富士において勃発した、この国最大の魔性と謳われた是怨との戦いから二日が経過した。
魔獣の討伐は、神凪重悟をはじめとする神凪一族により大過なく行われた。
人的被害は皆無。一部樹海が是怨のために破壊されたが、それも許容範囲であった。
神凪重悟はこの一件で、神凪の失墜した権威を回復させるために奔走することになる。
今回に限って言えば、和麻の協力が若干あったものの、重悟と厳馬の働きは大きく、煉に至っては、今回の騒動の首謀者であるラーンを討ち、綾乃も大きく事件解決に貢献した。
このことを重悟が利用するのは一族の代表としては当然であり、誰かに文句を言われる筋合いもない。
事件解決後、遅れて到着した霧香ではあったが、事件が無事に解決を見てホッとしたのは言うまでもない。
事件の流れは、紅羽を通じ、霧香に伝えられ、そこから石蕗に伝わることになる。その前に、紅羽と別れ、一足先に石蕗へと帰還した真由美により、ある程度の事は伝わっていたのだが。
石蕗は真由美の生還で歓喜したものの、事件の詳細を聞き、頭を抱えることになる。
当たり前だ。魔獣討伐の功績をすべて神凪に奪われたのだから。
さらに紅羽が参加したとは言え、その後に出現した巨人の討伐も彼らは一切何もしていない。
強引に紅羽が協力したことで石蕗も討伐に一役買ったことにしたかっただろうが、紅羽はそれを嫌い、あの後姿を消した。
ついでに言えば、霧香にすべての事情を話した後、すべて神凪の若君達が事件を収束させたと証言したため、石蕗の思惑は大きく外れることになる。
このことにはさすがの巌も憤慨したが、紅羽から見れば石蕗の自業自得であり、彼らに対してそこまでしてやる義理も義務もないと見切りをつけたと言った方がいいだろう。
ついでに言えば、ささやかな反抗だったともいえる。
また姿を消したのは和麻とウィル子も同様であり、その中にはあゆみの姿もあった。
こうして、様々な人々の思惑が絡まり、事後処理は混迷を深めることになる。
◆
「はぁ…」
警視庁特殊資料室の橘霧香は深いため息をついた。
現在彼女は高級料亭の一室にいた。霧香程度の給料では到底入ることができない、政財界のお偉方などがよく使われる、客のプライバシーを特に尊重してくれる隠れた老舗と呼ばれるところだった。
出される料理もどれも一級品で、本来なら彼女はこの料理を楽しみたいところなのだが、現在の状況ではとても楽しめるものではない。
なぜか? それはこの場に同席している人間のせいだ。
(なんでこんな状況なのかしら?)
目の前でパクパクと出された料理を食べている若い男。八神和麻の顔を盗み見しながら、霧香はもう一度大きなため息を吐いた。
「おいおい、ため息なんかつくと幸せが逃げるぞ。せっかく俺が奢ってやってるんだ。ありがたく食えよ」
「あなたが相手じゃなければ、私ももう少し楽しめると思うんだけど」
数年前のイギリスでの事を思い出し、霧香はさらに食欲がなくなった。
和麻がこんな風に誰かにごちそうすることは珍しい。重悟や煉などならばともかく、霧香はなぜこの場に呼ばれたのか戦々恐々していたと言っても過言ではない。
もう二度と会いたくないと思っていた男が、向こうから話し合いを持ちかけてきたのだ。
死を具現化したような不吉で陰険な男であった和麻が、このように飄々と軽薄な笑みを浮かべて近づいてきた。警戒するなと言う方がおかしい。
そんな霧香の様子に、和麻は内心苦笑する。まあ変わりすぎだなと自分でも思う位だ。他人から見ればそれは顕著だろう。
「とにかく私も暇じゃないの。富士の一件でまだごたごたしてるのに」
富士の事件が終わって、まだ二日しか経っていないのだ。昨日は一日中、神凪、石蕗の双方から話を聞いていたり、事後処理に奔走したり、書類を作成したりとしていた。
本来なら、こんなところで時間をつぶしている暇はないのだ。
和麻は和麻で、あの後いつものごとく、ウィル子とともにとっとと姿を消したが、今回は自衛隊の基地を使っていたり、重悟から霧香のみに話を通していいと言われていた為、その存在を彼女は知らされていた。
「ほう、そりゃ大変だ。けど結局のところ、富士の樹海の一部が消失した程度で、人的被害なんてなかったんだろ」
