唖然。呆然。
今の和麻の状態を現すとこれに尽きるだろう。
神凪重悟と神凪厳馬。この二人の実力は理解しているつもりだった。
厳馬の力をその身を持って知ったのだ。その上の実力であり、炎雷覇を持った重悟の力もわかったつもりだったが、所詮は分かっていたつもりでしかなかったようだ。
(……化け物かよ)
自分の事を棚に上げて、和麻は魔獣を完全消滅させた二人を見やる。かなりの距離があり、風を使わなかければ姿を見ることはできないが、和麻ならばはっきりと姿を捉えることができた。
魔獣を消滅させた後、和麻の風で地面へと降り立った二人は地面に倒れこみ、肩で息をしているが、それでも死にそうな状態ではなかった。
確かにもう紙一枚燃やす余力もないだろう。体力も精神力も消耗し、常人並みの状態ではあろう。
しかしそれも仕方がない。二人は神話に登場するような伝説の化け物を消滅させたのだから。
和麻としてはあの二人でも仕留めきれない可能性を考えていた。万が一の場合は、こちらも黄金の風やウィル子に用意させた戦術核に匹敵する火力を動員し魔獣を滅ぼそうと考えていた。
だがふたを開けてみれば戦いと呼べるものさえ起らなかった。瞬殺である。
確かに魔獣は二人に気が付いていなかった。魔獣自身もまだ本調子ではなかった。
完璧な奇襲からの最高の一撃であった。
それでも……。
「なんつうか、拍子抜けもいいとこだろ、これ」
風で周囲を調べ、魔獣の残滓がないことを確認した和麻が呆れたように呟く。
「ええと、マスターはこれを期待してたんじゃないのですか? いや、さすがのウィル子もこれは無いと思いますが。綾乃なんて固まってますよ」
横を見ると口をポカンと開けたままの綾乃がいる。綾乃も遠巻きながら、魔獣の強さを肌で感じていた。
あれに本当に勝てるのか。綾乃は内心では勝てないと考えていたのかもしれない。
だが実際は違った。
重悟と厳馬の強さ、力は綾乃の理解の範疇を超えていた。
遠いとは思っていたが、これほどとは思っていなかった。
(あれが、お父様と叔父様の力……)
同じ炎術師であるがために、綾乃は否応なく理解した。理解してしまった。
綾乃も一流と呼ばれる炎術師だ。和麻との再会やゲホウなどの戦いを経て、綾乃も成長していた。
今ならばかつては足元にも及ばなかったあの二人に、少しは近づけたのではないかと思っていたが、それが思い上がりなのだと思い知らされた。
実際、綾乃はかなりの速さで成長している。半年前よりも確実に強くなり、炎術師としてみればトップクラスの実力者であるのは疑いようがない。
それでも比べる相手が悪すぎた。
すでに完成されていたはずの最強クラスの炎術師が、和麻の影響でさらに限界を超えて強くなったのだ。
すでに厳馬と重悟は全盛期に迫る、あるいは超える勢いで成長していた。綾乃との差が広まるのは致し方がないのかもしれない。
和麻でさえ、あの二人に対して畏れ(おそれ)を抱いているのだから。
「遠い。遠すぎるよ……」
ポツリと漏れる弱音。そんな綾乃に向かい、和麻はデコピンをかましてやった。
「いたっ! な、何するのよ」
「いつまでアホヅラさらしてんだ、お前」
「あ、アホヅラって」
「口を大きく開けてボーっとしてる時点でアホヅラだろ」
何言ってんだ、こいつと言う風に和麻は肩をすくめる。
その様子に綾乃はムカッとして眉を吊り上げる。
「まあ予想以上だったな、宗主も親父も。俺は楽で来てよかったけど」
「ほんと。今回は依然と違って準備が無駄になりましたが、こちらへの被害もありませんでしたし、ウィル子達が苦労しなくてすんで万々歳ですね」
