ラグドリアン湖の水精霊の乱心を鎮めることを、ガリア星慧王ジョゼフ及びオルレアン公爵ジョゼット(タバサ)、そしてトリステイン女王アンリエッタから依頼されたルイズは、同級生の古き水の盟約の家系モンモランシー・ド・モンモランシの協力を得るように、彼女を巧みに誘引し、それを了承させた。
トリステイン魔法学院は、現在夏期休暇中であり、閑散としている。
とはいえ、もうじき休暇も終わり、あと一週間か二週間もすれば、郷里に帰っていた生徒も戻ってくるだろう。
男子生徒は対アルビオンの士官として志願していってしまっているので、それでも例年の賑わいは戻らないだろうが。
そのトリステイン魔法学院の女子寮を、六人の女子が歩いている。
先頭を行くのは、桃髪のルイズと、金髪ロールのモンモランシーだ。
二人ともトリステインに古くから仕える名門の子女である。
ルイズは颯爽と肩で風を切って歩き、モンモランシーは、心なしか肩を落として何かを悔いるような懊悩とした表情で歩いている。
「う~。確かにルイズを頼ればラグドリアンの問題は解決しそうだけれど……。貴方に頼ると、あとが怖いわ……」
「確かに貸しにするつもりだけれど、そんな法外な利息はつけないつもりよ。私にとっても、水の盟約の家系に連なる貴方が同級生だったのは渡りに船だったんだから」
「……言っとくけど、うち、あんまりお金ないからね? ラ・ヴァリエール家とは違って」
モンモランシ家は、干拓事業に手を出したりして事業を広げすぎて、現在割と収支がカツカツなのだ。
その干拓地も、今回の増水で被害を受けており、モンモランシ家の財政は、今後火の車になってしまうと予想されている。
ルイズは手の平をひらひらと振って、心配要らないと返事をする。
「別にお金で返してもらおうなんて思ってないわよ。失礼ね」
「……お金で返せない恩のほうが怖いわ」
「恩ってのはそういうもんよ。ま、同じ古くからの家系同士、持ちつ持たれつ仲良くやっていきましょうよ」
その後ろには、青い髪のタバサと赤い髪のキュルケが続く。
タバサは実はガリアのオルレアン公爵でありお忍びでこの学院に留学してきているお姫様だ。キュルケの方は旧ゲルマニア地区の辺境伯の娘であるが、諸事情で(主に彼女の過剰な毒体質が理由で)トリステイン魔法学院に追いやられている。
二人とも系統魔法のランクはトライアングルであり、学院でも屈指の実力者だ。
「水精霊の討伐とかなら、私も協力できたんだけど、そういう訳じゃないみたいだし。私の火の系統と水精霊とじゃ、相性が悪すぎるわ」
「……適材適所。相談に乗ってくれただけでも、嬉しかった。ありがとう」
「んー、どういたしまして。でも今回はあまり協力できそうにないわねー。下手したらラグドリアン湖の水源が、私の毒体質で汚染されちゃうわ」
「……そんなに?」
「キュルケの毒は“そんなに”強力なのか」と、タバサが目を丸くする。
タバサは言葉少ななのだ。
それは、喋り過ぎると何時何処で自分がオルレアン公爵だと口を滑らせてしまうか分からない、と、姉姫のイザベラ王女からキツク言い含められているからである。本来のタバサ――いやジョゼットは、もう少し感情豊かである。
「ツェルプストーの炎でも焼き尽くせない程に強力なのよ、私の身体に宿る毒って。まあ水精霊は毒を避けるという噂もあるから、勝手に向こうから避けてくれるのかも知れないけれどね」
「……水精霊の毒嫌悪性質?」
「そうそう。確かそんな話。そのお陰でラグドリアン湖は水源として安全なんだとか何とか。まあでも、私は自分の毒体質は嫌いじゃないのよ。この毒がなかったら、私はとっくの昔に、自分の炎で自分自身を焼き尽くしていたでしょうからね」
「……一長一短」
「そういうこと。毒と炎は拮抗するから、私の毒に耐えられるくらいの炎の使い手を見つけないと、私は字義通りの毒婦で独婦になっちゃうわぁ。それだけの炎の使い手は、思い当たるのはお父様くらいかしら。流石にお父様と結婚するわけにはいかないし。あぁ、あとは、“白炎”って二つ名の傭兵の噂を聞いたことがあるわね」
「……アラム・スカチノフの件は、残念だった」
「ね。バシリスクを召喚できるくらいなら、私の毒も平気だと思ったのだけれど」
キュルケは、彼女のファーストキス(毒属性)でノックダウンしてしまった元ボーイフレンドのことを未だに悔いているらしかった。
最後尾を歩くのは、黒髪メイド服のシエスタと、金髪ツインテールのベアトリスである。
シエスタは楚々として、あくまで影のように主人であるルイズの後をついてまわっている。ベアトリスは、何とか敬愛するルイズの会話に割り込めないか機会を伺っているが、なかなかそのチャンスは無いようだ。
シエスタは今現在、使用人の寮ではなく、ルイズ直々の教育を受けるためにと、彼女の部屋に泊まり込まされている。銃器やハルケギニアの恐るべき先住種族や魔術について学んでいる。そのシエスタは手で曽祖父が遺した展性チタンの磨き鏡を弄んでいる。
一方ベアトリスは、かなり苛立っているようだ。
「うぅ~。私だっておねえさまとお話ししたいのに! その上、モンモランシーとは金髪貧乳属性が被ってますし!」
「いつも話されてるではありませんか。私やサイトさんよりも、ベアトリス様の方が、ルイズ様と話してる時間は長いと思いますよ?(属性って何だろう?)」
「分かってますわ! 私はおねえさまの第一の下僕ですもの」
ベアトリスが誇らしげに薄い胸を張る。シエスタはそんな可愛らしい様子をみて微笑む。
「それにベアトリス様は、ルイズ様からラグドリアンの件について、事前に調査できる範囲のことを調べるように仰せつかっていたではありませんか。重要な役目です。それを任されるというのは、頼りにされている証拠です」
「それはそうですけれど……。でも、こう、裏方ばかり続くと、達成感がなくって、鬱憤が溜まりますわ!」
「その辺りの塩梅(あんばい)はルイズ様も考えてらっしゃると思いますよ? きっと近いうちに報奨があると思います」
「……そうかしら?」
「まあ恐らくは……。ご存知かとは思いますが、ルイズ様は良く周囲のことに気を配られる方ですし。『夢の卵(夢のクリスタライザー)』も手に入れられたので、大抵のものなら、ルイズ様も褒美として用意してくれると思います」
「『夢の卵』――あの美しい黄色の卵型のクリスタルですわね。私も実物は初めて見ますわ。シャンリットの中央大博物館には蒐集されているらしいですけれど……そこに辿りつくまでに、他に陳列されている宝物を眺めているだけで気が遠くなってしまって、結局見れずじまいでしたの」
【夢のクリスタライザー】は、唯一無二のアーティファクトではない。
大帝ヒュプノスの宝物である卵黄色の結晶は、様々な世界――それはハルケギニアや、サイトの故郷である地球であったり、さらに別の惑星や別の次元――にも幾つか同じものが存在している。
