大きな松明が踊りながら燃えている。 いや、それは松明ではない。 枯れ木のような老人だ。「はははははははは!! 何だ他愛もない! 三百年の叡智はその程度か!?」 踊る松明を前にして哄笑するのは、白髪の偉丈夫。 “白炎”のメンヌヴィル。 彼はひとしきり笑うと、十字を切って祈りを捧げ、胸いっぱいに、噎せ返らんばかりの炎の匂いを吸い込む。「すぅ~、はぁー。――ん~、だが、極上の香りだ。やはり三百年のカルマは伊達ではないな。我が神に捧げる良い供物になるだろう」 “いあ、くとぅが!!” そう言って、彼は高らかに杖を振り上げる。 炎が彼の杖の振りに伴って巻き上がり、煌々と夜空を照らす。 燃え尽きる人影――それは学院の長であるオスマンだ。 哄笑するメンヌヴィルと、彼に付き従う者たちが、月光と炎に照らされる校庭を遠巻きに囲んでいる。 彼らもメンヌヴィルと同じく、十字を切り杖を掲げて口々に祝詞を唱える。 襲撃者の胸には、両翼を広げた鳥の頚を刎ねたような、T字型の鳥十字がぶら下がっている。 その囲みの外には、人質に取られたと思しき学院生徒たちの姿が見える。 学院の教師たちは、皆、縄を掛けられ杖を奪われて拘束されている。 人質を取られたオスマンは、メンヌヴィルの言う一騎打ちに応ずるより他はなかったのだろう。 やがて燃やすものが無くなったのか、オスマンを包んでいた炎が小さくなり、終には消える。 後に遺されたのは、一握の灰のみ。 生徒や教師たちは、皆表情を絶望に染めている。「学院長が……、まさか、そんな――」「ははははははは!! 何、案ずるな。貴様らは暫くは生かしておいてやる。オスマンという極上の贄が居なくなれば、本来は貴様らに用などは無いのだが――雇い人は時間稼ぎを欲しているからな」 そう言うと、メンヌヴィルは、転がされている教師たちの中から、一人の若い女性を『レビテーション』で摘まみ上げる。 その女性は、オスマンの秘書を務めていた、ユージェニー・ロングビルだ。 だが、彼女の表情は他の者達と異なり、嘆きにも悲しみにも染まっておらず、常通りの顔色だ。「貴様はオスマンの秘書だったのだろう? ならば王宮にも幾らか顔が利くだろう。さっさと行って報せてこい」 メンヌヴィルが低い声でロングビルに命じる。 凄みのある顔で睨まれたロングビルは、しかし何処吹く風で、ニッコリと笑う。 妖艶な笑みだ。「お断りしますわ」「あー? 何寝言を云ってる? 貴様も灰にされたいのか?」「出来るものなら」 涼しげな笑みでロングビルは答える。 そして不敵に更に嘲るように言葉を重ねる。 「――その程度の刹那の炎で、私を燃やし尽くせるものならば。悠久の灰色の時の流れに寄り添った私を、ね」「……良いだろうっ! それなら貴様も捧げてやろう!! オスマンと共に過ごしてきた貴様だ。どうせヒトではないのだろうが、奴と一緒に我が神に喰われるが良い!!」「ふふふ。ならば早くすることですわ。念入りに焼くことですわ。灰すらも残さずに! でなければ――」 みなまで言うことも出来ずに、ロングビルは、メンヌヴィルが唱える祝詞(それは決してルーンの詠唱ではなかった)によって巻き起こった炎に巻かれる。「でなければ何だというのだ! 魂までも炎にくべられた者が黄泉帰る訳でもあるまいに!!」 圧倒的な火力によって、瞬時にロングビルは骨までも炭になる。 オスマンを灰にしたよりも明らかに強い炎だったが、ロングビルの身体は完全には燃え尽きず、脊柱らしき一本の棒状のものが燃え残った。 その結果に、メンヌヴィルは不満そうだ。 全てを燃やし尽くして影すら残さないつもりだったというのに。 やはり相手が人外だったからだろうか。 遠慮呵責も必要ないが、人間相手とは勝手が違うのだろう。 自身の未熟さを反省しつつ、もっと精進することを、メンヌヴィルは神に誓う。 だが彼はもっと周辺に気を配るべきだった。 もっと燃え残りに注意をはらうべきだった。 彼は恐るべき炎の使い手、いや炎神の遣い手であり、彼の手に掛かって燃え無かったものは無かった。 彼は決して未熟者ではなかった。 だがどうだろう。 今日はその例外が二つ。 オスマンの灰塵と、ロングビルの脊柱骨は、彼の激しい炎にも関わらず燃え残った。 まるでそれが、燃やせども燃え尽きぬ、彼らの魂と運命からの本質であるかのように! そしてロングビルを燃やした炎は風を生み、オスマンだった灰は巻き上がり、月光を遮り、周囲をくすんだ灰色の神妙な色に染め上げる。 そう、灰色だ。 時の彼方の腐敗と風化の魔神『クァチル・ウタウス』が司る、あの塵埃の灰色に。 すると、何処からとも無く、そして何処からも声がした。 灰塵に包まれて月光が灰色に染まる空間の至る所から。 飄々とした、老爺の声が。「気は済んだかのう? 炎神の使徒よ」◆◇◆ 蜘蛛の巣から逃れる為に 27.白炎と灰塵の競演◆◇◆ 魔法学院襲撃の日。 それは、夏期休暇が明けて、女子生徒と幾分数は減った男子生徒たちが登校し、新学期がいよいよ始まったという、その日のことであった。 異変は人知れず、ある即席の地下牢から始まった。 その地下牢とは、オールド・オスマンによって作成された、“炎蛇”のコルベールを収容しておくための場所である。 彼は二三日前に、国の女性近衛隊士を襲撃した廉で監禁されているのだ。 ……まるで悪さをした子どもに対する罰のような扱いだが、三百年を生きるオスマンにとっては、四十そこらの男など赤子のようなものなのだろう。 地面から鉛直一直線に掘られた先に設えられた、その土牢の中は最低限の魔法の明かりしか置かれておらず、薄暗い。 土牢には簡素な机が設えられており、コルベールはそちらに向かって一心不乱に何かを紙に書き付けている。 