「来ましたよ、マザリーニ。トリステインを奸臣の手より救わんとする、正義のガリア兵達が」
戦場の遥か向こうを眺めていたアンリエッタは、霞みながらも翻るガリアの軍旗を目にして、隣のマザリーニに笑いかけた。
「陛下、なにもそのように仰らなくともよろしいのでは」
「あら、そう言ってきたのはガリアですのに。それに皆は気にしてなかったようですわよ?」
それはガリアから届けられた、宣戦布告の一文であった。
女王が年若きことを利用して国政をほしいままにし、ガリアとの友好関係に害を為すトリステインの奸臣を討つ。もって正道を復し、始祖の威光を世に知らしめる。
つまりは、これは侵略戦争ではない、という国内外への建前であった。
「地上の誰一人として信じていない理由を掲げねばならぬとは、戦争とは面倒なものなのですね」
アンリエッタも王族として教育を受け、戦争には大義名分が必要であるとは知っているが、いざ当事者として聞く立場になると、なんとも馬鹿馬鹿しい気持ちになるのだった。
しかし重臣達がさも当然の事のように振舞うのを見せられると、どうやらこの手の喜劇は、政道にあっては常識らしかった。
かくしてガリア軍はトリステインの南国境に侵攻し、砦を建設。トリステイン側も王軍と諸侯軍合わせて六千で、国境を望む城に入り、軍を展開した。
「ルイズが羨ましいですわ。愛する人とともに戦場を駆けるだなんて、まるで舞台劇の一幕の様」
諸侯軍の内、ヴァリエール公の率いる軍の中には、ワルドの姿もあった。爵位を失い、メイジの一仕官としての参軍であったが、本人の意気込みは極めて高そうであった。
この人事にはおそらくアンリエッタの知らない政治的な意味があるのだろうが、十七歳の女王としては、新婚の年若い夫妻が共に戦場で戦うことに、大衆向け演劇めいた想像をめぐらせる方が重要なのだった。
「陛下、そろそろ戦端が開かれます。『援軍要請』をお出し下さい」
「分かりました。念のため、ナナを呼んでおいて下さい」
アンリエッタは緊張に眉をしかめて、両手を胸の前で握り締めると、目を閉じて俯いた。
今から自分は異国の人々へと声を届けるのだと思うと、握り締めた手に力が篭った。
アンリエッタはナナから教わった短い不思議な言葉を、心の中で唱えた。と同時に、ある一文が、アンリエッタの声で頭の中に響く。
『援軍求む!→ハルケギニア大陸:トリステイン王国南国境 (自軍6114人:敵軍215人)』
これが援軍要請というものなのですね、とアンリエッタが半ば夢の中にいるような不思議な気持ちでいると、周囲が急にざわめき始める。皆一様に驚いた顔で、耳を押さえたり、頭上を見上げたりしている。
アンリエッタがマザリーニを振り返ると、彼もまた虚を突かれた表情で、アンリエッタを見つめていた。
「陛下、今のが援軍要請なのでしょうか?」
マザリーニに言われて、はっと気付いたアンリエッタは周囲の兵達を見回した。まさか全軍に聞こえていたのでしょうか、と心音を大きくする。王族として民衆の前に立つことには慣れていたが、数千人に一度に声を届けたことなどなかったのだ。
予想外の事態に顔を赤らめていると、ナナがアンリエッタの前に姿を現した。肩に巨大な斧を担いだまま、アンアンばっちり援軍要請できてたよー、と拳を縦にして親指をぴんと立てた。
ひとまず役目を果たせたことに、アンリエッタは安堵したのだった。
「しかし陛下、今の言葉には気になる部分が御座いました」
マザリーニが、虫歯を気にするような表情で語りかけてくる。アンリエッタが首をかしげていると、さらにはグラモン元帥までもが、陛下にお尋ねしたき事が、と訪れた。
「どうしたのですか二人して、何か問題でも持ち上がりましたか?」
「はっ。先程の陛下のお声ですが、敵軍の数は確かなのでしょうか」
アンリエッタは眉をしかめて、さっきの声を思い出す。そう言えばお互いの人数も聞こえていた気がしたが、細部まで憶えてはいなかった。そもそもどういう原理で流れたかさえも分かっていないのだ。
「ええとナナ? さっきの要請で聞こえた、両軍の人数は正確なものなのですか?」
「大変です、急ぎご報告すべき事が!」
