世の中に邪神というものが存在して、彼らが自分たちより遙かに卑しく劣っている人間という存在に興味をもつのは、一体どういった理由からだろうか。 人を喰うため? あるいはそれが在るかも知れない。 だが、神にとって人喰いは必須では無いはずだ。 人喰いが必須なら、それは神ではなく、単なる捕食者に過ぎない。 自身の存在に人間の崇拝が必要だから? そんなバカな。 人間の想念で左右されるような惰弱な存在は、神でも何でもない。 それは人間の奴隷に過ぎない。いや、ただの寄生虫だ。 彼らが『そういうモノ』だから? 人間に関わることこそが、彼らの定義であり存在意義だから? 修辞学的には、それでも良いだろう。 所詮、人間は宇宙の偉大なる真理を理解することはできぬ。 故に自分たちに関わる現象のみを取り出して定義すれば、そういうことになるかもしれない。人間に関わる神の全ては、それこそが存在意義である、と。 まあ、人に仕えることを運命づけられた天使や悪魔ならば、その定義は当てはまるかも知れないが、そうすると今度は彼らの上位にさらに“神の神”を仮定しなくてはならない。 そうなれば無限回廊だ。世界は無限の階層を造り上げる。いや、あるいはそれが正しいのかも知れない。 ……正しいのか? 本当に? 彼らよりももっと深遠で畏るべき存在が、さらに存在するとでも? まさか。そんな。そんな事はないはずだ。そうであって欲しいと、切に願わざるをえない。 ……話を戻そう。 神にとって、人間とは何か。 彼らは、何故人間に関わるのか。 決まっている。 そんなモノは、全て暇つぶしのために決まっている。 神が人間を省みるか? バカな。 彼らは彼らの暇つぶしの娯楽のために、人間を操作し、創作し、干渉し、鑑賞するのだ。 人間が漫画を描くように、彼らは人生を弄ぶのだ。 人間が小説を書くように、彼らは世界を創作し、破壊し、混乱に陥れ、秩序を敷き、美を求め、醜を極め、蒐め、陳列するのだ。 人間が楽器を弾くように、彼らは毒電波を垂れ流し、魂をかき鳴らすのだ。 あるいは好みの番組を見るように、好みの感情を求めてTVのチャンネルを変えるように人間の精神をザッピングし、ある時にはその人間の人生という名の劇場を誘導するのだ。 神にとって、人間など、手頃で安価なおつまみのようなものだ。 無くてもいいけど、ちょっとは在った方が……。 そういう、どーでもいいモノなのだ。 例えば“彼”は最近お気に入りの番組にチャンネルを合わせる。 ここのところ“彼”のお気に入りの演者は、なかなかに頑張ってくれているようだ。 彼の頑張りに免じて、少しくらいスポンサードしてやっても良いだろう、と“彼”は考える。 そう、卑近な例でたとえれば、こんなトコロだ(神の行動を人間に例える不遜に関しては、どうか目をつぶって欲しい)。 ――そして“彼”の些細な興味の意志は、暗黒の星の海を渡り、宇宙に浮かぶ取るに足らない青い惑星の、そのまた表面に漂う“彼”の小指の先の爪の垢ほどもない大きさの陸塊、すなわち白の国、アルビオンにて、“彼”のお気に入りの演者の脳髄に受信される。「キターーーー!! キタキタキタ! キましたよーーー!! イゴーロナク様の崇高で邪悪な“ぱわぁ”が! ビンビンに! おおお、あらゆる全ての邪ま(よこしま)なるものを凌駕する正真正銘の邪悪なる、我が神! これは今後も私に励めということなのですね――!?」 苦鳴が満ちる空間にて、クロムウェルは、大宇宙の果ての暗黒を超えて飛来したエーテルの波動を受けて、両手を組んで祈り捧げるような格好で恍惚となる。 醜悪なオブジェと、それが奏でる呻きが、彼の昂揚をさらに高める。 周りのオブジェは、彼が作った刹那の芸術だ。 例えば、腸を滑車に巻き取られて尚も身体を蠢かせる、磔刑にされた男。 その向かいでは、骨を丹念に砕かれて蛸のようにぐにゃぐにゃになった手足を、巨大な車輪のスポークに絡みつかせられて、まるで卍型のような形にされながらも、それでも生きている女が、髪を振り乱して車輪とともにぐるぐると回されている。 樹脂製の袋に包まれた男は、四肢の根本をきつく縛られており、鬱血して壊死した自分の手足の腐敗ガスで今にも死に行こうとしている。 部屋の隅には、何やら良く分からない塊がうず高く積まれている。 それらはクロムウェルの拷問行為の犠牲者であり、そして、今後も拷問に使われる素材たちだ。 肉塊は完全に死んでいるが、死は救いではない。 クロムウェルの悍ましい“復活”の秘儀によって、哀れな哀れな肉塊は、何度も何度も死ぬ度に蘇らされている。 そしてその度にやはりクロムウェルの手によって拷問死している。 無間地獄の中で犠牲者の魂は擦り切れ、数多の同じ境遇の者たちと混ぜ合わされ、その屍肉と同じく、魂もこねくり回されて一塊になっていく。「ひゃははっ!!」 踊り狂う司祭が百本に先が分かれた鞭を振り回す。 細く百本に分かれた先端には針金が打ち込まれていて、有刺鉄線のようになっている。 その鞭のゆく先には、既に百烈鞭によって肉が剥かれて白い背骨が見える女性が吊るされている。 ば、と、鞭の先が肉を抉る音が響き、女性のシルエットが大きな口を開けて声ならぬ声を上げて痙攣する。「やりますとも! もちろんです! おお我が神よ! 偉大で何よりも邪悪な、首無き両手の口、イゴーロナク様! どうか見ていてください! 