ウードがゴブリンたちに『サモン・サーヴァント』、『コントラクト・サーヴァント』を行わせるようになってから2年余り。 順調にハルケギニア中の小型動物、小型幻獣の図鑑や飼育方法のノウハウが蓄積されてきつつ有る。 蜘蛛や百足、竃馬、七節、蠍、甲虫、蠅、蝶、蜂、芋虫……呼び出されるのが虫ばっかりなのは、やはり土地柄なのだろうか。 まあおかげで、養蜂や養蚕の手法確立の目処も立ちそうだし、他にも蛆虫を使った残飯の分解肥料化も可能になりそうだ。 寄生虫系の使い魔も時々召喚される。これらはまさに一心同体。 寄生虫系の使い魔は契約後に宿主に寄生することで、宿主の能力を大幅に引き上げるらしい。 この方向で研究すれば、無敵の肉体を持った戦士を作成することも夢ではない? ……考えておこう。 強力な幻獣や遠くに生息する幻獣は、ドットにも満たないレベルのゴブリンたちでは、やはり召喚出来ない様だ。 ゴブリンの品種改良も続けているから、将来的にはもっと強力な使い魔も召喚出来るだろうけれど……。 ……しかしそれでもきっと巨大な虫の幻獣が呼び出されるんだろう……。ジャイアントスコーピオンとか。 虫ばかりが呼び出される中で、目を惹くのは、半獣半植物の幻獣である『バロメッツ』や、人の首が鈴生りになる『人面樹』だ。 本当に極々稀にではあるが、虫以外の生物も召喚される。 いや、極々稀というか、この二種以外には蟲しか召喚されていないが。 バロメッツとは、木の実の中から生まれてくる小さな羊である。スキタイの羊とも言う。 実から生まれた羊は大きくなると普通の羊と変わらなくなるが、そのヘソにはバロメッツの種が入っているという。 あるいは別の伝承では、殺された羊の血から発生し、へその緒が地面につながっていて一定範囲以上は動けない羊とされており、周囲の草を食べ尽くすと餓死するという。 ウードの前世の世界では、綿花の見間違いから羊が樹に生るという伝承が生まれたと推測されていたが、ここハルケギニアでは実在したらしい。 ゴブリンに召喚されたのは、前者のタイプの種から育つバロメッツである。 召喚されたのは『サモン・サーヴァント』の実験を始めた当初、つまり2年前だ。 幸運なことに、召喚されたバロメッツは木の実から半分だけ生まれ出た状態であり、さらに実が生っていた枝ごと召喚された。 それによって母樹の枝の一部を手にいれることが出来た。 召喚された母樹の一部から挿し木で苗木を育て、最適な育成条件などをゴブリンたちに調査させた。 現在では森の一部(3アルパン程)がバロメッツ及び、その派生品種で占められている。 『活性』の魔法サマ様である。これが無ければ、最初の挿し木の時点で、バロメッツを根付かせることはできなかっただろう。 また生育条件調査と並行させてこれを“ゴブリンのなる木”(名づけるとしたら『バロブリン』か?)に品種改良した。 とりあえず、実の中で育つ動物を決定している遺伝子部位を特定して、それを羊からゴブリンに組み替えたのだ。 キメラ作製技術書などを読み漁った甲斐があり、そのような改造が可能になったのだ。 これで、遺伝子的に均一な(実験動物として最適な)ゴブリンを量産する事が可能になったし、良い形質を発現したゴブリンの個体を直ぐに増やすことが出来るようになった。 同様にして、鳥や魚も木の実から生まれさせることが出来るようになり、将来的に領地で普及させるための様々な動物・幻獣の品種改良や量産を行う基盤が整備出来た。 人跡未踏の領地の山中は、大規模なプランテーションに変貌しており、そこかしこに皮袋のような丈夫な薄い膜に包まれた動物の胎児達のシルエットが樹に生っているのが見える。 まるで肉の林である。茂った枝葉で薄暗い中に、顔や四肢が浮き出た実が生っている悍ましい光景は、心臓の弱いものならば昇天ものである。 