アンリエッタの質問にナナが口を開くと同時に、伝令の兵が駆け込んできた。跪く伝令に、アンリエッタは何事かと報告を促したが、その内容に一同は声を失う事になる。
「我が方の援軍現れず。一方、ガリア側に異国よりの援軍を発見せり、その数およそ五千!」
「五千とは、援軍の数が五千人なのですか? こちらの援軍は?」
一時的に耳が聞こえなくなったような錯覚を覚えて、アンリエッタは伝令に重ねて問いかけた。しかし返答は変わらず、また周囲にも、あの独特の装いをした兵士達が現れる様子は無い。
周囲の兵達はざわめきつつ、戦場の同じ方向を見つめている。アンリエッタはそちらを見やり、息を呑んだ。遠く霞む景色の中で、こちらに向ってくる軍勢の姿が見える。それはアルビオンで数倍の貴族派を破った兵士達なのだ。
「なぜこんな事に。私は何かを間違ったのでしょうか」
足を震わせて、真っ青な顔で呟いたアンリエッタに、ナナが服の袖をつまんで、ううんと首を横に振った。アンアンはなんにもまちがってないよ、とナナは笑い、一同に事情の説明を始めた。
それによると、援軍を得られるのは、戦力の少ない側が優先なのだと言う。それによって戦力差が逆転すれば、こんどは別方が援軍を得る事になる。最終的に両軍の差が最も少なくなるように調節されるのだと、ナナは語った。
「それなら今から我が国の兵士を減らせば、援軍に来てもらえるという事でしょうか?」
アンリエッタが問いかけると、ナナは首を、んー、と傾けて、むりかなーと答えた。この時間だと『オンニンズウ』が少ないからこれ以上増えないと思うと言われ、アンリエッタもそういえばと思い出した。アルビオンでウェールズが語っていた、時間によって援軍の数が違うという事を。
そこまで考えて、アンリエッタは愕然と目を見開いた。手のひらを握り締めて、眼差しをきつくする。
「全て、ガリア王の手のひらの内、という事ですか」
これまでの出来事を省みれば、ジョゼフが援軍についての詳細な情報を得る機会は、十分にあったのだと分かる。現在の状況は、最初からジョゼフが仕組んで、作り上げた物なのだ。
「――グラモン元帥、今回は撤退した方がよくはないでしょうか? 再戦の時には、こちらも兵を減らせば、問題には対抗できるでしょうし」
そう、これでトリステインが滅亡の危機に立たされた、などという訳ではないのだ。単に相手が一歩早く情報を掴んでいただけで、次からは互角の勝負を挑む事ができるのだ。そうアンリエッタは己に言い聞かせ、周囲を見回した。
皆も同じ気持ちなのだろう。仕官も兵士も一様に力なくうなだれ、杖を構えもせず、撤退の合図を待っているかのようであった。
その姿を見ていたアンリエッタは、ふと思った。
トリステインの兵達は、これほど光のない目をしていただろうか、と。
アンリエッタ自身戦場に立った事は無いが、彼らの姿は、とても敵と対峙する気概を持った兵には見えなかったのだ。
「なぜ、彼らはあのように……」
独り言のように呟いたアンリエッタは、この中で、たった一人だけ目に力を宿した人物を見つけて、言葉を飲み込んだ。
下着の上に申し訳程度に装甲をつけたような鎧を着て、両刃斧を担いだ、小さな異国の友人の姿を。
「……そうですね。私たちも、それに兵達自身でさえ、自分達など最初から戦力にいれてなかったのですね。援軍が来れば無意味だと、いてもいなくても関係が無いと」
アンリエッタも会議の折りには、両国の戦力差など無視できると思っていた。それどころか、ついさっき自分はなんと言ったのか、援軍を得る為にトリステインの兵を減らす、などと口にしたのだ。
いったいこの戦争は、誰の戦争だと言うのでしょう。アンリエッタは堅く拳を握り、手の内に爪を食い込ませた。
「ナナ、さっきの援軍要請の様に、全軍に声を届かせる方法はありますか?」
肯定の返事と共に、短い、不思議な単語を教えてもらう。
アンリエッタは瞳を閉じると、静かに皆に語りかけ始めた。
『トリステインの兵士達よ、私は女王アンリエッタ・ド・トリステインです。
私はみなに謝らねばなりません。
異国の兵を重んじ、自国の兵をないがしろにした事を、恥じねばなりません。
そして問います。始祖の御世から数えて六千年、その間我々、始祖の血と意思を継ぐものが殺し合い、いがみ合いを重ねてきたのはなんの為でしょう?