紙とペンは見張りの平民衛兵に言って持ってきてもらったものである。ちなみに紙は羊皮紙ではなく、メモ用の繊維の短くなって品質も低い、劣化しやすい安価な再生紙である。紙の技術は遥か昔から存在し、蜘蛛のアトラナート商会の台頭によって更に革新が進んでいる。「……む、これでは駄目だな……」 彼は土塊から歯車のような金属部品を錬金しては、スケッチを修正し、金属部品をいじくり回している。 それを見つめる熱い視線と、凍てついた視線がそれぞれ一組ずつ。「ふふ、頑張ってね、ジャン♪」 熱い視線の主人は、ゲルマニアが誇る天下の毒娘、キュルケ・フレデリカである。 コルベールはキュルケの熱い視線も、コルベールは何処吹く風だ。「だから私は生徒とそういう関係になるつもりはないと言っているだろう、ミス・ツェルプストー」「もう、ジャンったら堅物なんだから。そうは言っても、命令となれば喜んで従うのでしょう?」「……私は国に忠誠を捧げている。国から命令されれば、君の婿にでも何にでもなるさ」「ほら、やっぱり堅物ね」 奉職精神旺盛なコルベールの根源は、おそらく遥か昔の実験隊長時代から変化していないのだろう。 彼は、彼が操る炎とは対照的に、そして蛇の名を冠する二つ名の通りに、技量も体力もその精神までも、まるで不変の有様なのだった。 コルベールはメモ用紙に幾つかスケッチをしては、土牢の床の土塊から適当に何か金属製の筒や、やや丸みを帯びた三角形のような歯車というかクランクというか、そういった機械部品を錬金しては組み合わせ、微調整している。 彼が作ろうとしているものは、内燃機関の一種であるロータリーエンジンである。 クランクを介してではなく、回転軸に直接動力を伝えるタイプのエンジンだ。 その設計図は彼の研究室で埃を被っていた研究書から、彼の世話を買って出たキュルケ嬢が探して持ってきたものだ。 監禁されて暇なコルベールが、研究室に積みっぱなしにしていたものを所望したからだ。 適当な模型でも作って暇を潰していないと、時間が有り余って仕方ないのだった。 燃える微熱の視線はキュルケのものだった。 では荒野の吹雪のような凍てつく視線の主人は?「……。ふん、茶番だ」 ギリギリと歯噛みしながら、人すら殺せそうな空気を出しているのは、魔法衛士隊のアニエスだ。 積年の恨みを満載した視線によって、空間が歪曲してるような錯覚を覚える。 一言で言うと、『アニエスちゃん、目、怖っ!!』である。「あら、貴女もいい加減に王宮に戻れば宜しいのに」 アニエスの殺気が篭った視線を遮って、キュルケが胸を張る。 たわわな乳房が揺れる。 だが、この中で誰もそれを気にする者は居ない。 女性であるアニエスは勿論、冷血のコルベールもそんな色仕掛けには応じない。 唯一の候補としては、オスマンからコルベールの監視を言い渡されている男性衛兵が居るのだが、彼は三人の凄腕メイジたちが視殺戦によって醸し出した尋常ならざる空気によって、既に頭を抱えて蹲っている。 ちなみに彼は、二日前に内臓が抜け落ちても尚動いていた不気味な乞食を介抱した衛兵でもある。 幸運値が低いのかも知れない。 意識を頭蓋の外に飛ばしている運のない衛兵はさておき、微熱と氷餓の相反属性の二人は、土牢の外で向かい合う。 アニエスが牙を剥き出しにして猛々しく言葉を放ち、キュルケが妖艶に手を口に当てて受け流す。「そこの炎蛇を放っておいて、おめおめと王宮に戻れるか!」「あら、任務は良いのかしら? 王宮に戻らないのなら、ラグドリアンの顛末を見届けなくてはならないのはなくて?」「知ったことか! もとより故郷の敵討ちのために入った近衛だ、仇が目の前に居る以上、任務などどうでも良い!」 くすくすとキュルケが笑う。「でもどうせ、ジャンには勝てないわよ? それは身を以て思い知ったのではなくて?」「ぐぬっ……」 痛いところを突かれて、アニエスは黙る。 そうだ、今はなんとか目覚めて、気力で意識を保っているが、アニエスは死んでもおかしくない重傷を負っていたのだ。 他ならぬコルベールの手によって。 アニエスはその時のことを思い出して、歯噛みする。 まるで手が出なかった。 二十年かけて到達した彼女の駆動氷鎧による高速戦闘は、炎蛇の技量の前に無力だった。 杖術と体術で近接戦を封じられ、中距離では爆裂する炎の玉によって翻弄され、遠距離では炎の蛇に呑まれて完敗した。 あの魔法を斬る魔剣を携えた剣士、サイトが居なければ、そしてオスマンの仲裁が間に合わなければ、アニエスは今頃炭になっていただろう。 牢獄の向こうで炎蛇がアニエスを無視して書物を読んで部品を錬金しているのも、オールド・オスマンから(つまりはコルベールの上司から)、コルベールが“アニエスには手出し無用”と厳命されているからに過ぎない。 コルベールは、軍人らしく、命令に忠実であるだけだ。命令だから、彼女のことを無視するのだ。 悔しい。アニエスは歯噛みする。 なぜ自分は無力なのか。 復讐を誓った怨敵が目の前にいるのに、何も出来ないなんて! 悔しい、悔しい、悔しい。 知らぬ間に潤んで涙に滲むアニエスの視界の中で、コルベールは彼女など居ないかのごとく振舞っている。 歯牙にも掛けられていない。 その事実がさらにアニエスを責め苛む。 ふと、彼女は思う。 自分の師匠なら、どうだろうか、と。 あの炎蛇に勝てるだろうか。 炎神の使徒を自認する、あの白炎の養父は、炎蛇を叩き潰せるだろうか。 その思考がトリガーになったわけではあるまいが、コルベールがピタリと動きを止めて、キュルケに語りかける。「そうだ、ミス・ツェルプストー」「なぁに、ジャン?」「今度は昆虫図鑑……いや、蜘蛛図鑑と陸生甲殻類図鑑を持ってきてくれないか?」 