空が割れて落ちてくる。 次々と降る岩塊が、シャンリットの摩天楼群を押し潰していく。 魔法的処置と新素材によって常識外の強度を誇るシャンリットの建造物群でも、シャンリット全てを覆い尽くすような量の岩の前ではひとたまりもない。住民の避難は終わっているのがせめてもの救いだが、彼らが避難した地下構造物もこのままでは無事では済まないかも知れない。それとも強固な結界が敵意を弾くのだろうか。 岩塊の源は、宇宙から垂れるイェール=ザレムによって上空で宙ぶらりんに繋ぎ止められているアルビオン大陸そのものだった。 そのアルビオン大陸の内部で、何かが暴れまわっていた。岩塊の落下は、その余波なのだ。「「 逃ぃがぁしぃまぁせんよぉぉぉおおおお!! 」」「首なしのくせにどっから声出してんだ、こいつ! 解剖してみてえなぁ!!」「隊長、同意しますけど、そんなこと言ってる場合じゃねッスよ!」 アルビオン大陸内部は、迷宮のように張り巡らされた地下通路によって要塞化されている。 その通路の中で、首の無い僧服の魔人が、軍装の矮人たちを追いかけていた。首無し司祭がステレオ音声で追いすがる。声は魔人の両の掌から漏れているようだ。 首無し司祭が振り回すハンマーが迷宮要塞の床や廊下に激突するたびに、そこいら一帯が崩壊する。明らかに、その小さな打撃面以上の範囲に圧力が加わっていた。 そして今もまた、首無し司祭の攻撃が空振り、要塞の床が抜ける。迷宮の神アイホートの加護を受けた迷宮壁を、しかし大邪神の化身となったクロムウェルは、他愛なく破壊する。外側の空の様子が一瞬だけ見えたが、崩壊する瓦礫がに遮られてしまう。「うわあい、洒落なんねえッス。護国卿クロムウェルのくせに国(アルビオン)破壊しまくりじゃないッスか。看板に偽りありッス」「国土のみが国にあらずとでも言いたいのかも知れんな。故郷は常に国民の魂の間にある共同幻想にすぎず、その共同幻想があれば国土の実体など無くてもよい、とか思ってるのかも知れん」「形而上の国なんて天国だけで十分ッス。領土なくして国とはいえず、ッスよ」「まあな。っと、無駄話はともかく、なんだかんだで生き残ってるお前は凄えよ」「隊長こそ。……他の奴らは、いつの間にか――どっか行っちゃったッスもんね」 彼らは六人の小隊だったが、残るのは小隊長と一隊員だけだ。 他の四人は、クロムウェルが振るうハンマーの錆になるか、クロムウェルの掌に開いた“口”に吸い込まれて消えてしまった。彼らはこの世の何処にも残っていない。どこかに行ってしまった。 彼らはそれを残念に思っている。大邪神の化身と対峙した経験を、彼らの本体たる“人面樹ネットワーク”にフィードバックできなくなってしまったからだ。仲間の死、自体は別にどうでもいい、ただ大いなる貴重な経験が未来永劫に失われてしまったことを嘆く。「……魂を捕獲して、蓄えられた知識を絞り出す魔術もあるそうだが」「ああ、魂雑巾絞りの奴ッスか……コスパの問題でよっぽどじゃなきゃ使わないんじゃなかったッスか?」「今回、部下のあいつらに適用されると良いんだけどな。この戦争は、あまりにも珍事だ。この戦いの経験を失うには惜しすぎる。飛んでいった魂から、記憶を絞り出さねばな――魂まで喰われて無ければだが」 クロムウェルの攻撃によって床が抜け、宙に放り出されたが、二匹のゴブリンメイジは崩落する瓦礫を空中で蹴って、なんとか要塞迷宮に復帰する。 そして崩れ落ちた通路が、蠢く屍蝋の白によって、瞬く間に塗り直される。岩壁は、まるで生き物の体内のような――死体をこね合わせたような――肉壁によって再構成された。 迷宮を支配するアイホートの、その雛たちが、アザトース・エンジンからの神気を糧に増殖し変異し、迷宮を修復し、そして組み替えたのだ。 中を行く者たちは、その身にナビゲーターとしてアイホートの雛を寄生させなければ、決してまともに進むことは出来ない、邪神の迷宮である。「「 あぁあはははははははははあぁああああ!! 侵略者よ、異端よ、我が神の供物となる栄誉を与えよぉぉぉぉぅう!! 」」 だがより強い神の加護があれば、撹乱程度の迷宮には惑うことはない。 神を降ろした首無し司祭は、ただただ敵を叩き潰すために前進する。 二匹のゴブリンは必死で逃げる。 行き先は体内に寄生させた“雛”が知っている。「エア・ハンマー!」「アース・ジャベリン!!」 苦し紛れに魔法を放つが、全てがクロムウェルの掌に喰われて消える。 魔法によって発生する現象だけではなく、根本の魔力自体が喰らい尽くされてしまうのだ。 あらゆる攻撃がクロムウェルの掌に開いた口に吸い込まれ、そして神の鉄槌によって押し潰される。「……やばいッスね」「ああ、まじでマズイ」 ちょっと、アレをどうにか出来るイメージが湧かない。 生け捕りってのは、更に難しそうだ。「とりあえず救援要請しません?」「……誰にだ? ウード様にか?」「いえ、確かまだ、小神兵器の一柱が待機状態だったはずッス」 思い浮かぶのは、千年の時を経た魔蟲。 千年教師長と契約していたかつての使い魔。 マグマの底でのたうつもの。地を穿つ魔。バロワーズ・ビニース。その名をルマゴ=マダリ。「……でも、ここ、空だぞ? 来れるのかよ」「ちょっと“彼女”が背を伸ばせば届くと思うんスけど。確か、何百年前かの時点でも、少なくとも全長一リーグは超えてたはずッスから」「そうか、しかしそれ以前に、その彼女にコントロール効くのか? 