ゆらり、体が揺れた。 と見えた、刹那。“アズマ”の体が、見えざる力に弾かれたように吹き飛ばされた。 いや、飛んだのだ。不恰好ながら視線は相手をまっすぐ捉えているのがその証左。 飛び来る“アズマ”を迎え撃つシュウ。その踏み込みに先んじて、アズマの拳が不自然に加速する。 拳は、容易くシュウを捉える。その体がずれた事からも、威力のほどが想像できた。 シュウが足を踏みしめたときには、すでに“アズマ”は居ない。 かと思えば、あらぬほうから拳が降ってくる。 上下左右に跳ね回りながら止むことのない“アズマ”の攻撃を、シュウはあきらかにもてあましていた。 速い。 いや、シュウですら避けられない超加速の連続発動は、間違いなく己を滅ぼす。 速さではない。早さだ。 攻撃をする上で当然経るべきあらゆる動作を省いた分、攻撃の出が異常に早いのだ。 しかも予備動作も初動もないから、予測がきわめて困難なのだろう。シュウの苦戦が、それを如実にあらわしていた。 それにしても。動きにまったく“ヒト”が感じられない。まるで壊れた操り人形のようだ。 その動きに、思わず見入りかけ――いきなり画面が暗転した。 真っ暗な画面に映っているのは、包帯だらけの自分と、リモコンを持ったツンデレだけだ。「何で消すんだ」「だって、このあとアズマがむちゃくちゃにやられるんだもん。見たくない」 髪の毛とリモコンの取りあいをしながら、ツンデレは不機嫌そうに口を尖らせている。 まあ、気持ちは、わからなくもない。 この怪我の原因だしな。かなりグロい光景だったろう。あのエロ医者がいなかったら死んでたらしいし。「こんなもの見てないで、おとなしくしててよ。まだ安静にしとかなきゃだめなんでしょ?」 リモコンの電池を抜きながら、ツンデレはため息をついた。「まあ、そうだけど」 息を、掌に落とす。そこに見えるべきオーラ(もの)は、かけらも見えない。 シュウとの闘いの後遺症だ。死亡寸前の極限状態に、体が強制的にオーラを絶ってしまった。目が覚めてから八日。エロ医者――神医ヘンジャクに弟子入りしているじいさんのおかげで、怪我自体は順調以上に回復し、腕のギブスも今朝外れた。だが、いまだ念能力は戻っていない。 さっきからリモコンのボタンを連射しまくっている髪の毛の操り主も、当然見えない。 会話もツンデレを通してしかできないので、ロリ姫はいささか不機嫌らしい。今日は、六ヶ所で髪の毛がロールを巻いていた。 ツインテールから四本、頭頂部から枝分かれして二本。ツンデレが気にするそぶりもないのはあれか、ツッコミ待ちなのか。 もし本当に気づいてないのだとしたら、素晴らしいと言わざるを得ない。 と。もうそろそろ二時か。「ツンデレ」「あ、そろそろ時間? 先生呼んでくるね」 ドリルどころかリモコンまで髪に装着したまま、ツンデレはばたばたと病室を飛びだしていった。 言ったほうがよかったのだろうか。まあ、じいさんがツッコムだろうな。どちらにせよ怒りはこっちに向いてくるんだろうけど。 じいさんの能力は、回復力を促進させる強化系の念能力だ。一瞬で再生するような強力な力ではない代わりに、体への負担も少なく、効果も、一度の施術で二十四時間持続する。おかげで一日一度の診療以外、退屈極まりないのだけど。 ため息を落とし、窓ごしに外を見る。 今晩は、降るな。 青空をながめながら、なんとなくそんなことを思う。勘だけは、やけに冴えている。じいさんにも、催促したほうがいいかもしれない。 目を開く。薄暗い病室の中、湿度の高い空気が鼻を撫でた。夕方から降りだした雨は、消灯の時刻を過ぎても降りつづいているらしい。 リノリウム張りの床は、暗がりでもそれとわかるほど湿っている。 眠れない。“絶”状態のせいか、神経がひどく研ぎ澄まされている。廊下を行く看護師の足音から、身長や体型、仕草まで、手に取るようにわかる。 女性看護師の重たい足音が詰め所のほうに遠ざかっていくのを聞いて。 ふいに。はるか遠くから、視線が絡みついてきた。 視線を送る。緑豊かな広場をはさんだ向かいの棟の屋上。姿はないが、そこだ。 ここ数日、ずっとあのあたりから視線を感じていた。 いや。 意識を尖らせる。先ほどの位置と、わずかにずれがあった。 動いている。 ごくゆっくりと、だが確実に、気配はこちらに近づいてきている。 怖い。 そう思う。 正体の知れない何者かは、明確にこちらを狙っている。にもかかわらず、俺には対抗手段がない。念能力はおろか、ろくに身動きもとれないのだ。 不意に、死の匂いを感じた。 シュウとの戦いでは、感じられなかった。感じる暇もなかった代物が、真綿で閉めるように、心を締めつけてくる。 湿った気配が、角を折れた。 薄暗い廊下を、何者かがやってくる。 足音はない。だが、いまの俺には、明確に知覚できる。地を這いずるように。あるいは滑るように。 確かに、迫ってくる。 助けは来ない。 ツンデレは、近くのホテル。じいさんはどこにいるのか分からない。もとより、間に合うものではない。 すでに、気配は間近。 扉一枚隔てて、濃密な死の気配が漂ってくる。 