それはまるで壁だった。 空から落ちる黒金の弾雨。 人外の勢いで迫る千に近い超鋼の拳。「――――っ」 息を呑む。 幻夢郷の魔女、ルイズ・フランソワーズは戦慄する。 これが妄執の果てに鬼と化した、異世界の軍人の力か、と。 避ける――否。回避などこの身の矜持が許さない。 逃げる――否。逃走など以ての外。そんなものは辞書にも載ってない。 受け止める――応! 逃げも隠れもしない。 それが夢の国の女王たる自分に相応しい。「ああああああっ!! 来なさい! 受け止めてやる!」 ルイズは全身に意力を巡らせる。 すぐそこまで迫った千手の超鋼の拳を前に、新たな強化外骨格やその他の手段の現実化(クリスタライズ)は間に合わない。 生身で受け止めるしか無い。(――大事なのは、確信) 信じること。 自分があの護鬼の攻撃を受け止められるのだと、確信すること。 それこそが、この夢時空では最も重要なこと。 決意と共に、ルイズの中で力が巡り、周囲に溢れ出す。 『極零』の二つ名の影響を受けてか、ルイズの周囲の気温が急激に下がる。 速度を零に。 角運動量も零に。 何もかもを零の――虚無の彼方に置き去りに。 零下――いや、絶対零度に向けて、周囲の温度が急降下する。 超冷却はルイズが意図してやったことではなかったが――今後の戦闘を左右する、大いなる偶然であった。 何もかもが停滞させられたルイズの周囲で、空気が文字通り物理的に凍りつく。 湖面の決闘場の表面が、冷気に触れて一瞬で凝固する。 そこに超鋼の拳雨が飛来――。 ――そして着弾。 微かに響いた結晶が割れるような、 しゃん、 という清澄な音と、水柱の轟音と共に、全ては水煙と砕氷の向こうへと消える。◆◇◆「やったか!?」 『夢のクリスタライザー』の呪力を用いて具現化した強化外骨格『雹』に身を包んだ護鬼・佐々木武雄は思わず叫ぶ。 だがそれも無理からぬ事。 彼は全く以て手応えを感じていなかった。 それゆえの疑問。 一体決着は付いたのか、どうなのか。 四界の視界は完全に遮られている。 常ならばこの程度の霧など問題にせず、気配を手繰って敵を見つけることなど造作も無い。 この佐々木武雄にすれば、眼に見えるものより、眼に見えないもののほうが余程慣れ親しんだモノなのだから。 だが、着弾寸前に膨れ上がったあの魔女の闘気、いや凍気が全体を覆っており、ルイズ・フランソワーズの本体を見つけることを至難としていた。 あたり一面を覆うこの霧ともダイヤモンドダストともつかない粒子は、明確に佐々木武雄の感覚を遮断していた。(まるで結界……、いや、まさに結界なのか) あの一瞬で、おそらくあの魔女は、こちらの攻撃を無効化するなり受け止めるなりしてそこから逃れ、そして逆に結界を張り、佐々木武雄の感覚を狂わせているのだ。 そのせいで、未だにあの魔女に叩きつけた拳は感覚を取り戻さない。 それどころかそこに千の触手があることすら感じない。 ――感覚を取り戻さない? 存在さえも感じない?「ま、さかっ!?」 佐々木武雄は強化外骨格『雹』の背に生えた幾百本の触手を目視しようと自分の目の前に動かす。 だがしかし。 目の前には何も現れず。 周囲の霧も小揺るぎもしなかった。 つまり――「うおおおおおお!? 【夢のクリスタライザーの守護者】の腕が!?」 そこには触手の群れも何も無い。 取り込んだ【夢のクリスタライザーの守護者】の触手を生やしたはずの背中には何も無い。 だから感覚もないし、霧も動かないし、――魔女を潰した手応えもなかったのだ。「砕かれたのは、奴ではなく『雹』の拳だったというのか!? しかし超鋼を一体どうやって砕いたというのだ!? 霧が邪魔だ! 昇華弾!」 混乱しつつも周囲の氷霧を払うために、『雹』は鉄をも蒸気と化する昇華弾を乱射する。 昇華弾による急激な気温の上昇によって周囲の霧が晴れるのと、その昇華弾の一つにルイズの超冷凍の攻撃が衝突し相殺するのはほぼ同時であった。 超高熱と極低温の相殺作用によって、空間が砕けるような音と共に周囲に衝撃波が生じる。「昇華弾を相殺!? むぅっ、超鋼を砕いたのはこれか!?」 『雹』の超高熱の昇華弾を打ち消したのは、極低温の水球であった。「超凍結冷却液。どうやらその超鋼は、冷気には弱いようね。とても脆くて、砕き易かったわ」「ほざけ、魔女め!」 霧の晴れた湖面の決闘場に、無事なルイズの姿が露になった。 彼女は凍気によって脆弱化した『雹』の拳の雨を、逆に砕き返すことで生還したのだった。 いや、彼女ならば、凍気によって脆弱化させずとも、超鋼の強化外骨格を破壊できたかも知れぬ。 それほどの凄味が今の彼女にはあった。「だから何だというのだ! 斯様な水鉄砲など、分かっていれば、もはや当たる訳も無し!」「ふン。そんなの当たるまで撃ち続けるだけよ。イザとなればこの湖面全てを超冷却液に変えてあげるわ」「ならば今直ぐそうすれば良い――出来るものならばな!」 佐々木武雄の鬼気が強くなる。 それに呼応して、密林の中にポッカリと空いた境内に広がった湖面を、周囲の木々が侵し始める。「これは……!?」 逆侵攻。 マングローブの漂木(ヒルギ)が広がるように、あるいはまるで植物が歩むように根を伸ばして領域を広げ、ダイヤモンドダストが舞う湖面を狭めていく。 