大陸中穴ぼこにされるぞ」「護国卿閣下を放っておいても同じ事ッス」 それは確かに、その通りであった。「それに――時間がねぇッス」「ああ確かに。腹の中の“雛”が疼きやがる」「壁が修復するたびに、活性化して言ってるのが分かるッス。このままじゃ、叩き潰される以前に、俺らが壁の材料になっちまうッスよ」 迷宮で迷わないために植え付けられた“アイホートの雛”が、ゴブリンの体内で活性化しているのだ。 身体を食い破られるのが先か。正気を失って狂うのが先か。クロムウェルに追いつかれるのが先か。 あるいは、アルビオンの中枢であるアザトース・エンジンが破壊されるのが先か。「一先ずは、援軍要請出すか。邪神の司祭(クロムウェル)捕まえるのに手数が足りんし、俺らもいつ死ぬか分からん」「そうッスねー。重要標本(クロムウェル)の位置情報だけでも更新しとかなきゃいけませんし」 背後で吹き荒れる破壊の圧力を尻目に、ゴブリンたちは冷静に逃げていく。 瓦礫の驟雨が、大陸直下のシャンリットの都市に落ちて、摩天楼をへし折っていく。 まるで世界の終わりが現れたかのような戦争は、序盤から中盤へ――そして終局へと向けて加速していく。 邪神や亜神が入り乱れるこの戦いは、既に制御を失ってしまっている。 誰もそれを止められない。 直後に地震。低く響くアザトース・エンジンの駆動震動とは異なる衝撃。クロムウェルの破壊槌よりもなお強い震動。 空にあるアルビオン大陸ではあり得ないはずのそれ。 きっと巨大な魔蟲が、救援要請に従って地下から飛び上がって突撃かましたのだ。 この混沌とした有様を見て、あの紅い女は笑っているに相違ない。 ◆◇◆ ハヴィランド宮殿の一室。 王杖『ルール・フォァ・アルビオン』を手にした蒼い髪の男が居る。 アルビオンの亡命摂政、シャルル・ドルレアン。 彼のもとには、王杖を通じて大陸中のすべての情報が集まっている。「……何故だ」 苦虫を噛み潰したような、声。「何故、こちらの攻撃が通じない」 アルビオンの最大の一手、大陸墜とし(フォーリング・アルビオン)は、敵の軌道エレベータ『イェール=ザレム』によって吊り下げられることで阻止された。 そして軌道エレベータの切断工作は遅々として進んでいない。「くそっ、クロムウェルめ! くそ矮人を追いかけてる暇があったらさっさと『イェール=ザレム』を落とさないか! おい聞いてるのか!? 狂信者ァ!!」【「「 いひ、いひひひいいひひひひひっ! ぺったんぺったんしましょうねえええええええぇええええ!! 」」】「聞けよ、おいィ!」 通信先から聞こえてくるのは破砕音と、じゅるじゅると肉壁が再生する音。 そして嬉しそうな司祭の狂った笑い声。 使い物にならねぇ、と吐き捨てるシャルル。「地上侵攻のウェンディゴ空挺部隊は、膠着……。だが、こちらは時間の問題か」 邪竜イリスの炎によって焼かれ続けては、また増殖する洗脳済みのウェンディゴ・ワルドたち。 地上への侵攻は一進一退の状況だ。雲霞のようなウェンディゴが、一瞬で焼き尽くされる。しかしその炎でも決して根絶することは出来ない。そして幾ら小神といえども、その力は有限の範疇だ――アルビオンの抱えるアザトース・エンジンに比べれば。故にいつかは打倒できるはずだ、身の全てを覆うほどの蟻に集られれば、いくら竜とて無事に済まないのと同じだ。 一応はクロムウェルが崩落させた岩塊と瓦礫によって、シャンリットの地上施設は破壊されているが、それだけだ。制圧するには至っていない。どうやら地面の下に強固な結界があるようだ。 やはり中枢であるアザトース・エンジンを地表まで下ろす必要があるだろう。その出力があればいかなる結界でも破壊できるはずだ。「そして、大陸迷宮への侵入者は……全く防げていないな……」 天から垂れるイェール=ザレムを橋頭堡に侵入する矮人たちの部隊は、アルビオンの勢力を質の点で完全に上回っていた。 千年の間に蓄積され集約された研鑽の果てに、矮人は全てが一騎当千の達人級の技量を共有している。 彼らは対神話生物の経験も豊富であるため、クロムウェルのような化身クラスでなければ、矮人を圧倒することは出来ない。 グラーキのゾンビも、黒い仔山羊も、アイホートの雛の集合体も、スクウェアメイジベースのウェンディゴも……全てが全て、鎧袖一触だった。アルビオンの攻撃は当たらず、向こうの攻撃は必中。身体スペックを限界まで引き出した矮人たちは、神話の化物相手に引けをとらない。 シャルルの脳内には、アルビオン大陸を這いずる侵入者たちが地図上に光点として示されていた。 だが次々と、その地図の情報が虫食いのように抜け落ちていく。 パズルが抜け落ちるように、脳裏に投影された地図が徐々に黒く染まる。「ちっ、<黒糸>が取り戻されているのか」 通信に使っていた<黒糸>――大陸に張り巡らされたシャンリットの蜘蛛の糸、カーボンナノチューブベースの魔法の杖――の制御が、矮人たちに奪回されているのだ。 もともとアルビオン大陸にシャンリットのアトラナート商会が張り巡らせていたのを、インフラとして流用したのが仇になった形だ。 それによって王杖『ルール・フォァ・アルビオン』による支配が途絶してしまったようだ。アイホートの迷宮支配能力ベースでなら、通信網を再構築できるだろうが、それには時間がかかるし、どうしてもリアルタイム性で<黒糸>に劣る。 