そんなコルベールのリクエストに、キュルケは首を傾げる。「なんでそんなものが必要なの? まあ持ってきてあげるけど」「ああ、実は昨晩、見慣れない“蜘蛛”を見かけたのでね。それの種類が知りたくて。シャンリットの蜘蛛図鑑は、矢鱈と詳しいから、きっと載っているだろうと思ってね。まあ、蜘蛛じゃなくて蟹だったかも知れないが」「ふぅん? 兎に角、八本足の何かが居たのね?」 合点したキュルケが、ポンと手を叩く。 然り、とコルベールが頷く。 アニエスは、白炎と炎蛇の対決を想像して、上の空だ。 コルベールは更に“蜘蛛”の特徴を詳しく述べていく。「割と大きな、そうだな、手の平くらいの大きさだったかな」「あら意外と大きいのね。怖いわ、ジャン。毒を持っていたらどうしましょう」「毒娘の君に効く毒蜘蛛はなかなか居ないと思うがね。それこそシャンリットの千年教師長が化身したという大蜘蛛くらいじゃないかね? まあいい。だが何より印象的なのは、その色だ」「色?」 キュルケの相槌に、コルベールは饒舌になる。 ルイズが施した精神分析レッスンは、キュルケとコルベールの関係に良い効果を与えているようだ。「そう、色だ。珍しいことに、その蜘蛛は、真っ白だったのだよ」「へぇ、そうなの。珍しいのね」「アルビノ(白化症)か、とも思ったが、どうにも違うようだった。例えて言うなら、溶け出して固まったラードのような、不潔な白だ。屍蝋のような、と形容しても良いかも知れない」「そんな、何と言うか、ぶよぶよした感じだったの? 蜘蛛なのに?」 固まった脂のようなねっとりとしたイメージと、蜘蛛や蟹のイメージは、そぐわないようにキュルケには思われた。「ひょっとしたら、脱皮したての蜘蛛か蟹だったのかも知れないな」「ああ成程、きっとそうよ、ジャン」「だが、それにしてはあの“蜘蛛”の脚の形は、不可解だったのだ。それがどうにも気に掛かる」 だから図鑑を持ってきて欲しいのだ、とコルベールは言う。「そんなにおかしな形だったの? 例えば、そうねぇ、二股に分かれて途中から十六本になっていたとか」「いや、数はきちんと八本だったと思う。私は二十までなら、何でも瞬時に数を把握できるから、間違いない」「まあ凄い、ジャンってばそんな所も凄いのね」 通常の人間は、六か七の数しか一瞬では認識できないが、コルベールは二十までなら認識出来るという。 いわゆる天才なのだろう。 まあ、二十歳そこらで魔法研究所実験小隊の隊長を務めるくらいなのだから、天才で然るべきなのだが。「それで、その“蜘蛛”の脚だが――」「どんな奇妙な脚だったの?」「それがまるで、ミニチュアのヒトのような脚だったのだよ。足首とふくらはぎ、膝と太ももがはっきりと識別できた」 それを聞いてキュルケは、昔に聞いた童話を少し思い出した。 百足に靴を作ってやる話だ。 ヒトのような脚の“蜘蛛”なら、それはきっと靴を履いているに違いないと、彼女は考えた。「あら、じゃあやっぱり靴を履いていたのかしら? 赤い靴が似合いそうね」「うーむ、靴は履いていなかったと思うが」「じゃあ確かめてみましょうよ。きっとまだこの部屋の中に居るわよ。ねえ、ジャン、貴方がその不気味な白い“蜘蛛”を見たのは、どのあたり?」 キュルケの問いに答えるために、コルベールは静かに腕を上げ、地下室の一角、衛兵の男が突っ伏している辺りを指差す。「ちょうどそこの衛兵の彼がいる辺りだ」 そう言われて、キュルケがコルベールの指が示す先を見る。 いつの間にか思考の海から戻ってきていたアニエスも釣られてそちらを見る。 衛兵の男は、動かない。「彼が、ああやって突っ伏してしまう直前に、彼の足元に“蜘蛛”がその八本の人形のような脚を無様にばたつかせて駆けていくのが見えた」 衛兵の男は、動かない。 普通の神経をしていれば、そんな不気味な“蜘蛛”が自分の足元にいるかも知れない、などと言われれば、反射的にその場から飛びすさってしまうだろうに。 衛兵の耳には、メイジたちの会話は届いていなかったのだろうか?「ふぅん? ねえ、そこの衛兵さん? 起きてる?」 衛兵の男は、動かない。 寝ているのだろうか。「ねえ、聞こえてるの?」 衛兵の男は、動かない。 貴族の呼び掛けを無視したとあれば、場合によっては衛兵長から訓告ものなのだが。 キュルケが柳眉を釣り上げて、怪訝そうに衛兵の彼に近づく。 不穏な空気を感じ取ったのか、アニエスは自然と杖に手を伸ばしていた。 コルベールはそもそも常在戦場、いつでも臨戦態勢である。 窖に凍気と火焔の気配が混ざり、蜃気楼のように空気が歪む。「ねえってば!」 それでも、衛兵の男は、動かない。 そうしてキュルケがいよいよ衛兵の男の肩に手をかけようとする。 しかし、途中でその手がピタリと止まる。 動いている。 動き始めた。 衛兵の男の頭が、動き出した。 メリメリと。 ムクムクと。 ギュブギュブと。「な、何よ、これ――?」 彼の頭部が蠢き、そのシルエットを変えていく。 大泉門から、脳髄液が泉のごとく湧くようにして。 ヤゴからトンボが羽化するように。 蛇口に繋がれた水風船が破裂せんばかりに膨らむように。「ヤダ、何? 何なの!? やだぁ! ジャン、この人、オカシイわ!」「離れたまえ! ミス・ツェルプストー!!」 キュルケが悲鳴を上げるのと、衛兵の頭皮が膨張に耐え切れずに裂け、その中から何かが突き出るのは同時だった。 コルベールは即座に魔法を展開。 アニエスも氷鎧の魔法を唱え、不測の事態に備える。「ウル・カーノ!!」 汚物は消毒だ。 疑わしきも消毒だ。 一切合切、消毒だ。 ほとんど機械的に、染み付いた動作でもって、コルベールはルーンを唱える。 彼の杖から炎が迸る。 