サラサラと砂のように、塵のように、あゆみの体は崩れ去る。
何が起こっているのか、その場において理解できる者と理解できない者がいた。
煉と綾乃には理解できない。一体何が起こっているのだ。
紅羽や朧は理解できた。
彼女の体が限界を迎えて崩壊を起こしたのだ。
彼女の肉体は妖精郷の秘宝を使い、無理やりに富士の魔獣を鎮める大祭の祭主が勤まる年齢まで引き上げられた。力を使った後のことなど想定していない。
つまりあの巨人に無理やり力を使われたことにより、彼女の体は限界を迎えた。それ以前にもラーンにより、その体には大きな負荷をかけられていた。
結果が肉体の崩壊だ。作られた存在であるからなのか、その体は屍を残す資格すらないかのように崩れ去るのみ。
「あゆみちゃん! あゆみちゃん! しっかりして!」
すがる様に、祈るように叫ぶ煉だが、事態は最悪であった。いくら彼が叫んでも、彼女の体の崩壊は止まらない。
「……煉。ごめんね、せっかく名前を呼んでもらったのに、助けてもらったのに、一緒に生きようって言ってくれたのに」
泣きそうになりながら、それでも必死に煉を心配させまいとあゆみは笑顔を作る。
煉はその顔を見て、言葉の意味に気付いた。理解してしまった。
もう彼女は……助からないのだと。
「ごめん。僕が、僕がもっと早く君を助けられたら……。違う、あの魔術師から君を、守っていれば!」
自責の念に駆られる煉にあゆみは首を横に振った。
「違うよ。煉のせいじゃない」
ゆっくりとあゆみは崩れ続ける手で煉の手を握る。
「わたし、うれしかった。煉に会えたことも、短い時間だったけど、煉と一緒にいられたことも、助けに来てくれたことも、助けてくれたことも、生きようって言ってくれたことも、名前を呼んでくれたことも、全部、全部、ほんとにうれしかった」
本当にほんとだよと、あゆみは満面の笑みで煉に言う。その言葉に嘘はない。あゆみの心からの本心だった。
「あゆみちゃん……」
涙が止まらない。煉は自分の涙を止めることができなかった。彼女は笑っているのに、自分は笑うことができない。
「ごめんね、煉。煉を悲しませて、苦しませて…」
「そんなことない。あゆみちゃんは何も悪くないんだ。僕が弱かったばっかりに…」
煉は思う。自分はまた失うのか。また目の前で大切な人が死ぬのを見ていることしかできないのか。何もできなかった半年前と同じように。
自分は何のために強くなろうとしたのか。母に続き、守りたいと願った人さえ、助けられないなんて…。
(僕は、僕は……)
あゆみを抱きしめる腕に力が入る。そんな煉をあゆみも必死に抱きしめる。
これが最期だと理解しているから。もうどれくらい時間が残っているのかもわからない。
ただあゆみは願う。もう少しだけ、このままでいさせてほしいと。もう少しだけ、彼の温もりを感じていたいと。
でも本当はもっとずっと煉と一緒にいたかった。数日、何週間、何か月、何年…。
それが無理なのはわかっている。理解している。
それでも望んでしまう。彼とともに歩む未来を。もっと、もっと煉と一緒にいたい。
涙が出そうになる。でも泣かない。泣けない。これ以上、煉を悲しませたくない。
こんな自分のために、傷つきながら助けてくれた人を、自分の名前を呼んでくれた人を、自分のために涙を流してくれる人を。
だから自分は笑う。笑うんだ。死ぬその時まで。消滅してしまうその時まで。最期のその一瞬まで。
それが今の自分にできる精一杯の強がり。煉のためにできる唯一の事。
彼から受けた恩を、少しでも返すために。これ以上煉を苦しませないために。
だから必死に耐える。必死に努力する。彼に、最高の笑顔を見せるために。
煉が最期に見る自分の顔が、最高の笑顔である様に。自分が決して死ぬことを後悔していないと伝えるために。
「わたしは後悔してない。だって本当なら、わたしは煉にも会えずに、ただ魔獣を封じるためだけに死ぬはずだった。でも煉と会えた。煉にたくさんうれしい気持ちを貰えた。だからわたしは世界一幸せだよ」
それに大好きな人に見送られて逝けるから。心の中だけで呟く。口にすれば、さらに煉を悲しませ、苦しませるとわかっているから。