ハルケギニア人同士が、互いに血を流し実戦を経てきたのは、まさに今の、この戦いの為なのではないでしょうか。
あなたたちは今、父の、祖父の、家名に連なる全ての人の期待と、願いを背負って、この舞台に立っているのです。
手にある杖を見なさい。
今それを握っているのはあなただけではありません。これまでハルケギニアの地で戦い、魔法の研鑽を積み上げてきたあなたの祖先全てが、今共にその杖を握っているのです。
武器と鎧を見なさい。
それは単に一人のメイジが錬金しただけのものではありません。長い戦乱の歴史の中で、魔法を使えぬ者達が、己の血と命で研ぎ上げ、彫りぬいた牙なのです。
叩きつけてやりましょう。我らが積み上げ、研ぎ澄まし続けてきた力を。
遥か異国より訪れた彼らに、目に物見せてやるのです。
我らハルケギニア人の力を!』
アンリエッタは目を開いた。
誰もが声を出さずアンリエッタを見つめていた。
「女王陛下ばんざい!」
一人の男が拳を突き上げて、震える声を張り上げた。それはガリアとの折衝を担当していた、あの文官であった。
続くように声が上がり、やがて称揚の声は大きなうねりとなってトリステイン全軍を包み込んだ。遠くからは、獣の咆哮にすら聞こえたかもしれないほど、それは戦意に溢れていた。
アンリエッタは歓喜に身を震わせ、涙を必死で堪えながら、皆の前で毅然と立ち続けたのだった。
※※※
「ルイズ、貴女達には申し訳ないのですが……」
「分かっております陛下。裏方と召喚はお任せくださいませ」
何の不満もなく舞台裏に回ろうとするルイズ達に、アンリエッタは感謝した。トリステイン軍がこれまで通りの戦術で戦い、さらにはメルファリアの戦いを熟知した援軍が得られない以上、貴重な知識持ちであるルイズ達に前線行きを許可する訳にはいかなかったのだ。
早速、城砦の脇にあるクリスタル柱の前に、ルイズ達が座ってクリスタルを『掘り』始めている。
自分もこれくらいは手伝えますね、と歩み寄ろうとしたアンリエッタの向いている先で、一人の女性が突然立ち上がり杖を振り上げた。
「女王サマ、危ないわよ!」
振り下ろされた杖からファイアー・ボール<炎球>がアンリエッタに迫ってくる。その渦巻くオレンジ色の光のまぶしさに思わず目を閉じたアンリエッタは、自分のすぐ間近から発生した悲鳴に、驚いてまばたきをした。
熱気を感じそちらを見ると、ほんの数歩先に、服の端々を炎にまとわりつかれた少女が立っていた。アンリエッタが気付くと同時に、少女はこちらへ踏み込み、ぐるりと背を向けると、両手に握った何かを後ろ手に振るって来た。とっさに両腕で身を庇ったアンリエッタは、腕に痺れるような衝撃を感じながら、慌てて後ろに下がろうとしてそのまま尻餅をついてしまった。
追い討ちを覚悟したアンリエッタだったが、少女はなぜか、倒れたアンリエッタを警戒するようにして、一定の距離から近寄ろうとはしない。
そこへ、ピンク色の台風が怒鳴り込んできた。
「姫様に、さわんじゃ、ないわよおおおおお!」
一言目で二人の間に踏み込み、次の言葉で両手剣を振りかぶり、最後の大声と共に剣が真横に振り抜かれると同時に、ストームの呪文もかくやという竜巻が、少女を真後ろに吹き飛ばした。
即座に駆け込んできたナナ達と兵士達が、その少女を取り囲む。
「姫様お怪我は?」