「それ以外にも石蕗とか神凪とかとの話し合いもあるの。特に石蕗は今、政府と揉めているところよ」
「ふーん」
と、気の無い返事を繰り返す。霧香は和麻の態度に内心、不機嫌さを増すができるだけ平静に務める。
「で、なんであなたは私を呼んだの? それになんでそんなに富士の一件に詳しいのかしら?」
霧香は探る様に和麻に聞き返す。
霧香としても大まかな経緯は知っている。富士の魔獣を葬り去った重悟と厳馬の活躍。綾乃、煉、紅羽などの戦いもあの後、事情聴取をして報告書の作成も行ったのだ。
ただ和麻の件だけは記載していない。書けるわけがない。自衛隊のヘリの利用の際、この男は偽造された経歴で堂々とことに及んでいたのだ。ほかにも彼自身の身元が特定されないようにされていた。
とても一個人が行ったとは思えない裏工作がされており、詳しく調べても、偽造されたものだと判別ができなかった。和麻の事を知る霧香でなければ、それが偽物だと気が付かなかったのだ。
神凪の出動も、巧妙に細工されており、とある大物政治家からの要請をされていたことになっていた。
流石に霧香もそこまで突っ込んで調査はできない。と言うかしたくない。藪をつついて蛇どころかドラゴンを出すのは勘弁願いたい。
「ふむ。まあ色々事情はあったからな。紅羽に協力してたのと、あのラーンとか言う魔術師の暗躍もつかんでいたからな」
勝てば官軍、死人に口なし。和麻はラーンの事を引き合いに出し、徹底的に利用することに決めていた。
全責任はラーンに押し付け、自分はこの国を護るために貢献した一人であると、霧香にアピールする。
実際の所、石蕗が気に食わないのと、自らの財産のためだったのだが。
「それに今回の話は、そっちにとっても悪い話じゃないとは思うが」
箸を置き、酒の入った器を口元に運びのどを潤すと、和麻は己の目的を放し始める。
「イギリスでお前と別れた後、俺は目的を終えて自分が死んだ風に装った。何事もなければ、そのままにするつもりだったが、日本にある事情で戻ってきて、神凪のごたごたに巻き込まれたせいで、それもおじゃんにされた」
まったくやってられないと和麻はぼやく。あの一件さえなければ、八神和麻と言う人間は行方不明、もしくは死亡したと思われていたというものを。
和麻としてもいつまでも裏に隠れているつもりはなかったが、あと数年は身を隠し、色々なほとぼりが冷めるのを待つつもりだったのだが。
「それで?」
「まあ知っての通り、俺には敵が多い。っても敵対した奴はほとんどこの世にいないけどな。今も俺に恨みを持っていて敵対してくるようなやつは、片手で数える程度だろうがな」
くつくつと楽しそうに笑う。霧香は少しだけ四年前の和麻に近い雰囲気であると感じた。
「……アルマゲストの壊滅。あれはあなたね?」
「なんの事かな。あれは欧州の反アルマゲストの連中の一斉蜂起が原因だろ?」
「その前にアルマゲスト所属の主要魔術師の大半が何者かに殺されていたわ」
「へえ。そんなことがあったのか」
この会話で和麻が犯人であると霧香は確信した。本人ははぐらかしているのか、それともはぐらかす演技をすることで、こちらに気付かそうとしているのか。
とにかく霧香はこの男が危険で、自分の手に負えないことを再認識した。
「まあいいわ。アルマゲストに関しては、私も関係ないし、彼らの関係者はほとんど鬼籍に入った上に、組織としては壊滅。関係者ももう再起不能らしいから」
「まだヴェルンハルトが残ってるがな」
「ああ、あの元アルマゲストの評議会の議長の。でも最近は話も聞かないから、もうすでに死んでいるんじゃないの?」
「かもな。けど生きてるかもしれないぞ」
「……あなたの目的はそれかしら? 私達にヴェルンハルトを探し出させること」
「まあそれもあるが、本題は別だ」
和麻はパサリと書類の束を霧香に向けて放り投げる。
「これは?」
「読んでみりゃわかる」
霧香は和麻から渡された書類を見る。そこには警視庁の極秘資料と書かれた書類や、霧香直属の上司、さらにその上の連中の弱みまで書かれていた。
いや、それだけではない。どこから調べ上げたのか、霧香と敵対している、しようとしている存在の弱みまでつかんでいる。
一部には霧香の出身である橘や、あの陰陽道の名門・篁(たかむら)一族の弱みまである。
「これは…っ!」
