「炎雷覇と最強の炎術師の称号をかけて勝負ですわ、神凪綾乃!」
「はっ?」
アメリカより、一人の炎術師が来日した。
名前はキャサリン・マクドナルド。アメリカにおいて最高峰の炎術師の一族である。
その彼女が何ゆえ日本に来て、また綾乃に喧嘩を売ったのかは、先の言葉で片付けられる。
事の起こりは綾乃が友人二人とカラオケから帰宅しようと店を出た直後、彼女に声をかけられたのだ。
腰に手を当てて、いかにも私は凄いんだと言うように見せる彼女に綾乃はあんた誰? と問いかける。
「これは失礼。あまりにも不躾過ぎましたわね。自己紹介が遅れました。わたくしはキャサリン・マクドナルド。栄えあるマクドナルド家の名、よもや知らぬなどとは仰せになりはしないでしょうね?」
「あっ、あのファーストフード店の」
と言ったのは七瀬。
「えー、でもファーストフード店の人が綾乃ちゃんに喧嘩を売るのはおかしくない?」
とは由香里である。
「違うわよ。マクドナルドはマクドナルドでも、こっちの世界のマクドナルド。確かアメリカの炎術師の名門・・・・・・・のはず」
綾乃は若干、語尾を小さくしながら答える。ここ最近、橘霧香の指摘を受けていろいろと知識を増やすべく勉強していた。
以前、警視庁でバイトをする際、海外の名家の名前を霧香達が話していて、誰それと綾乃が発言したことで、霧香が物凄い危機感を覚えて勉強させていた。
霧香が作った、警視庁特殊資料室のマニュアルの中の業界基本用語集初級編を熟読していなければ、キャサリンに問われても本当に誰? と答えていただろう。
「ええ。その通りですわ」
満足そうに呟くキャサリンだが、その言葉には続きがあった。同時にスッと手を出してくる。しかしそれは握手などを求めるものではなく、明らかに何かを要求する類の物だった。
「何よ、その手は?」
「あら? 決まっていますわ。炎雷覇をわたくしに渡しなさいという意味ですわ」
「はぁっ!?」
「当然の要求ですわ。炎雷覇とはかの精霊王より与えられた最高最強の神器。それをこんな辺境の一族にいつまでも預けてなどいられません。それに相応しいのは、我がマクドナルド家において他なりませんわ」
「ふ、ふざけんじゃないわよ! いきなり来て、炎雷覇を渡せですって!?」
「ええ。そもそも今の神凪一族が所有していていいはずの物では、決してありませんわ」
キャサリンは侮蔑したかのように言い放つ。
「不正を働き、不祥事を起こし、内部から反乱を起こされただけでは飽き足らず、あまつさえ一族の中から妖魔を出す始末。こんな一族に至宝と言われる炎雷覇を預けていられると?」
「っ!」
綾乃はキャサリンの言葉に歯軋りする。彼女の言葉は間違っていない。以前ならばともかく、今の神凪にはかつてのような栄光は無い。その悉くが塵と消えうせた。
指摘されたことは全てが事実。それを言われてしまえば、反論など出来ようはずもない。
「だからこそ、わたくしが炎雷覇を貰い受けに来たと言うわけですわ。もちろん最強の炎術師の一族の称号も。もっとも、今の神凪にはそんな価値など欠片もないのですけど」
最強の炎術師の称号は未だに神凪が持っていることは間違いないが、それを打ち消してしまうだけのマイナス要素がありすぎた。
現状、この業界における神凪の名はタブーとまでは行かないが、凋落の一族といわれるようになっていた。千年の歴史も、古いだけのものと言うレッテルを貼られてしまった。
「あなたはご存知かしら? 炎雷覇獲得のために有力な炎術師の一族が動いていると言うことを」
初耳だった。炎雷覇を狙う輩など、今まで存在などしなかった。いや、いたにはいたが重悟や厳馬と言った化け物連中を知る世代が神凪一族への突撃を制止していたのだ。
