「――ルイズ?」 サイトが振り返った先には、誰の影も姿もなかった。 ピンクブロンドに輝く髪も見えず、清冽な湖を思わせる残り香もない。 彼の主はこの世界から消えたのだと、サイトは魂で感じとった。「全く、あのウードが期待していたからどれほどのものかと思えば、期待はずれもいいところじゃ! 我、ぷんぷん!」 プリプリと怒りながら、黒髪の少女の姿をした悪意の塊が、ふわりと奈落の陥穽を覆う蜘蛛の巣の上に着地する。「あまりの落胆からくる怒りで、ついついお約束を無視しちゃったしぃー。でもあそこで空気呼んで大人しく退散されるのは、ちょっと無理っていうかぁー」 どうやらこの混沌の悪意の化身にとって、【退散の呪文】は、単なるお約束に過ぎないらしい。 ネタを振られたから持ちネタを披露する、とか、ブザーが鳴ったから開演する、というような。 絶対に守らなければならない原理原則ではなく、空気を読んで従う自分ルール程度のものだということだ。 つまり、千余の退散術式を唱えて一時はかの邪神を放逐した蜘蛛の千年教師長、ウード・ド・シャンリットの行動は、ナイアルラァトホテプから見るとこう映っていた可能性も高い。 ――芸歴うん十年の芸人に対して、今までのネタのほとんど全てを細大漏らさず並べ立てる熱心なファン(いやまあ正気を保ってそれらを網羅できるのが尋常では無いのだが)。 『ほほお、こんなネタまでよく知ってるなあ』と感心したナイアルラァトホテプは、その熱心なファンを自分の持ちネタの一つに加えることにした――とまあ、神の視点から見れば、実はその程度の出来事に過ぎないのだとしたら。 しかもその熱心なファンは、前から目をつけていたくらいにイイ体(※最先端魔道具<黒糸>)をしており、存在を召し上げるとそのいい体も手に入るという一石二鳥だったのだ。かくして千年教師長ウード・ド・シャンリットの全存在は、ナイアルラァトホテプに呑み込まれたのだ、非常に栄誉なことに。 【退散の呪文】と、神が実際に退散するかどうかについて、少なくともこのナイアルラァトホテプには、実は一切の因果関係がないらしい。 これが他の神ならば違っただろう。退散の呪文は大きな効果を発揮するはずだ。 だが、這い寄る混沌ナイアルラァトホテプは、それら一切の束縛から自由な、融通無碍なる神なのだ。他の神話の神に当てはめるなら、ヘルメスやメルクリウス、ロキに当たるだろうか。神々の間をめまぐるしく飛び回るトリックスターだ。 そんな自由な彼に、力技以外の方法で送還を願うことは出来ない。そして、力技すら、神の圧倒的存在を前にしては無意味だ。 一番可能性が高いのは、何らかの手段でこの享楽家を納得させ、満足させてお帰り願うことくらいであろうか。 そう、例えばウード・ド・シャンリットが行ったように(だがウードと同じ手段はもはや通じない――ネタかぶりになるから)。 あるいはこの飽きっぽい神が、遊び疲れて飽きて去ってくれるのを待つか、だ。(……どうする、どうすればいい?) サイトはどうでも良い独白を続けるチクタクマンを視界に収めつつ、主が消えたショックから呆然として――いなかった。 彼は状況を分析し、最適な行動を考え続けていた。ガンダールヴの権能による自己強化は、戦闘速度に追従するために思考速度の増強にまでも及ぶ。 彼が考えていることは、唯一つ。(どうすればルイズを呼び戻せる?) それだけだ。 そこへチクタクマンが大きく身振りしながら振り返り、語りかける。「さあさあ! 残ったのはお前だけだ! ガンダールヴ、平賀才人、いや、人間! 主が消えて、従僕のお前は一体どうする!?」「消えちゃあいねえよ!」 サイトは自分の左腕の付け根を押さえて、咄嗟に反論する。 そこには、かつて切断した左腕の甲から移ったガンダールヴのルーンが、未だに存在していた。「まだ、ルーンは“繋がって”いる。ルイズの分霊のエキドナも、消えちゃいない! 虚無のブリミルに連なるデルフリンガーも、この手にある! なら……」 ルイズ・フランソワーズは、完全に消滅したわけではないということだ。 確かにこの世界(・・・・)からは、消えたのだろう。 だが、それならば、この世界の外には居るはずなのだ。「ならば、俺が呼び戻す! ルイズ・フランソワーズを、召喚するっ! 約束を果たす! 俺は約束したんだ、ずっと一緒に居ると、死んでも呼び戻すと!」「ははは、いいねいいね、諦めない心は大事だ。ああ、愛は素晴らしい、人間は尊い、足掻くさまは美しい。それこそが私が最も好むところだ。 さて、じゃあ、やってみるとイイ、ニンゲンよ――――やれる、もんならなァッ!」 全てを絡め取る蜘蛛の巣の上で、人と神とがダンスを踊る。「私は足掻くニンゲンが好きだが、その足掻きが無駄に終わり、絶望する顔がもっともっと極上に好きなのだよ!」「ふざけるな、絶望など、してやるものかよ! ナイアルラァトホテプ、お前こそが、落胆のうちに消え去るんだ!」 運命という名の蜘蛛の巣から逃れる為に、平賀才人は刃を振るう。 ◆◇◆ 蜘蛛の巣から逃れる為に 38.神話の終わり ◆◇◆ ルイズ・フランソワーズの、その意識は、揺蕩っていた。 そこはどこでもない場所。 世界の隙間、世界の外側。 外宇宙――とは、また違うだろうし、宇宙外という言葉も正しくない。 ここは正真正銘、“どこでもない”としか表現できない場所だった。 ルイズはそこで、夢うつつなままに、全てを見ていた。 ――アルビオン大陸に瘴気が溢れ、勢いを取り戻した因縁の相手(首無し司祭、喪服の先妃、灰塵の学院長)たちによってアンリエッタたちが追い詰められるのを。 ――ジュリオやギーシュたちが、巨大な異形に蹂躙されていくのを。 ――溢れた瘴気によって、アルビオンとシャンリットを封じていた光の柱『世界隔壁』が弾け飛ぶのを。 ただ見ていた。 ――その呪詛返しで、教皇ヴィットーリオが全身から噴血して、血だまりに崩れ落ちるのを。 ――押さえるものが無くなったチクタクマンが、瞬く間に<黒糸>を再掌握していくのを。 ――チクタクマンをクラッキングしていたミョズニトニルンとジョゼフが、過負荷によって倒れ伏すのを。 ただただ、見ていた。 ――アーティファクトをふんだんに使ってラグドリアン湖に構築した呪法『夢の国のアリス』の魔法陣が、チクタクマンに乗っ取られていくのを。 ――『英霊召喚』を反転した『悪夢召喚』によって、戦士たち自身が自らの根源的恐怖を次々に具現化していくのを。 ――各地に派遣されたトリステインの精鋭が、それら自らの悪夢によって瓦解していく様を。 ルイズはただ、見ているだけしか出来なかった。 ――奪還された大地から、再び混沌の化身たちが湧き上がるのを。 ――人々が狂いながら疑心暗鬼のうちに隣人と殺しあうのを。 ――死んだはずの者達が、混沌の下僕となって立ち上がり、生者を襲うのを。 ハルケギニアが再び絶望の霧に沈んでいくのを、見ているだけしか出来なかった。 そして。 ――サイトが絶望的な力量差を前にしてもなお、チクタクマンに切りかかっていくのを。 ――サイトが、世界の外に飛ばされた自分を呼び戻そうと、必死に思考を巡らせていることを。 ――サイトが、それを決して諦めてなどいないことを。 胸が張り裂けるような想いで、ただ見ていた。 見ていることしか、出来ない自分の無力を嘆いていた。「ああ、私は呪う、私の無力を、迂闊さを!」 いくら後悔しても足りない。足りるものか。「もっともっと、どうにか出来たはず。もっともっと、上手いやり方が、あったはずなのよ!」 チクタクマンのベースになったのが“何”だったのか、もっとよく考えておくべきだった。 あの蜘蛛の大公、ウード・ド・シャンリットは死んでもなお癪に障る奴なのだ。 死んだ程度で、ルイズの人生からどいてくれるほど容易い存在ではないのだ。 それをもっと重要視するべきだった。 そもそも見通しが甘かった。 相手との力量差を覆すために、もっと大胆な賭けに出る必要があったはずだ。 ――例え魂をすりつぶしてしまったとしても! 「ううううぅぅぅううううう、あああああああぁぁあああああああっ! 」 癇癪を起こした子供のように、手当たり次第に周囲をエクスプロージョンで爆破する。 自分の失態の落とし前をつけなければならない! 戻らなければ、ハルケギニアへと! この空間を壊して、ハルケギニアへ、帰らなくては! 時空と魂の系統たる『虚無』の力で――【無名の霧】と呼ばれる邪神【ヨグ=ソトース】に連なる虚無の力で、空間に穴を開けようとする。 ヨグ=ソトース。 神々の副王。 命永らえしもの。 虚空の門。 門にして鍵。 銀の鍵を守るもの。 無名の霧。 全にして一。 一にして全。 全ての時空に隣接するもの。 全ての時空を生みしもの。 そして、虚無の父祖――ヨグ=ソトース。 あらゆる空間を渡るための、門にして鍵たる存在。 その力ならば、あらゆる次元を繋ぐことが出来るはずなのだ。「私は、私はっ! 戻らなくちゃ、いけないのよ!」 だが、しかし。 轟々とルイズから魔力が放たれても、空間へは何の影響も与えずに虚しく拡散していくだけだ。 ルイズは今また、自分の無能を嘆く。 恐ろしいほどに何もない空間。 のっぺりと塗り込められた、という感覚がしっくり来る、何の襞も取っ掛かりもない空間。 例えるならば、プラスチックの虫籠に閉じ込められた蟻のような、そんな状況だった。 ここには、普通ならばあるはずの空間の歪みが、一つとしてないのだ。そのように作られたかのような不自然な空間だ。 空間に歪みという名の取っ掛かりがあれば、ルイズはそこから空間を裂くことも出来ただろうに。 如何に空間を司る神性の末裔とはいえ、こうも完璧に何もなければ、どうしようもない。「帰らなくちゃ、いけない、のにぃ……」 あたら無駄に力を浪費して、ルイズは器用に虚空で膝をつく。 その顔は泣きそうに歪んでいた。 脳裏に映るハルケギニアの映像は、おそらくはあの悪趣味な混沌野郎が流し込んできているのだろう。 ルイズに無力と絶望を味わわせるために。 ハルケギニアの状況は加速度的に悪化し続けている。 ハルケギニアという世界が蝕まれている。 自分を信じてくれた人々が絶望のうちに消えていっている。 それでも負けずに、傷だらけになりながらもサイトは戦い続けている。神に抗っている。「サイト……」 それは何のためか。 地球人(アーシアン)であるサイトが、魂消るほどの圧力を放つ神を前に、今もなお立ち向かっているのは何故か。 本来は何の縁も無いはずのハルケギニアのために、イーヴァルディの勇者として戦っているのは、一体誰のためなのか!? 決まっている、そんなものは決まっている! 全ては、全ては――。 ルイズのためだ! ルイズ・フランソワーズのためだ! 彼女の従僕は、彼は約束を果たそうとしているのだ。 『たとえ死んでいても生き返らせる』と。 