内を蹂躙する。 だがそれも数瞬のこと。 唐突にそれらの刺激が止む。 サイトは蛇の意図を悟る。 終にこの蜜月の時間に終止符を打ち、蛇が左足を喰いちぎるつもりなのだ、と。 次の瞬間。 左足の付け根から、衝撃が走る。 あまりの痛みに、サイトは歯を食いしばる(・・・・・・・)。 その口内に蛇の尾が残っているにも関わらず、だ。 今まであらゆる武器を通さなかった蛇の鱗は、しかし、いとも簡単にサイトの歯を受け入れた。 ぷつり、と、尾の一切れが千切れて、サイトの口内を転がる。(……あまい) あれほど頑健だった蛇の尾は、サイトの口の中に入った途端に、キャラメルのように柔らかくとろけた。 脂の甘さ、肉の甘さ、血の甘さ、骨や鱗の歯ごたえ。 これまでに食べた何ものよりも、蛇の肉は美味しくて、脳天突き抜け広がる旨みに、意識が真っ白になる。 身体中に活力が満ちる。 食いちぎられた足の付け根からは、もうほとんど痛みは感じない。「うふふ、私が食べられちゃった」 蛇が耳元で囁く。「でもね、サイトも美味しかったのよ? 前よりもずっとずっと美味しくなってたの。成長したからかしら?」 嬉しそうに声が弾んでいる。 二股に分かれた舌が、サイトの耳朶をちょろちょろと舐める。 くすぐったいような、もどかしいような、そんな感覚。「お前の肉も、美味しかった」 サイトが蛇に答えると、蛇は嬉しそうにサイトの首筋を甘噛みする。 鎖骨にべろりと舌を這わせて、首から口を離すと、蛇が鳶色の瞳でサイトを覗き込む。 その像が、近すぎて焦点が合わないのか、二重にずれて見える。……二重に(・・・)?「それは良かったわ、サイト。あなたの魂が私の糧になるように、私の魂もあなたの糧になるみたいね。左眼も右手も左足も、返してあげることが出来て良かったわ」 蛇の言葉の通り、サイトの失われた左眼と右手、食われたばかりの左足は、復元して元通りに生えていた。 蛇の肉の一欠片が、サイトの魂の滋養となって、失われた部分を補完したのだろう。 くすくすと笑いながら、蛇が名残惜しそうに遠ざかる。蛇の尾(これも回復したのだろう)と、サイトの指先が愛おしげに絡んで、離れる。「うふふ、本当は一呑みにしたかったけれど、お互いに骨肉相食んで、魂を鍛えて成長させる方が良さそうね。もっと成長して、もっと美味しくなってちょうだい、私の愛しい愛しいサイト」 一ツ目翼蛇が飛び去る。「待て! 何処に行くんだ!」「ふふふ、今は休みなさい、サイト。そしてまた死闘(ダンス)を踊りましょう。私はちょっと、私のサイトを横取りしようとしてきた赤足の腐肉喰らいどもを殺してくるから」 困惑するサイトを夢の国に残し、一ツ目翼蛇が、朱鷺色の羽を羽ばたかせて飛んでいく。◆◇◆ トリスタニアの地下水路。 つい数分前までは汚泥と闇に覆われていたその空間は、現在、真っ白なヴェールに覆われた幻想的な空間へと変貌していた。 『月光』の魔法によって蒼く照らされた絹糸のヴェールの中には、吊るされているワンプが三十数匹はもがいている。「蛇ルイズさーん、とりあえず、臭いとか足音でわかる範囲内のワンプば全部集めたばい」「ご苦労様、ササガネ」 ヴェールの中、吊るされたワンプたちから離れた場所で、アラクネーのササガネと、気絶しているサイトの身体を操る翼蛇が話をしている。 ちなみにササガネは、上半身の人間部分を胸元の開いた黒いぴったりとしたドレスのようなもので覆っている。彼女の黒くて長い髪を使って織り上げたドレスだ。ウエストが細く絞ってあり、胸の谷間が丸見えである。 蛇のルイズが、“サイトの夢にそのいやらしい身体が出てくるかも知れないから隠せ”とササガネに命じたのだ。……余計にいやらしくなった気がしないでもないが、これ以上言っても無駄だと、翼蛇は諦めた。 サイトの後ろには、音を通さないように何重ものヴェールに隔てられて、アンリエッタ姫、ギーシュ、レイナールが蜘蛛糸で織られたハンモックの上に寝かされている。 