ルイズの心象風景である風渡る湖が、佐々木武雄の心象風景であるあの南海の密林によって塗り直されていく。「無害だろうと思って放っておいたが、この湖面が儂の邪魔になるのだというならば、再び侵蝕するまで」「ハ、今まで三味線弾いてたってこと? 嘗められたもんね。大体、その気になれば化学兵器で滅殺できるくせに」「そもそも戦術神風が効くような身体とは思えんがな、貴様。それに、戦術神風など使えばタルブ村にも被害が出るだろう。あれは敵味方の区別なく瞬殺無音。故に使用せぬ。逆に言えば、この密林結界を用いるということは、今この瞬間、お前を認めたと言い換えることも出来る。極零の魔女よ。もはや手加減はせぬ。全力だ」 ざわざわと書割が入れ替わるように、密林が『雹』の姿を覆い隠す。 密林は距離感を狂わせ、佐々木武雄の姿を隠して幻惑し、四方八方から声を反響させてその居場所を掴ませない。 南海にて失踪した佐々木武雄が自らのフィールドとして選んだのは、やはりと言うべきか、南海の密林。「一体何処に――」「せいっ!」 密林から『雹』が飛び出し、ルイズに打撃。「きゃ!?」「それ、それそれそれっ!!」 触手の展開を止めた『雹』は、彼にとって慣れ親しんだジャングルの中を飛び回り、次々とルイズに打撃を加えていく。 密林におけるゲリラ戦法こそが、彼の真骨頂であった。 全身を打撃力にして、『雹』がルイズを打ち据える。「ぐ、う、うぅ!?」「良く耐える」「このぉ! そっちかぁ!?」 ルイズが手を振るう度に、全てを凍てつかせる超凍結冷却液が発射される。「無駄だ。この密林が儂を守ってくれる」 しかし、それら全てはジャングルの木々に遮られて届かない。 ジャングルの木々が凍ってガラス細工のようになって砕け散る。 しかも凍って砕けた木々の空隙は、直ぐに侵蝕する密林によって埋め直される。 そもそも、高速で機動する『雹』を捉えるのすら至難の業。 ましてや彼は、そこら中の密林迷路を全て神前の「細道」と定義しているようで、得意戦法であるヒットアンドアウェイを用いること以上の支援地形効果を、密林回廊から得て居るらしい。 佐々木氏は迅雷の如き動きでルイズを翻弄する。 そのたびにルイズの細い体は弾き飛ばされ、徐々に傷が増えていく。「なあ魔女よ。もう諦めないか」 諦めて楽になってしまえよ。 これ以上痛いのは嫌だろう。 諦めて、その世界移動の力を儂に貸してくれよ。「儂に、任務を果たさせてくれよぅ」 頼むから。 積年の未練を果たさせてくれ。 『夢の卵』を、あの九段の靖国に奉納させてくれ。 佐々木武雄は囁くようにしながら、ルイズに一撃一撃、拳を重ねていく。「諦める、もんですか……!!」 歯を食いしばって丸くなって、ルイズは猛攻を凌ぐ。「私は、絶対に、諦めない!! 諦めこそが人を殺す。諦めない限り、たとえ那由他の彼方の可能性でも、実現する。させて見せる! もうすぐそこに、夢が、夢の世界があるのよ! 絶ぇ対にっ、諦めてなんてやるもんかぁっ!!」 身を丸めて防御体制を取っていた彼女は、縮められたバネが勢い良く伸びるようにその身を広げる。「再々結界――! 世界よ、私の世界よ、ここに顕現せよ! 『夢のクリスタライザー』よ、どうか力を……!」 彼女の祈りが届いたのか、ルイズを中心に、弾けるようにして、また湖が広がる。 彼女の意志力と引き換えに、彼女の風と水の王国が顕現する。 僅かに半径2メイルの狭い空間に過ぎないが、彼女は自分の意志を通した。「ほう、よくやる。儂の密林結界の侵蝕を跳ね除けるとは」 佐々木氏がルイズの人外の精神力に驚嘆する。「化物だな。その精神力。――それだけに挫き甲斐がある」「化物、ですって?」 顔を憤怒とも悲哀ともつかない表情に変えて歯を食いしばるルイズ。 その彼女に向かって、密林から湖沼に、影が躍り出る。 それは拳を振りぶった強化外骨格『雹』。 ――だけではない。 その後ろに人影が更に一つ。「“……”」「むっ!? 生きておったか、小僧!?」「“……”」 連なる影は、天誅五束の雷光の中へ消えたはずの強化外骨格『零』。 デルフリンガーの意思を内蔵した超鋼を纏うはガンダールヴ・サイト。 『零』はこの密林の中でこの機会を伺っていたのだろうか。 ゼロの超鋼は黙して語らない。 しかしその行動は、雄弁にその意志を物語る。 即ち。「ぬぅ!? 組み討ち――足止めか!?」 ルイズに迫る『雹』の脚を取り、身を挺しての足止め。 雁字搦めにして、エクゾスカル『零』は『雹』を逃さない。 『雹』が『零』に押さえこまれて、空中で失速する。 そして、その隙を逃すルイズではない。「超凍結冷却液射!! 私を化物と呼ぶなぁっ、鬼め!」 全てを凍てつかせる超凍結冷却液が、足止めされた『雹』の上体に激突。「しまった!? 赤熱化――、間に合わん!?」 遂に命中した必殺の凍球が、佐々木武雄の上半身を完全に凍てつかせる。 瞬時に赤熱化して抗しようとする佐々木氏だが、それは凍結を上半身に留める程度しか効果はなかった。 そして下半身は『零(ゼロ)』によって拘束されている。目の前の怒れる魔女の攻撃を避けるすべはない。 一方、佐々木氏のセリフの何か(・・)が勘に障ったのか、ルイズは激昂していた。「私は――、化物じゃない! 私は人間だ! 