「で、マスター的にはこれからどう動くんですか?」
宗主との会合を終え、彼を返した後、ウィル子は和麻にこれからどう動くかを仰いだ。
当初の予定では、神凪家に協力を要請し、来月に迫った儀式まで紅羽に準備をさせ、満月の晩が近づいた時に和麻自身もある程度行動を起こす予定だった。
と言っても直接協力することはせず、富士の近くに移動し、事の成り行きを眺めながら間接的な支援を行う予定だった。
「さぁて、どうするかな」
和麻は煙草を吹かせながら、どうしたものかと考える。ここまでの準備はうまくいっていた。和麻のもくろみ通り、神凪の協力を取り付け、戦力増強もできた。
宗主の出来上がり次第では、本当に当代最高の炎術師が二人も揃う。単純戦闘力だけで見れば、虚空閃を持たない状態の聖痕発動状態の和麻並みの使い手とそれ以上の使い手がそろうのだ。
戦闘向けではない風術師とはいえ、超越者の代行者たる契約者に匹敵、あるいはそれ以上の使い手。これ以上の戦力は望めないだろう。
紅羽の方も意地でも目的達成のために、やるべきことをやりきるだろう。仮にできないようならば、一応手助けはしてやろう。こちらも下手に魔獣を甦らせて資産が紙くずになるのも嫌だし、生贄なんて胸糞悪い儀式は金輪際、起こさせるつもりもない。
ほかにも物理的な援護方法は考えている。主に自衛隊とか在日米軍とか。
「自衛隊と在日米軍の方はすでに掌握済みです」
にひひと笑うウィル子。偽の命令書をはじめ、ほかには遠距離からのミサイル攻撃やらさ戦車部隊やら、航空戦力やら。ほかにも総理や政府高官、官僚への脅迫材料も現在絶賛準備中。野党議員を黙らせる材料はもうすでに準備が終えている。
人的被害の可能性もあるので、出来れば遠距離ミサイルなどの方がいいのだが、いざとなればこの国のために頑張ってもらうつもりだった。
「何つうか、どうにも嫌な予感しかしないんだよな」
沈痛な面持ちで和麻は言う。ウィル子としてもそれには全面的に同意する。
「確かにこれまでの経験上、あまりいい展開になる気がしないですね」
「宗主との話し合いの時は余裕を見せたが、また兵衛とかあのミハエルの時みたいに悪い方向に転がる気がするからな」
「面倒ですが、ある程度積極的に動きますか? 今回は失敗されるとこっちも経済的な面で不利益を被りますからね」
「ああ。せっかくの日本の資産が紙くずになるのとかは、さすがに嫌だからな」
「ほかにも世界第三位の経済大国が傾けば世界経済も同様に傾きます。一応、ウィル子とマスターならば、その状況でもある程度は問題ないですが、色々と手に入れたコネとか資産とか資金の大半が消えますからね」
「どうしてこう、厄介なことばかり起こるかな」
ぼやきながらも、和麻は今後を有利に進めるためこれからどう動くかをその頭脳で考え出す。
「まずは生贄にされるって言うクローンだが、これは石蕗が探し出すだろう。それこそ血眼になってな」
「特殊資料室にも依頼はいっているみたいですね。プライドよりも実益を取ったみたいですね。まあクローンの件は隠してるみたいですが」
「そっちは任せるか。俺らは仮にその事故が何者かの襲撃だった場合、その黒幕を探してつぶすぞ。儀式の最中に余計な茶々を入れられても困る」
「アルマゲストみたいな連中なら厄介ですからね」
二人が壊滅させたアルマゲスト。和麻曰く、最悪の愉快犯と彼をして、そこまで言わせるほどの連中。
もっともアルマゲストは盟主たるアーウィン・レスザールをはじめ、評議会議長・ヴェルンハルト・ローデス以外の上位者百以上は皆殺しにしたし、それ以下も一流、二流どころは死亡しており、組織としても二度と活動できないほど、徹底的に壊滅させたので、それ関係の連中ではないだろう。
「まったくだ。とはいえ、魔術師である限り連中と同じ思考を持つ奴がいないとは限らないしな」
「はぁ。中々楽はできませんね」