さらに<黒糸>は、アザトース・エンジンからの神気配賦のレイ・ラインとしても用いていたため、制御を奪還された地区では神気供給が遮断されて、おそらくアルビオン勢力の戦闘能力が激減していることだろう。 何故、何故、何故、こうも上手くいかない?「くそっ、くそっ、くそっ、くそっ、くそったれ!! 蜘蛛め! 蜘蛛どもめ! 人外の分際で私の覇道を邪魔しやがって!!」 シャルルの苛立ちのままに、『ルール・フォァ・アルビオン』から汲み上げた魔力を行使する。 冷気と氷柱が吹き荒れ、部屋を散々に破壊し尽くす。 執務机も、豪奢な絨毯も、銀の燭台も、それどころか壁すらも打ち抜いて暴虐の限りを尽くす。 氷の嵐が、宮殿の屋根まで吹き飛ばす。 それだけのことをして、シャルルは息の一つも乱さない。「……虚しい。何をやってるんだ、私は」 アザトース・エンジンから流れる力をもってすれば、この程度の破壊は造作も無いのだ。 これならハルケギニア人の最高峰である“烈風カリン”をも軽く凌駕するであろう。 だがそんなものは無意味だ。これほどの力をもってしても邪神の前には歯がたたない。虚しい力だ。「八つ当たりなんてしても、意味は無い。……まあ、スッキリはしたから良い。対処を、考えよう」 幾分軽くなった思考で、シャルルは考える。 頭上で、周囲で、生きた要塞であるハヴィランド宮殿が、湿った音を立てて修復していく。 悍ましい肉塊が蠢き、穴が埋まり、表面が整えられる。やがて執務室は、何事もなかったかのように平穏を取り戻す。「とりあえずは迷宮の組み換え。敵の分断と、こちらの戦力の集中だな」 巣作りド○ゴン@アルビオン。 分岐、集合、行き止まり、崩落トラップ、部隊集合、待ち伏せ、挟撃。 シャルルの脳内で次々と指示が出され、アルビオンの要塞が組み替えられていく。「敵の侵攻を考えなかったのは落ち度だ。そこは素直に反省しよう」 まさかこのような形で反撃を受けるとは思わなかったのだ。 しかし地の利はシャルルの側にある。そして数の上でも、アザトース・エンジンによる直近からの魔力供給がある以上はアルビオンにも分があるはずだ。 充分に戦力の集中を行えば、敵の矮人たちは撃退できるだろう。無尽蔵の物量を持っているのは、今やシャンリットだけではないのだから。「……ちょっと楽しくなってきた」 かたかたとパズルを組み替えるように要塞のレイアウトをいじるのが楽しくなってきたシャルル。 リアル・リアルタイムストラテジーゲーム。相手もチートで、自分もチート。そんな感じ。「ことここに至っては、焦っても仕方ない。拮抗してから徐々に盛り返せば良い」 シャンリット勢力とアルビオン勢力の陣取り合戦は、一進一退の様相を呈してきた。 シャルルの脳内に展開されるアルビオンの立体地図は、シャンリットとアルビオンに色分けされ、まるで二種の粘菌が喰い合って広がるように複雑に塗りつぶされている。 一部クロムウェルが暴れていると思われる部分は、まるで紙を引き裂くように地図上に断絶線が現れるのでそれと分かる。敵味方に関わらずに破壊しているのだろう、あの狂司祭は。「――ん?」 一瞬、『ルール・フォァ・アルビオン』から送られてきた立体地図にノイズが混ざった。 ……ような気がした。「気のせいか?」 それは一瞬のことだったので、よほど気をつけていなければ気付かなかっただろう。 しかし今シャルルは厖大な情報量をフレーム単位で処理している状態であり、一瞬のノイズであっても気づかないはずがなかった。「……なんだ?」 ざ。ざ。ざ。 ノイズの感覚が短くなる。 時折立体地図に不可解な影が映る。 最初は小さな染みのような黒点だった。 それがノイズが走るたびに大きくなる。 いや。「……近づいてきている?」 小さすぎて不鮮明だった黒点の輪郭。 大きくなるにつれて、それは何か生物らしきものだと分かる。 蟲(バグ)、だろうか。いや、人間のようにも見える。 シャルルは相変わらず要塞を組み変えながら、時折挿入されるそのノイズを気にかける。 システムチェックに並列してリソースを割いているが、今のところ何も異常は感知できない。 明らかな異常がノイズとして現れているにもかかわらず、だ。逆にそれこそが、異常事態が進行中であることを強く主張している。「だが、あまりそちらにばかりリソースを割くわけにもいかない……! ああ、目を離した隙に! 節操ない奴らめ!」 処理速度が少し下がっただけで、シャンリットの軍勢は、シャルルの対応の穴を突いて、まるで水が流れこむようにして要塞内に広がっていく。 蟻の大群が入り込むように要塞内を蹂躙しようとする矮人たち。それに対するアルビオンの神話生物。立体地図の粘菌(勢力図)が右往左往する。 妨害、誘導、遮断、邀撃……。大陸全てへの指示を、殆どシャルル一人で出している。全て一人でやるのは、彼が他人の能力を信用出来ないせいだろう。 だが、さすがは虚無の血族というべきだろうか、単体で見事に対処している。人間離れした処理能力だった。流石は半神の血脈。シャンリットの側からのハッキングも行われているだろうに、アザトース・エンジンの補助があるとはいえ、平静に対処するのは凄まじいの一言だ。(シャルルの姪であるイザベラ・ド・ガリアもその方面では相当の凄腕なので、あるいは電脳情報戦能力に秀でるのは、ガリア王家の血筋かもしれない。ジョゼフ王の使い魔がミョズニトニルンであるところにも因縁を感じる。)「くそ、ノイズが……!」 相変わらず、ノイズが混ざる。 