私は私の意志がある限り! たとえガラス瓶の培養液に浮かぶ脳髄が私の全てだったとしても! きっと巨大な電算機の記憶回路が私の全てだったとしても! あるいはこの身が異形と成り果てようと――」 今やルイズは可憐で妖艶な夢の女王ではなかった。 その姿は変貌していた。 護鬼を討ち滅ぼすに足りるだけの悍ましさと恐ろしさを備えた、彼女の本質的で本来的な姿に。 翼が生えて、鱗に覆われた恐ろしい化物(・・)のような姿に。 魔風すら制する烈風と、激流を受け止める清流の力を受け継ぐ、有翼半魚の異形の姿に。 忌まわしい、しかしどう仕様も無い彼女の本能の姿に。 鋭い爪と堅い鱗に覆われたルイズの腕が、凍った佐々木武雄を砕かんと、後ろに振りかぶられる。「――私は、人間だっ!!」 音を引き裂いて、異形のルイズの掌が護鬼・佐々木氏が纏う強化外骨格『雹』に炸裂する。「ぎ――!?」「砕け、散れぇっ!!」 完全に氷結した『雹』の上半身は、それに耐えられずに、全体に罅を入れて砕かれながら、『零』に組み付かれた下半身を置き去りにして吹き飛んだ。 凍った上半身を吹き飛ばされた『雹』の凍っていない下半身から力が抜けて倒れる。 有翼半魚の異形と化したルイズは立ったまま。 それが勝敗を物語っていた。 この場は――護鬼と魔女の『夢の卵』争奪戦は、極零の魔女ルイズの勝利だ。 だが、彼女の顔は、泣きそうに歪んでいた。 まるで護鬼の方ではなくて彼女の方が、童に追われた鬼のようだった。 人間と仲良くなりたくて泣く、孤独で寂しくて恐ろしい鬼のようだった。「私は人間よ……。たとえこんな姿になろうとも……、人間なのよ……!!」「いいえ、化物よ」 サラサラとした声が、ルイズを打ち据える。 それは誰の声でもなかった。 護鬼・佐々木武雄でもなければ、ガンダールヴのサイトでもなく、魔刀デルフリンガーでもなければ、シエスタでもなく、もちろんルイズでもなかった。 しかしその声は、ルイズの声にそっくりだった。◆◇◆「いいえ貴女は化物よ。ルイズ・フランソワーズ」 賢しら(さかしら)な蛇の鱗を思わせるサラサラした声が響く。 声の元は、ルイズの眼下。 残された『雹』の下半身に組み付く、強化外骨格『零』から、サラサラと声がしていた。「……蛇」 ルイズの呟きに応じたわけではないだろうが、サイトに纏う『零』の装甲が、まるで蛇のトグロを解くようにして剥がれていく。 サイトから剥がれ落ちた元は『零』であった鎧の残骸は、途中で魔刀デルフリンガーを零れ落とし、代わりに『雹』の下半身を取り込んで、じゃらじゃらと空中に巻き上がる。 鎧で出来た蛇は、サイトをゆっくりと湖面に横たえる。それはまるで大切な宝物を扱うかのようだった。 縄状に解けた強化外骨格『零』の下から現れたサイトの姿は、少し筋肉が付いている以外は平素と変わらない。 つまり、サイトの全身を取り巻いていた蛇の刺青が、消滅していた。 今空中にトグロを巻く鎧の蛇は、まるで刺青から抜けだしてきたかのように思える。「貴女は化物だ。ルイズ・フランソワーズ。幾ら人間のフリをして、人間の味方をしようとも、貴女は既に化物よ。人間の範疇には無い、化け物」 じゃらじゃらと、サラサラと蛇が囁く。 まるで楽園の人間に堕落を唆す蛇のように。 智慧の樹に巻きつく蛇のように。 ルイズの精神をへし折って成り代わるために、蛇は囁く。 茫洋とした瞳で、有翼半魚の異形となったルイズは、その鎧蛇を見返す。 護鬼に「化物」と呼ばれたことは、彼女の心にそれほど深い傷跡を残していた。 元から、護鬼と闘うために意志力を燃やしていた彼女は、今現在消耗し、その鋼鉄の精神を弱体化させていた。 そして蛇はそれにつけ込み、傷口を押し広げる。 人間の力には、限界がある。 それを飛び越えたお前は、最早人間とは言えぬ。 そう囁く、蛇の奸言。 じゃらじゃらじゃら。「もう一度言うわ。“お前は既に化物だ”。お前は、貴女は、ルイズ・フランソワーズは、既に十全に化物よ」「……。……なるほど。強化外骨格『零』を操って、さっき護鬼を足止めしたのは、サイトでもデルフリンガーでもなく、アンタだったのね。私の分霊……」「ご賢察。流っ石は私の本体!」 じゃらじゃらじゃら。 空中を不規則な軌道でうねる蛇が肯定する。 何時の間にか、『零』の展性チタン合金をベースにした蛇の体は、しなやかな鱗に覆われて翼が生えた姿に変わっていた。 その胴体は大樹のように太く、身の丈は数十メイルもあるような、巨龍のような威風堂々たる蛇。 さらさらさら。 ケツァルコアトルスを思わせるような翼蛇だ。 朱鷺色の羽根に覆われた翼と、腐り蛇のような毒々しい紋様の胴体を持つ翼蛇(ククルカン)。 密林で佐々木氏をスニークしたのは、サイトではなくて、彼の身体に取り憑いていたルイズの分霊翼蛇の方だったらしい。「私の愛しいサイトも、彼の愛刀デルフリンガーも、さっきの護鬼の天誅五束の衝撃で、未だに夢の中。まあ、余剰の電撃の威力を私が喰らって(・・・・)あげたから消し炭にならずに済んだのだけれど」「……蛇は貪欲と狡猾を象徴する。なるほど。その貪食の性質で、佐々木氏の雷撃や、私が与えた強化外骨格『零』や、残っていた『雹』の残滓を喰らったのね……」「そうよ。なかなか美味しかったわ。でも、感謝して欲しいものね。私のお陰で貴女はあの護鬼に勝つことが出来たのだから。ねえ、夢の国の化物」「……私は、化物じゃないわ……」「嘘おっしゃい。貴女は化物よ。正真正銘の。