終わりの時は、近い……。
◆
煉があゆみを呼ぶ声が聞こえた直後、綾乃は彼女の様子がおかしいことに気がついた。
「なによ、何が起こってるのよ!?」
思わず声を上げる綾乃。すぐさまに手当てをしなければと、二人に近づこうとする。
だがそれを紅羽が静止した。
「なんで止めるの!? 早く手当しないと!」
「……もう無理なのよ」
「無理って! 何言ってるのよ!?」
今にも紅羽に掴み掛らんばかりの剣幕で、綾乃が問い詰めるが、紅羽はそんな綾乃とは対照的に冷静に答える。
「あの子が何なのか、聞いてるでしょ?」
それは戦闘前に情報を共有するためにした今回の事件のあらましで、彼女も聞いていた。
「確かあなたの妹のクローンよね」
「そうよ。私の妹、石蕗真由美のクローン。でもあの子は作られてまだ一か月しか経っていない」
「それが何なのよ!?」
癇癪を上げる綾乃に、紅羽は言い聞かせるように答える。
「できないよ、今の科学ではそんなこと。人間のクローンは作れても、成長させるには普通の人間と同じような歳月が必要なの。十二歳なら十二年ね」
「でもあの子はいるじゃない!? それとも何!? あの子はクローンじゃなかったってこと!?」
「違うわ。私の父はそれを科学以外のものに求めた。妖精郷から秘宝を奪い、その力を使いあの子を成長させた。そしてそんなことをすればどうなるか」
紅羽はもう一度あゆみの方を見ながら、言葉を紡ぐ。
「無理やり儀式に耐えられる年齢まで成長させられた。その代償は寿命の短さと肉体の脆弱さ。おそらくは力を使えば使うほど、その肉体の崩壊は加速度的に進んだでしょうね。ラーンとあの巨人に使わされた力を考えれば、肉体が崩壊してもおかしくはないでしょうね」
「そんな、そんなのってないわよ! こんな、せっかく助けたのに救われないなんて!」
涙を浮かべながら感情をあらわにする綾乃に、紅羽は何も言わない、いや、言えないのだ。
(本当に救いがない話ね)
そう思いながらも、紅羽はそれすらもどうでもいいと思う自分がいるのを感じていた。
あの娘が死のうが生きようが、自分には関係ない。魔獣は消え、巨人も倒した。
達成感などない。終わった。ただそれだけの感想しか出てこない。
「あたしたちがしたことって、何だったのよ…」
無力に打ちひしがれる綾乃。拳は強く握りしめられている。
「未然にこの国の危機を防いだと思っていなさい。それもこれから先、石蕗から生贄を出さないで済む。これ以上の犠牲は出ない。確かに意味はなくはなかったわね」
尤も、紅羽にしてみればそれこそどうでもいい話だ。父である巌は真由美が死なずに済み、魔獣が消滅したことに狂喜乱舞するだろう。
ただこれから先、富士の魔獣を封じると言う大義を失った石蕗がどうなるのか、それは分からないし、これこそ本当に紅羽にしてみれば知ったことではない。
「最後まで見届けなさい。あの子の最期を……」
それしかできる事は無いわと言う紅羽。
「それしか、本当にできないの?」
「この場にいる誰かあの子を救う術があるの? 炎術師のあなたや煉、地術師の私には絶対に不可能。ちなみにそこの道士さんとウィル子は?」
後ろで聞き耳を立てている二人に紅羽は話を振った。
「生憎と僕にも無理ですね。僕の師が持つ最上級の宝貝ならばあるいはその可能性はあるでしょうが、ここには居ませんし、僕もそんなもの手元に持ち合わせていないので」
「ウィル子も右に同じですよ」
朧が保有していた太極図のレプリカでもあれば、可能性はあったかもしれない。
太極図とは文字通り太極を操る物。太極万物の根源を、すなわち何ものにでもなる可能性を自由自在に操れると言う。
まさに創造主のごとき力を有した宝貝。かの封神演義に登場する太上老君が作り上げた至高の宝貝。
そのレプリカは本物の百分の一の能力もないが、それでも十分に驚異的であろう。
しかしそれは手元にはなく、前回の強奪事件の際、レプリカは破損し、今は老師の手元にあり、本物も今は行方知れずとのことだ。
ウィル子の01分解能ならば、あゆみの肉体を作ることも可能かもしれないが、それは膨大なデータを収集し、解析しなければできない。