「まったくだ。いつもこれくらい神凪さんには頑張ってもらいたいもんだ」
「ほんとですね~。まあ若干一人は今回は見てるだけでしたが」
ちらりと綾乃を見やるウィル子。その視線がさらに綾乃の感情を逆なでる。グッと拳を握りしめる。何か反論したかったが、言葉が出ない。
事実であったから。何もできなかったから。自分が弱いと、再度理解してしまったから。
以前なら感情に任せて声を張り上げていたかもしれない。
しかし今はできない。できるはずがなかった。ただ悔しさに耐えるしかない。
反論することもできない。泣くことなど論外だ。
「ふーん。なんだ、お前、自分が弱いってことにショック受けてるのか?」
綾乃の内心を見透かしたかのように、和麻は遠慮なく言い放つ。
「……そうよ。あんただってあたしが弱いってさんざん言ってたじゃあない」
「ああ、そうだ。お前は弱い。宗主よりも親父よりも、もちろん俺よりも圧倒的に」
「っ!」
「いちいち傷つくなよ。お前自身も思ってた事実だろ? で?」
「で? って、何よ?」
「だからどうしたって言ってんだよ」
「だからって……」
「自分が弱い。で、落ち込んで終わりか? ならそのままずっと落ち込んどけ。ああ、俺に迷惑かけるなよ。お前の場合、俺に無意識に迷惑かけるから」
ゲホウの時とかほかにはあれとこれとあれと、と指を折りながら数える。
「弱いんだったら、強くなれば良いだろうが。親父や宗主よりも。その気概もないんだったら、次期宗主なんて名乗るな。煉もいるし、あの燎って奴もいただろ」
別に神凪の直系は綾乃だけではない。ほかにもいるし、別に綾乃が絶対に宗主の地位に就く必要はない。
(つうかこいつよりほかの奴の方が宗主になった方が、利用しやすいしな)
和麻は神凪となれ合うつもりはさらさらない。宗主の頼みでも神凪一族のための依頼など、どれだけ大金を積まれても断るつもりでいる。
しかし神凪の利用価値を和麻は過大評価はしないが、過小評価もしなかった。
今回の重悟と厳馬の力を見ればそれは一目瞭然だろう。さすがにあの領域に綾乃が進めるとは和麻も考えていなかったが、神炎の片りんはゲホウとの戦いで見せていた。
つまり鍛えれば綾乃もそれなりの使い手になる。
和麻自身、己の無力さに絶望し復讐と言う目的があったとはいえ、四年と言う月日で、正確に言えばさらに短い時間で厳馬に匹敵する力を得た。
綾乃には十分に才能はある。あとは追い詰め、本人に自覚させ、絶望させ、這い上がらせるのみ。這い上がれず、腐ろうが修行中や退魔の最中に死のうが和麻には関係ない。
うまくすればそれなりの利用価値のある存在に変化する。今の和麻の綾乃への評価などその程度でしかなかった。
尤も本人でさえ自覚していないが、本当にどうでもいい相手ならばこんな事すらしないのだが。
「本気で強くなりたいんだったら、死に物狂いで強くなれ。無理でも無茶でも強くなるために必死になれ。常識も限界も無視してな。死ぬまでやってダメなら、そん時は諦めろ」
「いや、死んだら諦めも何もないじゃないですか、マスター?」
「いいんだよ、別に。細かいことは。ついでに俺なんて週に一度は死にかけてたぞ」
いや、殺されかけてたのもあったかなと、心の中でつぶやく。主にあの性格の悪い兄弟子のせいだが。
「……あんたは、そうやって強くなったの?」
「まあな。弱いって嘆くんだったら強くなれ。死にものぐるいでな」
和麻自身、なぜ綾乃にこんな言葉を投げかけるのか疑問に思っていた。
もしかすれば弱かった神凪和麻時代の自分と綾乃を重ねてしまったのかもしれない。
「ちなみにお前が死んでも俺は知らん。さっきも言ったが俺に迷惑のかかる死に方はするなよ」