自分でも気づいているんでしょう?」 さらさらさら。 しゅるしゅるしゅる。 翼蛇が有翼半魚のルイズに巻きつく。 楽園の智慧の樹に巻きつくように。 そして蛇は囁く。 彼女を堕落させるために。 そう、ルイズとて気づかないわけではない。 自分の目的が帯びる矛盾性に。 邪神連中が気に入らないと。 必ず封じて追いやって滅ぼしてやると。 そう言ってはいるものの。 その為には、その邪神たちを上回る力を用いないといけないわけで。 毒を用いて毒を制す、というか。 邪神で以て邪神を追いやる、というか。 万に一つそれを自分だけの力で成し遂げたとしても、それではその最後の時には自分は、滅ぼしたい邪神の輩と全く以て変わらない有様に成って果てているのではないか。 怪物と戦う者は、自分も怪物にならないよう注意せよ。 深淵を覗き込むとき、深淵もまたお前を覗き込む。 力をつけて、あの知識欲に塗れた蜘蛛の千年教師長を駆逐したとして、自分と彼との間に一体どれほどの違いがあるというのだろうか? 邪神(あいつら)が嫌いだと癇癪を起こす自分と、知識が欲しいと世界を蚕食する蜘蛛男の間に、果たして如何ほどの違いがあるというのだろうか? 先程は、脳髄だけになろうとも、コンピュータに人格を写したとしても、それでも人間だと威勢を――虚勢を張ってみたものの、真実そうか、と、他ならぬ自分の分身から糾弾されれば、自信が揺らぐ。 魂を微細炭素繊維からなるネットワーク型マジックアイテムに移し変えた、あの千年教師長ウード・ド・シャンリットを糾弾する資格は、この夢の国の異形たるルイズ・フランソワーズにあるというのだろうか? 自分の行いは本当に正しいのか? 別に今の世界は、表面上は正常に回っているではないか。 それを壊すことに何の意味が? 後から後から、心の、魂の内側から、自問する声は増えていく。 彼女を支えてきたのは、強大な精神力と、理性。 だが、度重なる魔術の行使によってルイズの意志の力が弱まった今、ルイズの理性が、蛇の口を借りて、ルイズの在り方に――存在意義(レゾンデートル)に矛盾を突きつける。 それが蛇がルイズを惑わせて弱らせるために選んで用いている邪言だとは分かっていても、ルイズは耳をふさぐことは出来ない。 精神に流し込まれる蛇の毒に抵抗出来ない。 繰り言を、聞いてしまう。聞き入ってしまう。「虚無遣いだなんて望外の力を持っておきながら、さらに幻夢郷(ドリームランド)に巨大な王国を築き、様々な呪物を蒐め、人外の魔術で魂を分けて――」「……やめて……」「――それでも貴女、まだ人間のつもり?」 びしり。 何処からかそんな音が聞こえた。 それは緊張に耐えかねた空気が割れた音だったのか――、 あるいは、ルイズの精神に罅が入った音だったのか。 蛇がルイズのような顔で嘲笑う。 ルイズは気力の萎えた様子で罅割れたような顔で力無く笑う。「……ハハハ。五月蝿いわよ。所詮分身のくせに。分際を弁えなさい」「オリジナルを超克してこその複製品でしょう? 私が代わってあげるから、貴女は退きなさいな、ルイズ・フランソワーズ」「……それでどうするのよ。私に成り代わって何をするというの? 劣化品」「あははっ。簡単よ! 私、幸せになるの!」 蛇がルイズから離れて、彼女の頭上に環を描いて宙を舞う。 地に足つかない様子で空を舞う。 浮かれたように、熱に浮かされたように、宙空で踊る。「……幸せ?」 ルイズがきょとんとして、思わず蛇に問い返す。 あまりにこの場にそぐわない、場違いな言葉が聞こえたような。 今、あの蛇は“幸せ”と言わなかったか?「そうよ! 愛しいサイトと一緒に、ずぅっと幸せに暮らすのよ! だから貴女は邪魔なの! 世界のことなんかほっぽり出して、二人で小さな領地を買って、お屋敷で末永く暮らすのよ。まるで御伽話の終わりのように! 『二人は見事結ばれて、末永く幸せに暮らしました』ってね。淫靡で爛れた愛欲の日々を送るのよ。きっときっと蕩けるような幸せな日々だわ! 幸福で脳髄が蕩けてしまっても構わない。魂が溶けて混ざり合って、永遠に一つになって、ずっとずっと一緒に過ごすのよ。私とサイトで!」 蛇が哂う。 幸せな日々を夢見て陶然と笑う。 高笑いしながらぐるぐると空を回る。 ルイズはまるで全ての力が抜けたかのように動けない。 想定外のまさかの連戦で、実際に力は底を尽きかけている。 強敵に勝利し、積年の夢がもうすぐ実現するという瞬間の、精神の空隙に差し込まれた蛇の声は、ルイズの根幹を侵していた。 突きつけられた自己矛盾によって彼女の精神は、その身に背負った理想による重みによって自壊しそうになっていた。「……そういえば、アンタのことは、サイトの魂を私のもとに連れてくるために造ったんだっけね。『夢のクリスタライザー』が手に入った今、もう、アンタの役目は消滅したわ」「ふふふ。あの護鬼の攻撃で弱った半死半生の貴女なんか、強化外骨格を一つ半も喰らって吸収した私の敵ではないわ」 ハハハ、と、虚ろな――昂揚した――二重の笑い声が響く。「成程――」 「つまり――」「いざ事ここに到っては――」「――最早貴女(アンタ)は用済みだ――」「――いっそこの場で千切れて消えろ!!」 翼蛇が高速で空中を疾駆して、哄笑しながらルイズに迫る。 水と風の化生としての本性を表した有翼半魚の姿のルイズは、虚ろな瞳で、だらりと鱗に覆われた腕を吊り下げる。 