clear!! ~都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編3~clear!! ~都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編4~今回の種馬 ⇒ ☆☆☆~都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編5~☆☆☆―――官軍の発した轟音が天を衝いて、波才は一瞬とはいえ体を震わせた。何か大きな動きがあることを本能で察知した彼は、落ち着かない様子で戦場を俯瞰した。そして、ついに焦れた彼の元に、報告が走りこんできた。「何だ、一体なんの声なのだ!」「波才様!」「どうした!」「敵本隊と思わしきものが突出し始めています! 中央に目立つ鎧を着込んだ男が、恐らく官軍の総大将です!」「なんだと!」その報告を聞いた瞬間、波才の震えは興奮へと変化した。獰猛な笑みを浮かべてしまうのを自制できなかった。それはチャンスだった。陣の内側に篭る敵の総大将を葬る千載一遇の好機。恐らく、両翼を兵数差で圧されてやむを得ず突出したのだろう。敵の両翼を崩した今、中央に突出した本隊はいわば鎧を失った胴体に等しい。波才が居る中央は、その数2万を越える大群だ。見る限り、兵数差は歴然としている。こちらは相手と何度か小競り合いしただけで、損耗らしい損耗は出ていない。「ふ、フハハハ! いいぞ、来たぞ、黄天の世が! 行くぞ、炙り出された敵の本隊を両翼を狭めて包囲し吹き飛ばしてしまえ!」波才の高揚を乗せた声が、黄巾本隊へ響き渡った。戦場はそれまでの流れから逸脱した。官軍の中央が戦場のど真ん中に突出して、それを確認した黄巾党は矛先を目の前の相手から逸らし始めたのである。それは戦場全体を俯瞰していればすぐに分かっただろう。中央に躍り出た一刀率いる本隊を中心に、水に投げ入れた波紋が広がるように黄巾党の槍が官軍本隊へと確かに方向を変えたのを。突出した中央が掲げるは十文字の旗。その事実にいち早く気がついたのは、両陣営片翼を支える軍師達であった。「そんな、いきなり隊列を崩して……ああ、あれは敵本隊!?」「黄巾党の動きがおかしい、急にタガが外れたぞ? どういうことだ」「冥琳! あれ!」「なっ、あれは天代様の部隊か! まさか!?」「あー、助かりました……でも今度はあっちが危険になりますよね、こっちはどうなってますかね」「ちょっと田豊さん、あんまり離れないで下さい!」「そうですわ、危ないですわよ」これまで事を優勢に進めてきた孔明は、自軍の統率が突然乱れたのに気がついて、そこから察したのだ。官軍本隊の中央突出。孔明は、自分が詰めていた手を盤上ごとひっくり返されたのを確信した。官軍の総大将、天の御使いは凄まじい肝っ玉を持っているに違いない。この状況で戦場のど真ん中に躍り出ることなど、普通は出来ないから。同じく、左翼の乱戦の最中、敵の乱れにいち早く気がついた周瑜は孫策の声で原因を知る。袁紹を守っていた顔良が勝手に動こうとする田豊に焦りながら声をかけて制止していた。それまで動くに動けなかった文醜が、顔に張り付いた返り血を手で拭い武器を担ぎなおして近くで所在無さげにうろついていた馬に跨ると、鬱憤を晴らすように声をあげた。「おぉーし、とにかく隙間が空いたんだ! 敵の指揮官をとっちめて来てやるー!」「ぶ、文ちゃぁ~ん!」「斗詩ぃ! 二人の護衛は任せたぜぇ! 文醜隊、遅れずに付いて来いよー!」「ハッ!」「はわわ、隙間を埋めて下さーい! 隊列の前を流形陣に攻勢を受け流します! 相手の本隊へ向かう部隊と敵左翼を足止めする部隊の二つに分けて! 乱れた隊列の隙間を埋めて、相手の追撃を交わした後に敵部隊の端を―――きゃあ!」流れが変わった事に気がついた両軍の判断は早かった。普通の軍同士であれば、お互いがお互いの指揮官の指示によって大勢は変わらなかったかもしれない。しかし、孔明の指揮する右翼は黄巾。時代がそうさせたとはいえ、人として大切な物を失いかけている獣。結果は、明暗を分けていた。「うるせぇ! 中央を崩せば俺達の勝ちなんだろう!」「ここの雑魚共を狩っても意味がねぇんだ!」「中央の官軍をぶっ殺せば、黄天の世を迎えられるんだ!」「そうだ! 