「巌様……」
石蕗の本邸にて、今この屋敷にいる術者すべてが集合していた。
石蕗巌は座敷の上座で頭を抱えていた。魔獣の復活。さらには勇士からの報告によって、事態はさらに深刻になっていた。
真由美、紅羽の誘拐である。
連絡が遅くなったのは、勇士も謎の敵にやられていたからである。不意を突かれた。敵の攻撃で、体を何か所も貫かれた。その結果、勇士は大きなダメージを負った。死んでいないのがおかしくない程の重傷。地術師でなければ、確実に死んでいたほどであった。
紅羽も、真由美も抵抗らしい抵抗をできずに敗北した。
真由美はともかく、紅羽までもなすすべなく攫われたとの報告は、一族を震撼させるのには十分だった。
彼女は巌に次ぎ実力者。真由美でさえも、二人には遠く及ばない。その紅羽が攫われた。
しかしながら、今の紅羽は二十数年間培ってきた異能を喪失しているため、その戦闘能力を大きく下げているのだが、それを石蕗が知ることはない。
もう一年もあれば、かつての力に近い状態になっただろうが、圧倒的に時間が足りなかった。戦闘用の宝貝もほとんど所有していなかったのも問題だろう。
紅羽自身、まさかいきなりこんな事態になるなど予想もしていなかったのだから当然だろう。
水を使った空間転移と思われる奇襲。地術師である彼らならば、大地に接している水ならば、感知できたのだが、あいにくと突然降り出した雨でその察知が遅れてしまった。
だがそんなことは今はどうでもいい。
「なぜだ、なぜこんなことに……」
打つ手がないと、巌は顔を青くしている。仮に二人が攫われていなくても、事態はさほど好転してはいなかっただろう。
もしここにクローンがいれば、何とか強行して儀式を行ったのだが、封印が解けている今、その効果は甚だ疑問である。
真由美、クローン、そして紅羽に地術師としての力があれば、あるいは三人がかりで魔獣を封じることが可能かもしれないのだが……。
「わしは、わしはどうすればいいのだ」
両手で頭を抱え何をすればいいと考えるが、よい方法が思い浮かぶはずもない。
魔獣はなぜか今のところ大人しいが、いつ富士山から姿を現し破壊の限りを尽くすかわかったものではない。
暴れだせば止めるすべはない。石蕗一族を総動員しようとも、魔獣を足止めできるかどうかも怪しいものだ。
「巌様。魔獣が動き出す前に何とか封印を」
「バカが! 今さら何ができる!?」
部下の一人が意見を出すが、それを巌は一蹴した。
「すでに封印は解かれた! 貴様らとて地術師ならばすでに気が付いていよう! まだ封印の一部が残っているのか、奴は動き出しておらんが、今のこの状況で何ができる!」
喚き散らす巌に誰も何も言わない。分家の人間は、ここに真由美がいれば真由美を生贄に使うべきだと発言していたかもしれない。
もし魔獣が暴れだせば、どのみち自分達は破滅だ。魔獣を封印し続けることが石蕗の使命なのに、それをできずに解き放たれたとなれば、石蕗はお取りつぶしだ。政府から重い処分が下る。いや、生き残れるかどうかも怪しい。
「ではどうなされるのですか!?」
「うるさい! クローンも真由美もおらん! わしが生贄になったところで意味などない! 封印の儀式はできんのだ!」
石蕗の儀式は三百年前に魔獣を封じた、精霊王と契約を交わしとされる当時無名だった石蕗を率いた幼い少女の血を色濃く受け継ぐ、直系の未婚の娘でしかその効力を多き発揮することはできない。
巌がいくら命を賭けようとも、真由美やクローンの代わりになどなれない。分家も同様である。