今日もオリバーは、貴方さまの為に励んでおります! あははは、あはははははは、ははははははははははははははははははは――」 び、ば、びしり、ばぱっ。ははは、ひゃは、ひゃははは。 敬虔な聖職者である彼は、汗に塗れながら祈りを捧げる。 ――ああ、ハルケギニアの皆が、この素晴らしい悪の恍惚を共有できますように! だがクロムウェルの信仰が、他の者にとっても真実とは限らない。 私が思うに、神も、真実も、人の数だけ存在するのだ。 そしてそれ故にそれらは常に対立する。 混沌なのだ。 混沌のみがすべてを許容する。 対立すらも呑みこんで。 だが、私は混沌を許容しない。 世界解釈は人間の数だけ存在する。 真実は星の数ほど存在する。 混沌だ。 だがしかし、混沌などという解釈の諦めに、私は逃げこまない。 真実が一つではないなら、その全てを網羅するまで。 あなたにとっての真実は、一体何だ? あなたの目に見えている世界と、私が見ている世界は、絶対に同じではない。 絶対に。 ならば、何が宇宙の真実なのだ――? 混沌こそが真実だとでも? 違う。 違うはずだ。 全てを蒐めて、分類して、解剖して、分析して、再構成すれば、もっと、もっと、もっと何か、何かが、真実真理というものが、あるはずだ。 あるはずなのだ、絶対に。 ああ、知りたい。 知りたいのだ。 全てを知りたい。 知り尽くしたい。 その渇望に衝き動かされて既に千二百年。 私は――ウード・ド・シャンリットは、未だ、何も知らないに等しい。 深遠な大宇宙の中で、私は無知という大海に囲まれた孤島の住人なのだ。 幾許か周りの海を埋立てて孤島を広げたものの、そんな私の千二百年は、海水をバケツで汲んで干上がらせるような、無謀な行動に過ぎない。 ホールケーキを解体する一匹の蟻のように、私は無力だ。 だが。 だが、私は、それしか方法を知らない。 何千年、何万年、何億年かかろうと。 私という自我の枠組みが擦り切れても。 何度生まれ変わろうとも。 蜘蛛神の呪わしい祝福によって、人の身体を捨てて蜘蛛の化物になっても。 今や極微小炭素繊維網型の魔法具というシステムの一部を構成する知性要素となっても。 そして宇宙に広がる幾兆もの下僕の矮人の脳髄中の無意識に刷り込まれた断片的な、好奇心という名の衝動に過ぎなくなっても。 何があっても。 私が何モノになったとしても。 私というものが無くなったとしても。 私は――ウード・ド・シャンリットは、自分の業(カルマ)の命じるままに、世界を解体し、混沌を暴き、知識という名の儚い自分の領土を広げてゆくほかの生き方を知らないのだ。 そう、私はただ一つの慈悲を拒絶した、死のない男。 死という慈悲と救済――終わりを拒否した私には、もはや狂うしか当てはないのかも知れない……。 この千二百年で初めての出来事、虚無の遣い手たちが勢揃いする、というイベントを活かして、敵を育てるというアプローチも始めてみたが、どこまで効果があるものやら――。◆◇◆ ラグドリアン湖の水辺の村では、死者を弔うために、水葬にする習慣があった。 これは始祖ブリミル光臨以前からの習慣であり、国やブリミル教会が再三にわたって改めようとしてきたが、今に到るまでその試みは成功していない。 ラグドリアン湖の水底は、村人たちにとって、先祖の遺骨が眠る墓地であり、日々の糧を恵んでくれる慈母であり、自分たちがやがて還っていく冥界の入口であるのだ。 湖の底には、水精霊が築いたという都市が広がっているらしい。 祖先の魂は、壮麗な水底の石柱都市で、死後の暮らしを送っているのだろうか。 その都は、かつての先祖たちが水精霊と祖先の魂の慰撫のために湖上から沈めた建物が折り重なったネクロポリスだとも、あるいは始祖の時代の都市が沈んだものだとも言われる。 水精霊と祖先の魂、そしてそれを慰撫する魚たち――。 ――だが、水底に居るのは、本当に、それだけなのか?◆◇◆ 蜘蛛の巣から逃れる為に 26.ラグドリアン湖は梔(クチナシ)の香り◆◇◆ ルイズとサイトは、防毒マスクで顔を覆いながら、緑色に腐った水辺の一角を検分していた。 ここはサイトが軟着陸した場所の付近で、サイトが偶然見つけた異常な場所である。 腐った緑色をサンプル管に入れつつ、サイトはルイズに訊ねる。「……ルイズ、これ、何だか分かるか?」「――そうね。恐らくだけれど」 サイトの問いにルイズは、マスクに遮られてくぐもった声で肯定を返す。 今も尚、緑色の神毒は、しゅうしゅうと不気味な蒸気を上げながら、樹々を枯らしながら、大地を汚す範囲を広げている。 毒によって爛れた樹々は、本来植物に活力を与えるはずの日光によって、次々と崩壊し、緑色の屑になってしまう。 時折、枯れた樹々の内側から、樹の幹の芯がまるでイモガイの毒銛のように弾けてルイズたちに向かって飛び出すが、刹那のうちに日光に焼かれて溶け消える。 それを見て、ルイズは確信を持って答える。「これは多分、“緑の崩壊(THE GREEN DECAY)”よ」「あー。やっぱりルイズもそう思う?」 防毒マスクの下で表情は見えないが、声から察するに、サイトの顔はきっと苦虫を噛み潰してセンブリ茶を飲んだみたいになっているだろう。 そんなサイトの声色を察して、ルイズが同情的な声を出す。「そういえばアンタは、“従者”に遭ったことがあるんだったわね。記憶を読んだから知ってるわ」「ああ確か、ロンドンにまで教授の調査旅行について行った時だ。