無から有を生み出すに近い能力だが、人間と言う複雑な生物を作り出すのは未だ不可能だ。
体の一部分程度なら、可能かもしれないが、崩壊が始まった肉体を何とかするなど、ウィル子の力をもってしても不可能だ。
「和麻だってそれは同じでしょう。どれだけ優れた風術師でも、ね」
「まあ風術師の俺にもできないわな、そんなこと」
と、いきなり別の誰かの声がした。振り返り、そこを全員が見れば、八神和麻がそこにいた。
「和麻!」
「マスターも来ましたか」
「ああ。まあな」
ちらりと煉達の方を見ながら、またこちらを向く。目があったのはできれば会いたくないと思っていた兄弟子である。
実に良い笑顔を浮かべている。呼霊法で会話をしてもいいが、それは後回しにする。まだしなければならないことが残っているのだから。
(少しだけ待ってください。あとで話はきっちりとしますので)
(期待はしてるよ)
一応断りだけは入れておく。でなければ後が怖いので。
「話はあとだ。少しだけ、やることがあるからな」
そう言うと和麻は煉達を見ていた全員をしり目に、二人の方に歩き始めた。
「和麻!? ちょっと、あんた何するつもりなのよ!?」
「あとで説明してやる。うまくいくかどうかは知らんが、手がないわけじゃないからな」
ヒラヒラと手を振りながら、綾乃達を無視して和麻は煉達に近づく。
「よう、煉」
泣きじゃくる煉に和麻は声をかけた。
「に、兄様…」
「おにい、さん?」
顔を上げ和麻を見上げる煉とあゆみ。そんな二人に和麻はいつもの飄々とした笑みを浮かべている。明らかに場違いな雰囲気だった。
「そいつの兄の和麻だ。よろしく頼む。なんだったらお義兄ちゃんと呼んでもいいぞ」
「兄様! あゆみちゃんは!」
流石の煉も敬愛するとは言え、場違いな和麻の態度に腹を立てた。あゆみはもうすぐ消えてしまうと言うのに。
二人の時間を邪魔されたことに怒りを露わにする。それだけではない。状況を理化していないかのような、不謹慎な兄の態度にさすがの煉も怒りを露わにする。
そんな弟の態度に苦笑しながらも、逆の立場なら自分もそう思うわなと納得する。
だが和麻も別にただ単に冷やかしに来たわけでも、二人の時間を邪魔しに来たわけでもない。
「そう怒るな、煉。俺は何も冷やかしで来たんじゃないから」
だが和麻はそんな煉の怒りを受け流しながら、今度は真剣な表情をしながら、懐の内ポケットから液体の入った小瓶を取り出した。
「これをそいつに飲ませろ」
和麻は膝を曲げ、煉と同じ目線まで下げながら、小瓶を煉に向けて差し出す。
「これは?」
「俺の秘蔵の霊薬だ。こぼすなよ。それ一つしかないし、おそらく今後二度と手に入らないと断言できる代物だ。世界中探しても、これ以上の物はない。それで助けられなかったら、どんな薬でも無理だろうな」
「これがあれば、あゆみちゃんを助けられるんですか!?」
「確率は五分五分……いや、万に一つ……かもしれない。だが何もしないよりもマシだ」
興奮する煉を落ち着かせるように、和麻は言う。時間もあまり残されていない。
「時間がないからよく聞け。それはただ飲ませるだけじゃだめだ。お前が口移しで飲ませろ」
「えっ!? く、口移し!?」
まさかの和麻の言葉に、煉は狼狽したかのような声を上げた。
「そうだ。良いからさっさとしろ。時間がない。もう一分も持たないぞ」
言われ、あゆみの体を見る。崩壊はどんどん進んでいる。本当に時間がない。
「お前の思いを全部こめろ。可能性が少しでも上がる。良いか、そいつが死ぬか生きるかの瀬戸際だ。お前はそいつに生きて欲しいんだろ? お前はどうしたい? いや、どうするんだ?」
言われ、選択肢がないことに気が付く。違う。選択肢など最初から決まっている。
ああそうだ、迷っている時間なんてない。恥ずかしいとか、そんなこと関係ない。
いま大切なのは、彼女を救えるかどうかだ。
涙をぬぐい、表情を引き締める。和麻から小瓶を受け取る。
あゆみも和麻の言葉を聞いていた為、若干恥ずかしそうに頬を赤らめていたが、煉の真剣な表情を見て、それも吹き飛ぶ。
