蜘蛛の巣から逃れる為に 外伝.10 ヴァリエール家の人々(1)◆◇◆ 今から数十年前。 トリステインの知る人ぞ知る避暑地、ドーヴィル海岸に於いてのことだ。 ドーヴィル海岸は、沖の方に鍾乳洞を擁した小島がある、風光明媚な場所だ。 夏のある時期に吹く季節風は、その鍾乳洞で汽笛のように反響し、人々を不思議に恍惚とさせる音楽を奏でる。 その音楽の作用か、ドーヴィル海岸の海は、鍾乳洞が歌う音に応じて、海面が七色に変わるのだという。 後に『烈風カリン』と呼ばれることになる、若き騎士は、そのドーヴィルにて、窮地に陥っていた。「く、キリがない!!」 延々と湧く亡者の群れ。 高笑う金髪の修道女。 傷を負って膝をつくサンドリオン(灰かぶりの騎士)。 お忍びで王女を警護してやってきた、この鄙びた漁村。 そこで襲われた怪異。 自分はここまでなのか? ここで、こんな所で死んでしまうのか? カリンは自問する。 否。 ここで終わる訳にはいかない。 騎士になるという夢を果たせず、守るべき王女殿下を後ろにおいて、そのまま果てることなど出来るわけがない。 カリンは、精神力を滾らせる。 だがそれは、戦い始めの時と比べれば、見る影もなく消耗していた。 最初が太陽のような輝きだとすれば、今はせいぜい蛍の光程度まで弱々しくなった、精神力の炎。 初の実戦は、命のやり取りは、カリンの消耗度合いを跳ね上げていた。 残りの精神力は、とても少ない。「うふふ。最初の勢いはどうしたのかしら、可愛い騎士さん」 黒い修道女が嗤う。「うふふ。“木偶”たちよ、幕引きを。でも、余り乱暴にはしないでちょうだいね。身体は、綺麗なままに。 折角だもの、私達の仲間になってもらいましょう」 ノワールの言葉と共に、亡者が押し寄せる。 それを見て、サンドリオンが、顔色を失い叫ぶ。「やめろ、やめてくれ! カリーヌの顔で、声で、そんな悪魔のように、亡者を指揮するな――!!」 だが、最早、サンドリオンには、立ち上がるだけの力も残されていない。 傀儡とされていたユニコーン隊の騎士アンジェロとの戦いのダメージが、サンドリオンを蝕んでいた。 今のサンドリオンは、アンジェロとの戦いで負った傷を癒しながら、意識を保つだけで、いっぱいいっぱいだった。「おい、カリン! もう良い、俺を置いてお前は逃げろ! 恐ろしい何かが、トリステインを蝕もうとしている! マリアンヌ王女を連れて逃げろ! そして国王陛下に、この恐ろしい企みを知らせるんだ!」「……ぅさい……」「え?」「うるさい。黙ってろ。あとカリーヌ言うな。ややこしいんだよ」「おい、何言ってるんだ。逃げろよ、カリン。ここで立ち向かうのは無謀っていうんだぜ。お前の風なら、王女殿下一人連れても逃げられるだろう、早く――」 そこでサンドリオンは口を噤む。 カリンの纏う風が変化しているのに気付いたからだ。「フゥゥゥゥゥゥ――――」 カリンは息を深く、細く絞って、吐く。 絶対に、このまま殺されてやるもんか。 黄昏の中、この時間帯特有の海岸への風が、カリンの首筋を撫でる。 そうだ。 風は、何も、自分で起こすものだけではない。 ここは海岸。 海と陸との温度差によって産み出される、膨大なエネルギーは、気流を生み出す。 カリンはそれを借りるだけでいい。 温度差によって、太陽の恩寵によって、この黄昏に産み出される大気の力を――。「ボクは、導くだけでいい!」 風を支配することとは、エネルギーの差を理解すること。 カリンの家庭教師だった、あのシャンリットから流れてきたという、小さな矮人の女は、言っていた。 “風は、起こすものでは無く、そこに在るものなのです。折角在るのですから、有効に使いませんと”などと。そんなことを、常に言っていた。 風を感じる。 カリンのメイジ特有の魔法の知覚は、いまや、ドーヴィル海岸の広大な領域を覆っていた。 カリンは、風の天才は、この窮地において、もう一つ上の段階に到達しようとしていた。 自然を曲げる系統の理のみならず、自然の理に沿った、この世界の本来の魔法――先住種族の精霊魔法の術理と融合した、魔法の精髄へと、今、彼女はたどり着きつつ在った。 それは彼女の天性の才能が為せる技であり。 才能溢れるカリンに、惜しみなく最先端の知識と技術を授けてきた、彼女の郷里の家族たちの愛の賜物であり。 あるいは、この世界に、千年前に、異端の知識を齎した蜘蛛の祭司の些細な影響(バタフライ・エフェクト)であり。 