俺達の目標は中央の総大将だ!」「蒼天已死!」「黄天當立!」「オオォォォォオオォォォオォォオォォ!」孔明の慌てて叫んだ指示を無視して、それを押し出すように彼女の居る黄巾右翼本隊も中央へと叫び声をあげ進軍を開始したのだ。馬上から突き落とされるようにして転んだ孔明は、頭を抱えて受身を取る。衝撃に短い悲鳴をあげて、だが、しっかりと意識は保っていた。目の前に吊り下げられた餌は最上級。これまで我慢を重ねていた獣は、もはや孔明の声ごときで留まる事は無かった。それを理解すると共に、口に入り込んだ砂利を吐き出して彼女は周囲を見回した。「捉えた! あいつが黄巾の軍師かぁーっ!」倒れた孔明がぐるりと視界を回して起き上がると同時に響く文醜の叫び声。獲物を持って馬を駆る彼女は、中央に移動する黄巾をなぎ払いつつ、確実に近づいてきていた。一角の将。それを確信する武を振るって迫る姿は孔明に恐怖を植え付けた。「―――! に、逃げなきゃ!」震えだした体に叱咤して、縺れるように走る。こんな場所で死ぬわけにはいかない。自分には雛里と共に誓った志があるのだ。今は闇の中に埋もれたそれも、何時か輝ける日が来るはずだ。伏龍と、そう呼ばれていた。ならばその名の通り、見事に伏した後に龍と化けてやろうではないか。こんな場所で果てることなど、自分は出来ないのだ。手近に放置されていた馬に転がるように飛び込むと、孔明は一目散に黄巾本陣へと走らせた。どうしても黄巾党の兵数から、文醜は進路を塞ぐ敵を払いつつ進まねばならず視認できるまで詰めたはずの距離は、徐々に、また徐々にと離れていく。「ちくしょー! どけっ、このー! 邪魔すんなー!」やがて孔明の背は、その小さな体躯も相まって文醜の視界から消えた。三国一を争う頭脳を持った少女はズキリと響く頭痛を手で押さえ必死に手綱を振って逃げた。この世界で諸葛孔明という少女の、初の敗北であった。一方、官軍左翼を実質支えている袁紹の部隊は、田豊が素早く乱戦の最中で凡そ1200の数の兵をまとめて先手として周瑜と孫策に預けた。そして、天代への救援となるよう指示を出したのである。官軍と孫堅軍入り乱れた混成部隊であったが、官軍本隊が敗走すれば自分達の負けであることが分かっているために驚くほど動きは滑らかであった。「雪蓮、背中を見せる賊に当たり、減らせるだけ減らすぞ!」「言われなくたって! 天代様も無茶するわね!」「言うな! 我々が敵の策にまんまと乗せられたせいなんだ!」「分かってるわよ! 絶対中央は敗走させないんだから! 我が部隊はこの孫伯符の背に続け! 乱戦で疲れた者も、もう一踏張り、根性を見せなさい! いいわねっ!」「応!」「おぉぉぉぉおお!」袁紹と田豊が慌しく部隊を取りまとめているのを後にして即席で組んだ孫策、周瑜の部隊は、今一度気炎を上げて黄巾党の後背に襲い掛かった。「あれは……江東の虎の娘か! このまま行けば我らと挟撃できるな!」勇猛果敢に突っ込んで蹴散らしていく姿を対面から確認した左翼の増援として派遣された皇甫嵩は、逆に受け皿となるように迎撃陣を敷いて黄巾右翼を待ち構えることを選択した。「押しに負けるな! 地に足を噛んで踏ん張れ! お前達が漢王朝の命の盾だ! くるぞぉぉぉぉおお!」「オオオオォォォォオォォォォォ!」「邪魔をするな官軍!」「止めろおおぉぉぉぉおおぉおぉ!」皇甫嵩の叫びが響き、衝撃は走った。盾を持つ者が部隊の前に出て、敵の歩兵とぶつかりあって鈍い音を戦場に響かせた。自らの体だけで支えきれない衝撃は、後ろに居た者に支えてもらい地を踏みしめた。一人が倒れれば、その隙間埋めるために兵が走る。走る人馬に自らが飛び込み引き摺り落として、多くの騎馬隊がその場で転倒した。空馬となったものも槍で転ばせ、それすら防波堤に利用する。一度ぶつかった皇甫嵩3000の兵と、黄巾右翼の数えることすら馬鹿らしい賊軍はまるで波間に打ち寄せる水のように、官軍へぶつかるとじわり後退した。その更に後ろから、黄巾の群れは再び官軍へと突っ込んでくる。途切れることのない波状攻撃だ。「踏ん張れ! ここが勝負の分かれ目だ! 命を懸けよ!」部隊を手足のように動かして、皇甫嵩はこの場の死守に全力を傾けていた。・官軍右翼でも、中央に吐き出された極上の餌によりそれまでの荒い統率でもって取れていた黄巾の部隊が乱れに乱れていた。