その先には、異常の根源、衛兵の頭から突き出した、血と脳漿に塗れた、何モノかの腕があった。 キュルケが悲鳴を上げる。「腕っ? 一体誰の!?」 筋骨隆々とした腕。 日に焼けた――いや、火に焼けた浅黒い色の、男の腕が、衛兵の頭を突き破って生えている。 その謎の手には、無骨なメイスが握られている。 一体、その腕は何処から生じたものであろうか? 衛兵の頭蓋容量には収まりきらないそれは、突如として生えてきたようにしか見えなかった。 すると腕が周囲を探るようにメイスを振り回す。 それに応じて、衛兵の身体がびくびくと痙攣する。 この期に及んで、衛兵の身体は未だ生きているのだ。 脳をかき回されて、彼の体が跳ねる。「その腕、誰のものだか知らぬが、脳髄から突き出るなど、碌なものではあるまい。燃えて尽きろ!」 コルベールが操る蛇のような炎が、メイスごと謎の腕と衛兵を呑み込む。 次の瞬間。 狭い土牢の中に、爆炎と熱風が吹き荒れた。「きゃああああ!?」◆◇◆ 爆炎が土牢の狭い空間を席巻する寸前に、コルベールは見た。 彼の放った炎の蛇が、謎の腕のメイスから放たれた、白熱した火焔に巻き込まれて掻き消えるのを。 その直後、膨張した白炎は、衛兵の首から下を飲み込み、そして土牢中を蹂躙したのだ。 コルベールは狭い土牢の、その格子越しに、衝撃と酸素欠乏と有毒ガスにより朦朧とする意識をなんとか繋ぎ止めつつ(火のメイジは毒に強い――それは一酸化炭素や青酸のような呼吸毒に対しても同様である)、ランプが壊れたせいで徐々に薄れ行く灯りの中、驚くべき光景を目にする。 支えとなる体を失って投げ出された衛兵の生首――それは既に生首というよりは、謎の腕に付属した不気味なオブジェとしか見えなかったが――から、ずるずると人間が這い出して、いや、産み出されてきたのだ。 生首の頭蓋はザクロのように割れて、そこから傭兵風の男が、ずるずると現れてくる。 その不審人物は、すっかり生首の脳髄から自分の身体を引き抜くと、こきこきと首を回す。 用を果たした衛兵の生首は、その男が足を振り下ろして踏みつけることで、完全に元型をとどめなくなる。 男の踏み付けを避けて、生首が潰れて脳漿や眼球を飛び散らせて赤い舌をだらりと晒す寸前に、コルベールの言っていた人のような足を持った白い肌の奇妙な“蜘蛛”が、生首の脳髄の、その脳回路の迷宮から飛び出した。「ふん、便利なものだ。アイホートの雛を使った相似概念による、大陸迷宮要塞と、個人の脳神経迷宮の接続――それを用いた瞬間転移法。これだけのお膳立てがあれば、国家中枢への浸透撹乱も容易だろうさ」 そう、コルベールには意味の分からない言葉を呟いて、傭兵風の男は“蜘蛛”を――彼の言葉によれば“アイホートの雛”を――見送る。 傭兵風の男は、ニヤリと口の端を上げる。 残っていた魔法のランプの光の残滓が闇に飲まれる。 暗黒の中、死体の肌のような“雛”の白いシルエットが焼き付いて離れない。「そうだ、行け。またお前の小さな体が支配できる迷宮に――抵抗力の少ない平民の脳の迷宮に入り込め。まだ浮遊大陸の地下迷宮から部下たちを呼び寄せるのには、門が足りないからな」 コルベールは、その男の声に聞き覚えがあることに気がつく。 闇が聴覚を鋭敏にしたのだろう。 一体何処で聞いたものだったか――。 そのコルベールの思考を断ち切ったのは、アニエスの驚きの声であった。「いつつ……。一体何が――って、この気配は、師匠!!?」「うん? 何だ誰かと思えばその声と凍てつく体温は、アニエスか。貴様こそ何でこんな所に居る。王宮の近衛魔法衛士になったのではなかったか?」「任務で学院に来てるんですよ! メンヌヴィル師匠は一体どうして、というか、何処からっ!?」 そうだ、メンヌヴィルだ。「メンヌヴィル?」「うん? 何だ、誰かと思えば、その声は、その温度は――そうかコルベールも居るのか」 傭兵がコルベールの方を見る。 コルベールが反射的に唱えたルーンによって魔法の炎が杖に宿り、傭兵の顔を照らす。 コルベールやメンヌヴィル程の炎の使い手は、蛇のように熱源を感知できるから、灯りは必要ないのだが、やはり、灯りはあった方が便利ではある。 揺らぐ炎が陰影を作る。 ああ、確かにメンヌヴィルだ。 あの忌まわしのダングルテールで任務中に失踪した、炎のメイジ。 アニエスという女衛士といい、メンヌヴィルといい、あの恐ろしの氷と風の人喰の虐殺のダングルテールを思い出させることが、最近は多すぎる。「どうした、隊長殿? まるでケロイドのような頭じゃないか。フハハ、滑稽だぞ」 明かりに照らされるコルベールの禿頭を見て、メンヌヴィルは笑う。 別段、炎のメイジにとって灯りは必須ではないから、盲目でも戦えるだろう。 熱源探知は皮膚感覚だからだ。 かと言って、好き好んで盲目になる者が居る筈も無し。 メンヌヴィルは、しっかりと両目でコルベールと、彼が使う炎の蛇を見据える。 そして、鼻で笑った。「フン」「何がおかしい、メンヌヴィル」「貴様の時間は、あの惨劇の夜から、全く進んでいないのだな、と思ってな。ええ、コルベール」 メンヌヴィルは語る。 ――あの夜に、お前は、ダングルテールを焼き滅ぼした。 ――あの氷の獣の蔓延る村を。 ――だが、凍てつく人喰のケモノの呪いは、お前を逃さなかった。 ――彼らは焼かれたが、お前は心を凍らされたのだ。 ――未だスクエアには至っていないのだろう? ――若き頃からアカデミーの暗部で養成された、あの天才児たる貴様が、二十年も鍛錬を続けて、何故、一つもランクが上がらない? ――心が凍っているからだ。 ――魔法とは、心の、魂の力を必要とする。 ――心が凍っている貴様は、故に、成長できない。