そして、彼女の悪運の――いや運命の導く所であった。 不幸にも。 そう、不幸にも。 彼女は、人間を超えた地平に到達しつつあった。 海岸を覆う風が変化する。 轟! 天空から導かれた鋭い風の一撃が、亡者たちを薙ぎ払う。「はああああ!」 木の葉のように吹き散らされる木偶たちに、ノワールは目を丸くする。「あら、まだそんな力があったの?」「騎士を嘗めるな! 来い、幾らでも吹き飛ばしてやる!」「ふぅん? でも、いつまで持つかしら」 大気のエネルギーを借りた攻撃は、カリンが習熟していないせいもあって、どうしても亡者たちを吹き飛ばすことしか出来ない。 カッタートルネードのように、バラバラに惨殺することはできないのだ。 吹き飛ばされた亡者たちは、四肢をあちこち曲ってはいけない方向に曲げつつも、何事もなかったかのように立ち上がって、再び戦列に加わる。「あなたの精神力が尽きるのと、木偶が全て動かなくなるの、どっちが先かしら?」「ふん! 何も不死身ってわけじゃないだろう! 何度も吹き飛ばして、体中の骨という骨を砕けば、いくら死体といっても、動きも止まるだろ!!」「さあ、どうかしら。タコみたいにグニャグニャと襲ってくるかも知れないわよ?」 軟体動物のようになって襲ってくる人体の成れの果てを想像して、カリンは眉を顰める。「気持ち悪いこと言うな!」「そうかしら、それはそれで素敵だと思わない? どんなになっても尽くしてくれるんですもの、いじらしいじゃない」「……貴様、思ってたが、性格最悪だな」 カリンの苛立ちを乗せて、一際強い風が、ノワールを吹き飛ばそうとする。「吹っ飛べ!!」「あら危ない」 外見からは想像できない素早い動きで、ノワールはその暴風を避け、あるいは木偶に壁を作らせて、避ける。「このおおっ! 避けるな!」 更に広範囲に暴風をお見舞いしようと、カリンが更に、風の操作範囲を広げる。 高空の大気が揺らぎ、海岸一帯の風すら変化する。 ――そしてそれは、沖合にある奇妙な鍾乳洞にも作用する。 不幸にも。 そう、不幸にも。 風が通り、鍾乳洞が、鳴く。 ドーヴィル海岸の風物詩の、鍾乳洞の歌が、響き渡る。 低く、高く、歌うように、鍾乳洞に風が反響する。 鍾乳洞に満ちる潮騒が、天然のオルガンのように作用して、複雑な音色を奏でる。 それは、確かに歌だった。 鍾乳洞という『喉』から響く、惑星(ホシ)の歌。 美しい、美しい、星の海にまでも響き渡る、惑星の歌だ。 ドーヴィル海岸。 王家の避暑地。 ドーヴィル海岸が有名なのは、夏のある時期に、七色に光り輝く海面によってである。 そして今、まさしく、それと同じ、年に数度と無い奇跡が顕現していた。 腹の底を震わせるような、大地と大洋の歌声。 遙か沖合から響いてくる“それ”が、海面を虹色に光らせ、揺らがせる。 この時期のドーヴィル海岸には、ある種の夜光虫が群れを成して集まるのだ。 それが、鍾乳洞と風と波が奏でる“歌”によって、刺激され、ボウっと色とりどりに光る。 七色の海面は、鍾乳洞の歌と、海面の夜光虫の競演だ。「あら、綺麗ね」 どこまでも他人ごとのように、ノワールは、光り輝く海を背後にしたカリンを眺める。「でも、こんな見せ物を見せられても、気は変わらないわよ? “木偶”よ、早くして――」「Ah――]「……何?」 ――早くして頂戴、と続けようとしたノワールを、“木偶”――村人の屍体の澄んだ声が遮る。 それは、本来有り得ないこと。 屍体たちを、ノワールは完全に支配している。 こんな、ノワールの命令を遮って、声を上げることは、絶対にありえない。 いや、声を上げるだけではない。――Ah――Lah――ia―― 歌っている。 共鳴している。 共振している。――ia――――ia――――tor――enbr―――― 村人たちが歌っている。 歌っている。 唄っている。 謡っている。 謳っている。 詠っている。 唱っている。 屍体になってまで、うたっている。 彼らの身体に刻まれた、詠唱と崇拝の記録が、共鳴し、感応している。 それは、彼らの祖先から連綿と続く、ある“神”への崇拝の歌。 畏敬の歌。 礼賛の歌。 称讃の歌。 鍾乳洞から響く、“惑星の歌”は、神を喚ぶもの。 それに惹かれて、顕現する、音楽の神。 村人が詠う、先祖伝来の詠唱は、その遙か外宇宙の深遠から立ち現れる神を、もっと長く留めておくために、称えるものだ。 