よほど気が高ぶっているのか、ルイズは息も荒く尋ねてくる。アンリエッタは大丈夫ですと言いかけて、自分の両腕から滴り落ちている赤い液体を見て、声をなくした。服の、腕を覆う部分が切り裂かれて、じくじくと血の滲み出す赤い線が見えている。思い出したかのように訪れた痛みは、その赤い線に沿って生まれていた。
その光景を目にしたルイズが、口と目を開ききって、慌ててアンリエッタの前にしゃがみこんだ。
「ひ、ひめひめめめひめさま、けが、ち、ちが、ちが」
「落ち着いてくださいルイズ、私の系統を忘れたのですか?」
ルイズがあまりにも狼狽するお陰で、還って冷静になれたアンリエッタは、ヒーリング<癒し>を唱えて傷を治療した。
痛みが消えていくのを感じながら、アンリエッタは若干の違和感を感じていた。
「なぜでしょう、いつもより魔法の疲れが大きいような気がします」
腕の血をルイズに布でふき取って貰いながら、アンリエッタはヒーリングの呪文で生じた精神力の消費が、いつもの倍以上に感じられていた。
「それはおそらく、パワブレ<Power break>を受けたせいだと思われます。精神力への毒みたいなもので、数十秒くらいの間、少しずつ精神力を削られるんです」
それは……地味な効果ですね、とアンリエッタは感想を口にしたが、続くルイズの説明に肝を冷やした。メルファリアではメイジの精神力の溜まり方が違い、これを受けると、メイジはほぼ無力化されてしまうのだそうだ。
そのような毒がハルケギニアになくてよかったと思いながら立ち上がったアンリエッタは、さっきの襲撃者の少女はどうなったのかと、ルイズの向こうを見やった。もう撃退されたのか、少女の姿はない。そんな中、なぜかナナの声だけが、はっきりとアンリエッタには聞こえた。
いべんとだし、たぶんまだいっぱいくる
アンリエッタの目と鼻の先に、突然何者かが現れ腕を振り上げたのは、その声を聞いたまさにその時の事だった。
その時何が起こったのか、実のところアンリエッタには分からなかった。やや離れた位置から一部始終を目にしたグラモン元帥によると、その人物はアンリエッタの身を、さらに現れた二人の襲撃者から守ったとのことだった。
メイド服姿のその人物が腕を振り上げると、黒いもやが周囲に沸き起こり、空中の一人を叩き落とし、もう一人をのけぞらせたのだと言う。
アンリエッタに分かったのは、その人物が、なぜかそれだけははっきりと見えたおたまで、襲撃者の武器を弾き飛ばしたことだけだった。
「シエスタ、ナイス」
「光栄です、ミズ・ワルド」
親しげに言葉を交わして、ルイズと、おたまを構えたメイド服の少女が、アンリエッタを庇う。出遅れたアニエスら護衛達も、その周りを固めた。その前には襲撃者達が居て、さらにその外側を兵士とナナ達が囲んでいた。
多勢に無勢だとアンリエッタが思ったとおり、決着はすぐに着いた。
一人は誰かのゴーレムに盾で殴られ、ふらついたところに兵士達に殺到された。もう一人は、逃げ回りながらも魔法で傷を負い、ルイズの放ったエア・スピアー<風の槍>らしき魔法でその場に倒れた。
目に見える場所に敵が居なくなっても、今度は誰も気を抜こうとはしなかった。ルイズ達は周囲を見回しては、何かを確認しているようだったが、その真剣な表情にアンリエッタは問いかけの声をかける事が出来なかった。
「もう近くにはいないみたいね」
「ひとまずはね。でもまたきっと来るわよ、ほんとしつこくって嫌になっちゃうわ」
ルイズの言葉に髪を掻き上げたのは、褐色の肌に赤い髪の女性で、襲撃の最初に炎球の魔法でアンリエッタを救った人物であった。
確かルイズの友達で、王宮での模擬戦にも参加しており、名前も聞いた事があったはずだった。