もちろん、それらの各世界の住人たちの夢で形作られるそれぞれの幻夢郷(ドリームランド)にも、【夢のクリスタライザー】は散在している。
幻夢郷というのは、あらゆる世界の住人の夢が集まって構成される広大無辺な世界なのだ。
ハルケギニアの住民が夢見るドリームランドと、地球の住民が夢見るドリームランドは、それぞれが一塊となった世界であるが、互いに何処かで繋がっているという。
護鬼・佐々木武雄も、そのようなドリームランド同士の連結面を通って、タルブ村にまで辿り着いたのだろう。
散在する【夢のクリスタライザー】の内の一つは、どうやらウード・ド・シャンリットのコレクションにも加えられているらしい。
ルイズもそれを知悉しており、いつかシャンリットからどうにか盗みだしてやろうと思っていたのだが、タルブに手付かずの【夢のクリスタライザー】があったので、盗みだす必要はなくなった。
魔術的科学的に厳重に管理されたシャンリットの博物館から盗みだすのは並大抵ではない。盗み出せたとしても、学術都市からの追っ手に追われるだろう。噂によれば、シャンリットで培養された、時空を越える角度に住まう狩人【ティンダロス・ハイブリッド】によって構成された猟犬部隊が、盗賊の魂の匂いを追って、収蔵品を取り返しにやってくるのだという。恐ろしい話だ。
というわけで、ルイズにとって、佐々木武雄が遺した【夢のクリスタライザー】は、渡りに船であったのだ。
「褒美の件は、もしも願いが叶うなら、何かモノで報いていただくのではなくて――何か、権利を……。そうですわね、おねえさまを一日独占したいですわ!」
「……それとなく、お二人でデートできるように根回ししておきましょうか?」
「是非! 前から思っていたけれど、貴女、なかなか気がきくわね!」
「いえ、それほどでも……」
などなどと会話を交わしつつ、装備や旅装を整えるために、六人はそれぞれの部屋に向かう。
◆◇◆
蜘蛛の巣から逃れる為に 24.天空(うえ)から来るぞ! 気をつけろ!!
◆◇◆
一方そのころ、女子寮の外では、触手竜騎士(ルフト・フゥラー・リッター)のルネと、ルイズの従者サイト、グリフォン隊女性隊士のアニエスが、ルイズたちを待っている。
ルネとサイトは既に万全に準備を終えている。女子と違って、男子の準備は時間がかからないのだ。
アニエスは学院が拠点ではないため、タルブを出るときに既に荷物をまとめてしまっている。
サイトの首には翼蛇エキドナが巻きついており、サイトと囁くように会話している。
時折、彼が佩いている魔刀デルフリンガーが、まるでバカップルのように会話する彼らに合いの手を入れているのも聞こえる。
【ねえサイト。このまま二人で何処かに逃げてしまわない? あのルイズは放っておいて】
「そういう訳にもいかねーよ。何だかんだで、アイツ、俺が居ないと駄目だろうからな」
【……随分な自信じゃない。信頼し合っているのね、嫉妬しちゃうわ。使い魔のルーンがそうさせるのかしら? 本当に忌々しい烙印だこと、消してやりたいわ】
「消せないだろ」
【そうだぜ、蛇の嬢ちゃん。使い魔とその主の絆ってのは、半端なもんじゃねぇんだ】
このハルケギニア世界でも一級の呪詛である『コントラクト・サーヴァント』の刻印は、そう簡単には覆せない。
伝説の使い魔である始祖の盾(ガンダールヴ)ともなれば尚更だ。
まあサイトがルイズに付き従っているのは、ルーンの補正もあるが、実際のところはそれだけじゃなくて、彼が彼女に惚れているからであるのだが。
「あとそれに、ルイズの虚無の力がないと、地球には帰れないだろうしな」
【んー。でも、私が頑張って力をつければ、虚無の『世界扉』も使えるようになるかも知れないわよ? 精霊魔法だって少しは使えるようになったのだし、虚無魔法だってその気になれば使えるかも】
【草よ】とエキドナが精霊魔法を詠唱すると、周囲の草が伸びて、サイトの四肢に巻きついて擽る。
エキドナは、触手竜ヴィルカンの触手を食って、精霊魔法に対する適正を上昇させたのだ。
未だに姿を変える魔法は使えないが、草木を操るくらいならば出来るようになった。
「やめろよ、擽ったい」
【かと言って俺っちの鞘を、草刈鎌替わりに使うのは止めてくれないかね? 相棒】
サイトが微妙に愛撫するように巻きつく草の葉を鬱陶しさそうにデルフリンガーの鞘を振り回して引き千切る。
それを気にせずに、エキドナは話を続ける。
エキドナが羽ばたく度に、彼女の朱鷺色の翼から瑞々しい少女の匂いが広がる。
【佐々木武雄が遺した超鋼の磨き鏡があれば、それを基準に――縁にして、サイトの世界にゲートを繋げるのも難しくはないはずよ】
「たしかにそうかも知れないが……。あの佐々木武雄の爺さんが言っていた『地球』と、俺の出身世界の『地球』が同じ世界とは限らんのだよなー」
【並行世界(パラレルワールド)かも知れないってこと?】
ハルケギニアとサイトの故郷である地球が並行世界として存在するように、同じようで少し違う並行世界の地球が他に存在しても不思議ではない。
佐々木武雄とサイトは、ほとんど同じ別世界の出身なのかも知れないのだ。
確かめようはないが、超鋼の磨き鏡が映す靖国の景色は、サイトの世界とは違う微妙に世界なのかも知れない。
サイトの世界に辿りつくために最も確実なのは、サイト自身の魂の因果を辿って、虚無の『世界扉』を使うことだが、佐々木武雄ほどの強固な執着(元の世界への未練)が無く、ほとんど着の身着のままで召喚されてしまったサイトでは、それも簡単にはいかないだろう。元の世界の座標を特定するために、薄い縁を補って、『世界扉』は膨大な魔力を使ってしまうだろうからだ。それではゲート自体もどこまで大きく出来るか分からない。
「何となくだけれど、な。それにイザとなりゃ、ドリームランドのレン高原でも目指せば良い。そこなら、俺の居た地球と交錯してるはずだからな。昔に迷い込んだことがあるから間違いない」
【レン高原に行く時は置いていったりしないでよ? サイト。私も連れてって頂戴】
【そうだぜ、俺も持ってけよ。相棒】
「勿論連れて行くさ。お前らは俺の相棒だからな!」
ルネも、パートナーである触手竜ヴィルカンと話している。
こちらは、今回のラグドリアン湖の異変について、マジックカード端末を操作して、シャンリットのデータベースに何か手がかりとなる情報がないか検索しているようだ。
ルネの周りに空間投影型のウィンドウが幾つも展開している。千年を生きる巨竜ヴィルカンもウィンドウを覗き込んでおり、それらの情報の分析に知恵を貸してやっているようだ。
【ラグドリアン湖の増水についての情報は見つかりそうか? ルネ坊】
