壊れた朱鳥居の参道。 晴れやかな桜吹雪が舞い散るそこを、虚無の主従一行がそろそろと下りていく。 参道の階段も護鬼・佐々木武雄との戦闘や、分霊翼蛇との戦闘によって散々に破壊されつくされているが、それはルイズのマジックカードによる『錬金』の魔法で石段が整え直されている。 大事そうに30サントほどの卵型の黄色い結晶のアーティファクト『夢のクリスタライザー』を抱えるルイズ。 そして彼女をさらにお姫様抱っこで抱える、複雑そうな表情でかつ真っ赤な顔のサイト。腰には魔刀デルフリンガーを結わえている。 ルイズを抱えるサイトの後ろには、普段どおりのメイド服姿になって、曽祖父から託された神刀『夢守』と超鋼の護り鏡を持ったシエスタ。「えへへ~。ようやく『夢のクリスタライザー』が手に入ったわ~。嬉しい~」 『夢の卵』を大事そうに抱えるルイズの表情は蕩けきっている。 積年夢見た呪物をようやく手に入れることが出来たのだから無理も無い。 夢の世界において想像して創造した物品を現実世界に持ち出せる『夢のクリスタライザー』があれば、幻夢郷(ドリームランド)に建造された彼女の夢の王国から様々なものを現実化(クリスタライズ)することが出来る。 つまり彼女の精神が許す限りにおいて、あの蜘蛛の眷属たちを瞬間的に凌駕する物量・人員を召喚することすらも可能なのである。 とはいえ、今現在ルイズは、度重なる戦いによって意志力がすり減って、歩くこともままならない状態である。 あと数日は、『たれルイズ』モードで、心の力を回復させなくてはならないだろう。 ガンダールヴにお姫様抱っこされているのにはそんな理由があった。 一方、ルイズの無防備な満面の笑みを至近距離で見ているサイトの心臓は、まるで早鐘のように高鳴っている。(あああ、やばいやばい、すっげえ可愛い。まじかわいい) ――だが、サイトとしては、主人であるルイズに対して複雑な想いをいだいている。 それは、ここ数ヶ月のあいだ夢の世界で蜜月を過ごしてきた、あの翼蛇のことが関係している。 ルイズの蛇髪によって無残に食い散らかされた、あの一途な翼蛇だ。(でも、翼蛇を――俺の魂と混ざり合っていたあの蛇を、ルイズは喰ったんだよなあ……) 自分の中の何かが失われたような、心にぽっかり孔が開いたような、喪失感と悲しみ。 何も喰らうことはなかったろうに。 翼蛇を喰ったご主人様(ルイズ)に対する憤り、反抗心。 目の前の幸せそうな主人に対する、愛おしさと庇護欲。 サイトのぐちゃぐちゃのないまぜの心模様は、決して周囲の桜道のような晴れやかなものではなかった。 従僕の葛藤を見て取ったのか――喰らった翼蛇がサイトの魂に刻んだ残根と、サイトに『カーの分配』で移植した左眼のパスから感情が流れ込んだのか、ルイズがサイトに目を合わせて、彼の首に片腕を回して、まるで頬にキスするくらい近くで囁く。「そんな妙な顔をしないで頂戴、サイト。私のガンダールヴ」 まどろみの瞳で、夢見心地で、吐息が交換されるくらい近くでルイズが囁く。「あなたのイクサバタラキに、私は恩賞を出そうと思うわ。何がいいかしら――」 恩賞。 褒美。 それを聞いて、サイトの脳裏によぎるのは、やはりあの翼蛇のこと。 最初は食欲からサイトを欲し、やがて一心にサイトのことを愛するようになった、あの朱鷺色の翼の腐り蛇。「――ええ、分かっている、分かっているわ。私もあの蛇の一途さに思うところがない訳ではないもの。あの蛇も充分に役目を果たして、サイトを天誅五束の雷撃から守って、護鬼を足止めして……、と、私に刃向かったものの、恩赦を与えるに相応しい働きをしたわ。残酷に喰らうことで、もう罰は、禊は果たされたし――」「じゃあ――」「王者には寛容さが必要よね。だから――」 白昼夢の『デイ・ドリーム』の魔法作用によって濁った目をしたルイズの髪の毛が一房、ざわり、と蠢く。 同時に、彼女が、親鳥が卵を温めるように大事に抱える『夢の卵』が、一瞬燐光を放つ。 『夢創(ドリームクリエイション)』、そして、夢の現実化(クリスタライズ)。 ルイズのたおやかな桃色の髪の毛から生み出されたのは。【サイト! サイトー!】「――復活させてあげるわ、翼蛇(ククルカン)。アンタの一途さと、サイトへの褒美として。サイトに感謝なさいな」 50サントほどの細い体を持つ、一つ目の蛇。 朱鷺色の翼を持つ、派手な紋様の蛇が、ルイズの髪の房から生み出され、パタパタとサイトの周囲を飛び回る。「おお! サンキュ、ルイズ! って、おいやめろ、くすぐったいって!」【サイト! 大好き! これでずっと一緒ね! 人間の身体は手に入らなかったけれど……】「覚醒の世界(ハルケギニア)には、先住の『変化』の魔法があるわ。翼蛇のアンタが充分に力をつければ、人型に変化することも出来るでしょうよ。精進なさい。韻竜でも喰らうのが手っ取り早いでしょうけど」【本当!? やったぁ! 早速韻竜探してくる!】 どこかで青い鱗の風韻竜が悪寒を感じたとか。「良かったな! 頑張れよ」【うふふ、期待してて頂戴。人の姿になったら、あーんなことや、こーんなことをしましょうねぇ】 ミニチュアバージョンで復活した一ツ目翼蛇がサイトにじゃれつく。 サイトの首に巻きつき、桃色の翼で彼の頬を撫でて、細い二股の舌を耳朶に這わせる。 その胴体で、サイトの顔とルイズの顔の間に割り込んで、ルイズの顔を遠くに退けようとする。【サイトに近すぎよ、本体! 離れなさい! 復活させてくれたのには感謝するけど】 「私の従僕なのだから、どうしようと私の勝手よ」 ルイズがそんな一ツ目翼蛇の胴体を掴もうとするが、さらさらと滑る鱗によって上手く掴めない。「この、欝陶しい……。大人しくつかまりなさい」 【捕まるもんですか。