ノイズは徐々に大きくなり、まるで何かが遠くから近づいてくるような錯覚を思わせる。 手足をめちゃくちゃに振り乱して走り寄るキチガイのような、ノイズの影。 ざ。ざ。ざ。ざ。ざ。ざ。 刻一刻と変化する戦況。シャルルはそれに対応する。 指揮能力を持った将官を戦域に投入、集団戦闘に+25%の補正。現実を抽出して簡略化したパラメータが表示される。 アザトース・エンジンからの魔力に飽かせて、シュブ=ニグラスの【黒い仔山羊】の連続召喚。指示は『蹂躙』(細かい指示を出している暇はないので)。混戦地域に叩きこむ。 アイホートの迷宮概念に干渉、構造を改変。敵の矮人部隊を閉じ込める。――圧殺。 ざ。ざ。ざ。ざ。ざざざざざざざ―― ノイズの感覚が短くなる。 近づいてくる何か。 気持ちの悪くなる感覚。 ざざざざざざざざざざざざざっ 近づいてくる。 何か、何か、何か、恐ろしいものが。 手足をばたつかせながら、その反転した瞳を見開いて。 頭が割れるように痛い。 知覚の全てが、アルビオンの制御のために費やされている。 つまり、ノイズはダイレクトにシャルルの頭を貫く。 ガンガンと脳を苛む『何か』の影。「っぅ……」 何か? いいやもう分かっているだろう。 それは敵だ。敵が迫ってきているのだ。 これは戦争だ。 なぜ自分だけが安全圏に居られる? ノイズはシャンリットの攻撃かもしれない。 あるいは、シャルルの脳が極限のストレスで生み出した幻影なのかもしれない。 あるいは。あるいは、全くもって人智が及ばない、何らかの『現象』としか定義できないような、善も悪もない、超自然の何かかもしれない。 ざざざざざざざざざざざざざ、ざざざ、ざざ―――――― ノイズが脳に突き刺さる。 明滅する思考。 その中に薄ぼんやりと浮かび上がる、餓鬼の輪郭。 目を見開いて。 虚ろな口を大きく開けた。 怨嗟の顔をしたそれが。 近づいてくる。 ノイズが途切れるたびに。 コマ送りのように。 バタバタと。 何かから逃げるように。 何かを追うように。――シャルルを追いかけるように。 シャルルの脳に迫って来る。 顔が。 絶叫する顔が。ミイラのような顔が。 色が反転した思考映像。 迫り来る亡霊のような化物。 それは正に、シャルルの視点の直前にまで迫っていて―― ――――ビタっ と、脳内のいっぱいに、恐ろしい顔が貼り付いた。 まるでカメラを覗きこむようにして、それはシャルルの心をジロジロと窃視する。 落ち着かない気分。息を呑む。 見られている。 見られている。 見られている。 耐え切れずに、思わず声を上げそうになる。 だが息が詰まって声が出ない。身体が金縛りにあったかのように動かない。 その間にも、シャルルの脳内には、その得体のしれない亡霊のような存在が、這いずるように入ってくる。 ずるり、ずるりと。 脳内に展開していたコンソールを乗り越えて、それはアザトース・エンジンのファイアーウォールに守られていない、シャルルの柔らかな部分へと近づいている。這い寄るように。 もはや恐慌が限界に達しようとした時。「ねぇ」「うわああああああああああああああ!? あっ、ああああああああああああああああああああ!!」 唐突に声が響き、シャルルは漸く叫び声を上げることが出来た。 金縛りから解き放たれて、弾けるように声の元へと振り返る。 そこには。「あら、急に大声あげちゃって、一体どうしたの?」「……ふ、ふふ。な、なんだ、君か」 赤いドレス、蒼い髪。 シャルルの妻が、そこに居た。 魅惑の【赤の女王】が。いつの間に入ってきたのかを問うのは、愚問であろう。「あら、誰だと思ったのかしら」「いやまあ、……恥ずかしい話、お化けかと」「あら、お化けを怖がるなんて、シャルロットじゃ――カミーユじゃあるまいし」「ああ、まあ、その、なんだ。……はは、ははは」「もう、相変わらず可愛い人ね」 そうやって妻と和やかに話しつつも、シャルルは再び、敵の迎撃作業に戻る。 今の一瞬で、行くつかの経路で押し込まれてしまったが、その通路ごとパージすれば問題無いだろう。 いつの間にか、ノイズは無くなっていた。 先ほどまでのノイズは、この、ガリア脱出以降に不思議な魅力を纏うようになった妻のせいだったのだろうか? 分からない。 分からない、が、分からないことは聞いてみるに限る。 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。そう言うではないか。「なあ、ちょっと聞きたいんだが」「何かしら?」「さっきここに来るまでに、アザトース・エンジンのシステムに介入しなかったかい?」「え? 何のことかしら?」 まるで予想外のことを聞かれた、と言う様子で、紅い衣のシャルルの妻は目を丸くする。 ゾッとシャルルの背に冷や汗が浮き出る。先ほどの得体のしれない現象は、全く収まっていないのではないか? そう思ってしまう。「……システムにノイズが走ったんだが――」「いいえ? そんなことはしなかったわ。むしろ、極力あなたの邪魔しないように気をつけて帰ってきたつもりだったのだけど。あなたも声をかけるまで気が付かなったでしょう?」「……」 ざわざわと、執務室の周囲で闇が蠢いているような錯覚を覚える。 闇? いいや、それはちがう。 それはきっと、蜘蛛の形をしているに決まっている。 不吉な確信がシャルルの頭をよぎった瞬間。「あら?」 ばちゅん。 目の前の紅い夫人の身体が、バラバラに弾け飛んだ。 ◆◇◆ シャンリットの戦闘指揮所。