馬を駆る者は一目散に、歩兵ですらも走って中央へとなだれ込んでいく。中央を圧せば我らの勝ち。それが本能で分かっているからこそ、目の前の好機に突撃していくのだ。自然と包囲が崩れ、絶望的な兵数差で黄巾とぶつかっていた袁術と張勲が率いていた部隊は救われたがしかし、とてつもない出血を強いられていた。中央に援護へ行けるどころか、部隊として機能しないほどの状態まで追い込まれていた。「袁術殿、張勲殿! 無事であるかっ!」「あ、こっちです劉表さん! 早くっ! 美羽様が……美羽様がっ……」「ま、まさか、袁術殿が―――!?」「ぬぁー! 許せぬのじゃあやつらー! 追うのじゃ! 追って奴らを倒してくるのじゃー!」「ああん、さすが美羽様っ! ボッコボコのベッコベッコンにされた直後にその考えなしの突撃策! どんな時でも自分を見失わない三国一の妄想美少女! いよっ、袁家の一番星!」「わはははは、もっとわらわを褒めてたもー!」「……元気そうですな」最悪の事態を一瞬想像してしまった劉表は、何時もどおりのやり取りを交わす二人に大きく肩を落としてしまった。呆れて頭を掻いていた劉表だったが、そこで気がつく。張勲の腕や足、果ては鎧にまで数多の矢傷と刀傷が無数に走っているのを。その一方で袁術には傷一つない。どこからどう見ても、彼女が体を張って袁術を守り通した証に違いなかった。無駄に明るく馬鹿をやっているのも、袁術に悟られないようにとの配慮だろうか。「……張勲殿、そちらの部隊は疲弊が激しいようだな。 後は任せて、陣内に先に戻られるといい。 何、本隊への援護は私が行くから心配はご無用だ」「あ、そうですか? じゃあお願いしますねー」「な、七乃、好き放題された奴らを放っておくのかえ?」「大丈夫ですよー、あそこのチョビ髭が微妙な劉表さんが美羽様の為に頑張ってくれるそうですよー?」「うむ! 劉表とやら、よろしく頼むのじゃ!」「チョビ……」もはや礼儀など忘れてきたかの如く、こんな戦場のど真ん中でふんぞりかえる袁術に劉表は僅かに顔を顰めたものの、すぐにそれを振り払った。そう、彼女はまだ子供。そして、自分が本陣の指示を無視して彼女達をいち早く陣へ帰すように言ったのは主を守る為に自らを壁にした心意気に胸を打たれたからである。子供に腹を立てるなど、この場でする事ではないのだ。地味に自慢のチョビを貶された事は悲しかったが、それもまぁ許せる範囲だ……許せる範囲なのだ。「任されよ、袁術殿、張勲殿」微妙に硬くなった声でそう言いつつ馬首を返して劉表は袁術隊に護衛の兵を割くと自らの部下に二、三指示を残し、陣形を整えて本隊への援護へと走った。ややあって、敵は劉表の前に姿を現した。確実に中央へと進む敵の中、数多の黄の旗に紛れて孤立した華の旗が敵のど真ん中で翻っているのを見て彼は目を向いて驚愕した。「なんと! 華雄殿はあの勢いに乗る敵を相手に奮闘しているのか!」確かに賈駆から伝令は出ていたはずである。本隊が突出するため、進路になる華雄隊は一度相手を素通りさせてから後背を襲えと。それが、実際に赴いてみれば四面楚歌の中で孤軍奮闘しているとなれば伝令が届くことなく果てたか、撤退しようとして出来なかったか。或いは、自らがあの黄巾の群れと相対することを良し、としたかだ。劉表はすぐさま陣形を変更し、彼自身が先頭に立ち突撃陣を敷いた。一点突破で、華雄将軍の下まで駆け抜けるために。「行くぞ! 敵を目の前にして背中を向ける阿呆共を貫く!」「獲物は目の前だっ! 食い破るぞ!」「江東の虎に続けぇい! 道は堅殿が開いてくれる! 遅れるでないぞ!」劉表の場所から1里と離れていないところから声が飛んできた。突撃をしながら横目を送れば、孫堅が自分と同じように突撃陣を敷いて黄蓋と共に敵の背に突っ込むところであった。本隊が彼女達の分だけ兵が薄くなったことを知った劉表は、突撃している最中で大声を張り上げた。「伝令ぃ!」「ハッ、こちらに!」「中央は薄くなっている! それだけを賈駆殿に伝えよ!」「ハハッ!」唸りを上げて突進する劉表の部隊から、二人ほど進路を逸れて飛び出して行った。・『予想外だ、まさか全黄巾党が一斉に中央へ寄って来るとは……』『やっぱ銅鑼が鳴ったら突進するような奴らだった』『『『『冷静に分析している場合かっ!』』』』そう、ぶっちゃけると全黄巾党が食いついてくるのは無いと思っていた。