実からかすかに蒸発する胎漿の甘ったるいような匂いのその中を、ゴブリンメイジ達が歩き、土魔法で肥料を施したり、弱った樹や実の中の胎児達の様子を見ては水魔法で調整したりしている。 死産の状態になった実を除いたり、過密状態で育てているために生じるストレス性の病気が蔓延らないように適切に世話をしたり、害虫を見つけては潰したりしている。 たまに枝変わりなどで有用な品種が生まれることもあり、世話係のゴブリンメイジはそういった枝変わりを見つける役目もある。 胎漿の匂いにつられて獣が集まらないように、この一帯の気流は周りに漏れ出ないように魔道具で広範囲で操作されている。 渦巻くように集められた空気は、ところどころに開いている穴から活性炭を詰めた地下道を通し、脱臭したあとに離れた場所に放出している。 無理やり下降気流を作っているおかげで、このあたりは雲が出来づらくなっており、ほぼ毎日快晴だ。 まあ、水は地下から汲み上げたり水魔法で施しているから雨が降らなくてもいいし、陽の光が燦々と降り注ぐから生育にはコチラのほうがいいが。 キメラ作製技術については、『羊のDNA』という大きな塊を『ゴブリンのDNA』という大きな塊に置き換えるくらいは出来るようになったが、『ゴブリンのDNA』の中で『系統魔法を使う遺伝子』とか『脳を大きくする遺伝子』、『早熟遺伝子』などを個別に特定して弄るにはまだまだ研究と熟練が足りない。 まあ、実験の被験体兼研究者に使えるゴブリンの量産体制が整ったので、そちらも進展するだろう。 一方で、『サモン・サーヴァント』と『コントラクト・サーヴァント』の魔法の解析は難航している。 この魔法、複雑すぎるのだ。 とてもではないが、ウードのみで解析できるものではない。 知能強化した品種改良ゴブリン達にも研究をさせているが、まだまだ目処は立たない。 とりあえず、現在はこれまでに記録したデータを元にして、召喚者と被召喚生物の相関を調べさせているところだ。◆ 蜘蛛の糸の繋がる先は 7.ゴブリン村の名物は肉林と人面樹らしい◆ 人面樹は花や実の代わりに人の頭が成ると言う植物である。 風が吹くと、その頭がケタケタ笑い、やがては萎れて落下していくという。 その、人の頭は別に意思を持っているわけでもなく、ただ単に人の頭に似ているだけの花だという話だったのだが。 人面樹が召喚されたのはつい先日のことである。 召喚用の儀式場に、60ばかりの人の頭を付けた高さ10メイルほどの樹が鎮座している。 枝に付く葉は疎らで、その高さに比べてアンバランスに太い幹と、その中央に口を開いている大きなウロが特徴的だ。 まるでそれは樹が大きく口を開けて、入り込んでくるものを今にも咀嚼しようとしているようにも見える。 何よりも特徴的なのは太い幹の天辺からまるで噴水のように幾本も伸びる枝と、その先に鈴生りになっている人の頭部。 召喚されて間もないので、今はこの植物をよく観察しているという段階だ。 植物が召喚されるのはバロメッツ以来だ。 これは植物かどうかは微妙だろうか? ……まあ、人面樹もバロメッツも半分は動物みたいなものだが。 しかしこの人面樹に咲いているのは、伝承に聞く『人の頭の形をした花』なんかではなくて、『人の頭』そのものだ。 喋れないという話だったけれど、喋っている。むしろ呻いている。 生で見たら一瞬で正気を失いかねないレベルだ。 ほとんどの生首は正気を失って「あ~、う~」と呻くだけだが、幾つかは正気を残していたのが居たので、巫女ゴブリンゴーレムに話をさせる。 巫女ゴブリンゴーレムの見た目は褐色美幼女だから警戒心も抱かないだろう。 精悍そうな顔をした老人の生首に話しかけさせる。「人面樹さん、人面樹さん、私の話は分かりますか?」「……お嬢ちゃん、わしは人間だよ。人面樹なんかじゃない」 何だ、どういう事だろう? ……元人間ってことなのだろうか?「じゃあ、お爺さんは何処の誰さん?」「わしはアルパ村の村長だったんだ。もうずいぶんと前のことになるがね」「アルパ村? 