彼らは国内だけではなく海外にまでその名を轟かせていた。全盛期の炎雷覇を持った重悟や神炎を纏う厳馬の姿を見ていれば、彼らと戦おうなどと思う思考など出るはずが無い。
しかし神凪は衰えた。重悟の引退。厳馬の負傷。風牙衆の反乱と追放。神凪一族内より発生した不祥事。
これだけの事が起きれば、当然神凪にちょっかいをかけようとする輩も出現するのは当たり前だ。
それを懸念して、国内では霧香や重悟が奔走していたのだが、さすがに海外にまで手を回す事が出来なかった。
そうしてキャサリンがやって来たと言うわけだ。
「そんな有象無象の連中に奪われるくらいならば、このわたくしとマクドナルド家が所有した方が遥かにマシ。いいえ、マクドナルド家以外には考えられませんわね」
マクドナルド家はまだ二百年程度の歴史しかないが、アメリカではトップクラスの術者の家系である。
その独自の技術体系で、他の炎術師の一族の追随を許さない。無論、単純な力では神凪宗家には劣るだろうが、神凪の分家でも彼らを侮ってかかることは出来ない。
「そういうわけですので、とっとと炎雷覇を渡していただきましょうか」
「・・・・・・・・・お断りするわ」
綾乃は一呼吸の後、はっきりと拒絶の言葉を口に出した。
「あら? わたくしの言葉の意味も理解できないほど愚かなのですか? あなた方が持つのは相応しくない。そう言っているのです」
「ええ、よーく理解してるし、あなたの言葉に反論も言えないわね。でもだからと言って、一族の至宝の神剣をハイどうぞって渡せると思ってるわけ?」
綾乃とて今の自分達がどんな立場にあるのか、またどれだけの事をしでかしたかのかをよく理解している。
精霊王の加護を受けているから何をしてもいいはずが無い。不正を働いていいはずが無い。他者を虐げていいはずが無い。
自分が炎雷覇を持つ資格があるとも綾乃は思っていなかった。否、思えなくなってしまっていた。
炎雷覇を持っていても何も出来なかった無力な自分。次期宗主と言う肩書きを持っていたにも関わらず、何も知らなかった自分。
身内を守ることも、大切な友人を守ることも満足に出来なかった。風牙衆の扱いや、彼らがどんな想いであったのかも知らなかった無知な自分。
和麻がいなければ、神凪一族は滅亡していたかもしれない。和麻がいなければ、自分は美琴を助ける事は出来なかっただろう。
そんな自分の馬鹿さ加減に嫌気がさしていた。強くなることを誓い、努力を続けてきた。
目の前の女の言葉がどれだけ正しくとも、これだけは譲れない。
最強の称号も、神凪という名声も、今は無きに等しい。でもこれだけは、炎雷覇だけはなくせない。神凪の象徴とか価値があるからとかではない。
これは自分の守るべきものであるから。炎雷覇の継承者として、決して手放してはいけないもの。
一族や友人すら守れなかった自分に炎雷覇という物が守れるのか。
いや、守り通さなければならない。それが炎雷覇継承者・神凪綾乃の使命なのだから。
「はぁ。仕方がありませんわね。わたくしとしてはできれば穏便に済ませたかったのですが………」
「じゃあどうするの? 力ずくで奪ってみる?」
「ええ。そうさせていただきますわ」
「でもちょっと待って」
「あら、この期に及んで怖気づきましたの?」
綾乃の言葉にキャサリンは見下したように言い放つ。
「んなわけないでしょ。こんな目立つところで戦えないわよ。それに炎術師は周囲に被害を及ぼしやすいんだから」
さんざん考えなしだの、猪だの馬鹿だのと言われ続けた綾乃も少しは成長したというか、状況を理解し、考えることを覚えたようだ。
