ウード・ド・シャンリットは、不思議に思っていることがある。 それは自分の父方の家族の事についてである。 ウードの父フィリップは、紋章院の登録によればシャンリット伯爵家の次男として生を受けたとされている。 フィリップの上には一人、兄が居たのだ。 だが実際に爵位を継いだのは、フィリップである。 ウードは自分に伯父が居たということなど、紋章院に忍び込ませたゴーレムに貴族の台帳を写し取らせて(無断で)、それを見るまで全く知らなかった。 伯父本人どころか、従兄弟にも会ったことは無い。 母方の親族は、父と母の仕出かした騒動によって絶交状態であるため、これまた会ったことはない。 だから父方の親族が全滅状態であるということも、今まで全く気にならなかった。 だがこれは本来異常なことである。 中世貴族とは、ウードの持つ知識によれば血縁者が大勢居て然るべきなのだ。 実際、紋章院から写本して盗み出した台帳には、複雑な血縁関係によって成り立つ一門が幾つも記されていた。 この世界でも普通の貴族は、何人も子が居ることが普通なのだ。 フィリップの兄の没年は、フィリップの父と母の没年と全く同じであった。 それは、ウードが生まれた年の前の年であった。 ウードの祖父母(フィリップの父母)の没年に、フィリップは伯爵位を継いでいる。 表向きは、フィリップの父母と兄は、流行病で亡くなった事になっている。 何でも数刻のうちに、内臓がどろどろに溶けて無くなり、皮だけになってしまう奇病なのだという。 シャンリットの屋敷に詰めていた使用人も全滅している。 無事だったのは、フィリップの起こした不祥事(スキャンダル)に対処するために名代として王都に派遣されていた家宰の爺やと、王軍でエリーゼの護衛を務めていたフィリップのみだ。 城下の領民にもこの奇病に因る被害者が出ている。 だが、流行病という割には、被害者が少なすぎる。 夜中に外を出歩いていた若い男女と、森の奥に入りすぎて帰りの遅れた猟師のみだったのだ。 これでは流行病というよりも、まるで通り魔かモンスターにでも襲われたかのようではないか!(父上が伯父や祖父を謀殺したとは考えられない。恐らく、何かがあったのだ) ウードはある日に偶然目を通した、開祖の日記を見て以来、他の先祖の日記や様々な記録、家系図などを見ては、シャンリット家の血筋に隠された秘密について研究を行っている。 それによれば、祖父たちを襲った流行病は、100年から200年に一度くらいのペースで領内に現れているようだ。ウードの祖父の時の奇病の猛威の、約150年前にはひとつの村を壊滅させたと記録が残っている。 そして決まって、その年に伯爵位の継承が行われている。 これまでシャンリット家2000年の歴史で起こった事件について纏めた年表を前にして、ウードは唸る。(本当は、もう見当はついているんだ。でも出来れば外れていて欲しい。確実な所は、爺やに聞いてみないと)◆ 蜘蛛の糸の繋がる先は 5.レベルアップは唐突に、しかし積み重ねこそが重要◆「メイリーン、こっち! こっち向いて!」「うー?」「良いね! その角度!」 激写! という様子で庭園で、バッタを追いかける赤子、メイリーンを更にカメラで追いかけて行っているのは、赤子の父親のフィリップである。 最近は執務を放り出してカメラを掲げてメイリーンを写真に撮っている。 アルバム――アルバムは1冊で100枚入るもので、透明フィルムが各ページに貼られているウード謹製のものである――約20冊に及ぶメイリーンの写真が既に撮られている。 親馬鹿である。ウードはあまり手間のかからない子だった分、その反動でメイリーンを可愛がっているのだろう。 因みに残った執務の皺寄せは家宰の爺やと、何故かウードの下に行っている。「爺や」「何でしょう、ウード様」「何で私は父上の執務を手伝っているんだろうね?」 所変わってこちらは執務室。 ウードと爺やが執務を執り行っている。ウードの目には隈が見て取れる。 爺やは書類を置き、ウードの方を見る。「何でも何も、フィリップ様が執務を放り出しがちなので、ウード様の講師をする時間が取れなくなりそうだと申しましたら 『じゃあ、私が爺やの執務を手伝うよ。父上が許可してくれたらだけど、少し早い実務訓練だと思えば、減った分の講師の時間も補えるだろうし』 と仰ったからではありませんか。