いくら何でも、目の前の矛を完全無視して突撃してくるとは思わなかった一刀である。味方の援護として敵を引き付けるという目的は達成できたがちょっと達成率が100%を余裕で越えてしまったようだった。『後退するか?』『この状況で後退したらすぐに食い破られる。 援護が来るはずだから』『流れが変わるまでは……』「味方が来るまでの時間を稼ぎます! 敵騎馬兵の突撃に対抗! 先に言ったように5人で一組、槍手に二人、それを支える人を三人で組んで方円陣を敷いてください!」今現在、一刀は“董の”が替わっている。本体は、前線に出てきてからというもの、口が震えて体も痙攣していたので使い物にならなかったのだ。この場では役に立たない。それも無理も無い話だった。本体が戦場を経験するのはこれが初めてだ。初陣がこれだけの激戦であったのは、脳内一刀の中にも一人として居ない。この場所では人の死が当たり前のように転がっており、今もなお物凄い速度で生産されているのだ。乱世を潜り抜けてきた一刀たちでも、これだけの激戦は反董卓連合や官渡決戦、赤壁など数えるほど。何十と経験していれば命は何回吹き飛んでいることか分からないだろう。戦の危険に規模は関係ないが、それでもこの洛陽での戦い、初陣である者には厳しい。目の前で、自ら突撃してきた馬の群れが槍に突き刺さって行くのを見ながら一刀はグルグルとその中身を変えて指示を出して兵を鼓舞し続け対応していた。「報告! 皇甫嵩様が左翼の援軍に成功したようです。 現在は孫策様、周瑜様と共に黄巾党を挟撃を開始したとのこと!」「報告です! 敵の中央本隊が何進様の部隊と交戦を開始しました!」「賈駆様より伝令です! 袁術隊と華雄隊は本隊に加勢する余裕は無いそうです。 一度、陣内に戻り体勢を整えて救援に向かうとのこと!」「分かった! こちらからも伝令を出そう! 陣から飛び出る時は盛大に鼓と銅鑼を鳴らしてくれ! それを俺達が後退する機の合図にすると! 頼むよ!」「はっ!」そう言って伝令が駆けた直後、一刀の横合いを一頭の馬が駆けぬけ、もんどりを打って倒れこんだ。土砂を巻き上げて、無数の礫が一刀に向かって飛んでくる。思わず腕を顔の前に持っていき、薄目を開いて確認した。騎手は居ない。 おそらく、乗り手を失った馬が暴走して、ここで倒れこんだのだろう。ここまで馬が飛び込んできたのだ、方円が崩されている。貫かれたのは、左方。顔に付着した泥を拭って、腰に差した剣を引き抜きつつ“白の”が叫ぶ。「左方の防御を固めます! 盾を持つ者は隣りに居る者を守ってあげてください! 方円陣を維持するのは困難なので、俺の居る場所を中心に偃月の陣をっ!」「偃月の陣だっ! 急げぇ!」「オォオオォオオォ」「俺の隣に来い! 人が足りないぞ!」「任せろ!」帰路の確保と敵本隊との備えで、一刀が居る中央が一番薄くなっている。前に動いても後ろに動いてもまずい。いざとなれば、何進大将軍を孤立させてでも一刀は逃げ帰るべきなのだろう。だが、それは一刀の性格から選ぶことは出来ない。この場で何とか留まるしかなかった。この場に唯一、幸いと言っていいことがあるとするならば一刀達の予想以上に、兵が天の御使いという名によって意気が上がっていることだった。一つため息をついて戦場をぐるりと見回して、そして自分の手から放たれた光の反射に眉を顰める。それにしても、この鎧は目立つ。 敵の勢いが異常な速さで中央へ群がるのは、数の差のせいだけでは無い気がしてきた。「この鎧脱いじゃおうか……」『『『『『……』』』』』ボソリ呟いた“蜀の”の言葉に、一刀達は黙った。・「何進様、後退しましょう! このままでは孤立してしまいます!」「分かっている!」「何進様、天代様より報告! 陣の増援が出てから中央は後退をするとのこと! それまでは何とか耐えてもらうようにと! 不可能ならばこちらへ一刻も早い合流をするよう指示が出ております!」「えぇい! 無茶を言いよる!」報告を受けて、何進は一つ雑兵の首を切り飛ばすと兵にこの場を任せてやにわに後ろへと下がった。敵本隊がなだれ込むように中央への攻勢を始めてから、まだ数分。しかし、早速タガが外れてきている。敵の本隊は万を超えているというのに、それを受け止めている自軍の数は4千足らず。