と、水音が聞こえた。見れば扉の下から、水が流れてきている。 糸のように細く流れ込んできたそれは、見る間に水溜りを作っていく。 いくら湿気が強いといっても、ありえない光景だ。 ベッド脇に置かれた花瓶を手に取る。 花と水を抜いて、投げる。 水溜りは、花瓶を避けた。 あまりの光景に、投げた手を下ろすのも忘れた。 水溜りは、どんどん大きくなる。それが、通常ではありえない肉厚を持ちはじめたとき、ようやく――わかった。「やぁっと、会えたなぁ」 水溜りは、声を発した。その声音は、確かに、聞き覚えがあった。 ジェル。シュウを追っていた、体を液体と化す念能力者だ。シュウを行かせるため、傷つけたことで恨みを買った相手でもある。 水溜りが浮き上がり、人のかたちを取った。「この日をぉまぁって、いたぞぅ」 その全身から発せられる正体明白(・・・・)な圧力に、心臓を鷲づかみにされる。生ぬるい汗が、頬を伝う。 極寒の地で全裸で凍えながら、なぜつらいのかわかっていない。 たしか、ゴンたちに念を教えたウイングは、そう言ったことがある。 ならば、いまの俺の状況は、こう言うべきだろう。 極寒の地で全裸で凍えながら(・・・・・・・・・・・・・)、どうしようもない(・・・・・・・・)。「ひぇひぇ、念も使えなぃそのざまでなにができるぅ?」 おそらく、ここ数日の監視で、確信しているのだろう。そう言ってジェルは哂う。 絶望的だった。 いま、この瞬間にも、ジェルの伸ばした腕が、あるいは飛ばしたオーラが当たりでもしたら、俺は死ぬ。そして相手はそれを知悉している。 だが、それでも。 俺の目にはジェルと言う男が、矮小なものに映る。 致命的な状況を作りながら、なぜすぐさま殺さないのか。 なぜ、わざわざ声を出すのか。 見たかったのだ。俺が怯えるさまを。復讐と言う名の美酒に酔いしれたかったのだろう。 だが、念能力だけで優位に立った気になるなど甘すぎる。 こっちだって――必死なのだ。 無言で、スイッチを押す。 刹那。喉を裏返すような声とともに、ジェルの体が跳ね上がった。海老のようにのけぞった液体人間は地面に頭を打ちつける。液体のものでない、重い音。念能力を行使できていない証拠だ。 間髪入れずに手元のスイッチを押す。 ジェルの体が跳ねた。 じいさんのつて(・・)で借りてきた電気ショックの機械。あらかじめ床を濡らしておいたので効果は抜群だ。 およそ生物なら、電気ショックに対して例外なく体を硬直させる。 痺れる、と、俗に言う状態。特別な訓練を受けていない限り、その状況下で念能力の行使などできはしない。 とはいえ、ものが医療用だ。最大電圧でも人体に対して致命的とは言いがたい。 なら。死ぬまで電気ショックを与え続けるだけだ。 内臓を裏返すようなジェルの声にも、ためらわない。ここで殺さなければ、俺が死ぬ。 スイッチを押す。 スイッチを押す。 スイッチを押す。スイッチを押す。スイッチを押す。スイッチを押す。 スイッチを――押す、前に。 ジェルの手が、わずかに動いた。その瞬間。液体人間の姿は、かき消えた。 仕留めそこなったか。 手を、落とす。 息を吐いたのは、単純に安堵からだけではなかった。 消える寸前、ジェルは何かの紙を破いた。おそらく、第三者の念能力。ヤツには、仲間がいる。 面倒なことになった、のは、ずっと前からだけど。「祟るな、ありゃ」 それが、実感だった。 OTHER'S SIDE 空気が、変わった。と、同時に、言う事を聞かなかった呼吸器が脳の要求に応え、酸素を取り込みだす。 息もつかず貪欲に酸素をむさぼり続ける。 喉に絡むような呼吸も、次第に落ち着いてくる。それに従い、玉のような汗があふれ出してきた。 死の、数歩手前まで来ていた。 ジェルは、それを実感していた。保険がなければ、この異邦の地で朽ち果てていたところだろう。「なんだ」 不意に、声が、ジェルの耳をくすぐった。 「しくじったのか」 至極つまらなそうな声、ジェルの心に冷たいものが走る。「念も使えない同胞一人殺すだけじゃなかったのか」 薄暗い部屋の中、古びた椅子に座って。声の主は、ジェルを見下ろしていた。 漆黒の髪に切れ長の目、目鼻立ちは鋭いものの、どこか茫洋としたものを感じさせる男だ。 ミナミ。同胞の一人である。ジェルの仲間でもある。だが、たとえば炎使いのレイズや吸血鬼アモンなどからは、とかく見下ろされがちなジェルとは違い、仲間内でも独特の存在感を持っている。「たっ、頼むぅ。レイズたちにはぁ言わないでくれぇ!」「ま、いいけど。どうでも」 ジェルの懇願にも、ミナミは無関心な返答しか返してこない。「またやれば?」 心底どうでもよさそうな声にも、ジェルは救われたように顔を輝かせた。「こんどはぁしくじらない!」 拳を握り締めるジェルの様子にも、感心がないらしい。目をくれる様子もなかった。 ジェルは、これ幸いと、部屋を出て行く。 だから、ミナミの最後の声を、彼は背中で聞いた。「なかなか……素晴らしい」 ジェルには、それが何に対する言葉なのか、わからなかった。