「綾乃の場合は自爆して死にそうですけどね。あっ、香典とかも出さないんで」
「当然だろ。もったいないし。弔電も出さないぞ」
「面倒ですからね」
「まったくだ」
あはははと笑う和麻とウィル子に綾乃は今度こそ怒りを表面に出した。
「ええ、いいわよ! 強くなってやろうじゃない! お父様や叔父様より! もちろんあんたよりもね!」
ビシッと人差し指を和麻に向け、高らかに宣言した。
「口では何とでも言えるからな~」
「いやほんとほんと。綾乃がマスターよりも強くなる? 寝言は寝てから言った方がいいのですよ」
「いちいちむかつく! 見てなさいよ! あんたが四年で強くなったんだったらあたしは三年で強くなってやる!」
「ちなみに俺の修業期間は四年以下だぞ」
「だったら二年で強くなってやるわよ!」
「おいおい、聞いたかウィル子。二年で俺より強くなるんだってよ」
「いや~。大きく出ましたね。賭けますか、マスター。綾乃が二年でマスターより強くなれるか?」
「賭けにならないだろ、それ」
「ああ、そうでしたね」
「あんたら、人をネタに何を言ってんのよ!」
魔獣を倒したことで、こちらもかなり気が抜けていた。
だがまだ、事件は終わっていないことを彼らは知らない。
もう一人の、首謀者とも言える存在が残っていると言うことを。
場所が変わり、富士の一角で二人の男が大の字で倒れていた。荒い息をしながら、胸を上下に動かし、空気の入れ替えを行う。
「ははは。ここまで力を使ったのはいつ振りだろうな、厳馬よ」
「……私は和麻と戦った時以来か」
少しだけ表情を硬くしながら、厳馬は答える。あの戦いは厳馬にとってみれば、苦い思い出でもあった。
「そうか。お前は和麻と全力で戦ったのだったな」
少し羨ましいぞと重悟は言う。お互いにライバルと思い、切磋琢磨足ていた重悟と厳馬。
炎雷覇を継承した後は、その差は大きく広がってしまった。張り合い甲斐がある相手がいなくなると、お互いにさびしい物であった。
「それより前となれば継承の儀以来か。いや、あれはお前にずいぶんと余裕があったか」
昔を懐かしみながら、厳馬は微かに笑みを浮かべかつての情景を思い浮かべる。
「おいおい。私とてあの時はそんなものなかった。お前が相手だったのだぞ。一瞬でも気を抜けば私が倒されていた」
同じように過去を思い浮かべながら、重悟も笑み浮かべる。
本当に久方ぶりにすべての力を出し切った。体には大きな疲労感があるが、それ以上に満ち足りている自分がいるのを重悟も厳馬も感じていた。
「しかしもう今日は何もできんな。私はもう一歩も動けそうにない」
「老いたな、重悟。私はまだ歩くくらいはできるぞ」
「むっ。ならば私も同じだ。いやいや、まだもう一回くらいは余裕で戦えるな」
「ふっ、私などもう一度あの魔獣が出てきても問題ない」
と、どこか張り合い出す始末。
そしてどちらからともなく笑みを浮かべる。厳馬の笑みなど間違いなくレアな物だろう。
和麻や大多数の人間からしてみれば、まったくありがたみなどないが。
「だが何とかなったな」
「ああ。完全に消滅させたはずだ。もし残っていれば、すでに和麻が動いている」
厳馬は自然と和麻の名前を出す。本来ならば自分達だけの力だけで何とかしなければならないし、厳馬自身も和麻の力を頼りにするつもりはない。
「あ奴から何も言ってこないところを見ると、終わったのだろう」
ただもし何かあれば確実に自分達に伝えてくるはずだ。それがない所を見ると、うまくいったと考えるのが自然だろう。
「和麻にばかり頼っている今の状況は、いささか情けないな、厳馬よ」