下手に踏みとどまれば即座に敗れて可笑しくない。中央に陣取る天の御使いの率いる部隊は更に少ない。腰にぶら下げた水筒を掴んで一気に飲み干すと、何進の気持ちは固まった。「天代殿の隊と合流するぞ! 槍兵を前面に出して隊列を乱さず後退だ! 走れ!」「ハッ!」帰路に残した2千の兵は必要だ。 それは分かる。残るは中央でどういう訳かやたらめったら士気の高い兵が踏ん張っている一刀と合流して諸侯の援軍の到着を待つしかない。最初から一刀と何進がまとまって行動していれば話は早かったのだが何進はこの戦いが始まってからずっと、皇甫嵩と共に敵の中央本隊と小競り合いをしてきたのだ。下手に動けば自軍の数に勝る敵の攻撃に晒されることになるので中央に突出を開始した一刀に合わせて後退し、合流することは出来なかったのである。皇甫嵩が一刀に対応の是非を問いに行ったときに部隊を下げていれば息を合わせることも出来ただろうがそれはもう、今更なことである。そうして徐々に後退を始めた何進であったが、統率がしっかりと取れた黄巾の一団が突っ込んでくるのを視認すると自身も戟を握りなおして、胎に力を込めた。ほどなく、その黄巾の一団は何進の部隊を矢が打ち込まれるかのように抉りこんで、突き刺さった。前面に配置した槍の矛先を避け、自軍の内部へと突破を許したのだ。「おのれ、こしゃくな! 穴を埋めろ!」「見つけたぞっ!」一人ごちて、何進が指示を出すと共に馬を走らせた直後、怒声が響く。一騎駆けだ。突き破られた場所、何進から見て右側に騎馬が一騎飛び出してきて猛進してきた。黄巾の武将―――年若いが……おそらく、指揮官!「何進だな!?」「何だ貴様はっ!」「我が名は波才! 命を貰うぞ!」馬上で両者がその手に持つ戟を振り上げる。何進が走らせていた馬に波才の馬が横合いに並んだ。併走を始めたその時。両者の視線が交錯する。獲物を握りしめる腕がわなないて、同時にその体が揺れる。「やってみろ、小童ぁっ!」「死ねぇぃっ!」怒号一閃、上から振り落とした何進の戟。真下から掬い上げるように上半身のバネを持ってかち上げる波才の銀閃。ガァン! と鈍い鉄の音が響いて、両者の腕に僅かな痺れを残す。お互いに衝撃にのけぞり、殆ど同時に戟を引き戻した。左右で激突する衝撃と剣戟の音。2合、3合、4合。上下に或いは左右で銀の閃きが踊り、いつしかその音は周囲の音を二人から掻き消していった。最早聞こえるのは自らの筋肉の唸りと鼓動のみ。馬上であることさえも思考から消えていき、自らの武で持って目の前の男を打倒するだけ。打ち据える度に手に痺れが増し、振り上げる腕は重くなっていく。突然に音が蘇り、何進の肩当を吹き飛ばして波才の戟が顔の真横を貫いていった。鎖骨の横の辺りから肩にかけて、赤い流線が吹き上がる。痛みは、ない。「これまでだ!」「なめるなよ小僧!」大上段に構えた波才に、何進は更に馬首を向けて激突するのではないかと言うほど接近する。「ぬおおおぅ!」「足掻くかあぁあっ!」そして、突き入れるように伸ばした何進の鋭い打突が、しかし波才のなぎ払うような戟の振りで左へ流れた。その光景を、最初に発見したのは黄蓋その人だった。孫堅の判断で、黄蓋の部隊だけを先に一刀の元へと向かわせていた途中何進大将軍と黄巾の武将が一騎打ちを行っているところへと出くわしたのである。距離は短い。目視で100歩も離れては居ないだろう。「無粋か!?」「敵は賊! わざわざと正々堂々になどと、相手から放棄しているような物!」「わしも同じ結論に達した! 黄巾の武将を射る!」「お任せを!」それだけで、全ては通じた。指揮を任された男は黄蓋を中心にして歩兵で円陣を組んでねずみ一匹すら通れぬよう何重にも渡って張られた人により築き上げた防御網。その中心で、静かに、しかし確かに気を集中させて矢を番える。黄蓋の視界から兵、馬、戦場に在るあらゆる物が波才を除いて掻き消えた。次に剣戟と馬の嘶きが遠くへ遠くへ消えていく。ゆっくりと、しかし無駄なく彼女は弓を引き絞り―――必殺必中の矢は放たれた。空気を切り裂き、一直線へと突き進む。(殺った!)確信と共に胸の内で声をあげ、そして矢は敵の脳髄を打ち抜き、貫通させた。黄蓋と波才、二人の間に滑り込むように飛び込んだ一人の黄巾党の男の。もんどり打って倒れこむ、雑兵。戟を打ち合っていた二人の丁度中央に飛び込むようにして。