ゴクリとのどを鳴らす。さらに嫌な冷や汗が出る。
(これって、あの神凪の不正を暴いた時と同じ。いや、確かにあの時、風牙衆ではなくこの男が神凪の不正を暴いたと言われていたけど。それにしてもこれって…)
あの警視庁や政財界の逮捕劇を作り出した張本人は、目の前のこの男かと霧香は戦慄した。
それだけではない。この男が風術師としていかに優秀だと言っても、一人でこれだけの事を調べ上げるのは無理がある。
時間をかければ可能かもしれないが、本当にこの男が一人でやりあげたのか……。
「心配すんな。お前の弱みは調べちゃいねぇよ。まあそれもこれから次第だけどな」
笑う和麻に対して、霧香は逆に顔を青ざめさせる。脅迫と何ら変わらない。
当然、霧香に選択の余地はない。
「ほかにも石蕗の当主がした違法研究に加担した資料とかもある。これが公表されりゃ、石蕗も非難は免れないな」
実に良い笑顔を浮かべながら、和麻は霧香に言う。
「……本当にあなたの目的が読めないわ。一体何がしたいの? 私に何をさせたいのよ?」
恐る恐る和麻に聞き返す霧香。イギリスではその圧倒的な力に恐怖したが、今はそれ以上にこの男が得体のしれない存在に思えてしまった。
「そうビビんなよ。言っただろ、お前にもメリットはあるって。なに、簡単なことだ。しばらく日本を拠点にしようと思ってな。そのコネ作りだ」
「なんですって?」
「今まで海外で行動してた……、いや、この一年は行動してなかったな。まあいいか。言った通り、ここ最近は日本で暴れすぎた。本当なら日本以外に拠点を置く方がよかったんだが、まあ、俺も色々と事情があってな」
主に兄弟子関連や煉や先日助けたあゆみ関係の事もある。さすがに今回は丸投げ放置と言うわけにはいかない。
それに日本を拠点にした方が、現在は色々と利点が多いのだ。
「今までは裏から動くだけで事足りたんだが、少しばかり手が足りなくなった。いや、俺の事が表に出回って、万が一の時に使える駒が少しでも欲しくなったって言うのが妥当だな。で、ちょうど良い所にお前がいたわけだ」
目が点になる霧香。つまり自分は、この最悪な男に目をつけられてしまったと言う事ではないか。思わずめまいがした。
「戦力関係は神凪に恩を売ったから、宗主や親父の力を無条件に借りる契約もしたから良いとして、ほかにも使えるカードは多い方がいいわけだ」
「宗主の方にはもう話はついていたのね」
「おう。この間な。宗主の体を治したのも俺のコネだ。よかっただろ、最強の神炎使いが二人もお前に協力してくれるようになったんだから」
本当に頭が痛くなってくる。この男は一体、どこまで裏で暗躍していたのだ。
「で、私には何を要求してくるの? あいにくと私は安くないわよ」
「別に体で払えなんて言うつもりはないぞ。まあそっちの方がいいなら考えてもいいが」
ニヤニヤと笑う和麻に霧香はうんざりとした顔をする。
「思ってもないことを言わないでちょうだい。で、この資料は貰ってもいいのかしら?」
「ああ。手付金と思って好きに使え。別に俺としては大した労力を使ったわけじゃないからな」
「そう。一応お礼は言っておくわ」
と言うか、これがあればあの嫌な上司に対して色々有利に立てるし、かなり役に立つのは間違いない。それだけではない。うまく立ち回れば、橘にも、篁にも優位に立てる。
ただし使い方を間違えれば、自分を滅ぼす劇薬になる危険は孕んでいるし、裏付けは必要になるだろうが、それでも使いようはある。これだけは和麻に感謝しよう。
「まあわかってるとは思うが、俺の事は触れ回るなよ。ついでにそっちからの要求は基本聞くつもりはない。俺が必要と思えば援助してやるが、基本的にノータッチだ」
「こちらのメリットがあまりないわね」
「その手付だけでも、それなりだとは思うがな。それと心配するな。今渡した奴以外にも、お前が欲しがっている戦闘系の術者を所属させてやる」
「いるの? そんな人?」
「いなくはない。今後の交渉次第だが、あいつも俺に頭が上がらないだろうし、やることもなくなったから丁度いいだろ。あとこいつの事を任せる」
和麻はさらに数枚の資料が添付された紙を霧香の方に投げる。
「あら、この子は」
「この間、煉が助けた石蕗の娘のクローンで、名前はあゆみだ」