彼らに目立った傷は無い。翼蛇の使った『治癒(Healing)』の魔術によって快復させられたのだ。 とはいえ、閉所暗所で逃げ惑い戦ううちに、彼らにも疲れが溜まっていたのだろう。暫く起きる気配はなさそうだ。「怖かなぁー、蛇さんも、本体のルイズさんも」「敵には災厄、味方には救世主。あなたがベアトリスの使い魔を続けているうちはきちんと庇護してあげるわ。ベアトリスの使い魔は私の使い魔も同じことよ」「わー超傲慢」「ふふ、もっと言って頂戴。これでも夢の国では一国百城の主なものでね、なんて。……私じゃなくて本体の方が、だけど」 にやにやと蛇はサイトの顔で獰猛に笑う。 ササガネは肩をすくめる。きつく締められたドレスによって胸の谷間が深くなる。 さて自分の主人の蜘蛛の眷属のメイジは、蛇のルイズと本体のルイズが対峙したら、一体どっちに着くんだろうか? 少しササガネは興味をひかれた。 しかし蛇ルイズに言われるままにワンプどもを集めたが、一体どうするつもりだろう。「んで、こいつらばどげんすっとー?」「それはこうするのよ……。『恐怖の注入(Implant Fear)』!」 魔術によって恐ろしい幻影がインプたちの精神に投影される。 幻影から逃れるためにワンプたちは足掻くが、鋼線よりも強靭なササガネの蜘蛛糸は全く揺るぎもしない。 それでもワンプたちは足掻く。恐ろしい蛇の幻影が、彼らの精神を苛み、溶かし、叩き潰す。それから少しでも逃れるために、足掻く。 限界を超えて力が込められて、ワンプたちの手足はばりばりと音を立ててへし折れるが、それでもなお止まずに襲い来る幻影に恐怖の悲鳴を上げる。 阿鼻叫喚。それを蛇は心地良さ気に聞いている。ササガネは「悪趣味やね」と半目で耳を塞ぐ。 蛇が操るサイトの腕は指揮するように掲げられており、それが右往左往するたびに、まるで合唱団のようにワンプの悲鳴が木霊する。「ふふふ、私のサイトを食べようとして、この程度で済むと思っているのかしら?」 ワンプたちの身体から血が噴き出る。 聖痕現象。精神世界でつけられた傷が、その衝撃の余りに現実の肉体に影響し始めたのだ。 ぎゃあぎゃあとワンプが喚く。一体どんな恐ろしい悪夢を見せられているというのか。「んじゃ、そろそろ終りにしましょう。下衆で醜悪で汚らしくて豚の糞にも劣るあんたらだけど、最後に少しだけ役に立たせてあげるわ」 蛇がぎこちなく笑みを作る。「私の糧になりなさい。『吸魂(Steal Life)』」 蛇が、対象の生命エナジーを吸収する魔術を発動させる。 いよいよもって、ワンプたちの断末魔が響く。 徐々に轢き潰される豚のような、その醜悪な断末魔で耳がおかしくなりそうだ。「ぎぃいいいいいいっぃぃぃいいいいいぃ!!」「ぉぎゃぁぁあぁぁあぁあああああ!」「っごぉおおぉぉおおお、っぼぁああぁぉぉおお!!」 徐々に、徐々に、ワンプたちの身体が萎れていく。 皮膚が乾き、筋が浮き出る。『恐怖の注入(Implant Fear)』の効果も継続しているのかもしれない。衰えた筋肉で、彼らは必死にもがき苦しむ。 生命力が失われて脆くなった骨が、枯れ枝を折るような軽い音でぱきょりと折れる。「ぃ、ぎ、ぃ、ひっ、ぃぃい」「ぅあ、ぐ、んぐ、ぁあっ」「げふっ、ぐひっ、っいぃ……」 見えない生命のオーラが、『吸魂(Steal Life)』によって、ワンプたちから蛇へと流れる。 蛇に操られるサイトの鳶色の左眼が不快気に細められる。 吐き捨てるように蛇が言う。「低俗な魂ね。サイトの万分の一の価値も無い。苦しんで死ね」 やがて生命エナジーを失ったワンプたちの肉体は急速に老化し、生きながら崩壊を始める。 蜘蛛糸によって簀巻きにされたワンプたちの肉体は灰色に色を失う。九本の肢の関節は腐ってズルリと外れて、それによって皮が不自然にだらしなく伸びる。