私を捕まえていいのはサイトだけよ。だいたい捕まえたいなら、先ずはその夢見の魔法で寝ぼけた頭をすっきりさせてから出直しなさい】 「ふふ、まあ良いわ。復活させたのは別にアンタたちの為じゃないんだから。索敵用に、空を飛べて狭いところにも入っていけるファミリア(使い魔)が欲しかっただけなんだからねっ。まあ後で適当に名前でもつけてあげなさい、サイト」 ツンデレですね分かります。 後ろでその様子を見るシエスタは、若干の疎外感を覚えつつも、仲の良さそうな主従(+パタパタ飛び回る翼蛇)を見守る。 シエスタの手の中の、曽祖父が遺してくれた神刀『夢守』と鈍く輝く桜を映す磨き鏡が、彼女に不思議な温かみを伝えてくる。(『ルイズさん乙女化計画』の成果が着実に……! まあ、さっきサイトさんにぞっこんラヴの翼蛇さんを吸収したから、その愛情が伝染したのもあるんでしょうけれど) それにしても。 シエスタはパタパタとメイド服の胸元を広げて風を送る。 何だか暑くないだろうか。 ……いや目の前でいちゃつく奴らのせいじゃなくて。 もっとこう気候的な意味で。 確か鳥居を潜って祠に向かったときは、まだ若草の季節だったはず。 だが今ではまるで、盛夏のような暑気ではないか。 シエスタのこめかみから首筋を伝って、メイド服の胸の谷間に汗の珠が流れる。 シエスタは桜の間から覗く太陽を見上げる。 太陽は未だ東にあり、まだ午前中のようだ。 ……はて、境内に入ったのは、昼を過ぎてからだったはずなのだが。「……何か、おかしいですね……」◆◇◆ 蜘蛛の巣から逃れる為に 21.時の流れは泡沫(うたかた)の夢◆◇◆「タルブが……っ!?」 桜に染まった境内を降りたシエスタの目に入ってきたのは、衝撃的な光景であった。 自分の故郷たるタルブ村、それがまるで変貌してしまっていた。 あの牧歌的でのどかな光景は、欠片も残っていない。「村が、私の村が――」 土色の田舎道は、何かの吐瀉物や灰をぶちまけたかのような色と風合いに。 豊かな草原は、巨大なクレーターの縁で林立する岩柱を思わせるものに置き換わって。 わらべ唄を歌う子供たちの代わりに、毒気を撒き散らす奇妙な見慣れぬケモノたちが唸りを上げて辺りを闊歩している。「……これは、一体?」【あら、随分な有様ね】「変わりすぎだろ……。何があったんだ?」【おでれぇた】 つまるところタルブ村は―― ――発展していた。◆◇◆「お姉さま! ああ、お姉さま! お姉さま!」 何かの吐瀉物にも思える瀝青(アスファルト)と石灰で覆われた道を、遥かな渓谷のような様相で林立するビルの間から、見慣れぬ者には奇態なケモノにも見える小型の自動車らしきものに乗って、ルイズたち一行のもとに向かってくるのは、ルイズの義妹を自称する金髪ツインテール――ベアトリス・フォン・クルデンホルフであった。 彼女を乗せた車には、キュルケとタバサも乗っているようだ。 そしてその後方の空には、天を駆けるグリフォンが見える。鞍の形や紋章から見るに、近衛のグリフォン隊の所属騎のようである。騎乗しているのは、珍しいことに女性騎士らしかった。 自動車からベアトリスが身を乗り出す。「ああ、お姉さま! そんなにぐったりとされて御労しい。そんな下賤の従僕の腕の中などではなく、直ぐにふかふかの寝床を整えますゆえ!」「ふにゃ? ベアトリス?」「ああ、寝ぼけた様子もまたお美しいですわ!」 車の窓から飛び出して、文字通り飛んでやって来たベアトリスは、シャンリット製のマジックカードを翳し、『夢の卵』を祀っていた祠の麓に、即席の東屋を『錬金』の魔法で造り上げる。 そしてサイトの方を『貴様には勿体無い』とばかりにキッと一睨みして、次に優しく『レビテーション』の魔法でルイズの身体をサイトの腕から取り上げる。 半ば以上夢の中の住人となっているルイズは、ふにゃらふにゃらとされるがままだ。「まるで浦島太郎の気分だ」 ぼそりと、近代的な街並みに変貌してしまった周囲を見回していたサイトが呟く。 ほんの数時間のうちに、この村の様子はずいぶんと変わってしまっている。 サイトのつぶやきをシエスタが耳聡く捉える。「サイトさん、浦島太郎っていうと、『海の底から帰ってきたら地上では何百年も経っていた』という話ですよね」「そうだよ、シエスタ。よく知って――って、ああ、あの曾祖父さんから聞いたことがあるのか」「ええ。ひいおじいちゃんからは、浦島太郎とか、鶴の恩返しとか、幾つか元いた世界の御伽話を教えてもらってました」 即席の東屋の中にベアトリスの手でルイズが寝かせられる。 その周囲を甲斐甲斐しく飛び回るベアトリスの様子を所在なさ気に眺めながら、サイトとシエスタは会話する。 朱鷺色の翼蛇はサイトの首筋に巻きついている。 その蛇がちろちろ動く舌で鋭く誰か女の香りを捉え、後ろに向かって鎌首をもたげて、シューシューと威嚇音を出す。 蛇の威嚇音に釣られて、サイトは翼蛇の向いている方向、つまり自分の後ろを見る。「はぁい、サイト。お久しぶりね」「……探した」 サイトの後ろから近づいていたのは、赤と青のデコボココンビ。 キュルケとタバサ。 凄腕美人メイジ二人であった。 サイトにぞっこんの翼蛇が威嚇音を上げるのも、さもありなんという美少女たちである。「……? 久しぶりって、一日も経ってねえだろ」「何言ってるの。貴方たちがタルブに出かけてから、もう二ヶ月は経ってるわよ。こっちは色々大変だったんだから。ゲルマニアは無くなっちゃうし」「そっちこそ何言ってるんだ? 二ヶ月も経ってるわ、け、が……」 途中まで口に出した言葉は、尻窄みになって消えてしまう。 何時の間にか外界では時間が過ぎ去っている、という現象。 サイトには、心当たりがあった。 