綾乃は携帯電話を取出し、キャサリンにちょっと待っててと言う。
「あっ、橘警視? 綾乃だけど。ちょっと資料室の訓練所借りられないかしら。面倒なことになってこれからアメリカのマクドナルド家の人と戦わないといけなくなったの」
その言葉を聞いて、電話の向こうの霧香は言葉に詰まった。
『……ええと、綾乃ちゃん。どういうことかしら』
「どうもこうも、向こうがケンカ売ってきたのよ。神凪の最強の称号と炎雷覇を渡せって」
『………』
今度こそ電話の向こうで霧香は言葉を失った。おそらくはこめかみを指で押さえているのだろう。
『……綾乃ちゃん。お願いだから下手なことはしないでね』
「だからこうして電話してるんじゃないの。私だって今の状況は理解してるわよ」
今、自分が暴走して街中で騒ぎを起こせばどんな事態が待っているのか、それくらいわかっている。
神凪の先代宗主の不祥事に続き、次期宗主の不祥事。神凪を終焉させるには十分であろう。
『すぐに迎えを寄越すから、くれぐれも、いいわね、くれぐれも早まったマネはしないでね』
「心配しなくても私もそこまで馬鹿じゃないわよ」
『ええ、信用してるわ。でもお願いだから挑発に乗らないでね。絶対よ』
本当は全然、これっぽっちも信用してないだろうと綾乃は思ったが、口に出すのを何とか抑えた。
「ええ。わかってるからできる限り早く来て」
主に私が理性を保っていられる間に。そう思いながら携帯電話を切った。
「もうすぐ迎えが来るからそれまで待ってて」
「あらあら。臆病風に吹かれて援軍を呼んだのかと思いましたわ。まあ致し方ありませんわね。このわたくしが相手なのですから」
と迎えが来る間、キャサリンの言葉を聞きながら、何とか己を保つことができた。
ただ、あと一分でも迎えが来るのが遅ければ、おそらくは暴走していたであろうとはのちの綾乃の言葉であった。
綾乃たちがやってきたのは、人目につかない郊外のとある国有地。ここには資料室が術者の訓練に使う施設があった。
綾乃とキャサリンが戦う場所は周囲の被害を考慮して建物のないだだっ広い更地になった。
周囲にはギャラリーがいるが、それは資料室のメンバーとなぜかついてきた由香里と七瀬だった。
二人は綾乃ちゃんファイトと応援している。
それを見て、綾乃は少しだけ笑みを浮かべる。自分を応援してくれている友達がいる。そう思うだけで心が軽くなる。
「お待たせ。じゃあ始めましょうか」
炎雷覇を抜出し、綾乃はキャサリンと相対する。
「よろしくてよ。では見せて差し上げましょう。我がマクドナルド家の誇る最強の精霊獣を!」
ここに二人の炎術師が誇りをかけて戦いを開始しした。
場所は変わり、某所の和麻の隠れ家。
南の島での事件の後、和麻達は老師と一度別れて行動をする事になった。
霞雷汎は紅羽を鍛えると言い、中国に戻っていった。一ヵ月後に来いと言われて。
和麻としてはあそこには行きたくなかった。主に師兄とか師兄とか師兄とか、ついでに師兄とか。
帰ったら絶対玩具にされる。復讐で下界に赴く時は、目的のためとあっさりと通してくれたが、今度は逃がしてくれそうに無い。
「はぁ、最悪だぞ、おい」
「そんなに嫌なのですか、マスター? 今のマスターなら力ずくで何とかなるのでは?」
「いや、まあお前に虚空閃もあるから逃げられると思うし勝てるとも思うんだが、どうにもトラウマになってるのか、相対したくないんだよな」
天狗になっていた当時の和麻の体とプライドを文字通り粉々にした相手である。今ならば何をされたのかも理解できるし対処も出来るが・・・・・・・戦いたくない事には変わりない。
「でも行かないとダメだからな。今のうちに対策考えとくか」