あの時は大変だったよ。三ツ目の蛞蝓神の毒のせいで次から次に“従者”が湧いて出て……。夜明けまで持久籠城戦でさ。そして、日の出と共に奴ら哀れな“従者”は蒸気を上げて緑のカスになったんだ」 教授の発表に着いて行ったイギリスで、サイトは同じような現象に遭遇したらしい。 チューブ(ロンドン地下鉄)から溢れて襲い来る屍人。曙光に焼かれて消え去るそのゾンビども。残される緑色の、吐き気のする、饐えたような甘い匂いのする残骸。 彼もよくよく運の悪い男である。 時々ルイズたちに向かって樹の幹から鉤爪の付いた触手のような物が伸びるのは、毒に侵された枯れ木――植物の死体――がゾンビ化しているためだろう。 まあ、日光に弱いので、直ぐに空中で触手は溶け爛れて消えるのだが。 サイトは溶けた緑の残骸を採集用のトングのようなもので掻き集めつつ、しばしそのロンドンの悪夢の夜の顛末を思い出す。「後で教授が調べたところによると、随分昔にやった下水工事のときの穴に地下水脈――セヴァン渓谷に水源を発する水脈らしい――からの毒水が溜まって、それが偶然にも忘れ去られた地下共同墓地に流れこんで、そこの遺体を神毒が侵して“従者”に変えたんだとか何とか」「どんだけ運が悪いのよ、アンタ」「そりゃあルイズが良く知っているだろ? 異世界に強制召喚されるくらい運が悪いんだよ」 サイトが自嘲し、ルイズが呆れて、しかし愛しそうな眼差しで笑う。「ふふふ。ま、運命と思って諦めなさい」「まあこの期に及んで、どうこう言うつもりはないぜ。これも何かの縁だ。最後までルイズに付き合うよ」「ええ。最期まで付き合ってもらうわ」 最後と最期のニュアンスが、二人の間で微妙に噛み合ってないような。「しかし――」「何よ」「仮定の話に意味はないけどさ、もし俺が“門の観察(VIEW GATE)”でも覚えていたら、あの召喚ゲートを潜らなかったかも知れないと思ってさ」 “門の観察”とは、異次元へと繋がるゲートの先を探査し見通すための呪文である。 もし召喚の際にサイトがこれを使えていれば、得体の知れないゲートを潜ることなど無く、彼はハルケギニアにやってくることはなかったかも知れない。 しかしルイズは首を横に振って、サイトの仮定を否定する。「いいえ、きっとアンタは何をやっても、どういう経緯にしてもハルケギニアに来ていたはずよ」「運命ってやつか?」「まあそんなところね。ゲートの繋がる先が分かったとしても、例えばアンタの教授は、アンタにゲートの先の調査を命じただろうし」「……確かに」 割と門下生に無茶をさせがちな、あの敬愛する教授を思い出して、サイトは納得する。 尤もサイトが師事する教授には、全くそんな無茶をしているという意識は無いのだが。 天災級の天才の周囲は、それに着いて行くだけでも苦労するものなのだ。 教授からの信頼があつい(主に生還能力的な意味で)サイトは、“門の観察”を使って召喚ゲートを回避しても、その後恐らくゲートの先の調査を命じられただろうと容易に想像がつく。 教授なら無事にハルケギニアからでもセラエノからでも余裕で生還できそうだが、それを他の人間に当てはめるのは止めて欲しいものだ、とサイトは思う。「ああ、地球か……。何もかも皆懐かしい……」 サイトが遠い目をして呟く。 それにルイズが突っ込む。「何よ、急に似合わないこと言って」「いやまあこんな機会でもないと言えない台詞なだから、つい」「そんな事より調査を続行するわよ」「うぃ、まだーむ」 毒気に犯された空気の底で、場違いに穏やかな雰囲気で二人は検分を進める。 細波すら立たない凪の湖面。 風すらも、緑の腐れた毒を忌避しているかのようだ。「そう言えば他の奴らは?」 サイトが訊ねる。 今ここには、ルイズとサイトしか居ない。 翼蛇エキドナは上空を鳶のように回りながら飛び、周囲に睨みを効かせている。 ルイズがサンプル回収の手を止めて、サイトを見据える。「タバサはガリア側の情報統合。モンモランシーはトリステイン側の情報統合。ベアトリスたちクルデンホルフ組は水精霊に異常に敵視されているから、後方に下げてるわ」「そうか」 黙々と、しかし確かに信頼し合った空気を醸し出しながら、虚無の主従は、神毒に侵された緑の残骸を回収する。「こうやって二人っきりになるのも久しぶりだな」 ぽつりとサイトが呟く。「……そうね。エキドナもデルフも、毒の範囲の外に置いてきてるし」「たまには、良いもんだな。こういうのも」「そうね、出来れば、こんな毒の邪神絡みじゃなくて、もっと平穏に二人きりになれる時間があればいいのだけれど」 ルイズの口から悩ましげな溜息が漏れる。「違いない。だがまあ先ずは――」 サイトもルイズに同意して頷く。 まるで仲の良い夫婦のような空気だ。「ええそうよ。先ずは、あの蜘蛛の祭司を――千年教師長を放逐して、そしてやがて、邪神という邪神を封印するまでは、私に平穏は訪れないわ」「ハードだよなあ、まったく。やれやれ、仕方ないご主人様だ」「……別に付き合わなくってもいいのよ? アンタが望むなら、虚無の『世界扉』で今直ぐに送還することだって――」 言い募ろうとするルイズをサイトが遮る。「そう言うなよ」「でも」「何、まあ、俺だって、邪神連中に対しては、色々含む所があるしな。ルイズを、俺の大切な女の子を、独りきりで逝かせたりはしないさ」「あら、嬉しいことを言ってくれるじゃない」 ルイズの雰囲気が、花咲くように明るくなる。 