幻夢郷と現実世界では時間の流れが異なっているのが通例である。 昔、サイトが地球に居た頃に、レン高原から生身で幻夢郷(ドリームランド)に迷い込んだ時も、時間の流れがちぐはぐになってしまって非常に難儀した。 ……その時にレンの蜘蛛(アトラク=ナクアの眷属の化け蜘蛛)に散々に追い掛け回されたのは、彼のトラウマである。 さて、今まで彼らが居たのは、半ば夢の世界(幻夢郷)と重なり合った桜花結界の内側であった。 ならば、ひょっとして。 サイトの言葉の続きを引き取ったのは、シエスタであった。「まるで……『浦島太郎』?」「……そういうこと、なのか?」 シエスタの言葉によって、ようやくサイトにも事態のおおよその所が把握できた。 気づいたら初夏から盛夏へ移り変わっていた季節。 午後に祠に入って、数時間しか経っていないのに、太陽が一周して午前の位置にあること。 見る影もなく発展したタルブ村。 そして、『二ヶ月間行方不明だった』というキュルケの言葉。 自分たちが数時間を過ごしたのは、夢の世界の桜花結界の内側であったこと……。「幻夢郷と覚醒の世界では、時間の流れが異なる……。俺達は、自分たちがあの『夢の卵』が祀ってあった祠に居たのは数時間だと思っていたが、あの切り離された密林結界と鳥居結界の内側は、現実とは違う時間の中にあったってことか。結界の中で数時間でも、その外では二ヶ月も経っていた、というわけか」「……不思議なこともあるものですね……」 得心した様子のサイトと、呆けた様子で溜息をつくシエスタ。 そんな二人を前にして、キュルケとタバサは疑問符を浮かべて首を傾げる。 ルイズが消耗していなくて正気であったならば、もっと詳しい解説をしてくれただろうが、この場では詮無いことだ。彼女は自分の精神を回復させるために、眠りこけている。「……まあ、いいや。それより、色々と教えてもらえないか? タルブ村がすっかり変わっちまったことや、この二ヶ月のことについて。俺達は、ちょっとハルケギニアとは違うところに居たから、全くわからねえんだ。ゲルマニアが無くなったとか言ってたが、それは一体? あとタバサ、俺たちを探してたってどういうことだ?」「ふぅん? 貴方たちに何があったかは、あとで聞かせてもらえるかしら? 気になるから。じゃあ、先ずは私たちから話すわね。まあ、こっちの話は順番に行きましょう」 長い話になりそうだから、とキュルケが東屋の中に設えられたテーブルに座る。「先ずは、そうねぇ。この村が――もう規模的には街かしら、どうして急に発展したのか、から話しましょうか。そこのメイドさんも気になってるみたいだし」「そうだ。幾ら何でも二ヶ月やそこらでこんなに変わる訳ないだろう」「まあ、それがねえ……。ここ(タルブ)が発達したのは、そこでルイズの世話をしてるクルデンホルフのお姫様のせいよ」「ベアトリスのせい?」 サイトはちらりとルイズの世話をしているベアトリスの方を見る。 キュルケが頷いて続ける。「そう。知っての通り、あの娘はルイズにベッタリでしょう? 貴方たちが急に行方不明になるから、半狂乱になってね。何とか足跡を辿って、タルブに辿り着いたはいいけれど、そこから先は闇の中。仕方ないから滞在しているうちに、あのツインテ娘は勝手に資本投下して、自分が住みやすいように村を改造し始めたのよ。タルブを治めるアストン伯爵にも随分賄賂を渡してたみたいだし」「それでも二ヶ月でこんなになるもんなのか?」「他にもアルビオンからの難民家族の幾つかも住み着いたりしてるみたいよ。『アルビオンの風が“キモチワルイ”から引越して来たんだ』そうよ。空(アルビオン)で何があってるのかしらね?」「アルビオンなあ……。この間ちょっと行ったけど、あんまり良い思い出ないな。キモチワルイってのには同意しとくけど」「まあそれはさておき、ベアトリスの実家の蜘蛛商会には、相当な都市改造のノウハウの蓄積があるからねぇ。造っては壊し、壊すために造って1000年。その積み重ねは伊達じゃないわ。この程度はやってみせるわよ」「半端ねぇな。あとやっぱり系統魔法がスゲェってことか」 言われてみれば、タルブ街のあちこちに、小柄な人影――改良ゴブリンたちの姿が見える。 千年間に渡って経験と知識を蓄積し続ける人面樹と、そこから生み出される、生まれながらに熟練のゴブリンたちだ。 様々な機材を携えた矮人(ゴブリン)の一団が、東屋の直ぐ隣の『夢の卵』の祠があった丘に向かってくる。 彼らは祠があった丘に登り、測量や魔法的な調査を行おうとしているのだろう。 幻夢郷と現実世界が二ヶ月に渡って重なりあって存在していたのだ。 彼らにとっては、例えば荒野のレン高原のような時空重複の場所の秘密を解き明かすための、またとない貴重なサンプルというわけなのだろう。「……そういえば、ベアトリスがここに来てるのはルイズを探すためだとして、キュルケとタバサは一体どうしてタルブに? 学院は?」「学院はもう夏季休暇よ。あと私はタバサの付き添い。ゲルマニアがかなりごたついていて、実家に帰るのが怖い、ってのもあるけど」「そうだ。ゲルマニア。ゲルマニアが無くなったってどういうことだ?」「あー、そう、それよ! ゲルマニアがトリステインに降った(くだった)のよ!」「は?」 ゲルマニアが? トリステインに? というか、戦争状態だったっけ? 軍事同盟結ぶとか、アンリエッタ姫が嫁ぐとか、そういう話が出る程度には友好的だったのでは? ゲルマニアのほうが国力が高いのに、トリステインの属国になるとはコレ如何に。「何言ってるかわからないって顔ね。私もよく分かってないけど……。ゲルマニア皇帝とアンリエッタ姫の結婚式が執り行なわれたと思ったら、何時の間にかゲルマニアがトリステインの属国になっていた、のよ。