前に暇つぶしで読んだ怪談集にそんな村が出てきたような」 確か……「一夜にして村人全員が首なし死体になった村」という事件のあった村だ。 「首なし死体」……か、じゃあ首は何処に行ったんだろうか?「昔の話だよ。わしの村には、『死者と話せる木』という言い伝えがあったのさ。 まあ、この木のことなのだがね。 この木の虚に死んだ者を投げ込むと、数日後にその生首が木に成るんだ。 そして、今、嬢ちゃんと話しているように、話すことが出来るようになる。 とはいえ、その木は森の中の何処に生えているかも定かじゃないし、長いこと迷信の類だと思われていたのさ」「でも、迷信じゃなかった?」 実際にこの木は存在していて、ゴブリンの集落に使い魔として召喚された。 しかも、恐らく村人全ての生首を鈴生りにした状態で。それはつまり。「そう、迷信じゃなかった」 そう言って、村長は滔々と語る。――あるとき村の樵の妻と娘が死んだんだ。風邪をこじらせてしまってね。――妻子の死後、その樵はひどく憔悴してしまった。まあ、無理もない。――ふらりと森に入って、幾日か帰らないこともあった。きっと彼はこの頃から、この人面樹を探していたんだろうね。――――そして、ある時を境に、また元気に働くようになった。村人は一先ず、彼が調子を取り戻したことを喜んだ。 その時に樵は既にこの人面樹に妻子を捧げて、頭だけ生き返らせていたんだろう。「そういうことだ。 そして、運命の日がやってくる。 幼い娘の生首は、言ったんだ。 『寂しい、村のみんなに、会いたい』と」 そして樵は……「まずは幼い子供、娘の遊び友達が行方不明になった。 子供を探しに行った親兄弟も森から帰らなかった。 森に一番詳しいのは樵だ。森は彼の領域だった。 村に残った者は老人ばかり。あっという間に斧を持った樵に皆殺しにされた」 老人の生首は溜息を一つ。「……その後は察しがつくだろう?」 樵は首を刈り取り、両手に抱えて人面樹に捧げたのだ。 そうして、皆、人面樹の花になってしまいました。「この人面樹は、もともと、木の虚に獲物をおびき寄せて、溶かして食べる植物なのさ。 普通はネズミや鳥なんかを捕食する。 捕まえて食べた獲物の一部を生やすことで、更に他の獲物を呼びこむんだ。 大体は頭を生やす。そして鳴き声を真似て、同種の鳥や小動物を呼び込む」 なるほど、でも、やけに事の顛末を詳しく知っている。 その話によると、村長もあっという間に、わけわからないうちに殺されたのだろうから、知らない筈では? 褐色の幼女がそう尋ねると、村長の生首が答える。「最後には樵も自殺して、人面樹の虚に身を投げたのさ。そして私と同じように花になった。 首根っこが繋がっているせいか、花は互いの記憶が読めるらしくてね。 だから、何があったのか、彼がどんな気持ちだったのか。 彼の娘は、彼の妻は、そして村人たちはどんな気持ちだったのか、よくわかる。分かってしまう」「よく正気を保っていられますね、あなたは」「いや、召喚されるまでは意識は無かったよ。 これはきっと使い魔のルーンの効果だろう。この木自体が、知性を獲得したせいだと思う。 皆の記憶が、木の本体に吸い取られて行っているのを感じるよ。 それで、私の意識への負担が減って、そのおかげで独立した思考を保っていられる。 でも、それももう終わりだろうね。ほら、記憶を吸われた花はもう用済みに成るみたいだ」 確かに、花は萎れて次々と落ちている。ぽとり、ぽとりと。 頭が萎れて落ちるたびに人面樹は活力を取り戻し、青々と葉を茂らせていく。 花の重みに引かれて撓んでいた枝は、徐々に重力に逆らって逆立ってゆく。 今目の前の彼も、みるみるうちに頬がコケ、目は落ち窪み、ミイラのような顔になって、そして――ポロリと落ちた。 断末魔も何もない。それは静かな終わりだった。 残ったのは青葉を茂らせる人面樹のみ。 