まあ私もまさかフィリップ様が許可なさるとは思いませんでしたが」「私も父上が許可するとは思わなかったよ」 結局のところ、ウードの自業自得なのであった。 フィリップが娘馬鹿になったのも大元を辿ればウードがあまりに世話を掛けない子供だったからであると言えなくもない。 何だかんだ文句を言いつつも、爺やの指導のもとで執務を続けるウードであった。 国内法や領内法を参照にして住民からの陳情を処理し、家長のフィリップの判断が必要なものはフィリップに回すという仕事を通じて、ウードは現在のシャンリット領の様子を知って行っている。「しかし、ウード様。随分と顔色が悪いですが、大丈夫ですか?」「……問題ないよ。気になるというなら、水の流れを操って隈くらいは隠すけど」「いえ、そこまでして頂く事ではありません」 実はウードはこうして執務を行う傍らでも、足元から〈黒糸〉を垂らして、その〈黒糸〉の拡張と王立図書館の所蔵物の写本を継続して行っているのだ。 疲れが見て取れるのは、精神力の回復する間もなく魔法を行使し続けているせいである。 夜は夜で、昼間に写本した本を通読しているので、本当にいつ休んでいるのか分からない位だ。 母エリーゼが「たまには休みを取って趣味にでも充てなさい」と言っても、趣味の時間には色々な物質の構造や物性を『ディテクトマジック』で調べているのでどの道、ウードは四六時中魔法を使っている事になる。 8歳にしてここまで魔法や知識の習得に傾倒するのは、異常である。 まるで何かから逃避しているかようだ。具体的には眠ることから逃げているように思える。「なあ、爺や」「何でしょう」「……。……いや、何でもない」 最近は執務手伝い中に、ウードが唐突に爺やに話しかけて、視線と手をさ迷わせては「何でもない」というのが通例となっている。 爺やの方も、それ以上は追求しない。 執務室は再び、羊皮紙を捲る音とペンを走らせる音のみになる。 そのままその日はフィリップが戻って来るまで、いつも通りの執務手伝いの時間が過ぎていった。◆ 双月が輝く夜。 シャンリット家の邸宅の庭の片隅にあるウードの研究室“洞窟(グロッタ)”にはまだ光が灯っている。 ウードは机の上に広げたグラフを見ている。 それはここ2年間の重力加速度の増減を表したものである。「減ってる、な。最初は誤差かと思ったけど」 元々は重力加速度を決定するために計測をしていたのだが、計測器を精密にしていくに従って、1ヶ月単位で極々微小な差が生じていったのだ。 気になって双月が南中する時間に継続して記録を取り続けた結果、2年間継続して重力加速度は減少を続けていたと判明したのだ。 しかも、シャンリット内の領地各地で例外無く減少していた。「ふむ。重力加速度の減少か。魔法がある時点で物理法則が違うかも知れないが、あえて仮説を立てるとするなら……。 地軸の歳差運動で遠心力が変動している、未知の巨大な遊星がハルケギニア星に近づきつつある影響、巨人が『レビテーション』を大地に掛けている、観測誤差、張り巡らせた〈黒糸〉の影響……」 机から離れて標本の中を歩き回るウード。 日々増えていく結晶、生物液浸標本、骨格標本、写本の類は案外綺麗に纏められている。 地上部分に収まりきれなかった部分は研究室“グロッタ”の地下拡張部分に収められている。「歳差運動は、他の星の動きを見るに却下。 未知の巨大な遊星というのも不明。電波望遠鏡などで観測するまで保留。 巨人の『レビテーション』は巨人の存在が実証できないので不明。 観測誤差……は否定出来ないが、継続して減少してるし……。 いや、器具自体が『レビテーション』の力を帯びたとか? 鉄が地磁気を帯びたみたいに?」 うろうろと考え事を続けるウード。 薄暗い中をうろうろ、うろうろ。「確かに観測器具は2年間変えていなかった。 この一帯に何かあるのか、それとも〈黒糸〉の影響か……。でも、地下も地上も空中も特に何もないぞ。 いや、もっと深い、のか? ……先ずは実験器具を一新して、あとは、地下にもっと〈黒糸〉を伸ばそう」 思い付きと次に行うべき行動をグラフの端にメモし、頭を切り替える。程なくして地下800メイルの辺りで増加し続ける風石溜りが見つかるのだが、それは数日後の話である。 