「アルマゲストの残党を狩ってた時は、ここまで苦労しなかったのにな。ああ、そう言えば、ヴェルンハルトの事忘れてたな」
今思い出したように、そう言えばそんな奴もいたなと言う感覚で、和麻は不倶戴天の敵の名前を口にする。
「一応監視は続けていましたが、彼が表だって活動した形跡はないですね。彼名義の口座はすべて消滅させましたし、今まで偽名で使っていた口座も資産も奪い尽くしましたからね。ただウィル子もここ最近はあまり力を入れていませんでしたから、もしかしたらどこかで暗躍している可能性も否めません」
ウィル子と言えど万能でもなければ、全能でもない。電脳世界では限りなくそれに近いが、それでも限界は当然存在する。
以前のアルマゲスト壊滅戦の折は、和麻がその足りない部分を補ったからこそ、短期間にアルマゲストを壊滅に追いやることができた。
ヴェルンハルトがかつて使っていた名や偽名を使用していればともかく、新しい経歴を作り出し、新たな協力者を得ていた場合、ウィル子でもその痕跡を片手間で見つけ出すのは難しい。
「俺もすっかり忘れてたわ。風牙衆事件の時に探すって言ってたけど、なんやかんやで色々あったからな。放置するのも厄介だが、今はこの件だ。むしろ俺としてはこの件に絡んでくれてれば後腐れないんだけどな」
「一石二鳥ですからね」
「だろ? あ~あ、ヴェルンハルトが絡んでくれてねぇかな」
この時、地球上のどこかでかつて最高の魔術師の一人として数えられた男は、人知れず背筋を凍らせたとか。
ちなみに今回の件には彼は関与していないが、ヴェルンハルトの死亡フラグは、これ以上ないほどに立っていた。
「とにかく面倒だが動くぞ。後手に回ってから後悔もしたくない」
「了解なのですよ」
「さて、どこから探すかな。やっぱり事故現場か?」
「ここからだと少し遠いですね。車を回してきます。数時間もあればつけるでしょう」
「二、三日あればたどり着けるか。出来ればすぐに見つかって欲しいけどな」
風と電子の主従も動き出す。だが彼らが動き出すには少々、遅かった。もう少しだけ、早ければ。あるいは最初から本腰を入れて動いていれば、後の最悪の事態を引き起こすことだけは避けられただろう。
しかしこの時、彼らもまだこの事件を甘く見ていた。他人事であり、早々に事態は急変しないだろうと。
だが彼らの思惑とは裏腹に、事件は急展開を迎えることになる。
時間は遡る。
日本を象徴する霊峰富士にその男はいた。
そのある場所に、ローブを着た一人の男。魔術師ラーンである。
現状石蕗はあのクローンを探し出すために、大多数の術師を派遣している。
本来は富士守護を行う一族だが、今はかなり手薄であった。魔術師であり、水術師であるラーンならば、この状況ならば富士山に秘密裏に侵入し、何かしらの工作を取り行うことは難しくはなかった。
「石蕗のクローンも魅力的だが、三百年前に封じられた富士の魔獣も魅力的だ」
彼は富士山の山頂を見上げながら、様々な考えを巡らせていた。
富士の魔獣を解き放つ。ラーンは普通の感性の人間ならばまず考えないことを考えていた。
紅羽のように復讐心からでも、和麻のように生贄がむかつくからでもない。
ただの知的好奇心からくる考えだった。
目的があるからではない。魔獣の復活はただの手段なのだ。それにより生じるであろう人的、経済的被害にも興味はない。
ただ見たいだけ、知りたいだけ。どうなるのかを。その結果、もたらされる惨事など関心の埒外。
「龍の方も手を出そうとしたが、あるいはこれを使えば、面倒なことをしなくてもよいかもしれんな」
彼はすでに違う存在にも目をつけていた。すでに彼はそれを手中に収めている。いや、それは少し違うかもしれない。あれは手中に収められるものでは当然ない。
「制御の問題はあるが、リンクできればあるいは……。ふむ、龍に使おうとしていたリンクが役に立つか。いや、しかし……」