「そうだな。まったくだ」
今度は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。中々に今日は表情が変わるなと重悟は思った。
「ならばこの借り、必ず返さねばならんな」
「……ああ」
重悟の言葉に厳馬は頷く。これがこの二人を更なる高みへと進ませることになるのだが、それを知る者はまだいない。
一方、異界にて激しい戦いを繰り広げていたラーンと煉だが、その途中で誰もが信じられない事態が起こった。
外の情報を取り入れていた水を使ったモニターに映し出された光景。
二人の男が魔獣を完全に消滅させたのだ。
「ばか、な」
その光景を見ながら、ラーンは呆然と呟いた。
「バカな、バカな、バカな! こんな事、こんなことがあるはずがない!」
叫ぶラーンだが、その光景を眺める朧も紅羽も同じ気持ちだった。
これは無い。ただその一言に尽きる。
人間の常識から外れた存在である術者だが、あれはそんな範疇にさえ収まりきらない。
ラーンの動揺も当然であろう。
「あれは、この国最大の魔性と原初からの力の塊を合わせた神話の存在! なぜそれがたった二人の人間に!?」
魔獣が消滅した直後、モニターに映った二人の男を見て、ラーンはまくしたてるように早口で叫んだ。
「神凪一族だから、かな」
そんな中、ポツリと朧が小さく洩らした。
「何?」
「神凪一族の力を僕達は過小評価していたようだ。いや、ここ最近の事件のことで、神凪が大したことがないと思い込んでいた。だが実際は違った。ただそれだけの事ですよ」
呆れ半分ながら、朧は自分の考えを述べた。ついでに言えば、有頂天になっていたラーンに対しての嫌がらせもついでに行っていた。
和麻の兄弟子なだけあって、こう言った調子に乗った相手を徹底的にこきおろし、絶望させ、貶めることが大好きだった。
「君は自らの手に余るおもちゃを手に入れて喜んでいたようだけど、実際は大したことがなかった。いや、それは語弊があるかな。確かにあの魔獣は凄まじいかったことは認めるよ。僕ではとても手におえない。でも世の中には上には上がいる。そしてそれがあの二人。神凪重悟と神凪厳馬だっただけのこと」
「神凪の神炎使い……」
「そう。君は、いや、僕もか。その力をはっきりとは知らなかった。今回は神凪一族の力の真髄を見せてもらったと言う所か」
そして……。朧は楽しそうに口元を吊り上げる。
「今、君が戦っている僕の友人もその神凪一族の一員。それもその直系」
「っ!」
ラーンの全身に悪寒が走った。
意識が完全に逸れていた為、視界から完全に消えていた。忘れてはならない事を忘れていた。今は戦闘の真っ最中。
さらにその相手は神凪一族・神凪厳馬の息子である神凪煉。
ゴオッ。
静かにそれでいて、今までにないほどの炎がこの空間に召喚された。
黄金の輝きが世界を明るく染め上げる。
「くっ!」
思わず後ずさり、大きく距離を取った。今の今まで、隙だらけのラーンに攻撃しなかったのは、煉の甘さか、それとも彼自身、魔獣の消滅に意識を奪われていたからなのか。
少しだけ顔をうつむかせた煉の表情を読み取ることはできない。
代わりにどんどんと周囲に炎の精霊が召喚され、炎の威力も上がっていく。
ラーンは自分が震えているのがわかった。
(バカな。この私が恐怖していると言うのか!? 確かに魔獣が消滅したことで膨大な力を引き出すことはできなくなった。しかし先ほど取り込んだ力がある。この力ならば早々に後れを取ることは……)
考えながら、ラーンはハッとした。後れを取る? この力を得た私が?