「全く、貴様の心は、成長していない。本当に、本当につまらない男だ。俺が焼く価値も無い」「っ、黙れ!」 コルベールが杖を振るう。 炎の蛇が、土牢の格子を潜って、メンヌヴィルに伸びる。 だが、それとは裏腹に、コルベールの心は、その感情は、少しも熱くのたうってはいない。 全くの冷血。 だが、その事実が、メンヌヴィルの言葉が真実であることを証明する。 ウェンディゴとイタクァの呪いによって凍らされた感情、魔法の根源――凍てついてしまった、コルベールの心。 嘲るように笑うメンヌヴィルの杖から、白熱した炎が迸る。 白炎は炎蛇を迎撃せんと接触する。 そしてそこから先は、メンヌヴィルが現れた時の巻き直しだ。 即ち――。「残念だ。畏るべき“だった”隊長殿。貴様は最早、俺の敵たり得ない」 落胆するメンヌヴィル。 炎蛇が、白熱した火球に吹き飛ばされる。 迫る白炎の火球を、コルベールが防ぐ術はもう、ない。 だが――。「ジャン!!」 そう、この場には未だもう一人メイジが居た。 “微熱”のキュルケ。 最初に吹き荒れた爆風の余波で今まで身動きが取れなかったが、旧ゲルマニア地区が誇る毒娘、キュルケ・フレデリカ・フォン・ツェルプストーが、白炎の前に立ちはだかる。「いけない、ミス・ツェルプストー!!」 炎の射線に躍り出たキュルケを、コルベールが制止する。 それは、教師としての職務上の義務感から来るものだったのか、はたまた、何か別の感情によるものだったのか。 コルベールの凍った心に、微熱が宿る。 火が灯る。 アニエスはキュルケの特攻を前に息を呑む。(何と無謀な――) よく訓練に付き合ってもらったし、実際に養父メンヌヴィルの戦いを間近で見たことがあるので、アニエスにはよく判る。 キュルケの行動がどれほど無謀なのか。 文字通りに何物も残さず燃やし尽くす白炎の前に、身を投げ出すことの、どれだけ勇気の要ることか! 白炎に背を向けるように火球の射線に飛び込んだキュルケは、コルベールを守るように両手を広げて――最後に、微笑んだ。 その笑顔に、コルベールはこの二十年感じることのなかった、胸の疼きを覚えた。 絞めつけるような、切なさ。 久しぶりの、情動。 強い強い強い、炎のような感情。 コルベールは土牢の格子に体当りするように張り付き、キュルケに手を伸ばし、叫ぶ。「キュルケ――!!」 しかし、その叫びも、キュルケの微笑みも、アニエスの驚愕も、何もかもが再び吹き荒れた爆炎に呑み込まれた。◆◇◆ 時刻は若干前後する。 場所は学院から、トリステインの水源であるラグドリアン湖へ。 異常に増水し、緑錆(ろくしょう)のような腐食が広がり、梔のような甘い香りを漂わせる、あの不穏の湖へ。 ラグドリアン湖の異常を解決するために、ガリアとトリステインの首脳の勅命で、極零の魔女ルイズを主体とした調査団が現地入りをしている。 各種の調査を終えて、充分に情報共有したルイズ達は、最後の情報収集のために、水精霊と会話をしようと、湖岸に向かっている。 そのメンバーはルイズ、サイト、タバサ、モンモランシーの4名のみである(当然それぞれの使い魔も同行している)。 当然、オルレアン公爵であるタバサ単身での行軍にガリア側は口を挟んだが、ルイズが機密保持の観点から、これを却下。 ガリア側の一部の跳ねっ返りが実力行使に出るが、サイトがそれを鎮圧。 少数精鋭の行軍は、ルイズとサイトの提案であるが、それは勿論、狂気に陥った味方から誤射される危険を少しでも減らすためであることは言うまでもない。 サイトが一行の先頭に立って、魔刀デルフリンガーで道を切り開く。 サイトの後ろに引き続いて湖岸の森を歩くルイズが、出し抜けに口を開く。「それじゃあ、幾つかもう一度確認しておきましょうか」 この事件の、予測される、おおよそのあらましについて。「幾つかの証拠から、私は今回の“ラグドリアン湖の大増水”を、アルビオン新政府からの攻撃だと断定するわ」 これをガリア・トリステイン混合の大増水対策本部でぶちあげた時は、その場の皆からありとあらゆる罵声が飛んだものだ。 馬鹿な、ありえない、世迷言を、餓鬼が出しゃばるな。 それらすべてを眼力と爆破の魔法で捩じ伏せて、ルイズたちは、水辺に向かおうと、今、森の中にいるのだ。「まずは、私とサイトが湖のほとりで回収した、見るのも穢らわしい“緑の残骸”。あれは、アルビオンのセヴァン渓谷にその本拠地を持つ湖底の棘蛞蝓神“グラーキ”の従者が、陽の光によって崩壊したあとに残るものよ」 まさに目の毒と形容するに相応しい、あの汚らしい緑錆のような、腐れた緑色。 それはアルビオンに住み着く土着の神に関係するものらしい。「湖畔が緑色に汚染されていたのは、その汚染範囲から鑑みるに、おそらくは何者かが、グラーキ神の毒棘を地面にでも突き刺したのでしょうね。そして――」 その後に続く言葉を、モンモランシーが引き取る。「――ええ、ルイズ。そして、このラグドリアン湖を覆う、甘ったるい、クチナシの花の匂い。そして、水底に沈んで死んだはずが生きていた村人。これも、その“ぐらーき”とかいう神様に関係しているんでしょう?」「そうよ、モンモランシー。グラーキの死せる従者に特徴的な、この甘い匂い。そして、死者を支配して従者として蘇らせる、グラーキの神毒。これらから、まず間違いなく、グラーキが関与していることは確実ね」 少なくとも、私はそう判断したわ。 ルイズはその言葉を付け加えるが、それが含む余談のニュアンスとは裏腹に、彼女がこの事件のあらましを理解し断定してしまっているのは、間違い無いだろう。 彼女は確信している。 だが、真実心の奥底では、それが外れて欲しいと願っているのだ。 