結婚式は取り止めになって、ね。」「ますます訳がわからねー。洗脳でもされたのか? ゲルマニア首脳陣」「その線が濃厚だとは言われてるわ」「げげー。ルイズから伝え聞くアンリエッタ姫の性格ならやりそうだが……。洗脳から逃れたゲルマニア各地の諸侯は反発しなかったのか?」「したわよ! 散々にね。でもこの二ヶ月間ずっと、その姫様――今は女王様だけどさ、そのアンリエッタ女王が直々に鎮圧に出てきて、そしたら反乱諸侯は直ぐに杖をおさめて臣従を誓ったそうよ。実家に顔を出したら、うちの父であるツェルプストー辺境伯も、『アンリエッタ様こそ、始祖ブリミル以来の正統、真の主君たるお方。その美しさに魅せられては、従わずには居られない』とかなんとか、ぐるぐるした瞳で言ってたわ」「……おっかねえ。魔法おっかねえよ。水の国パネェ」 サイトの脳裏に『誘惑(テンプテーション)』という単語が浮かぶ。 あるいは傾国の美女。 妲己とか西施とか。 ゲルマニア首脳陣や抵抗勢力の洗脳が事実だったとすれば……。 惚れ薬や精神作用系の魔法がある世界なら、それに対する対抗策も取られていたのだろうが、アンリエッタ姫の洗脳は(彼女の実力か、何者かの手引きのせいか分からないが)それを上回ったのだろう。 禁呪『ギアス』や禁制品の【惚れ薬】などが禁止されるには、禁止されるに足りる理由があるのだ。 そして当然、使用実績(・・・・)も。 ハルケギニア6000年の歴史は伊達ではない。 魅了の魔法に因るお家騒動なんて、ちょっと歴史書を紐解けば、子爵家や男爵家の例から、王室の例まで、様々な実例を知ることが出来るだろう。 最も有名なのはトリステインの『魅了王アンリ』だろうか。惚れた平民に『魅了』の魔法が込められたマジックアイテムをプレゼントするくらい、彼は『魅了』の魔法を用いるのに長けていたし、慣れていた。 最悪を想像すれば、アンリエッタ女王が、あの唾棄すべき【這い寄る混沌】の化身の一つである魅惑の【赤の女王】の依代にされたという線も在るかも知れない。 何にしても、今のアンリエッタ女王の心の内は碌なものではあるまい。「だから私はあまりゲルマニアに帰りたくないのよ。みーんな信愛と忠愛に濁った目をしてるんですもの。学院も似たりよったりだし」「学院も?」「女王サマが行幸されてね。それで男連中はみんなアンリエッタ中毒よ。あの女王サマ、全身にコレでもかと『魅了』の魔道具を纏っていたわ。きっと目の玉にも外法で『魅了』を仕込んで魔眼にしてるわね。女生徒は男子より『魅了』の効き目が弱いとはいえ、似たり寄ったり。私やタバサくらいの実力者ならともかく、ドットやライン程度じゃ『深淵』のアンリエッタ女王の魅了の魔眼には抵抗できなかったみたい。男子生徒や男性教師は、アルビオンを攻めるための兵隊に志願して行っちゃったわ」「レイナールやギーシュもか?」「ええ、ほぼ全員ね。残ってる男は、何事にも動じない蛇みたいな目の『炎蛇』と、小娘程度に誘惑されるような歳じゃない学院長くらいね」「アルビオンを攻めるのか。ひょっとしてアンリエッタ女王が、元アルビオン王太子のウェールズ殿下のことを好きなのと関係してる?」「大ありよ。ゲルマニア皇帝との婚姻を破棄して、そのウェールズ殿下を婚約者にして――なんでも随分前に始祖の名で愛を誓った恋文を出していたそうよ。それでそのウェールズ王子と、ラグドリアン湖畔で結婚式を挙げるんだー、ってわけよ。そしたら当然、『アルビオンの正統は我にあり!』ってことで、あの天空大陸に出兵せざるを得なくなるわ。メンツが立たないもの。今では国中で兵隊を募って対アルビオンの為に教練してるわ」「そりゃまた……」 ゲルマニアはトリステインに吸収され、実に数百年ぶりに広大な版図を得た。 かつてトリステインとガリアは『双子の王冠』と呼ばれたが、現代において、トリステインは再び、大国ガリアと互角の力を備えるに至った。 三王家と教権を合わせた、4つの国家を主軸とした古(いにしえ)の秩序が蘇ったのだ。 ……ロマリア宗教庁あたりは、実はこの状況に笑いがとまらないのではないだろうか? ぽん、とキュルケが手を合わせて、話題を転換する。「ああ、そうだ、ラグドリアン。そのラグドリアン湖のことで、タバサは貴方たちを探していたのよ」 青髪の少女タバサ――本当の名前をジョゼット・ドルレアン女公爵という、その彼女は静かに語り出す。 彼女の治めるオルレアン領は、件のラグドリアン湖のガリア側の岸に接している。 そのラグドリアン湖畔で、何かが起きている、ということだろうか。「……手伝って欲しいことがある。『極零(ゼロ)』のルイズとその従者の貴方たちに」◆◇◆ トリスタニアの王宮にて、女王アンリエッタは多くの家臣に傅かれていた。 その隣には、王配となったウェールズ元アルビオン王太子の姿がある。 まだ結婚式は挙げていないが。 現在、旧ゲルマニアとトリステインは、常識では考えられない速度で変革が進行している。 通常であれば、既得権益に囚われて、改革というものは遅々として進まないものである。 だが、ゲルマニアとトリステインにおいて、その権益に与っていた者たちは、一変し、一掃されたと言って良い。 確かに人物自体は入れ替わっていない。 しかし、その内実はどうだ。 主要なポストに就く者たちから、末端の構成員、果ては一国民にいたるまで、彼らは全てアンリエッタという一個人に心酔しきってしまっている。 蜘蛛の商会から先代王妃の身柄と引換に供給された膨大な、正に膨大な量の水の秘薬は、二ヶ月間掛けて全国各地を行幸したアンリエッタ女王一行によって消費され、彼女の姿を一目見た人間の認識を書き換えた。 あらゆる価値基準の一段上に、愛という認識と共に、アンリエッタ女王というものが戴かれることになったのだ。 