すでに夜半を回った。星一つ見えない曇り空である。町の明かりは遠い。 闇の中、懐中電灯の明かりがゆらゆらと揺れているのが見える。 ヨークシン郊外の岩場である。 幻影旅団がマフィアたちと戦った。あるいはクラピカがウボォーギンと戦った岩場と言ったほうが分かりやすいかもしれない。 両脇から迫る岩盤はまるで巨大な壁のようで、おのれが崖の底にいるような錯覚を覚える。 ヘンジャクはひとり、歩いていた。 足音に歪みはなく、呼吸にも揺れがない。 静かな覚悟が、限られた情報からでも読み取れた。 やがて、奥のほうにひとりの人影が見えてきた。それが間違えようもなく老医者だと確認できるまで近づいて、ヘンジャクは持っていた荷物を地面におろした。回診に使う黒カバンだ。 深く、息を吐く音が聞こえた。「来てやったぞ」 ヘンジャクは言った。「重畳」 老医者の声で、ジグザグは短く応えた。 二人の距離が近づいていく。ジグザグの目の前まで来て、やっとヘンジャクの足が止まった。「一人で来たようだな」「当たり前だ」 ヘンジャクは、挑むように言った。「じいさんを放せ」 強い覚悟が、言葉を強く、静かなものにしている。「ああ」 老医者が、唇をゆがめた。「お前を殺してから、な」 銀光が尾を引いてヘンジャクの首を通った。 鮮血が噴水のようにほとばしった。 まさに。狙った瞬間が訪れた。 直線距離にして二キロメートル強、ジグザグの警戒網のはるか外。モニタ越しにその映像を捉えて、迷わず念能力を発動した。 ――“返し屋(センドバッカー)”・“加速放題(レールガン)”!! 音を従え、必中の魔弾は夜の空に吸い込まれていく。モニタの中で、ジグザグがのけぞった。 驚愕の表情が、見えずとも分かる。殺人を終えた後の奇襲など、想像できるわけがない。 そして姿の見えぬ第三者に気をとられたジグザグは、またも奇襲を食らうことになる。 死んだはずのヘンジャクが繰り出した一撃は、ジグザグの意識を吹き飛ばした。 神医と呼ばれたヘンジャクの、念能力の正体をジグザグが知るはずもない。 死線の番人(グリーンマイル)。触れた相手に死ぬことを許さない、死神の鎌を跳ね退ける神の手(ゴッドハンド)。だからこそ、ヘンジャクはジグザグの刃におのれから身を投げられたのだ。 じいさんを、ジグザグの支配から解放するには、ツンデレの除念に頼るしかない。 シスターはそれ以外の、あらゆる可能性を否定した。 だが、ツンデレを連れて行くわけにはいかない。約定を違えれば、じいさんの身の保障はできないのだ。 なら逆に、ツンデレの前にジグザグを持ってくればいい。ジグザグを気絶させて、その間に除念すればいいのだ。 ヘンジャクは医者である。というより、そのハイエンドだ。人の体のどこをいじればどうなるか、骨の髄まで理解している。相手の意識を奪うことなど、目をつぶっていてもたやすい。 だが、戦闘に関しては素人のヘンジャクがそれを実行するためには、どうしても相手の注意を自分から逸らす手段が必要だった。 ヘンジャクが殺されることで相手の油断を招き、そこへ不可避の一撃をお見舞いする。ジグザグの注意をよそにやって、死んだはずのヘンジャクが意識を刈り取る。返し屋(センドバッカー)が有効なじいさんの私物などいくらでもあるし、暗視機能つきの小型監視カメラは、別荘にあったものを流用し、カバンに仕込んだ。 最後の問題は、ヘンジャクの失血が致死量に達するまでに処置ができるか、だったが、それもクリアしたらしい。いつの間に処置したのか、ヘンジャクの出血はすでに収まっていた。 賭けに勝った。 ――そう信じた、刹那。 鮮血が飛んだ。 気絶するまでの一瞬の間に、ジグザグはおのれの首を掻き切ったのだ。「っじいさん!」 思わず叫ぶが画面越しに声が届くはずもない。 鮮血を撒き散らしながら、老医者の体がくずれおちる。ヘンジャクはすばやくじいさんの体を支え。 ――“死線の番人(グリーンマイル)” ためらうことなく、老医者へ念能力を使った。「馬鹿! 死ぬ気なの!?」 シスターが叫ぶ。 ヘンジャクの首から、血がにじみ出てきた。応急処置が十分ではなかったらしい。 いや、それだけではない。 死線の番人(グリーンマイル)をじいさんに使ったのだ。いまのヘンジャクには死を拒絶する術はない。動脈からの出血は、一瞬とはいえ彼女から大量の血を奪ったのだ。無理していい状況では、決してない。それを彼女に言うのは、釈迦に説法と言うものだろう。 彼女は、おのれの安全より老医者の命を選んだのだ。 その選択をあざ笑うように、黒い影がモニタに落ちた。人だ。ジグザグがこの場にいることを許す人間。素性は明確だった。 まずい。 ヘンジャクは気づいていない。老医者を助けることに集中しているヘンジャクには、そのような余裕などないのだ。「つかまれツンデレ!」 