「一騎打ちの最中に矢を射るとはっ! 官軍はそこまで腐っているかっ!」「戯言をする余裕があるかぁっ!」「うぐぐっ―――おのれ、預けるぞ!」新たな武将、黄蓋を一瞬だけ一瞥した波才は何進の戟と一つ打ち合ってここで何進を打倒することは叶わぬと見て馬首を返した。そして、何進がその後を追う事は無かったのである。「大将軍! 無事であるか!」「黄蓋殿か! 助かったぞ!」そう、正確に言えば何進は、波才の後を追って打ち合うことなど出来なかった。大将軍に抜擢されてから今日に至るまで、何進は自らの武を鍛え上げてきた。しかしそれでも、合数を重ねる毎に自分は徐々に追い込まれていたのを自認していた。認めたくは無いが、武として持ちえる才は、波才と名乗った男に劣っていたのだ。あのまま続けていれば、敗走したのは自分であったことだろう。じくじくと、今更ながら肩が熱を持つ。いや、この場で朽ち果てていてもおかしくなかったか、と何進は一人胸中で歯噛みした。「随分と自軍の兵から引き離されてしまった、黄蓋殿には私の直援を頼みたい!」「承った、間引くように矢を打ち込んで敵を怯ませ、本隊と合流することにいたしましょう!」荒い息を吐き出しつつ、何進は言った。孫堅の命は天代の直援であったが、ここで黄蓋は自らの判断で何進の援護に当たることに決めた。大将軍の不在は兵にとっても不安だろう。何より、肩の傷は見た目以上に深そうであった。数の差に押されている味方を一兵でも救う為に、武による鼓舞を行わなければいけないことを黄蓋は直感したのである。部隊を率いて本隊と合流した黄蓋の胸の内はしかし敵武将を屠る必殺として放った絶好の機を逸したこと。その悔しさを滲ませていたのである。―――一刀はその場を動かずに、何進と陣の帰路を守る部隊の楔として機能し続けることが出来ていた。その大きな理由として、孫策の、それに続くようにして来てくれた劉表の援護が大きいだろう。あわや一刀まで剣を持って奮うことになりそうであったが、それは孫策の援軍のおかげで防ぐことが出来た。30分とこの場に居ない筈であるのに、額からはおびただしい量の汗が噴出している。一刀は孫策の部隊に居た周瑜を、この戦場の軍師として一時的に指揮を預けた。周瑜は期待感と不安感を混ぜ返しながらも一つ頷いて一刀の命を受け取った。早速、彼女の提案で陣への退却前に、敵との一当てを提案される。そのまま後退しては、敵の怒涛の勢いに飲み込まれて兵の損耗が激しいだろうと指摘されたのである。これにはすぐさま頷いて、伝令を走らせた一刀である。入れ替わり立ち替わりでひっきりなしに一刀の元へ報告を持った伝令が飛び込んで来ては走り去っていく。「天代様、孫堅様より提案があるとのことです。 陣に退却するのは良し、しかし賊を野放しにするのはまずいと」「皇甫嵩様から伝令! 殿を務めた後、孫堅様と共に裏へと周り 陣へと群がる黄巾党に対して遊撃隊として動くとのことです!」「賈駆様よりもう少しで兵の再編を終えると! 退却の用意をしておくように、そう言われておりました!」「兵の士気は……あの二人ならそれも考慮しているか」『そうだね、多分』『再編が必要ならば向こうから言ってくる』『だな、素直に頷いておこう』(皆……)『本体、大丈夫? とりあえず俺達でやっておくからいいんだよ?』『そうそう、無理しないほうがいい』(大丈夫……ありがとう皆、助かったよ)「……孫堅さんと皇甫嵩さんには了承の旨を伝えてください 賈駆さんには既に退却の準備は進めていると―――」本体は、自分に体の制御権が戻ったことを確認すると、息を吐き出すようにしてそう言った。声が震えていないだけ及第点だろう。待ちに待った陣からの銅鑼の音が戦場に響き渡ったのはその時だった。ジャーンという甲高くも重苦しい音の余韻が残るうちに、一刀は自然に声を上げていた。「孫策さん、劉表さん!」「敵に一当てして後退する! 突撃するぞ!」「我が孫旗の下に続け! ぶち当たって道を開く!」一刀の声が早いか、彼らの声が早いか。それまで防戦に徹していたはずの敵。盾を構える敵の奥列から飛び出した騎馬隊によって黄巾党の部隊は乱れに乱れた。特に、孫策とかち合った賊軍は不運であった。出会い頭に首を切り飛ばされ、胴をなぎ払われ、体を中空に浮かせていた。その勇を奮う姿は敵の士気を挫いて、味方の気炎を上げさせたのである。