さきほど彼らが足掻いたために開放骨折した箇所からは、肉や内臓が腐って爛れた汁が漏れて、真っ白の蜘蛛糸を腐汁の濁った色に染めていく。ぐずぐずとワンプの輪郭は崩れて、縮みながら潰れていく。途中、ついに生命力の流出に耐えられずに死んだワンプの頭蓋骨から新しいワンプの仔が発生するが、直ぐに『吸魂』の力場に囚われて、萎んで死んでしまう。 全てのワンプの生命が蛇によって吸い出されて停止した。ササガネが嫌気の差した顔で舌を出しながら「うわー、えげつなー」とか言っているが、蛇ルイズは気にしない。彼女の瞳はぎらぎらつやつやして輝きを増している。卑俗な魂とはいえ、数十の魂のエナジーを吸い尽くしたお陰だろう。「さて、ササガネ」「はいなー」「後始末よろしく。全員地上まで持って行って頂戴」「ほいさー」「頼んだわよ?」「任せときんしゃい」 それだけ確認すると、蛇ルイズの身体(サイト)が崩れ落ちる。 魔術の大盤振る舞いで疲れてしまったのだろうか。 上半身だけ見れば黒髪巨乳美女なササガネが、いそいそと崩れ落ちたサイトや、少し離れたところに寝かされているアンリエッタ姫たちを簀巻きにする。「よっこいしょ、と」 ササガネは蜘蛛糸でグルグルと簀巻きにされたサイトを片腕で脇に抱え、蓑虫のようになった他の三名を何かの狩りの獲物よろしく背中に担ぐ。 サイトだけ特別扱いなのは、あの蛇にいちゃもんつけられたら堪らないからである。 サイトの顔がササガネの巨乳に当たって窒息しかけているのに気付き、ササガネが少しサイトの持ち方を変える。 アラクネー美女は、此処に来るまでに水路につけてきた“道糸”を辿って帰る。 蜘蛛はアリアドネの糸よろしく、自分の通ってきた道に糸を残している。 帰り道に迷うことはない。(んー、取り敢えず、蛇ルイズさんのことは聞かれない限り黙っとくかいねぇー。黙秘黙秘) ササガネは、サイトの身体を操った別人格のことについて、黙っておくことに決めた。 尋問されればその限りではないが……。正直、蛇ルイズとルイズ本体、どっちも怖い。だから、聞かれない限りはすっとぼけておくのが無難だろう。 まあ黙秘で問題ないだろう、と、ベアトリスと感覚共有の回線を開く。(っ、ササガネ! ようやく繋がりましたわ! 状況を!)(んー、サイトたちば救出したけん今から帰るとよー) ササガネが何本もの節足を躍動させて地下水路を跳ねる。 白い肌が、闇の中に消える。◆◇◆ 地上のガン・スミス。 シエスタの通報によって、ガン・スミスにはグリフォン隊隊長のワルド子爵がやって来ていた。 彼は何人かの騎士を伴っている。「ふむ、それではもうじき姫殿下はここに来られる、と」「そうですわ。……どうやら到着したようです」 ベアトリス言うが早いか、従っていた騎士たちが担架を持って地下室へと突撃する。 ここまでアンリエッタたちを連れてきたササガネは、素早く『変化』してアラクネー形態から大蜘蛛形態に姿を偽っていた。口語詠唱によって高度な精霊魔術を扱うことの出来るアラクネー形態は、ササガネの切り札だ。 急いで突入する隊員を尻目に、ワルド子爵は頭を掻く。「いやあ、姫様が見つかってよかったよ。ルイズ、ありがとう。ベアトリス姫も。君たちの使い魔が居なければ、大事になっていたよ。ことがコトだけに公に謝礼は出来ないかも知れないが、私個人で何かお礼をすると約束しよう。……まあ、ゲルマニアから帰ってきてからになるだろうけれどね」「私としてはあなたがお姉さまとの婚約を放棄してくれるのが一番の褒美なのですが」「ははっ、子爵風情が、公爵が組んだ縁組を破棄できるとでも? いや婚約が嫌というわけではないよ、もちろん」「あら、それは残念。ほほほ」「はっはっは」 ベアトリスとワルド子爵の間で胃の痛くなる遣り取りが展開される。 この場にシエスタが居なくて良かった。彼女がいたら胃薬の追加が必要なところだ。あ、シエスタは今、衛兵の詰所で休ませてもらってます。 