『夢のクリスタライザー』を、また従者(ガンダールヴ)のサイトを、そしてルイズ・フランソワーズという全存在を掛けて、タルブ村の戦いの、最終局面――開始。◆◇◆ 闘いはのっけからルイズの防戦一方で展開した。 終始ルイズは受けに周り、翼蛇に全く反撃をしない。出来ない。 そんな気力が存在しなかった。 彼女の意思が挫けつつあるのを確認して、翼蛇はニンマリと笑う。「あははっ。ねえ、疲れているのでしょう? 先の見えない邪神たちとの戦いに。ウンザリしているでしょう? 夢の国に引きこもって自分の世界に耽溺したいとは思わないの?」「……っ! 私には、やることがあるのよ。そんな暇はないわ」「嘘! 実はもう疲れきっているくせに。私は貴女の分身なのだから、お見通しよ。貴女のそんな素直じゃないところは、直した方が良いと思うわ」「何を分かった風な口を……。自信満々で傲慢なアンタを見てると、虫酸が走る。“幸せになる”だなんて、乙女みたいなこと言って、どうかしてるわ。私の分霊のくせに」 お互いがお互いを自己嫌悪。 全く自己嫌悪で忙しい。 蛇の突撃(チャージ)を受けて、ルイズが密林の中の木々をへし折って吹き飛ばされる。 半ばから折れた木々の残骸の合間を縫うように、朱鷺色の羽根の翼蛇が飛来する。 またバカの一つ覚えみたいに体当たりか、と当たりをつけて、ルイズはクロスアームと丸めた翼を重ねてガード。 しかし、蛇はルイズの横を通り過ぎる。 そして空を疾走する蛇は行き掛けの駄賃に、その尾でルイズを絡め取る。 瞬間、猛烈な電撃がルイズを襲う。「きゃぁあああああっ!?」「あはははははっ! どうかしら? さっき充電した天誅五束の雷鎚の味は!?」 全てを喰らう貪食の蛇であるところの翼蛇は、『雹』から『零』に放たれた気象兵器・戦術天誅五束撃の威力を、『零』の内側で吸収し、蓄電していた。 それを、絡め取ったルイズに向けて開放したのだ。 オリジナルの天誅五束撃に劣るとは言え、それは連戦で弱ったルイズを瀕死に追い込むには充分過ぎる威力であった。「――か、かはっ、ひゅっ――」「満足に呼吸も出来ないみたいねー。でも安心して。ちゃぁあんと、心臓マッサージしてあげるからぁぁああ!」 変異したルイズの異形の腕から、焦げた鱗が剥がれ落ちる。 息も絶え絶えなルイズを尾先に握り、翼蛇がびゅるん、とそれを振り回し、周りの木々や地面に叩きつける。 そしてついでとばかりに、振り回しながら電流を流す。「13万ボルト絶叫電撃(エレキシャウツ)、アーンド、10億ビート!! 刻め心臓の鼓動!」「が、ぎぎ、ぎ、ぁあああ――!?」「ああ、でも貴女ってちゃんと心臓あるのかしら? 化物だし、その辺どうよ?」「ぐぁ、ぁあ、あ、あ、あ、わた、し、は、ニン、ゲン、よ! ぐぎ、ぎぁ――!?」 ルイズの身体が猛烈な勢いで振り回され、周囲の樹をへし折り、斜面を陥没させてゆく。 小さな彼女の身体に加えられたダメージは如何ほどの物だろうか。 翼蛇は、祠のある丘を覆う密林を駆けずり回り、引き回して、ルイズを散々に振り回して叩き付けつつ、遂に最初に対峙した祠の前の小さな湖にまで帰って来た。「う、うぅ……」「ん~、そろそろ下拵えは良いかしら。電流で弱らせて、叩きつけて柔らかくしたしー。あはは、それにしても、歯応えが無さ過ぎるわよ? 不抜け過ぎも良いところなんじゃない?」「くぁ、なん、これ、え、力が、吸われて、奪われて……?」 巨大な力が、ルイズの方から翼蛇の方へと流れ出していることに、漸くルイズが気づく。「漸く気づいたの? ポテンシャルは貴女のほうが高いんだろうけれど、逆に言えば、それは力が低きに流れ易いということ。適切なパスを作ってやれば、同属性の私の方に力が流出し放題、という訳。接触を許したのが貴女の敗因ね」「最初の突撃は、その、下準備……?」「その通りー。じゃあ、吸える分はもう吸ったし、後はその出涸らしを飲み込んで噛み砕いて磨り潰すだけねー」 ぽい、と蛇がルイズの身を上空に放り投げる。「おやすみ、化物。夢の底で眠りなさい」 簡単に弔辞を述べて、蛇が大きな口を開けて落ちてくるルイズの元に飛来する。「私は……、人間よ……。そう、よね?」 誰に向けるともなく、空中のルイズが呟く。 しかしそれに答えるものが居た。 この場に臥していた黒髪の従僕が、朦朧としながら立ち上がろうとしていた。「しらねーよ」 霞がかった頭でサイトは答える。 彼の身体は未だに痺れ、周囲の状況を把握するどころではない。 それでも彼は、彼女の問いに答えた。 使い魔と主人は運命の軛で結ばれている。「ルイズは、ルイズだろう。ゼロのルイズ。俺のご主人様」 彼の言葉は、落下する彼女に届いたのか、届かなかったのか。 翼蛇が愛しのダーリンを見て、身悶える。「いやぁん、サイト。そっちじゃなくて、私を見て! あ、でも、食べてるところは恥ずかしいから、ちょっと眠ってて。『眠りの霧』よ、サイトを眠らせて!」 『スリープ・クラウド』の魔法が、サイトの意識を再び刈り取る。「待ってて、サイト。直ぐに“ルイズ・フランソワーズ”に成り代わってしまうから。そうすれば、ずっとずぅっと一緒よ! うふふふふふふふ――じゃあ、いただきマース!」 翼蛇が、それ以上は愛しいサイトの言葉をルイズに聞かせまいと、嫉妬に駆られて加速。 