永遠に共にいることを誓ったから、それを嘘にしないために! その決意が、痛いほどに伝わってくる。 ガンダールヴのルーンを介した繋がりから、サイトの心の震えが伝わってくるのだ。 主従の絆は切れてはいない。 サイトの震える心に元気づけられ、ルイズは再び立ち上がる。 ――――いやしかし、立ち上がっても一体どうするんだ? と、我に返りそうになったところで、視界が塞がる。「ふぇ?」 慌ててルイズは、自分の視界を塞いだものを確認しようと手を伸ばす。 それは顔をすっぽり覆うくらいの大きさで。 何か細い八本の棒のようなものでルイズの顔を覆うようにがっしりと掴んでおり。 顔に伝わる感触は、なんだかぶよぶよしていて、しかし細かい毛に覆われたそれはビロードのような肌触りだ。 つまりこれは――「蜘蛛っ!?」 蜘蛛であった。 腹の大きさがルイズの顔ほどもある蜘蛛だ。 いやああああ~っ、と叫びながら、ルイズがそのフェイスをハグしている蜘蛛を引き剥がす。 引き剥がされた蜘蛛は、その尻から伸びる糸に釣られて、ぶらーんと振り子のように運動する。「な、なんで、こんなとこに蜘蛛が! て言うか、ど、何処からっ!」 ルイズが、蜘蛛の糸の根元を見上げると、遥か遠くに、この何もない何処でもない空間のある一点に今までは確かに無かったはずの小さな穴があるのが見えた。 あの蜘蛛が穴を空けたのだろうか?「いや寧ろ、何でお前がここに居るんだ? ルイズ・フランソワーズ」 ぷらーん、とルイズの目の前に戻ってきた蜘蛛の、その腹に描かれた紋様――いや、人面疽が口を開いた。 ヘイケガニやジンメンカメムシのように、その蜘蛛の腹には、人の顔が浮かび上がっていた。 その顔は、ルイズがよく知っている顔だった。 好奇心と猜疑心を隠そうともしない、左右非対称に歪んだ表情。「千年教師長――ウード・ド・シャンリット……っ」 混沌の化身に成り果てたはずの存在が、何故か人面蜘蛛の形でそこに居た。 ◆◇◆「あ、あんたは、あんたはナイアルラァトホテプに喰われて消えたはずでしょう……?」「うむ、その通り、『<黒糸>に宿っていた私』は、そうやって消えた」「<黒糸>に宿っていた、あんた?」 それではまるで、それ以外にもウードが居たようではないか。 いや、仮に何処かに魂を分けていたとしても、邪神に喰われたのなら、そんなものは意味が無いはずだ。 どこに魂を分けていようとも、神にとってそんなものは分けたうちには入らない。 多少居場所が違っていたとしても、そんなもの(・・・・・)は、同じ事(・・・)だ。まとめて喰われて消えるはずだ。 だというのに、何故?「今ここにいるこの私は、混沌の所有になる以前に、既に別の神の所有だったのさ」 いくら混沌の邪神でも、既に別の神に捧げられた供物を奪うことは出来ない。そういうことだ。 ルイズはそして思い至った。 千余年前からずっと、千年教師長は、己の魂を削り出して地底の蜘蛛神に捧げ続けていたことに。「蜘蛛神、アトラク=ナクア……! 永遠に糸を紡ぐもの――」「そう、我が神アトラック=ナチャ様。というかそもそも、ハルケギニアで千年を過ごしてきた『ウード』と、千二百年前にロマリアで処刑された『ウード』――つまりこの私には、魂の連続性がほとんど存在しない。断絶しているのだよ、少なくとも私の認識ではそうだ。だから<黒糸>に宿ったウードがどうなろうと、私には関連性がない」「な――!?」 そんなバカな。「千二百年前、私は確かに死んで、魂はアトラク=ナクア様の元へと去った――いや喚び戻された。残ったのは、ウードの形を象った残骸だけだ」 少し講義をしよう。釈迦に説法だとは思うが、とウードは続けた。「肉体と精神と魂の話だ。肉体とは器、精神とはそれに満ちる粘性の高い液体、そして魂はその液体(精神)に色と味をつけるたった一滴(ひとしずく)の本質のこと」 肉体の形は千差万別。肉体とは容姿という意味だけでなく、脳神経の有様など全てを含む。 精神はその肉体の形に応じて、形を変える。水は方円の器に随う、というようなものだ。だが、精神には粘性と言うべきものがあり、肉体から開放されてもある程度は形を保つ。霊体、と言ってもいいだろう。 そして魂。例えば、砂糖水と塩水は同じものか? いいや、たとえ99.9%は同じ水でも、砂糖水と塩水は違うものだ。精神という名の溶媒を特徴付ける、ソウルドロップのひと雫、それが魂というものだ。「千二百年前に私がロマリアで処刑された時に、確かに私の器(肉体)は壊れ、中身(精神)はこぼれ、本質(魂)も地底へ去った」「なら、ずっとハルケギニアに残っていたアイツは、あの千年教師長は、一体!?」「残骸だよ、ただの残骸だ。だが器は残骸をつなぎ合わされて直り、<黒糸>によって再び精神の溶媒が注ぎ込まれた。器は完全に復元されたから見た目は変わるまい、肉体も精神もな。だが、既に一度中身は零れて失われている。少しは器に魂の残滓がこびりついていて、それを薄めるように精神が満ちたのだろうが、徐々に独自の色に染まったことだろうな」 だから、地底で千年のあいだ糸を紡いできた私と、地上で<黒糸>の蜘蛛の巣を守っていたウードは、本質的には――魂的には別物なのだ。ウードはそう語る。「そん、な……」「まあ、そんなことはどうでも良いことだ。別物とはいえ、双子か親子以上には同じものだからな、違いと言っても他人から見れば所詮誤差にしか過ぎんのだろう。