森を進みながら、彼女は傍証を積み重ねる。「ここ数ヶ月で急激に増水したラグドリアン湖の水は、何処から来たのかしら? 周辺から無理やり集めたにしては、周辺地域で水に事欠いたという話は聞こえてこないわ」 そうだ。 水が増えたなら、それは何処から来たのか。「そして、地形図から増水分の水量を計算すると――ラグドリアン湖の水底から100メイルまでの容積とほぼ一致するわ」 まるで、底から水を吹きこまれたようにして、水位が増しているのだ。 増水した水は、此処ではない何処かから、転移して湧き出したようにしか考えられなかった。「音波調査で水底を探ろうとしたけれど、ちょうど水底から100メイルのあたりで、何か躍層があるかのように音波が反射して、それより下は探れなかった。まるで、そこから下が、全くの別物であるかのようにね。そしてきっと、これは偶然の一致ではないわ。ラグドリアン湖の水底を押し上げるようにして、何か別のものが湧き出しているのよ」 だがしかし、どうやって?「空間を跳躍して別地点を繋ぐ術式は、珍しいものではないわ。シャンリットの“ゲートの鏡”に、古の虚無魔法“世界扉”、そして邪法による“門の作成”……。でも、おそらくはこの場合は、もっとある意味で強力な作用なのでしょうね」 それは一体?「毒棘蛞蝓のグラーキ神は、湖底の神。故に、それだけの共通項があれば、ラグドリアン湖とセヴァン渓谷の湖が繋がるのに、理由は充分だわ。同じ水の底同士――その程度の概念が共通していれば、神にとっては、それは同じもの(・・・・・・・)なのよ」 湖同士は、湖というだけで、グラーキにとっては区別する必要のないものなのである。 ラグドリアンの湖も、セヴァンの湖も、湖には変わりない。 故に、それらはいとも簡単に、グラーキ神の力を借りれば連絡するのだという。 さらにルイズは論を重ねる。「この異変が、グラーキ神の影響下にあるのは、おそらく間違いないわ。そして、そうだとするならば、恐ろしい仮説が成り立ってしまう」 躊躇いがちに、違って欲しいと、否定したいと根源で願いつつ。「“アルビオンは組織的に邪神の力を運用している”――空恐ろしい話だわ」 既に繰り返された議論だが、確認のためにタバサがルイズに問いかける。「これが、アルビオンと関係ない、ただの“神の気まぐれ”という線は?」「……ありえなくはないわ。ただの偶然と考えることも、出来無いわけじゃない」「なら――」「でも、それは有り得ない。何故なら、あの腐れた緑の残骸の中から、これが発見されたから」 ルイズはそう言って、厳重にパッキングされた遺留品を取り出す。 タバサがそれを見て呟く。「……徽章」「そう。アルビオン軍の徽章よ。これが落ちていたわ」 溶けて腐れた軍服と一緒に、アルビオンの陸軍を示す徽章が落ちていたのだ。 ならば、アルビオンの関与はほぼ確定的だろう。 他にも幾つか、見慣れない徽章が落ちていたが、それは新設されたアルビオン海軍のものであり、ルイズ達に見覚えがないのも当然であった。 ルイズは厳重にシールされた徽章を仕舞いつつ、続ける。「でも、この徽章の証拠以上に、私の直感が囁くのよ。“コレは奴らだ”、とね。――それに、私は知ってしまった。アルビオンの前王朝テューダー朝が滅びる時に、あの厳格なる“重圧”のジェームズ陛下が、邪悪な狂気に侵されて自分の家臣を嬉々として屠ったのを。そして、ジェームズ陛下と相対して感じた、あの墓地のような不気味な冷たさは、直接思い当たることはないけれど、でも確実に、見知った狂気と恐怖だったわ。即ち、恐るべき忌まわしの邪神たちと同じものよ」 狂気に侵されたジェームズ王を覆っていた、人間には覆しようのない程に巨大で邪悪な、宇宙的な恐怖の気配。 それは、ルイズにとって、そしてサイトにとって、ある意味で馴染みのある、そして、何としても忌避したい種類のニオイ(・・・)であった。 慮外の存在に運命を狂わされる恐怖、そして、その理不尽に対する強烈な怒りが、ルイズとサイトを動かしている。「第一、ずっと平衡を保ってきた邪神とハルケギニアの関係が、これほど急激に悪化するとは考えづらいわ。何しろ、そういうことにかけては、千年も前から、アイツら(・・・・)が腐心しているから」「――千年教師長」「その通り」 タバサの指摘に頷くルイズ。「このハルケギニアという箱庭を決定的に壊してしまわないように、あの蜘蛛の千年教師長は、あれでも細心の注意を払ってきたわ。生贄を求める神には適当に生贄を捧げて慰撫し、封印されている邪神はそれを維持するように監視して、交渉が持てる種族には様々な対価を手土産に接触して、ね。そこだけは、信用に値するかも知れない。――まあ、私がアイツを大嫌いなのは、そうやって世界を俯瞰する観察者気取りで人間のことなんかこれっポッチも考えちゃあいないところなのよね。結局のところ、アイツも邪神であるアトラク=ナクアの眷属には違いないのよ」 話が逸れたわ、と言って、ルイズは仕切り直す。「まあ、私が今のアルビオンを疑っているからそう思ってるだけなのかも知れないわ。全ては私の気のせいで、証拠の遺留品も、別の国の陰謀によって、その場にわざと置かれたものかも知れない」 ルイズは溜息をついて、やれやれと首を横に振る。「その可能性は捨て切れない。でも、きな臭い想像が当てはまる程度には、アルビオンは怪しいし、今回の件は時機的にもアルビオンに有利に作用している」 アルビオンとハルケギニア諸国は、そう遠くないうちに戦争状態に陥るだろうと、あらゆる国の閣僚の見解は一致している。 そうでなければ、アルビオンの海賊経済は立ち行かないし、今のアルビオン王朝スチュアート朝の摂政を務めるシャルル・ドルレアンは野心家だとも言われている。 