食前の祈りにおいて始祖と並び称される女王陛下――まさにその祈りの言葉通りの有様だ。 神にも等しい我らが女王陛下、というわけだ。 三度の飯よりアンリエッタ。 朝の二度寝よりもアンリエッタ。 妻や娘や孫よりも、アンリエッタ。 命をかけてアンリエッタLOVE!! あっちに人が足りないから移り住めと言われたら、アンリエッタの為にと故郷を捨てて老人までもが大移動。 国力増進のために魔法を大地や平民のために用いよと言われれば、プライドなど犬に食わせて、アンリエッタの為にとメイジと平民が協力しあう。 判断に迷えば、アンリエッタ様の御美心(みこころ)を想い、国家のために最善の行動を。 狂的な主君への愛に基づいた、大改革。 歴史上類を見ない、大規模で、常識はずれで、スムーズな改革。 既得権益に与るものたちは、アンリエッタにそれを手放せと言われれば喜んで手放したし。 トリステイン国家全土をアルビオン奪還の血みどろの総力戦に耐えうる体制にせよと命じられれば、その期待に応えるために、昼夜を問わず激論を戦わせ、最善の方法を最速で実行せんと努力した。 アンリエッタ=国家。 朕は国家なり。 愛ゆえに、彼らは自らの限界を超えて国家(アンリエッタ)に奉仕する。 アルビオン奪還という至上命題――かつてハルケギニア大陸の王たちが誰も成し遂げなかった難事を完遂するために、かれらは献愛と忠愛の限りを尽くす。 アンリエッタという女王蜂を頂点に戴く、トリステインという巨大な蜂の巣は、アルビオンに侵攻するために、その毒針を研ぎ澄ませ、また蜜を蓄えているのだ。「ふふふ。ようやく国内も一段落しましたわね」「そうだね、アンリエッタ」「全く、叛徒の子孫のくせに。このハルケギニア正統最古のトリステイン王家に逆らうだなんて発想が出てくるのが不思議でなりませんわ。いや、叛徒の子孫は、やはり叛徒に過ぎないということですか」「そうだね、アンリエッタ」 トリスタニアの王城の玉座には、仲睦まじく見える、未来のアルビオン・トリステイン連合王国の王夫妻。 超高圧の深海底のような重圧に満たされたこのトリステイン女王の謁見室で、提灯鮟鱇(チョウチンアンコウ)の夫婦のように、ベッタリと仲睦まじく見える二人。 ウェールズに向かって凪の日の海面のように穏やかに微笑んでいたアンリエッタは、その笑顔を海底の泥のように濁った笑みに変えて傅く臣下の方に顔を向け直す。 女王の微かな体重移動に応じて、玉座が身じろぎ(・・・・)した。「動くな、椅子」 玉座の椅子は、人間(・・)であった。 やや太り気味の中年男性のようである。 その人間椅子に向かって、アンリエッタは水の鞭を振るう。 肉と皮が裂ける音と共に、幾許かの血が飛び散る。 居並ぶ閣僚たちが、人間椅子の男に羨望の眼差しを向ける。「は、ひぃ」「椅子が返事をするか? あぁ? 良いか? 私を失望させるなよ? モット伯。前財務卿のニコラス・フーケ告発の功績に対する褒美に、貴方が自分から『椅子になりたい』と言ったのだろう? ならば、椅子の役目を全うしてみせろ」 今度は椅子の男――王宮勅使のモット伯爵は返事をしない。 椅子は返事をしないものだからだ。 興奮に荒くなっていたモット伯の息が細められ、アンリエッタの水の鞭で裂けた皮は『波濤』の腕前を持つ彼自身の水魔法で修復される。 彼は再び不動の椅子になる。「それで。マザリーニ、報告を」「はっ。我が愛しき麗しの『深淵』のアンリエッタ女王陛下」 気を取り直したアンリエッタが、深海底の泥濘のような笑みで、トリステイン地区暫定総督を務めるマザリーニ枢機卿を促す。 かつての宰相を筆頭に、ヴィンドボナ州知事にして旧ゲルマニア地区暫定総督を務めるアルブレヒト三世などを含む主要貴族たちが、施された改革の進捗状況を報告していく。「――地方自治体構造の再編成と連邦国家として必要な各種法整備の進捗については以上であります。最後に、ラグドリアン湖畔の式場設営の件に関してですが、急激な増水が近隣に被害を与えておりまして、進捗が遅れております。水精霊の交渉役の家に、原因究明と、鎮めの儀式を行わせていますが、かの水精霊は荒ぶっており全く聞く耳を持たず……」「ええ、分かっていますよ。マザリーニ。その件に関しては、とある伝手に――私の信頼できる“おともだち”に解決の依頼を既に出しています。ちょうど彼女には、トリステイン式の由緒正しい式において必要な――ゲルマニア式では省略されてしまいましたが、大切な伝統の役目を依頼しようとしていたところですし。詔を詠み上げる巫女の役目を、ね」「はっ。流石は聡明なる我らが陛下」「密使に出したグリフォン隊のアニエスから、そろそろ報告があるはず。マザリーニ、アルブレヒトは引き続き国内安堵のための施策と辺境開発、およびアルビオン奪還のための軍備増強に努めなさい」「御意。我らの全ては、愛しくも貴いアンリエッタ陛下の為に!」――ヴィヴラ・アンリエッタ!――ヴィヴラ・トリステイン!――我らが愛しき『深淵』のアンリエッタ陛下、万歳! 万歳! 万歳! 万歳! 居並ぶ閣僚たちが唱和し、その響きはやがて王城全体に広がっていく。 謁見室前の衛兵から、廊下を歩く使用人、厨房のコック、庭師、出入りの商人、陳情に来た市民や諸侯、官僚たち、皆がアンリエッタを称える。――ヴィヴラ・アンリエッタ!――ヴィヴラ・トリステイン! 城に居る全ての者達が、アンリエッタを称え、そして自らの献愛に酔い痴れていく。 それは神に捧げる信仰の恍惚にも似ていた。 盲愛、献愛、偏愛、忠愛、臣愛――。 あらゆる形のあらゆる愛があらゆる国民の心の奥底から捧げられ、自家中毒を起こし、恍惚のうちにトリステインをアンリエッタ色に染め上げていく。