その間に地下空間からアンリエッタ姫が運び出される。「……無事そうでよかったわ」 薄汚れてはいるが大きな傷はなさそうなのを見て、ルイズが安堵する。 あとでサイトに護衛中の様子を問い質しておけば良いだろう。 使い魔が粗相をしていなければいいのだが。「ご挨拶には行かれないのですか? お姉さま」 ベアトリスが尋ねるが、ルイズは首を横に振る。「今は、ね。お疲れのようだし、このあとは間髪置かずにゲルマニア行幸でしょうから……。そうですよね? ワルド様」 ルイズがワルド子爵に話を振る。「まあね。優秀な宮廷治癒術師がついているから、多少体調が悪くても姫殿下にはこのままゲルマニアに向かってもらうことになるよ。お辛いだろうが、そればかりは自業自得、いい薬だと思ってもらうしか無いね」 そして魔法衛士隊の隊士たちは風のような速さでアンリエッタを運んでいく。 急いでいるのは後の予定が押しているためだろう。 ワルド子爵もまた、疾風の速度で去っていく。「……帰りましょうか、ベアトリス」「はい、お姉さま。あ、ガンダールヴたちはどうされるんですか?」「ついでだし連れて帰るわ。空中待機してるルネは、竜籠と一緒にそのまま帰ってもらって」「はい、伝えます。あ、シエスタは?」「……。多分こちらの地下列車で帰るのは渋るだろうから、ルネの方に迎えに行くようにお願いしてもらっていいかしら」「はい、ではそのように」 さて、インテリジェンスアイテムの腹の中を通って帰るのと、触手竜の竜籠に乗せられて帰るのはどちらがマシなのだろうか?◆◇◆ 魔法衛士隊の詰所。その隊長執務室。 アンリエッタ姫失踪事件のカタがつき、これから本来の任務に戻れるということで、グリフォン隊隊長ワルド子爵はようやく一息ついていた。 だがその前にやることがある。 彼が『偏在』を使った後の恒例の儀式だ。 隊舎の訓練室、そこにワルド子爵は、今日の捜索指揮のために作った『偏在』の分身体四つを集めていた。 それぞれの『偏在』はワルド子爵の特製である。 出来る限り、人を再現した高度な『偏在』だ。「では諸君。掛かって来たまえ」 本体が剣杖を構えるのと同時に、四体の『偏在』も剣杖を構える。 一瞬の対峙の後、五体のワルド子爵の姿がブレる。 剣杖の交錯音、魔法による風切音が響き――後に湿った落下音がする。分割された人体の音だ。「ふむ、中々、良し」 本来であれば『偏在』で作られた分身は、一定以上のダメージを受けると消滅する。 だが、現在、切り捨てられた『偏在』だったものは、消滅すること無く(・・・・・・・・)、床に転がっている。 滴る血や、肉の断面は生々しく、これが魔法によって作られた紛い物だとはとても思えない。 そう、これがワルド子爵特製の『偏在』の魔法である。 人体の構造を熟知し、〈スキルニル〉を研究し尽くした執念の果てに完成した、実態を持った完全なる分身魔法なのだった。 ワルド子爵は『偏在』のバラバラ死体をさらに剣杖でグリグリとほじくって、それぞれの人体再現度合を確認する。 ある程度確認して「まだ内臓系の再現が不十分だな。また死刑囚の処刑に立ち会って新鮮な死体を腑分けさせてもらうか」 などと呟きつつ、四体分の死体をワルド子爵は『発火』の魔法で焼却する。 彼特製の『偏在』は、実体を持つというその性質ゆえに、後始末が必要である。 痕跡すら残さない通常の『偏在』よりも若干使い勝手が悪いが、長時間独立行動可能というメリットもある。 ワルド子爵は、通常の『偏在』も問題なく使いこなせるので、実体の『偏在』と通常の『偏在』を使い分ければ良いだけだ。「『メメント・モリ』……。『死を想え』、か。その探求の果てに辿り着いたのが、自分殺しの魔法というのは皮肉なものだ。まあいい。こいつのお陰で、俺は常に自分の死を見つめ直すことが出来るのだから。