「……カオティックN、反応分裂します」「【赤の女王】の反応、四分五裂。39分割」「なんだ、こんな唐突に。誰が接敵した!?」「こ、これは――この反応は千年教師長です!」「な、なんだと!? しかし、確かベアトリス様の身体を乗っ取ったとか目撃情報がなかったか、借り物の身体でそんなマネが――」「ですが! 未だにこちらでは全貌を捉えきれませんが、『こちらの探査に引っかからずに、しかも邪神を割断出来る人物』なんて、それ以外にありえません!」「た、確かに……!」 ざわざわと指揮所の皆が腰を浮かす。 そして誰ともなく叫ぶ。「ずるい!!」「後方で待機してんじゃなかったのかよ!」「抜け駆けして本命にエンゲージとか! 教師長ってばマジ教師長!」「末孫の身体乗っとるとかマジ外道! でも!」「そこにシビれる!」「憧れるゥ!」 オシリスの分割になぞらえて、指揮所のモニターの中で、鋼糸によってばらばらにされた【赤の女王】の肉片が水魔法(ナイル川の寓意)によって流されていく。 かの暗黒の神の最もメジャーな異名は、ナイアルラァトホテップ。エルフ治めるナイル流域の黒い無貌の神。故に主神たるオシリスの伝承の影響から逃れることは出来ないはずだ。 バラバラにして水に流して封印するというのは、効果的だとは思われる。 だが、しかし。「あ」「あー」「まあ、一筋縄にはいかないよね」 そう、邪神がその程度で退散できるはずもなく。「【赤の女王】消失」「カオティックN、反応変容……」「これは――」 これまでは所詮前座にすぎない。 ああ、狂気の劇は、遂に今からまさに始まるのだ。 人間など関係ない、喜劇にして悲劇が。 ◆◇◆ 再びアルビオン、ハヴィランド宮殿。「あはははは! やあやあやあ! 我こそは千年生きる叡智の蜘蛛、ウード・ド・シャンリットであーる!」「貴様……!」「たかだか亡命者が私に拝謁できる幸運に感謝したまえよ? まあ実際は来る者拒まずなのだがね」 ベアトリスの容姿で堂々と名乗りを上げる、蜘蛛の化身。 千年教師長、ウード・ド・シャンリット。 幼い金髪二つ結びの末裔の娘の姿を借りて、彼は遂にアルビオンの中枢へと辿り着いた。 対峙する金髪ツインテと蒼髪の摂政。「折角、あの高名な【混沌】に拝謁しに参上したのだがな、好奇心余ってバラバラにしてしまった!」「……貴様がやったのか。妻の仇だ。必ず殺す」「妻のぉ? 仇ぃ? あは、あはははははははは!」 何がおかしいのか、ベアトリス(ウード)は腹を抱えて笑った。「何がおかしい」「いやいや、まるっと全部おかしいさ。あの邪神を未だに妻と呼ぶのか、君は!」「そうだ。それ以外に、私は彼女を表す言葉を知らない」 シャルルの言葉に、ウードは感情以外の理性の欠片を見出して、口の端を上げる。「……はぁん? なるほどなるほど、君がアレを『妻』だと認識する限り――君にとってアレは悍ましい『邪神』ではなく、ただの賢く魅惑的な『一人の女性』になるというわけだ」「……そうだ」「くふふふふ、その認識がある限り、アレは本当の影響を君に及ぼせないわけだ。しかし自ら進んで真実から目を背け続けるとは、なんと器用な男なんだ、君は」 真実から意図的に目を逸らし続けるというのは、ウードの立場からすれば愚行も良い所だ。ウードは好奇心と探究心の権化なのだから。 だが確かにシャルルのそれは、彼の正気を幾許か守るのには役に立つだろう。無知は罪であるが、しかして時には幸いでもあるのだ。「そしてまだ訂正点があるぞ、シャルル・ドルレアン」「ん?」「仇と言ったが――」 ウードが不意に飛び退る。「――あの程度で【這い寄る混沌】が死ぬわきゃあねぇだろーがっ!!」「な……!」「ラグース・ウォータル……『ジャベリン』!」 ウードが居た場所に、氷の槍が突き刺さった。 水のトライアングル、ジャベリンの魔法。呪文の声は、蠱惑的な女の声。 紅い衣装の女が、ウードとシャルルの間に飛び込み、ウードへと杖を向ける。「良くもやってくれたわね」「くふ、バラバラにしてエルフの神話になぞらえて封じたのに、もう復活したのか」「その程度で私を封じられるなんて思ってなかったくせに。それに神は復活するものよ」 ははははは、と白々しく笑い合う人外たち。「でも少しは効いただろう?」「ええそうね――」「おお、おお、無事だったのか! 大丈夫か!」 四分五裂にされて水で流されたのだ。 無事であるはずもない。そんなことは分かりきっているだろうに。 だがシャルルは慌てて自分の妻に駆け寄って、その身をそっと抱きしめる。 そう、重症を負った妻を気遣う(・・・・・)のは、夫として当然のこと(・・・・・)なのだから。 人間の限界を超えて復活したということなど、些末事にすぎない。少なくとも、彼の意図的に鈍麻された認識の中では。「へえ、そうか。肉片から蘇生するという非日常すら認識できないのか、認識しないのか。大した自己欺瞞能力だね、シャルル・ドルレアン」 意図的な無知。 気づかなければ、狂気に陥ることはない。 妻が肉片から蘇ったことになど、シャルルは全く気づかなかった。そういうことだ。そういうことになっている。そういうことにしなくていけないのだ、正気を保つためには! ぱたぱたと妻の体を確かめ、何も怪我ないことを確認して、シャルルは安堵する。「ああ良かった、怪我はないみたいだな」「あらあら、私がそんな簡単にやられるわけ無いでしょう?」「ふふふ、そうだな。