彼女は不安だったのだ。 負い目があったのだ、サイトを無理やり召喚したことについて。 サイトは照れ臭いのか、尻尾を振る犬のような空気を滲ませるルイズの視線から逃れようと顔を逸らす。「それにどーせ地球に居たって似たよーな事には巻き込まれただろうしなー。それなら、ファンタジーな世界で可憐なご主人のパートナーとして邪神に立ち向かうほうが、心情的にも勝算的な意味でも随分マシだ」「ふふ。確かにそうかもしれないわね」「そういうこと。――ってわけで、コンゴトモヨロシク」「こちらこそ。私のガンダールヴ」 決意を新たにする二人。 熱く燃える魂が篭った視線が絡む。 サイトとルイズを強く結びつけているのは、どうやら運命の軛だけではないようだ。 世界を揺るがす恐ろしい邪神に対する共通の敵愾心が、やはり彼らの根底には存在するのだ。 ハルケギニアに於いて、抗いがたい存在に翻弄された者たちの末路を見て心を痛め、更に大地を覆う千年の蜘蛛の黒い網に絡め取られた自分を自覚しているルイズは勿論のこと、地球に於いて理不尽で数奇な事件の数々に巻き込まれたサイトの心の底にも、その『理不尽に対する怒り』はある。 それが――運命に抗いたいという強い想いが、逆説的に二人の運命を引き合わせたのかも知れない。 無理無茶無謀は承知の上。 しかし、それでもなお、人間の尊厳のために。 いや、そんなお為ごかしは必要ないのだ。 必要なのは、怒り。 必要なのは、憤り。 それこそが、そしてそれだけが、人間が邪神に対して立ち上がるために必要なものなのだ。◆◇◆ モンモランシーは『香水』の二つ名を持つメイジである。 それは彼女の繊細微妙な水魔法の腕前と、何よりも、彼女の嗅覚に依るところが大きい。 犬や狼を使い魔にしたメイジでさえも分からないような微かで細やかな香水を調合できるのはその鋭敏な嗅覚と、類まれなる彼女のセンスゆえだ。 まあ、犬や狼の嗅覚を使い魔のラインを通じて共感覚で得たとしても、それは犬狼の嗅覚感覚であって、決して人間のそれとは同じではないのだから当然だ。 例えば、犬にとってマタタビが得も言われぬ極上の香りであっても、人間にとて必ずしもそうであるとは限らないように、犬と人では、求める匂いが違う。 使い魔の嗅覚を通じて、新しい角度から香りについて考えることができても、それをそのまま調香に生かせるわけではない。 場合によっては使い魔の感覚に引きずられて、メイジ自身の嗅覚世界が一変することだって有りうる。 蠅を召喚したばかりにネクロフィリアやスカトロジーに目覚めたメイジというのは、都市伝説では割とポピュラーな部類だ。 夜な夜ないい匂い(彼にとっての、であるが)のする獲物を求めて、地下下水道を徘徊する怪しい人物がいて、彼あるいは彼女の正体は実はそういったメイジなのだ、とか言う噂話だ。――まあ実態は、屍体を探す食屍鬼(グール)か、標本採集に来た蜘蛛の眷属の矮人のどちらかだろう。 そんなトリスタニア百物語は置いておいて、モンモランシーの話に戻そう。 彼女は学生の身ながら、実家の支援で香水の直営店(ささやかなものだが)を城下町に構えている。 将来、社交界に出るときの為に名を売っておこうというのである(何だかんだで彼女は、甲斐性なしのギーシュに惚れているから、将来彼を支えるために、という目論見もあったりなかったり)。 そして彼女の狙い通り、香水は主に貴人に対してよく売れており、モンモランシーの調合する香水は、王都でもちょっとしたブランドである。 そんな彼女だからこそ、タバサの家(オルレアン家)の竜騎士に送られて、ラグドリアン沿いトリステイン側のモンモランシ領内の村に降り立ったとき、直ぐに異常に気づいた。「……? なに、この匂い……」 甘い、蜜のような、花のような、香り。 それが、うっすらと村全体を――いや、ラグドリアン湖一帯を覆っているのだ。 タバサの屋敷に到着したときは、色々とそれどころじゃあ無くて気にする暇がなかったが、馴染みの村に来てみれば、一種場違いな匂いにモンモランシーは直ぐに気がついた。「梔……かしら。でも、もうそんな季節じゃないし」 梔は、こんな夏の盛りを過ぎた麦穂が実る時期に咲くのではなくて、もっと早い時期――初夏の花だ。 何とも不自然な香りの空気に、彼女は警戒心を強める。 水精霊の乱心といい、増水といい、ルイズが調査に向かった緑に腐った森といい、そしてこの変に甘い匂いといい、おかしな事だらけだ。 彼女の後ろで、送ってきてくれたオルレアンの私設竜騎士が飛び立つ。 モンモランシーがそちらを振り向き、手を振る。 竜の起こす風で、一瞬だけクチナシの匂いが薄れ、竜独特の垢の少ない鱗の匂いと、ブレスの油が混ざったような竜臭とでも云う物が流れてくる。「ミス・モンモランシ、申し訳ありませんが、私はオルレアン公領に戻らせていただきます」「そうね、向こうも人手が要るでしょうし。ありがとう、送ってくれて!」「どうかお気をつけて、ミス・モンモランシ。……もうお気づきだとは思いますが、この湖は、今、何かがおかしい――」 ばさり、と竜騎士が身を翻し、地面から遠ざかる。 竜の巻き起こす風が収まると同時に、周囲の大気から、甘いクチナシの匂いが押し寄せる。 思わず、うっ、とモンモランシーは鼻を覆う。 そして力なく肩を落とす。「分かっているわよ、『この湖がおかしい』なんてことは……。