大口のウロを哄笑するように開けている人面樹がその緑髪を逆立てている。「巫女様、こノ木はドウシマショう?」 人面樹を召喚したゴブリンが話しかけてくる。 口語を話せるようになったとはいえ、まだまだ発声器官は未発達なので発音もたどたどしい。「あなたの使い魔なのですから、大事にして下さい。 あと、人面樹から知識を引き出す訓練をして下さい」 〈黒糸〉を介して巫女ゴブリンゴーレムを操りながら、ウードは考える。(若干、気味が悪いが、これは充分に使える。 村長や樵がどう思うか知らないが、せいぜい有効活用させてもらおう) 例えば、寿命で死んだ高官の墓を暴けば、政府の秘密が直ぐに手に入る。 古くから続く家系の当主の死体が手に入れば、秘伝の魔法も手に入るだろう。 死体からしか情報を手に入れられないから、情報の鮮度は落ちるが、問題ない。 鮮度の高い情報は別の方法で手にいれれば良いだけだ。(これを召喚したゴブリンは、バロメッツに組み込んで量産することに決定だな。 同じ遺伝子から作ったゴブリンは同じような使い魔を召喚することが、実験から分かっているし。 恐らく、人面樹を株分けしてやれば、量産型ゴブリンは株分けされた人面樹を召喚するだろう。 それに元が同じ木なら、『コントラクト・サーヴァント』を行った後で、枝や根を繋げてやれば、蓄積された知識を繋げた樹同士で共有することが出来る公算が高い) 使い魔にした人面樹による記憶の蓄積、バロメッツとの連携など、様々なプランを考えつつ、ゴブリンに追加の指示を出す。「ああ、それと」「なんデシょう、巫女様?」 人面樹の幹に額を当てているゴブリンに声を掛ける。早速知識の共有を試しているのだろう。「あなたに家名と役職を与えます。 そして、バロメッツから生まれることとなるあなたの姉妹も、人面樹を使い魔に出来たならそれに連なることとします」「ハッ、光栄でス!」 バロメッツは使い魔ではなくても役に立つが、人面樹は使い魔にしてラインを形成しなくては、蓄積した知識の活用が出来ない。(人面樹を使い魔とするゴブリンの血統(氏族)に家名を与え、役職を固定させよう。 人面樹とのリンクを利用出来れば、人面樹に蓄積された知識と経験を活用してさらなる発展をもたらす存在になるはずだ) これによって、ウードが自由に使える人員は(その内実はゴブリンではあるものの)大幅に増え、その知識レベルも格段に向上するだろう。「家名は〈レゴソフィア〉。役職は知識の収蔵と管理です。 人面樹の特性を生かし、多くの知識を蓄え、後世に残すのです。我らゴブリンの発展と大蜘蛛神様の為に」「我らゴブリンの発展ト、大蜘蛛神サマノ為に!」 品種改良を初めて6年近く。ゴブリンたちもかなり知恵がついてきたようだ。 途中から『活性』の魔道具による成長促進を使えるようになったし、最初から数えると十数世代は品種改良を行っている。 今は、集落の運営がうまく行っているが、そのうちクーデターでも起こされる危険を、ウードは想定しているのだろうか。 ウードも、ゴブリンが知恵をつけてきたからクーデターもありうるとは考えている。(クーデターなど起こそうものなら、逆に巫女を殺した天罰としてゴブリンを殲滅するから問題なし) 殺すだけなら、〈黒糸〉を操れば直ぐだ。 巫女自体もゴーレムだから遠方のウード本体が無事ならいくらでも再生可能である。 ゴブリンたちも殲滅して数が減っても、バロメッツから生まれさせればいくらでも補充可能であることだし。 巫女がゴーレムだとバレたら求心力が落ちるかも知れないという心配も確かにあった。 だが、実は巫女がゴーレムだと言うのは既にバレていたりする。 既に、系統魔法を使えるゴブリンは量産しているから、巫女がゴーレムだというのは彼らが使う『ディテクトマジック』を通じてバレている。 それでも、問題ない。 巫女は大蜘蛛神の操り人形と言うことにしてあるからだ。この場合は比喩ではなく文字通りの意味で。 