蜘蛛の巣から逃れる為に 外伝.10 ヴァリエール家の人々(2)◆◇◆ よく晴れた夏の日のことであった。 積乱雲が発達し、夕立でも来そうな、そんな空模様。 その空の下、雷雲と大風を連れて、彼女はやって来た。 “天災は忘れた頃にやって来る”――誰が言った台詞だったか。 サイトが召喚される時から、遡ること八年前。「ルイズをーーっ、返せぇえええーーー!!!」 万雷と。 台風と。 雹嵐と。 竜巻を引き連れて。 怒れる烈風が、シャンリットを滅ぼしに、やって来た。◆◇◆ 一方、大都市シャンリットの中枢は、てんやわんやであった。「最大風速、記録更新っ!」「都市気候ホメオスタシス結界、対応可能範囲超えます。対応レベルを、記録的災害(ディザスター・レポート)レベルに上昇させます」「最外郭の観測機器、78%が通信途絶。順次<黒糸>経由で修復、再生成させます」「信じられん、ただ一人の人間が、ここまで天候を自在に操るとは!」 騒々しい指揮所。 だが、切羽詰まった雰囲気はない。「いやあ、凄いな! 凄いなぁ!」「全くです! 良いデータが取れそうです!」「千年教師長サマサマだな。まさかあの『烈風』の戦闘出力を測る機会が来るとは」 まるで祭りのような、喧騒だ。 良い意味での、喧騒。 てんやわんやであったが、彼らはとても嬉しそうだった。 それはとてもとても、嬉しそうだった。 未知が、嬉しいのだ。 知識の地平が広がるのが、嬉しいのだ。 頭の中の永劫の渇きが少しでも満たされるのが、堪らないのだ。 彼ら侏儒の矮人――人造種族ゴブリンメイジの、脳髄の奥の奥の更に奥の、魂の最奥に刻まれた、汲めども尽きぬ好奇心が疼くのだ。 それは呪い。 彼らの造物主(あるじ)から感染させられた、永劫で根源の呪い。「で、その千年教師長殿は、どこに――?」「私なら、ここだ」「うわぁっ!?」 指揮所の床から、ズルリ、と影が伸びる。 黒い繊維が、捻り合わされて、糸になり、縄になり、綱になり――やがて、ヒトガタとなる。 そのヒトガタは名前を、ウード・ド・シャンリットと言った。「くふふ。『烈風』殿は大層お怒りのようだ」 『烈風』など、どこ吹く風という具合に、飄々と千年教師長が言う。「あなたが彼女の末娘を誘拐してきたからでしょう?」「くふふ。その通り。折角の『虚無』の才能を腐らせておくわけにはいかないだろう?」「まあ確かに。あのカビ臭くて古臭いトリステインでは、下手したら一生、後ろ指を指され続けていたでしょうな」「ああ、全く。今の私は、柄にも無く良いことをして気分が良いぞ。そうだな、君たちもルイズちゃんのように、“アシナガ(グモの)おじさん”と私のことを呼ぶがいい」 千年教師長の影が歪み、女郎蜘蛛のように細く長い脚が揺らいで生える。 彼は、上機嫌だ。 彼の下僕達と同じく、彼も上機嫌だ。 『烈風』の襲来による以外にも、原因があるのだろう。 恐らくは、この襲来の遠因となった、あの幼いピンクブロンドの少女のせいだろう。 嬉々としてウードは語る。「これで虚無のコレクションがまた増えたぞ。始祖ブリミル復元のための因子もそのうち揃うだろうさ」「始祖復元計画……でしたか」「そうだ。半神だった彼を復元させるのだ」 どうやら悪巧みなのだろう。 邪悪にウードの口角が釣り上がる。 背中から生えた蜘蛛脚が、ワキワキと動く。「一体どんな事を語ってくれるのかな。文字通り世界の礎となって消えた彼は」 陰鬱だが楽しげな笑い声が響く。「くふふははは、ははははははっ。器を復元してやれば、この世界に楔となって残るブリミル某の魂も降りてきて、その重い口を開いてくれるだろうさ」 ――6000年の真実をな。◆◇◆「それで、千年教師長。あの『烈風』は如何します?」 指揮所のモニターの中では、豪風の中を進んでくる『烈風』カリンの鉄仮面が不気味に光っている。 いや、その前で哄笑する怪人蜘蛛男の方が万倍不気味だが。「くふ、は、は、ふぅ。