「ありがとうございます、ミス――ツェルプストー。それに皆さんも。私一人では、最初の襲撃で命を落としていた事でしょう」
「お礼には及びませんわ、女王陛下。それにまだ終わってなどいません。きっとまた来ますわよ」
その言葉に、アンリエッタは口元を両手で押さえた。
姿を消す技が存在するとは聞いていたが、まさか白昼に、兵士と護衛に囲まれた要人を襲撃できるような、とんでもない物だとは思っていなかったのだ。それが何度も来るのでは、アンリエッタも自分の無事を信じる事はできなかった。
「ご安心下さい陛下。こちらのシエスタが、必ず陛下をお守りいたします」
「そ、そん、そんなななあのっ、わた、わたし、わたし、女王様を、お守り、す、するるす、なんててててて」
「大丈夫よシエスタ。あなたはとっても優秀よ、私が保証するわ」
そこだけ地面が激しく振動しているかの如く全身を震わせるシエスタの、両手を優しく握って、ルイズは微笑みかけた。
「ああ、私もそれは認めよう。私が一対一で二度と戦いたくない相手を挙げるならば、それは間違いなくシエスタだからな」
アニエスが男らしく頷いた。何を思い出しているのだろうか、その顔は苦い物を食べたように、しかめられていた。
聞けばシエスタというこのメイドの少女も、襲撃者と同じ技を身につけているという。その上、護衛の長を務めるアニエスの保障つきならば、今傍らに居て貰ってこれほど安心できる人物は、他にいないようにアンリエッタには思えた。
「私からもお願いしますわ。シエスタさん? どうか私を守っていただけないでしょうか」
ルイズの握っている上から、シエスタの手を取る。
シエスタは目をぐるぐると回して口から白い何かをぽやんと吐き出して、かくかくと首を縦に振ったのだった。
「でももう一人欲しいわね。短スカ一人じゃ、決定力に欠けるもの」
「僕が残ろう」
アンリエッタの前に進み出たワルドは、その場で片膝をついて低頭した。
「勿論、陛下がお許しになられれば、で御座いますが」
周囲の重臣と兵士達がざわめく。その中には、裏切り者、恥知らず、という言葉がいくつも混じっていたが、ワルド本人はただひたすら黙って頭を下げ、アンリエッタの決定を待っているようだった。
当然アンリエッタに否はないのだが、あまりにも出来過ぎた状況を不審にも思う。主君を身を挺して守り汚名をすすがんとする臣下、その嘆願を聞き入れ寛容さを示す女王、他の臣下は女王を称え、またかつての裏切り者を粗末には扱えなくなる。襲撃の件がなくとも、もとから自分の護衛につけるつもりであったのではと思うと、シナリオを書いた何者かのペン先が見えてくるような気がしてくる。
アンリエッタはふと思い付き、マザリーニとヴァリエール公を見やる。マザリーニは、陛下のご成長を真にお慶び申し上げまする、とでも言いそうな真面目くさった顔で頭を下げ、ヴァリエール公はただただ深く低頭したのであった。
どうやらこの脚本は、競作であったらしい。
「分かりました。ワルド卿、頼りにしていますよ」
「はっ。一命にかえましても」
そこへ伝令の兵が駆け込んでくる。前衛部隊が敵と接触、交戦を開始した、との事であった。
「しまった、開幕出遅れたわ」
ルイズ達が慌ててクリスタル柱に戻り、手持ちのクリスタル数を確認しあっている。
戦いの一手目は、敵に指されてしまったようであった。
※※※
「グラモン元帥、戦況はどうなのでしょうか?」