「ええ。話は聞いているわ。あなたが連れて行ったって聞いたけど」
あの後、和麻はあゆみを一時的に保護して、その身を隠させた。現状、石蕗関係で煩わしいのと、エリクサーの件で色々と面倒なことになると判断したからだ。
あゆみを連れて行くと言った時、煉も付いていくと若干揉めたが、ウィル子がそれを制した。さすがに同年代の(に見える)女の子がいたから、煉もしぶしぶ納得した。
もしこれが和麻一人なら、さすがの煉も納得しなかっただろうが。ちなみにその後、和麻は煉の事情聴取が終わった後、秘密裏に会わせるようにして埋め合わせをしてやっているが。
「今はあるところに匿ってるが、色々と面倒な生まれだからな。一応、戸籍は偽造したし、石蕗のクローンは死んだことにした方がいいだろう。元々死ぬ予定だった上に、体の方も長期間生きられないようになってたし、あの戦いのせいで細胞が崩壊しかけてたんだ。死んだことにしても何の問題もないだろうよ」
「石蕗がそれで納得すればね」
石蕗とてあゆみの存在は邪魔なのだ。当主である巌の娘である真由美のクローンであり、その価値は計り知れない。
あの場にいた人間だけが助かったことを知っている。霧香には色々と便宜を図ってもらわなければならないので、話を通したが、彼女の生存を知っている人間は限られている。
霧香も口止めをされていた為、彼女の事は石蕗には伝えていない。
しかし後々、石蕗真由美と同じ顔の人間が生きているとわかれば、彼らはどんな動きをするかわからない。
「心配するな。こいつが助かったことを連中は知らないんだ。仮に見つけても戸籍を偽造して、それなりの後ろ盾を用意しておけば問題ない」
あの後、死体も残らずに消滅したとでも言えばいいし、実際エリクサーがなければ死体も残さず消滅していたのだ。それは煉や綾乃に証言させればいいだけの話だ。一応の口裏合わせはさせてある。
「それにそんな事を言ってられる余裕なんか、連中にはなくなるだろうぜ」
言いながら、和麻は机に並べられた料理に箸を伸ばし、食事を再開する。霧香が食べられないのをしり目に、好き勝手食べている。
霧香も諦めて食事を口に運ぶ。あまり箸は進まないが、こうなれば自棄だと無理やりのどを通す。
「あなた、石蕗に何かするつもり? まさか神凪の不正を暴いたみたいな事をするつもりじゃないでしょうね?」
「俺は直接何もしない。まあそこに書かれた情報は公開するつもりではあるが、連中も恨みは買ってるからな」
さらに笑みを深める和麻。まるでこれから起こる何かを楽しみにしている子供のようだ。
「恨み? 国内のほかの退魔組織? それとも海外かしら? でも石蕗だってこの国最大にして最強の地術師の一族よ。確かに魔獣の封印を解かれ、何もできなかったと言う点では汚点でしょうけど、彼らに人的被害はないわ。首座である石蕗巌氏は健在だし、その娘の真由美さんもね。長女である紅羽さんはあれ以来行方不明だけど」
和麻の話に疑問を覚える霧香。いかに今回の件で彼らが何もできずに、お株をすべて神凪に奪われたとは言え、それでもまだすぐに誰かが彼らに害をなそうなどとは考えないだろう。
「いやいや、いるんだな、それが。石蕗は、そりゃぁーまあ恨みを買ってるぞ」
実に、本当に心の底から楽しそうに笑っている。嫌な予感ばかり募る。
(もう、本当にこれ以上厄介ごとを起こさないで欲しいわ)
半ば泣きながら、やけくそ気味に霧香は料理を口に運ぶ。悲しいことに、その料理はどれもおいしく、霧香は複雑な気分に陥るのだった。
◆
石蕗巌は屋敷で憤慨していた。そのことで、政府や国内の他の退魔組織から役立たずやら、無能などの誹りを受ける羽目になっていた。
当然だ。今回の一件で、彼らは何の役にも立たなかった。
事件を解決したのは、先ごろから凋落した神凪一族。しかも大きな被害を出すことなく、魔獣とそれを復活させた首謀者を打ち取った。
その功績は大きく、政府も掌を返したように神凪を称賛し、持ち上げ始めた。
もし今回の事件解決に石蕗の術者が一人でも協力していれば、ここまで石蕗が叩かれることはなかっただろうが、生憎と巌をはじめ誰一人として助力していない。
唯一、紅羽だけが魔獣の後に出現した巨人との戦いに参加すると真由美に伝えて、そのまま帰ってくることはなかった。