あり得ない。なぜ神凪一族の直系とは言え、ただの子供に恐怖しなければならない。
相手は高々十二歳の子供に過ぎない。なのに、なぜ恐怖する?
ゾクッ!
目があった。煉が少しだけ顔を上げ、その瞳がラーンに向けられた。ただそれだけでラーンは恐怖した。蛇に睨まれた蛙と言うのはこう言う事を言うのか。
先ほどまでは互角、いや、あるいはこちらが有利に戦っていたはずなのに、今はまったく勝てる気がしない。
ラーンは無意識に神凪一族の力に恐怖を覚えたのだ。あんな光景を見せられては致し方がない。
しかし魔術であろうとなんであろうと、心を動揺させた場合、不利になるのは必定。
さらに精神力や意思の強さが問われる場合、それは顕著である。
対して煉の心はどこまでも静かだった。あの二人が成し得た事を見ても、流石だと感じた程度だった。普通なら、彼も綾乃や和麻達と同じ反応をしただろう。
あるいは自分の無力さを嘆いたかもしれない。
だが今、彼の心を占めるのは激しい怒り。少女を傷つけられた事への圧倒的な憤怒であった。
煉は今、それを制御していた。怒りに流されず、精霊達にも飲まれず、ただ自分のしなければならない事を理解していた。
即ち、この元凶を倒すこと。
(もっとだ。もっと強く。兄様や父様みたいに強く)
ひたむきに強くなることを願う。力を望む。
ただ純粋に、この相手を倒せる力を……。
黄金の炎の輝きはさらに増す。その光景にラーンの恐怖心は一層高まる。
「化け物め!」
持てる力のすべてを練り上げ、ラーンは力を振るう。それでも勝てる気がしない。
「おおぉぉぉぉぉっ!」
「はあぁぁぁぁぁっ!」
お互いの力がぶつかり合う。衝撃波が発生し、周囲に影響をもたらす。
押し負ける。ラーンは自らの敗北を理解した。
(勝てない。ならば逃げるしかない)
水を媒介にした転移魔術。長距離こそ無理でもここから脱出するくらいは。
(何!?)
だが空間と空間をつなぐ道が開かない。こちら側の扉が、まるで見えないにかに阻害されるかのようにぶれてしまう。
(逃がさないよ。残念だったね)
ラーンの耳に小さなつぶやきが聞こえた。声の方を見ると朧が笑っていた。空間操作ならば朧もできる。常時ならばともかく、煉の攻撃を防いでいる片手間の空間操作に干渉するなど難しい事ではない。
(くっ、おのれ、おのれ、おのれぇぇぇぇっ!)
炎がラーンの攻撃を飲み込み、ラーン本人さえも包み込む。黄金の炎に包まれ、ラーンは一瞬の拮抗もできないまま消滅した。
後に残されたものは何もない。そこに人がいたと言う痕跡もないまま、すべてが炎に浄化された。
終わった。煉が周囲を見渡し、何もないかを確認する。
気配が完全に消えたことを確認すると、ふぅっと息を吐き、そのまま朧達の所に駆け寄る。
「朧君、大丈夫?」
「ああ、煉。僕は問題ないよ。それよりも……」
朧は預かっていた少女を煉の方に動かす。まるで糸の切れた人形のようだった。目に生気がなく、意識もないように思えた。
その痛ましい姿に煉は顔を苦痛にゆがめた。そして少女を抱きしめた。
「ごめん。僕が君を守れなかったせいで……」
「君のせいではないよ、煉。君は彼女を助けた。それは紛れもない事実だ」
「でも……」
「その子の心が壊れたのは、君のせいではない。あの男のせいだ。もっともその子のことはそちらの石蕗の人達の責任でもあると思うけどね」
朧はちらりと紅羽と真由美を見る。真由美は相変わらず気絶している。
「そうね。その子を生みだしたのは石蕗一族。もっと正確に言えば私のお父様だけど。まったく、バカなことをしたものね。実の娘可愛さに、その子を作るだなんて」