単純に倒すなどと言う選択肢など存在しない。富士の魔獣はこの国に現れた最大最強の魔性だった。伍するものを探すならば、神話に登場する八岐大蛇のような人ではどうにもならない存在を引き合いに出すしかない。
「もはや人では、どうすることもできん……」
もはやこの国は終わりだと、嘆くしかできない。悲壮感が漂う。当然だろう。神話級の魔獣を相手に、彼ら一流の地術師の一族とはいえ、未だに人間の範疇に留まる術者には荷が重すぎた。特に分家などはものの役にも立たない。
最強の地術師たる巌がすでに諦めている中、分家が先頭に立って戦おうと言う勇気を出せるものなどない。
だが彼らは知っているはずだ。この国には神話に名を連ねるような化け物のような術者がいると言うことを。
そしてそんな術者たちがすでに動き始めていることを、彼らはまだ、知らない。
石蕗が魔獣の封印が解けたことを知ったのと同時刻、彼らや魔獣を解き放ったラーン以外に、富士の変化に気が付いた者達がいた。
「……おかしいですよ、マスター」
都内を車で移動中のウィル子は、自分のパソコンに送られてくる、富士山のデータを眺めながら、ポツリとつぶやいた。
今日はウィル子がデータ収集のために助手席に座っていた。運転は和麻の仕事だった。
「何がだ?」
「先ほどから、急に富士山の観測データに変化が。それにしてもおかしいです。微動な振動が続いているうえに、監視衛星からの情報ではマグマの温度も上昇傾向にあります」
「なんつうか、本当に嫌な予感しかしないな」
「はいなのですよ。すでにほかの詳細なデータを収集中です」
「紅羽に一度連絡を入れてみろ。もしかすればあいつなら何か知ってるかもしれないぞ」
「わかりました。……でないですね」
携帯で紅羽に連絡を取ろうとしたが、電源が入っていないか電波の届かないところに
いると言う音声が流れるだけだった。
「位置情報は? あいつの携帯にも細工はしてたんだろ?」
「当然ですよ。万が一の場合を考えて、電源が入っていなくても位置情報は確認できます」
今度はパソコンを操作しながら、ウィル子は紅羽が現在、どこにいるのかを確認する。
「マスター。紅羽の携帯の位置情報が表示されません」
「あっ? なんだそりゃ」
携帯電話は電波を常に飛ばしているので、その情報はパソコンを使えばウィル子ならばすぐに拾い出せる。また電源を落としていようとも、万が一の時のために仕込んでおいたシステムで位置情報をつかめるようにしていた。
これは神凪一族をはじめ、警視庁特殊資料室や石蕗も同様だ。
「考えられるのは二つ。紅羽の携帯が物理的に破壊されているのか、この世界にはないのか……」
「亜空間、異界……。まあ呼び方はいろいろあるが、そっちにいる場合か」
「はい。さすがにウィル子もそんなところまで逆探知することはできませんので」
「けどあいつはそんな能力も宝貝もないはずだ。あー、余計に嫌な予感しかしない」
アクセルを踏む足に力を込める。
「石蕗から頂ける情報をありったけ頂け。携帯の方も盗聴しておけよ」
「了解です。……マスター、富士山の方、変化ありました。体感できる地震が増えています。しかも数分に一回にペースです」
「おいおい。まさか富士の魔獣の封印が解けたとか言うんじゃないよな」
魔獣を倒すために封印は最終的に解く予定ではあったが、それは早くても二週間以上先の話だ。
紅羽の準備、こちらの準備、神凪の準備、そのいずれも完全に整ってはいない。
「当初予定していたのとは全然違います。それに紅羽の方も準備できていないはずです」
「ああ、そうだな。と言うことはあの二人で魔獣を相手にしてもらわないとダメなわけか」
「こんな状況でもマスターは参戦する気はないのですね」
