目が覚めると、病室にいた。消毒液の匂いが鼻に障る。 まだ夢の中にいるような、茫洋とした感覚。 ここは、どこだろう。見慣れない病室だ。 体は微動だにできない。ギブスで全身を鎧のように固められていた。 人工呼吸器のマスクに、息を吹きつける。それだけで、体が疼くように痛む。「ふむ。目が覚めましたか」 すぐそばから声が聞こえてきた。それでようやく、かたわらに人がいると気づいた。 首もろくに動かせないので、横目で見る。 雪のように真っ白になった髪を後ろに撫でつけた老人だ。刻まれたシワが、自然に笑い顔をつくっている。白衣姿で、医者だとわかる。「ここは」「病院ですよ。天空闘技場とは、目と鼻の先です」 そう言うことか。 思い出してきた。 シュウと戦ったのだ。最後のほうは記憶が定かでないが、その結果がこれらしい。「俺は、どれくらい寝ていたんです?」「はて……一月とすこし、といったところですか」 老人の答えに、言葉を失った。 一ヵ月。 それほどの間、意識が戻らなかったのか。「あなたは、運がいい」 ものを噛むように、ゆっくりと。老人の口調は、あくまでやわらかい。「たまたま、先生がいらっしゃらなければ、命を落としていたところですよ」「……先生?」 尋ね返す。どうやら、命の恩人が別にいるらしかった。「わたしの師匠です。死すべき定めのものすら、治す。死神(デス)ハンターの異名を持つ神医です。名は、ヘンジャクと」 老人の目が、シワだらけのまぶたに隠れる。「その腕に惚れて、わたしも、年甲斐もなく弟子入りした次第でして」 老人は七十ほどに見える。その師が、彼より若いにせよ、老いているにせよ、それほどの歳で人の下に着くことを決意できる。この老人もまた、尋常ではない。 七十を超えて、まだ向上(さき)を求めるものが、非凡でないはずがなかった。 ゆったりとした老人の言葉に合わせて、時間まで緩やかになっていく気がする。 だが、それを破るように。引き戸が乱暴に開かれた。「おう、じいさん。どうかね」 言いながら、入ってきたのは女だった。 年の頃は、さて、三十前か。白衣姿に、ろくに梳かしてもいないぼさぼさの髪を後ろでくくりつけている。目鼻立ちは、よく見れば相当に整っている。だが、まるで磨かれていない、原石そのままの容貌だ。多くの人間は、目を素通りさせることだろう。「ああ、先生。いま目覚めたところですよ」 老人は顔をくしゃりと折りたたんだ。どうやら、この女性が神医ヘンジャクであるらしい。 意外だった。 老人の年齢から見て、五十より下ではあるまいと、勝手に想像していただけに、ひときわ若く思える。「それは重畳」 潤いのない、乾いた声だ。それが自然であるだけに、胸にはりついたふたつの巨大なふくらみに、強烈な違和感を感じる。 でかい。「ヘンジャクだ。どうだ?」 若き神医は、乱暴な笑みで話しかけてきた。「え、あ。まあ、全身痛いです」「阿呆か」 素直に言ったところ、にべもなく言い下された。「その体のことなぞ、お前さんよりよほど知ってる。でなけりゃ恥ずかしくて神医なんぞ謳っちゃいないさ」 平然と口にした言葉に、自信があふれていた。なるほど、確かにこれは、雰囲気がある。「じゃなくて、感想だよ。えらく熱心に胸を見てたろう?」 ばれていた。何でもお見通しらしい。 と言うか、感想なぞ求めないで欲しい。どう言えと? 老人はと見れば、楽しそうに笑顔を浮かべている。他人事だと思って気楽なものだ。 冷や汗が伝うのを感じながら、言葉を選んでいると。「ア、ズマ?」 開かれた扉の向こうから、耳慣れた声が聞こえてきた。 ツンデレだ。 そう思い、目をやって――後悔した。 髪が、すこし伸びて、すこし、痩せている。心配をかけた――のは、あとで謝るとして。 その右手に、尿瓶が握られていた。 俺のか。 たぶん間違いない。 うわ、何でツンデレがやってんだよ。そこはナースに任せて欲しかった。「アズマぁっ!!」 ツンデレが駆け寄ってくる。 とびついてくる姿が、スローモーションのように見え――って、これあからさまな死亡フラグ!「きゅ!?」 間一髪。ツンデレの体が、空中で静止する。ヘンジャクが首筋を掴んでいた。「患者に触れるときはもっとやさしくやれ。また殺す気か」「あ、す、すみません」 ツンデレは、しょんぼりとうなだれる。 あやうく、抱擁と引き換えに入院生活が伸びるところだった。 ヘンジャクには、感謝の言葉もない。「――で、胸を見た感想はどうかね」 聞きたいならあんたがぶら下げてる、鬼の顔をしたヤツの誤解を解いてください。 俺の療養生活を、一月ほど延長させたツンデレが退場させられたことは、さておき。「俺は、全治何ヵ月くらいなんですか?」 ヘンジャクに、尋ねた。 すでに一ヵ月経っているはずだが、体を動かすたび、痛みが疼く。後どれくらい待てば、動けるようになるのか。「肉体的には、百八十六日と三時間ってとこだな。安静にしてりゃあ誤差八時間以内で保障する」 細かすぎる。はたして全治とは時間単位で計れるものなのだろうか。 彼女の言を信じれば、約半年ほどか。長すぎる。「まあ、右腕は単純骨折だ。四十日ほどでギブスは外れるさ」「なぜ右腕」「あんたくらいの歳で、我慢しっぱなしは辛いだろう?」 黙れエロ医者。その動きやめろ。あんたはオヤジか。「そういえば」 ふと、気づく。「肉体的には、ってことは、ほかにも何かあるんですか」 言葉の含みからすると、そんな気がした。