君にはまるで神様が味方しているかのようなのだったね」 場違いにも、彼ら夫婦は笑い合う。 置いてけぼりにされるウード(inベアトリス)。 だが嗜虐心露わにその茶番を眺めている。「でも。ちょっともう限界なのよね、あなた」「え、どうした、どこか悪いのか!?」「いえね――――」 俯く夫人。 垂れる蒼い髪。 三日月のように釣り上がる口の端。「――――人の形を保つのが、もう げんかい なの よ」「え?」 抱き合った夫婦の内、女の方の雰囲気が一変する。ベールを剥ぐように、隠されていた何かが明らかになる。 雰囲気が一変する。 あ、やばい。本能的に危機を察知するウード。しかし、そんなやばいものなら、尚更目の前で見なきゃなるまいという習性で、瞬時に観察モードに移行。 次の瞬間、夫人の輪郭が崩壊した。 ◆◇◆ シャンリットの戦闘指揮所。「カオティックN、変容しました」 「化身【赤の女王】消失」 オルレアン夫人、魅惑の【赤の女王】は、遂にその形を失った。 ヒトに宿った邪神の力。 長年使った魅了の波動。 さらに肉片からの超再生。 それらに只人の身に耐えられるわけはなかったのだ。 だからこの瞬間、オルレアン夫人という存在は崩壊し、消滅した。 だが、邪神が相変わらずに顕現し続けていることには変わりない。 依代が崩壊せども、邪神は去らじ。「――反応変容、【赤の女王】から【膨れ女】へ」 夫人の輪郭は失われた。 そして現れたのは――。 ◆◇◆ ぐちゅり。 湿った音。 何か肉袋を潰したような、そんな音。「【赤の女王】の消滅を確認。カオティックN、変質。――化身【膨れ女】現出! ははは、これはこれは!」「ぐぅ!? うぅぶぅぁあああああ!? こ、これは!」「ごめんなさいね、あなた」「くふふふははは! 愛しい君の妻の末路さ! もはや目を背けることも出来まい。だが、肉と愛欲に溺れて死ねるなら本望だろう?」「げ、ぼぁ!?」 ウードが笑う。 部屋いっぱいに膨れ上がる肉の塊。 呑み込まれた蒼髪の男。 ただひとつ、肉塊から飛び出た男の腕には豪奢な王杖――『ルール・フォァ・アルビオン』――が握られていた。 びくびくと痙攣するシャルルの腕。それも徐々に蠕動する肉塊に呑み込まれていく。 いや、この執務室の出入口から、ぶよぶよとした肉が溢れて来る。 押し寄せる肉塊の圧力に、天井が、壁が、ぐにゃりと撓む。 いち早くバックステップで執務室を飛び出たウード(inベアトリス)は、かろうじてその肉の爆発には巻き込まれずに済んでいた。 蜘蛛の巫覡の目の前で、元夫人であった肉塊が膨張し、執務室の壁をめりめりと押し広げていく。「あは、あはははは! 私の中でシャルルが潰れていくわ! なんて気持ちがいいのかしら! 本当は最初からこうしたかったのかも知れない! あははははははははは!!」「趣味が悪いなぁ!」「いいえ、いい趣味でしょう?」「確かに、いやはや全く」 自分の肉に夫を取り込んで圧殺した女。 そうしてオルレアン夫人だったものは、喜色満面に高笑う。 骨が砕け、肉が潰れる音をBGMにして。 肉塊が増殖し、ハヴィランド宮殿を蹂躙していく。ぶくぶくと肉塊が宮殿に満ちていく。 ウードは素早く逃げる。床と言わず壁と言わず天井と言わず、外聞もなく走って逃げる。――ただし追ってくるものを見逃さないためにバックステップで。 ウードが見る先で、全てが膨れ上がる脂肪に呑み込まれていく。「くふふ、ふふふ! これが【膨れ女】! しかし伝承に謳われるよりも、随分とこれは――」「いやあ、だって、私の白痴全能の主の波動が漏れ出ているのですもの、これくらいはやってみせないと。ねぇ?」 いつもより余計に膨れておりまーす。 きゃらきゃらと笑いながら、姿形が崩れた女が脂肪の雪崩からちょこんと生えて、ウードを追う。 彼女の主君たる白痴の王の坐す玉座の空気を吸って、急速に膨れ上がる。この宮殿にはアザトース・エンジンからの神気が充分に満ちている。「くふふふふ! ならば私も見せねばなるまい。折角神に拝謁仕ったのだ、我が千年の研鑽を披露せねばなるまい!」「あら、何を見せてくれるのかしら?」「伝承より紐解きし一千を超える退散術式だよ、外つ神よ」 千の化身を持つ無貌の神。 這い寄る混沌。今の姿は【膨れ女】。 またの名を、沙漠のエルフの伝承に曰く、ナイァルラァトホテプ。 対するは千年患う蒐集癖。 蜘蛛の巫覡。 千年教師長。ウード・ド・シャンリット。「くふ! 私の退散術式は1080式まであるぞ!! どこまで通用するものか――検証させてもらおう!」「なら試してみなさいな――その程度で神を退けられると思い上がっているのならば。せいぜい楽しませてちょうだい? 退屈は嫌いよ」 激突。多重詠唱。魔術障壁の相喰み合い。損傷と再生。 ――そして、全力と戯れ。 決して語るべきでない、語ってはならない、人外と邪神の闘争(あるいは遊戯)が、ここに開幕した。 尤も、結果は見えているが。 あらゆる神話で語られているだろう? ――『神を殺すのは人間(・・)である』と。 そして、ウードという存在は、もはや人間(・・)ではないのだ。それが全て、それが全てなのだ。 ◆◇◆「化物を打ち倒すのは、いつだって人間よ」「そうね、同意するわ、ルイズ・フランソワーズ」「そう、それは良かったわ、アンリエッタ女王陛下。――それで、貴女はまだ人間なのかしら?」「うふふふふ。それはそっくり返すわ、ルイズ・フランソワーズ。――貴女こそ、その有様で人間のつもりなの?」