「……情報が多すぎて、絞り込めないですね。過去何度か増水は起きていますが、今回は様子がおかしいようです」
【ふむ、ラグドリアン湖は、およそ五十年周期で水の満ち干を繰り返しておるようじゃの。じゃが今回はその周期には当て嵌らない、と】
「規模も、過去に類を見ないほど、大規模なようです。何百年も前からある集落も、今回の増水で屋根まで飲み込まれたと、観測されています。他は正直、碌でも無い情報ばっかりですよ、ヴィルカン様」
【何々――『水精霊とショゴスの関連性について』、『神性“G”の湖底回廊について』、『水精霊の記憶する太古の旧支配者同士の大戦争の検証――各地に残る神話の爪あと――』、『ニョグダの眷属としての水精霊』、『古代の蛸蝙蝠巨人(クルゥルゥの落とし仔)と水精霊の関係』、『ディープ・ワンズ(深きものども)の海底石柱都市と、水精霊の湖底の都の類似点に関する研究』……】
次々とルネの周囲の浮遊ウィンドウに表示される、学術都市シャンリットの研究論文たち。
それらの論文は、不定形の忌まわしいショゴスと水精霊の関係をほのめかす物から、水の眷属の邪神クトゥルフとの関連性を検討した物まで、多岐にわたっている。
「もう既にこの時点で、非常に嫌な予感しかしないんですが」
【儂も血統的に水は苦手じゃしのう。あまり気乗りはせんなー】
ヴィルカンが触手を所在なさ気にのたうち回らせる。
「ヴィルカン様の中の穿地魔蟲(クトーニアン)の血に反応して、水精霊が襲ってきたりしませんよね?」
【どうかのー。記録によると、水精霊はクトーニアンを始めとする混沌の眷属を嫌っておるようだな。千年前のシャンリットのゴブリン研究隊が水精霊に接触したときには、蜘蛛の眷属と断じられて、速攻掛けられて数名が心を狂わされておるようじゃな】
「……それって、シャンリット直系――クルデンホルフ家の継承者であるベアトリス殿下も、不味いんじゃないですか? 蜘蛛の千年教師長の末裔ですよ?」
【ふむ。実際、目の敵にされとる可能性はある。ほれ、この水精霊の生態研究によると“水精霊にとって時間の概念は無いに等しい。しかしそれゆえに、彼らが時の経過を以て過去の出来事を水に流すことは、全く期待出来ない。彼らは恨みがましい性格であり、かと言って、必ずしも義理堅い性質というわけではない”と書いてある。水蜥蜴の王たる【ボクラグ】のような気性じゃの】
「……いっそのこと、ヴィルカン様の炎で湖ごと焼き尽くしたり出来ませんか?」
【水利のための治水任務だというのに、湖を消してしまっては本末転倒であろうに】
湖自体の蒸発の可不可については、あえて出来ないとは口にしないヴィルカンであった。
アニエスはグリフォンの隣で、休めの体勢をして静かに待っている。
彼女は、本来ならこのまま王都に帰り、ルイズが命令を受け取ったことを報告しなくてはならない。
だが、学院はタルブから王都への途上にあることだし、そのまま一人で別れてしまうのも薄情な気もしたのだ。
(どうせ、王都に帰ったら、ワルド隊長にこき使われるのは分かりきっているし……)
内心でアニエスは溜息をつく。
アニエスは勤勉な女性隊士であり、ひょんなことからアンリエッタ女王の御側付になったのを縁に、トントン拍子で出世して行っているのだ。現在では、魔法衛士隊副隊長補佐代理心得、などという良く分からない役職を与えられている。
まあ、女王の警護をするのに、女性隊士の必要性というのは否が応にも高くなるから、無理からぬ話しである。そして女王の御側付ならば、それ相応の役職に就けなくてはならない。たとえ役職の肩書きが有名無実であっても。
そして、出世するということは、その分だけ任務が増えて、気苦労が増えて、時間が無くなるということである。
特殊な『偏在』を用いて治安維持から諜報、事務仕事までこなし、今やトリステイン一忙しい男の名を欲しいままにしているジャン=ジャック・ド・ワルド子爵は、グリフォン隊の隊長である。
そしてアニエスはワルド子爵の腹心の部下でもあるのだ。
つまり、王都に帰ったアニエスを待っているのは、山と積まれた書類と、びっしり会議と面会の予定で埋まったスケジュールなのだった。
(帰りたくないな……)
だからアニエスがこうやって魔法学院で束の間の休息を謳歌するのも、許してやって欲しい。
しかしそうは問屋が卸さない。
「ウル・カーノ(行け、炎よ)」
轟、
と炎の玉が、アニエスが居た場所に飛来し、爆炎を撒き散らす。
「ちっ、何だ!? 何者だ!?」
素早く飛びすさって火球を回避したアニエスが、狼藉者に誰何する。
ルネとサイトも、それぞれの得物を手に持ち、臨戦態勢だ。
火球の爆発によって立ち込めた砂埃の向こうに、うっすらと人影が見える。中肉中背の男、のようだ。
だがその狼藉者の返答は無言。いや――
「ウル・カーノ(行け、炎よ)」
錆びついた歯車のような、あるいは冷酷な蛇のような印象を思わせる声が、詠唱によって返答する。
ドーナツのようなリング状にされて直進性を高められた火球の魔法が、アニエスの位置へと猛然と突っ込んでくる。
「またかっ!? 『エア・ハンマー』!」
即座にアニエスは剣杖を抜き放ち、『風の槌(エア・ハンマー)』で応戦し、火球を撃ち落とそうと試みる。
だが――
「エオー・ベオーク(変化し、伸びよ)」
狼藉者が唱えた追加のルーンによって、リング状の火球は、その輪を解き、蛇のように変化してその身を伸ばす。
さらにはその炎で出来た蛇は、アニエスの『エア・ハンマー』の後に出来た真空へと流れこむ風の流れすら利用して、“氷餓”のアニエスへと迫る。
炎だけでなく、風の流れすら読み、さらに自在に火球を操り変化させる襲撃者の技量は、見事の一言に尽きた。
「しまっt――」
絶体絶命。
アニエスは避けることは出来ない。
せめて心臓だけは守ろうと、腕を交差して防御(クロスアームガード)し、背中を丸め、灼熱に備える。
しかし、何時まで経っても、熱波はやってこない。
急いでアニエスが顔を上げてみれば、彼女の目の前では、翼蛇を巻いて野戦服を来たサムライが、刀を振り下ろしていた。
サムライの左手のルーンが、激しく光を発している。その光で炎蛇を掻き消したのではないかと思えるほどに、強い光だった。
「――なぁ、何やってんだよ……」
そのサムライ――平賀才人は、憤っていた。
手に持つ魔法吸収能力を持った魔刀デルフリンガーで火球を斬り消して、狼藉者へと向ける。
彼は、その狼藉者に向かって怒っていた。
ルーンの輝きは、心の震えを表す。
サイトの心は、今、猛烈に怒りに燃えていた。
だが、彼の怒りには、奇襲をかけてきた敵に対する怒りではなく、信頼を裏切られた(・・・・・)ことに対する怒りの色合いの方が強いようだった。
「答えろよ! なあ!?」
(サイトは、あの襲撃者と旧知の仲なのか?)