巌は思う。奴は最後の最後まで役に立たなかったと。
実の娘でありながら、地術師としての才能を受け継がなかったどころか、異能の力を身に宿していた。
あれは娘などではない。自分の娘は真由美一人。
今回の件で少しでも活躍していれば、少しは認めてやってもよかったが、何もできないまま姿を消したのでは逃げたのと同じだ。
「おのれ、紅羽、神凪め…」
忌々しそうに呟く巌。しかし彼の、彼らの受難はここから始まる。
そう、彼らは復讐されることになるのだ。彼らはある者達から恨みを買っていた。
それを巌は気づいていない。知ろうともしない。その結果がどうなるかなど、この時点で理解しているはずもない。
この日を境に、石蕗はある存在に、ある存在達に付きまとわれることになる。
……その相手とは。
◆
「はぁ? 石蕗一族の屋敷で心霊現象? ガス爆発? しかもそのせいでけが人続出? えっ、何? 屋敷が倒壊して分家の大半が下敷き?」
警視庁特殊資料室の一室で、霧香は部下である倉橋和泉から報告を受けてこめかみを指で押さえる。
「はい。ほかには車で事故を起こしたやら、食中毒を起こしたやら、ガス漏れで救急車で運ばれたやら。とにかく石蕗に様々な被害が出ています」
「この報告書に書かれているのって、事実よね?」
「はい。裏付けは取れています。これがこの一週間のうちに起きています。あまりにも異常です」
報告書には子供の悪戯レベルからシャレにならない事件まで幅広く記載されている。これは何だと、霧香は小一時間ほど問い詰めたくなる。
「そう。それで結構な人間が病院に運ばれたり、入院したりしてるのね」
「はい。車で事故を起こした中には、四肢の切断や車の炎上で全身火達磨で病院に運ばれた人間もいます。ほかの事故に巻き込まれた人間は大半の者は地術師と言うことで、すぐに回復をしているようですが」
「でも石蕗の屋敷にいた使用人にも被害が出てるのよね」
「はい。幸い死者こそいませんが、それでも被害は甚大です」
頭を抱える霧香に和泉は努めて平静に答える。
「……原因は、わかっているのかしら?」
「はい。原因と言うよりも犯人は分かっています。犯人はピクシーでした」
「ピクシー?」
ピクシー。つまりは妖精である。それがなぜ、石蕗を襲うのか。
「なんでピクシーが石蕗を…」
と言おうとして、霧香は思い当たる節に気が付いた。今回の一件で出された報告書にあった。
石蕗真由美にクローンを作りだし、成長させるために妖精郷の秘宝が使われた。しかもそれは彼らの里を強襲し強奪したと言う話だ。
つまり彼らはそれを奪還に来たのか。そのついでに、自分達の里を荒らし、秘宝を強奪した石蕗に復讐をしているのだろうか。
ピクシーと言うのは、悪戯好きと言う妖精と言うのは広く知られた伝説だ。しかし大多数の人間はその可憐な外見に見合う可愛らしい物であると思っているだろう。
だが断じて違う。彼らの悪戯はシャレにならない。相手に一生物の怪我を負わせたり、最悪の場合、死に追いやることまで彼らは躊躇わずにやる。
その結果が今の石蕗の惨状である。
「現在、石蕗はピクシーの対処に追われています。最悪、彼らを退治する可能性もあるかもしれません」
「……やめた方がいいとおもうわ。余計に被害が広がるわ」
ピクシーと言う種族は性質が悪いが、決して強い種族ではない。石蕗ならば簡単に駆逐できるだろう。
しかし霧香はその未来が想像できない。なぜか。それは和麻の存在である。
どうしても和麻の顔が思い浮かぶ。あの笑顔はすべてを理解していて浮かべたのだろう。
そしてピクシーの後ろには彼がいるような気がする。風術師である和麻は、ピクシーとも同属関係にある。つながりがある可能性は高い。ピクシー達に入れ知恵をしている可能性も十分にある。
「石蕗がさっさと秘宝を返して、ピクシー達に謝罪するのが一番いいと思うんだけど、その旨を私が言わなきゃならないのかしら」
胃が痛いと霧香は呟く。どうしてこう厄介ごとばかり起こるのか。
「とにかく、この件は私も何とかするわ。巌氏も早まったマネをしないでもらいたいわね」
しかし霧香の願いは叶えられることはなかった。この後、巌はピクシーによる悪戯で、一服盛られ、しばらくの間通院生活を続けることになるのだが、それはまた別の話である。