絶対に助かるとは限らない。この薬が効かない可能性の方が高いのだ。
もしかすれば、この人は最後に自分達が少しでも悲しまないで済むようにしてくれているのかもしれない。そうあゆみは思った。
だったら、煉にすべてを委ねる。目をつぶり、少しだけ唇を煉の方に向ける。
煉も覚悟を決める。口に薬を含む。
二人の距離が近づき、唇が重なる。薬は煉の口からあゆみの体内へと流れ込む。
煉は願う。死なないで、生きてと。
あゆみは願う。生きたいと。煉と一緒に。
そして奇跡は……起こる。
驚愕したのは誰だったか。
薬を飲んだ直後だ。あゆみの肉体の崩壊が止まった。それだけではない。彼女の体から生気があふれ、消えかかっていた四肢や髪の毛などの末端が、何事もなかったかのように存在している。いや、再生していると言ってもいい。
コロリと彼女の体の横に何かが落ちる。卵のようなものだったが、和麻はそれを拾い上げ懐に入れる。
どれくらい唇を重ねていただろうか。
お互いがファーストキスだった。
その余韻を惜しむかのように、二人はゆっくりとだが唇を離した。
「あゆみちゃん…」
煉はゆっくりと目を開ける。そこには先ほどまで消えそうだった少女の姿はどこにもない。
全身に血がめぐり、生気に満ちた少女。キスのせいか、顔を赤くしているが、それは煉も同じだった。
「煉、私…っ!」
今度はあゆみが涙を流した。自分の体の崩壊が止まった。それが意味することは一つ。
助かったのだ。彼女が死ぬと言う最悪の結末は回避されたのだ。
「あゆみちゃん!」
煉は再びあゆみを強く抱きしめる。それに合わせ、彼女も煉の背に腕を回す。
お互いがお互いの温もりを再び感じ合う。だが先ほどとは全く意味が違う。
うれしさのあまり涙を流す煉とあゆみ。
ここで声をかけるのは野暮だろうと、皆が彼らが納得するまで見守ることにした。
どれくらい時間がたったのか。そう長い時間ではなかったが、煉とあゆみはようやくお互いに体を離した。
煉は若干気持ちが落ち着いてきたのか、気恥ずかしさに襲われていたりもする。原因はニヤニヤと自分を見る兄や友人の朧のせいでもあるが。
「兄様、ありがとうございます! 兄様のおかげであゆみちゃんは!」
「本当にありがとうございます。えっとお義兄さん」
「あっ、あゆみちゃん?」
「不束者ですが、よろしくお願いします」
「ええ、あの、その、えっと…」
「こう言う時って、こういう挨拶をするんじゃないの?」
「そうだけど、そうじゃなくて!?」
勢いで助けに来たり、色々と言っていたりはした。それが愛の告白に捉えられてもおかしくはないし、自分も彼女の事が好きであると言う自覚はある。
多分、ひとめぼれとかそう言ったものだ。
思い出して余計に恥ずかしくなった。キスまでしたのだ。これが告白でなくて何という。
嫌ではなかったし、むしろうれしかったりもする。
状況が状況だったから、ムードも何もなかったかもしれないが、後悔はしていない。
いや、これで助けられたのだから、奇跡と言う以外にない。
「まあ煉をからかうのはこれくらいにしてやるか」
「兄様」
恨めしそうにふてくされる煉。さすがにあゆみを助ける薬を持ってきてくれた尊敬する兄を悪く言いたくはないが、少しくらい文句を言っても罰は当たらないだろう。
「煉!」
と、今まで静観していた綾乃が彼らの下へと駆け寄ってきた。
「姉様!」
「よかったわね! 何よ、もう。心配したじゃない!」
「すいません、心配をかけて」
「煉、この人は?」
「あっ、紹介がまだだったわね。あたしは神凪綾乃。煉とははとこ。まあ家族同然に育ったから」
「そうなんですか。じゃあお義姉さんですね」
「ふふ。煉も隅に置けないわね」
うりうりと煉を小突く綾乃。煉はやめてください、姉様と先ほどまでの凛々しさはどこへ行ったのやら。一転して可愛らしい半泣きの顔をしていた。
「ところで和麻。あんたこの子に何を飲ませたのよ。変な副作用とかないでしょうね?」
綾乃は和麻に詰問した。
死にかけと言うよりも、消滅しかけのクローンの肉体の崩壊を止め、健常者のような状態にする薬など聞いたこともない。
「エリクサー」
「へっ?」