ラグドリアン湖で産湯につかり、生まれた時から水の盟約の家系に連なる私が、気づかないわけ無いじゃない」 だからこそ、モンモランシーは彼女の血脈に宿る彼女の自負にかけて、このラグドリアン湖の問題を解決するつもりでいた。 だが夏期休暇中、ラグドリアンの異常を知って実家に問い合わせた彼女に下ったのは、待機命令。 余りに異常な湖の様子に、娘馬鹿の当主は、オスマン老が守る砦――魔法学院から出るなと彼女に命じたのだ。 当主である父親の命令で、魔法学院にて待機していたモンモランシーだが、本当は一刻も早く領地に駆けつけ、領民を安堵したかったのだ。 そわそわと学院前で便りを待っていた彼女に、渡りに船の、ルイズからの誘い。 魔女の誘いに乗って、彼女はこの呪いが溢れる湖にやってきたのだ。 だが、彼女は領地に舞い戻ったのを後悔していない。 領地が、領民が危難に見舞われているというのに、安全な場所でのうのうとしていることなど出来るものか。 ……危険度が高すぎて一族郎党全滅の可能性があるから嫡子のモンモランシーだけは避難させておこうという父の気遣いは分かっているが、それでも何もせずに待つということは出来なかった。 彼女は若く、それ故に歳相応に理想主義者であった。 決意を新たに、モンモランシーはモンモランシ家の当主である父が待つ邸宅へと足を向ける。 ルイズから預かった“女王陛下直属ゼロ機関長への命令書”の写しと、ゼロ機関長官ルイズ・フランソワーズからの協力要請書を携えて。 これだけあれば、いくら父とて彼女の参戦を拒めはしまい。(……王家とルイズ、ひいてはヴァリエール家への感情が悪化するかも知れないけど、解決にはあの極零の魔女の知恵と力が必要よ……多分) かなり胡散臭い書類だが、花押は確かに王家のものであるし、同級生のあの極零の魔女ルイズが、モンモランシーの協力を必要としていることも確かである。 まあ無下に断られたりはしないだろう。 屋敷近づくと、心配そうに屋敷を見守る老人がいるのが見えた。 その老爺が、帰ってきたモンモランシーに気付く。「おお、モンモランシーお嬢様。ようこそお帰り下さいました。私は近在の村の村長でございます。こちらには何時?」「ついさっきよ。あなたは――」「申し遅れました。ニヨン村の村長を務めております、オーバンと申します」 そう言って、老爺――オーバンは深々と頭を下げる。 記憶をあさると、確かに昔に会ったような気がする。 近隣の村長町長が集まる会合に、モンモランシ家長女として顔見せに行ったときに、見たような顔だ。 ニヨン村と言っても、特に何k特産がある村ではないはずだ。 特産品でもあれば、もっとモンモランシーの記憶にも鮮明に残っているだろう。 恐らくは、湖で獲れる魚と、豊富な淡水を利用した農業で生計を立てているのだろう。 しかし、ニヨン村の立地は、湖にほど近い場所だったはずだ。 増水による水没範囲はモンモランシ父が纏めているであろう測量資料を見なくては正確には分からないが。「……大変だったでしょう? 村が沈んでしまって……」「ええ。ですが、村人全員元気にやっておりますれば」「そう、それなら良かったわ。増水の問題も、直ぐに解決するはずよ」「ほうそれはどうしてです? 水精霊様の怒りは尋常ではない様子でしたが」 村の行く末が気になるのだろう。 オーバン村長は、興味津々な様子でモンモランシーに訊ねる。 彼を安心させるように、モンモランシーは意識して鷹揚に、笑顔をみせて答える。「この国有数のメイジが、女王陛下の勅命で投入されたのよ。……私の同級生なんだけどね」「ほう。その方はお若いのに、大層なメイジなのですね?」「ええ、それは間違いないわ。『極零(ゼロ)』のルイズと言えば、知る人ぞ知る大魔女よ」 オーバン村長は、驚いた様子で手を叩く。「おお! 成程、あの高名な夢の国の魔女! それは大変なことですな!」「夢の国?」 彼は、一介の村長風情が、何処で彼女のことを知ったのだろう? というか、夢の国、とは何のことだ? モンモランシーは疑問に思うが、それを深く意識する暇もなく、オーバン村長は言葉を連ねる。「それならば安心ですな! ではモンモランシーお嬢様、私はこのことを村の皆に知らせてきますので、ここで失礼させて頂きます」「え、ええ。皆、不安に思ってるだろうから、安心させてやって頂戴……」「はい。では、私はこれで」 再び深く頭を下げて、オーバン村長は急いて、しかし歳のせいかそれ程スピードは出せずに、ゆっくりと足を引きずるように湖の方へと去っていく。「ニヨン村の人たちも、少しは安心してくれると良いんだけれど」 モンモランシーは、そう呟いて、父の待つ屋敷に入っていく。 心なしか、オーバン村長が去って行った後は、梔の香りが薄らいだ気がする。 ――――『ニヨン村は60日前に一夜にして洪水によって水没しており、逃げる暇もなく恐らくは全滅した模様。生存者の存在は絶望視されている』。 彼女がそれを知って背筋を凍らせるのは、この数分後のことである。◆◇◆ アルビオンの名物といえば、フィッシュ・アンド・チップスと、ウナギのゼリー寄せだ。 勿論、名物の“名”は、悪名高いという意味だ。 ダウンタウン(下町)の低所得労働者のための低価格高カロリー高タンパクのジャンクフードである。 相次ぐ内乱で疲弊したアルビオンでは、貧困層が増大した。 田舎の農地は借金の形に取り上げられて資本家によって統合され、労働集約的な工場が発達した。 