◆
「ねぇ、和麻。これで妖精郷の秘宝を返してくれるの?」
妖精郷の入口で、ピクシーの一人であるティアナが和麻に聞いてくる。その後ろにはその他大勢のピクシーが並んでいる。
中には族長も後ろに控えていた。
「おう。ご苦労さん。ほれ、約束のブツだ」
ティアナの言葉に懐からポイッと無遠慮に妖精郷の秘宝を投げた。
「あ、危ない!」
慌てて秘宝をキャッチするティアナ。ここでこれが壊れたらティアナが族長に殺される。
「もう! 大切なものなんだから、もう少し丁寧に扱ってよ!」
怒ったようなように言うが、和麻は知らんと返す。
ちなみにこのティアナ。妖精郷の近くで偶然和麻に出会ったある意味不幸なピクシーであり、その伝手で妖精郷との渡りをつけた。
なぜか彼らは和麻がコントラクターであると言うことを知っており、その口封じもかねて、今回は妖精郷の秘宝を引き合いに出し交渉に臨んだ。
「俺には関係ないからな。けどお前ら俺に感謝しろ。お前らの秘宝を取り返せたのは俺のおかげなんだからな」
「でもでも。あの連中に色々やったのは私達で……」
「それはこいつを取り返したことへの報酬だろうが。感謝しろよ、本来なら妖精郷の財産を半分寄越せと言う所を、今回みたいにお前らの趣味と実益を兼ねた事をさせるだけで済ませてやったんだから」
ついでにお前らの溜飲を下げるのにも一役買ってやったんだ、と尊大に言い放つ。
「いや、その前にしなけりゃ皆殺しだとか脅さなかったっけ?」
「それはそれ、これはこれだ。あと俺がコントラクターだってことは広めるな。広めた場合、妖精郷は終わりだと思えよ」
獰猛な笑みを浮かべながら語る和麻に、ティアナはぶんぶんと顔を縦に振る。後ろのピクシー達も同じだ。
「しかしお前らもよくやった。これで石蕗も色々な意味で終わりだ。ただあと一週間は続けろ。妖精郷の秘宝を返せってな。ついでにこう言った舐めた真似ができないように徹底的にやれ。お前らも秘宝を奪われて頭にきてるだろ?」
その言葉にピクシー達もそうだそうだと大合唱。族長に至ってはあの不届きものを許すなと仲間を鼓舞している。
「確かお前らはこんなことは前代未聞、空前絶後だとか言ってたな。だったら見せしめとして、二度と誰もこんな真似をしないように石蕗を痛めつけろ。見せしめは派手な方がいいぞ。妖精郷に手を出せば、どうなるかしっかりと教えてやれ」
その様子に満足した和麻は持ってきていた紙の束を族長に渡した。
「おお、これが新しい不届き者どもとその報復のやり方ですな」
嬉しそうに紙に書かれた情報を見る族長。ほかのピクシー達も私にも見せてと身を乗り出し見てくる。
「その通りにやれば、被害も少ないだろうよ。それ以上の事をして被害が出ても俺は知らん。あとそいつら以外に被害が出るのは極力避けろ。やりすぎらたら逆襲を食らうからな」
別にそうなっても俺の責任ではないけどなと、心の中でつぶやく。
まあその場合、こちらに協力を頼んで来れば、今度こそ妖精郷の財宝の半分を頂く算段はしていたが。
「心得ております、コントラクター様」
「よろしい。じゃああとは勝手にしろ」
そう言って、和麻は妖精郷を後にする。後ろでは妖精達がえいえいおーと全員が実にやる気に満ちた掛け声をあげている。
「うまくいきましたね、マスター」
「おう。いや、実に俺達好みに動いてくれたな」
妖精郷から離れ、パートナーであるウィル子と合流する和麻。今回の騒動の一端は間違いなく和麻達であった。
と言っても、その原因を作ったのは石蕗であり、彼らはその報復を受けているだけだ。自業自得である。
「ウィル子が作成したマニュアルを彼らが守ってくれるか心配でしたが、いやはや、中々どうして、ウィル子と同じような感性を持っていてくれているようで幸いでした」
超愉快型極悪感染ウィルスのウィル子と悪戯好きで享楽的で、子供のように無邪気で無思慮なピクシー。シンパシーも沸くだろう。
「この一週間で石蕗の屋敷は倒壊。人的被害も馬鹿にならず。壊れた車は数知れず。銀行カードは使用できず。投資した研究所は警察と政府が差し押さえ。マスコミにもリーク済み。神凪以上に悲惨だな、こりゃ」
「ついでに預金も奪えばよかったですかね?」