――ん、そうだなー、『烈風』殿には、不良在庫の処理を手伝ってもらおう」「不良在庫というと――」「ああ、あれだ。この間さ、全地下都市から衛星都市、植民惑星に至るまでの全てのゴブリンメイジの数を調査しただろう?」「あのあれですか。棚卸の」「そうそれ」 ゴミはゴミ箱に、という程度の気安さで。 千年教師長は決定を下す。 恒星系規模に広がる蜘蛛の巣の最高祭司として。「確か、10万ほどさ、人口計画より余剰があったのが判明しただろう?」 ぶつけちまおうぜ。 一石二鳥だ。 屍山血河を築いてもらおう。 10万の命の行く末を。 彼はいとも簡単に決定した。「流石に10万も屠れば、如何な『烈風』といえども、こっちの話を聞いてくれる程度には大人しくなるだろうさ。神ならぬ人の身だ。何時かは疲れる」「はあ、そうですか。ではそのように」「順番はどーでも良いから、準備できた都市からから順に<ゲートの鏡>経由で『烈風』にぶつけろ。戦力の逐次投入は愚というが、ハナから損耗させるための戦力だ。逐次投入上等。あとまあ、殺せることは無いだろうが、一応『殺すな』と、ぶつけるゴブリン共には刷り込んで(インプリントして)おけよ」「御意」 お付きの矮人の言葉を聞いて、ウードは頷く。 それを合図に、ばらりと、ウードの身体が蜘蛛脚の先から、解けていく。 歪なヒトガタが崩れて触手のような綱になり、その綱が解け、縄になり、糸になり、極小の繊維となって床に吸い込まれていく。「では頼んだ。私は、あの虚無の娘御をあやしてやりに行かないといけないからな。――いあ、あとらっくなちゃ」 彼の本体は、こんなちっぽけなヒトガタではないのだから。「了解しました、我らが祭司長。――いあ、あとらっくなちゃ」 そう言って彼の従者が返礼したときには、既にウードの姿は影も形もなかった。◆◇◆ 学術都市の外で、矮人の特攻と『烈風』の応戦による地獄絵図が広がっている頃。 その学術都市の一角。 白い部屋の中で、年の頃8歳くらいの少女が座っている。 彼女の周りには、古ぼけた本や、アンティークのオルゴール、鈍く擦り切れて年季の入った鏡、香りの失せた香炉が乱雑に置かれている。 壁際には魔法書らしきものが詰まった可動式の本棚が、図書館の地下書庫のように幾つもレールの上に並べられている。 それとは別に、彼女の目の前には宝石箱が置かれており、妖しい光を放つ色とりどりの4つの指輪が置かれている。 その指輪の一つ一つを、彼女は手にとって繁々と見つめる。「綺麗……。でも、何の宝石かしら?」「それは全てルビーだよ。ルイズ・フランソワーズ」「ひゃっ!?」 急に背後から声を掛けられた少女――ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール(8歳)は、慌てて指輪を取り落としそうになる。「始祖の血が凝り固まってできたルビー……の、レプリカだがね」 一方、何処からか顕れた男は、陰鬱に訥々と語る。「この都市に居る間は、自由に使っていいよ。そこに転がっている『始祖の秘宝』のレプリカと一緒にね。何も特殊な効果を宿すまでには至っていないが、君の学習の一助になるだろう。イメージは大事だからね」 ルイズが振り返って見るその姿は、人というには余りに歪な何かを孕んでいた。(――悪魔) 直感的に、ルイズはその男が人間に非ざる者だと見抜いていた。 だが、彼女は着いて来た。 その異形の“あしながおじさん”と共に、故郷のラ・ヴァリエールを離れて、この異端の都へと。 すなわち学術都市シャンリットに。 何故か。 何故、誇り高いトリステイン貴族である彼女が、異端の手先であるこの男と共に、あの悪名高い異端都市シャンリットへやって来たのか。 彼女が自分の意志で此処に居るとしたら、不思議に思うだろうか。 事実、彼女の母である『烈風』カリンは、ルイズが誘拐されたものだと思って(誤解して)、字義通りの“風の便り”を頼りにルイズの居場所を特定し、シャンリットまで攻め込んできている。 