幾度も思考の海に沈みながら、彼は考える。三百年前、封じるしかできなかった富士の魔獣。その力は果たしてあの龍とどちらが上なのか。
「どちらも力の塊であると言う点では同質。いや、原初の時代からあった龍の方が上か。本来なら精霊を狂わせる必要があれば、富士の魔獣ならば図らずとも精霊達を狂わせられるか」
ならば方針は決まった。だがそれでも足りないものがある。富士の魔獣は龍とは違い暴れまわる破壊の化身。個我こそ無いが、自我と破壊衝動が存在する。
それを制御するにはやはりいかに優れた魔術師とはいえ、ラーンでさえも難しい。制御を完璧に行い、制御下に置くにはやはり……。
「あの少女だけではなく、石蕗の娘も必要か。忙しくなりそうだ」
そう言いながら、彼は手持ちの配下を動かす。龍を解放するために用意していた手ごま。さらには自らの能力を駆使して配下を送り込む。
「さあ、踊ってくれ。私のために」
彼の野望が解き放たれる。
キーっと甲高い音が周囲に響き渡る。車が急ブレーキをかける音だ。
「勇士!?」
いきなりの事態に後部座席に座っていた真由美が声を上げる。
「は、ハンドルが! それにタイヤも!」
車は蛇行を続けながら、道を走り続ける。今は交通量の少ない道だから良いものの、対向車やほかに車がいれば大事故を起こしかねない。
「勇士、外に出るわ。二人とも続きなさい」
「お姉さま!?」
「紅羽様!?」
二人の声を無視して、紅羽はドアを開けてそのまま飛び出した。一緒に真由美も連れ出す。
勇士に関しては位置的にどうしようもない。自己責任で何とかしてもらおう。
走行中の車から飛び降りるなど正気の沙汰ではないが、映画ではよくあることだし、術者である紅羽からしてみればそれは何ら問題ではない。
彼女はそのまま、何事もなかったかのように地面に降りる。重力制御能力は現在、ほとんど使えない。元々は魔獣の力だったのだ。魔獣の力を排除したのならば、能力を失うのはむしろ必然だろう。
それでも未だに若干使えることに、紅羽は若干の不安と大きな苛立ちを覚えていた。
とはいえ、できる事と言えば自分の周辺の重力を少しだけ変化させ程度。それも数秒も維持できない。
それでもこういう時は便利だ。と言っても地術師としての力を回復させた紅羽にしてみれば、車から飛び降りてもそこまでダメージを追わないだろう。真由美も、勇士にしても同じだ。
勇士も飛び降りたことで、車はさらに暴走し、ガードレールに激突して爆発を起こした。
「お姉さま、一体……」
「呆けている時間は無いわよ。お客様よ」
「えっ?」
紅羽は燃え盛る車を見ながら、忌々しそうに呟いていた。炎の下。正確に言えば炎上する車の下から何かが這い出してきた。液体、のようなものがうねうねと蠢いている。
「ご無事ですか、お嬢様!? 紅羽様も」
無事だった勇士もこちらに合流した。なんとなくおまけ扱いされて癪に触ったりもしたが、紅羽も感情を表に出すような真似はしない。それよりも今は目の前の案件だ。
(どこの誰かしら。この私の邪魔をしてくれて)
怒りに表情を歪め、紅羽は車から這いよる何かを睨む。
「妖魔?」
「みたいね」
アメーバのように蠢いていたものはただの水だった。しかしそれが妖魔だった。水は形を変え、蛇のような形を取る。
さらには周囲に水を溢れさせ、その中に不気味な黒い物体を浮き上がらせる。
「あれって髪?」
「中々不気味ね」
うねうねと動く黒髪。軽くホラーであるが、このようなことはこの業界では日常茶飯事であるので、嫌悪感はあっても別段驚きはしない。
無数の花びらのように大量に広がる髪の毛。まるで花のおしべ、めしべのように腕だけが無数に突き出している。
数はすでに十を超え、さらに増殖している。
「ここ数日、雨だったから水が多いのね。水の系統の妖魔にとってみれば、いい状態のようね」
「相変わらずお姉さまはいつも沈着冷静ね」
「当然でしょ? でもこれで確定ね。あの事件は事故じゃなく何者かの襲撃」
「紅羽様。ではこいつらはその何者かの手引き?」