「だからエリクサー。生命の水だよ」
「「「ええええええっっっっ!?」」」
綾乃だけではなく、煉もあゆみも驚きの声を上げている。後ろの方で聞いていた紅羽も朧も驚愕していた。
エリクサー。別名生命の水とも言う。錬金術の粋を集めた奇跡の霊薬であり、その効力は想像を絶する。
死者すらも甦らせると言われており、製法は愚か実在さえ確認されていない幻の薬なのだ。
確かにそれならばあゆみを助けることも不可能ではなかっただろう。
現にこうして、あゆみは一命を取り留めた。
唯一ウィル子だけは和麻がエリクサーを持っていると知っているので、驚きはしないが、まさかそれをこうまで簡単に使うとは思っていなかった。
和麻にしてみれば、いくら大切で可愛い弟の想い人とは言え、赤の他人のために使うとは。
(はぁ。まあ仕方ありませんね。マスターにも色々と考えがあるでしょうし)
別段、エリクサーを使うことに文句はない。和麻の所有物であるし、ウィル子がとやかく言う事でもない。
「そんなもの、どこで手に入れたのよ」
「秘密だ。でもまあもう手に入らないのは間違いないだろうな」
綾乃のぼやきに和麻は詳細を明かすことを拒否した。
「あれ? ちょっと待ってください、兄様」
「ん。どうした、煉?」
ふと何かに気が付いた煉は和麻に質問した。
「あの、これって僕が口移しであゆみちゃんに薬を飲ませる必要って、本当にあったんですか?」
「いや、特になかったぞ」
完結に、即答で返す。その言葉に煉の目が点になった。
「別にあゆみは薬が飲めない状態でもなかったし、そのまま飲ませても問題はなかっただろうよ。要は飲み込めればそれでOKだったんだから」
「じゃ、じゃあなんで兄様は口移しでなんて…」
「別にふざけてたわけじゃないぞ。万が一あゆみが呑み込めない可能性もあったし、エリクサーっても、クローンで肉体が崩壊しかけてる状態の人間にどこまで効果があるのか俺だって把握してなかったんだ。だったら最悪の場合も考えて、思い出はあった方がよかっただろ?」
どこかこじつけのような気もしないではないが、あゆみとしても、最期にキスをされながら死ぬと言うのも悪くはなかったと思う。もしあのまま消えるなら、確かに煉と触れ合いながら死ぬ方がよかった。
煉も和麻の言い分も理解できるが、それでも納得がいくかと言えば全部納得できない。特にニヤニヤと面白そうに笑っている今の兄の姿を見れば。
ついでに言えば、兄弟子である朧に対する意趣返しと言う意味もあったか。
いや、煉をダシに使う気は和麻にはなかったが、朧はどうにもあゆみが死んで煉が傷つくのを狙っていた節がある。
無論、わざわざ自らの手を下すと言う愚かな事をするのではなく、成り行きに任せ、率先してあゆみを助けようとしなかったと言うだけだ。
その結果、煉が悲しみを乗り越え、更なる高みへと進むように誘導するつもりだったのだろうが、そうはさせない。すべて思い通りにさせるつもりはない。
しかし朧は朧で、どちらに転んでもよかった。むしろ逆にこの状況を喜び、楽しんでいた。
(いや、流石は和麻。僕の予想を裏切り、想像以上の結末を用意してくれた)
内心で、実に楽しそうに笑っていた。これで新しいネタもできた。このネタを使えば、今朧と煉がいるクラスのとある少年と少女を使い、色々と遊べると嬉々としていたりもした。
実の所、和麻と朧は性格的によく似ていた。和麻は絶対に否定するだろうが。
まあ和麻のしたことは朧に新しいネタを提供したに過ぎなかったのだが、和麻としても過去の自分と翠鈴とのことがあるので、この状況を放置できなかったと言うのが正しい。
非情であり、外道であるが、内なる甘さと優しさを完全に捨てきれない男。それが八神和麻と言う男であった。
「そう怒るな。あゆみは助かったし、お互いに一生記憶に残るファーストキスになっただろ?」
その言葉に煉は顔を真っ赤にして頭を抱える。横であゆみが悲しそうにそんなに嫌だったのと聞いてくるから、さらに大変だ。
全然そんなことないと否定して、しどろもどろになりながら、煉はあゆみに一生懸命に釈明する。
嫌じゃない! 僕もうれしかったし!