「当たり前だろ。さすがに神話級の化け物相手に戦いたくねぇ。あの二人ならきっと何とかしてくれるって、たぶん」
「たぶんなんですね」
「そりゃそうだろ。……けどこりゃ万が一の場合を考えた方がいいな」
「どの万が一ですか? 二人が負けるパターンですか?」
「それもあるが、ああ、くそ」
ぼやきながら頭をかく。参戦しないとは言ったものの、最悪の場合、自分も力を貸さなければならない状況に陥ることは十分にあり得る。
伝承では八岐大蛇に匹敵するとさえ言われる、神話級の魔性。コントラクターと互角に戦う炎術師二人係なら、三百年前の石蕗よりも確実に勝率は上だろう。
ただし魔獣の特性を考えた場合、さすがのあの二人でもかなり厳しい。無限に近い再生能力さえなく、ただ強大であると言うだけならば、あの二人に任せ切るのだが。
「本当に状況次第ではマスターも手助けしなければならないかもしれませんね」
「ったく。面倒事を避けるつもりが、自分から首を突っ込むとかバカみたいだぞ」
「マスターはどうにも動乱の星の下に生まれていますからね。平穏無事な人生はある意味無理なのでは?」
「いやなこと言うなよ。はぁ、ほんと平穏無事が恋しいぞ」
ため息をつきながら、和麻はできる限りポディティブに考えることにしようと頭を振る。
「ウィル子。宗主、親父、それと綾乃の位置はどこだ?」
「神凪重悟、神凪厳馬、それと綾乃ですか? 前二人はともかくなんで綾乃なのですか? 戦力にはなり得ませんよ」
ウィル子の疑問は尤もだし、和麻も綾乃が戦力になるなど考えていない。
「確かにあいつは戦力外だ。だがあいつは便利なもん持ってるだろ?」
和麻の言葉にウィル子もなるほどと相槌を打つ。
「炎雷覇、ですね」
「そう言う事だ。炎雷覇を綾乃が持っていても対して戦力にならないが、宗主か親父が持てば話は変わる」
和麻が虚空閃を持つ。それと同等、あるいは炎術師ならばさらにその上。神器の強大さを誰よりも知るウィル子はそれは心強いと思う。
あの神凪厳馬は聖痕を発動させた和麻と互角に戦った。その上の実力者の重悟。
どちらが炎雷覇を持つにしろ、あの南の島での聖痕を発動させ、神器を持った和麻のような、まさに鬼神のごとき強さを見せてくれるだろう。
「位置情報出ました。神凪重悟、厳馬は神凪本邸。綾乃は警視庁にいます」
「ちっ、同じところにいろよな。まあ宗主と親父が一緒にいるのは好都合だ。おい、お前は宗主たちを迎えに行け。で、富士山に向かうぞ」
「万が一魔獣の封印が解けていた場合ですね」
「この二人で勝てなかったらもう勝ち目はないからな。俺が思いつく限り、老師にでも出張ってきてもらう以外にない」
ここで老師に連絡を入れ、紅羽の件を伝えて出張ってきてもらおうとかと考えたが。
『めんどう。自分達の不始末ぐらい、自分達でしろ』
と言われそうだ。弟子の面倒くらい見ろとか、南の島で協力したでしょとか言ったところで
『お前の復讐のために修行つけてやっただろ。これも修行のうちだ。ここでどうにかなるならそれまでの事』
と切って捨てるだろう。基本的に現世の事には極力関わりを持たない仙人の上に、自由奔放で自分勝手な人物だ。手を貸すなど絶対にしないだろうと、自分もことは棚上げにして和麻は思った。
実際老師は和麻と違い、日本がどうなろうが知ったことではないし、世界経済の行方にも興味などないのだ。つまり使えない利用できるとも思えない。
利用するつもりが、こっちが使われるのが落ちだ。
とにかく魔獣に対する対処方法は分かっているのだ。あとはそれを実行できるかどうか。
