女王アンリエッタの即位と派兵決定から一ヵ月後。
編成を終えたトリステインの艦隊はアルビオンへ達し、レキシントンの地へと軍勢を展開させていた。レキシントンとはレコン・キスタ最初の戦勝地の名前であり、現在では、貴族派の最後の拠点でもあった。
「申し訳ありませんウェールズ様。結局、最後の戦いにしか間に合う事ができませんでした」
「謝る必要などないよアン。君がトリステインから駆けつけてくれたというだけで、僕は万の勇気を得た気分なのだからね」
貴賓用の天幕の中で、ウェールズ・テューダーはアンリエッタに微笑みかけた。アンリエッタとしてはすがり付きたい気持ちであったが、天幕に居るのが二人だけではない事が、その行動を制止していた。
「ジョゼフ一世陛下。この度のアルビオンへの支援、臣民と父に代わって、深く感謝申し上げる」
「なに、金を出して兵は出さぬ、ただの臆病者にすぎぬよ。邪魔にならぬよう脇にどいておくので、気になさるな」
腕を組んで闊達に笑ったのは、ガリアの現国王、ジョゼフ一世本人であった。
トリステイン艦隊に、アルビオン王家への支援の使者を兼ねて、ガリアから数隻の船が同行した。しかし、まさかその中に国王自身が乗っているとは、アンリエッタもレキシントンの地に降りるまで予想すらしていなかったのだ。
「まもなく開戦するでしょう。私は援軍要請を行うため、砦に戻ります。お二人はここでご観戦なさって下さい」
「ほう、異国の兵を招くという要請は、国王でなくとも出来るのですかな?」
「ええ。それどころか、ただの一兵卒であっても可能なようです」
ウェールズが去って、天幕の中にジョゼフと二人きりとなる。青い髪の偉丈夫の王は、顎に手をやって何やら考えているようだったが、不意にアンリエッタを見て口を開いた。
「女王陛下も、即位後すぐの出兵となっては、大変だったのではありませぬかな?」
「いえ、そのようなことは」
言葉少なにアンリエッタは答えた。精悍な表情の奥の、たとえ笑っていても斬りつけるように鋭い目を見ていると、なぜか不安めいた物を感じ居心地が悪かったのだ。
無能王という蔑称を耳にはしていたが、王という立場を別にしても、本人を前にそれを口に出来る人間がいるとはとても思えなかった。
気がつけば、杖を握った腕を、身体に引き寄せるように抱きしめていた。
「さすがは音に聞こえしトリステイン王国。さぞかし忠臣揃いなのでしょうな」
ジョゼフの言葉にアンリエッタは、自分をお飾りとしか扱わない重臣達を思い出して、思わず、いいえ、と口走っていた。
そして愚痴というものは、一度口にしてしまえば、止まるものではない。
「我が国にも、王を王とも思わぬ者はおります。私利私欲に走ることに慣れ、まつりごとの正道を忘れてしまった者達が」
「そうでしたか。なに、ガリアにもそのような者は溢れていますな」
「ガリアにもですか」
「ええ。ですので助かっておりますよ」
聞き間違いかと、アンリエッタが見つめなおすと、ジョゼフは糸のように目を細めて奥歯まで見えるほど豪快に笑ったのだった。
アンリエッタが言葉の意味を尋ねようとした時、天幕の外で歓声が沸いた。
「どうやら始まるようですな。人が死なぬという不可思議な戦場、じっくりと見させて頂こう」
ジョゼフが天幕の入り口をめくって出て行く。その後姿を見つめながら、アンリエッタはジョゼフの先ほどの言葉が、なぜかずっと引っかかっていた。
戦はこれまで通り、異国の援軍を得たジェームス一世率いる王統派の有利なまま推移し、貴族派の敗北で幕を閉じようとしていた。
貴族派の最後の拠点である砦が、黒煙を噴き上げながら崩れていくのが、遠目にアンリエッタにも見えた。ルイズに聞いたとおりならば、建物だけではなく、貴族派の食料、武器、砲弾。その他の物資全てが消滅した筈である。
今ここに、アルビオン大陸を二分したレコン・キスタの兵火は、終焉を迎えたのだ。
「なんとも、出鱈目というか、とんでもない戦争でしたな」
「ええ、ですが大きな成果もありました」
毒気を抜かれたように語るジョゼフに、アンリエッタは満足の笑みを浮かべて答えた。
それはジョゼフの様子にではなく、戦争に参加したトリステインの将兵の反応にであった。彼らは一様に驚き、自分の中の常識がいかに脆いものであったのかと打ちのめされているようだった。