「いやいや、連中のはまっとうな金がほとんどだ。俺もそこまで手を付けてやるほどに鬼じゃねぇよ。ただし、連中が所有していた金以外の資産価値のある名画や調度品は全部ピクシー達に壊させたがな」
それだけで何千万、何億の損害である。車の被害も合わせれば、笑い事では済まない額である。
ほかにもピクシー達にいたずらと称して様々な事をやらせた。地術師でなければ、死人が出ていただろう。
「巌の方も一服盛りました。地術師だから、回復は早いと思ったので、かなり強力な薬を盛りました」
「何盛ったんだ?」
「いや、色々とミックスしたものを。どんな効果が出るかは知りませんが」
「鬼だな、お前」
「地術師なら大丈夫でしょう」
それにしても和麻とウィル子が指示を出したとはいえ、ピクシー達は本当によく動いてくれた。
まあ彼らも自分達の里を荒らし、秘宝を強奪した連中に容赦する必要性など皆無だろう。
「しかしエリクサーの代金を請求しなくてもよかったのですか? 秘蔵の霊薬で、もう二度と手に入らないでしょうに」
「金で買えないものを、金で請求させるってのはな。別に金に困ってるわけじゃねぇし、石蕗に欲しいものがあったわけでもないからな。神器やそれに匹敵するものでもありゃ、頂くんだが」
和麻としては金は余るくらいあるし、すぐに稼げるのでそこまで必要性がないのだ。
エリクサーの代金を煉やあゆみに請求するのも論外。和麻の中では、二人に請求すると言う選択肢がなかった。自分と翠鈴のことを重ねてしまったからだろうか。
「残念ですね。まあ今回はプライスレスってことですかね」
「たまにはこういうのもありだろ。それに石蕗で色々楽しめたから良しとしよう」
コネも作ったし、霧香にも恩を売った。これであとは日本で本格的な拠点づくりだ。
「さて、あとは霧香に任せて俺らもしばらくゆっくりするか」
「伊豆の別荘にでも行きますか。今は紅羽とあゆみが療養中ですが」
「そうだな。んじゃまあ、またバカンスでもするか」
こうして二人は不幸な目に合う石蕗とは対照的に、再び休養を楽しむことに決めこむのであった。
◆
静岡県の伊豆半島。温泉地としても知られる場所であり、現在、紅羽とあゆみはここで余暇を過ごしていた。
和麻が個人的に(もちろん偽名で)所有している高級の一戸建てで、セキュリティも充実し、使用人も数人配置している。
紅羽の場合はあの戦いの後、霧香に事情を説明し終わった後、和麻の伝手でここに身を寄せていた。
力を使い過ぎたことにより、一時的に昏睡状態となったが、自然の多いここで数日療養することで、ある程度回復した。
医者も腕の立ち、口が堅い人間を和麻は手配し、治療に当たらせた。その際、紅羽自身も偽名や偽造した保険証を使い治療したので、石蕗に見つかることはないだろう。
いや、和麻から聞いた情報で、すでに石蕗がピクシー達により、大きな被害を受けていることを知った。
さすがに石蕗でも風の眷属であり、自然の一部であるピクシーの群れが相手では分が悪いようだった。
地に足をついていればともかく、宙に浮き、和麻ほどの風術師でも真面目に対処しなければ発見が難しい相手だ。
そんな彼らが明確な目的を持ち、強襲されたのだ。しかもおそらく和麻の入れ知恵もあり、効率的に、かつ徹底的に、それでいて狡猾にやられているだろう。ある意味同情してしまう。
「でも自業自得でいい気味、かしら」
今のところ、妹である真由美はそんなに被害を受けていないらしい。屋敷が倒壊した時も、勇士がその身を挺して助けたとか。
その甲斐もあって、真由美は未だに五体満足でいられるらしい。
一度攫われたことで、勇士は己の無力を嘆き、真由美を今まで以上に守ろうと決意したようだ。
巌は毒を盛られ通院中だとか。あまりにも強力で、適当に調合されたものだったようで、普通なら死んでしまうほどであり、最強の地術師である巌をもってしても、すぐに回復はできなかったらしい。
呪いでもかけられていたのだろうか。
椅子に座りながら、木々から時折降り注ぐ光を浴びる紅羽。足を地面につけているため、そこから氣を取りいれ、体の中で巡らせ体調の回復に努める。
肉体的にはかなり回復したが、まだ完治には程遠い。頬のコケも少しはましになったが、まだ病人とそう変わらない。美しかった黒髪も未だに白いままだ。
「終わったわね。ほんと、全部……」