アニエスが剣杖を構え直しつつ、サイトと襲撃者の関係を訝しがる。
「なあ! 答えろよ! 先生(・・)!」
「……」
サイトの怒りの言葉を受けて、襲撃者が砂煙の向こうから現れる。
その男は、禿頭で、蛇のような感情のない瞳をしており、中肉中背で、ローブに身を包んで、その手に持つ杖に、炎の蛇を巻きつかせていた。
そう、彼は――。
「何でいきなりアニエスさんを殺そうとした!? 何でだ!? コルベール先生!!」
“炎蛇”のコルベールは、サイトの罵声を受けても、少しも揺らがない。
蛇のように、冷血で冷酷で無感情な瞳は、小揺るぎもしない。
炎蛇は、ただじっと、彼らを見つめるだけ。
◆◇◆
王都の練兵場にて。
旧トリステイン地区の全国から集められた訓練兵たちが、鬼軍曹によって教練を施されている。
疲労困憊の表情の訓練兵の小隊ばかりの中で、ある一つの小隊だけは、非常に元気が良かった。
先頭を走っている金髪の少年が、薔薇の飾りがあしらわれた杖を指揮者のように振って音頭を取っている。
「Mama & Papa were Laing in bed (ママとパパはベッドでゴロゴロ)」
そしてその後ろをランニングしている集団――上品な顔立ちから見るに、彼らは貴族子弟なのかも知れない。
『Mama & Papa were Laing in bed!!』
怖い表情して威勢よく、彼らはその上品な顔に似合わない下品な歌を歌っている。
「Mama rolled over and this is what's she said (ママが転がり こう言った)」 『Mama rolled over and this is what's she said!!』
「“Oh, Give me some”(「お願い 欲しいの」)」 『“Oh, Give me some!!”』
「“Oh, Give me some”(「お願い 欲しいの」)」 『“Oh, Give me some!!”』
「“P.T.!”(「しごいて」)」 『“P.T.!!”』
「“P.T.!”(「しごいて」)」 『“P.T.!!”』
「Good for you(おまえによし)」 『Good for you!!』
「Good for me (俺によし)」 『Good for me!!』
「Mmm good (うん よし)」 『Mmm good!!』
最初の頃は何事かと、その下品な輩を見ていた他の訓練兵たちであったが、今では気にする者は居ない。
それは他の訓練兵たちが慣れたということでもあるし、いちいちそれを気にしてられるだけの余裕が無いだけということでもある。
「Up in the morning to the rising sun (日の出と共に起き出して)」 『Up in the morning to the rising sun!!』
「Gotta run all day.till the running's done (走れと言われて一日走る)」 『Gotta run all day.till the running's done!!』
「Sir.Cromwell is a son of a bitch (クロムウェル閣下はろくでなし)」 『Sir.Cromwell is a son of a bitch!!』
「Got the blueballs, crabs and seven-year itch (梅毒 毛ジラミ ばらまく浮気)」 『Got the blueballs, crabs and seven-year itch!!』
それどころか他の小隊にも、この下品で卑猥な歌は感染していた。
徐々に唱和する声が増えていく。
「I love working for our noble Queen (女王陛下を愛してる)」 『I love working for our noble Queen!!』
「Let me know just who I am (俺が誰だか教えてよ)」 『Let me know just who I am!!』
「1,2,3,4, Tristain Magic Corps! (トリステインの魔兵隊!)」 『1,2,3,4, Tristain Magic Corps!!』
「1,2,3,4, I love the Magic Corps! (俺の愛する魔兵隊!)」 『1,2,3,4, I love the Magic Corps!!』
「my Corps! (俺の軍隊!)」 『my Corps!!』
「your Corps! (貴様の軍隊!)」 『your Corps!!』
「our Corps! (我らの軍隊!)」 『our Corps!!』
「The Magic Corps! (魔兵隊!)」 『The Magic Corps!!』
そこにたまたま訓練学校の視察に訪れていたド・ポワチエ大将が、頬を軽く持ち上げる。
「ド・ポワチエ閣下、気に障るなら止めさせますが……」
「いや、構わん」
訓練校の教官たちは、あまりに下品で大将の勘に障ったのかと思ったが、そんな事はなかった。
大将は笑っている。
「元気があって宜しいことだ。あの先頭を走っている金髪小僧と、その後ろの小隊は何処の者だ?」
訓練校の小隊は、出身地別に大まかに分けられている。
だが先頭を下品な歌を歌いながら走る集団は、それら徴兵された平民兵とは違う出自であった。
「先頭の彼らは、トリステイン魔法学院からの志願兵であります。先頭で薔薇を振って走っておるのは、グラモン家の四男坊ですな」
「ほう! それはそれは、なんとも頼もしいことではないか! そしてグラモン! 血は争えないというわけか! ……しかし、いつから魔法学院は軍学校になったのだ?」
「ええ、それが……。何でも、彼らはあくまで課外の自主活動として、軍隊顔負けの訓練を行っていたそうです。しかも教官は、あの“赤槌”のシュヴルーズだそうですよ」
彼らを鍛えた人物の名前を聞いて、ド・ポワチエ大将は目を丸くする。
「“赤槌”! あの血濡れで赤熱の流星使いか! これはまた懐かしい名前を聞いたものだ。確かに彼女の後継者ならば、この程度の芸当は当たり前だな」
「閣下は“赤槌”とは、ご面識がおありで?」
「ああ、二十年前に聖戦に駆り出されたときに、敵同士で対峙したな。……あの時は私は未だ小隊長だった」
「“赤槌”と敵対して、良くご無事で」