土地から追い出された小作農たちは、工員として再就職し、劣悪な条件下で働くこととなった。 同時に輸送業兼業の空賊が横行し、風石の価格が上昇。 それに伴って、風石の需要が上昇。 鉱山では、鉱員の需要が高まり、低賃金労働者が多く必要とされるようになった。 そんな社会の底辺たちの心強い友(主に価格比カロリー的な意味で)が、フィッシュ・アンド・チップスと、ウナギのゼリー寄せだ。 材料が安価で、調理法は簡単、しかもカロリーが高い。 労働者の間で重宝がられるのも頷ける。 ……さて、周りが海に囲まれているわけでもないアルビオンで、何故魚が安く手に入るのか。 地球では、広大な海一面で光合成によって栄養を得る植物プランクトンが生息しており、その広い海を泳ぎ回って栄養を集めて成長する魚は、成長し切るまでに管理が必要な農作物(さらに農作物には土地の所有コストも必要である)に比べて、価格が安くなりやすい。 魚介資源も、農作物と同じように養殖して管理しだすとコストが上がるし、漁法の革命などで大量に入手できるようになる必要があるが……。 空中大陸であるアルビオンでは、一般に土地は痩せている。 6000年前に浮遊し始めたとき以前から、それ程に栄養豊富な土地ではなかったし、塩類は次々に下界へと流出する。 そもそも風石が形成するフィールド(一説によれば始祖が張った結界の効果だとも言われる)で守られているとはいえ、植物の生息限界海抜をブッチギリで上回る場所にアルビオンは位置しているため、作物の生育は悪い。 フィッシュ・アンド・チップスのジャガイモの方は、寒冷にも強い品種がアルビオンに於いては普及しており、高高度でも何とか生育できる。 土地の買い占め(囲い込み、エンクロージャー)によって現在では集約的な農業が可能になっており、ジャガイモはそれに伴って価格崩壊した物の一つである。 ジャガイモの方はともかく。 では海上ではなく空中に浮かぶアルビオンにおいて、白身魚とウナギは、何処でどうやって獲れるのか? 実は海から飛び上がって、遥々高度3000メイルまで空を飛んで魚がやってくるとか? 残念ながら違う。 正解を言おう。 魚は河川や湖に於いて、養殖され、そこから流通させられるのだ。 ……さっき栄養塩類が流れ出して土地が痩せてるとか言わなかったかって? まあそうなのだが、それは地表の話であって、地表から流れだした栄養塩類は河川に流れ着くので、河川や湖水はそれなりに栄養豊かだったりする。 あと地下水脈とか。地下水脈とか。地底湖の主の水竜の噂だとかも聞こえてくる。 とはいえ、それだけでは養殖によって、低所得者層にも優しい価格の魚は手に入らない。 低価格の魚資源のためには、さらに安い大量の餌が必要である。 ではその魚の餌とは何だろうか。 勿体ぶらずに正解を言おう。 虫だ。 何故か分からないが、地上の大陸から、季節によって様々な虫が大群をなして飛来するのだ。 飛蝗、蛾蝶、飛行蜘蛛……。 様々な虫がアルビオン大陸目がけて飛んで来る。 それをアルビオンでは、目の細かな網をフネで曳いてまさに一網打尽に捕えて、魚の餌にするのだ。 まあ時期になれば網を曳くまでもなく、勝手にフネの帆に集ってくるのだが。 帆に当たって落ちた飛蝗が、甲板にバケツで掬えるくらいに堆積するのも珍しい話ではない。 何故唐突にこんな話をしたかというと、これから触れる一人の男に関係する。「よっこいしょーっ!!」 光の差さない岩穴の底。 何人もの男達が、穴を掘っている。 くぐもったような、岩を穿つ音が、奇妙にくぐもって反響して聞こえる。 ここに居るのは、アルビオン大陸に大迷宮を穿つ、陸軍の秘匿計画【I迷宮造営計画】に従事させられている囚人たちだ。 アルビオンの底で強制労働に従事する男たちのうちの一人、テリーも、昔は魚の餌になる虫捕りをやっていたフネ乗りだった。 普通、フネは、荷運びだけではなく、航路上での餌虫集めや、時によっては空賊を副業にしている。 テリーが働いていたフネは、その両方を副業にしていた。 前王朝であるテューダー朝が倒れたとき、新王朝スチュアート朝は、内乱で疲弊した財力や空軍力を補充するために、非情な政策を取った。 それはブリミル教の廃止による教会権力からの富の剥奪であり、苛烈な空賊狩りであったり、何やら恐ろしい魔術による恐怖政治であった。 テリーが乗るフネは、その時に摘発された。 乗員は問答無用で逮捕され、フネや商会の財産は没収。 彼ら乗員は、地下迷宮要塞の拡張に投入されたのだ。「あーあ、フィッシュ・アンド・チップスが懐かしいぜ」 この迷宮地下では、安価なフィッシュ・アンド・チップスすら出ない。 奴隷労働よりも悪い条件で、彼らは働かされている。 何せ飲まず喰わずだ。 お蔭でほら、彼らの肌は魚のように蒼くなり、首筋は深く鰓のように落ち窪んでいる。「全くよー、周りの奴らとも話が通じないしよー」 ぶつくさ言いつつも、テリーは、手入れもできずに爪が伸びた手で握ったツルハシを振るう。 周囲の者たちは、テリーと違い、黙々と、瞬きもせずに穴を掘っている。 死んだ魚のような顔で、彼らはツルハシも用いず、伸びた爪――それは既に爪というよりは食肉目やチュパカブラのような禍々しい鉤爪というべきものに変容している――を岩肌に叩きつけ、岩を崩している。 テリーは思い出す。 最初は、皆も何やら恨み言を呟いていたのだが。 