ならば、開戦までに時間を稼ぐために、大国ガリアと、ゲルマニアを魅了で併呑したトリステインの二大国への後方撹乱として、ラグドリアン湖を介した攻撃をアルビオンが仕掛けるのは、不自然ではない。 事実、ラグドリアン地方の政情は不安定になっており、開戦を先延ばしにするべきだという空気も、ハルケギニア諸国には広がりつつある。 口先上で血気盛んなのは、異端廃滅を宣うロマリアくらいだろうか。天空教徒は絶滅するべし、と。 傍観者気取りのクルデンホルフは、通常運行だ。「だから私は、この一件は全てアルビオンの差金だと判断して動くわ。アルビオン自体が邪神グラーキに操られているという線も無くはないけれど、どちらかというと、共謀関係にあるということの方があり得るかも知れないわ。アルビオンの版図拡大と、グラーキ神の勢力圏拡大が一致したのかもしれない。グラーキ神は、珍しいことに信者獲得に熱心な神だから」 そこまで語ると、ルイズは左手を掲げて、指を3本立てる。「事態を収束させるために、必要なのは、少なくとも3つ」 ――一つは、アルビオンから侵入して湖底に潜伏していると思われる人員(十中八九ヒトでは無いだろうが)の排除。 ――一つは、湖底に築かれていると思われる、彼らの拠点の破壊、および、アルビオンと繋がっているゲートの封鎖。 ――最後に、汚染された湖水の排除、もしくは浄化。「でも、これらを行う前に、私たちは、確かめなければならないことがあるわ。――それは水精霊について」 荒ぶるラグドリアン湖の精霊である彼女が、果たして、敵なのか、味方なのか。 それによって、事態収束の見込みは、大きく異なってくる。 味方ならば良し。 だがすでに水精霊が、毒と狂気に汚染された敵ならば――。「場合によっては、水精霊と戦って調伏した上で、さらに邪神の信奉者と邪神の化身、最悪の場合は、邪神そのものを相手取る必要があるわ」「……そうならないことを祈るわ」「……。父祖から受け継いだ湖を、精霊を、殺すわけにはいかない。精霊相手には、戦いたくない」 ルイズが語る予想に、モンモランシーとタバサは渋い顔をする。 当然だ。 ラグドリアン湖の湖畔に暮らす者たちにとって、水精霊は慈母のような存在なのだから。「水の精霊が、血の盟約に素直に応じてくれれば、穏便に彼女から話を聞けるのだけれど」 物憂げに溜息をつくモンモランシーを、ルイズとタバサが励ます。「頼りにしてるわよ、モンモランシー」「そう、貴女なら、出来る」 それに応えてモンモランシーは、意識的に笑顔を作って、自らを鼓舞する。「ええ、大丈夫よ。きっと、成功させる。水の精霊を、無事に呼び出してみせるわ」 彼女が首に掛ける小袋から、彼女の使い魔である毒ガエルのロビンが顔を出して、ケロケロと主人を元気づけるように鳴く。「ほら、ロビンも協力してくれるし、ね」「まあ駄目なら駄目で手段はあるわ。荒療治になるけど、無理やり引きずりだすしかないわね」「でもルイズ。貴女が消耗すると、その後の計画に差し障るんじゃなくって?」「ええそうよ、モンモランシー。だからできるだけ成功させてちょうだいね」「ふふ、貴女、プレッシャーかけたいのかリラックスさせたいのか、どっちなのよ?」 ルイズの矛盾した物言いに、クスクスとモンモランシーが笑う。 どうやら少なくともこれで、彼女の緊張は解れたようだ。 何だかんだで、モンモランシーとルイズは仲が良い――とまでは行かないが、互いに認め合っている、というか、積極的に関わりあうほど仲良くはないが一目置いているというか、そう喩えるならば隣のシマのヤクザの親分の娘さん同士――って、ああそりゃそのまま貴族子女の関係で何も喩えになっていないが、まあそういう適度な距離感である。 ルイズは幾分とリラックスした様子のモンモランシーを見て安心すると、満足気に頷き一つ。 パチンと指を鳴らして、話を続ける。「じゃあ、もう一度、今後の流れをおさらいしておきましょうか――」 そうやって今後の作戦を確認する一行の行く手に、森の隙間から、陽光を反射するラグドリアン湖の水面が見えてきた。 甘い、クチナシの花のような匂いが、一際強くなる。◆◇◆「じゃあ、ロビン。お願いね」 モンモランシーが指から血を一滴、ロビンに垂らす。 ケロケロと喉を膨らませて、ロビンは湖に飛び込む。 毒気に汚染された湖だが、毒ガエルなら大丈夫だろう。 ……まあ、実際はモンモランシーが解毒の魔法を遠隔施術でかけ続けているのだが。 使い魔との共感覚を通じた位置同定と、使い魔の健康状態をリアルタイムでモニターすることによる非常に精密で高度な施術である。 祈りを捧げる乙女のような格好で、モンモランシーは湖畔に跪いて、ロビンとの間のリンクに神経を集中させる。 すると間もなく、湖面が銀色に輝き、不自然に盛り上がって、やがてそれは、少女のような姿をとった。 水精霊が、血の盟約に応えて、その盟約の家系の者の姿を借りて顕れたのだ。 虹色に輝く少女の姿をとった水精霊は、荘厳な美を湛えている。 数日前に触手竜を追い払った時ほどの大音響ではないが、水精霊は全身を震動させて、ルイズたち一行に語りかける。 どうやら先日ウォーターカッター乱舞で追い掛け回してきたのは、やはり、シャンリットの蜘蛛の眷属の気配を察知した為らしい。 モンモランシ家からの事前報告で一応知ってはいたが、本当に、水精霊が狂ってなくて良かった、と一行は胸をなで下ろす。 ベアトリスたちクルデンホルフ組を置いてきていて良かった。 取り敢えず、第一関門突破である。「何用か。単なる者よ。我は今、貴様らの相手をする、暇はないのだ。何度も何度も、呼び出しおって――」 苛立たしげに、ぶつぶつと湖面を震わせると、直ぐに水精霊は水面の下に沈もうとする。 