「正直なところ、厳しいですな。敵はやはり強い。前線の後ろに防衛用の陣地を作ってありますが、今の劣勢を考えると、完全に防御に回ったとしても守りきれるかどうか」
容易ではない状況に、アンリエッタは表情を硬くした。
「そのように差がつくなど、よもや彼らは我々と同じ人間ではないのでしょうか」
「いいえ、確かに不思議な技を使うようですが、敵が人間離れしているのは、主に戦術の部分です」
首をかしげるアンリエッタに、グラモン元帥は、まず軍隊の動きについて語った。極力専門用語を抜いた説明だったのでアンリエッタにも理解できたそれは、軍団にはきちんと前や後ろ、左翼や右翼があり、その役割は容易に入れ替わったりはしないという事だった。
つまりは後ろから殴りかかられたら、離れるなりして避けてから、逃げるか振り向くかして対応しなければならないという話だった。
ところが彼ら異国の兵士達は、北を攻めている状態で西が押されたら、それまで左翼を担っていた兵士達が前衛に、前衛を務めていた者が右翼へと即座に役目を変更し、突出した敵の横腹へと突っ込むのだという。
さっきの例で言えば、後ろから殴りかかられたら、後頭部に目が移動し、手足の関節を逆に曲げて反撃を始めた、というところだろうか。その想像の方がアンリエッタには衝撃的だったが、戦況が容易ならざる事態なのは理解ができた。
「あとは戦力差もございます。我々は戦場の端を通っている街道にも守備兵を配置していますが、どうやら敵は広い平野、今の主戦場に全ての兵力を投入しているようなのです」
ルイズが語った『領域』という概念によれば、より広い戦域を確保したほうが最終的に勝つのだという。時間的な制限はメルファリアのそれよりも遥かに長いらしいが、その言葉どおりであれば、広大な主戦場で押されているトリステイン側は、その意味でも不利な状況にあるのだとグラモン元帥は語った。
街道側も陣地を構築しながら、少しずつ前進はしているのだが、獲得した面積的には主戦場の比ではなかった。
「伝令。敵の攻勢激しく、前線は後退。陣地に入って防衛戦に移るとの事です」
来たか、とグラモン元帥は眉をしかめた。
時を同じくして、街道側からも、敵と遭遇したとの伝令が届く。
しかしその伝令には、奇妙な一文が続いていた。
「街道にて敵と遭遇。陣地に入って敵を撃退するも、敵は陣地を眺める位置で停止。しかし陣地構築の気配はなし」
「守る様子も無く、ただうろついているだけだと言うのか?」
「そうです。散発的に攻めてくるので陽動かとの意見も出ましたが、伏兵の気配もありませんでした」
伝令に、そのまま陣地内での防衛を伝えて、グラモン元帥は両腕を胸の前で組んだ。
何事か考えている様子だったが、その間も、アンリエッタを含めた全軍に、ルイズ達の連絡しあう声が聞こえてくる。
『なで』
『敵のレイスを見つけたわよ。ナイトを四人もはべらせて、うらやましいったらないわね。場所は主戦場よ』
『なあ、こちらはレイスを出さないのかい?』
『出したいけど、手が足りないの。とりあえず全員ナイトで出て、掘りはシエスタ達に任せましょう。という訳で馬でるわよ』
城砦の方向で光が瞬く。それが止むと、馬にまたがった巨大な騎士が、戦場の方向へ蹄の音を立てて駆け去っていった。
ルイズ達が何を言っているのかは分からなかったが、余裕がないことだけは確かだった。
そこへ主戦場からの伝令が駆け込んでくる。戦線崩壊を危惧してアンリエッタは身を硬くしたが、その伝達内容は、想像とは全くの逆だった。