だから、巫女がゴーレムなのは神の操り人形である以上当然なのだ。 今のところは、この運営体制で問題は生じていない。 それに、共同体に有利なことをしている限りは、クーデターなどで排斥されたりしないだろう。 だがゴブリンたちの数も増えている現状、巫女による統率も限界があるだろうし、ウードの目も手も時間も足りない。 そのうち、ゴブリンたちの統治機構を、宗教的権威とは別に構成する必要があるだろう。 とはいえ、ゴブリンの集落には完全に邪神信仰が根付いてしまっている。 嘘から出た真というか、もはや始まりが何であったかなんて関係の無いレベルまで宗教が確立されているし、ここまでの信仰があれば、実際にアトラク=ナクア復活の一助になるのではなかろうか? とさえ思える。(かの神性は復活を望むようなものではないが……。 少しでも『蜘蛛化の大変容』を抑える助けになれば良いのだが) ウードはそう思いながら、最近、また一層伸びた自分の手足を見る。 シルエットの印象が蜘蛛に近づいているようだ。 そして、前世の知識を元にした統治機構のイメージを形にするべく机に向かう。 今回召喚した人面樹に記憶を食わせるとすれば、先ずは官僚か商会の長などの組織運営に長けていた人物にしようと思いながら。◆ シャンリットの領地ではゴブリンやオークと言った亜人の被害がここ6年ほどで激減している。 オークはウードが生体実験がてら殲滅したし、ゴブリンは家畜化して管理下に置いているから当然だ。 ほかの幻獣も地下に黒糸が張り巡らされているのが感覚でわかるのか、あまり寄り付かなくなった。 あるいは本当に邪神の加護かも知れない。 しかし、盗賊の被害はここ一ヶ月で急に増えた。 領内の平民が盗賊化したわけではなく、隣の領などから流れ込んできているのだ。 シャンリットの領地から逃げて行った幻獣にねぐらを潰された連中などが。 幻獣の件については非公式ながら周辺の領からシャンリット家に抗議が来ている。「幻獣がシャンリットから流入して畑が荒らされたとか抗議されても、ウチとしては本当に何もしてないのだからどうしようも無いんだが。 というかこちらとしても野盗が増えた件で難儀してるというのに。なあ、爺や」「そのとおりです。自然現象でしょうから、どうしようもないのですが」 現在、ウードと爺やが執務を執り行っている。 隣領からの抗議の文は、その中に紛れ込んでいたものだ。「治安維持隊の予算削ったのは失敗だったかな」「まさか、幻獣が減った代わりに盗賊が増えるとは思いますまい。 仕方ないと思いますよ」 シャンリットの領内は豊かに成ってきているから、領民で盗賊に身をやつす者は殆ど居ない。 だが、当主が意図せぬうちにいつの間にか豊かになった領地に対して、伯爵家の治安維持隊は増強されたりしてない。 いや、もともと伯爵家の政策として領地を豊かにしたのだったら、当然、治安維持対策もするだろうけど、そういうわけではないのだ。 だから、治安維持部隊の拡大が間に合っていない。むしろ、亜人被害が減ってから少し縮小されていた。 そして、そんな領地はカモにされるだけだった。◆ 夢見が悪い。 徐々に私の認識が書き換えられているようにも思える。 何故、目が覚めて手足が4本しか無い、だなんて思ってしまうのだろう。蜘蛛でもないのだから4本で良いのだ。 体内の変化も〈黒糸〉で押さえつけるのが難しくなってきているし、そちらに引き摺られているのだろうか。 ここ数年はこの呪いについての研究が忙しかったからと、政務の方を疎かにしていたのが良くなかったのだろうか。 『大変容』対策にかまけて、盗賊問題に対する対処が遅れてしまった。 近くの国境で大規模な会戦があったのが二ヶ月前。 そこで雇われていた傭兵連中や敗残兵が野盗化したのだ。 しかも周辺の領主たちは、シャンリットから野生の幻獣が逃げ散ったの時の意趣返しか何か分からないが、盗賊たちをシャンリット家の方に追い込んだのだ。 