(魔獣を地面から切り離して、二人に焼き尽くしてもらう。あとは残った破片を俺が消し飛ばせば……)
あまりしたくはないが最悪、和麻自身、直接的に手伝わないといけないと考えていた。予定が狂い過ぎた。紅羽と連絡がつかない以上、彼女を戦力に仮定することはできない。
紅羽の地脈に対する細工がないとなると、状況はかなり厳しい。
「あのバカが。今度会ったら覚えてろ」
「うわー。紅羽も悲惨ですね」
「あいつが悪いんだろうが。つうか兄弟子は絶対だろ?」
「……なんか嫌なフラグを自分から立ててませんか?」
「………………」
「いや、何か言ってくださいよ」
無言になる和麻をウィル子は突っ込むが、なにか嫌な考えが浮かんだのだろう。
「さあて、とっとと宗主と親父と合流して終わらせるぞ」
「はぐらかしましたね。はぁ。ではウィル子は先に神凪に向かいます。ネットを使えばすぐなので。パソコンお願いします」
「ああ。綾乃の方は任せておけ。とっととつれて来る」
「つれて来るんですか?」
「飛行場までだ。そこで宗主か厳馬に炎雷覇を渡させて、そのまま富士山まで行く」
「では横田基地ですね。輸送機の手配はウィル子にお任せなのですよ。落ちぶれたとはいえ、神凪の名とウィル子の力をもってすれば、航空自衛隊を動かすのも難しくはないのです」
「便利だよな。まあ本音はこっちの手の内を出したくはないが、時間もないからな」
「時間さえあれば自前で用意できますが、今回は準備が間に合いそうにないですからね」
前回の流也の時は自前で用意してきたが、今回は自衛隊のお世話になるとしよう。偽造身分証は用意できているし、軍人はNEED NOT TO KNOWのように知る必要のないことと言えば追及も少ない。
「ではマスター。お先に。説明の方はウィル子の方でしておきます。綾乃の方はお任せします」
「またあとでな」
言うと、パッとウィル子はその場から姿を消した。ネット回線を使い、そのまま移動したのだ。衛星通信などの高速回線を使えば、かなり瞬間移動とは言えないまでも、日本国内ならばそれに近い速さで移動できる。海外でもものの数秒で移動することが可能だろう。技術進歩万歳である。
「さて。綾乃は警視庁か。さっさとつれて来るか」
車のハンドルを切り、和麻は急ぎ警視庁に向かった。
警視庁の一室で綾乃とキャサリンは待ちぼうけを食らっていた。することがないのである。炎術師の仕事は単純明快な戦闘に特化している。探し物をするのは不得意も良い所だ。
資料室の見鬼系の術者や風牙衆があわただしく動き回っている中、この二人はまったくもってすることがない。
ぶっちゃけ暇であった。
「ああ、もう暇ですわね。このわたくしがこんなところで余暇を過ごすなど」
もともと耐え性の低いキャサリンが悪態をつくが、綾乃はもうそれは何回目よとため息をつく。
「仕方がないでしょ。あたし達は炎術師であって、探し物を見つけられる能力は無いし、敵もいるかどうかも分からないんじゃ、何もできないでしょ」
「そんなことはあなたに言われなくてもわかっていますわ」
(じゃあ言わないでしょ)
はぁとまたため息。ため息をつくと幸せが逃げていくと言うが、しかし綾乃としてもそろそろ何らかの進展がないかと思ってしまうのも致し方がない。
(そう言えば煉は今頃加倉島かな。修行、うまくいっているかな)
と、実の弟のようにかわいがっている年下の少年を思い出す。最近成長著しい弟分。気を抜けば自分を追い越してしまうのではないかと、若干の焦りを覚えてはいる。
それでもまだ炎雷覇を持った自分には及ばない。だが炎雷覇がなければ……。
(まさかあたしよりも強くなっているってことはないわよね?)