机の前に座り、グラフの書かれた紙を片付ける。羊皮紙ではなくて、ウードが『錬金』した紙である。 ウードは自分の属性を“炭素系特化”と定めたようで、日々新たな物質が無いかと、身の回りの物を『ディテクトマジック』で調べては、性質を調べている。「地下の標本庫や写本書庫が一杯になって来ているのは、まあ、また拡張すれば良いか。 検索用の魔道具か何かが今後必要になるかも知れないな。 今度、師匠に何か無いか聞いてみるか」 ウードの言う“師匠”とは、父フィリップの紹介で2年前に引き合わされた王都の土メイジの職人である。 月に一度、シャンリットに招いて、ガーゴイルや魔道具制作の助言を貰っているのだ。 写本用ゴーレムのガーゴイル化によって、作業ラインが増えたため、写本速度は初期の10倍近くになっている。「あー、あと何だっけ。 図書館にいつ行っても本を読んでる貴族が居るとか王都で噂になっているとか、師匠が言っていたな。 それって多分、私の写本用ゴーレムだよな」 ウードの造形の腕前の向上や色素分子のコレクションが増えたことで、真に迫った、本物と見分けがつかないような人型ゴーレムを作ることが出来るようになったのだ。 その為、当初は夜中に行っていた王立図書館での写本作業を昼間から行えるようになったのだ。 因みに、王都の噂とは“精神を本に呑み込まれた男たちが、失われた精神の欠片を探して本を片っ端から読んでいる”というものだ。 有りうるのが困る。人皮で装丁されたどこぞの魔道書なんかもありそうである。「まあ、あとで写本ガーゴイル(読み取り用)の行動パターンを見直しておくか。 あとは庭園の花壇に植えた秘薬の材料になる植物の生育状況を見回っておこう。いやいや、今日新しく追加された本でも読むかな……」 夜は更けるが、研究小屋の明かりはまだまだ消えそうになかった。◆「師匠。先日の課題として出された『ライト』の魔道具です。 一応、光るようにできましたけど、なんだか光量が安定しないものがあるんです」「んー、原因も特定できない?」 私が今、相談している相手は、マジックアイテム作りの師匠だ。 父上の友人で、マジックアイテム作りに長けているそうだ。 ガーゴイルの作成方法や、それをゴーレムに応用することによる操作負荷の軽減などについての相談にも乗ってもらった。 師匠自身はトライアングルの土メイジで、父上によると王都でも名の知れた職人だそうだ。 友人の誼ということで、格安で家庭教師をしてもらっている。 それだけなら悪い気もするが、まあ、〈カメラ〉やその他、私の子どもらしい(?)自由な発想を見聞き出来て、 それだけでも充分な報酬だと師匠自身は感じているらしいので、私ががあまり気を回しすぎるのも良くないか。「きちんとルーンは刻んだんですけど……」「どーれ、見してみ」「こちらです」 そう言って、師匠に自作の魔道具を手渡す。 師匠はそれを矯めつ眇めつ見るが、首をかしげている。「なー、ウード君や」「なんでしょう師匠」 やはり何か不手際があったんだろうか。「んー、私にはどこにもルーンなんて見えやしやんだが」 ああ、そういう事か。「いえいえ、ちゃんと彫ってありますよ。 発光部の基部にチョッと。ディテクトマジック使ってみればわかりますけど」「んー?」 そう言って師匠は杖を振ると、確かに基部が『ディテクトマジック』に反応して光るのを確かめた。「ウード君や。こんなに細かくルーンを刻んだら、ふとした拍子に魔力が跳び跳びに流れたりして とてもじゃないが安定した出力は出せやしないよ」「え、そうなんですか。そのまま小さくすればいいってわけではないんですね」 魔力の整流にも気を使わなくてはならないということか。確かにそれは必要だろうな。 だが、整流と言っても、そもそも、どういう規則で魔道具内を流れているのかよく分からない。 まず、電圧とか電流みたいに単位みたいなものがハッキリと存在しないし。「こーんなに細かく刻むんだったら、幾つか同じルーンを並べて、一つ二つのルーンが起動しなくても大丈夫なようにするとか、 ルーンを刻むところの材質を変えて、他のところに魔力が逃げてルーンが迂回されないように工夫しないと、ウード君」「複数のルーンを並列に刻むのはやってみたんですが、そしたら何故か急に水が滴りだしまして」 『ライト』の魔道具でシャワーが出るとか予想外にもほどがある。 