と、出来る限りなんとかする方向で考える。ちなみにこのあと和麻が老師の下をたずねた際は、師兄の姿はなくホッとしたのだが、何か余計に嫌な予感がしたのは言うまでもない。
そしてその後に、日本で最悪の再会を果たす事になるのだが、これはまた別の話である。
「で、今回はどう暗躍するのですか?」
「ん、ああ。あの紅羽って奴の復讐のついでに俺は石蕗を潰そうかなと」
「まあ、マスターの人間生贄にする奴は死刑って考えからすればそうなるでしょうね」
「まあな。けど心配するな。仮にも日本のために生贄を出していた連中だ。俺も出来る限り穏便に済ませてやるつもりだ」
石蕗一族が生贄を捧げてきた理由は、日本と言う国と土地、そこに住むすべての人間の命、財産を守るためであった。
石蕗が生贄を捧げるには理由がある。それは彼らの守護する富士山に理由がある。
先にも紅羽が語った魔獣。それが富士には封印されている。
三百年前に発生したと言う富士の気の化身。ひとたび暴れまわれば、山は鳴動し、火山を爆発させ、マグマと噴煙を撒き散らせる。
それに鼓動するかのように、日本のあちこちで自然災害が発生するだろう。さらには富士山の噴火は首都圏の機能を完全に麻痺させる。
政治、経済などあらゆるものが一極集中している東京が機能を麻痺させれば、その被害は人的、経済的、様々な面から天文学的な損失が見込まれる。
だからこそ、人間を生贄にし続けても石蕗は魔獣を封印し続けなければならないのだ。
それに生贄も見ず知らずの他人ではなく、身内を捧げているし、周期は三十年に一度。
日本の全てと引き換えにと考えれば、これは仕方が無く、必要な犠牲と言えなくもない。石蕗はそのために存在しているのであり、その家に生まれたからにはその宿命を背負わされる。
必要悪、必要な犠牲。アルマゲストや狂信者のような魔術師や宗教家、人体実験を行う違法な科学者達に比べれば、何とまともであり、どれだけ必要とされることか。
しかしそんな事情など和麻にとって見れば知った事ではない。彼は自己中心的な男であり、気に食わなければ親もぶっ飛ばし、敵対した相手を皆殺しにするという性格破綻者なのだ。
いい笑顔で語る和麻だが、ウィル子には全然情けをかけてやるような感じには思えない。
おそらくこれはアレだ。殺しはしないが、死んだ方がマシだとか、さくっと殺された方が本人も周囲の人間も幸せだったと言うようなことをするのだろうと直感的に理解した。
尤もウィル子も精神的にガリガリと削るほうが好きなので異論は無い。
「でもマスター。石蕗に嫌がらせをするのはいいのですが、魔獣はどうするのですか? さすがに魔獣が解き放たれれば、被害がバカになりませんよ」
「ああ、そうだな。偉い事になるだろうな」
「一応、シミュレートしてみましたが、仮に怪獣映画に出てくる怪獣が出てきて、富士山が噴火したと仮定してみれば・・・・・・・・・。ああ、日本が完全に沈没しますね」
世界に名をとどろかせる経済大国の日本でも、富士山の噴火は致命傷である。経済は麻痺、流通はストップ。それに伴う混乱や社会的弱者、主に老人や病人などの多くは命の危険に立たされる。さらに政治にも問題は波及・・・・・・・。
「ウィル子達が集めた日本の資産は紙くずになりますね」
「その前に売り飛ばせばいいだろ。金は他の通貨に変えるとか」
「それはそうなのですが、今はドルもユーロも微妙ですからね。それにウィル子的には日本の技術が失われてしまうのは・・・・・・・。サブカルチャーもありますし」
漫画にゲームなど日本が誇るサブカルチャーの壊滅は痛い。他にも日本の技術がなくなるのも、ウィル子としては避けたかった。