「ん? もう気づいてると思ってたけどな」 女医は、意外そうに首を傾ける。「たとえば、これだ」 彼女の左腕が、ゆっくりと上がる。 なにか、得体の知れない圧力が感じられた。「死線の番人(グリーンマイル)。触れているあいだ、対象がどんな状態に陥いろうと、死なせない。おまえを救った能力だ」 ヘンジャクは言った。俺の目には、なにも見えない。“凝”を――するまでもない。気づいた。 念能力者が、オーラが見えないなどということは、ありえない。見えないということは。「念能力が、なくなった?」「いや。なくなったって表現は、違うな」 神医と呼ばれる女は、首を横に振る。「いわゆる“絶”状態。命にかかわる重傷に、体が生命維持モードに入ってるわけだ」「なら、体が治れば、念能力も使えるようになるんですか?」 傷を癒すため、自動的に“絶”状態になっているのなら、必要なくなれば、自動的に“絶”は解けるのではないか。そう期待した。 だが、ヘンジャクは首を横に振った。「ブレーカーが落ちたようなもんだ。強制的に“絶”状態にするために、精孔が硬く閉じちまってる。それを開くのは、並大抵のことじゃあ無理だ。まず、自然に回復することはないと思ったほうがいい」 血の気が引く音を、聞いた気がした。 つまりは。念能力はおろか、オーラすら失ったままということか。 それは、まずい。 念がなければ、グリードアイランドに入ることすら、適わない。それだけは、絶対にだめだ。「どうすればいいんです?」 すがるような気分で尋ねた。 むう、と、唸ったヘンジャクの口が、への字に引き結ばれる。「難しいな。一から精孔を開くより、ずっと難しい。無理に“起こせ”ば、間違いなく体に障る。かと言ってまともな手段じゃあ、一生かかっても念を取り戻せやしないだろうよ」「なにか、手段は?」 この際、手段を問うわけにはいかない。最悪、無理やり“起こす”ことも、考えなくてはならない。 その様子に気づいたのだろうか。ヘンジャクは、難しげに頭をかきだす。 ふいに、彼女の方眉が跳ね上がった。「ある種の薬草が、精孔を開く、補助的な役割を果たす――らしい」 それは、直感だった。 ヘンジャクは自信がなさそうに言ったが、それだ(・・・)と確信した。「それは、どこに?」「わからんな。わたしも小耳に挟んだ程度だ」 動かない体で思わず身を起こしかけて、ヘンジャクの指一本で押さえられた。「その気があるなら、知り合いに植物(プラント)ハンターがいる。蛇の道は蛇だ。紹介してやるから、そいつを当たってみな」 そう言って教えてくれた場所は、エイジアン大陸の中央部。世界有数の高峰を抱える山岳地帯だった。 さらに、件のハンターのホームコードを俺に伝えて。「ま、これでわたしの役目は終わりだな」 彼女は、そう告げた。「もう診てくれないんですか」 彼女以上の医者は望めない。それでなくとも医者を代えることは嫌だった。 俺を見て、ヘンジャクは笑った。色のない笑みだ。「わたしが診るのは、わたししか治せない患者だけだよ。あとは普通の医者で事足りるさ」 自信にあふれた言葉だった。この若さで神医と呼ばれるその腕と、才。だからこそ許される傲慢だ。 そこまで言われては、引きとめる言葉がない。「一月も同じ患者を診ていらしたのも、実は珍しいんですよ。普通なら、危険な状態を通り過ぎれば、ふいと去っていくような方なんです」 老人が、横からにこやかに付け足した。「植物状態で治ったと言えるかよ」 ヘンジャクは、とたんに顔を背けた。照れているらしい。「まあ、いいものを見せてくれたお礼だ」 そっぽを向いたまま、彼女はつぶやいた。「いいもの?」「あの試合だ。あれは、凄かった」 あの試合とは。 シュウとの試合だ、と、思い至ったのは、しばし考えてからだった。「そういえば、シュウは」「あいにく、わたしの手にかかるような怪我じゃなかったさ。それでも、普通なら六ヵ月近くはかかるだろうがね」 途中から記憶になかったけど、善戦ぐらいは、していられたのだろうか。 怪我のほどを見ると、痛み分けらしい。「たまたま試合を見に来ておりましてな。あなたが倒れるや、飛び出して行かれたのですよ」 老人は、ほほえましげに顔をほころばす。「ジジイ、黙ってろ。戦う男の筋肉(にく)が触りたくなっただけだ」 照れ隠しだろうが、最悪だ。このエロ医者。「エロ医者。最後に」「お前、いま、なにかとんでもないこと言わなかったか?」「さて、取り立てて変わったことを仰ったようには、聞こえませんでしたが」「ジジイ……」 エロ医者は、据わった目を老人に移した。 この老人とは、なかなか気が合いそうだ。「この怪我を、早く治せるような、そんな能力者がいたら、紹介してくれないか?」 望むところはそれだった。六ヵ月では遅すぎる。それほどツンデレを待たせるわけにはいかない。「勧めないぞ。体のことを考えるなら、じっくり治すほうがいい……と言っても、お前はもう、わたしの患者じゃないか」 ヘンジャクは、あきらめたようにため息をついた。「ジジイ。お前なら二週間でいけるだろう。今度はヨークシンだ。先に行ってるぞ」 そう言うと、彼女は扉から出て行く。「はいはい」 老人は好々爺然とした笑いを浮かべた。この老人も念能力者だったのか。それすらわからないとは、不便極まりない。 と、ひょこりと、エロ医者が扉から顔を覗かせた。「よかったな。二週間だったら、なんとか我慢できるだろう?」 さっさと行け、エロ医者め。