水はすぐに魔法で蒸発させたけど。「あー、それはルーンを魔力が走るときにジグザグに走っちゃって、変な意味になっちゃったんだろうね。 爆発とかしなかった分、マシだと思うよ。結構、危ないんだから」 ルーンが縦読みされたということなのか!? でも逆に上手く使えば、一つの回路で複数の効果を発揮出来るようになるかも知れない。「いーつも思うけど、こんなに細かく刻まなくても良いんじゃないかな。 ルーンの間に余裕を持ってやれば、君、『ライト』のマジックアイテムくらいすぐに作れるだろう?」「確かに普通の『ライト』のマジックアイテムは作れましたけど。 でも、こういう物は小さく出来るなら小さくした方が良いと思うんですよ、絶対」 重厚長大も良いが、私的に使える物資が少ない現状では、精密加工に走るべきだと思う今日この頃。 ここ数年、物質の構造解析などばかりやっていたせいか、自分が習得している主な魔法も、かなり偏っている。 分子構造解析レベルの『ディテクトマジック』。 ナノレベルで構造制御出来る『錬金』。 〈黒糸〉をマイクロ領域の探針(プローブ)として自在に操れる『念動』。 ……いつの間にか、超超精密加工に特化してしまっているのだ。 水の診療探査魔法も、細胞内部を感知出来るように練習中だし。 まあ、診療魔法は細かく見るだけじゃなくて全体を見渡して体内のバランスをみるというのも重要だからあまり細かいことばかりやっていても片手落ちなんだけど。「まーね。小さくすれば、その分色んなものに組み込めるからね。 このレベルの細かさで、出力も安定させられたら、指輪とかのアクセサリーの台座に組み込んで、宝石を光らせたり出来るかもね」「小さくすれば、その分、製作に使う精神力も少なくなりますし、慣れれば一気に何十個も『錬金』で作れます。 そういったパーツを組み合わせて、複雑なマジックアイテムを作るのも可能なんじゃないかと思うんです」 同じ効果を表すにしても、大魔法を一行程としてアイテムに込めるか、小魔法を複数工程でアイテムに込めて大魔法と同じ効果を出すかというアプローチの違いである。 ハルケギニアでは、前者のマジックアイテムが主流、というか全てである。 だが、私はランクの制限から後者のアプローチを取らざるを得ない。 前世の知識から、家電や電子回路などのイメージが強く残っているという理由もあるのだが。 モジュール化したものやパーツを組み合わせるという認識が強いのである。「むー、パーツを組み合わせるなんて前例があまりないから、悪いけど僕じゃあそっちについては助言できないなあ」「参考資料とかないですかね?」 今のところ、写本の中にはそういうアプローチの本は無かったのだ。「えーと、済まない、この間から時々探してみてるんだが、見つからないんだ。 同業者の集まりでも聞いてみたんだが、心当たりはないそうだよ」「そうですか」 まあ、王立図書館の蔵書に無い時点で、あまり期待はしていなかったが。「でーも、僕を含めて、そのやり方に興味を持ったような奴らも何人か居たから、 そいつらも含めて手探りで進めていこうとしてるよ。しばらく時間はかかるだろうけど」「そうですか、それしかないですね。……では師匠、今後もよろしくお願いいたします」 コツコツ研究を進めていくしかないか。 でもまあ、他の人の手も借りられるなら、一人でやるよりは格段に早く進むだろう。 今後に期待、である。 あ、資料管理・検索用のインテリジェンスアイテムやガーゴイルが無いか、聞いてみようかな。 地下書庫の管理用に欲しいんだが。 聞いたら直ぐに資料の場所を答えてくれるような、こう近未来的なインターフェイスが良いな。 王立図書館では実用化されてそうだけど、写本作業中には見かけたことはないな……。 まあ、司書が全部の蔵書を把握してるとかだろうか。 いちいちインテリジェンスアイテムを準備するよりはコスト的に良いのだろうし、あそこの司書長職は世襲らしいから雇用維持の側面からもインテリジェンスアイテムやガーゴイルに置き換えるのは難しいのかもしれない。「あー、それは良いんだが。ちゃんと寝てる? 隈、すごいよ?」「……大丈夫です」◆「ウード」「何でしょう、母上」 ウードが師匠から講義を受けた後に廊下を歩いていると、その足音に気づいて部屋から出た母エリーゼが声を掛けてきた。 