不意にそんな感情が浮かぶ。それはないと断言できない。何せ煉の兄である和麻は、無能と言う烙印を押されながらも、たった四年で神凪現役最強の術者である厳馬を打倒すほどの成長を遂げて帰ってきたのだ。
(和麻か。あれ以来、会ってないわね。今頃、どこで何をしてるのかな)
最後に会ったのは、あの久我透事件の時。圧倒的な力で久我透を消滅させた。和麻の力を見たのは三回。実際に本気を出したのを見るのは二回だが、そのどちらも自分には想像も使いないほど上の領域だった。
神凪最強の厳馬や父である重悟並み。いや、下手をすればその上を行っているかもしれない。
(たった四年であそこまで強くなるなんて反則よ。でも……あたしも四年あればあそこまで強くなれるのかな)
自分の手を少しだけ強く握る。強くなりたい。自分は弱い。それをこの半年で嫌と言うほど実感した。
何もできない自分は嫌だ。ゲホウとの戦いの時は、何とか和麻のための時間稼ぎを行うことができた。だがウィル子と協力してのそれも一分間である。
久我透の時は何もできなかった。煉も協力したとはいえ、実際は和麻一人ですべてを終わらせた。
あの後、和麻は自分に目もくれないで去ってしまった。なぜだろう。それがたまらなく悔しかった。自分など、路傍の石であるかのように。
(あいつも、こんな気持ちだったのかな)
四年前の、神凪和麻であった時の和麻も今の綾乃と同じ気持であったのかもしれない。
自分に目もくれない男。神凪で、いや、術者の世界で自分に目もくれない人間と言うのはまったくと言って皆無だった。
その名を知れば、何らかの感情を綾乃に向けた。尊敬、崇拝、切望、嫉妬……。
様々な感情であったが、和麻のような態度を取る存在は、綾乃にとってみれば初めてだったかもしれない。
あの時、久我透の時の和麻の目。自分を侮蔑しているようだった。実際、大口をたたいて久我透になす術もなく敗れていればそうだろう。
「強くなりたいな」
天井を見上げながら、ポツリとそんなことを呟く。
「そりゃ愁傷な心掛けだが、まだまだ弱いだろ、お前」
そんな折、綾乃の呟きに答える声が返ってきた。はっとなって声の方を見ると、そこには一人の男が立っていた。
「よう。久しぶりだな、綾乃」
「へっ、えっ、か、和麻!?」
いきなりの和麻の出現に、綾乃は慌てふためいた。信じられないと言うような顔をする。これは自分が見ている幻かとさえ思ってしまった。
当然だ。この半年近く姿も見せず、噂も聞かなかった男がいきなり現れた。それもここは警視庁の一室なのだ。街中でふらりと遭遇したのとはわけが違う。
「な、なんであんたがここにいるのよ!?」
「説明してる時間がないから後だ。いいからついてこい」
綾乃の手をつかみ、そのままつかつかと窓際の方まで引っ張っていく。
「ちょっと! 何してるのよ! 待ちなさいよ!」
「うるさいぞ、お前。良いからさっさと来い。時間がないって言ってるだろ」
めんどくさそうに言う和麻に、綾乃は声を張り上げる。ついでに前にもこんな風に無理やり連れ去られたことがあったと、半年ほど前の事件を思い出しかなり不機嫌になった。
「お待ちなさい! あなた何者ですの!? ここを警視庁特殊資料室の待機場所を知っての事ですの!?」
と、今度はキャサリンが声を張り上げた。いきなり見知らぬ人物が現れて、綾乃を連れて行こうとしているのだから声を張り上げるのも無理はないだろう。
だが和麻はそのまま手にスプレーのようなものを取出し、シューっと地面に向けて噴き出した。
「へにゃ……」
どさりとキャサリンの体が地面に崩れ落ちた。
「きゃ、キャサリン!?」
「心配するなって。催眠ガスだから。数時間もあれば目が覚める」