食事はないのか、とか、何時終わるんだ、とか、うわあああああ水面に魚の化物が映って、とか、肌が乾く、とか。 そして穴を掘り進んでいくうちに、地下水脈にぶち当たってから、様子がおかしくなったのだ。 暫くは久しぶりの水ということで、皆、水を得た魚のように動きが活発になっていたのだが。 そう言えば、水は、何か甘い花のような匂いがした。 ……あれ、水抜きはしたのだったか? と、テリーは一瞬疑問に思うが、息苦しくないということは、水は何処かに抜けたのだろう。 それが時間が経つうちに、彼らの動きは、やがて緩慢で散漫になり、終いには、人間の意志らしきものを残しているのは、テリー一人という有様だ。 彼らの爪が異様に伸び始めたのも、その地下水脈に当たってからだった。「独り言でも喋ってないと、気が狂いそうだぜ」 常人ならとっくに気が狂っている状況でも、意志を保っているというのは、彼が鈍感なのか、それとも、もう既に。「それにしても、ここどこなんだろーなー。もう下に掘ってるのか、上に掘ってるのかどっちか分からんなあ。『兎に角掘れ。地図なんか残さなくても構わん。どうせお館様――アイホート(EIhort)様からの電波が教えてくれる。兎に角何処かに抜けるまで掘り進め』とか何とか言ってたが、何のことやら」 ぶよぶよした白い肌の将校が言っていた台詞を、テリーは思い出す。 それにしても、その将校の肌の下がゾワゾワと蠢いていたように見えたのは、テリーの気のせいだったのだろうか。 何日掘り進んだのか、何メイル掘り進んだのか、何処に向かって掘り進んでいるのか、全く以て分からない。 位置感覚を喪失してしまっている。 そもそも、ここはまだアルビオンなのだろうか。 いや、空中大陸のアルビオンの地面から、何処か他の場所に繋がるはずもない、だろう。恐らくきっと。 ……と、掘り進むテリーのツルハシが、遂に岩壁を切り崩す。 「おっ! 抜けたか!? これでお役御免か!」 ツルハシが抜けた先は、今まで掘ってきた岩穴とは違い、蒼い微かな光に照らされている。 まるで水中のようだ。 途端に強い甘い花の匂いが、テリーの喉から肺の辺りにするりと抜ける。 遠くは全く見えない。 本当に水中のようだ。 蒼い光りに照らされて、周囲に何かの建造物が見える。 岩が積み重なったような、家の残骸を次々に上から落としてできたような、曰く言いがたい不格好で捻くれた建造物群だ。 尋常な重力のもとでは、このようなバランスが崩れた建物は建造不可能だろうと見て取れた。 風石で要所を支えるか、何かの圧力や浮力が作用しない限りは、それらの建造物群は造れないだろう。 大きな石柱のような、墓標のような、死者の都のような、静謐な雰囲気を湛えるそれに、テリーは目を奪われる。「おお、こりゃあスゲェ。……だが、ここは何処だ? 明るさから察するに、今はもう夜か」 テリーは時間感覚も無くなっている。 今が夜で幸いであった。 ――昼だったら、彼はもがき苦しんで緑の残骸へと変じてしまっていただろうから。 テリーが空けた穴から、わらわらと意志のない幽鬼のような足取りで、穴掘りに従事していた囚人たちが溢れてくる。 甘い何かの匂いに――彼らを変質させた匂いに惹かれて出てきたのだろうか。 空気を求める金魚のようにパクパクと口を開いて、彼らはのろのろとした動きで、謎のネクロポリスらしき建造物の方へと歩いて行く。「……おいおい、あっちに何があるってんだ」 再び彼が水煙に霞む死都を見上げる。 ゴクリと息を呑み、彼の首筋に空いた鰓孔から空気が上層部に向かって泡となって昇っていく。 瞬間、彼は、彼の精神が偶然に成した角度によって、幻影を見る。 タグ・クラトゥアの逆角度に近づいた彼の精神は、遠くの死都に覆いかぶさるような、巨大な影を幻視する。 それはまるでウミウシのような軟体を思わせるぐにゃりとしたシルエットをしており、茎状組織に支えられた三つの目を特徴とし、ハリネズミのように背中に金属質の棘を生やし、底面には棘皮動物の管足を思わせるような動作で蠢く逆ピラミット型の脚が並んでいる、全くもって神々しい、テリーの常識の外にある存在であった。 そしてその幻影を見た瞬間に、テリーは滂沱して跪く。「――おお、神ヨ!!」 彼は瞬時に理解した。 何故囚人たちがあの死都に向かっているのか。 ――それはそこに彼らの神の祭壇を築くためなのだ。 新しいこの水底に、水精霊の都をベースに造り変えて、彼らの神を――ぐらぁき様を迎えるのだ。「ああ、アア、あああ! 私が此処に繋ガる“道”を――“門”ヲ、掘リ当てタのモ、全ては我が神のオ導きだっタノデすネ!」 得度した、という様子で、テリーは水底のネクロポリスへと向かって、その鰭のついた脚を動かして、他の囚人仲間と同じように死都へ向かって泳ぎ出す。 梔の甘い匂いに満ちた湖底の水の中を、ぐらぁきに仕えるために、歓喜に打ち震えて進んでいく。 テリーが関わらされていたアルビオン軍の秘匿計画は、『I迷宮要塞造営』だけではなかった。 彼が巻き込まれていた秘匿計画――新設された海軍省の計画で、計画名を『魚人化部隊』と『湖底のG回廊』という。 少し前までアルビオンのダウンタウンで揚げた魚の死体(フィッシュ・アンド・チップス)を食っていたテリーは、今、魚人の屍体になって、ラグドリアンの水底で水精霊の妨害を退けながら、彼の神――湖底の蛞蝓神ぐらぁき――のための神殿を造っている……。