「そう考えるのが妥当でしょ? まさか偶然なんて思っているの? あまりにもタイミングが良すぎるわ」
紅羽は油断なく妖魔と対峙しながらも、勇士と会話を続ける。同時に気配を探り、ほかに何かがいないかを確認する。
地術師としての能力をフルに使い、周囲を索敵する。だが残念ながら、紅羽は才能があっても地術師としては実の所、超一流どころか一流に届くかどうかの領域だった。
この半年で修行は行った。しかし如何せん時間が足りなさすぎた。
地術師として、また道士として、魔獣を倒すために色々なことに手を伸ばさなければならなかった。
だから実力は上げていたが、まだ地術師としては完成されてはいなかった。
和麻のように復讐のために風術を磨き、仙術をベースにすれば話は違ったが、それで和麻ほどの向上は望めなかっただろう。
と言うよりも和麻が異常すぎる。あれは完全に規格外だ。
(周囲数百メートルには気配なし。でも空中に浮かれていれば意味は無し。異空間にいる場合も同様。それにしても敵の狙いは何かしら)
石蕗の宗家の人間を襲う理由。この程度の妖魔ならば足止めにはなっても、自分達三人を倒すには足りないだろう。
(勇士一人でも倒せないことはないでしょうしね。時間稼ぎかしら。となると敵はすでにクローンの居場所を突き止めているのかしらね)
「お嬢様、紅羽様。ここは俺が」
勇士は前に出ると二人を庇うように構える。
「いいわ、勇士。私の腕を煩わせないようにね」
「はい、お嬢様!」
(相変わらずの忠犬ぶりだこと。羨ましいと思うのも、少し癪ね)
勇士と真由美に軽く嫉妬しながら、紅羽はこの程度ならば問題ないと考えながら、同時に周囲の警戒を怠らない。奇襲されでもしたらたまったものではない。
それでもまだ紅羽は甘かったと言うべきだろう。否、かつての強大な力を失ってしまったが故の弊害。のちに、紅羽は後悔することになる。魔獣しか見えていなかった己を。
「はああっ!」
勇士の気合の入った声とともに大地の槍が妖魔に襲い掛かった。
「……あれ?」
煉は自分が横になっているのに気が付いた。いつの間にか眠ってしまったようだ。
寝ぼけ眼をぱちぱちとすると……。
「!?」
自分のすぐ至近距離で寝息を立てている少女の姿を視界にとらえる。ドクンと昨日同様心臓が跳ね上がった。
(ち、近い!?)
十センチも離れていない距離に少女の顔がある。少女の息遣いが耳に届き、煉の心臓はバクバクとはちさけんばかりに大きくなっている。
(あ、あれ? 昨日あれからどうしたっけ? 確か話をしてて、ええと、それから)
何があったか必死に考える。
(これは決して、ああ、僕は何を。いや、何もなかったよね)
ぐるぐると思考は回るが、十二歳のお子様の煉君は激しく混乱した。
その様子を隠れてみている朧は実に楽しそうだ。
昨日の夜はお互いに話し疲れて眠ってしまったのだ。これがあと五年くらい後で和麻のような性格ならば、おいしく頂かれていただろうが、さすがに何もあるはずがない。
と言うよりも何かあればおかしいだろう。
顔を真っ赤にして混乱していた煉だが、よく眠る少女はどこか安心したような寝顔だった。
思わず、綺麗だと思ってしまった。
「……煉」
「あっ」
少女の寝言だろうか。煉の名前を呼んだ。
(僕も、君の名前が知りたいな)
名もわからない少女。どこの誰なのかもわからない記憶喪失の少女。
(今日には迎えが来るから、病院に行けば大丈夫かな)
すっと煉は起き上がり、少女を起こさないように注意しながら移動する。
少し離れた場所で息を整える。そして演武の型を取る。ここに来た目的を思い出す。強くなるために、自分はここに来た。
母を失い、自分の未熟さを嫌と言うほど味わった。強くなりたかった。父のように、兄のように。
圧倒的な力と格を有する二人。自分が二人のように強ければ母を目の前で殺されずに済んだはずだ。
(もっと僕に力があれば!)