和麻は地面にガスを流し、それを風を操りキャサリンの方へと流した。いきなりの不意打ちであり、和麻の緻密にして凄まじい速さの風の行使により、キャサリンは何の抵抗もできずにガスを吸い込んだ。
風術師と言うのは本当に対人戦闘には便利だと和麻は改めて思った。致死性のガスを使えば、この場合すでに終わっている。
自分達には絶対にガスが届かないように、風の結界も張っているので室内に置いてはまさに極悪な戦法である。
「お前も眠らせてもいいけど、それだとお前が起きるまで炎雷覇が取り出せないからな」
「炎雷覇? あんたいったい何しようってのよ」
色々聞きたいことがあるが、ここで抵抗しても無意味だと綾乃は悟る。もし和麻がその気なら、自分はすでに意識を刈り取られている。
騒ぎを起こしても、この男相手に人数をそろえても無意味。かえって被害を増やすことになりかねない。
そうなればさらに面倒なことになりかねない。
「わかったわ。ついていくから事情を教えて」
「なるほど。ちょっとは成長してるみたいだな。俺としても面倒が少なくて助かる」
和麻もこのやり取りで、綾乃がこの半年で少しは猪から成長しているのだと感じた。
「じゃあいくぞ」
外が見える窓に手をかけ、思いっきり窓を全開にした。
「えっとここ結構高い階なんだけど」
「風術師にはそんなもの関係ないぞ。前もそうだっただろうが」
「協力しなきゃ落とすって脅したわよね、大阪では」
思い出して腹が立ってきた。
「どっちみちあれはお前らの不始末だっただろうが。俺は巻き込まれた被害者だ」
会話を続けながら、和麻は綾乃とともに窓から風を纏って空を舞う。
「で、今回もあたしを巻き込むわけ?」
「お前は今回いらない。欲しいのは炎雷覇だ」
バッサリと綾乃の言葉を切り裂いた。
「神凪の秘宝を奪うつもり? それなら、あいにくだけど徹底的に抵抗するわよ」
精霊の気配が増し、今すぐにでも強力な炎を召喚できるような体制を取る。
「学習能力があるのかないのか。お前、ここで騒げば大阪での二の舞だぞ」
嘲るように言う和麻の言葉に、綾乃は言葉を紡ぐ。
「……なんで炎雷覇が必要なのよ」
行動を起こすことはやめ、綾乃は和麻の真意を探るように言葉を選ぶ。と言っても、和麻が本当の理由を言う保証はないし、嘘を言う可能性だって高い。むしろ後者の方が可能性としては高いだろう。
「単純な戦力強化。ちょっと流也や風牙衆の神以上に厄介な化け物と戦わなくちゃいけない状況になった。だから炎雷覇を持ってもよわっちいお前よりも、もっと強い奴に炎雷覇を持ってもらって頑張ってもらおうってことだ」
よわっちいと言われ、綾乃は悔しさに顔を歪める。反論したい。自分もこの半年修行して強くなった。そう言いたい。
だが言えない。言えるはずがない。この半年での成長など、この男の前ではほとんど変わらないだろう。
以前、炎雷覇を持った状態で厳馬に試合形式で戦いを挑んだことがあった。しかし結果は惨敗。いや、相手にもならなかった。厳馬は神炎を使うこともなく、一歩も動かないまま綾乃を完封した。炎雷覇と言う増幅器があり、精霊の制御能力をコントラクターに準じる程に引き上げる。ゆえに神器を持った相手に対して、同じ系統の術者が戦う場合は、かなりのハンデを有することになる。だが厳馬はそれをものともしなかった。
これには理由がある。それは神凪の血の影響である。炎雷覇は神凪一族と千年の長きを共に歩み続けてきた。頼通の時代は死蔵されてはいたものの、千年間も同族継承を続け、その血になじんでいる。
神凪の血はそれだけ炎雷覇に馴染み、神凪以外の炎術師の一族が炎雷覇を持ったとしても長い習熟期間をかけなければ使いこなせない程であった。
その神凪の血を色濃く引く厳馬の意思と精霊への干渉能力は、歴代でも最高クラス。