「天代殿!」「無事であるか!」「はい、大丈夫です! 周瑜さん、いけますか」「はい、後退の準備は整っております! すぐに移動を開始しましょう!」「何進さん、怪我は?」「なに、この程度かすり傷です」乱戦の最中に出来た穴に突っ込んで戻ってきた何進と黄蓋の部隊に一刀たちは合流する。部隊を纏めて、官軍の本隊はゆっくりと陣へ向かって後退を始めた。勿論、逃げ帰るように陣へと後退する官軍を目にして、黄巾党は苛烈な攻撃を加えている。それらを守るのは、右翼、左翼から集まった諸侯の軍勢であった。後退するときが、兵の損耗は一番多いという。しかし、この帰陣に際して官軍の損耗はごく僅かですんでいた。大きな理由は武将の激烈な奮闘である。この時、既に名が轟き渡っていた江東の虎は言うに及ばず袁家二枚看板である文醜、顔良。そして、黄巾本隊で勇を奮った天の御使いに傍に居る『系』という旗に居た謎のピンクが正に当千の活躍を見せたのだ。この風評に、孫策は苛立ちを募らせたのだが彼女にとって不幸だったのは、乱戦で孫の旗の『子』が破れて読めなかったことにあるだろう。それはともかく。殿であった劉表の部隊が戻ると同時に、陣への扉は閂によって完全に閉められる。いち早く陣へと戻っていた一刀は、朱儁将軍への伝令を送ると陣防衛の為に軍師を集めた。「申し訳ありません、天代様。 敵の策にまんまと嵌ってしまいました」「いや、いいよ。 相手は突っ込むしか脳が無いと思っていたのは俺も一緒だし」自身のいらつきを隠すように唇を噛み締めて悔やむ周瑜に慰めを一つ。もちろん、本心からの言葉である。本体、脳内ともに、黄巾党を数だけを脅威と見て戦術性を持ち合わせていないと危険な断定をしていたのは事実である。だから、今日の敗北の原因は自分にあると言ってもいい。お互いに反省をしていると、賈駆と田豊が一刀の元にはせ参じた。二人は総大将の無事を確認すると、周瑜と同じように頭を下げようとしていた。それに機先を制する形で、一刀は“呉の”と交代しつつ口を開いた。「……何も言わなくていい、それより陣の防衛だ。 相手に後ろを抜かれる訳にもいかない。 何か良い案はあるかな」一刀の言葉に、一瞬だけ顔を見合わせる三人。次の瞬間には、三人ともに声を出していた。「天代様が囮を買ってくれたおかげで敵の目はこの陣に集中しています。 動きが変わらなければ、このまま防衛に徹するのが最善と思います」「そうですねぇ、敵軍師さんがこの状況で対応しないのはありえないと思いますので 陣後方に怪我をしている朱儁将軍だけでは心もとないですね。 武を奮える将を派遣しておいた方がよいかと思いますがー」「陣の外で遊撃隊として動いてくれる部隊を置くことを提案するわ。 武勇で有名な孫堅殿か、或いは用兵に優れる皇甫嵩殿を配置すれば 効果的に敵の数を減らすことが出来るわよ」「ああ、それはもう実行してる。 孫堅さんと皇甫嵩さんが自ら名乗り出たよ」「水は使い切っちゃいましたか?」田豊の問いに、賈駆は頷いた。沼地を作るために運び入れた水は、殆ど使い切ってしまっている。「相手が陣を崩そうとすれば、火を使うのは必至なんですが、水が無いとなると……」「土砂や水で湿らせた布で対応するしかないわね。 そうなると土砂を造ってもらう部隊が必要か 飲み水を使う手もあるけど、それは最後の手段ね」「時間がない、土砂掘削の部隊は私が率いて行きます」言うなり踵を返して、周瑜は走って自分の馬まで駆けていく。一刀は脳内で今もなお繰り広げられている会話を拾って尋ねた。「運搬の指揮は袁術さんに、えーっと、その護衛を顔良さん。 朱儁さんの下には文醜さんと田豊さんで兵2500で向かって? ください。 陣の守衛は俺と袁紹さん、劉表さん、張勲さんで当たります。 その指揮は賈駆さんにお願いします……問題はあるかい?」「いえ、適任ね……いいんじゃない」「天代様、戦を経験したことが?」「いや……初めてだよ」「……」何故か疑いの目を向けられて一刀は汗を掻いた。疚しいことをしている訳でもないし、腹に一物持っているわけでもないのだが脳内に自分が一杯いるだけで、何となくバレたくない。実際、脳内の自分は何度も戦を経験しているしおぼろげながら未来を知っていたり武将の有能さなどを知っていたりするので、バレたら大変な事になるのだが。