「そんな言い方はやめてください」
睨みつけるような視線を紅羽に向ける煉。紅羽も少し無神経だったわと謝罪する。
「煉。少し落ち着こう。その子の事は紅羽さんには関係ないよ。君が怒りをぶつけるべきは彼女の父親なんだから」
「……。すいません、僕も頭に血が上ってたみたいです」
「いいのよ。気にしないでちょうだい。ただ聞かせてくれるかしら。その子とどこで会ったか。その子はあのラーンと言う魔術師の策略で行方不明になっていたのよ」
煉は紅羽の問いに少女と出会った経緯を話す。
「そう。そんなことがね」
あまりにも出来過ぎた話だねと、紅羽は内心で思った。
明らかに煉は少女を大切に思っている。まるで勇士が真由美を思うように。なぜ自分にはこんな人がいないのか、紅羽は恨み節を心の中で漏らした。
「どうやらあなたには何の責任もないみたいね。その子の事も好きにしたらいいわ」
「はい。そうします。絶対にあなた達の所には帰しません」
少女を抱きしめる腕に少しだけ力が籠る。
生贄のためだけに生み出された少女。いくら何でも死ぬためだけに生み出されたなんてひどすぎる。
「別に魔獣ももう消滅したみたいだから、何も問題はないわ」
いや、もしかすれば父である巌が自らの罪を隠すために少女の事を殺そうとするかもしれない。神凪一族に弱みを握らせないためにも、何らかの行動に出る可能性もなくはない。
その少女には妖精郷の秘宝も組み込まれているのだから。
(どうでもいいわね、そんなこと)
投げやりに紅羽は考えた。本当にもうどうでもいい。
この半年、復讐のために力を磨いた。それこそ死に物狂いで。だと言うのに、自分は何もできないままここですべてが終わるのを見ていた。
酷く滑稽だった。これならば何のために力を磨いたのか。
復讐は虚しいだけだとは言われていたが、これはそれ以前の問題だろう。
(お父様への意趣返しも、もうどうでもいい。むしろ私よりも和麻がするでしょうし)
八つ当たりで父である巌に反逆でもするかと考えたが、それもやめた。
それは以前から和麻がやると公言していた。おそらく徹底的にやるだろう。どのような方法かまでは知らないが、彼ならばまず間違いなく、自分以上にえげつない事をしでかすだろう。
それに少女の事もどうでもいい。彼女の命はどうせあと一か月もない。仮に巌が暴走し、突撃しても無駄だ。
神凪の権威は今回の事で復活するだろう。逆に石蕗は魔獣を復活させた責任を取らされる。
真正面から戦おうとする考えの人間は、あんなものを見せられた後では皆無だろう。
絡め手を使おうとも、神凪と完全に敵対する気概が石蕗にあるかも疑問だ。
(ほんと、もうどうでもいいわ……)
何のために日本に帰ってきたのか。いっそ、この身を魔獣にでも食い尽くされていればよかったか。
生きる意味を見失ったかのように、紅羽は地面に座り込む。その様子に煉も朧もいぶかしんだ。
「あの、紅羽さん?」
「ああ、別になんでもないわ」
と、その時、彼らのいた異界の神殿が鳴動を始めた。ラーンが死に、魔獣も消滅したことで、魔力のバランスが崩れたからだ。
崩壊が始まる。
「とにかくここを出よう」
朧の言葉に煉は頷く。紅羽もさすがにこんなところで死ぬのは嫌なのか、立ち上がり、真由美を背負いあげると再び二人の下へと歩む。
世話の焼ける子ねと、少しだけ優しい笑みを浮かべながら小さく呟く。
「ああ、そうそう。一つだけ教えておいてあげる、神凪の若君」
「なんですか?」
「その子の名前」