大口を開けて、ばくり、とルイズの身体を呑み込んだ。 翼蛇の胴体が蠕動し、ルイズを呑み下していく。 ――が、途中でピタリと翼蛇は動きを止める。 蛇の内側でルイズが暴れて抵抗しているのか、蛇の身体のルイズが居ると思われる場所が人の腕の形に中から突かれて膨らんだりしている。 ルイズが最期の力を振り絞って抵抗しているのだ。「ぐ、この、往生際が悪い……! 抵抗、するなっ」 翼蛇が身を捩りながら天に昇る。 そして密林結界の上に飛び上がるそれを追って、一つの小柄な影が林冠から飛び出してくる。 それは生物的な曲線を持った黒光りする鎧であった。 より正確には、罅が入って砕けつつある鎧の上半身。 護鬼・佐々木武雄が纏う『雹』の残骸。 右手に軍刀を持ち、左手一本で木々の枝を掴んで跳躍する姿はまるで、悍ましい妖怪のようであった。「おおおお!! 魔女よ、助太刀致す! よもや自らの分身に負けるなどという無様を許すつもりではあるまいな!?」 枝を掴み、しならせて、その反動を利用して『雹』の残骸が跳躍する。「加速、噴射!」 ジャングルの林冠を超えてからは、『雹』の残骸は、背後から噴射剤を猛烈に噴き出す。 そして宙を一直線に蛇の方へと向かう。「こ、の、死にぞこないの異世界人め!! 老害! 叩き落としてやる!」「漁夫の利を許すつもりはないぞ! 儂が敗けたのは魔女であって、貴様ではない! 蛇め、かっ捌いてくれる!」 翼蛇は尾をくねらせて螺旋のバネのようなネジのような体制になり、『雹』を迎撃せんとする。 一方の佐々木氏の上半身は、軍刀を大上段に構えた体制で、背後のバーニアを噴かせてさらに加速。「おおおお!!」「来なさいっ」 翼蛇が螺旋型にタメた身体を、猛然と突き伸ばす。 射程は圧倒的に翼蛇の方が長い。 一瞬で蛇の尾が、佐々木氏に迫る。 次の瞬間。 ドリルのようにひねりを加えられた必殺の一撃が、『雹』の胸の中心を貫いた。「ふン、死にぞこないの残骸め。ついでだ。ルイズ・フランソワーズを消化したら、お前も喰らってやる」「……ふはは」「何が可笑しい」「つ か ま え た ぞ」 ドロリと呪言のように『雹』から声が漏れる。 固まりかけの血液のようなその言葉に、翼蛇はゾッと鱗を逆立たせる。 急いで尾の半ばくらいまで刺さっている『雹』を遠心力で吹き飛ばそうと尾先を振り回す。「離れろ、亡霊!」「無駄だ! ……ええい、何処だ、魔女よ!? 返事をせんか!」 佐々木武雄は自らの体幹の筋肉を締めて、抜けないようにがっちりと蛇の胴体を固定。 そして翼蛇の内部のルイズに呼び掛ける。 その時、呑まれたルイズがボコボコと翼蛇の腹の中で暴れ、自らの居場所を示す。「くそ、ルイズ・フランソワーズ、大人しく吸収されとけっ」「そこか!?」「ああもう、貴様も、もう死ねっ! すぐ死ね! 疾く去ね! 私とサイトのラヴラヴ計画を邪魔するなっ」 翼蛇の中でルイズが暴れる。 空中で翼蛇が暴れる。 『雹』の残骸が、軍刀を握った右篭手をルイズが暴れたあたりに向ける。「瞬脱装甲弾、右篭手限定!」 そして瞬時に、右篭手が猛然と発射される。 強化外骨格の伏せ札、瞬脱装甲弾。 装甲を猛然と弾けさせて散華するため、その後着装者は無防備となる、正に奥の手。 本来ならば指を伸ばした貫手の形で瞬脱されるはずの右篭手は、軍刀を人外の執念と握力で握りこんだ佐々木氏の右拳ごと引きちぎって流星のごとく空を駆ける。「な、ロケットパンチ!? くっ!?」 驚く翼蛇は、急いで回避。 神刀を握った孤拳は、その勢いのまま彼方に飛び去る。「は、ははは、残念、外れよ! よくも驚かせてくれたわね! でも避けられては意味ないわ!」「……鋭利過ぎる切断面は、瞬時容易には開きはせぬ……」「何を――ぅぶっ!?」 回避しきれていなかった。 蛇が身悶えし、奥の手の成果を確信した『雹』が脱落する。 そして遂に翼蛇の腹が神刀の一閃により裂ける。 その中から現れるのは――。「ぐぁあああ!?」「――ぅらああああ! 私は、私だ! ルイズ・フランソワーズだっ!!」 夢の国の女王ルイズ・フランソワーズ――新生。◆◇◆「私は私よ! 良いことを言ったわ、私の従僕、平賀才人! “ルイズはルイズ”、確かにその通り! ――って寝てるわね、サイト。まあいいわ。礼は後でしましょう。期待しておきなさい」 蛇の臓物色に染まった彼女は、彼女本来の幼く可憐な姿。 たとえ血の色に染められようと、その意志力の輝きは隠せるものではない。 威風堂々、明鏡止水。 烈風と清流の申し子ルイズ・フランソワーズ、ここにあり。「ぐ、しぶとい!」「ふン。最早私は十全よ。ついでにアンタの臓腑の幾つかをかき回して引きちぎってやったわ。もう敗ける気はしない」「だから何だというの!? こっちだって後には退けないのよ!」「知ってるわ」 翼蛇の胎内からまろび出たルイズは、風を操ってふわりと眼下の湖面に降り立つ。 それと同時に、清澄な風が吹き抜け、密林結界に侵食された境内を、再び静寂な湖畔に塗り替える。 ルイズ・フランソワーズは、万全であった。「来なさい、いえ、還ってきなさい。私の分身」 柔らかくルイズ・フランソワーズが微笑む。 翼蛇はその柔和な雰囲気に戸惑う。「今更、何を」「王者には寛容さも必要よ。許すつってんの。