と必死に身振り手振りする煉の様子にまた和麻は失笑した。
「ちょっと、あんまり煉をいじめるんじゃないわよ。数少ないあんたを敬ってくれる子じゃないの」
と、和麻に対して文句を言う綾乃だが、それはただ単純に矛先を自分に向ける行為でしかなかった。
「なに、このくらいで煉の俺に対する敬意は微塵も揺るがないぞ。それよりもお前ももう少し自分を磨いた方がいいぞ」
「何がよ」
なにか嫌な予感はしたが、綾乃は和麻に聞き返す。
「処女なうえにファーストキスもまだっつうのは、女としてどうよ? お前、もう十六だろ? 色恋もなし。術者としても微妙じゃいいとこないだろ」
ほとんどセクハラ発言に綾乃は顔を真っ赤にする。その様子に和麻は半ば予想していたとはいえ、きょとんとした顔をする。
「適当に言ったんだが、図星だったか。いや、すまん。生物学上は女だが、女以前の生き物だったな」
全然悪びれた様子もなく言う和麻に、綾乃の怒りが爆発した。若干、涙目なのは怒りのせいか、悲しみのせいかわからないが。
「そこに直れ、この変態、セクハラ野郎! あたしが燃やしてやる!」
炎雷覇もなく、破邪の剣も紅羽に貸しているので手元にないが、怒りに任せて炎を召喚した。
「おいおい。全然成長してないだろ、お前」
「炎の威力は強くなったわよ!」
「人として成長してないだろ。宗主に言われなかったか? むやみに炎を使うなって」
「あんたが人の神経を逆なでするからでしょうが!」
「はぁ。まるで成長していない」
やれやれと肩をすくめる和麻に綾乃の怒りがピークを迎える。
なんだかカオスな展開になってきたなーとウィル子は思ったが、もう放置しておくことにする。
どこかマスターである和麻も楽しんでいるようだし、風の結界はまだ展開している。
いい加減に飽きてくれば、和麻もとっととこの場を離れるだろう。
見れば綾乃が炎を投げ飛ばし和麻を追い掛け回している。
和麻は和麻で飄々としながら、全部簡単に避けていなして、たまに綾乃に打ち返して自爆っぽくダメージを与えている。
「まぁ、今回はこう言う終わり方もありでしょうかね」
何となくそう締めくくりながら、ウィル子はポツリとつぶやく。
こうして富士の戦いは終わりを迎える。
三百年に渡り封じられてきた魔獣も、原初の頃から存在した力の塊である龍も、己の欲望のため、悪意を振りまいた魔術師ラーンも、この地に消え去った。
事件は終わりを迎える。
しかしとある者達にはこの後、ものすごく最悪な仕打ちが風の契約者と超愉快型極悪感染ウィルスにして電子の妖精からもたらされるのだった。
あとがき
あと一話で三巻終了。
あゆみ生存でした。賛否両論あるかと思いますが、ここではこれで行きます。
楽しんでいただければ幸いです。
やっぱりハッピーエンドはいいね