すなわち、その神とは。 音楽を司る、祖となる――外なる神の一柱。 語るも憚れるその名を――『トルネンブラ』。 生ける音として、外宇宙に在す(まします)白痴の王アザトースに仕える、神々の宮廷音楽家。 「な――、何よ、やめなさい! うたうのを、やめなさい――」 ノワールが、命じる。 だが、村人の屍体たちは、歌を止めない。 既に“木偶”たちは、修道女の制御を離れている。 村人たちだった“木偶”たちは、彼ら本来の奉仕対象のために、今でも、その身を捧げ、歌をうたっている。 たとえ魂が去ってしまった後であっても、村人たちの、その忠誠と奉仕は、失われなかったのだ。 しかし狼狽するノワールを余所に、カリンは、更に魔法の詠唱を続ける。 いや、それは、本当に、魔法の詠唱なのか? カリンは、自分の意志で、それを紡いでいるのか?(なんだか、とっても、いい気分――そうだ、歌を、もっと、高らかに、歌をうたわせなくちゃ――) 半ば以上朦朧と、恍惚とした意識の中、カリンの視界には、既にノワールも木偶たちも写っていない。 あるのは、何か偉大なるものに導かれるような、不思議な感覚だけ。 自分が失くなるかのような、悍ましく、しかし、抗いがたいような名状しがたき恍惚のなか、カリンは確かに、“天上からの声”を聞いた。 それは、とっても恐ろしい声。 実体を持った、音。 かみさまのこえ、おとのかみさま。 全身が総毛立ち、カリンは震える。(ああ、もっと、歌を――“とrねmbら”に捧げる、歌を――)(いやだめだ、すぐに止めないと、取り返しが付かないことになる――) 相反する思いが、カリンの中で捻じれる。 しかし、彼女の詠唱は、止まらない。 止められない。 まるで、彼女の身体は、最早彼女自身のものではないかのようであった。 鍾乳洞が歌う“惑星の歌”と、村人の屍体が奏でる“礼讃の歌”。 今のカリンは、その、悍ましくも美しい混声合唱の、指揮者のようであった。 いや、実際に、指揮者にして巫女たるカリンと、鍾乳洞と海を通る風の響き、それに共鳴する村人の屍体たちは、三位一体渾然となった、一つのシステムとして作用していた。 彼らは全て合わせて、巨大な一つの楽器なのだ。 今この瞬間、カリンの身体は、カリンのものであって、カリンのものではない。 外なる神トルネンブラを楽しませるためだけの、大きな楽器の、その一部にすぎないのだ。 彼女の風の才能は、今、ドーヴィルの風を得て、鍾乳洞と村人の歌声に後押しされて、禁断の領域に至りつつ在った。 そして、今、まさに、美しく響く星の歌に惹かれて、外宇宙の神性が顕現しつつあった。 一際強く、海岸が発光し、歪んだ音が響き渡る。 トランス状態となったカリンに、思わず、サンドリオンは見惚れてしまう。(なんて、なんて美しいんだ――) 元恋人を差し置いて、サンドリオンは、カリンに見蕩れてしまっていた。 まあ、一方のノワールの方は、さっさと離脱してしまってるのだが。 使い捨ての“木偶”がどうなろうと、彼女には知ったことではないのだった。 もちろん、彼女の元恋人らしい、サンドリオンについても、気に掛けはせずに、とっとと退いてしまっている。 そして遂に、“それ”は顕現する。 当代随一の風の使い手に指揮されて、調律された、その“惑星の歌”は、その響きの美しさ故に、神降ろす。 空間が軋むような、割れるような音とともに、一際高まった演奏が、“かみさま”を呼び出した。 一瞬、魂をかき鳴らすような、非実体の音が、カリンやサンドリオンの間を駆け抜ける。 それにしたがって、木偶たちが膝をついて倒れていく。その“音”に、屍体に残っていた最後の何か――魂や肉体を超越した信仰心――を連れ去られたかのように。 烈風カリンの指揮のもと、ソレは、ただ一瞬であれども、ハルケギニアに顕現した――。◆◇◆ 後の記録において、語られることは少ない。 生き残った騎士は、黙して語らない。 ただ、壊滅したドーヴィル村の住民たちの死体は、全部が全部、まるで、始祖の御来光を見たかの如き笑みを浮かべていたそうだ。=================================リハビリがてら。本編時間軸上、エレオノールさんとか、カトレアさんとか、カリンちゃんは登場させられないので、外伝で補完です。カリン:職業「騎士見習い」 隠し職業「音神の巫女」←New!2011.10.10 初投稿2011.10.15 加筆修正