何が『途中で幻獣の群れに襲われて取り逃がしてしまった。貴領に於かれましても注意されたし』だ。 白々しい。幻獣が云々は当て付けか。 あまりにも侵入する数が多いから周辺領主が結託した私掠団かと思ったが、経緯としては全然そうでは無いらしい。 純粋に自然発生的なものだとか。 まあ、シャンリット領の通商や領民にダメージが出ているから結果的には変わらないが。 最初に被害が出たのは、私が管理していたゴブリンの集落の方だ。 山の中に畑やらバーナクル(バロメッツの鳥バージョン)やらを作っているから、それが山に逃げ込んだ連中に先ず狙われたようだ。 ゴブリンは見た目は既にただの子供にしか見えないし、手頃な獲物に見えたんだろうな。 実験農場の野菜畑や家畜類などに被害が出ていたので、巫女ゴーレムにメイジ化ゴブリンを率いらせて掃討した。 ドットレベルの魔法も満足に使えないメイジ化ゴブリンだが、こちらは領内に張り巡らされた〈黒糸〉で相手の居場所を正確に把握している。 闇討ち、待ち伏せ、不意打ち何でもありだ。 相手にスクエアクラスがいてもこの戦法なら打倒するのに何の問題もない。 こちらにも少なくない被害が出たが、それはバロメッツから補充可能だから問題なし。 討ち取った盗賊は、人面樹に捧げて情報奪取。敵に容赦はしない。死んでも利用させてもらおう。 貴族の敗残兵から幾つか有用な情報が手に入ったので、後で活用させてもらうことにする。 彼らの屋敷にある先祖伝来のマジックアイテムとか、秘伝の魔法の事とか。 また、高ランクのメイジはゴブリンに遺伝子を組み込む材料に使うために、生殖器等を切り分けて、系統とランクと殺害日などをラベルして冷凍&固定化しておいた。 これを使うかどうかは未知数だが、まあ、無駄にはなるまい。 採取した標本はゴブリン村の地下に作った標本収蔵庫に収めてある。 ゴブリンの集落を狙う奴らはこうして、人知れず排除されていった。 ゴブリン集落をスルーしようとしても〈黒糸〉を通じて場所を特定し、野盗だと確認し次第に、ゴブリンに命じて殲滅していった。 だが、高ランクメイジを含む幾つかの集団の通過を許してしまった。 なかなか練度の高い一団で、土魔法による障害物や水魔法の霧でこちらの追跡を振り切っていったのだ。 こうなるとなかなかゴブリンに襲わせて排除させるわけにも行かない。 あまり人里にゴブリンたちを近づけると、逆にゴブリンが討伐対象にされるかも知れないからだ。 人里に野盗たちが近付く程に〈黒糸〉による振動感知だけでは領民たちとの区別が難しくなるため、排除のペースが落ちていった。 ある程度の目星をつけて『遠見』の魔法を併用して目視確認しながらの討伐となるし、私自身の時間も多くを割くことは出来ない。 まあ、それでも森の中で討ち漏らした幾つかの盗賊団は殲滅できたし、それとなく領軍にも野盗のおおよその位置の情報を流すことも出来た。 領軍の彼らも頑張ってくれたが、どうしても領民に被害が出てしまった。 貴族が君臨を許されているのは、こういった時に領民の安全を守るためだ。 そして私は13歳になろうかというところで、そろそろ初陣を果たしてもおかしくない年だ。 実は最近弟も生まれたし、万一死んでも跡取りは居る。……妹弟の呪いを押さえなくてはいけないから、死ぬ気はさらさら無いが。 魔法学園入学も再来年辺りに控えているし、時期的にはベストかも知れない。 前線に出るのは甚だ遺憾ではあるが、仕方あるまい。 シャンリットの土地を侵した代償は高く付くのだと、知らしめてやらねばなるまい。くふふ。 そう、ここはアトラク=ナクアの呪われた祭壇。 シャンリット家は、そこを司る蜘蛛の祭司。 くふふ、ふふふ。聖域を侵す不届き者には、相応の報いを。くふふふふふ。=================================2010.07.18 初出2010.09.29 修正