違いは、私と奴だけ知っていれば良い。奴が見ていた千二百年のハルケギニアについては、私も奴の目を通して見れていたしな」「……結局、同じなのか違うのか、どっちなのよ」「ふん、どっちでも良かろう。極論すれば、私もお前も同じものだ。全ては全て同じものだ。滅びも栄えも同じものだ」 もっとも、そんな戯言は信じてはいないがね。とウードの顔の人面蜘蛛は嘯く。「だが何処かが違うはずだ。何かが違うはずだ。差異を知り、相同を知る。それもまた私の望み。知識欲という名の蜘蛛の糸の繋がる先だ」「蜘蛛の、糸……」 ルイズは見上げる。 ウードがぶら下がっている、蜘蛛の糸の繋がる先を。「そういえば――」「なんだ、ルイズ・フランソワーズ」「アンタは、どうしてこんな何もないところに来たのよ」 そうだ、ここで天の助けが来るというには、如何にも都合が良すぎる。「まあ、それは我が神アトラク=ナクア様の使命に関係しているのだが」「アトラク=ナクアの使命?」 地底で谷に橋を架ける蜘蛛の神。 その使命とは、何だ? 糸をかけることに、何か意味があるのか? ウードは語る。「この世は神の見る夢だ、という話がある。あの偉大な痴愚神の夢に過ぎない、とな。実はこれは真実なのだ。痴愚神の夢の世界は、当然玉座で眠る神が目覚めれば消える。だが、きっとそんな日は来ないだろう。何故だか分かるかね?」「……アザトースが封印されているから?」「違う。アザトースが夢を見続けているからだ。夢が広がっているからだ。痴愚神アザトースが眠って夢を見始め、この宇宙というものが誕生してから、可能性の世界が無限に拡散し続けているからだ」 ウードは語る。「神々の王、痴愚神アザトースの意識は、今もなお無限に拡散を続けている。それでは彼は永遠に目覚めることはない、彼の意識が、力が、再び一つに戻ることはない。数多の世界線に分かれた痴愚神の意識は、このままでは決して一つに戻らない、永遠に微睡むままだ」 そう、『このまま』では。 そう語るウードに、ルイズはぞっとする。 今自分は、何か取り返しの付かないことを聞こうとしているのではないか? そんな予感がする。「そんな時、痴愚神を慕う一柱の神が考えたのさ。『アザトースの意識が拡散を続け、無数の世界を生み出し続けるならば、それを繋げて縛って束ねれば良いのではないか。再び彼の意識を一つにすれば――そうすれば、彼は目覚めるのではないか』とね」 人面蜘蛛のウードは器用にその八本の足を使って、そのイメージを実演する。 無数に細かく裂かれて膨らんで広がった糸(世界線)、それを糸の輪で縛って束ねて見せた。「さて、アトラク=ナクア様がおわす深淵の谷は、全ての世界と繋がっているとされる。世界、とは、この場合は痴愚神の分裂した意識の一つ一つと同義だ」 ウードはそこで言葉を区切る。「じゃあ、我が神アトラク=ナクア様は、何のために深淵の谷に糸を架けていると思うかい? ルイズ・フランソワーズ」「まさか……」「我が神アトラク=ナクア様は、一体、その蜘蛛の糸で、何処と何処を繋ごうとしているのだろうか? 何を縛ろうとしているのだろうか? 何を束ねようとしているのだろうか? ――――ある伝承で、『アトラク=ナクアがその深淵の谷に糸をかけ終わった時、世界に終末が訪れる』と云われているのは、どうしてだろうね?」「全ては、痴愚神アザトースを、目覚めさせるために……?」「その通り。我が神は一途に、アザトースを愛しておられるのさ」 絶句するルイズに、蜘蛛の背にあるウードの顔の人面疽は嬉しそうに微笑む。「私の残骸――<黒糸>に宿ったウード、彼が頑張ってくれたおかげで、我が神の眷属も随分増えた。作業速度も上がり、次々と分岐世界は束ねられ、一つに収束しつつある。 ハルケギニアという世界も、無数の可能性が存在する。ウードがいない世界、ウードが居る世界。ルイズ・フランソワーズが居る世界、居ない世界。平賀才人が召喚される世界、平賀才人以外が召喚される世界。無数のハルケギニアが存在し、それらは今他の世界と同様に、ただ一つにまとめられつつある。 私がこの、ナイアルラァトホテプが創りだした『何処でもない世界』へ辿り着いたのは、偶然でも何でもない。勿論、ルイズ・フランソワーズ、お前を助けるためでも何でもない。 それが役目を果たすために必要なことだから、私はここへ来たのだ」 この『何処でもない世界』もまた、痴愚神アザトースの意識が分かたれて作られた世界には変わりない。 だからウードは――蜘蛛神アトラク=ナクアの眷属は、やってきた。 この『何処でもない世界』を、他の世界と同じように束ねて一つにするために。「ほら、見るが良い」 ウードの蜘蛛脚が、自らが垂れ下がる糸の根元を指す。 ルイズがその先を見上げると同時に、この『何処でもない世界』に罅が入った。 雛が卵の殻を破るように空間が割れていく。「あ、あ、あ、あ、あ」 ルイズの口が戦慄き、意味のない喘ぎを漏らす。 見上げるその先に見えたのは、ルイズには破滅にしか思えなかった。 輝く銀河を内包した分岐宇宙が、繭のように蜘蛛の糸に包まれている。 それが無数にあり、次々と蜘蛛たちがそれを運んでいる。 巨大な蜘蛛の巣の上を、まるで水滴のようにも見える無数の宇宙の繭が運ばれていく。蜘蛛の巣が朝露を集めるように、無数の可能性の世界が一つに収束していく。 その中央に陣取るのは、一際醜悪で巨大な力を放散させる蜘蛛神――アトラク=ナクア。 