◆◇◆ タルブの祠の丘の隣の東屋。 そこでタバサは自分の身元を明かし、サイトたちに対して、ある案件についての助力を申し出ていた。 その“ある案件”とは――。「要するに“タバサが治めるオルレアン公爵領が、ラグドリアン湖の増水によって浸食されているから、その解決に『極零』のルイズの力を借りたい”ってことか?」「……そう。飲み込みが早くて助かる」 いつの間にかシエスタが四次元ポケットから取り出して給仕していた紅茶を啜り、お茶菓子を食べながら、タバサ――ジョゼット・ドルレアン公爵は頷く。「というか、公爵サマだったんですね。ミス・タバサ。いえ、ミス・オルレアンとお呼びするべきでしょうか?」「……好きに呼んで良い」 シエスタの問いかけに、タバサは素っ気無く応える。 だが、これは公爵が他国の公爵令嬢の一従者に許すには破格の条件だと言えた。 おそらくは、ここに居る全員が、『赤槌』のシュヴルーズの猛訓練をくぐり抜けてきた同士だということも関連しているのだろう。 タバサの纏う空気は、リラックスしたそれであった。 この場に居るのは気心が知れた友人同士なのだ。「じゃあ、タバサと今まで通りに呼ばせてもらうぜ」 親しげに、人懐っこい笑みを浮かべてサイトが語りかける。 ――彼の首に巻きつく翼蛇の締め付けがきつくなった気がする。 【この浮気者】と責めるような嫉妬の蛇の声が聞こえた気がした。「でもよぉ、わざわざルイズに頼まなくても、ガリアの公爵家ともなれば、自分のとこで何とかできそうなもんだが。今、ルイズは見ての通りヘタって『たれルイズ』モードだし、出来れば休ませてやりたいんだが」 ベアトリスが用意した天蓋付きの豪奢なベッドで、当のルイズは眠りこけている。 ベアトリスはベアトリスで、うっとりと愛しのお姉さまの寝顔を堪能している。 息も荒く眼つきの危ない金髪ツインテのことは見なかったことにして、サイトは視線を戻す。実害はあるまいし。「オルレアン公爵家の家門には、今現在、水精霊との交渉役が居ない。私の父――もっとも私は面識はないのだけれど――その血縁上の父である先代オルレアン公爵が反逆しアルビオンに亡命したときに、その交渉役も一緒にガリアを脱したから」「……他の交渉役は?」「今回のラグドリアンの大増水で、引退した交渉役も駆り出した。けれど、荒れ狂う水精霊の意思に触れて、誰もが発狂した。近づこうにも、水精霊は寄る者全てに敵意を向けてくる」「尋常の手段では、解決不可能、ということか」 サイトは思案する。 ガリアと言って思いつくのは、あの青髪青髭の中年バカップルの片割れ(タバサの伯父王)だが――。「なら、尋常じゃない手段なら? ジョゼフって言ったか、あの王サマなら、普通じゃない手段の一つや二つや三つや四つ、助言して実行してくれるだろう?」「……伯父王には相談した。その上で、『トリステインの虚無を頼れ。奴には貸しがあるからな。きっとそれが良い』と答えられた。他にもガリアの北花壇騎士団も借りられるかも知れないけれど、さすがに自領の問題でこれ以上王家に迷惑を掛けるのも気が引ける」「……他国の貴族に頼るのはいいのか?」「……だめ?」 ズキュン。 上目遣いと小首傾げは反則です。 将を射んと欲すればまず馬を射よという言葉が、ハルケギニアにもあるのだろうか。「だ、だめじゃない。駄目じゃないぞ。うん、俺達は友達だからな! 友人が困ってたら助けるのは人として当然だ! 当然だとも、ハハハハ、ぐぇ!?」 サイトの首に巻き付いている翼蛇が、彼の首を締めつつ羽ばたいて宙吊りにする。「苦しい! 締まってる! 締まってるって! ぐげぇっ」【何よー。小さい娘が好みなの~?】 見慣れない喋る一ツ目翼蛇という幻獣を見て、いつも通りの毒色紅茶を飲んでいたキュルケと無口さに反して好奇心が旺盛なタバサが目を丸くする。「あら、見慣れない幻獣ね」「……珍しい色。朱鷺色の羽根、綺麗。何て種類?」「ぐ、うぇ。ちくしょう、俺が命の危機にあることはスルーか!?」【『何て種類?』と訊かれたならば、答えてあげるが世の情け!】 蛇がサイトの拘束を緩める。 ドスンと彼は尻餅をつき、「アウチっ」などと情けない声を上げる。 サイトを解放した翼蛇は、サイトの頭の上をクルクルと巡り飛ぶ。【私は一代一種の夢想の翼蛇! サイトとルイズの娘!】 “娘っ!?”とギョッとして赤青コンビが寝台で眠るルイズを見る。 そして傍らのクルデンホルフ大公国令嬢ベアトリスを見る。 見なきゃ良かった。瞬時に後悔。 金髪ツインテールが迸る魔力によって怒髪となって天を突いていた。 鬼も逃げ出す憤怒の形相。 血涙が今にも流れそうだ。 確かにこの翼蛇の成り立ちから言って、ルイズとサイトの娘というのは間違っていないのだが。【名前は――まだ無いわ。ねえサイト! だから早く名前を頂戴よ! お願い~】 【お父様~】、などと冗談めかしてサイトにじゃれつく翼蛇は、その空気の読めなさ具合は、確かにルイズとサイトから受け継いでいるようであった。 だが流石に、いくら空気が読めないことに定評があるサイトでも、自分の背後で燃え上がる何モノかの気配には気づいたらしい。 霊感など無い零感(レイカン)のサイトだが、その時は、背後で燃えるオーラの色が見えたという。――それは嫉妬の緑色であったとか。 ひたり、と死人のように白い腕が、彼の肩を叩く。 ぎ、ぎ、ぎ、とまるで錆びついて油が切れた歯車のように、ゆっくりとじりじりとサイトが首を回す。 そこには金髪二本角の鬼が居た。 愛しいおねえさまに近づく羽蟲は叩き潰してやると、その眼が語っている。「べ、ベアトリスさん? コレはですね、“娘”というのは言葉のアヤで、つまり、その、ご、誤解が――」「……ピンクは血の色、だそうですわよ。