だが、ルイズが此処に居るその理由は簡単だ。 彼女は、その誇り高さ故に、異形の“あしながおじさん”に着いて来たのだ。 一人前の貴族になるために。 “貴族とは魔法以ってその精神とする”。 だが、彼女は魔法が使えない。 いつもいつも失敗ばかり。 杖振っては出来損ないの爆発が顕現する、呪われた才能。 いくら練習しても、嘆いても、何をしても叶わない願い。 “魔法を、使いたい”。 普通の貴族なら、生来成就が約束されたその願いが、彼女にとっては果てしなく遠かった。 叶わぬ願いは鬱積し、彼女は夢の世界に耽溺するようになった。 鬱積した思いに比例するように、夢の中では、彼女は強力無比な無敵の女王であった。 そしてあるとき、いつもの様に池の小舟でのお昼寝――夢の世界(ドリームランド)への逃避行――から目覚めると、そこにあの悪魔が顕れたのだ。 悪魔の、不気味でアンバランスに長い手足は、蜘蛛を思わせた。 そして蜘蛛の悪魔は、彼女に問いかけた。 教会に伝わる説話のように、彼は三度問いかけた。 “魔法を使いたくありませんか? 惨めな思いはもう嫌でしょう?” “魔法を使いたくありませんか? 貴女は、特別な才能を持っている。ここではそれが腐るばかりだ。貴方に相応しい場所に連れていってあげましょう” “魔法を使いたくありませんか? 父母の期待に応えたいでしょう?” ――もちろん彼女は三度、“Oui”と肯定で答えた。 そして気づけば、この白い部屋に居る。 この部屋に来て数日経ったが、この部屋から外に出ては居ない。 監禁されているわけではない。 まあ、扉には鍵が掛かっているかも知れないが、それは未だに確かめていない。 なぜならずっと本を読んでいるから。 元来から読書好きな彼女にとって、ここにある魔法書は値千金だった。 そこに書かれているのは、失われたはずの虚無の魔法についての心得だった。 彼女は貪るようにそれを読んだ。 一行読むごとに、自分の中の何かが動くのがわかる。 一頁進めるごとに、魔力の感覚が広がり、世界の有様が頭の中に浮かび上がる。 一冊ごとに、欠けていた何かの歯車がピタリと嵌っていくような気がする。 ルイズは書を読む手を止められなかった。 ――今まで自分は何と窮屈な認識で生きていたのだろうか! 知識が増えるたびに、彼女は自分自身を取り戻していく。 枷が外れていくのがわかる。 封印されていた力が解き放たれていくことの何と心地よいことか。 半ば寝食を忘れて、そして愛しの夢の世界へ行くことすら忘れて、虚無の指南書を読み耽った。耽溺した。 彼女が虚無に関わる本を幾つも読み終えた時、ふと気づけば傍らには幾つかの古ぼけたアイテムと、4つの指輪を収めた宝石箱があった。 それで中身を検分していたところ、蜘蛛男が再び現れたのだ。「それは『始祖のルビー』のレプリカ。周りにあるのは『始祖の秘宝』のレプリカ。書物の知識だけではなく、偽物とは言え実物に触れるのは悪いことではないよ」「へえ。これが、あの」 得意満面といった風情で蜘蛛男は語る。 コレクションを自慢できて嬉しいのだろう。 ルイズはその小さな手のひらの中で、指輪を弄ぶ。 からからと、ちゃりちゃりと4つの指輪が鳴る。「本来であれば、指輪と秘宝によって、虚無の血統は呪文を得る。だが、そんなプロテクトなど、圧倒的な知識の奔流があれば簡単に消し飛ぶ程度のものだ。そうだろう?」「……ええ。確かに」「何なら、昔の虚無遣いたちの詠唱映像も見るといい。参考になるだろう」 そう言って、蜘蛛男はルイズに何かカードを投げて渡す。「……これは?」 ぱしりと、手の平で受け止めたカードを見て、ルイズが訊ねる。 それは不思議な光沢を持った何かの金属で出来ているようで、時々文字らしきものが明滅している。「シャンリットの<マジックカード>だ。この街の身分証明証であり、系統魔法の才能がない者にもそれを使えるようにするものだ。この学術都市が誇る情報端末でもある。