大将の一人などは、アンリエッタの元を訪れ、異国の戦争の知識に対する自分のこれまでの不明さを謝罪した程だった。
自分が王位に就いてまで果たそうとした目的のひとつが、叶えられたのだと、アンリエッタは喜んだ。
沈静していく戦場を見ていた二人の前に、ウェールズが訪れ、再度謝意を述べた。
「両国の援軍が無ければ、危なかったやもしれません。この時間にしては、異国からの援軍が少なかったのです」
ウェールズの言葉に、ジョゼフが興味深そうに質問を重ねる。二人の問答によると、援軍要請で現れる異国の兵士達は、時間帯によってその数が大きく変わるのだという。
夜が最も多く、早朝から昼にかけてはほとんど集まらない。だがなぜか日によっては、日中にも関わらず大勢が現れたりもするとの事だった。
そして今日の決戦では、これまでの同じ時間帯と比べて、半分近く少なかったのだという。そのせいで、トリステインの軍を合わせてやっと、貴族派とほぼ同数の兵力であったらしい。
「正確には、どれ程の人数が減っていたのですかな?」
ジョゼフが尋ねて、ウェールズが答える。だがそれをアンリエッタは聞いてはいなかった。
空の一点から、零れ落ちるようにこちらに落下してくる、巨大な戦艦を目にしたからだ。
悲鳴を上げようとしたアンリエッタを押しとどめるように、風で増幅された警告の声が響き渡った。
レキシントンが堕ちて来るぞ、と。
周囲が騒然となるが、ある情報を知っている者は、さらに震え上がっていた。
「なんて事だ。戦争が終わった今、あれが落ちてきたら、全員死んでしまうぞ」
ウェールズが杖を握り締めて呟く。アンリエッタも自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。戦争中は人が死なない、だがそれを裏返せば、一旦戦争が終了してしまえば、これまでの殺し合いとなんら違いは無いのだ。
船の構造材まで確認できる距離まで迫っては、風メイジでもなくば逃げて助かるとは思えなかった。
「船に伝えよ、敵船の左翼に砲撃を集中。急げ、左舷の翼だけを狙い打て!」
苛烈な声にアンリエッタが我に返ると、ジョゼフが臣下に向って命令していた。風メイジらしいその者は、スペルを唱えて、先ほどの命令を即座に船へと伝えたようだった。
「そうか、船のバランスを」
ウェールズが部下に顔を向けたとき、上空のガリア艦が砲火を放ち、レキシントンの左翼が根元からちぎれ飛んだ。
即座に、全身を壁に押し付けられたように感じるほど、重い突風が押し寄せ、アンリエッタは悲鳴を上げた。すぐに誰かに抱きしめられるが、風圧とのしかかるような轟音に、とっさに判別もつかない。
何かを次々となぎ倒す音を響かせて、風が収まると、アンリエッタは堅く閉じていた目を開いた。
「大丈夫かい? アン」
「ウェールズ様!」
アンリエッタは自分がウェールズの腕の中にいる事を知ったが、次に目に飛び込んできた光景に、離れることも忘れてしまった。
天幕があった場所から、ほんの小さな丘ひとつを隔てて、巨大な戦艦が大地に突き刺さり、なぎ倒された周囲の木々ごと炎上していたのだ。
そして、アンリエッタ達の前には、巨大な篝火と化した戦艦を向いて立つ、ガリア王の背中があった。表情の見えぬその姿に、アンリエッタは自分ですら気付かぬうちに、ウェールズにしがみつく腕に力を込めていたのだった。
炎上したレキシントンに、レコン・キスタの総司令官であるオリヴァー・クロムウェルが搭乗していた事が確認されたのは、トリステイン艦隊が帰国してからの事だった。
※※※
アルビオンでの戦いがトリステインの軍部にもたらした衝撃は大きかった。
アンリエッタの元を訪れる元帥、大将達は、口々にあの想像を超える戦場について尋ね、ルイズ・フランソワーズから提供される情報についての開示を求めた。
ルイズを城に呼び出し、直接部隊の教練を行わせるべきだとの意見が出るほどで、アンリエッタは喜びながらも、皆を制止せねばならない程だった。
しかしアルビオンからの帰国後、アンリエッタの女王としての日々が、慶事だけで構成されている訳ではなかった。
「い、以上が、城下で集めてきた平民達の声です。詳しくは、こ、ここ、こちらの書類に、纏めてございます」
ギーシュの差し出す書類の束を、笑顔で受け取ったアンリエッタだったが、その内心は晴れよう筈が無かった。