返事を聞かず、おのれの体に加速をかけた。それより早く、白い腕が体に絡んでいる。 急激な加速に人間の体は耐えられない。加減をした加速から、徐々に加速を強めていく。四度目の加速で最高速。瞬く間にヘンジャクの姿が見えてくる。「ブレーキ!」「分かった!」 一瞬にして意図を飲み込んだロリ姫が、地面にドリルを打ち込む。 がくんと、体が後ろに引っ張られる。 降り立ったのはヘンジャクたちのすぐそばだった。 すぐに異変に気づいた。 ヘンジャクを狙っていた影の姿は、もうない。 かわりに、老医者が地面に身を横たえていた。 心臓付近に大穴を空けた老医者に、命の痕跡は見られなかった。 立ち尽くすしかない。 十秒にも満たない時間の間になにがあったというのか。「じいさんがな……」 放心したように座り込んでいたヘンジャクが、口を開いた。「庇ってくれたんだ」 ポツリポツリと、ヘンジャクは状況を説明してくれた。 ジグザグが気絶していることを識っている(・・・・・)ヘンジャクは、じいさんを助けることに全力を注いでいた。背後で命を狙われているとは、思いもよらない。 その油断を突かれた。 最初から予測していたのか、それともただの保険だったのか。隠れていた刺客がヘンジャクの心臓を一突きにしようとし――意識がないはずの老医者が、ヘンジャクを振りほどいて彼女を庇ったのだ。 ヘンジャクは言う。老医者は確かに気絶していたと。なら、なぜ老医者の体が動いたのか。神ならぬ俺には、分かるはずもない。 その現象を医学や科学でに解き明かすつもりはない。老医者がヘンジャクを守った。その事実に、付け足すところは何一つなかった。「人は死ぬ」 真っ青な顔で、ヘンジャクはつぶやく。「それが自然であり、だが、死から逃れようと人があがくことも、また自然なのだ――そう、あんたは、言ってたっけな」 動かなくなった老医者に、ヘンジャクはやさしく語りかける。「その意思を尊び、力を添えるのが、医者だと。なあ、じいさん。わたしはあんたの命を引き換えにしてまで……なあ、じいさん。あんたぁずるいよ」 ヘンジャクの声が、涙混じりになる。 その姿を見ながら、引いた血の気が返ってくるのを感じた。 腹が煮え変えいるというのは、こういうことを言うのだと初めて知った。 許せない。 じいさんは恩人だ。見ず知らずの俺に、暖かく接してくれた。じいさんがいなければ、俺はいまだにベッドに縛り付けられていたかもしれなかった。 間違っても、こんなところで骸を転がされるようなザマになっていい人じゃない。「ジグザグは」 短く、聞いた。じいさんを殺した以上、そいつはジグザグになっているに違いない。「逃げた。逆のほうにだ」 短く、ヘンジャクは答えた。 ジグザグを許せない。それ以上に、じいさんの意思を無にはできない。ヘンジャクを守る。なんとしても。そのためにもジグザグは――殺さねばならない。 目を"凝”らして、じいさんの死体を観察する。 死んで間もないせいだろう。微弱なオーラが残留している。 さらに視る。 異種のオーラが混じっている。それが知覚できる。そのうちひとつは慣れ親しんだもの――俺のオーラだ。加速放題(レールガン)での攻撃の際、付いたのだろう。 さらに、もう一種のオーラはすぐそばにいるヘンジャクと同じもの。 そして――見つけた。「ヘンジャク」 声をかける。「じいさんの体、使う(・・)ぞ」「まさか……できる(・・・)の?」 遅れてたどり着いたシスターが、意図に気づいて尋ねてきた。 彼女が戸惑うくらい、無茶なことだとは分かっている。 だけど。「できる(・・・)。ジグザグの居場所を、必ず突き止めてやる」 やるのは初めてだ。だが、これくらいの芸当ができなければ、奇跡を起こして見せたじいさんに申し訳が立たない。「やってくれ」 ヘンジャクの言葉を聞いて、能力を発動させる。「――“返し屋(センドバッカー)”」 OTHER'S SIDE ヨークシンのはずれに廃ビル群がある。 時間も時間である。ヨークシンの中心から外れたこの辺りでは、治安の悪さも手伝って、ほとんど人影もない。 寝床を探してうろついていた浮浪者を視線で追い払うと、ジグザグはそこに腰を落ちつけた。「じいさん。失敗したな」 ジグザグはそう言った。辺りに人の気配はない。だが、呼びかけるような調子だ。「失敗と言うのは、決定的にターゲットを殺せなくなったとき以外は口にすべきではない。また狙えばいい」 呼びかけに応えるように。異質な音が発せられた。重年の磨耗を感じさせる、錆びた声だ。 どちらの声の主もジグザグである。 すでに十年近く、ジグザグは闇の世界で名を馳せている。だがそれ以前から、彼は長きにわたって闇の世界を生きてきた。「蜂の巣」 蜂とは暗殺者の隠語である。暗殺者の集団、あるいはその養成組織と言った意味になるだろう。 