これからどうしようか。空を見上げながら、そんな事を考えていると、不意に気配を感じた。
視線を気配の方に向けると、別荘の入口から一組の男女が出ていくのが見えた。
ここで匿われているあゆみと、そして煉だ。
和麻が秘密裏にここに連れてきて、ここ二日ほど一緒にいる。
「真由美と言い、あの子と言い、ほんと、一番に見てくれる人がいるのは妬けるわね」
出会いが欲しいなどと、今まで思ったこともない事を柄にもなく考えてしまった。
思わずプッと吹き出してしまう。
「そうね。そう言うのもありかしら。ゆっくりと探してみましょうか」
目を閉じ、椅子の背もたれに体重を預ける。少しだけ気持ちが軽くなる。
全て終わった。復讐も終わり、自分には何もないと思っていた。
けど煉やあゆみを見て、自分もそう言う人を見つけるのもいいかもしれないと思わされる。現金なものだと思わなくはないが、妹たちが色恋に現を抜かすのなら、自分も少しくらい羽目を外してもいいだろう。
そう考えながら、紅羽はいつ振りかになる心地よいまどろみに身を任せるのだった。
◆
木々が生い茂る道を歩く煉とあゆみ。
あの戦いが終わった後、数日間は離れ離れだった。煉は事情聴取などもあったし、あゆみの存在を秘匿したり、色々と事後処理をしなければならない事情もあったからだ。
それがようやくひと段落し、こうして二人の時間を満喫している。
手をつなぎ、空から降り注ぐ日の光を浴びながら、たわいもない会話を続ける。
「ねえ煉」
「何、あゆみちゃん?」
あゆみの問いかけに煉は聞き返すと、あゆみは楽しそうに笑う。
「呼んでみただけ」
そう言って、あゆみはまた笑顔を深める。名前を呼び合える。それだけであゆみは楽しかった。
自分には何もないと思っていた。過去も、未来、何も……。
ただ生贄にされ、死ぬだけの人生。
記憶も知識も、オリジナルである真由美のものを適当に与えられていたらしい。
けれども今はそんなことどうでもよかった。
煉が隣にいる。自分の名前がある。それを彼が呼んでくれる。そして煉と一緒に生きていける。
自分の生まれが特殊でも、そんなこと関係ない。
自分は誰かのクローンではあるが、『あゆみ』と言う人間だ。
「煉、本当にありがとう」
あゆみはこれまで何度言ったかわからない言葉を煉に告げる。
「煉のおかげで、私はここにいられる」
「僕だけじゃないよ。兄様が薬を持っていなかったら、あゆみちゃんを助けることができなかった。姉様や紅羽さん、父様や宗主様の、みんなのおかげだよ」
「うん。みんなには感謝してる。お義兄様にはもちろん、お義姉様にも。でも私は煉に一番に言いたい。煉に会えたから、私は今ここにいられるから」
だからありがとう、と煉にあゆみは伝える。
「それとね、もう一つだけ煉に伝えたいことがあるの」
「?」
少しだけ顔を逸らしながら、あゆみは頬を赤らめる。その姿に煉は少しだけキョトンとする。
「わたしは煉の事が……大好きだよ。不束者ですが、これからもよろしくお願いします」
まっすぐに言うあゆみに煉も顔を赤らめる。
「あっ、はい。その…こちらこそ…よろしくお願いします」
恥ずかしそうに言う煉だが、ここで気付く。自分も伝えなければならない言葉があると。先にそれを言えと自分に悪態をつく。
「あゆみちゃん、僕もあゆみちゃんの事が、大好きだよ」
こうして少年少女の物語は新しく始まる。その先には様々な苦難が待ち構えているのだが、それはまた別の話である。
あとがき
三巻終了しました。ここまでくるまで長かった。プロローグから合わせて五十話で三巻終了。
風の聖痕のSS事体が少ないこともあり、ここから進んだ作品をほとんど見たことがない。
あっても、四巻始まるところで終了で、ラピスが出た作品を見たことがない。
どこかにあったかな、そんな作品。
さて次回は短編みたいな感じで、各キャラの絡みを増やしたいのですが、どうしたものか。
最近は風の聖痕の続編が出ることなどないので、モチベーションの維持が難しいです。
まあ皆様の感想だけが唯一の燃料です。これからもがんばっていきますので、よろしくお願いします。
最後に三巻が終了したので、今さらながらに風の聖痕を執筆してくださった故・山門敬弘先生に感謝を。
ご冥福をお祈りいたします。