しかしモンモランシーが、水の精霊を必死に引き留める。「待って! 待ってちょうだい、水の精霊よ! 私たちはあなたを手伝いに来たの! あなたが困っているのは私にだって伝わっているわ。だって私たちは血の盟約で結ばれているもの」 脈動するオパールの塊のような水精霊が、不定形の引っ込みかけの状態で留まる。 彼女の表面は、懊悩する思考を反映して、グルグルとマーブル模様に渦巻いている。「確かに。我は難題に、直面している。だが。貴様たちには、解決できまい」 真珠色に輝く水塊が、沈む。 その瞬間、虚空を閃光が走り、爆音が湖面を揺るがした。「待ちなさい、水精霊」 虚無(ルイズ)の爆発(エクスプロージョン)である。 再び湖面が虹色に渦巻いて、立ち上がる。 水の精霊が戻ってきたのだ。「虚無か」「そう、虚無よ。ついでにガンダールヴも居るわ」 ルイズがサイトに目配せすると、サイトはデルフリンガーを抜き放ち、左手の使い魔(ガンダールヴ)のルーンを輝かせる。「虚無に、ガンダールヴ。そうか。成程。それならば、あるいは――」「ええ。だから、事情を聞かせてもらえないかしら。あなたの湖を取り戻すために、ね――水の精霊」 ルイズがウィンクして、水精霊を促す。 水精霊は、また思案するように身体をグルグルと渦巻かせて、シャボン玉のように表面を虹色に変化させる。 そして、ついには観念して、彼女の抱える問題を語り始めるのだった。◆◇◆ 学院の土牢の中。 炎の暴風のあとに、立っているのは、メンヌヴィルだけであった。 倒れているのは、三人の人影。 その中の一人、爆発から最も遠い位置に居た、氷を鎧った騎士がよろめいて立ち上がる。「師匠……」「なんだ、馬鹿娘(アニエス)」 口の端を上げて、メンヌヴィルがくつくつと笑いながら、アニエスに答える。「手加減、したのですか?」「ああ、まあな」 本来であれば、いかにツェルプストーが誇る毒娘であっても、メンヌヴィルの炎の前には、跡形も残らないはずであった。 だが、この土牢に倒れている人影は、アニエスを含めて三人(・・)。 アニエスとコルベールと、キュルケだ。 キュルケは、髪と背中を焼焦がしつつも、原型を留め、生きていた。 彼女の焼けた場所から猛毒のガスが立ち上っているが、その程度でやられる者は、この中には居なかった。 アニエスは半ば人外であるし、コルベールもメンヌヴィルも炎使いゆえの毒耐性を持っている。「何故、生かしたのです?」 アニエスはなんとなく想像がつきつつも、養父メンヌヴィルに尋ねる。 メンヌヴィルの笑みが深くなる。「決まっている。そちらの方が、生贄にするのに美味しいからだ」 炭が爆ぜるように、メンヌヴィルが呵々大笑する。「ハハハハハハハッ! 見ていたか、アニエス! あの毒娘、コルベールの心を溶かしたぞ! あの土壇場で!」 愉悦と昂揚に染まった瞳で、メンヌヴィルが語る。「そうだ、こういうことが、稀にあるのだ、戦場では。“愛の奇跡”というやつだな。ならばきっと、この先に、その愛の炎を燃え上がらせてからの方が――」 獲物を見つけた猟師のように、いや、新芽の季節に収穫を幻視する農夫のように、快い表情だ。「――我が神に捧げる薪にするには、相応しい!!」 やはりか、とアニエスは思う。 このメンヌヴィルという男は、人の価値を、その魂に絡みついた因業の重さで量るのだ。 メンヌヴィルの仕える神に捧げるのに、その業が重いほうが、より良いのだという。 まあ実際は、女子供を焼き払うことが出来ない、養父の甘さが原因なのかも知れない。 偽悪的に振舞っているが、根本の部分では、メンヌヴィルは優しい人間なのだとアニエスは知っている。 でなければ、アニエスは途中で捨てられるか、燃やされるかしている。「アニエス。コルベールは貴様にくれてやる。研鑽を積み、奴が幸せの絶頂に居る時に殺してやれ。そうすれば、そこの毒娘の魂は、より一層の深みを増すだろう!!」 舌なめずりをして、メンヌヴィルが呵いながら、土牢の出入口の縦穴を上に向かって、レビテーションで飛び上がる。「ハハハハハハハッ――ああ、その時が楽しみだ!! だが――」 偽悪的に笑うメンヌヴィルが、勢い良く縦穴から月夜の地上へと飛び出る。 月が白炎の魔力に当てられて、陽炎のように揺らめく。「だが先ずは、オールド・オスマン!! アイツからだ! 三百年の叡智は、どのような香りで燃えるのだ!? ああ、楽しみだ、楽しみだなあ! ハッ、ハハハハハハッ。きっと我が神も、お喜びになるだろう――」 白炎の笑い声は、夜の静寂に紛れて消える。 学院を強襲するには、白炎配下の傭兵部隊が、あの忌まわしの大陸=脳連結迷宮回廊を伝って集結するのを待たねばならない。 学院に侵入した“アイホートの雛”が、平民の脳を侵略し、回廊を繋ぐまで、まだ暫し待たなくてはならない。 そしてやがて、彼の部隊の兵隊たち――全てが全て炎神に仕える拝火教の信者である――は、脳迷宮の通路を伝って学院に集結し、ついに場面は、冒頭へと繋がるのだ。=================================力尽きた。本当はオスマンとメンヌヴィルの戦闘で次回への引きにするつもりだった。次回オスマンvsメンヌヴィル、湖の従者ラッシュ、の予定。2011.07.27 初投稿何気に投稿初めて一年。長かったような、短かったような。2011.07.28 一部追加どう考えても題名と釣りって無い内容なので、(前編)表記にしました。2011.07.29ヤマグチノボル先生が、無事に手術を終えられたことを祝って更新できればよかったのですが、もうちょっと時間が掛かります。2011.08.06 誤字修正