エリーゼは懐から杖を取り出し、優雅に振るう。「『ヒーリング』」「あ……」 穏やかな淡い水色の光が、ウードの全身を包む。 体内の水の流れを整える魔法が、ウードの疲労を取り去っていく。「あまり無理をしてはいけません。一体何をそんなに悩んでいるのです?」「……。何でも有りませんよ。『ヒーリング』有難うございました」「こら、待ちなさい。私にも話せない様なことなのですか?」 さっさと去ろうとしたウードをエリーゼは引き止める。 まあお茶でも、と言いながら、出てきた部屋にウードを引きこむ。 部屋に控えていた侍女にウードの分のお茶を淹れるように命じると、椅子に座る。「母上、あの、午後の爺やの講義が」「サボりなさい。さあ、じっくり、お話ししましょう?」「う……」 自分の母から立ち上るオーラに、思わずたじろぐウード。 蛇に睨まれた蛙状態の母(蛇)と子(蛙)。 侍女が淹れたウードの分のティーカップが置かれ、コトリと音をたてたのを切っ掛けに再び時が動き出す。 ぎくしゃくとウードがエリーゼの前に座る。「あなたの育てたハーブを使ったお茶よ。少し私が手を加えたから、軽い回復魔法薬みたいに働くはずよ」「……いただきます」「ウード、最近魔法を使い続けているでしょう? その上、寝ていない。 魔法を使い通しなのに精神力が尽きないのは何故か。それは極度の興奮・緊張状態にある所為ね。 恐らく、あなたの身体に起こりつつある変化についての不安もあるのでしょうけど」 ウードが母の最後の言葉に顔を上げ、目を見開く。「母上、知っているのですか……?」「まあ、ずっとフィリップの『変容』を抑えてきたのは私ですからね。 あの人はそんな事は全然知らないけども」 悪戯気にエリーゼは微笑む。「水のエキスパートに、体調のことで隠し事は不可能よ? いざとなったら、私が抑えてあげるから。そんなに不安に思わないこと」「……はい。ありがとう、ございます」 涙ぐむウードはそれを隠すように一気にハーブティーを飲み干す。 野性味のある香気が鼻孔を満たす。 伯爵夫人が飲むにはワイルド過ぎる味だ。ウードの為にわざわざ用意していたのだろう。「まあ、話は終わり。じゃあ、爺やの所に行ってらっしゃい。 “訊きたい事”はちゃんと訊くのよ? 先延ばしにせずに」「はい。行ってきます」 椅子から立ち上がり、侍女が開けた扉に向かってウードは歩く。「でも、母上も無理はしないで下さいね。 この『大変容』を父上と私の2人分も抑えるなんて、いくら母上でも無茶です。 これはそれほどに強力な呪いです。自分の事は、自分で何とかします。 有難うございました」 そう言って、ウードは廊下を『フライ』で飛んで行った。「……全く、あの子ったら。たまには親らしいことさせなさいよ」 そう呟くエリーゼを残して。◆ 講義の時間になったのにウード様がまだいらっしゃいません。 まあ、奥様から「今日は遅くなるかも」と伝えられていますので、そろそろいらっしゃるとは思うのですが。 あ、いらっしゃったようです。 扉が開いて、ウード様がこちらに歩いてこられます。 心なしか顔色も朝より良くなっているようです。奥様が治療されたのでしょう。「爺や。遅くなってすまない」「いえ、問題ございません」「単刀直入に訊きたいことがある」 何やら決然としたものが顔から伺えます。 何事でしょうか。「祖父のことだ。答えてもらう」 ウード様の言葉を理解した瞬間、私の呼吸は確かに止まりました。「嘘は言うな。絶対にだ。 “祖父はまだ生きている”な?」 なんと、何故、ウード様がその事を。「生きているんだな、やはり。 変容し、ヒトの皮を捨てて、狂気に塗れて館の者と領民を殺して、生きてるんだな!?」 私の蒼白な顔色から答えを察したのでしょう。捲し立てながらウード様が近づいて来ます。「蜘蛛になって、ヒトの中身を溶かして啜り、今はアトラク=ナクアの下で糸を紡いでいる……。 そうなのだろう? 爺や、何とか言ってくれ」「どうして、どうしてご存知なのですか……?」 ウード様が近づくに従って、私は後ずさります。「日記だ。先祖の残した日記から読み解いた。 そして、あとは状況の不自然さからだ」 後ずさりすぎて、部屋の壁に背中が着いてしまいました。 