「そこはほら。紅羽に頑張って魔獣を退治してもらおう。噴火も一度位なら問題ない。魔獣を倒して、石蕗にすぐに富士山を鎮めてもらって終わり。あとは魔獣復活の責任やら、不正を発覚させて追い落とせばいい。神凪みたいにあるだろ、そう言うの」
「それは調べてみないとわかりませんが、紅羽に倒せますか?」
「・・・・・・・・・・無理だろうな」
「いや、無理なんですか」
あっさりと言う和麻にウィル子はタラリと汗を流す。
「そりゃそうだろ。三百年前に大地の精霊王の加護を貰い受けて、それでも封印するしか出来なかった相手だぞ。老師のところとは言え、高々一年にも満たない期間修行した程度で倒せる相手なはずないだろ」
「でもマスターは短い期間の修行で、アーウィンを殺す力を得たんですよね?」
「そりゃな。俺は風の精霊王と契約してたのもあるからな。けどそれでも一年以上修行してようやくだ。それにあいつはまだ人間に近かったからな。だが魔獣は違う。聞いた話じゃ神話の八岐大蛇クラスらしいぞ」
「じゃあ絶対にダメじゃないですか」
ウィル子はどうするんだとばかりに頭を抱える。まさかこのご主人が身体を張るとは思えない。仮にマスターである和麻と自分が加わっても、勝てるかどうか微妙である。
「おいおい。何で俺がそんなめんどうな事をしないとダメなんだよ」
「そういうでしょうね、マスターは。じゃあどうするのですか?」
「決まってるだろ。他の連中に頑張ってもらう。主に日本の連中に」
その言葉にウィル子は首を傾げる。日本のほかの連中とはどういう意味だろうか。いや、なんとなくわかる。おそらくはまた方々にいろいろな問題を起こさせて、なし崩し的に利用するのだろう。
日本には優秀な家系が多い。戦闘能力や補佐的な能力も含めて、かなりの術者がひしめいている。国中の退魔組織を総動員すれば、確かに倒せるかもしれない。
「そのためには色々と準備だな。俺は直接手を出さないが、お膳立てはしてやるさ。京都の神凪と風牙衆との戦いの時みたいに」
「マスター。それ絶対に参戦フラグなのですよ」
「今度はそうならないようにするんだよ。お前にももっと役立ってもらうぞ」
和麻としてみれば、今回は本当に直接手を下すという真似をしたくないのだ。だからこその裏方。と言ってもかなりの労力をつぎ込むつもりではいた。
和麻にしてみれば一種の遊びで暇つぶしの娯楽である。される方はたまったものではないが、和麻の感覚からしてみればその程度なのである。
「はぁ。本当にマスターは人使いが荒いのですよ」
「お前、人じゃないだろ。だからいいんだよ」
「本当に横暴なのですよ!」
プンスカと怒るウィル子の姿に和麻は笑う。
「それよりもどうするか詳しく聞かせてほしいのですよ、マスター」
「ああ。まずは必要なものと必要な情報を集める。それと必要な相手に連絡だな」
そう言うと、和麻は懐から携帯を取り出す。相手の電話番号はすでに知っている。
これから電話する相手は彼が良く知る人物だから。
「ああ、もしもし。俺だけど。久しぶり。ちょっと前に言ってた約束、前倒しにしてもらって構わないか? ・・・・・・ああ、報酬の件もだけど、今日はちょっと頼みもあるから。そっちにとっても悪い話じゃないと思うぜ」
そういいながら、和麻は電話の相手としばらくの間、電話で話を続けるのだった。
そこは現世とは異なる場所であり空間。木製のテーブルがいくつも存在し、古今東西様々な書籍が所狭しと置かれ、その周囲にはそれを上回る数の本が棚に納められていた。
この空間の一角に漆黒のローブを身にまとった一人に男がいた。魔術師。人々は彼をそう呼ぶ。ここは彼の書斎兼研究室。彼は一枚の紙を眺めながら、何かを考えていた。