◆◇◆ タバサは、ラグドリアン湖に関する伝承について、オルレアン公邸で纏めている。「……」 古い資料曰く――『古代の水竜の生き残りがラグドリアン湖に棲んでいる。水底の水竜は、光の届かない淀みに住んでいるため、目は盲ており、体色は白色だとされる』。 また水竜については他にも資料がある。 曰く――『古代、ラグドリアン湖にも水竜が生息していたとされ、その死体は今も、水精霊のコレクションとして湖底に横たわっている』。 水精霊が持っているという水の秘宝についての情報もある。 その秘宝の名前は、『アンドバリの指輪』。 持ち主に死の運命を呼び、しかし、使い方によっては死を制し、偽りの命を与えるという、呪わしい先住の指輪。「ふぅ」 タバサは、ミョズニトニルンが支配するガリア版のマジックカードを操作し、それらのレポートを纏める。 ルイズからお願いされているのだ。 一番危険度が高い現場検証の役目を買って出て、サイトの元に向かったルイズに顔向けするためにも、ある程度は目を通して形にしておかなくてはならない。 外を見れば、日は既に沈み、夜の帳が降りていた。 そう言えばもうそろそろ夏期休暇も明ける。 学院には、タバサたちがラグドリアンに向かったのと入れ違いに各地から生徒たちが戻ってきているはずだ。「新学期には、間に合わない。仕方ない。大事の前の小事」 少しだけ溜息をついて、タバサは学院に残してきた親友の赤毛の炎の毒娘に思いを馳せる。◆◇◆ タバサが魔法学院に思いを馳せたのと同じ頃。 トリステイン魔法学院前では、衛兵たちが気を張って警備をしていた。 夏休み明けのこの時期、貴族子弟たちが実家の者も伴って大勢出入りするため、それを目当てにして、乞食たちが慈悲を欲して集まってくることがある。 そういう乞食を蹴散らすのも、彼ら学院衛兵の仕事である。 もう明日にも学院が始まろうという日であった。 襤褸を纏った乞食らしき人物がふらふらと学院の門に近づいたのは。「おい、止まれ!」「…………ァ……ぁ……」「止まらんか、貴様!」 衛兵が鋭く制止するにも関わらず、その乞食は更に門に近づく。 不健康そうな、屍蝋のような不気味に白いぶよぶよした肌が、チラチラと襤褸の隙間から見える。「貴様、それ以上近づくと――」 衛兵が遂に手に持った槍の柄で乞食を打ち据えようとした時であった。「……ぁ、ァ、ァ、ぁぁぁあああああアアアアアアアアッ!!!」「な、止まれ!」 乞食は急に胸を掻き毟り、叫び声をあげると。「――ああ、あ、あ………ァ、ぁァ、雛、が――」 と、それきり言い残してバッタリと倒れ伏した。 慌てたのはそれを目の当たりにした衛兵だ。「おい、どうした貴様? 大丈夫か!?」 死んだのか、何か持病があったのか分からないが、何にせよ、貴族の目に触れる可能性がある場所に、この汚らしい乞食を放置することは出来ない。 そう判断した彼は、急いで乞食を、貴族の目につかない場所へ――取り敢えずは衛兵詰所まで――連れていくことにした。「ああ、もう、取り敢えず、運ばないと。肩貸してやるからな……よい、しょっ、と、うわ、何か異様に軽いな。おい、大丈夫か? ちゃんと飯食ってるか?」 乞食の身体は、余り良い物を食べていないせいか、異様に軽かった。 衛兵は、返事をしない乞食を支えて、急いで振り返りもせずに、衛兵詰所まで向かう。 ――それが昼の明るいうちなら、乞食の身体のあった場所に、こんもりと、蠢く何か小さな生き物たちが、乞食の身体から抜け落ちるように残されていたことに、誰かが気づいたかも知れない。 それらは、暫くそこに留まっていたが、やがて人形の脚のような形で死体のように白い8本の脚をそれぞれに動かして、かさこそと学院内部の茂みへと侵入していった。 衛兵詰所に連れて行かれた乞食は、既に死んでいた。 内臓がごっそりと無くなっており、少なくとも一週間以上前には、死んでいたはずだ、というのは、校医の水メイジの所見であった。 確かに、内臓がなければ軽いはずだ、と乞食を運んだ衛兵は、呆然と思った。 これは、アルビオンに雇われた“白炎”の部隊が忽然と校内に現れ、学院を襲撃する、その二日前の出来事であった。=================================冒頭の邪神についての解釈は、まあこんな解釈もあるよな、ってくらいで考えていただけると。この例えで行くと、ニャル様は『〇〇は俺の嫁!』とか言って二次元に浸かってる人で、ノーデンス様あたりは『非実在青少年の人権が~』とか言っちゃう人。大半の人(邪神)は二次元の存在(人間)になんか余り興味がない、みたいな。まあ邪神様方を人間に喩える不敬さは見逃していただけると。アルビオンの名物はやっぱりフィッシュ・アンド・チップスとウナギのゼリー寄せでしょう。しかしじゃあ、北海が無いのに何処で魚を獲るんだよ、という疑問を持ったので、天空大陸の物質循環に適当な解釈をつけてみたのが、テリー君(魚人化された屍体)の話の前半部分。アルビオンのバイオマスは下界から虫たちが飛来することで支えられている、と、私は勝手に想定しています。更新が遅れたのは、某キャラの旅館経営SLGに手を出していたから。あと、全集読み返したりとか。ひょっとしたらこの話は、後で大幅に改訂が入るかも知れません(話の筋は変わりませんが)。次回は、「学院襲撃」&「水精霊との対話」の予定です。2011.07.11 初投稿