まあ、まずはそれを確かめるところから始めてみようじゃありませんか――?」「ひ、ひぃーー!? それはよもや頭をカチ割る的な意味で――!?」 サイトが悲鳴を上げて逃げ出す。 ベアトリスが嫉妬に駆られてそれを追う。 翼蛇が【サイトから離れなさいー!】と叫びつつ、ベアトリスをパタパタと追う。 結局、その騒ぎはおよそ30分後に、ルイズが起きてくるまで続いた。◆◇◆「何してんのよ、アンタたちは」「いや、それが、急にベアトリスが」「あのあの、だっておねえさまの娘がどうこうとかその蛇が」 ルイズがため息を付いて、彼女が横になっているベッドの前で恐縮するサイトとベアトリスを見る。 その周囲を環を描くように翼蛇が飛び回っている。 翼蛇は上機嫌に何かの歌を口ずさんでいるようだ。【あなたを食べてぇーも、いいですかぁ? 愛しているなぁーら、良いでしょう? 他の誰かにー、盗られるんならー、私の血となり、肉と成れー♪】「趣味のいい歌ね。でもサイトを食べたら許さないわよ?」【食べないよー】「どうだか。実際、夢の世界では喰らってたじゃない。アンタの記憶もさっき祠でアンタを喰らったときに覗き見たから知ってるわよ」【さて、何のことだか~】 飄々と蛇が答える。「まあ良いわ。で、アンタ名前付けてもらったの?」【まだー】「サイト、早く名前付けてあげて。名無しで存在が固定されると可哀想よ」 サイトが一瞬悩む。「……“エキドナ”。“エキドナ”というのはどうだ?」 “エキドナ”とはスキタイの半人半蛇の翼ある女の怪物。 ケルベロスやスフィンクスなどの怪物の母とも言われるものだ。 エキドナは【まむし女】という意味だという。【エキドナ。エキドナ! エーキードーナー! 気に入ったわっ!】「ふぅん。まあぴったりなんじゃない? じゃあ今からアンタの名前はエキドナよ」 パタパタと嬉しそうに飛び回る翼蛇、改め、エキドナ。「なかなかセンス良いわね。サイト」「というかご主人様よー。もう寝てなくて大丈夫なのか? 精神力は回復したのか?」「ああ、それね。問題ないわ」 ルイズはベッドから身を起こし、毛布をめくる。 彼女が全身で抱えるように持っていたのは、琥珀色の卵円形の結晶――【夢のクリスタライザー】。 小鳥の雛が鳴くような儚い夢笛の音をたてるそのアーティファクトに、部屋の全ての者の目が惹きつけられる。「……綺麗」 ポツリと【夢の卵】に魅せられたタバサが呟く。「幻夢郷と覚醒の世界では時間の流れが異なる――幻夢郷の数時間が、覚醒の世界では何ヶ月にも相当することがある。でも逆に、こちらでは半刻ほどでも、幻夢郷では何日も、回復に充分な時間が経過するということもありうるのよ」 ルイズが自身の回復速度の不思議についての解説を行う。 先の護鬼と翼蛇の連戦による彼女の意志力(Power)の摩耗は、生半なことで回復するレベルのものではなかった。 だが、充分に休息をとり、意志力を高めるための訓練の時間を取ることが出来れば、回復できないレベルのものではなかった。 そして彼女の手には、夢の世界(ドリームランド)屈指の呪物である【夢のクリスタライザー】が在る。 さらに彼女は時空と魂の系統である虚無属性のメイジであり、ドリームランドに於いて巨大な王国を持つ屈指の魔女王でもある。 ルイズは、【夢のクリスタライザー】と虚無魔法によって彼女の夢の国の時間を操作し(・・・・・・)、引き延ばされた時間の中で、夢の国において充分に休息を取り、魔術訓練や瞑想によって意志力を回復させてきたのだ。「なるほど。つまり『精神と時の部屋』と同じような効果というわけだな」 独りサイトは呟き納得する。「じゃあ、タバサ。用件は分かったわ」「……まだ貴女には話してない」「“メイジと使い魔は一心同体”。サイトと翼蛇エキドナ――私の使い魔(ファミリア)たちが貴女の話を聞いていたでしょう? そこからパスを通じて記憶を汲み上げるのは容易いことよ」「納得」「あと、東屋の外に立ってる近衛の隊員さんも入ってきなさいな。どうせあの過保護の青髭ガリア王あたりから、外交チャンネルを通じて『ルイズ・フランソワーズはタバサに協力するように』と働きかけがあったんでしょう?」 東屋の出入口から、近衛の制服に身を包んだアッシュブロンドのショートカットの女性衛士が姿を現す。「“氷餓”のアニエスと申します。ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール殿とお見受けいたします。我らが女王陛下の命により、参りました」 凍てつく魔風のような空気を纏った女だ。 彼女が入ってきただけで、東屋の空気が二三度下がったようにすら感じられる。 獰猛で不吉な風を引き連れて、“氷餓”のアニエスが、サイトの脇を抜けてルイズに近づく。 鉄錆の匂いと氷の匂いが混じったような、不吉な匂いがした。(――何だ、このニオイ? どっかで嗅いだことあるような……。昔、北海道に旅行に行ったときに、ウェンディゴとニアミスしたときか?) サイトは元の世界に居たときに感じたことのある、北風の眷属のニオイを思い出していた。 アニエスからは、あのイタクァの奉仕者と同じ空気を感じるというのだ。 ルイズも、鼻をひくつかせて顔を顰める。「アニエス……。アンタ、人間よね?」「……。――ええ。人間です」 その間は何だ。「ふーん? 相談事があるなら乗るわよ? 例えば血が滾るのが抑えられないとか、人肉を食べたくて堪らないとか、寒い空に飛び立ちたいとか――」「いえ、大丈夫ですので」「まあそう言わずに」「いえいえ」「まあまあまあ。これ連絡先。持ってて損はしないから」 遠慮するアニエスに、マジックカードを使って『錬金』した名刺らしきものを押し付けるルイズ。