平民が貴族に向ける感情、そのほぼ全てが、不正に自分達の財産を吸い上げる貴族への憤りであったのだ。直接平民に接する徴税官の横暴が目立ってはいたが、貴族の、特に王家に使える役人の不正は、経済のありとあらゆる部分に及んでいた。
「任務ご苦労さまでした。いずれまたお力を借りる時が来ると思いますが、その時も私を助けて下さいね」
「は、ははっ。このギーシュ・グラモン、一命に代えましても」
アンリエッタは、ギーシュと共に任務についていたという金髪の少女にも、ねぎらいの言葉を掛けた。
「貴女もありがとうございました。ミス・モンモランシ」
「勿体無きお言葉にございます、陛下」
仲睦まじそうに退出する二人を、アンリエッタはしばし心の鬱屈を忘れて、羨ましそうに見送った。
短くは無い任務の日数を、二人は城下で共に過ごしたはずである。男女で任務を行ったと聞いたときは驚いたが、おそらく元から恋人同士であったろう学生の二人が共に暮らす姿を想像すると、しばし王座の重責を忘れられるアンリエッタだった。
もちろん、それは一時の事にすぎなかったが。
「徴税官のチュレンヌという者が、かなり悪どいようですね。デムリ財務卿はこの事を知っているのでしょうか」
「その者の噂は聞いております。欲深い男なのは確かですが、徴税の書類には一切不備がございません」
後ろに控えていたマザリーニが答える。
では不正を犯していたとしても、法律で裁くことは不可能なのですね、とアンリエッタは悔しさに息を漏らした。
チュレンヌは税を独自に釣り上げたばかりか、稼ぎのよい店に押しかけては臨時徴収の名目で金銭を要求するという。
閉店に追い込まれた店主や、街人の恨みをかなり買っているというが、彼らの憎しみはチュレンヌ個人にとどまらず、貴族や王家へも向くことだろう。このような者をすら裁けないことが、アンリエッタには歯がゆかった。
「陛下、この者を除こうとお考えですか?」
「当然ではありませんか。一分の益も無しとは、この者の事を言うのです」
何を今更、とアンリエッタは眼差しをきつくした。
アルビオンでの戦場を経験しても、文官達の反応は鈍い。新たな時代が訪れようとしているのです、とアンリエッタが意識の改革を訴えても、不正は消えず、私利私欲に走ることも止めようとはしない。戦場に同行した文官達ですら、そうだった。
そして実際に、一ヶ月が過ぎようとしている今でさえ、こうして官吏の腐敗を示す報告が上がってくるのだ。
「法務を司っているリッシュモンなら、何か良い手を考え付くかも知れませんね」
リッシュモンを呼び寄せるよう、アンリエッタはマザリーニに伝えた。
マザリーニが、かしこまりました、と一礼して答える。その動作に一瞬の間があったように感じたが、理由が思いつかないまま、アンリエッタは気のせいだとそのことを忘れた。
「無理ですな。司法によってこの者を裁くことは、不可能です」
説明を受けたリッシュモンが、一旦アンリエッタの前を辞した後、再度現れて、無情な結果を告げた。
僅かな希望を抱いていたアンリエッタは、そうてすか、と肩を落とした。
「ですが方法が全く無い、という訳ではありません」
アンリエッタは思わず顔を上げた。言葉の先を促すと、リッシュモンはアンリエッタの後ろに控えるマザリーニに視線を向けて、司法の機密に関する事ゆえ、と退出を願った。
室内の空気に、微量の緊張が混じる。いつもと変わらぬ厳粛な表情のまま口を開こうとしたマザリーニを、アンリエッタは制して、きっぱりと言った。
「その必要はありません。マザリーニに隠す事など、この国にはないのですから」
長く政治の現場を敬遠していたアンリエッタですら、この苦労人の枢機卿が居なければ、とうにトリステインが滅んでいても不思議ではない事を知っている。
いまさらマザリーニを疑うなど、アンリエッタには滑稽にすら感じられる事だった。
「そうでございましたな。枢機卿閣下、ご無礼をお許しあれ」
「いやこちらこそ、リッシュモン卿のご寛容に感謝する」
リッシュモンはあっさりと身を引いた。内心で安堵したアンリエッタは、改めて、先程の言葉の続きを促した。
「この者を裁く法は存在しません。ですが、この国にたったお一人だけ、全ての司法を超越して、裁きを下すことのできるお方が存在します」