「何、臆病者の私がまごついている内に、聖戦軍(こちら)が私の小隊を残して、彼女の『赤槌』の流星魔法で壊滅してしまっただけだ」
そう言って、ド・ポワチエ大将は肩をすくめる。
周りの者は、どう反応していいのかわからないのか、半笑いで固まってしまっている。
「……こほん。ま、せいぜい、死なない程度に陛下に尽くそうではないかね。ヴィヴラ・トリステイン」
気をとりなおして、大将が、いかにも上辺だけといった様子で国家を称える。
どうやら周囲がアンリエッタの魅了によって、忠愛の士となってしまっている中で、ド・ポワチエ大将は余り影響を受けていない貴重な人物のようだ。
それが良いことか悪いことかは、別として。
一方、練兵場を走るギーシュたちは、そんな大将たちの様子など気にせずに大声を張り上げて歌っている。
「I don't know, but I've been told (人から聞いた話では)」 『I don't know, but I've been told!!』
「Albish Pussy is mighty cold (アルビオン女のプッシーは冷凍マン庫)」 『Albish Pussy is mighty cold!!』
「Mmm good (うん よし)」 『Mmm good!!』
「feels good (感じよし)」 『feels good!!』
「is good (具合よし)」 『is good!!』
「real good (すべてよし)」 『real good!!』
「tastes good (味よし)」 『tastes good!!』
「mighty good (すげえよし)」 『mighty good!!』
「good for you (おまえによし)」 『good for you!!』
「good for me (俺によし)」 『good for me!!』
さらに彼らは悪乗りして、フライで飛び上がり、あるいはゴーレムを創りだして、猛然と駆け出す。
「I don't want no teen-age queen (スカした美少女 もういらない)」 『I don't want no teen-age queen!!』
「I just want my sword-like cane(俺の彼女は剣杖一つ)」 『I just want my sword-like cane!!』
「If I die in the combat zone (もし戦場で倒れたら)」 『If I die in the combat zone!!』
「Box me up and ship me home (棺に入って帰還する)」 『Box me up and ship me home!!』
「Pin my medals upon my chest (胸に勲章 飾り付け)」 『Pin my medals upon my chest!!』
「Tell my Mom I've done my best! (ママに告げてよ 見事な散り様!)」 『Tell my Mom I've done my best!!』
ざざざ、と、爆走する魔法学院出身の生徒たち。
そのうち一人のゴーレム使いが錬成したやたらと筋骨隆々とした造形のゴーレムが、泥を跳ねさせてしまい、それがド・ポワチエ大将にかかってしまった。しかし下手人の訓練兵はそんな事には気づかない。
その様子を見て、自分の頬に跳ねた泥を軽く手に取ると、流石にド・ポワチエ大将の額に青筋が走る。
「悪乗りしすぎだ、小僧っ子ども……!」
大将は、杖を振って練兵場の土から、30メイルはある巨大なゴーレムを錬成すると、ギーシュらに向かって突撃させた。
◆◇◆
●アルビオンのステュアート朝政府に対する嘆願書
『かつてブリミル教区で面倒を見られていた、貧者たちですが、教会からの施しが無くなってしまい、流民と化してしまっています。
彼らの中には、盗賊や売春婦に身をやつす者も多く、周辺の治安悪化の原因となっています。
あふれた貧困層に対する対策をお願いいたします。
――北部商工会連盟』
●アルビオン政府からの回答・草案
『宜しい。我がアルビオン政府は、彼らに対して職を用意する準備がある。
新設する海軍の魚人化部隊、および、大陸要塞化計画に伴う地下迷宮通路の拡充に従事してもらうことになるだろう。
なお、この慈悲ある軍職の斡旋において、性別年齢能力の区別は行わない。
だが特殊な職能がある者は、その職能が生かせる職場に配属するので、尋問の際には申告してもらう必要があるだろう。
詳細は軍事機密“湖底のG回廊”に該当するため、開示できない。ご容赦されたし。』
■財務省による補足
『財源は、戦時国債の発行を以て充てることとする。
なお戦時国債は、その9割以上についてクルデンホルフ大公国が買取ることが決まっているため、増税等は行う必要はないと当局は判断している。
市民は安心して日々の活動に勤しみ、正しく納税し、義務を果たすこと。』
■新設された海軍省による補足
『人員は屈強な若者が望ましいが、老人であればなお望ましい。
歳を経た肉体は、その重ねられた月日にふさわしい、頑強な肉体に生まれ変わるはずである。』
■国土交通省・I迷宮要塞設営局による補足
『アルビオン全土を要塞化するに当たって、人員はいくらあっても足りないくらいである。
過酷な労働条件になるかも知れないが、心配しないで欲しい。
ものの一週間もあれば、穴掘りに恍惚を覚える様になることは請け合いである。
落盤等の不慮の事故が発生する可能性があるが、命の心配は無用である。
我々は死を超克している。』
■陸軍省による補足
『I迷宮要塞運用に当たって、道案内用の人員が不足すると思われるため、各地の流民を積極的に狩りたてることを進言する。』
■護国卿オリバー・クロムウェルによる補足
『徴兵した流民は、死体まで有効活用すること。
処分に困った場合は、護国卿直下の特務部隊に連絡せよ。』
■摂政シャルル・ドルレアンによる補足
『救貧院の設置および、そこからの徴兵を許可する。
行動や発表に対し、情報統制を強化せよ。以上。』
■国王チャールズ・ステュアートの見解
『同上。許可する。』
●アルビオン政府の公式回答
『――宜しい。
我がアルビオン政府は、貧困欠乏に陥った同志に対して職を用意する準備がある。
貧しき者は、各地に設置予定の救貧院に集まれ。官吏は彼らを疾く収容せよ。