「ふむ。やはりこの件は私の手で行わなければならないか」
彼は魔術師達が好む文字を用いながら、己の推論を紙に書き込んでいく。
「富士に封じられた魔獣。実に興味深い。一体どれだけの力を持っているのか。私が見つけた龍と果たしてどちらが強いのか。またどれだけの事が起こるのか」
楽しげに彼は笑う。その様子は実験の結果を待ち望む研究者のようであった。
「龍を解き放つには時間がかかるが、富士の魔獣ならば今度行われる儀式を邪魔すればすぐにでも開放される」
男は机の上にあった暦が書かれた紙を見る。
「石蕗一族。日本の地術師の一族。その直系の未婚の娘が生贄に捧げられる」
彼はすでに石蕗家の情報を集めていた。そこに書かれた石蕗家直系の名前。石蕗紅羽と石蕗真由美。今度の儀式で生贄になるのは妹である石蕗真由美。
彼女を手中に収める。あるいは亡き者にすれば自分の目的は遂行される。
「いや、亡き者にするにはいささか惜しい素材かもしれない。この後の龍を蘇らせる際に役にたつかも知れぬからな」
暗躍が始まる。それがどのような結果をもたらすか、彼は知らないまま。
魔術師にして水術師でもある男、ラーン。彼の不幸はここから始まっていた。
日本・富士の樹海。
樹海の中にある石蕗一族の邸宅。そこには一族のものが集められていた。用件は来年の頭に行われる儀式についてと、先ごろ海外に仕事に向かい行方不明になった紅羽についてだった。
紅羽はあの後、石蕗一族に連絡を入れぬまま、霞雷汎と共に中国に渡った。彼女の頭には魔獣への復讐しかなかった。
石蕗も石蕗で任務の失敗の責任を全て彼女に背負わせ、ついでに厄介者を排除できたと実の父である巌は思っていた。そこには娘に対しての感情は一切無く、ただ淡々と事務的に事を運ぶだけだった。
紅羽は未だに行方不明とはしているが、このまま戻ってこなくていいと巌は考えていた。もし帰ってきても任務失敗の責任で処分する。現地の惨状から考えて、おそらくは生きていないだろうし、これだけの被害を未然に防げなかったのだ。紅羽の責任は重い。
しかし石蕗にとって、そんな問題は重要ではない。今、彼らが直面している問題は一族の存在に関わる重要問題なのだ。
「巌様。儀式の件なのですが・・・・・・・・」
「例の件か。どうなっておる?」
「はっ。やはり未だに完成にはこぎつけておりません。海外の錬金術師の手を借りようとはしていますが、やはり色よい返事は」
「探求者である錬金術師が自らの技術を他所の一族に渡しはせぬか」
巌は顔をこわばらせる。忌々しいと限りである。此度の儀式は失敗は許されない。だがそのために最愛の娘である真由美が犠牲になるのだけは許容できない。
一族の長として問題はあるが、それでも娘の命を散らすことだけは出来なかった。
だからこそ、巌は別の方法を考えて真由美を救おうとした。
「致し方ない。あれの情報はそろっているな?」
「えっ、あっ、はい。しかし本当に成されるのですか?」
「もう手段を選ぶ余裕はない」
巌の言葉に側近達は何も思わないでもなかったが、首座の言葉は絶対である。逆らう事はできない。
ゆえに彼らはある物を強奪する事になる。妖精郷の秘法を。
様々な思惑が絡まり、物語の幕が上がる。
あとがき
キングクリムゾン! 綾乃編途中カット!
ふぅ。やっちまったぜ。そしてお待たせしました。職場環境の激変で、死にかけた陰陽師です。何とかゆっくりとでも更新していきますので。
そして次回はいよいよ三巻に突入します。導入編から変えるつもりです。
では次回がいつになるかわかりませんがお楽しみに。