そしてそれ以上に巨大な力を、破滅を予感させる大きな、大きな、大きな繭。アルビオンのアザトース・エンジンから漏れ出る力など、アレに比べればまるで蟻だ! いや微生物の鞭毛ほどでしか無い! あれが、あれこそが、アザトースの顕生意識! 無限の世界を生むほどの、破滅的なエネルギーの塊! アトラク=ナクアは、眷属が運んでくる『宇宙の繭』を受け取り、慎重に繋ぎ合わせては、中央の巨大な繭へと融合させていく。 その度に、アザトースの意識塊が、力強くなる。 いや、力強さを取り戻して(・・・・・)いく。「見えるだろう? 素晴らしいだろう? 私はアレの行き着く先が見たいのだよ。蜘蛛の糸の繋がる先を、蜘蛛の糸が繋げる先を!」 ウードが恍惚として笑う。 ああ、此処に至っても、ウードという男の本質は何も変わらないのだ。 破滅を前にしても突き進むほどの知識欲が、破滅すら解剖しつくさんと欲す知識欲が、この男の本質なのだ。 ルイズが居るこの『何処でもない世界』もまた、運ばれていく。 アトラク=ナクアの眷属たちが取り付いて、運んでいく。「ああ、あ、あああぁぁああ、ぅああ!」 ルイズは今、本当の恐怖というものを思い知っていた。 これほどに恐ろしいことがあるだろうか! これほどまでに恐ろしいものがあるだろうか! アレこそが真実、唯一つの、神というものなのだ!「お前が生きたハルケギニアもまた、あの『アザトースの繭』に吸収されるだろう」「っ!」 ウードの声に、ルイズはハッと我に返った。 そう、このままでは、文字通りに全ては水の泡のように消えてしまうだろう。 全ての世界は混ぜこぜにされ、アザトースの覚醒とともに消えてなくなるのだ。「まあこれは独り言だが――強固な結界か何かで世界を全て覆ってしまえば、ひょっとしたらその世界は、最後の最後まで『繭』に吸収されずに残るかもしれないな」 面白がるような表情で、ウードの人面疽を貼りつかせた蜘蛛は告げる。「そして、ひょっとしたら、最後の方に残された世界が融合されずとも、アザトースは目覚めるかもしれないな」「! そうなれば、最後に残された世界は」「ああ、消えずに残るかも知れないな」 それは一縷の希望。 だが、賭けるには十分すぎる希望。「さあ、ルイズ・フランソワーズ。もうお前にも聞こえるだろう? お前を呼ぶ声が」 ――――――ルイズ――――――「お前の従僕の声が」 ――――ルイズ――――「さっさと帰るが良い。そして為すべきことを為すが良い」 ――ルイズ――「お前の世界(ハルケギニア)を守りたいのならばな。まあ無駄だろうが」 ――ルイズ!!「何処まで抗うか、それもまた楽しみだ。私はそれもまた知りたい、この滅びは逃れられうるものなのかと。だから可能性のある者たちを見つけては、少しばかりの助言を与え、唆している……。さあ、行け――」 ルイズ!!!! ◆◇◆ サイトは、魂で感じていた。(さっきよりも、ルイズの魂を、強く感じる……!) どんどんとルイズの魂の波動が強くなっている。 きっとルイズは、戻ってくる。 使い魔のルーンが、心強い波動を伝えてくる。 全身に傷を作りながらも、サイトは歓喜とともに二刀を振るう。「粘るねえ、ガンダールヴ!」「ほざけ、機械仕掛けの蜘蛛め!」 チクタクマンが無数の糸を飛ばし、サイトを引き裂こうとしてくる。 だがサイトの左肩から砲門を覗かせる翼蛇エキドナが、火砲にてそれらを寄せ付けない。 サイトはその隙に、魔刀デルフリンガーと神刀『夢守』を振りかぶり、チクタクマンに接敵。(もう少しで、きっとルイズは帰ってくる! そのための隙を、作らなきゃならねえっ!) 決意に応えて、左肩に張り付いたガンダールヴのルーンが輝きを増す。「喰らえ、混沌! 七連七孔!」 目にも留まらぬ七連撃。 チクタクマンの胴体に、七つの傷が刻まれる。「ハッ、何とも軽い攻撃だな! 避けるまでもないぞ、ニンゲン!」「それはどうかな? お前は避けておくべきだったよ」「――何?」 余裕綽々だったチクタクマンの表情が、変わる。「何だ、身体が、動かん……! 一体何をした、ガンダールヴ!」「荘子曰く――渾沌、七竅(シチキュウ)に死す」 渾沌(カオス)に、眼耳鼻口の七つの孔を開けると死んでしまったという寓話だ。 その寓話になぞらえた七つの傷を媒介にした呪詛攻撃。混沌の具現たるナイアルラァトホテプには、特別に効果が高いだろう。 しかもチクタクマンに傷をつけたのは、ブリミルの残滓を封じたデルフリンガーと、幻夢郷における封印の神刀『夢守』だ。 それらの宿す封印の概念は、神を封じるにも充分に効果を発揮する。「お前は暫し、そこで縛に着いていろ」「ふ、ふふ、いいねイイね、そうでなくてはならないっ! さあ、もっともっと魅せてみろよ、ニンゲンんんんん!!」 とはいえ、所詮呪術師でもなく戦士でしかないサイトの実力では、数秒も動きを止めることは出来ないだろう。 そして二度目からはきっと効かないのだ。 だが、数秒もあれば充分で、確実に言えるのはこれが空前絶後の大チャンスということだ。 サイトは叫ぶ。「五つの力を司るペンタゴン! 我が魂の縁を辿り――」 サイトは、ガンダールヴのルーンから繋がる糸を手繰り寄せる。 言うならばそれは、運命の赤い糸。(ルイズ。ルイズ、ルイズ! 戻って来てくれ、ルイズ!) サイトは必死に呼びかけ、糸を手繰る。「――我が運命の主を、ルイズ・フランソワーズをっ、いま此処に再び、召喚せよ!!」 (ルイズ!!!!) それはひとつの魔術。 【ルイズ・フランソワーズの召喚】とでも名付けるべき魔術。 空間の隔たりを超えて、運命の相手と再会するための、平賀才人の愛の魔術。 サイトがルイズに召喚されるなら、当然、その逆もまた起こりうるはずだと、サイトはそう心から信じ――そして実際にその通りとなる。 遥か地下深くから、閃光が立ち昇る。 それはシャンリットの遙か地下のアトラク=ナクアの祭壇を貫き、それと直列に並んでいたアザトース・エンジンの開口部を呑み込み、幾多の<黒糸>の蜘蛛の巣を破って、サイトの前に顕現する。 光の柱は、すぐに少女の姿を形取る。「ルイズ……」「サイト……っ!」 光の中から少女が実体化する。 それはとても幻想的な光景で。 神話の如き戦いの最中になるこの場において、これ以上ないほどに相応しかった。 今ここは世界法則が揺らぎ、精神こそが肉体よりも優先される世界と化しているのだ。 ならば、この程度は当然の仕儀と言えよう。「んっ……!」 「んむぅっ」 少女と少年が再会の口づけを交わす。 深く、深く、熱く。 そして、甘く。 少年の胸に、熱く燃えるものが宿る。 いや、実際にそこは燃えて輝いていた。 第四のルーン、リーヴスラシル。 生命を紡ぐもの。 生命の叫びを上げるもの――リーヴスラシル。 サイトの胸に、リーヴスラシルのルーンが宿る。 使い魔を選ぶのは、運命と愛。運命は二人を巡り合わせた。そして――。 そして愛ゆえにサイトは、ガンダールヴに加えてリーヴスラシルを宿す。――六千年前のエルフのサーシャと同じように……。「準備は整ったかね、ルイズ・フランソワーズ?」 いつの間にか七連七孔の呪縛から解かれたチクタクマンが、破れた蜘蛛の巣を修復してその上にふわりと降り立つ。「いいえ、まだまだ準備が足りないわ――」「ほう? でもボーナスタイムはもう終了だぜい?」「どちらにせよ私はやる事ぁヤルのよッ!」 ルイズは宙空に身を投げて、アザトース・エンジンのエネルギー放出点へと落ちていく。「ハハハッ、気でも狂ったか!? そのまま痴愚神のエネルギーに呑まれて消えるがいいさ、ルイズ・フランソワーズ!」「はっ、この程度の何が恐れるに足りるものですか! 私は知っているわ、痴愚神が『盲目白痴』になる前の、その本来の波動を! それを目の当たりにしてから、此処へと戻って来た! もう何も怖いものなどありはしないのよ!」 ルイズが仰向けに落ちながら啖呵を切る。 その内容に、ナイアルラァトホテプは訝しげにする。「白痴になる前の痴愚神、だって? どういうことだ、まさか、あのストーカーのヤンデレ蜘蛛神、本当にアザトース様の意識統合を果たしたとでも――?」「お前は知らないの? まあ、良いわ――私のやることに変わりはないもの……」 手を広げて落ち続けるルイズの、その背後に、大きな扉が現れる。 複雑なアラベスク模様を浮かべたそれは未だ開いた状態で、シャボン玉のように虹色――いや玉虫色に蠢くマーブル模様に輝いていた。「……ヨグ=ソトースの、窮極の、弥終(いやはて)の門。まさか半神の分際で……」「私は、門にして鍵たるヨグの末裔。このアザトース・エンジンは――閉じさせてもらうわ!」 ルイズの宣言とともに、玉虫色が目魔狂しく移り変わる巨門が、轟音とともに閉じる。 同時に、周囲に満ちていた神気としか言いようの無いエネルギーも霧散する。 「へえ、やるじゃないか。最初からそうしてれば、別に退散させたりしやしなかったのにな」「余裕こいてるのもここまでよ。――っていうか、アンタに構ってる場合じゃないのよね」「おやおや随分な言いようじゃないかい。這い寄る混沌を前にして『眼中に無い』宣言とは!」 侮辱されたのかと思ったのか、チクタクマンは眉根を寄せる。 ――とか会話しつつも、実はチクタクマンとサイトは依然交戦中である。 恐ろしい勢いで斬撃の応酬が行われている。 かたやチクタクマンはそれと並行して、ハルケギニア各地への侵略を実行中である。恐ろしい、さすが邪神。「そう言っていられるのも今のうちよ、チクタクマン――」「……それは?」「ふふ、ふふふ」 ルイズは何処からか、闇色の宝石のようなものを取り出す。「? トラペゾヘドロン? しかも模造品のようだが」「そう、トラペゾヘドロン・レプリカ、オールド・オスマンの手による贋作。だけど、こいつでも充分なのよ!」 ルイズの手にあったのは、サイトがハルケギニアで巻き込まれた最初の事件を通じて、彼女が手に入れたもの。 闇色に輝く偏四角多面体をした結晶。 混沌のナイアルラァトホテプに連なるアーティファクト――をオールド・オスマンが内包する歴史概念を含めて業子(カルマトロン)ごと複製した逸品。 ルイズはそれを掲げ、精神を集中する。「接続(アクセス)! 同調(シンクロ)!」「ぬ?」「ぐぅぅっ!」 そして彼女は、その闇のアーティファクトを通じて、ナイアルラァトホテプの意識へ接続し、同調し――苦悶の声を上げる。 当然だ。 無防備に邪神と同調すれば、その末路は、化身として取り込まれた<黒糸>のウードと同じだ。 ましてや【チクタクマン ver.Eudes】の得意とするところは、侵蝕と同化。逃れられるものではない。「ルイズ!?」「……何がしたいんだ、ルイズ・フランソワーズ? 自殺志願者か?」