感情に反応し、精霊が騒ぎ出す。いけないと煉はかぶりを振る。こんな風に感情を暴走させるのはまだまだ未熟な証拠だ。
「煉、どうかしたの?」
不意に、煉に声がかけられる。振り返るとどこか不安げな顔をした少女がいた。
「あっ、起こしちゃった?」
「ううん。ごめんなさい。目が覚めたら煉がいなかったから」
あっと小さな声を漏らす。
「ごめん。君を一人にして」
考えてみれば少々迂闊だった。自分が誰かもわからない少女が目を覚ました時、いるはずの人がいなかったのだ。不安にもなる。
「あっ、違うの。その、確かに煉がいなくて怖くなったけど……」
少女の言葉に煉は自分の迂闊さを恥じる。
「その、煉。さっきすごく怖い顔してたから」
「怖い顔?」
「うん。なんか煉らしくないみたいだった。その、会って一日も経ってないのに、こんなこと言う、変、だよね」
顔を逸らしながら、少女は煉に言う。彼女自身、自分が変なことを言っていると思ったのだろう。
「そんなことないよ。その、ありがとう」
罰の悪そうな顔で煉は謝罪の言葉を述べる。煉は笑顔を浮かべ、少女を見る。少女も嬉しそうに笑顔を浮かべる。
だがそんな二人を、悪意が襲う。それは突然、海から襲来した。
「煉!?」
少女の叫びが木霊した。
時間は少し進み、石蕗家本家屋敷。
現在石蕗家は騒然としていた。
中でも巌は顔面を蒼白とさせながらも、顔を怒りで赤く染めていた。
「何が起こっておる!? 真由美と連絡が取れんだと!」
「はっ。同様に紅羽様とも連絡が……」
「あやつのことなどどうでもよい! いや、奴が付いていながら!」
忌々しげに叫ぶが、決して事態が好転することはない。
「資料室は!」
「今連絡を取り合っております。いましばらくのお時間を」
「ええい、どいつもこいつも!」
巌は残る部下に指示を出す。儀式まで一月をきった今、こんなことをしている暇はない。特に今回はクローンを使うため、さらに入念な準備が必要になる。
だと言うのに、儀式の祭主が行方不明。さらには愛娘の真由美まで。
「!?」
大地が悲鳴を上げた。
地の精霊が騒ぎ出した。狂騒状態と言っても過言ではない。長年、地の精霊とともにあり続ける石蕗家にしても前代未聞の出来事だ。
さらに地震まで発生した。震度4クラスの大きさ。極端に大きくはないが、小さくもない。
だがそれが二度、三度続けば話も変わる。
(いや、そんなまさか……)
巌は屋敷を駆ける。富士がさらに見える場所まで。
「バカな……。まさか、そんなことが」
巌は目を見開き、あり得ないと体を振るわせる。富士山には目立った変化はない。噴火もなければ、巨大な煙が上がってもいない。
しかし最強の地術師たる巌には理解できた。魔獣の封印が……。
「魔獣の封印が、解けた」
へたりと巌はその場に膝をついた。
日本の霊峰・富士が生み出した魔獣・是怨。
三百年の時を経て、現在に蘇る。
「思った以上にうまく進んだ」
闇の中、異空間に浮かぶ神殿の中で、ラーンはほくそ笑んでいた。
彼の目の前の何もない空間。闇に支配されたそこに黒い触手のようなものに絡みつかれた二人の人間がいた。
瓜二つの顔だが、片方はまだ幼い少女でもう一人はその少女を数年成長させた様子だった。
姉妹と言うよりも双子に近いようにも感じられる。
二人とも意識を失っているのか、ぐったりとしている。
石蕗真由美とそのクローン。名前はあゆみ。この名も適当に与えられたものだった。