それを使えば、およそ必要と思われる映像資料は全て見られる。操作するには、手に持って念じ、あるいは言葉で以って命じれば良い」「へー。……あれ、平民でも系統魔法を使えるの?」「そうだ」「てことは、私も虚無以外の魔法が使えるってこと!?」「そうなるな。まあ、使い方は追々慣れると良い。この施設の見取り図も入っているし、そのカードで大抵の扉は開けられるように権限を設定しておいたから、気が向いた時に探検でもしてくれたまえ、小さな虚無」 それだけ言うと、手足がアンバランスに長いその蜘蛛男はズブズブと床に沈んでいく。 有り得ない光景なのに、ルイズにはそれがとても自然に思えた。 ああそうだ、人外の妖怪なのだから、その程度は朝飯前に決まっている。「待ちなさい!」「何だね? まだ何か? ああそうだ、後で指南役の虚無遣いでも付けさせよう。指南役は女性のほうが良いだろうから、グレゴリオ・レプリカの女性体でも作らせるか」「一人で勝手にヒートしないでよ。こちらの話を聞きなさい。話を聞かない男の人は嫌われるって、エレオノール姉様が言ってたわよ」「くふふ。うん。別に実際のところ君に嫌われようが何されようが構わない――。もちろん、私の考えに賛同してくれるならそれに越したことはないのだけれどね」「――だから、だから、どうしてなの?」 少女の問いかけに、半ばまで床に沈んだ蜘蛛男は首を傾げる。「どうして、とは、何のことかな?」「何で、こんな事をしてくれるの? こんなことをして、あなたに何の得があるのよ? まさか、世のため人のためって言う訳じゃあないでしょうね?」「まさか! 世のため人のためなんて、最も私に似合わない言葉だ。千年を自己の知識欲に捧げてきた私が! そんな甘っちょろい理由で君をここに連れてきたとでも?」 嘆くように肩を竦めて、上半身だけ残った蜘蛛男は否定する。 心外だと言わんばかりだ。 半分になった背丈のお陰で、彼と彼女の目線がちょうどぶつかる。「じゃあ、どうして――」「――まあ、有り体に言えば“投資”の一環だな。そういう意味では、世間一般に言われる教育と何ら変りない」「は?」「未開花の才能が朽ちていくことは、とてもとても悲しいものだ。君だって、芽吹いたばかりの薔薇の種があれば、熱心に水をやり、堆肥を施し、世話をするだろう? そのまま枯らすのは勿体無いと、可哀想だと思うだろう?」 どうやら本心から、薔薇と人間を同列に語る妖怪男。 そのバランス感覚は、千年生きたためなのか、あるいは元からこうなのか。 いや、こうだったから、こうなったのか。 ともかく、それはルイズの嫌悪感を深めただけであった。 いや、元からその感覚は在ったのだ。 初対面の時からずっと、首筋のずっと後ろでチリチリと焦げ付く感覚がまとわりついて離れないのだ。「例え敵になろうとも、偉大な才能が朽ちるのを放っては置けないだろう? だって、勿体無いじゃないか!」「……」「そうだ資源は有効活用しなくてはならないのだ! 特に天然物は貴重だからな。自然は、理性の及びもつかない領域で、偶然という奇跡を、その試行回数に任せて力づくで顕現させる。機会を逃さずにそれを捉えることこそが、未知なる世界への扉と成るのだ。そして君は、偉大な天然の奇跡の結晶というわけだ」 ルイズは人知れず杖を握り絞める。 叶うことなら、その口を吹き飛ばしたいと。 彼女の感覚が訴えている。 眼の前の怨敵を吹き飛ばせと。 救世を義務付けられた虚無の血統が認定している。 “目の前の蜘蛛男は、世界に仇なす敵である”と。「そうだ! 小さな虚無よ! 存分に学ぶが良い! その才能を開花させよ! 我々が積み重ねたものを踏み越え、新たな地平を開拓せよ! 先人の遺蹟は常に後生の人間のための一里塚にすぎないのだ。一生かかって天才が見つけた理論をわずかに一年で後世のものは理解する。