「ふ、ふふふ、まあ、あ、ある意味、そうかも、ね」 サイトが、チクタクマンに弾き飛ばされてルイズの傍まで落ちてくる。 彼が心配してルイズを覗き込めば、彼女の腕から胸にかけてが、掲げたトラペゾヘドロン・レプリカから伸びる闇によって漆黒に染まっている。 ルイズの顔は脂汗にまみれて、息も絶え絶えだった。「……大丈夫か、ルイズ」「ふ、ふふふ。イイトコロに来たわね、サイトぉ」「ホントに大丈夫かよ……」 ルイズの視線が、サイトを捉える。 サイトは、その視線を受けて息を呑む。 もう主観時間で何百年と連れ添っている相手だ、何を言いたいのかなんて、目と目で通じ合える。「……、そ、れが、ルイズの望みなら」「頼んだわよ、サイト」 そんなことを囁き合って、ルイズは更にトラペゾヘドロン・レプリカへと力を注ぐ。 闇色のラインがルイズとチクタクマンの胸を結び、引力が働く。「おおおっ?」「こっちに、来いぃいいいい!! チクタクマンっ!」 その闇色のラインはまるで実体ある鎖のように働き、ルイズとチクタクマンを互いに引き寄せた。 チクタクマンは闇の鎖に引かれてルイズの方に落ち、ルイズは闇の鎖を手繰り寄せて空中へと駆け上がる。「このおおおおっ! エクスプロージョン・パンチ!!」「ぐおっ」 そしてルイズはその勢いのままに腕を振りかぶり、チクタクマンの頬へと虚無の『爆発』のエネルギーを凝縮させた拳を走らせる。 それはチクタクマンの頬へと命中し、凝縮されたエネルギーを弾けさせる。 指向性も与えられた虚無のエネルギーは、チクタクマンの顔を吹き飛ばす、が――「イった~い、でも効かないもんね!」「チッ」「今度はこっちの番だぜい、折角だからこのまま取り込んでやろう!」 振りぬかれたルイズの拳が、ギュルリと修復するチクタクマンの顔に巻き込まれるままに固定される。 可愛らしい顔に腕を突き刺されたまま、チクタクマンは下品に哄笑する。「げぁはははははっ! 何だ、ルイズ・フランソワーズ、まさかその出来損ないのトラペゾヘドロンを通じて、俺を逆に支配しようとでも考えたのか?」 ルイズの腕が漆黒に染まり、その侵蝕が進んでいく。 同時に、チクタクマンがルイズの身体を抱きしめる。 ルイズの身体が、ズブズブとチクタクマンの身体へと沈んでいく。「ほら、後一息でお前という存在は喰われて無くなるぞ。たかが一匹の人外が、この混沌を支配できるとでも思ったのか? ルイズ・フランソワーズ」「……そうね、私一人なら、そうだったでしょうね。でも」 ルイズが言葉の続きを紡ぐ前に、ドン、と抱きあうようにもつれたチクタクマンとルイズに衝撃が浸透した。「な、な、な――」「でも、私は、一人じゃあないもの」 つう、とルイズの口から血の筋が溢れて流れる。 半ば融合したルイズとチクタクマンの胸を諸共に、サイトの刃が貫いていた。「ガンダールヴ――いや、リーヴスラシルっ!」「……それが、お前の望みなら、俺は叶えよう、ルイズ――例え、今生の別れになろうとも――ッ!」「ふふ、ありがとう、サイト。愛してるわ、血の涙を流すほどに嫌なくせして、叶えてくれてありがとう、私の使い魔」 二人を貫いたサイトの胸のルーンが輝く。 リーヴスラシルのルーンが燃える。 燃えて蠢き、それは刃を伝ってルイズへと移る。 まるで六千年前のブリミルとサーシャの時のように。 サイトは血涙を流してそれを見送る。「リーヴスラシルの、『同族支配』。今や私は一人じゃないわ」 リーヴスラシルのルーンが、ルイズの心臓に宿り、まばゆく輝く。 同時に、ハルケギニアに生き残ったあらゆる人類からルイズへと、意志の力が流れ込む。 リーヴスラシルの『同族支配』の権能が、世界に満ちる希望を束ねる。 その御蔭か、ルイズを侵蝕していたチクタクマンの闇色は、動きを止めた。「はっ、だからどうした! たかが世界一つ分のニンゲンを束ねたところで、このナイアルラァトホテプに勝てるか!」 ざわざわと再び闇がルイズを侵蝕し始める。「知ってるわ、世界一つ分じゃあ、足りないことくらい」「じゃあ――」「そして今や私は、もう一つ知っているわ」 ルイズが血の筋を流しながら、首筋まで闇に侵蝕されながら、笑う。「――世界が唯一のものではないことを!」「!?」 ルイズの宣言とともに、彼女の背後に浮かんでいる玉虫色に流動する窮極の巨門が再び轟音とともに開く。 だがその繋がる先は、痴愚神の宮殿ではない。 門の先は彼女が知った、蜘蛛の糸の繋がる先。 あらゆる平行世界が浮かぶ、あの蜘蛛の巣の上。 ウードが居ないハルケギニア、ウードが居るハルケギニア、ルイズが居るハルケギニア、ルイズが居ないハルケギニア、サイトが召喚されたハルケギニア、サイトが召喚されないハルケギニア……。 無数無限の平行世界に満ちる、全てのニンゲンへとルイズ・フランソワーズは助力を願う。「リーヴスラシルたるルイズ・フランソワーズが願い、祈るっ! 平行世界のすべての人々よ、私に力を!!」 人々の意志が、ルイズへと流れ込む。「あ、ああああああああああああっ!」 それ一つ一つは少しずつでも、無数無限の平行世界から束ねたそれは、膨大なものとなる。 侵蝕する闇を撥ね退けて、彼女の身体は今や銀色に輝いていた。 銀色に虹色が混ざり、それはシャボン玉のように複雑にマーブル模様を描きながら、チクタクマンを侵蝕し返していく。「莫迦な! こんなことが――」「決着と行きましょう、チクタクマン――ナイアルラァトホテプッ!」 支配率が入れ替わる。 