「主戦場は防衛に成功。今も陣地内にて、敵の攻撃を跳ね返し続けています」
「防衛成功だと? では敵はどうなった、同じく後退して陣地に篭っているのか?」
主戦場の奥には、矢を放つ敵の塔が建設され、防衛のための陣地が構築されていたと、アンリエッタも聞いていた。
「いいえ。一度はそこまで後退したのですが、すぐにまた攻め寄せてきました。しかし陣形などはなく、各自ばらばらに。そして待ち受けていたこちらの攻撃で倒され兵力差が生まれると、また後退する。これをずっと繰り返しているのです」
アンリエッタは報告の指し示す意味がよく分からず首を捻ったが、グラモン元帥は、険しい目つきで何やら呆れ返っているようであった。
そこに、街道側の伝令が届く。その内容には、アンリエッタすらも唖然とさせられる事になった。
「街道側の敵、撤退しました。というよりも、主戦場へと移動した模様です。……我が軍の前には、敵兵は一人も居ません」
「馬鹿な、守りもせず持ち場をほったらかしなど。おそらく罠だろう、決して動かぬよう厳命せよ」
命令を伝えたグラモン元帥が、アンリエッタを振り返った。厳しい表情は変わらなかったが、どこかに、自分がさっき食べた物は果たして本当に食べ物だったのであろうか、とでも言う風に迷う様子が見て取れた。
「陛下、お許しいただけるならば、ヴァリエール公のご息女に、急ぎ尋ねたい事がございます」
「分かりました。直接ルイズに来てもらったほうがいい話のようですね」
グラモン元帥の判断を心から信頼しているアンリエッタは、即座に了承した。感謝を述べて深く頭を下げるグラモン元帥に頷きながら、全軍に届く言葉を通じてルイズに語りかける。
『ルイズ? 忙しいのは承知していますが、急いで尋ねたい事があります。本陣へと来てはもらえないでしょうか』
『分かりました陛下。瀕死だったので、調度いいです。直ちに参上いたします』
瀕死という言葉を聞いて息を飲んだアンリエッタが胸を抑えていると、不意に日の光が遮られた。何事かと見上げたアンリエッタは、逆光で光に輪郭を縁取られた、天駆ける白馬を目にしたのだった。
「おまたせいたしました陛下」
巨体に似合わぬ軽やかな蹄の音を鳴らして、馬が降り立つ。改めて騎士を見たアンリエッタは、その凄惨さに息を呑んだ。白と青で色分けられた鎧は砕け、盾には無数の矢が突き刺さり、槍はどのような邪悪を刺し貫いたのだろうか半ばから折れている。
兵士達が息を呑み、軍神を目にしたかのように騎士を振り仰いでいた。
『ナイト解除したわよ』
不意に騎士の巨体が消え、小さなルイズが現れる。その姿には怪我などなく、服もまるで新品同然であった。
「よく来てくれました、ルイズ」
気を取り直したアンリエッタが、改めて、グラモン元帥から質問があるのだと伝えた。グラモン元帥は主戦場と街道の状況をルイズに伝え、敵の不可解な動きについて説明を求めた。
ルイズはしばし口元に握った手を当てて考えているようだったが、ナナに相談してみます、といってなにやら小声で喋りだした。
うん、そう。これってやっぱりあれよね? うん、うん。あー、やっぱりそうなんだ、うん分かったわ。そっちはお願いね。
唖然とするアンリエッタとグラモン元帥をよそに、謎の会話を終えたルイズは、真面目な顔で二人に振り向いた。
「敵が防御に回ろうとしない理由が分かりました」
「やはりなにか罠あるのだろうか?」
「いえ、単につまらないからやらないだけです」
争いは、新たな局面を迎えようとしていた。