関連法案の議会での可決に伴い、速やかに貧困対策を行うべく、各官庁は準備を進めている。
財源については戦時国債を発行し、それを使用する。
アルビオン万歳。天空教理万歳。空に住まう全ての者に幸あれ。』
●天空教中央宗教庁からの発令
『1.今年以降、始祖降誕祭は中止とする。
2.年初めは代わりにユールの日として祝うべし。
3.食事前の祈りは、それぞれが信仰する神に捧げること。天空教中央宗教庁が推奨する祈りの聖句は下記を参照のこと。
いあ、いあ、はすたぁ、はすたぁ、くふあやく、ぶるぐとむ、ぶぐとらぐるん、ぶるぐとむ、あい、あい、はすたぁ。』
●当局より重要なお知らせ:反体制主義者について
『1.反体制主義者を見かけた場合は、護国卿直下の特務部隊に知らせること。
2.通報が真実であれば、報奨金を通報者に支給する。
3.ただし通報が真実でない場合は、通報者が尋問費用を負担すること。
4.尋問は護国卿直下の特務部隊が行う。
5.反体制主義者は憎むべき者であり、我らと同じ天空の下では呼吸をすることさえ許されない者だ。故に、天の見えぬ地下での強制労働に従事させる。しかし安心せよ。アルビオンは天空に浮かぶ大地。掘り続ければやがては空に抜けるだろう。その頃には彼らも信仰に目覚めるはずである。』
●クルデンホルフの矮人(侏儒)奴隷の使用について、当局の発令
『やむを得ない場合は、脳と魂に“処理”を施して、クルデンホルフとの繋がりを絶ち切った上で矮人の奴隷を使用すること。
“処理”の方法については、各教区の司祭に確認のこと。』
●クルデンホルフ大公国への借款の返済についての非公式文書
『ハヴィランド宮殿地下にある擬神機関(アザトース・エンジン)建造場所から、適当な死体を押し付けること。
現物支給による返済はクルデンホルフ大公国(アトラナート商会)も承知済みである。』
●クルデンホルフ大公国アトラナート商会からアルビオン政府に宛てられた領収書のうちの一枚
『領収書
アルビオン政府 財務省 御中
E 5,000,000-
当月にお支払い予定となっていた、利息五百萬エキュー相当分の物品を確かに領収致しました。
詳細は下記明細をご覧ください。
・未分化標本 10点 × 100,000- = 1,000,000-
・魚人化失敗被験体 5点 × 50,000- = 250,000-
・擬神機関設計図Ⅰ/Ⅴ 1点 × 100,000- = 100,000-
・擬神機関設計図Ⅱ/Ⅴ 1点 × 200,000- = 200,000-
・擬神機関設計図Ⅲ/Ⅴ 1点 × 300,000- = 300,000-
・アイホートの雛 100点 × 10,000- = 1,000,000-
・グラーキの毒棘肢 15点 × 50,000- = 750,000-
・『バビロンの炎上』 1点 × 700,000- = 700,000-
・『シャッガイへの鎮魂歌』1点 × 700,000- = 700,000-
今後も引き続き、アトラナート商会の金融サービスをご利用下さい。』
◆◇◆
ハヴィランド宮殿地下の空間は、奇妙な音に包まれていた。
聞いただけで気が遠くなるような、調子が外れた、それでいて何処かここではない場所では調和が取れているような、何か上位構造における秩序を思わせるような、矮小な人間ごときでは決して理解出来ない、途轍もない、途方も無い存在のために奏でられているような、そんな――フルートの音。
擬神機関(アザトース・エンジン)の建造に携わっている開発部員たちが、その狂ったような、のたうつような金管楽器の音色に、うっとりと耳を傾けている。
「はぁ~。いつ聞いても、ミセス・オルレアンの奏でるフルートの音は絶品ですなあ」
様々な機械部品が散らばる、その作業建屋で、狂ったフルートの音色を奏でているのは、スラリとした赤いドレスに身を包んだ、青い髪の女性――オルレアン夫人であった。
そして小休止。第一楽章終了というところだろうか。
開発部長であるサウスゴータの娘婿が、彼女の演奏を絶賛する。
「まるで、故郷のシャッガイに帰ったかのようでした。いえ、シャッガイにも、これほどの演奏者は居ませんでしたよ!」
開発部長は、その頭部から、奇妙な虹色に光を反射する玉虫のような鞘翅を二枚、まるでウサギの耳のように生やしている。
そのウサギの耳のような翅は、おかしなことに、非常に朧気で儚い存在のようだった。まるで蜃気楼か幽霊のような、そんな非物質の翅なのだった。
他の開発部員も、同じように玉虫色の朧気な翅を生やしている。
やがて小休止が終わり、再びフルートの狂った音色が作業建屋に満ちる。
オルレアン夫人の演奏に合わせて、その翅たちが波のようにさわさわと揺れ動く。
それは螺鈿の貝細工が吊るされて風に揺れるような、幻想的で――故に気が狂いそうな光景であった。
~~しばらく狂ったフルートの音色をお楽しみください~~
そして演奏が終わり、オルレアン夫人が礼をする。見事な礼だった。
アザトース・エンジンの開発部員たちが、万雷の拍手を送り、また半物質の鞘翅を擦り合わせて、空気だけでなくエーテルも振動させる。
やがて赤い彼女は、顔を上げる。
「素晴らしい演奏をありがとうございました! ミセス・オルレアン! 神掛けてあなたは宇宙一のフルート奏者だ! きっとトルネンブラも嫉妬するに違いない!」
「まあ、ありがとうございます。本場のシャンの方たちに褒めて頂けるなんて……光栄ですわ」
「いやあ、本当に素晴らしい演奏でしたよ! 本当に! アザトース様が顕現するかと思いました!!」
開発部長が、赤い女の演奏に感極まった余り身を乗り出し――そして彼の目玉がぐるりと回って白目を向いたかと思うと、
ずるり、
と彼の額から、まるで魂が抜け出るように、奇態な蟲が這い出した。
半円形の一対の鞘翅は細かな硬い三角形の鱗で覆われて虹色に輝き、大きな艶のない複眼のある頭部からは宇宙的なリズムで曲がりくねる触覚が生えており、三つの口吻が伸び縮みしてそれぞれが勝手に三重人格者のように別々に賛辞の言葉をまくし立て、胸から生える鉤爪がついた十本の脚が感動を伝えるために宙を掻き抱くように動いて、ぜいぜいと青白い腹部が蠕動していた。まるで地上の生物の道理から外れてしまったような、吐き気を催す生物だ。
そう、開発部長を始めとする開発部の面々の、その頭脳には、遙か星辰の彼方から転移飛来した蟲が棲み着いていたのだ。