チクタクマンの身体は虹色に侵蝕されて沸騰し、まるでシャボン玉の塊のように膨れ上がっていく。「【ヨグ=ソトース】……!」 サイトは呆然と呟く。 虹色と銀色がぐるぐると交じり合うその連球体は、伝承に謳われる神々の副王【ヨグ=ソトース】そのものだ。 今この時、ルイズに流れる虚無の血脈は、完全に覚醒していた。「これでおしまいよ、ナイアルラァトホテプ。 もはや神話の時代は終わるの。 そしてあの痴愚神の意識を束ねんとする、あの蜘蛛の巣から逃れる為に、あんたも私も、解けて失せるのよ」 元はチクタクマンだった虹色の巨大なシャボン玉に囲まれたルイズが詠唱を始める。 それはサイトも聞いたことのある詠唱だ。 あの六千年の昔への時間旅行において、サイトが聞いたあの詠唱だ。 ブリミルが世界の礎となって消えた、あの詠唱だ。「虚無の最終魔法――【生命(リーヴ)】」「やめろ、やめろ、ルイズ・フランソワーズ!」「い、や、よ。止めてなんてあげないわ。大人しく生贄になりなさいよ、往生際が悪いわねえ」 ケラケラと、ルイズは虹色のシャボン玉の表面に浮かんでは消えるチクタクマンの顔を嘲笑う。「さあ、虚無と混沌を捧げて、新しい秩序を生み出そうじゃあないの!」 原初、混沌ありき。 混沌死して、秩序生まるる。 そして混沌より以前に虚無ありきと云う。 ゆえに、虚無(ルイズ)と混沌(チクタクマン)を生贄に捧げれば、より強固な秩序が生まれることは最早自明とさえ言えるだろう。「お、おおおおおおおおおおおおおっ!?」「足掻くな、混沌」 巨大な虹色のシャボン玉の塊が、徐々に弾けて消えていく。生贄にされて消えていく。 その代わりというように、ルイズに力を齎していた窮極の巨門の、その向こうに、強固な防護壁が築かれていく。 アザトースの意識を蒐める蜘蛛神の干渉から逃れるために、虚無と混沌の二柱の神を生贄に捧げて、世界を守る防壁が組み上げられていく。 新たな法則が敷かれていく。 同時に、世界中に散らばっていた混沌の化身たちも、世界そのものへの生贄として捧げられて、消滅していく。 そしてナイアルラァトホテプが荒らした土地も、人々も、全てが巻き戻っていく。 このハルケギニアを守る防壁を築いた奇跡の残り香が、世界を修復していく。 堕ちたアルビオンから奇跡が広がる。 倒れたものは立ち上がり、邪神に取り込まれた者も蘇る。 荒廃した町並みは回復し、一部の者を除いて人々は悪夢を忘れていく。 夢から覚めるように、世界が生まれ変わる。新生する。「さよなら、サイト」 そして神は消える。 混沌の神ナイアルラァトホテプが。 虚無の神ルイズ・フランソワーズが。 消えて無くなる。 神話が終わる。 神々の時代が終わる。 残されるのは――「さよなら、じゃ、ねえよ! 『またな』、だ! 俺は、俺は! 俺は必ず、またお前と――」「……ふふ、ありがと。楽しみにしてるわ――またね、サイト」 ――残されるのは、いつも人間だ。「ルイズーーー!!」 ◆◇◆ のちに歴史書は語る。『ブリミル歴6242年、邪神戦役。 アルビオン‐クルデンホルフ戦争から移行する形で始まったこの戦争は、神の実在を証明した。 邪悪なる神(その名は語るにはばかられるため、記すことは出来ない)は世界を一瞬にして席巻し、世界は阿鼻と叫喚の渦に沈んだ。 その危機に対応するかのように、当時の世界には伝説とされる虚無の担い手が複数存在しており、彼らは力を合わせて邪神と対峙した。 そして虚無の担い手の一人である聖女ルイズ・フランソワーズとその使い魔ヒリガル・サイトーンの貴い犠牲により、ハルケギニアは邪神の魔の手より守られた。 この戦役を通じて邪神たちに危機感を覚えた時の教皇聖エイジス32世の主導により、後の国際的対邪神組織の設立へと繋がることとなる。 またそれまで技術を秘匿してきたクルデンホルフ大公国の陥落により、膨大な技術流出が生じ、それが革新の時代へと導くこととなった。』 人類は蜘蛛(ウード)によって敷かれたレールから逃れ、またルイズの犠牲によって邪神の脅威も遠く去った。 人の、人による、人のための歴史が、この時から再び始まったのだ。============================これにて、終幕。『蜘蛛の巣から逃れる為に』に、最後までお付き合いいただきありがとうございました。それでは、あとがきと、登場人物のその後について(エピローグ的な何か)は次の記事で。サイトはどうなったのかって? さー、どーなったんでしょうねー?(すっとぼけ)============================ 歴史書曰く。『ブリミル歴6795年、魔王討伐。 邪神戦役より五百年あまり、世界に再び危機が迫る。 邪神復活を目論む者が現れたのだ。これを魔王と呼称する。 当初魔王は、「邪神復活」というその真の目的を隠して「聖女ルイズの再臨」を掲げて活動していた。 だがそれは対邪神組織によって見ぬかれ、邪神の復活は未然に防がれることとなる。 対邪神組織は、将来の危機のために凍結封印されていた虚無の担い手である聖女ティファニアを覚醒させ、その力で魔王を討ち取った。 ドリームランドからやって来たというその魔王の名は、ヒリガル・サイトーンだと伝えられるが、おそらくは偽名であろう。』 ――果たしてこれは真実なりや?============================どーなったんでしょーねー、サイト君。2013.05.04 初投稿