思わずアンリエッタは目を見開いた。リッシュモンの目は、まっすぐにアンリエッタを見つめている。
「リッシュモン卿。高等法院の長が、主君に法を破れと申されるか」
「なればこそ最初に、司法の機密と申し上げた。我らは法を司るからこそ、そこに限界があることも知っておるのですよ」
リッシュモンはアンリエッタから目を離さず、マサリーニに答えた。
ああ、私の勘違いではないのですね、とアンリエッタは思った。リッシュモンが、司法上は無実であるチェレンヌを、アンリエッタに裁かせようとしているのだと悟った。
「陛下、国に王というものが存在し続けているのは、始祖の血脈というだけが理由ではございません。法が禁じ、全ての臣下が反対しても、国民の為に絶大な力を行使出来るからこそ、六千年もの長きに渡って、国民は王を必要としてきたのです」
アンリエッタはその言葉の危うさに息を呑んだが、同時に、誘惑も感じていた。
王宮に巣くう蜘蛛の巣のような不正を、奸臣ごと吹き払い、清浄な糸で真新しい統治を織ってゆく。アンリエッタの宿願を果たす道はすぐそこにあり、しかもそれが王の義務だと言われたのだ。
アンリエッタは救いを求めるようにマザリーニを見たが、常に自分を導いてくれた宰相は、目を閉じたまま何の声も発しはしなかった。
「陛下、どうかご決断を」
この決断を下せば、自分は女王に即位した時よりも、遥かに巨大な変化に晒される。アンリエッタは不意に身体が浮き上がるような錯覚に襲われ、ソファーの端を握り締めた。
目を閉じ、深く息を吐いて呼吸を整える。
アンリエッタは目を開くと、迷いの無い静かな声で決定を口にした。
「分かりました。女王アンリエッタの名において、チュレンヌ徴税官を裁きましょう」
アンリエッタは、ただし、と付け加えた。
「チュレンヌが不当に徴収した金額のうち、己のふところに納めた分を民に返還すれば、それ以上の罪は問わない事とします。徴税官としての身分も、貴族の爵位もそのままです」
さらに返還の期限に一年の余裕を定め、民に返す具体的な方法はデムリ財務卿とリッシュモンに任せる旨を、アンリエッタは告げた。
処断に反対していたマザリーニに大きく配慮した結果となり、リッシュモンは難色を示すかと思われたが、厳罰を求めていた高等法院の長は、粛々と主君の決定を受け入れた。
「マザリーニも、これでよいですね?」
「お言葉ですが陛下、この決定には賛同いたしかねます」
あくまで場を収める挨拶のつもりで確認したアンリエッタは、まさか否定されるとは思っておらず、ソファーから身体を浮かして振り向いた。
いつもと変わらぬ、説法を語る司祭のように厳粛な顔で、マザリーニはアンリエッタを見ていた。
こんなに配慮したと言うのに、まだ足らないというのですか。と、アンリエッタは思った。自分は知恵を絞り、最大限までマザリーニに譲歩し、その為に宿願への道筋すら保留したというのに、それでも駄目だというのですか、と。
半ばないがしろにされた筈のリッシュモンが潔く引いた事も、マザリーニへの苛立ちを掻き立てる原因となった。
「私が決定したのです。反論は許しませんよ、マザリーニ」
気がつけばアンリエッタは、まっすぐにマザリーニを見据えていた。
「ですが――」
「マザリーニ」
さらに言を重ねようとするマザリーニを制して、アンリエッタは低く問いかけた。
「この国の王は、私ですか? それとも貴方ですか?」
マザリーニはしばしアンリエッタを見つめた後で、胸に手を当てて、頭を下げた。
「陛下にございます」
ならばよいです、とアンリエッタは答え、二人に退出を命じた。
一人残ったアンリエッタはソファーに身を落とすと、眉をしかめて、小さく唇を尖らせた。
「……なぜ私を認めてくれないのですか」
※※※
「報告は以上です。なおこちらの件に関しては、マザリーニ卿が直接ご裁可をなされると仰っておられましたが?」
「私が許可します。それでいいですね、マザリーニ」
文官の報告を受けるアンリエッタの背後で、マザリーニは短く、御意、と答えた。
チュレンヌへの裁きから数日、アンリエッタは未だに、マザリーニへの隔意を拭えずにいた。
むしろ深まったと言っていいか。マザリーニに変化が感じられない分、アンリエッタとしては、自分ひとりが罪悪感を感じているようで悔しい。その為、半ば意地になって、マザリーニを軽視するような素振りをアンリエッタは見せてしまっていた。