煉の腕に支えられている少女を見ながら、紅羽がポツリとつぶやく。
「!?」
「生まれは特殊でもその子にも一応名前はあった。もっとも誰も呼ぼうとはしなかったらしいけど」
「その子の名前はね……」
ドクン
崩壊を始める神殿の奥で、それは脈打った。
古い壺がいくつも並び、不気味な気配を漂わせる、ピラミッドの一室を思い浮かべさせられる空間。
その中の一つの中に、それは存在した。
それは人間の心臓のようだった。脈打ち、まるで生きているようだった。
鼓動は続く。そしてそれにはゆっくりとだが着実に黒い瘴気が集まりだしていた。
それは間違いなく心臓だった。
煉により滅せられたラーンの物だった。
古代エジプトではミイラを作る際、腐敗しやすい臓器を取出し壺に収め、ミイラの傍に安置する風習があった。
ラーンはそれを応用し、自らの弱点を隠すようにしていた。この場合は心臓である。
ただし心臓だけでは何もできない。
万が一の場合、ラーンはこの心臓を寄り代に再生することも不可能ではなかった。
しかしそれは一般的な死に方をした場合だった。
ラーンの場合、神凪の浄化の炎をその身に浴び、魂までもが消滅してしまった。ゆえにいかに本人の心臓とはいえ、それに宿ることはできない。
魔術師ラーンと言う存在は、完全に消え去った。
だがまだその心臓は残り、そしてこの神殿に漂っていた原初の力の塊である龍の力を取り込んでいった。
さらにこの心臓にはある力が取り込まれた。
魔獣の断片である。
明確な意思はない。自我も、個我もない。それでも魔獣の一片の力が宿っていた。
ラーンが生きていた時、この心臓はラーンとつながっていた。そこから魔獣の力が流し込まれたのだ。
つまり、まだ魔獣は完全に消滅していなかった。
いや、魔獣は消滅した。これはその残り香でしかない。それでもこの国最大の魔性の残滓。
それが崩壊を続ける神殿へと浸食を開始した。
「これは!?」
異変に気が付いたのは朧だった。空間を操作し、出口を作っていた矢先、神殿そのものが変化していることを察した。
「どうしたの、朧君?」
煉が朧に聞き返した直後、それは起こった。醜悪な瘴気が空間に充満しだしたのだ。
「なっ!?」
鱗のようだった神殿の外壁が完全な岩へと変化して行く。だが直後、周囲の壁から人間の欠陥のような管が無数に伸び始めた。
「くそっ!」
煉は炎を召喚し、それらの管を完全に焼き尽くす。
「大丈夫、これくらいなら僕が全部焼き尽くせる!」
煉は周囲を警戒しながら、炎を展開する。これで何物も近づけない。
しかし煉は失念していた。いや、知る由もない。ここはすでに奴の腹の中だと言うことを。
突然、地面が消滅した。
「!?」
地面が消えたことで、彼らは重力に従い落ちていく。
「くっ、煉。手を!」
朧は術を使い空間に浮遊する。手を伸ばし、煉の手をつかもうとする。同じように煉も手を伸ばす。
その一瞬、意識が朧に向けられた隙を付き、触手が少女に絡まり、煉から引き離した。
「あっ!」
朧をつかむ手とは反対の手を伸ばすが遅かった。見れば紅羽も真由美も同じように触手に囚われていた。
(僕としたことが、この失態。だが先に煉だけでも)
朧はこのままこの空間に留まってはまずいと、強制的にこの空間から脱出しようとする。煉に恨まれても仕方がないが、まず優先すべきは自分。そして煉だ。
「脱出するよ、煉」
「待って、朧君!」
懇願が受け入れられるはずがない。そのまま朧は強制的に出口を煉の足元に出現させ、そこへ落とし込む。
「あゆみちゃん! あゆみちゃんぁぁぁぁぁん!」
空虚な煉の叫びが闇へと木霊した。