狂人が書いた『バビロンの炎上』という書物や、彼らシャンたちが作曲したという『ミサ・ジ・レクイエム・ペル・シュジャイ(シャッガイへの鎮魂歌)』にて詳細に言及される、異星の昆虫シャンだ。
「あら、開発部長。出てきちゃってますわよ、中身」
オルレアン夫人が指摘すると、開発部長の額から出ていたシャンが三つの口吻で別々に言葉を吐きつつ、慌てて引っ込む。
「おやこれは失礼」「余りに演奏に夢中になってしまって」「素晴らしい演奏でした!」
「ふふ。お気をつけ下さいね。まあ、この開発建屋に入ってくる者は居ないでしょうから、それほど人目を気にする必要はありませんが」
かさこそと向きを変え、半物質体で出来た昆虫が、再び開発部長の頭蓋内に引っ込む。
シャンは溶け込むように額に消えてしまい、開発部長の目玉が再びぐるりと回る。
暫くカメレオンのように左右が別に動いていたが、やがてしゃきっと焦点が合う。
「どうですかな? これで戻りましたかね?」
「上出来ですわ」
赤い女が微笑む。
それだけで、開発部員たちは、まるで天にも昇るような陶酔感を味わう。
この女性のためになら何でもしてあげたいような、そんな気持ちになってしまう。
赤い女は、種族の壁すら超えた、魅惑のオーラを放射していた。
「それで、擬神機関(Azathoth-Engine)の完成度はどの程度なのです?」
「ええ、そうですね。まあ、7割というところでしょうか。アザトース様の招来は終わっていますし、封印制御装置も正常に稼動しています。まあ実際は機材の問題でアザトース様の余波の余波の余波程度の招来がやっとなのですが、それでもこのアルビオン大陸を動かすには充分でしょう」
「順調そうね。良いことだわ」
「ええ。始祖ブリミルでしたっけ? 彼が手がけたサウスゴータの都市規模五芒魔方陣が残っていたのは僥倖でしたね。あれを中心としたレイラインと、このハヴィランド宮殿地下の炉心を接続して、招来した神気を全土に巡らせる準備も終わりつつあります」
「重畳重畳。まあ、六千年前に一度は聖地からこの空域までこの大陸を『レビテーション』して、始祖が運んできたわけですからね。その時の呪的痕跡を利用すれば、作業も捗るでしょうね」
アルビオン大陸の由来を解説する赤いオルレアン夫人の話に、ふむふむと開発部員たちが頷いている。
「この惑星の原住種族ながら、なかなかやるものですな、ブリミル某とやらは。これだけの岩の塊を6000年も浮遊させ続けるのですから」
「大天才だったらしいわ。甲斐性なしで自分の妻に殺されるような男ではあったけれど、でも一族のために最期の力を振り絞って大陸を飛ばして、天敵(エルフ)の居住地サハラから遠ざけるくらい責任感が強かった、大英雄。とはいえ、彼もハルケギニアの原住種族ではなくて、外様の種族だけれど」
「はあ、そうなんですね。それにしても、この惑星は特異点か何かでしょうか? 幾ら何でも色んな種族が飛来しすぎでは」
我々も含めて、と開発部員たちは顔を見合わせる。
あるいはこの惑星は、シャッガイ星のように、強力な支配種族が色々な惑星から奴隷種族を集めた惑星なのかも知れなかった。
だが、赤い女は首を振ってそれを否定する。
「珍しいことじゃないわ。この程度の混沌は、無限に広がる宇宙では珍しくもなんとも無いものよ。ただ単に――そう、言うならば、運が悪かっただけ」
「なるほど。確かにそうですな。我々も元を辿れば、運悪くこの惑星に漂着したクチですし」
HAHAHAHAHAと、彼らは笑いあう。
赤いドレスに身を包んだオルレアン夫人は、そんな彼らを尻目に、擬神機関の炉心へと、うっとりとした視線を投げる。
当然ここからは炉心の内部は見えない。何重もの物理的・魔術的防御によって慎重に慎重を重ねて封印された区画に、炉心は存在する。
その炉心には、宇宙の原初の混沌の息吹が宿っているのだ。
擬神機関を動力源とした大陸要塞アルビオン号が稼働することで、アルビオンは名実ともにハルケギニアの空の覇者となるだろう。
しかし、擬神機関の完全起動まで、あと暫しの時間を必要とする。
故に、アルビオン政府はその時まで邪魔が入らぬように、トリステインやガリアなどのハルケギニア諸国の動きを撹乱する必要があった。
空からの魔手は、静かに大地へと伸びていく。
◆◇◆
時刻は黄昏から宵闇に変わる頃合い。
ラグドリアン湖の湖畔。
増水した湖は、周辺の家を屋根まで呑みこんでしまっている。
大雨が降ったわけでもないのに、ここまで増水してしまうのには理由がある。
その原因は、この湖に住まう水の精霊だ。
この湖の水量は、水精霊のさじ加減ひとつで容易に増減するのだ。
魔力を帯びた水によって構成される彼、あるいは彼女は、一種の群体意識体であり、トリステインやガリアの建国以来不変の存在であった。
この湖自体が水精霊である彼女(性別不明であるが水精霊は非常に美しい存在であるとされているため、女性形で呼びならわされている)の棲家であり、また彼女自身の身体でもあるのだ。
人間とは随分異なった世界認識を持つ彼女であるが、全く話が通じない存在ではなく、トリステイン王家などと盟約を結び、人間たちにラグドリアン湖を水源として開放している。
というわけで、ラグドリアン湖は通常、雨水流入の多寡によらず、ほぼ一定の水量を保ってきた。
なので、ここまでの異常な増水というのは、過去のどのような文献をめくってみても、記録がない。異常極まる事態である。
トリステイン側も、ガリア側も、少なくない民と領地の水源を、無限の水瓶とも言えるラグドリアン湖に頼っており、それゆえに、事態の解決は急務だといえた。
水精霊を刺激しないようにという理由で、現在は周囲の立ち入りが禁止されている。
しかしその誰も居ない筈の湖面が波打ち、水中から無数の泡が立ち上ってきたのか水面が沸騰したかのようにボコボコと泡立って、激しく水飛沫を上げる。
幾つもの波紋が湖面を伝う。気泡が上がってきている場所のあたりには、巨大な影が水中に見える。
これは誰かが水遊びをしているわけでもない。当然だが湖の中央に人影はない。
漁をしているわけでもない。ガリア政府とトリステイン政府の命で、事態解決まで付近住民は避難させられている。
では何が湖水の中から気泡をぶくぶくと放出しているのか。巨大な肺魚(ハイギョ)だろうか? 全長3メイル以上になるラグドリアンオオナマズ? 巨大なザリガニやミ=ゴのような甲殻類? いやそれとも、未発見の巨大生物だろうか? はたまた古代の巨大爬虫類や水竜の生き残りだろうか?