子供じみた所業だとアンリエッタ自身思ってはいたが、自分ではどうすることもできない。マザリーニが一言謝ってくれさえすれば、この不毛な喧嘩を終わらせることが出来るというのに、と思っていた。
じれったい思いを抱えて会議場へと赴いたアンリエッタは、そこで呆然とした。
「なぜこんなに席が空いているのですか?」
「文官どもは出仕拒否だそうで御座います、陛下」
グラモン元帥が腕を組んで、憤懣やるかたないという様子で言った。
文官のほぼ全てが出席しておらず、もともと彼らが過半数を占める為、会議場にいる人数は半分にも満たない。なぜ、と問うアンリエッタに、文官の一人が立ち上がり答えた。
「チュレンヌ徴税官への陛下の直裁が、原因で御座います」
出仕を拒否した者たちが言うには、法としきたりに則り忠実に勤めを果たしていた能吏を告発し、さらにその財産を王権を持って奪い取るなど、まさに圧政の萌芽に他ならない、という事だった。
「なれば、陛下が正道に立ち返られ、官吏の権利が保障されるまでは、ご無礼なれど御前に出仕する事あたわず、と申しておりました」
報告を終えた文官が座るのを、アンリエッタは信じられない思いで見ていた。不意に足元が歪むのを感じ、壁に手をつく。護衛の女兵士が慌てたように駆け寄り声をかけるが、アンリエッタはただ自分の顔から血の気が引くのを感じていた。
悔しさとやるせなさが、アンリエッタの胸中に溢れる。
「あれほど頑張って、まだ足りぬと言うのですか……」
必死で思考し、自分が分不相応な地位にいる不安に耐えながらも決断し、それでもまだ、理想へのただの一歩を踏み出すことすら叶わないというのだろうか。
いっそ全員処罰してしまうかと、アンリエッタは思った。
リッシュモンが語ったように、民の為に王杖を振り下ろす暴君になってしまうかと。
けれども、そんな勇気はアンリエッタにはなかった。
全てをなぎ払った後、寄りかかる物のない支配者の荒野で、たった一人で立っていられる自信など全くありはしなかった。
「陛下、いかがなさいますか?」
マザリーニの声に、アンリエッタは救いを得たように目を開いた。
王位につく前から、自分と国を支えてくれた枢機卿、彼ならどんな時であっても自分を助けてくれるだろう。今の問題にも、必ず適切な助言をしてくれる筈だとアンリエッタは思った。
けれどもアンリエッタは躊躇ってしまった。
先日からの確執のせいではなく、今更助けを請うてマザリーニを失望させてしまうのが怖かった。
しばしの後、自分に注目する議場の一同を向いて、アンリエッタは臣下達に伝えた。
「……急ぐ議題がなければ、今日の会議は中止とします」
何も決定せず、裁かない、ただの先延ばしを。
「少しの間、一人にして下さい」
自室に戻ったアンリエッタは、人払いをして今後の対策を思案した。
しかし建設的な案は何も浮かばない。時間が経てば文官達も戻ってきてくれるのでは、と言う、希望的観測に心が逃げそうになってしまう。
アンリエッタは切に、ルイズに会いたいと思った。
今の心の内をさらけ出せば、あの桃色の髪の親友は、かならず自分の味方をしてくれるだろう。意地悪なマザリーニに怒り、文官達の不実を責め、私がついていますわ姫様、と言ってくれるのだ。
「誰かいますか?」
アンリエッタは人を呼び、ルイズと、彼女の護衛をしているアニエスを呼ぶよう言いつけた。
それが逃避である事は分かっていても、アンリエッタの心は温かく甘い物に、あまりにも飢えていたのだ。
ルイズ達を待つ間、アンリエッタの心は久しぶりに弾んでいた。
丁度いい機会だからと、かねてよりの思案を実行に移すことにする。アニエスを始めとする忠実で腕の立つ平民や、ルイズやギーシュのような王家への忠誠心溢れる若い学生達を集めて、それぞれに隊を編成させるのだ。
直属の近衛隊とする事が出来れば、きっと自分の助けになってくれる事だろうとアンリエッタは思った。
アンリエッタが好ましい未来の予想図に浸っていると、扉がノックされた。ルイズ達が到着したのだろうかと思ったが、現れたのはメイドではなく、グラモン元帥だった。
普段から隙のない人物ではあったが、今は眉目に戦場の如き緊張をたたえ、アンリエッタに不吉な予感を与えた。
「マザリーニ卿が刺客に襲われました」