それが、ジグザグ以前の、彼の呼び名だ。 別人ながら同じ者の手としか思えない痕跡に、人々は巨大な暗殺者集団の存在を想像したのだ。 およそ五十年にわたる長期間、彼は「蜂の巣」の一員であり続けた。個人を証明できない彼には、実績を作ることはできない。「蜂の巣」の看板がすべてだった。 十年前、彼が一人の少年に憑依したことが、始まりだった。素養か偶然か、少年は彼に憑依されても自我を残していた。 稀有なことである。 ただし、同じ器の中で経験を共有する少年は、すでにおのれを“彼”と認識していた。 この幸運な偶然が、暗殺者ジグザグを生み出したのである。 “心渡り(ジグザグ)”の使い手二人が組めば、こなせない殺人などない。ジグザグはためらうことなく「蜂の巣」を捨て去った。 二人の“心渡り(ジグザグ)”。ジグザグに交錯する暗殺者の円舞。二人にして無限の暗殺者、それがジグザグなのだ。「少年」 老いた声が、部屋に響く。「今度は二人でやるか」「そうしよう。それが確実だ」 二種類の声が、ともに低い笑い声を発した。 それが収まったとき、ふいに窓から何者かが飛んできた。驚いて飛び退ったジグザグは、空中でその正体を知った。 死体である。 それもつい先ほどまで、おのれの肉体であったものだ。「――“天元突破(スパイラル)”」 反応する暇もない。 老医者の死体に続いて躍り出た影により、ジグザグの体はコンクリートの壁に押さえつけられる。間を置かず、無数の細長いドリルがジグザグの四肢を壁に縫いとめていた。 ――拙い。 ジグザグはとっさに、奥歯に仕込んだ毒を嚥下した。 飲めば速やかに死に至る猛毒である。 だが、望んだ死の瞬間が訪れることはなかった。「――“死線の番人(グリーンマイル)”」 冷めた女の声が聞こえた。 ジグザグの体に触れてそう言ったのは標的の女医者である。「お前にはもっとふさわしい死に場所を用意してやるよ」 その酷薄極まりない笑みに、ジグザグは血の気が引くのを感じた。 廃ビルのほど近く、ふらふらと浮浪者は歩いていた。 ねぐらにしていた廃ビルを追われて――ではない。襲ってきた敵から逃れるためだ。 浮浪者はジグザグだった。 敵に襲われた瞬間、老いたジグザグはちょうど視界に入り込んだ浮浪者に乗り移った。“心渡り(ジグザグ)”は死を発動キーにした念能力である。死に際して膨れ上がった強烈な思念を叩き込んで対象を乗っ取るのだ。 平時では、非念能力者ですら、乗っ取るのは難しい。 だが、老いたジグザグはあえてそれをやった。 賭けであった。だから、若いジグザグは残した。 自分は“心渡り(ジグザグ)”が成功するか。彼は生き延びることができるか。どちらも賭けであるが、共倒れになる可能性は、最も低かった。 いずれにせよ“ジグザグ”が残ればいい。そう判断しての行動であり、そして彼は賭けに勝った。浮浪者の意識を乗っ取ることに成功した。 とはいえ、老いたジグザグは乗っ取った対象に不満だった。 年のせいか、体が満足に動かない。その上、内臓に致命的な欠陥を抱えているようだった。 こんな体はとっとと捨ててしまうに限る。 廃ビルから逃れながらジグザグはそれを考えていた。 その願いはすぐに果たされることとなった。 道の向こうから、足音が聞こえてきたのだ。姿も、すぐにあらわになった。 女だ。若い。少女と言っていい年齢だ。 だが、体は極上。 無駄なく鍛えられた筋肉(にく)と、洗練されたオーラ。身のこなしから、相当の使い手と知れる。ジグザグは、彼女を次の体と決めた。 ひそかに、彼はおのれの体にナイフを突き刺した。浮浪者が護身用に持っていたものである。手入れしていない、錆の浮いたナイフが脾腹につき立つ。 激痛に耐えながら、ジグザグはゆっくりと歩いていく。 ちょうど、少女の目の前でこの体は死ぬはずだ。 冷静に体の余命を計算し、歩いていく。その体が傾いで地に倒れる寸前、死の直前に、ジグザグはおのれの目を疑った。 目を離した覚えもないのに、少女の姿は忽然と消えていた。 かつんと、背後で何かが落ちる音がした。 ジグザグが最後に見たのは、地面を転がる飴玉だった。 致命的な失敗。それが何故なのか分からぬまま、絶望を抱えて。ジグザグは死の淵に落ちていった。「あー……確かにものすごい殺気だったんだけど……いったい何なんだ?」 黒髪の少女は、出てきていきなり死んだこの浮浪者を見下ろし、しきりに首をひねっていた。 無論、自分が命拾いしたことなど、気づくはずもなかった。 この夜を境に、ジグザグの存在は闇の世界から消える。 彼が死んだいま、その存在を証明する一片の痕跡すらない、残ったのはジグザグの名だけだった。 その名すら、彼とイコールで結ぶものは、なにもない。 彼が生きた証は、この世界のどこにも存在しなかった。