今ならね」「馬鹿いってんじゃないわよ」「ハ、私がこう言うとは予想できなかった? アンタの貪食と狡猾の性質は、私をオリジナルに進化発展させたものでしょう? じゃあ、どうして私がそんなことを言うのか分かるわよね?」「……つまり、欲しくなった、と。ある面でオリジナルを上回る翼蛇たる私のことが」「ご賢察。流っ石は私の分霊」 ケラケラとルイズが無邪気に陽気に笑う。 貪欲で強欲なルイズは、自分とは異なる方向に発展した翼蛇のことを取り込みたくて仕方が無くなってしまったのだ。「ふざけるな! 私とサイトの恋路には、貴女は邪魔なのよ! 障害以外の何モノでもないわ!」「その独占欲、紛れもなくアンタは私の写し身ね。ああやっぱり。ならばそして」 ざわざわと湖上の空気が変質する。 ルイズの長いピンクブロンドの髪が、悍ましい気配を孕んで逆立っていく。 逆光と髪の影で、ルイズの表情は窺い知れないが、きっときっと三日月のように哂っているのだろう。 翼蛇は戦慄し、緊張に耐えられず、驀地に策も無しに大口開いて全力で突撃を仕掛ける。「蛇よ、アンタも良いことを言ったわ。“オリジナルを超克してこその複製品”。成程なるほど、その通り。そして複製品の利点は何処にあるか知っているかしら?」「――ガアアアアアアアアア!!」「それはズバリ、複製できること。量産できること。つまり――」 逆立っていたルイズの長髪が、彼女の意思を受けて変容する。 ピンクブロンドの髪は、同じ色の羽に。 別れた髪の束は、複雑な紋様の蛇の身体に。 即ち、朱鷺色の翼と腐り蛇の胴を持つ九頭の翼蛇に。「複製変容術式『九頭龍』。アンタの体内(なか)から、アンタのことはようく観させてもらった。解析は既に完了している。量産することなんて訳もない。じゃあ――」「メデューサめ! 化け物め! ヒドラめ! もう一度喰らって殺る!」 最後の力を振り絞って迫る翼蛇。 ルイズが蛇髪を揺らめかせながら、胸の前で手を合わせる。 従僕サイトから習った異国の簡素な食前儀礼。 ルイズの髪が変じた九頭の蛇が、牙を露(あらわ)に翼蛇に向かって口を開く。「――いただきます。そして、おかえりなさい。お帰りなさい。お還りなさい。私の分霊」 ばりばり、むしゃむしゃ、ごくん。◆◇◆ 一仕事終えたルイズは、九頭竜の蛇髪を解除し、境内の片隅に来ていた。 そこにあるのは、護鬼の成れの果て。 右腕を失い、罅に覆われた『雹』の上半身。「佐々木殿。ご助力感謝いたします」「…………、魔女か。その様子だと、勝ったようだな」「はい。貴方のお陰で」 驚くべきことに、そんな有様になっても、佐々木武雄は生きていた。 数十年の執念がなせる業か。 あるいは彼を基点として敷かれた密林結界が彼を生かしているのか。 それは定かではないが、とにかく、護鬼・佐々木武雄は生きていた。 そんな佐々木氏に向かって、ルイズが軽く握った手を差し出す。「なんだ? 飴玉でもくれるのか?」「……貴方の祖国への忠誠と、天下無双の勇猛さに敬意を示すとともに、いままで神宝『夢のクリスタライザー』を守護して頂いたことと、さきほどのご助力に対する感謝として――」 ゆっくりと、ルイズの掌が開かれていく。 それと同時に、輝きが掌の隙間から漏れる。 護鬼が目を見開く。「おお、おお! こ、これは――!!」 ルイズの掌の中には、黄色く輝く鶉の卵のような形と大きさのクリスタル。 中からは雛の鳴き声のような、微かな夢笛の音。 まるで『夢のクリスタライザー』の小型版のような、それ。「『夢のクリスタライザー・レプリカ』。オールド・オスマンの魔法のような業子(カルマトロン)の複製には至らなくとも、実物が目の前にあれば、私でも『夢創』の魔法で劣化品くらいなら創ることが出来ましたわ。もっとも、今はこの大きさが精一杯ですが」 ルイズがほぼ全身全霊を尽くして、夢の大帝ヒプノスに代わって創り上げた、『夢のクリスタライザー・レプリカ』。 彼女の人外の精神力を以てしてもそのレプリカは、体積にして千分の一ほど、性能にいたっては万分の一にでも届けば良い方という惨状だ。 しかし、神の持ち物を曲がりなりにも複製できるという時点で、ルイズの人外っぷり化物っぷりは極まっている。 それについては、彼女は「誰に何と言われようと、我を通す!」と開き直りの決意をしたようであるが。 『夢のクリスタライザー・レプリカ』を手に、ルイズが朗々と詠唱する。 彼女が詠唱するのは、ハルケギニアの魔法。 時空を越える魔法。 失われたペンタゴンの一角。 この場を形作る佐々木武雄の妄執を縁として、彼方と此方を繋ぐ『世界扉』の虚無魔法が起動する。 拳大の小さなゲートの向こうに見える景色は――。◆◇◆ 蜘蛛の巣から逃れる為に 20.桜吹雪の九段坂◆◇◆「おお……! うぉおおお! あれは、あれはまさか……、靖国の、九段の桜か!?」 護鬼の目から涙が零れ、声が感激に潤む。 ざわ、と『世界扉』のゲートを中心に春風が『夢の卵』を奉った丘を駆け巡る。 ただ風が駆け巡るだけではない。 一陣の日本の風が吹き抜けた後、そこに見えるは桜色。 まるで佐々木武雄の心の有様を反映するように、密林結界が、晴れやかな桜色に塗り替わる。 桜。桜。桜。 丘を覆っていた常緑の密林の面影は、もはや無い。 見渡すかぎり一面の桜の花と、そこから溢れる桜吹雪。「貴方の執念が繋いだゲートです。ならば、繋がる先は、貴方が知っているはず」「おぉ、おぉ、おぅ! 