そうでなくては知識とは、理論とは言えぬ! だがこの世界の未知の領野はあまりに広く、我らが知識のランタンは余りに貧弱で、故に長生し数を増やし億を超え兆を超えて遙か京、垓は愚か那由多の果てにまで眷属を増やさねば到底事足りぬのだ」 演説を始める人外。 もはや我慢ならない。 ルイズは遂に、その杖を振るう。 救世の業。邪神消滅のための虚無の魔法を。「『爆発(エクスプロージョン)』!!」「ぎゅむっ!?」 不可解な叫びだけを残して、蜘蛛男の上半身は消え去る。 はー、はー、とルイズが荒い息を吐く。 幾ら知識を得たとは言え、無詠唱のエクスプロージョンは、まだ早かったようだ。 とは言え、邪悪は消毒された。【くふふふあはははっ! 良いなあ! 元気がいいのは大歓迎だ!!】「っ!?」 ――かに思われた。【くひひ。私を滅ぼすことなど最早出来んよ】【幾らヨグ=ソトースに連なる虚空の魔法とはいえ、全宇宙に圏域を広げたこのウード・ド・シャンリットの蜘蛛の糸を燃やし尽くすことは不可能だ!】【それでも滅ぼしたくば、せめて始祖ブリミルのように半神になってから出直すことだな】【全時空に隣接し、現在過去未来において全ての端末を消滅させれば、あるいは私も死という終演を迎えることが叶うやも知れぬ】【ははは、それは楽しみだなぁ。もちろん抗わせてもらうが。必死の境地ともなればまた何か新しい発見があるであろうし。是非とも頑張ってくれたまえ、小さな虚無よ】【私は期待しているぞ】【小指の爪の垢ほどになあ!】【君の才能と、意志と、運命に! 私は期待を寄せているのだ】 部屋中の壁をスピーカーにしたかのごとく、蜘蛛男の――ウード・ド・シャンリットの声が響く。「――っ!」 その大音量に、思わずルイズは耳を塞ぐ。 部屋の全てに――いや、都市全てを覆う<黒糸>を介して、それに宿ったウードの亡霊が語りかけているのだ。 ルイズが耳を塞いだ拍子に、手に握っていた<シャンリットのマジックカード>を取り落とす。【ああ、そうだ。君も見ておくと良い。せめてこのレベルに達さないと、私の敵となるには全く足りはしないのだから】 参考になるだろう、などと言って、ウードの気配は消える。 床に落ちたそれが、空間に画像を投影する。 それは――「母さま……!」 ルイズを取り返しに押し寄せた、『烈風』の勇姿であった。◆◇◆ 屍山血河。 その有様を表すのに、それ以上にふさわしい言葉があろうか。 あるいは、血の池地獄。 十万の矮人の骸を後ろに、『烈風』カリンは尚もあの異端都市シャンリットへと歩みを止めずにいた。 見る影もなくボロボロで、足を引きずる彼女であったが、鬼気迫るその様子は、見る者に感動と畏敬の念を呼び起こさずにはおかないものだった。 ズルズルと負傷と疲労で足を引きずりつつも、その目の炎はまるで消えていない。 一歩一歩。 彼女は、娘を攫った者共の根城へと近づく。 とうに体力も精神力も何もかも擦り切れているだろうに、『烈風』は歩みを止めない。「ルイズ……」 刃毀れだらけのレイピアを支えに、少しずつ。 だけれども着実に。 彼女は、母として娘の待つ都へと近づいていく。「ルイズ……っ!」 だが。「ぐっ!? か、壁!?」 彼女の行く手を、不可視の壁が遮る。 シャンリットを護る魔術結界。 それは絶対の壁となって、敵対者を阻む。 絶望に表情を染めて、カリーヌがぺたぺたと結界を叩く。 それは滑稽なパントマイムのようであった。「結界……。邪魔だ、風よ!!」 ならばと得意の風をぶつけてみるが、全くビクともしない。「くっ。無駄に頑丈な」 当然だ。 シャンリットを覆う結界は、コンチネント級空中要塞の落下特攻――どころか、月天級の天体の直撃さえも凌げる強度に設計してあるのだ。 まあ、実際これでも邪神の本気の一撃には一秒すら持たないのであるが。 とはいえ、一瞬でも結界が攻撃を食い止めたならば、その一瞬でシャッガイの昆虫の譲りの技術で転移シークエンスに移行して、恒星系規模のテレポートを行なって難を逃れるように設計されているので安心である。 しかし。 邪神級の一撃でなければ破れないというのならば――。