そう、『メメント・モリ』だ」 ワルド子爵は胸元のペンダントを握りしめながら、燃え尽きた灰を一瞥し、それを小さな旋風で集めて、そして『錬金』で固めて小さなブロックにしてしまう。 全てを風に分解してしまうよりは、ワルド子爵にとっては固めてしまう方が精神力の節約になるのだった。 ワルドが人灰ブロックを拾い上げたときに、不意に訓練室の扉が開く。 そこから顔を出したのは、前髪を切りそろえた金髪の女性隊士だ。 女性隊士の入隊は最近許可されるようになっている。警護対象が王妃と王女なので、女性隊士の必要性が否が応にも高まったのだ。「アニエスか」「……血の匂いがしたので来てみれば……。ワルド隊長、やはりこちらにいらしたのですね。出発の時間です」「ああ、了解だ。……ふむ、コレ、要るかね?」 ワルドはこの鼻の利く女性隊士に、人灰ブロックを差し出してみる。 アニエスは嫌そうな顔をする。「私を何だと思ってるんですか」「ふむ、熱心な隊員だと思っているよ。ダングルテールのことをやたらと聞きたがるから、てっきり廃墟マニアか灰マニアかとでも思っていたんだがね」「違いますよ」 アニエスが怒ったような、呆れたような顔で否定する。「そうか。 ああ、そうだ、私の名前で申請したら、ダングルテールの件に関連する書類の閲覧許可は取れたよ。資料捜索の助手として君を連れていってあげよう。必要なら実体のある『偏在』で本ごとコピーしてやってもいい」「ほ、本当ですか!? ありがとうございます!」 ワルドが付け加えた言葉に、アニエスは驚愕に目を見開く。 そしてアニエスが慌てて礼をする。「ま、ゲルマニアに行って帰ってからの話だがね」「いえ、ありがとうございます! ……それにしても、本当に便利ですね、隊長の『偏在』は」「覚える気があるなら教えるが」「いえ、まだ私では身につけられないでしょう。風の術者として憧れはありますが……。風を極め、水にも精通し、土の魔法人形にも理解が深くなければ実体を持った『偏在』は作れないと伺っています。とても自分にはそんな才覚は……」「まあね。これは俺の半生を費やした魔法だからね。そう簡単に身につけられたら俺の立つ瀬がない」 この魔法のおかげで、初心を忘れずに済む。 自分を殺すことで、いつでも俺は、自分を思い出すことができる。 自分の中身がまだ人間であることを、切り開いて確認できる。「しかし何故ここまでしてくれるのですか?」 アニエスが問う。 一隊士である自分に、この隊長は随分と肩入れしてくれている。 何か得になることもあるまいに。「ふむ、何、母に似ているからだよ、君が。もう亡くなってしまったし、顔形が似ている訳ではないのだが、何というか、その雰囲気がね」 氷のような凍てつく魔風の気配を纏ったアニエスと、ワルドの母――彼が介錯するしか無くなった、異形と化した母――それが被るのだ。「はぁ、そうなんですか」「まあ気にするな」 そう言ってワルド子爵は訓練室の扉から出ようとする。「あと、気になっていたことがあるので、一つ。『偏在』たちとわざわざ果たし合って殺すのは何故なんですか?」 別に実戦形式でやらずとも、ただ単に首を刎ねてしまえば良いだけなのではないか。 リスクを取る必要はあるまい、とアニエスは言いたいのだ。「……ふむ、自分が何人も居るのは耐えられないから実体を持った『偏在』は殺さねばならぬ。しかし、かと言って他人に自分が殺されるのも癇に障る。だから自分で殺す。そしてなにより、一番強い者が生き残るべきだからだよ」「……隊長、あなたは本当に隊長なんですか? 『偏在』じゃなくて?」「ふん、生き残っているなら、俺がジャン=ジャック・フランシス・ド・ワルドだよ。他は死んで果てて、灰になっているのだからね」 ワルド子爵は、手の中の人灰ブロックを弄んでそう答えると、訓練室の扉を後にした。=================================当SSには健全な食事シーンが含まれています2011.02.11 初投稿