「……」「……」「ふふっ」「ふふふ……」「「 ふふふふふふふふふふふふふふふふふ…… 」」 トリスタニアの王城。 緋絨毯の応接室で、二人の美少女が笑いながらお茶をしていた。だが、華やかな雰囲気とは程遠いのは何故だろうか。薄ら寒い空気ばかりが満ちている。 応接室は人払いがされており、従者も伴侶も侍女も、二人以外には誰も居ない。いつもルイズに仕えている使い魔サイトも、アンリエッタの伴侶たる心亡きウェールズもだ。「それで、一体何の用なのかしら? 私のおともだち」「単なるお誘いよ。血沸き肉躍るアルビオン攻略のね」「あら、それは奇遇ね。私もちょうど貴女の力を借りたいと思ってたところよ。寧ろトリステイン臣民なら、進んで力を貸してくれるべきじゃなくって?」「私はトリステイン臣民だけど、それだけでもないんですのよ? 今の私は、夢の国の女王にして、虚無の理の写身……ある意味貴女よりもずうっと偉いのですよ?」「あら、それは失礼を。でも、貴女が私のお友達であることには変わりないでしょう?」「……まあそうですわね」 ルイズを支える地位と実力と自信が、アンリエッタ女王への砕けた態度となって現れていた。 アンリエッタもそれに気分を害した様子はない。 それに応じてルイズも肩の力を抜く。牽制しあっても始まらない。時間がないのだ。建設的な会談をしなくては。「それで、ルイズは一体何をしてくれるのかしら?」「虚無の理による、全貴族の魔法の底上げを。そして、『夢の卵』による支援を」「それは有難いわ。ついでに兵たちの錬成も夢の国で行えないかしら?」「……ギーシュ・ド・グラモンから聞いたのですか? まあ可能ですけれど」 世界に融けた魔法の理を身体に降ろしたルイズなら、その加護を味方の軍に与えることは可能だろう。ドットをスクウェアにすることも簡単だ。 夢のクリスタライザーという呪具の力をもってすれば、無限の物資を現実に結晶化出来るだろう。あるいは単なる物資以上のものも。 時間の流れが異なる『夢の国』でならば、兵士たちの錬成も大きく進むだろう。現実世界における三日の時間で一ヶ月分相当の訓練を施すことなどいつもルイズがやっていることだ。 しかしそれらを行うことによって、ルイズには何のメリットがあるのか? 答えはこうだ。「邪神を駆逐できるのならば、私に否やはありませんわ、トリステインの女王陛下」「それはそれは頼もしいことですわ、夢の国の女王陛下。でも見返りを求めない献身ほどに、不気味なものもないのです」「見返りもなにも、私が求めるのはこれが全てです。邪神の駆逐。人間の運命を人間の手に取り戻すこと。それこそが、私の信念、私の夢」 だからお前たちをこれから巻き込む。 ハルケギニア人類を徹底的に巻き込むのだ、と。 ルイズはそう宣言しているのだ。「……つまり」「命を懸けろ、ということですわ。――人類全ての生命を、私の戦いにBETして貰うわ。そして当然私は、その戦いの支援は惜しまない。それが責任というものだから。でも、だから、絶対に逃がさないわ、誰一人としてこの生存闘争からは逃さない」「――ッ!」「私は邪神に容赦しない。だけど同様に、人類にも容赦しない」 低い声でルイズが言う。 その感情の昂ぶりに合わせてか、彼女の影からは、取り込んだ異形のヴァルトリの触手がざわざわと浮き上がっている。 彼女の威容(異様・偉容)は、虚無の化身・夢の女王と呼ぶに相応しいものだった。 思わずアンリエッタの全身が総毛立つ。 どっと全ての汗腺から冷や汗が溢れ出る。 魅了の力をフル活用し、水魔法の駆使によって半ば人外の領域に足を踏み出しつつあるアンリエッタだが、それでもルイズに比べればまだまだヒヨっ子も良い所だ。 覚悟が違う、才覚が違う、渇望が違う、経験が違う、視点が違う、血脈が違う、運命が違う、実力が違う、大器が違う、大望が違う、妄執が違う、憎悪が違う。 ――これが虚無の血脈……! アンリエッタは内心の戦慄を必死に隠す。それは女王としての意地であり、またルイズの友人としての矜持でもあった。 彼女と対等の立場から転がり落ちることは、女王の立場が許さない。屈してしまえば、アンリエッタは二度とルイズの“おともだち”など名乗れなくなるだろう。 アンリエッタにとっても、ルイズは唯一対等に近い相手なのだ。高貴な血筋、優れた魔法の実力、強い自我、近しい年齢、――互いに共通点のある幼馴染。たとえ痩せ我慢でも、ここでルイズの圧力に平伏する訳にはいかない。どれだけルイズと差があろうとも、それは彼女の意地だった。「……あら、失礼。驚かしちゃったかしら」「いいえ。でも心臓に悪いわよ、ルイズ」 しずしずとルイズは自分の影からはみ出た触手を引っ込める。「どのみちアルビオンを攻めることに変わりはないわ。力を貸してくれるなら願ったり叶ったりよ」「ええ、トリステイン軍の錬成も承りました。すぐに女王陛下の軍隊を悪夢の軍勢に仕立てて差し上げますわ」「……限界を見極めてちょうだいね。私が頼んだこととはいえ、いくらルイズでも私の臣民を壊すことは許さないわ」「ふふふ、もちろんですわ。夢の世界で一国を治める元首として、国同士の信義は守ります。――ふふ、楽しみですわ。彼らの血筋に刻まれた六千年の共同幻想(誇り)は、きっと必ず、邪神との戦いに役立つでしょう」 というわけで、トリステイン軍の魔改造フラグが立った訳であった。 ◆◇◆「はは、なかなかやるわね、蜘蛛の御子」「……まさか本当に全ての化身を退散しきれるとは思わなかったがな」「千余の退散術式を、よくも蒐め、よくも唱え切ったものね」「次々に変容する【混沌】を観察して、最適解を見つけ続けるのは本当に骨が折れた」「ふふふ、あんなに熱心に見つめられて、弱いところを突かれて、さすがの私も、もう息も絶え絶えだわ」 ウードの目の前で、カオティック“N”の身体が明滅しながらその存在を薄くしていく。 遂にウードは、その身に刻んだ千を超える対“N”用の退散術式でもって、常に変貌し続けるかの存在を放逐することに成功したのだ。あらゆる化身に対応した術式で、遂に邪神を上回ったのだ。 そんなウードを邪神のNは褒め称える。「ほんとうに素晴らしいわ。古今東西、君ほどに私のことを解析した魔術師も居ないでしょうよ」「そうか」「そうですとも! 今や君は私以上に私を理解していると言っても過言ではないわ! そう、私以上に(・・・・)ね!」「そうか――――、……。――ッ!! まさか」 にやにやと厭らしい笑みを浮かべつつも、この世への足がかりを失って消えゆく邪神。 だがその言葉によって、蜘蛛の巫覡は何かに気づいたようだった。消えゆく邪神の、その悪戯が成功したような笑みによって何かに気づいたようだった。 驚愕と戦慄、そして自身の失策に対する後悔。だがそれは彼にとって避けられないことだった。全ては邪神の手のひらの上だったのだ。彼が彼である限り、この結末は避けられなかったに違いない。「知識とは猛毒よ。理解とは変容。何かを知り、何かを理解する度に、魂は知識によって侵蝕されて形を変える」「――そうだ、知識とは進化だ。知識こそが真価だ。知識を得るたびに魂は深化する。私はそれだけを求めて生きてきた。そんな未練を抱えていたから、死んでも尚死にきれなかった」「そして未知を既知に変える度に、かつての無知な自分は死んでいく。新たな知識を得ることは、古めかしい自分を殺すことに他ならないのよ」「そして今もまた、私は気づいた。気付いてしまった――」 蒙きが啓けるような思いだった。自己拡張感覚。無限の万能感。 その快感を味わうために、味わい続けるために、ウードは千年を超えて生きてきた。 その中でも、ウードが今味わっているこの感覚はとびっきりだ。 知らなかったことを知って、世界が組み変わる感覚。 自分というものが解体されて、もっと大きな自分へと進化する感覚。 薄皮一枚下の世界の真実を知って、自分も世界も何もかもが裏返るようなその感覚! ウードは、混沌の邪神との戦いを通して自分がどうなってしまったのか、漸く観測した。「さあ、もう答えは出たんでしょう?」 消えゆく邪神は嬉しそうに笑う。 そして分かりきった問いを投げかけた。 ――――這い寄る混沌を解体し尽くした君は、混沌を理解し尽くした君は、一体何に成ったのかしら? そんなものは決まっている。太古の昔から決まっている。 闇を見続けたものは、闇に呑まれるしか無いのだ。混沌を理解することとは、混沌と同化することなのだ。 ウードがあらゆるものを蒐集する限り、この結末からは逃れられなかったに違いない。【混沌】と相対した時点で、この結末は決まっていた。ウードは混沌を前にして、その好奇心を抑えきれずに自ら泥沼に沈むしかなかった。 だが、それはあるいは望むところだったのかもしれない。 ◆◇◆ 蜘蛛の巣から逃れる為に 34.敵を知り己を知ればなんとやら、いつの間にやら敵も己も混ざって渾沌 ◆◇◆ カオティック“N”:反応消滅 ウード・ド・シャンリット:反応変容→消失 カオティック“N”:再出現。化身【チクタクマン】version Eudes(ウード) ようこそ最新の混沌の化身。 千の姿持つ無貌の神の末席に加わった新たな化身よ。 機械の王よ。黒い糸の塊よ。大地全てを覆う蜘蛛の巣よ。 世に混沌の在らんことを……。 エミュレーション、スタート。 その魂に刻んで憶えて蓄えた、総ての【混沌】の化身を再現せよ。 アザトース・エンジン、フルドライブ。<黒糸>に直結。 【チクタクマン】ver.E、限界測定のための試運転を開始します。=================================成ッ! 仏ッ!ウード・ド・シャンリット 成仏ッッ!長らく間が開いてしまい、すみません。なんか微妙に調子取り戻せてないですが、一応こんな感じで一つ。第一部終了後も続いていた、ウードくんの長い永い後日譚はここで終了?きっと彼は混沌に呑まれて成仏して、その混沌の中の全知の知識を漁ってうっひょーしてるはず。……うむ、本望叶ってハッピーエンドですな!(断言) 初めて書いた小説の主人公だから思い入れあるし、やっぱり幸せにしてやらないとね!しかし彼の物語が終わっても、このイカレタ世界は続いていきます。ルイズ頑張れ、ジョゼフ頑張れ、ヴィットーリオも頑張れ、ティファは――ああ、うん、死ぬなよー。あとサイトは超絶頑張れ、そう“蜘蛛の巣から逃れるために”。ほんと皆さん傍若無人なオリ主の後始末とかマジ同情しますスミマセン犯人は私です。次回「裏返るアルビオン」。もうちょっとだけ続くんじゃ。cf:シャルル・ドルレアンの特殊技能【意図的な無知】SANチェックを後に控えたアイデアロールについて、成功判定を任意に失敗判定に変換できる。つまり、恐ろしい神話的真実を、見なかったことに出来る能力。……だが、一度真実に気付いてしまうと、これまで気づかないふりをしていたSAN減少が一気に襲い掛かる。2012.09.07 初投稿