「よもやこうもあっさりと欲しい物が手に入るとは」
ラーンは己の幸運に感謝した。不意を突いたとはいえ、石蕗と神凪の守護する相手をこうもあっさりと手中に収めることができたのだから。
「まさかクローンに神凪の少年がついていたのは予想外だが、まあこのように無事に我が下に収めることができた。龍とのリンクのため準備していた術式がこのような形で役に立つとは」
よく見れば真由美とあゆみの顔や腕には何らかの術式と思われる魔術模様が浮かび上がり、発光を続けていた。時折、うめき声とも思える声が二人から洩れる。
「この二人を通して魔獣を抑え、その隙に私が制御する。まあこの二人の命尽きるまでだから、そう長くは持たないだろうが、龍の復活までは持つだろう」
ラーンが行っていることは、簡易的な封印の儀式とも言うべきものだろう。真由美とあゆみの二人を防波堤にして、ラーンは魔獣の力を掌握しようとした。
強大な力を有する魔獣を完全に制御するなどラーンにはできないし、彼自身、出来るとも思っていなかった。
彼がしたかったのは一時的な制御に過ぎない。真由美とあゆみを使い、魔獣の力を一時的に抑え、さらには自分にその余波が来ないようにする。
その隙に魔獣の力を一時的にでも制御し、次の目的である、原初からの力の塊である龍と呼ばれる存在を目覚めさせるために使う。
この龍は四大精霊により、この世界とは違う異界に封印されていた。封印は強固であり、力づくで破壊することはできなかった。
破るには封印を施している精霊達を狂わすことだけ。最初は別の方法を考えていたが、富士の魔獣でも代用が可能と考え、行動に移した。
今のところ順調である。魔獣の力も何とか制御下に置き始めた。破壊衝動の塊である是怨を押さえつけるのは骨が折れるが、さすがは石蕗直系と言ったところか。
魔獣の力をその命を賭け、十二分に押さえつけてくれている。
そう、その直系が『三人』も手の内にあるのだから。
「よもや私の予想以上にありがたい」
真由美とあゆみ。二人から離れた場所に彼女はいた。同じように黒い触手に絡め取られ、身動きが取れないまま、忌々しそうにラーンを睨む。
「まさか、この私がこんな奴に」
「そう言うな、石蕗紅羽。よもやそなたまで私の目的の礎となってくれようとは」
「くっ……」
「やめておきたまえ。地面とつながりを断たれた地術師は無力。とはいえ、魔獣を抑えて貰わねばならないため、完全に繋がりを絶ったわけではないが、その封印は私の自慢でね。そうやすやすと力を使えるとは思わないことだ。これでも魔術師の端くれなものでね」
何とか抵抗しようと試みるが、紅羽は一切の力が封じられていた。地術も、気も、重力制御も。頼みの綱の宝貝さえも……。
「しかし面白い物を持っている。地術師が道士や仙人の持つ宝貝を持つとは」
「返しなさい。それは……」
「残念ながらそなたの願いは聞き入れられない。私の目的を優先させてもらおう。石蕗の直系三人がかりだ。いかに魔獣と言えども、三人がかりならばかなりの力を抑えられ、一時的には従えられるだろう」
狂気が満ちる。それは始まりに過ぎなかった。
「さあ、始めようか。魔獣は目を覚ました。残るは龍だ」
狂気の魔術師がその悪意をまき散らす。
あとがき
急展開ですが、ご了承ください。とっととこの三巻終わらせたい(ボソッ
紅羽さん、いいとこ無し。まあ囚われのお姫様を頑張ってください。
真由美には勇士、あゆみには煉。紅羽には……。
とにかく頑張れ。