感謝する、魔女よ! かたじけない!」「この『夢のクリスタライザー・レプリカ』は差し上げます。レプリカとこのゲートは、私からの餞です」「かたじけない、かたじけない、かたじけない! 千の言葉を尽くすとて、万の感謝を述べたとて、とてもこの想い伝えきれぬ!」 さらさらと、強化外骨格『雹』が崩れていく。 桜吹雪に包まれて、一陣の風となっていく。 祖国のために、鬼になってまで命数を永らえさせた軍人が、仲間の魂が祀られた靖国のお社に向かって。「ああ、そこに見えるのは隊長殿か? 水島上等兵も、おお、同期の武田も居るじゃないか! 今すぐ行くぞ……ああ、懐かしい、懐かしいなあ!」 彼の目には、きっと戦争で散っていった仲間たちの魂が見えているのだろう。 佐々木武雄は、泣きながら桜色の風になって、ルイズの掌にある『夢のクリスタライザー・レプリカ』に纏わり付いて、それを持ち上げる。 連戦とレプリカ創りと異界へのゲートを作成するのに、極零の魔女の精神力は消耗している。このゲートも長くはもたない。 桜吹雪をはらんだ風となって急いで小さなゲートに飛び込もうとした彼を、呼び止める者が居た。「ひいおじいちゃん!」 夢の祠から飛び出してきたのは、彼がこの地に作った絆。 黒髪黒目の、日本人の血を色濃く受け継いだ、曾孫のシエスタ。 彼女は「行かないで」と叫びたかった。 しかしどうして引き止めることが出来ようか。 積年の未練を果たそうとしている彼を誰が引き止められるだろうか。「おぉ、シエスタ……! すまぬ、済まぬ、しかし逝かねばならぬのだ……!」 佐々木武雄の中にも葛藤があるのだろう。 吹き留まった春風が、黄色い卵円形のクリスタルを中心にして渦を巻く。 果たしてその葛藤を破るのは、境内に踏み入れる足音であった。「ルイズ。言われてた『雹』の右腕と軍刀、回収してきたぜ。つか、この桜、何?」 足音のあるじは、瞬脱装甲弾で彼方に飛んだ『雹』の右篭手と神刀の回収を命じられたサイトであった。 彼は魔刀デルフリンガーを片手に、その身体能力を生かして駆けずり回って、それらを見つけてきたのだ。 サイトの手に握られたそれらを見て、佐々木武雄は覚悟を決める。「さらば、然らば、去らば! シエスタよ!」 ざわざわと、びょうびょうと、桜吹雪が虚無のゲートに向かって吹き荒ぶ。「ひいおじいちゃん!」「さらば、シエスタ! だが、これを限りでは忍びない。第二の故郷タルブへの未練もまた生半なものではない。故に――」「うわっぷ!? 何だ、風が!?」 桜色の風が、サイトの手から強化外骨格『雹』の篭手と神刀を奪う。 『夢のクリスタライザー・レプリカ』と、祠の中の本家本元の『夢のクリスタライザー』が共鳴するように強く発光する。 光は神刀に宿り、また超鋼の篭手を金属鏡へと変形させる。「――分け御魂(わけみたま)。儂が封印した【夢のクリスタライザーの守護者】の力を込めし神刀『夢守』、そしてこの地(タルブ)への未練を込めた超鋼の磨き鏡が、子々孫々に渡ってシエスタたちを護るだろう……」 ざぁ、とひときわ強く満開の桜の枝がしなって揺れる。「かたじけない、ルイズ・フランソワーズ。見事な強化外骨格の扱いであったぞ、才人君! そして、さらばだ、シエスタ!」「ええ、お元気で」 「え、はい、ありがとうございます」 「ぐすっ、うん。さようなら! ひいおじいちゃん!」 一陣の桜色の風が、黄色いクリスタルの卵を核にして、ゲートを潜る。 九段坂の桜吹雪の中へ、任務を果たしに、今、佐々木武雄が帰る。 桜の花びらが散る幻想的な光景の中、何処からともなく歌が聞こえる。 聞こえる歌は「同期の桜」だ。――――貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも 花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう 白銀のゲートが一瞬閃光を放ち、次の瞬間には消えてしまった。 からんがらん、と超鋼の磨き鏡と神刀『夢守』が、ゲートのあった場所に落ちる。 桜吹雪が舞い落ちる中、慌ててシエスタがそれらに駆け寄る。 落ちた鏡は鈍く輝き、桜色を映し返す。 だがそこに見えるのは鏡写しの景色だけではない。 彼の未練が虚無の『世界扉』の魔法を鏡の表面に凝結させ固定化して繋ぎ止めたのだろうか。 超鋼でこさえた護り鏡には、彼が去っていった遠い異界の桜の社が映り込んでいた。――――貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも 花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう=================================気づいてるかと思いますが、原作3巻~4巻の話しを消化中。タルブ村の話とか、惚れ薬の話とか。佐々木の爺さんはプロット当初からこのくらい強い予定でした。蛇さんは多分黄泉帰るはず?アンリエッタ女王(トリステイン&ゲルマニアの様子)とかシャルロット姫(元)とかの様子は、今回に含めたかったのですが、最近SS書く時間が取れなかったのと桜の季節が終わる前にこれを投稿したかったので、次回以降に持ち越しです。2011.04.19 初投稿