炎雷覇は正式継承者である綾乃を認めてはいるものの、一族の血を引く厳馬において、他の一族ほど強引に制御を奪うことをできないでいた。同族以外の炎術師ならば、精霊獣などの例外がないことはないまでも、ほとんどの制御を奪うことは可能であるのだが。
仮に綾乃がもう少し実力を上げれば、厳馬とてそこまで余裕でを持てなかっただろうが、如何せん実力が離れすぎていた。
厳馬もあの事件以降、己の不甲斐なさを痛感し、さらに和麻との戦いの敗北が、厳馬の限界をさらに引き上げた。また一つ、限界の壁を乗り越えたのである。
全盛期はすでに過ぎたと思われていた厳馬であるが、ここにきてさらなる成長を遂げるあたり、本当に神凪の血を引く直系は化け物と思われる。
今の厳馬ならば、半年前の和麻にならば五割以上の勝率を得ることができるだろう。
とにかく、綾乃は厳馬に敗北した。自分の弱さをさらに思い知らされる羽目になった。
相手が悪すぎるのだが、それを綾乃は自分の未熟ゆえと考える。
「神炎も出せない、炎雷覇も使いこなせていない奴よりも、強い奴が神凪一族にいるだろ」
「……厳馬叔父様に炎雷覇を使ってもらうつもり?」
「どっちが使うかは知らんが、その方が戦力としては上等だ。カードは多いに越したことはないが、弱いカードはいらん」
「あ、あたしだってこの半年で少しは!」
綾乃は反論しようと声を上げる。自分でもわかっている。弱いのは。和麻から見れば足手まといだと言うことは。
でもなぜか反論したかった。この男に弱いと思われ続けるのが嫌だった。
「猫の手はいらねぇ。そう言うのは親父に一矢報いるくらいになってから言え。今度の相手はゲホウよりも上だ。あの時みたいに火事場の馬鹿力が出ない限り、お前じゃ話にもならない」
だが和麻は無情にも言い放つ。そこには気遣いもお世辞も何もない。ただ淡々と事実だけを述べる。
「今回、お前は何もしなくていい。ただ炎雷覇を渡して大人しくしてろ」
綾乃は顔を和麻から背け、今にも泣きそうな表情を浮かべる。心なしか、涙があふれ出しそうになる。
もっと反論しろ。この男に何か言え。いつもの自分はどうした。こんなのアタシじゃない。神凪綾乃じゃない。
心の中では必死に叫ぶが、声に、言葉にすることができない。それは負け犬の遠吠えでしかないと理解しているから。
いくら口で言おうとも、この男は一切耳を貸すことがないと気付いているから。
歯がゆく、苦しく、悔しい。
(どうして、どうしてこんなにあたしは弱いのよ!)
苦悩する少女の内心を一切歯牙にもかけず、和麻は東京の空を飛び続ける。
そして目的の合流地点に到達する。
「遅かったですね、マスター」
和麻を出迎えたのは、いつもとは違うスーツに身を包んだウィル子だった。横田基地の正門。そこに彼女はいた。胸には偽名が記入された身分証が掲げられていた。
「悪いな。で、二人は?」
「すでに中で待機してもらっています。司令部とのやり取りも終わり、上の方からの許可も下りています」
「書類の方は?」
「こちらが内閣総理大臣の印の押されたものです」
和麻はウィル子から受け取った書類を目を通す。ウィル子は事前に準備を進め、内閣からの正式要請として、富士まで自衛隊機を飛ばす命令書を出させていた。
搭乗要員は多少こちらで改ざんしたが、それ以外は正式なものだ。
「魔獣が復活した可能性が高いと言う情報と、前もって作っておいたコネを使って準備させました。まあこれくらいは簡単でしたね」
「ただ人を富士山まで送る程度だ。政治家が多少圧力をかければすぐに動けるからな。よくやった」
「にひひひ。ところで後ろの綾乃はなんであんなに沈んでるんですか?」