「――ドーヴィル以来封印してきましたが、どうやら封印を解く必要があるようですね……」 その邪神の一撃で以って破ればよいだけの話。 何せ、この『烈風』カリン、既に音神【トルネンブラ】の巫女であるからして。 昔に一度招来を行ったきりだが、その音程は既に身体に、脳髄に、魂魄の奥底に、嫌というほどに刻まれている。望む望まざるにかかわらず。 再現することは、さして難しくも、無い。 カリンが纏う空気が、変質する。 自然の風から、名状しがたき異界の風へ。 外宇宙から吹き込む、ええてるを原動力にした異形の楽器へと、彼女自身が成り果て――「【トルネンブラの招来】――うたを、ほしのうたを――」「やめなんせ」「へぶっ!?」 ――ようとしたすんでの所を、突如背後から何か網のようなものが絡めとって、地面に縫いつける。「ぬ、動けん……」「まあ元より体力も気力も精神力も疾うの昔につきていたのだ。10万の熟練の矮人メイジたちを戮殺しておいて、未だ動こうだなんて、あんまりに人の道を外れすぎているだろう?」 どの口がそれを言うか、というツッコミが入りそうなことを宣うのは、やはりシャンリットの主人ウードである。 死体回収のゴブリン共を下に置き、カリンが築いた屍山の上に腰掛けている。 さながらまるで地獄の大公――ほど上等なものでは無い。精々墓地で跳梁するグールの頭領、文字通り死体の山の大将がいいとこだろう。いやいや彼の性質素性を鑑みるに、伽藍の頭蓋に巣を張るしがない一匹の蜘蛛というのが適切か。「……貴様は、“千年教師長”か」「おや、私の顔をご存知だったかね? それなら話は早い」 何かしらの祭典で、会ったことがあるのだろう。 カリーヌはウードの顔を見知っていたようだ。 未だに血の流れる屍体の山から、ウードがカリーヌを見下して語る。「そろそろ退いてくれんかね」「退かぬ。貴様らがルイズを返さない限り、退きはせぬ!!」「ふむ。やはり、そこから誤解があるのか」 顎を撫でて思案げにするウード。「ルイズ嬢は、彼女の意志でこのシャンリットにやって来たのだぞ?」「……世迷言を」「ふむ。信じられないかね? “貴族たれ”と教育してきたのは、君たち家族だろう?」「それと、ルイズがシャンリットに赴くことと、何の関係がある」 言下に否定するカリン。 くつくつと嗤うウード。「大ありさ。彼女の魔法の才能を花開させられるのは、ハルケギニアでは、このシャンリットを置いて他にない。ここでなければ、彼女は魔法を使えない。魔法を使えることは、貴族の前提条件。故に、彼女は、シャンリットで学ばねば、真の貴族に成れはしないということだな。未来永劫に」 それは事実だ。 とてつもない幸運が重ならない限り、自然に虚無覚醒の条件が整うことはありえない。 虚無覚醒の可能性があるのは、シャンリットを除けば、聖戦以来虚無研究が継承されているロマリアくらいのものだろう。 まあ、ルイズの特異な才能に関わらず、向上心ある者が、自らの才能を伸ばすのに、シャンリット以上に恵まれた場所は無い。 叡智を集めた大図書館と、古今東西すべての文物を収蔵した大博物館を擁し、ありとあらゆる人材の坩堝であり、日々の糧を得ることを気にせずに学究に打ち込める、研究求道者の理想郷――学術都市シャンリット。「それが、どうした? そんなことは信じはせぬ。仮に、あの子の意志であの子がシャンリットに居るのだとして、だからと言って、私が貴様を許すと思うてか」 蜘蛛の網に絡め取られて地面に縫いつけられたカリーヌが、立ち上がろうとする。「おお! まだ動けるか! 素晴らしい。何処にそんな力が残されているのだ? 是非とも標本にして研究したいものだ」「ほ、ざっ、けぇえええええ!!」 ブチブチと何か得体の知れない物質で出来た網を引き千切って、カリーヌが立ち上がる。「なるほど。つまりは、その底力の原動力は――母娘の絆か。だが……」 娘を思う母の力は、道理を覆すと、太古から相場が決まっている。 