聡明だとは思っていましたが、まさかそれだけの情報でこの結論に行き着くとは思いませんでした。 いえ、それでも、幾ら何でも“ヒトが蜘蛛になる”なんて飛躍が過ぎます。 ウード様は尚も私に近づいて来ます。「爺や、祖父は蜘蛛に脱皮する数年前から、夢を見ると言っていなかったか」 ウード様の纏う鬼気が一層強くなります。 まるで、先代様の話は前振りだったと言わんばかりです。「た、確かに、あの事件の日の一年前から、赤目の蜘蛛の夢を……見る、と」「成程、一年か」「まさ、か。ウード様も、なのですか?」 なんと言うことか。 まさか、御年8歳にして、先代様と同じように……?「祖父の没年は64歳だったか。呪いの進行速度が8倍だとすれば、私はもう、2ヶ月も無い計算だな」 やがてウード様はくつくつと顔を俯けて含み笑いで肩を震わせ始めました。「なんと、お労しや……」「くふふふ、まて早まるな、まだ狂ってなどいない。既に対抗策は打っている。呪いの進行速度は正直予想外ではあったが、な。くふふふふ」 そうしてくつくつと笑い続けるウード様。段々と鬼気が強まっていきます。 ウード様の中で決定的な何かが変わってしまったのでしょう。「くふふふふ。何も問題ない。なぁんにも、問題ない。大丈夫、だいじょうぶだ。 まだ私は何も成し遂げてはいないからな。今、ヒトを辞めるわけにはいかん。くふふ」 ウード様は暫く笑い続けました。 そうしているうちに落ち着いたのか、またこちらに目を向けます。 光の加減でしょうか。ウード様の瞳が、不吉に真っ赤に輝いたように見えました。「それで、祖父の最期の言葉くらいは聞いているのだろう? 教えろ」 確かにフィリップ様を王都から連れ帰った時、屋敷の異常に気付いた私は先行して屋敷内へと突入致しました。 そこで大蜘蛛に変化していた先代様と、そうとは気づかずに魔法を交わしている内に、一瞬だけ先代様が正気に戻られました。 そして、最期に一言私に託し、先代様は森の方へと跳ね去って行かれたのです。「最期に『シャンリットを頼む、フィリップを支えてやってくれ』と一言だけ。 その後は正気のうちにアトラク=ナクアの下へ向かわなくては今以上に被害を出してしまう、と跳び去って行かれました」「……そうか。ありがとう。父上には祖父の最期は伝えてないんだな?」「はい、フィリップ様にはお伝えしておりません。王政府にも、誰にも。私しか知る者は居ません」 あの後、先代様の葬儀、フィリップ様の伯爵位継承やフィリップ様とエリーゼ様の結婚式など立て続けに大きな行事が重なったこともあり、先代様の身に何が起こったのか気にする者は居ませんでした。「分かった。真実を話してくれてありがとう。 ……今日の講義は明日以降に回してもらっても良いか? 色々と考えたいことがあるんだ」「はい、その方が宜しいかと」「ああ。では、また明日。これからもよろしく頼む」 ウード様はそう言い残すと直ぐに飛び上がり、『念動』で窓を開けると庭の研究室へと飛んで行かれました。◆ 爺やに祖父の事を聞き糺した翌日。 久しぶりによく眠れた所為か、体が軽く、頭もすっきりしている。もう、悩みについては吹っ切れた。 くふふふふ。この上もなく良い気分だ。今ならラインスペルでも何でも使えそうだ。 昨日、爺やの話を聞いて確信が持てた。 このシャンリットの血には、深淵の谷の蜘蛛神“アトラク=ナクア”の呪いが開祖以来染み付いている。 開祖がアトラク=ナクアの毒を受けても、かの神の眷属に変化しなかったのは、僅かにその呪いの発現を――『大変容』を遅らせていたに過ぎなかったのだ。 だから、時が至れば、蜘蛛神の眷属に変化してしまう。しかも、子孫にその呪いは血を介して遺伝してしまっている。 『大変容』を起こした先祖たちが残した日記からは、アトラク=ナクアが夢に現れてから数ヶ月から数年で、完全に蜘蛛に変異してしまうということが読み取れた。 私の場合は、残り2ヶ月もないだろう。 通常ならば。 だが幸いにして、私は、自分の体内に張り巡らせた〈黒糸〉のお陰で、自分の体に起こりつつある変化をかなり早い段階から知ることが出来た。 蜘蛛に変異しつつある身体の内側を、〈黒糸〉で物理的に繋ぎ留め、水魔法も併用して『大変容』を抑える目処が立っている。 