「はあ、まあ、では受け取っておきます。それでは、アンリエッタ女王陛下からのご命令をお伝えしても宜しいでしょうか?」「ええ」 アニエスが懐から詔勅の書状を取り出し、読み上げる。「三枚あります。一枚目――“ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールを女王直属ゼロ機関の長官に任命する。トリステイン女王アンリエッタ・ド・トリステイン”」 ゼロ機関って何さ。「二枚目です――“ゼロ機関の最初の任務は、ラグドリアン湖の増水の解決である。ガリアからの要請でもあるためオルレアン公に協力し、疾く速やかに為し給え。トリステイン女王アンリエッタ・ド・トリステイン”」 まあこれは想定の範囲内。 ガリアの青髭が手を回したのだろう。 命令書はもう一枚あるというが、それは一体なんだろうか。「三枚目、最後です――――“私とウェールズ様の結婚式の巫女もお願いね。私の“おともだち”。アニエスに【始祖の祈祷書】を持たせたから、詔を考えておいて頂戴。”……以上であります。こちらを」 そう言って、アニエスは古ぼけた本を差し出す。「ミス・ヴァリエール。こちらが女王陛下より預かった【始祖の祈祷書】です」 それをルイズは受け取る。「確かに。了解したわ」 ルイズは笑顔で了承する。(始祖の秘宝の一つがこんな形で貸し出されるとは思わなかったわ。手間が省けていいけれど。【始祖のオルゴール】も手に入れたし、ジョゼフやヴィットーリオを喚んで新呪文の交換会を開かないと) それにしても。(姫様は、まだ正気なのかしらね?) 正気にては大業成らず。 覇道は正に死狂いなり。 ゲルマニアを何らかの手段で併合して覇道を進むは良いが――。(まさか邪神の輩に成り果ててはいないでしょうね? もしそうなっていたならば――)「矯正して差し上げないといけないかも知れないわね。取り返しがつくうちに」◆◇◆ アルビオンの新王朝スチュアート朝を、トリステインは国家として認めていない。 何故ならトリステイン王女の婚約者が前王朝であるテューダー朝の生き残りであり、トリステインとしてはテューダー朝が未だに存続しているものとみなして行動しているからだ。 なおガリアやクルデンホルフは普通にスチュアート朝を国家として認めており、貿易も行っている。 むしろクルデンホルフからの融資(担保はオリバー・クロムウェルの異端知識が詰まった脳髄と彼の持つ【グラーキの黙示録】最新版)が無ければ、スチュアート朝は立ち行かなかっただろう。 トリステインもクルデンホルフのお得意様である。 先代トリステイン大后が質入されたことは極秘事項だが、都市伝説という形で巷間に流布している。 王族を質に入れてまで軍備を整えるトリステインの、目下の仮想敵国は、当然ながら天空魔大陸に居を構える白の国アルビオンである。 物流を押さえてしまえば勝手に干上がるなどと日和見の政治家は言うが、あの無節操なクルデンホルフが取引相手として存在し続ける限り、一国まるごと経済的な混乱に陥ることはない。 というか、蜘蛛商会が活動しているこの千年間ずっと、ハルケギニア全土に於いて、致命的に大規模な混乱は起きていない。そのように見えざる手が操作している。 アルビオンからしても、旧王家の嫡男を匿っているトリステインは、明確に敵である。 まあ空から降りて急襲空賊兼山賊としてトリステイン(ゲルマニア地域含む)を襲わなくてはアルビオンの経済が回らないという事情もあるので、敵というよりは獲物という認識な感じだが。 スチュアート朝の影の支配者シャルル・ドルレアンの領土的野心もあり、いずれアルビオンとトリステインの間で戦争が起きるのはほぼ確実である。 というわけで。「ジャン=ジャック・フランシス・ド・ワルド’(ダッシュ)はロンディニウムにて潜入工作中なのであった」 ’(ダッシュ)は複製品の意味である。 つまりワルド子爵のユニークスキルである実体ある『偏在』で造られた即席クローン体であるということ。 他にも日に日に増える百有余のワルド’、ワルド’’、ワルド’’’……たちがアルビオンにて潜入工作を続けている。 続けているのだが……。「ミスタ・ワルド。一体誰に向かって独白しているんだい?」 取り敢えずこのワルド’の潜入任務は、偶然か故意か分からないが同席するはめになってしまった、目の前の月眼の神官のお陰で台無しであった。(月眼で美形のブリミル神官……。ドラゴンライダー・ジュリオ。ロマリアの密偵。教皇の右腕。アルビオン国教会(プロテスタント)が発足し、ブリミル教が迫害されているこの地に於いて、コレほど目立つ囮もあるまい) 大方、この美貌の神官を囮にして、彼を排除しにかかったアルビオンの機関員を、ロマリアの別働隊が一網打尽にでもするのだろう。 だがそれに巻き込まれた方にはいい迷惑だ。 お陰で、ワルドの顔もアルビオン側にマークされたと思われる。 以後は『偏在』たちに何パターンか『フェイスチェンジ』も掛けなくてはならないはずだ。「はあ。もうトリステインに帰りたい」「ははは。お互い任務が大変だね。おっと、任務だなんて言葉を使うと、周りにバレてしまうね! 失敗失敗」「うぜぇ……。本気で帰りたい……」=================================キング・クリムゾン! 佐々木氏の結界内は時間の流れが異なっていたのでルイズたちは浦島太郎状態。タルブ村は、原作で壊滅したのを受けて、ある意味壊滅状態にゲルマニアはレジスタンスが湧きまくってましたが、アンリエッタ女王による大規模テンプテーション行脚を続けることで沈静化愉快なアルビオン情勢については次回。第四回虚無会議も次回で2011.04.27 初投稿