ウードは頷きを一つ。 そして無造作に手を振り下ろす。「――がっ!?」「『重力偏向魔法』――確か、ダイ大風に言えば『ベタン』というところか?」 そしてカリーヌを中心に、巨人に踏み潰されたかのように、地面が陥没する。 シャンリットが得意とする、重力操作魔法によって、カリーヌ周辺の重力を強化したのだ。「うぅっ。ぐぅっ、ぁ」 全身の骨が軋みを上げ、堪らずカリーヌは苦鳴を漏らす。 さてこれからどうしようか、とウードが一瞬思案した時であった。「うん?」 彼らの前に白銀に輝くゲートが現れたのは。◆◇◆ ルイズは全てを見ていた。 自分の母が、自分を取り戻すために10万に及ぶメイジを蹴散らすのを。 そしてボロボロになって、蜘蛛の化生の前に膝を付くのを。 ルイズは、全て見ていた。 故に、彼女は行動する。「『世界扉(ワールド・ドア)』!!」 涙に潤んだ声で呪文を唱える。 それはつい今しがた身につけた、虚無の呪文。強い願いに応えて、彼女の才能は開花する。 親を思う子は、蜘蛛の魔王の前に立ちはだかるべく、空間を超えて突き進む。◆◇◆「母さまを、いじめないでっ!!」「は?」「ルイズ……?」 『世界扉』をくぐり抜けたルイズの第一声である。 彼女は、カリーヌとウードの間にまろび出て、その小さな体を広げて精一杯壁にならんと、蜘蛛の化生に立ち向かう。 それを見たウードとカリーヌは困惑気だ。 ウードの方は、よもやこれ程の短時間で『世界扉』を使いこなせるとは思わず。 カリーヌの方は、ルイズが突如現れたという現象自体に対して、思考停止に陥っている。「どうした? ルイズちゃん?」「ちゃん付けで呼ぶなあっ!!」 問いかけるウードに、ルイズは『爆発』で返答。 だが当然の如く、それは何らかの力によって遮られる。「ふむ。反抗期か」「違ーう!!」 どかーん。 ウードが腰掛けていた矮人の屍体が消滅する。 と、同時に、カリーヌを縛っていた重力の縛鎖が解ける。「ふむ。母親を害されて怒ったか。よろしい。その激情が虚無には必要だ」「うるさいうるさいうるさーい!!」 ツンな台詞と共に、空間そのものが虚無の魔法によって爆撃される。 甲高くも重い炸裂音と共に、ウードが吹き飛ばされる。「る、ルイズ……?」 荒く息をつくルイズに、カリーヌが問いかける。 カリーヌの記憶では、ルイズはここまで圧倒的な殲滅力は持っていなかったはずなのだが。 というか、まともに魔法も使えなかったはずなのだが。「母さま。もう安心して! 私が。私が! 母さまを、護るから!!」 うえあ? カリーヌの脳は、あまりの急展開に着いて行けてない。「ははは。素晴らしい魔力だ。が、しかし。如何にもか弱い波動だの」「うぐぁ!?」 虚無の圧力をものともせずに、ウードはルイズを虚空に縫いつける。 張り付けだ。 まるでどこぞの聖者のように。「やめろ! く、離せぇ! これ以上、母さまを、苛めるな!!」 空中に張り付けにされつつも、ルイズは『爆発』の魔法をばら撒く。 どっかん。 どどかーん。「うふふっふのふ。君等まとめて吹き飛ばしても良いけれど。でもそんな事せずとも、実は私は君たちに対するジョーカーを持ってるんだなぁー―!!」 爆風によって舞い散り、着々と残機を減らしつつも、蜘蛛男は戯言を止めない。「次女を――カトレア嬢を、治したくはないかなーーー!?」「なっ!?」「えっ?」 ピタリと。 ハルケギニア史上最強の母娘は、それを限りに動きを止める。=================================混沌のまま、次回へ続く。本当は、カトレアさんとエレオノールさんを出すはずだったのですが。まあ、それは次回で。あと、そのうち6000年前の話もします。というか、今回は第一部の主人公が出しゃばり過ぎた。ウード君は死んでからのほうが輝いてます。キャラ造形的にマッドサイエンティストなのでしょうがないですが。2011.10.23 初投稿2011.10.26 修正