巨大な円形の影は、湖底に沿って移動しているのか、ゆっくりと人の歩みくらいの速さで岸に向かって移動しながらせり上がって来る。
岸から10メイルほど沖のところ、水深2メイルほどの場所に来たときに、湖面にそれまでの気泡の群れとは異なった変化が生じた。
水面が、影の上だけ、うっすらと凹型に水位を下げていくのだ。
影がさらに岸に近づくと、ついに水面の凹みは限界に達し、ざあざあと凹んだ水面が滝のようにして流れ落ち、湖にポッカリと大きな穴が空く。
湖岸に近づいていた影らしきものは、何らかの手段(おそらくは魔法)で維持されていた巨大な空気の塊だったのだ。
それと同時に、甘ったるい強い香気が広がる。夜に咲く花の中には蝙蝠(コウモリ)に花粉を媒介させるために香気が強いものがあるが、そのような匂いである。あるいはクチナシの花のような、甘い匂いだ。
その甘い匂いは、おそらく水が流れ込んだことによって、気泡の中から入れ替わりに押し出されたのだ。気泡の中には、クチナシのような匂いが充満していた。
月下美人の花のような、クチナシの花ような、独特の甘い匂いをさせながら、湖に空いた穴はさらに岸辺へと進む。
徐々に穴(気柱)の中身が明らかになる。
空気の穴を引き連れて湖底を歩いてきたのは、10人ほどのローブに身を包んだ人影たちだった。
その中の一人は杖を掲げている。やはりこの気柱は、風の系統魔法によって維持されているのだろう。杖を掲げた者の他に、数人は、何か大きな銛のような物を持っている。
ラグドリアンの湖水に触れることを忌避するように、彼らは慎重に歩みを進める。
「気を付けろよ。彼女に気取られると面倒だ」
「アイ・サー」
気柱に包まれて湖を歩く一団は、遂に岸へと辿り着く。
気柱の一部が岸に接触し、水際のラインが“ひ”のような形になって、気柱の内側と岸辺が地続きになる。
闇にまぎれて詳しくは見えないが、一段の間に明らかにほっとした空気が流れる。緊張が緩む。
「上陸開始」
「イエッサー。上陸開始」
それが不味かったのだろう。
ほんの一瞬だが、魔法によって維持されていた気柱が揺らぎ、押しとどめられていた湖水が跳ねた。
そして、一団の中の一人のローブの裾に、そのラグドリアン湖の水飛沫が掛かった。
だがそれはほんの些細な量の水で、しかも一瞬であったため、一団の誰もそのことに気がつかなかった。
――しかし、そのことに気づいたモノも居た。
「――……」
いや、正確には、そのこと“で”気付いたモノが居た。
ゆっくりと、しかし確固とした意志を持った動きで、湖面が持ち上がっていく。
クチナシの匂いを纏うローブの一団は、それに気がつかない。
湖水の一部が、岸を伝って、彼らの行く手を遮るように薄く伸びていく。
「湖水には触れるなよ」
「アイ・サー」
彼らはそれに気づかない。
無数の水の触手が、脈動しながら徐々に湖面から立ち上がる。氷柱が伸びるのを早送りにするように、水柱が伸びる。
彼らの行く手の森の中の木々の幹の表面にも、湖から水が這い上がり、静かに彼らを包囲する。樹の葉という葉から溢れた水が、露となって滴り落ちる。
彼らはそれに気づかない。
そして彼らがアレだけ忌避してきた湖水は――水精霊の身体は、静かに、しかし完璧に彼らを包囲した。
彼らはそれに気づかない。
そして、遂にその時が訪れる。
「……何か、変じゃないか?」
「湿気が異常に――」
息苦しいほどの湿気に彼らが周囲を見渡したときと、水精霊の触手が彼らのうちの風メイジと思われる杖を掲げた一人を貫くのは同時であった。
「ガっ……?!」
「穢らわしい。死人(しびと)どもめ。八つ裂きに。してくれる」
充分な量の水で包囲をした水精霊が、ローブの一団に牙を向いた。
気柱型の結界を維持していた風使いを貫いた水の触手は、瞬時に四分五裂して細かく裂けて、風使いの身体を傷口から広げるように八つ裂きにして爆散させる。
使い手が死んだことで、風の結界は解除される。
もはや水精霊の浸食を止める者は居ない。
九つ首の大蛇のように、水の精霊の触手が次々と一団を襲い、彼らをバラバラに引き裂いていく。
「くっ、感知されていたか!」
「円周防御! 円周防御! 円陣を組め!」
人体が引き裂かれたことによって、あたりに血の匂いが満ちる。
そしてその血臭を上回る、あの何とも言えない甘ったるい蜜のような匂いも。
甘いクチナシの花のような匂いは、彼らの体内から発散されているようであった。
蒼水色の触手によって引き裂かれた彼らの身体が、ぼとぼとと落下する。
その時、まるで汚いものに触ったかのように、あるいは油の浮いた水面に洗剤を落としたときのように、さっと水精霊が彼らの血や肉塊の傍から退いた。
よく見れば、水精霊の触手は高速で回転しており、ローブの者たちに接触したときには、その接触部位を飛沫にして切り離しているようだ。
それほどに、触りたくないのだろうか。穢れが酷いということなのだろうか。あるいは、彼らの血から何かが伝染するということなのだろうか。
「穢らわしい。穢らわしい。穢らわしい。忌まわしい。忌まわしい。忌まわしい。我に火が使えれば。跡形もなく。燃やし尽くすものを」
ローブの一団のうち残っているのは、何か長い銛のようなモノを持ってファランクスのように密集防御隊形を取っている4人だけだ。
水精霊の触手を近づけないように、彼らは銛の先をゆらゆらと油断無く揺らして、徐々に徐々に、跛(びっこ)を引き引き湖から遠ざかる。
「地下からも彼女の触手が伸びているぞ!」
「近づけるな! 棘を刺せ!」
彼らは時々、手に持った奇妙な銛を地面に突き刺す。
その度に、地面を伝って身体を浸食させていた水精霊が、電気ショックを受けたウミウシが身体を縮めるように、突き刺された地点を中心にして5メイルほど、一瞬で退却する。
水精霊が身体を伸ばして来るたびに、彼らは銛を地面に突き刺す。するとそれを嫌がるようにして水精霊が身体を縮める。
彼らの持つ銛に塗られた何か(・・)を、彼らの血肉を嫌うのと同じように、あるいはそれ以上に、水精霊は嫌っているようだ。
何度か一進一退の静かな攻防を繰り返すうちに、彼らは遂に、水精霊の触手から逃げおおせてしまった。
「……。逃がしたか」
彼らを逃がしたことを水精霊が悔いているのか、暫く湖面が不自然に盛り上がったり煌めいたりしていた。
だが、やがて水精霊も再び湖底に戻ったのか、ラグドリアン湖は静かな状態に戻る。
空に浮かんだ双月が水面に映り込む。
一陣の風が吹き、月影を乱す。
湖上に蟠っていた甘いクチナシの花のような匂いも、風が吹き流していく。
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ルイズたちがラグドリアン湖に行くと予告したが、スマン、ありゃ嘘だった。
……いあ、ホントはサクっとラグドリアン湖に行く予定だったのですが。書いているうちに長くなってしまいました。
あと10話くらいで完結させられたらいいなあ、とは思ってます。出来ればそれまでお付き合い下さい。
パロネタは減らしていく予定……です。何か思いついてしまうとその限りではないですが。今回のFMJの軍曹ソングネタとか。
まあパロディは、自分の描写力の不足を先人の遺産に頼って糊塗してるようなもんですしね。夢の卵編でだいぶ『ネタを形にしたい欲求』を発散したので、暫くはパロネタを軸にした話はしない、と思います。多分。
次回は外伝でダングルテールの話(の予定)です。
2011.05.22 初投稿