不意に和麻の後ろにいた綾乃をウィル子は見る。いつもの活発な少女の姿は見る影もなく、精神的に気落ちしているが手に取るようにわかる。
「マスターも人が悪いですね。いつもの嫌がらせですか?」
「バカ言うな。俺がそんなことするかよ。おい、いつまでそうしてるんだ。とっとと行くぞ。何度も言ってるが時間がないんだよ」
和麻に促され、綾乃は基地の中にともに入っていく。身分証はすでに準備済みだったのか、あっさりと基地の中に案内された。
目的の場所は基地の飛行場。そこにはすでに二人の男がいた。神凪厳馬と神凪重悟。
綾乃は二人の姿を見て驚愕した。いや、二人がいたことに驚いたのではない。それも驚きはあったが、父である重悟の服装だ。
それはもう、重悟が二度と着ることがないと思われていた現役時代に来ていた正装。
代々神凪一族宗主に受け継がれてきたとされ、一族の紋を背中に刺繍された漆黒の和装。
炎の精霊の加護を受け、特殊な霊的防御を綾乃の制服以上に施された、炎雷覇に次ぐ、神凪一族最高の礼装。
「お、お父様?」
「来たか、綾乃。和麻も済まなかった。手間をかける」
「いいぜ、別にこれくらい」
何でもないと言う風に、和麻は答えた。
「な、なんでお父様がその服を? まさかお父様まで戦うの?」
いぶかしげに尋ねる綾乃に重悟はそうだと答える。
「で、でもお父様は足を失ってもう戦える体じゃ」
先の風牙衆の反乱でも重悟は何とか戦場に赴いたが、それでも片足を失った代償は大きく、本来の戦闘能力を十分に発揮することはかなわなかった。綾乃の心配ももっともだ。
「いや、もうそれは心配ない。お前にも黙っていたことだが、私の失った足は元通りになっている」
「…………はい?」
重悟の言葉に綾乃は父が一瞬何を言っているのかわからなかった。足が元に戻っている? それは何の冗談だ。
「詳しくは言えん。と言うよりも、私も何がどうやって元に戻ったのかは知らされておらんのでな。ある人物の伝手で私は足を取り戻すことができた」
「そしてこの数か月、私とともにリハビリに励んでいた。かつてほどではないが、それに近い力は取り戻している」
捕捉するように厳馬が言うと、重悟は苦笑いをする。
「まったく。厳馬よ、お前は一体どこまで上に行く。お前がどんどん先に行くから、私の中の燻っていた力への渇望がさらに沸いたではないか」
「昔は私がお前にその気持ちを抱いていた。まあもう私の先にはいかせぬがな。和麻にも、もう二度とは負けぬ」
強い口調で言う厳馬に和麻はその言葉を鼻で笑った。
「俺に二度も負けた奴が言うじゃねぇか。じゃあ頑張って魔獣を倒してくれ。それくらいしてくれないと、俺への借りは返せねぇぞ」
「お前に言われるまでもない。貴様こそ、いつまでも調子に乗っているな。その慢心と油断、いつか足元をすくわれるぞ」
「ふん。俺のこれは油断や慢心じゃねぇ。これはな、余裕って言うんだよ。どこかの自称現役最強炎術師とか言う負け犬と違ってな」
「ふん、ならばここでその天狗の鼻をへし折ってくれる」
「リベンジマッチか? 二度あることは三度あるって言うがな」
「口では何とでも言えるな」
「その言葉、そっくりそっちに返すぞ」
なぜか一触即発の事態になっていた。
「やめぬか、二人とも。今はそんなことをしている場合ではないであろう。それに厳馬よ、和麻ばかり気を取られていれば、即座に私がお前の足元を掬うぞ。私とて、いつまでもお前に負け続けるのは嫌だからな。待っておれ、すぐに追いつき、そして追い抜こう」
負けず嫌いばかりなのか、誰もがさらに強くなると言いあう。蚊帳の外の綾乃は、あたしも強くなりたいとさらに強く願った。
「あのー、早くしないとまずいんじゃないですかね」
そんな中、ウィル子一人は早くしてほしいなと、そんなやり取りを眺め続けるのであった。