ドットメイジのままでは、その成功確率に不安が残っていたが、もしも、今日、この時点でラインメイジに昇格できたというのならば、あと少なくとも10年は蜘蛛化の呪いを抑えることが出来るだろう。 これまで以上に急いでコトを進めなくてはならない。私がヒトの姿を留めていられるうちに。◆ 月に何度か有る父上との魔法訓練の時間に、物は試しとラインスペルを使ってみたら、成功した。 父上に非常に喜ばれた。「おお、凄いじゃないか、ウード!」「いえ、まだまだです。修練が必要です」「いやいや、8歳でラインなど、そうそう居るものではない。期待しているぞ! これでシャンリット家も安泰というものだ」 8歳にしてラインとは天才だと言われたが、まだまだだと思う。 それに早熟なだけで、きっと20に成る頃には只の人ですよ、父上。 まあ、20までこの身体が持つか分からないのですが。 だから、「伯爵家の跡継ぎとして、俺が磨いた近接格闘技術も教えないとな!」なんて言わないで下さい。 少なくとも体が出来上がり始める年にならないと、危ないでしょ? まだ8歳のモヤシっ子ですよ?「何、エリーゼから聞いているぞ。 既にかなり筋肉も付けているそうじゃないか」「母上がそんな事を?」 ……昨日『ヒーリング』を掛けられた時に同時に診察されたのだろう。 私が自分に肉体改造を行っていることは分かっている、と。「でも、ほら、父上。 父上が得意なの得物は剣杖でしょ。 私の得物って鞭だし、今から他のに持ち替えるのも……」「何、問題ない。 学んでもらうのは魔法と合わせた足運びとか間合いの取り方とか、『硬化』を用いた防御とか、そういう基礎技術からだ。得物は関係ない。 むしろその他は実戦形式の訓練で補う」「……お断りします!」 そう言って、私は脱兎の如く逃げ出した。『ウードは逃げ出した!』『フィリップの魔法!“晶壁”!ウードの目の前に水晶の壁が現れた!』『ウードは“ブレイド”を唱え、鞭を振るった!“ブレイド・ウィップ”!水晶の壁が切り裂かれた!』『フィリップの魔法!“晶壁”!ウードの目の前に水晶の壁が現れた! フィリップの魔法!“晶壁”!ウードの右手側に水晶の壁が現れた! フィリップの魔法!“晶壁”!ウードの左手側に水晶の壁が現れた! フィリップの魔法!“晶壁”!ウードの背後に水晶の壁が現れた!』『ウードは囲まれてしまった!ウードは逃げられない!』『……』『訓練内容に“近接格闘術・基礎”が加わりました』 まあそんな感じで結局格闘訓練を受けることになってしまった。 ……父上は土のトライアングルで二つ名は“晶壁”。 水晶の錬金が得意で、近接戦闘に定評が有るメイジだったそうだ。 特に一対一の戦いに強く、水晶の壁を自在に生成して足場にして縦横無尽に駆け抜け飛び回ったり、水晶の弾幕を飛ばしたり、相手を水晶漬けにしたり……。 母上に聴かされた話によると、父上が戦う姿はキラキラしててとてもカッコよかったらしい。 ……まあそりゃ見栄えは良かろう。 父上は魔法の才能の開花が遅かったらしく、十代の頃は専ら体力を鍛え、格闘訓練に精を出していたとか。 しかし、軍で母上に初めて会った時に、一目惚れ。 まるで雷に打たれたような感覚がして、頭が真っ白になって気づいたらいつの間にかドットからトライアングルに成っていたそうな。 ……一目惚れでランクアップとか。物語の中の話だと思っていたが、実在するとは。 しかも母上の話に拠ると、この時の刺激に反応してか父上の身体の『大変容』が母上の目の前で一気に進行したとか。 母上が変容のことを知っていたのはその所為か。身体の中の水の流れが、ヒトではありえない形に変わっていくのが目の前で展開されれば、優秀な水メイジならば気が付くだろう。 そして、『大変容』に興味を持ったのを切っ掛けに母上は父上自身にも興味を持ったそうだ。 因みに、父上はその場でプロポーズしたらしい。 それにしても一気に2ランクアップって非常識にもほどがあるだろう、父上。 いや、むしろ母上の魔性の美貌を褒めるべきだろうか? 母上にはこのとき既に婚約者が居たが、なんと父上はその婚約者と決闘して母上との結婚の権利を勝ち取ったとか。 もちろん、父上にも名目上の婚約者は居たらしいが、こちらはあっさり婚約破棄できたらしい。 その決闘の際に用いたのが『晶壁』の魔法であり、決闘場を水晶の壁が隙間なく囲った様子からその決闘は『クリスタル・デスマッチ』と呼ばれ、今でも軍の語り種なのだとか。 ……本当なのだろうか。 というか、未だに私が母方の祖父母に顔を合わせてないないのは、略奪愛だったからなんだろうな。 決闘を行って体裁は整えたけど、母上の実家的には歓迎出来ないだろうし、半ば駆け落ちみたいなものだったらしいし。 少なくとも、母上の実家とその元婚約者の家の二つは敵に回してるんだろう。 母上の実家って結構大貴族だったとか聞いたような気がするんだ。確か公爵? ああ、領内を通る商人の数が、ご先祖様の日記に書いてあるのよりの妙に少ないのもその所為か! 公爵家から圧力掛けられてるのか! 経済封鎖されてるって、これ、かなり厳しいのでは……? まあ順当に考えれば、父上が誠心誠意謝るしかないのだろうし、向こうも経済的に圧力をかけてこちらに頭を下げさせるつもりだったのだろうが……。 だが、今現在、別にシャンリット伯爵家は困窮していない。 私が密かに魔法の練習がてら土壌改良したり、街路を補強したおかげか、そこそこ豊かになっている。 亜人の被害もいつの間にかというか、私がハイペースで亜人どもを実験材料に使ううちに無くなったし、治安も改善している。 商人が少ないのは、こんな辺境の地だから元々といえば元々だから、あまりダメージになっていないのかも知れない。 父上も圧力に負けないように独自に領内の商会を支援して、領内の産業の育成や物流の活性化に力を入れている。 最近漸く、領内に限ってならその商会の商売も軌道に乗ってきたところらしい。 まあ、それも結婚してから、母上自身のコネと領地経営の知識あっての話であり、父上ひとりだけじゃどうにもならなかっただろう。 母上との結婚が原因なのだから、母上の力で解決したところでプラマイゼロだが。 母上のコネは、大貴族の令嬢だけあってかなり広い。 学生時代の友人とかだけでも、結構将来有望なエリートが多いらしいし。 友人たちも、まさか母上が辺境の田舎伯爵の元に駆け落ち同然に嫁にいくなんて予想してなかっただろうけど。 そこで縁が切れてもおかしくは無いが、母上には対軍規模魔法『集光』(極太レーザー)がある。 例えば母上が「虹が見たいわね~」と言えば、それは即ち「『集光』で薙ぎ払うぞ」という意味である。 本人にその意図がなくても周囲はそう捉える。 ……まるっきり恫喝だが、ハルケギニアでは力あるものは正義なのである。 領内の物流の掌握には、私が〈黒糸〉を張り巡らせる過程で作った、領内の詳細な地図が大いに役に立ったそうだ。別に、私が提供したわけではないのだが、勝手に持ち出されてしまっていた。 父上や母上は時々、私の研究小屋“グロッタ”に有るものを見ては役に立ちそうなのを見繕っているらしい。 カメラの件で味を占めたのだろうか。カメラは現在、シャンリット領のちょっとした特産だ。 まあ本当にバレちゃまずい資料は出入口を隠蔽した地下書庫に封印してるから、いくら資料を漁られてもいいけれど。 例えばゴブリンのメイジ化研究のレポートや、シャンリット家の血筋に掛かった、アトラク=ナクアの呪わしい祝福についてなどは、地下に封印してある。 というわけで、まあ、今のところは父上が無理に母方の実家に頭下げる必要もないそうだ。 そういう訳なら気にしないでおこう。私は研究に専念したいし。 ……放っておいても大丈夫だよな……? まあ、余裕があれば何か手を打っておくべきかな。税収が増えるに越したことはない。 労働力としてゴブリンが使えるようになったら、工場や農場でも作って働かせてみるか。 領地や領民が豊かになることに越したことはないのだ。領内の治安維持の意味でも。衣食足りて礼節を知るという奴だ。 さて、私に残された時間は決して多くない。 少なくとも10年。長くとも、20年、といった所だろうか。 魔法の腕前がトライアングルに上がれば、それよりも長い時間、『大変容』を抑えることが出来るだろうが……。==================================2010.07.18 初出2010.09.27 修正この話が一番修正激しいかも。自分の血統に宿るものを正確に認識したことで、ウードの狂気は加速します。最大正気度を90下げる代償に9のPOWを獲得し、メイジとしてのランクも上昇しました。そんなイメージです。