「田豊殿、今はそんな細事に思考を割いている時ではないのは分かってるでしょ」「そうでしたね。 では猪々子さんとともに朱儁将軍の下へと向かいます」賈駆に促され、一礼すると共に田豊はてくてくと歩き去った。残された一刀と賈駆は、彼女を見送ってから自然にお互いに見合った。「天代様、丁原殿の軍から報告はありました?」「いや、まだ来てないよ」「そう……」そう呟いてから一つため息を吐き出すと、賈駆は一刀へ仕草で促した。一刀は一つ頷いて、陣の防衛の為に自分に出来ることを思い浮かべながら馬に跨った。・「弓隊は登れ! 敵を陣に近づけさせるな!」「来たぞ! 全員、門を支えろぉー!」「私にも弓を貸せ! 弓は不得手だが、この状況でじっと待っていることなど、とてもできん!」 一刀が陣の前線にたどり着いたとき、弓を兵から奪うようにして物見やぐらの様な物に駆け上がる華雄の姿を認めた。全員が、夥しい数で迫る黄巾党を退けるために死力を尽くしていた。中央に造られた急造で造られた木造の門。それは、火を用いられれば燃え、陣へ入り込む大きな穴を開けてしまうだろう。梯子が何十とかけられて、その上に足場を作り込み、上方から矢や水を雨のように降らせていた。閂は太く丈夫だが、敵だってこれを突破する為に必死なのだ。自分にできること……「良しっ!」「ちょっと、天代様っ!」門を突く轟音が響いてその光景を眺めていた一刀は馬から飛び降りる。突然に馬から飛び降りて走る一刀へ、賈駆は静止の声をあげるがそれを無視するように近くに置かれた矢束を引っつかみ、肩から提げるようにしてぶら下げると一刀は門へと走って、それを抑える兵の中へと混じった。「て、天代様!?」「何で天代様がここに!」「華雄さん!」兵の声を無視して、弓だけを持って駆け上がった華雄へと声をかけ持ってきたばかりの矢筒を放り投げる。彼の声に反応して、華雄はそれを受け取った。気持ちだけ先走っていたのだろう、彼女は弓を持って駆け上がったのはいいが矢を持っていなかった為弓を左右に振って味方を鼓舞するしか出来なかった。恐らく、あのまま放っておけば弓兵から矢を強奪していたことだろう。「すまぬ! 矢を忘れていた!」「どんどん射ってください! 皆、門は死守す―――っ!」三度門を震わせて、轟音が響く。程近い場所で支えていた一刀は、その衝撃に思わず言葉をとぎらせ転倒する。木片が飛び、薄く頬を切り裂いて、僅かに血を滲ませた。生半可な衝撃ではない。門越しにハンマーの様なものをぶつけられたのだと、衝撃越しに一刀へと伝えていた。「あーっ、人の手で門を押さえるなんて無理に決まってるでしょーが! そこ! 暇なら丸太でも木でも何でも持ってきなさい! つっかえ棒にするわよ! それと、劉表へ早く来いって伝令を送りなさい!」一連の一刀の行動に呆気を取られていた賈駆であったが、やがて自分の頭を掻き毟るととりあえず突っ込んでいった総大将は無視して指示をビシビシと飛ばし始めた。中央にあらかた指示を出し終えた賈駆は、ふと気付く。そういえば、袁紹は先にこちらへ向かっていたはずだ。「天代様、袁紹の姿が見えないわ!」「なんだって? ……え? マジで!?」「マジ?」「賈駆さん、ちょっと俺行ってくるんでココ見ててください!」「え、あっ、何なのよもうっ!」僅かな間を置いて、一刀は何か気がつくよう顔を上げると一気に駆け出す。何処へ行こうというのか、馬に跨るとためらわずに走らせる一刀に賈駆は毒づいた。一人であちらこちらへ、フラフラと駆けずり回る彼には、もう少し自分の立場を自覚してもらいたかった。「総大将ならどっしり構えてなさいよっ! 誰か、何人かで天代様を追いかけて!」「ハッ!」「了解しました!」「承知しました!」「俺が行きます!」「私がっ!」「俺も俺も!」「待て、俺も行くぜ!」「天代様を俺に守らせてくれ!」「何人かで良いって言ってるでしょーが! わらわら動くなっ! そこのあんたと貴女で行きなさいっ ほら、後は防衛に戻れぇー!」賈駆の指示に、ざっと100人は移動を開始し始めて、慌てて両手を振り上げて叫びを上げて制止に励んだ。必死である。その様子を、上から俯瞰していた華雄は一人ふっと小さく笑う。「軍師として活躍できて喜んでいるようだな、詠……楽しそうで何よりだぞ」的外れな勘違いで柔らかい笑みを浮かべつつ、真下で群がる黄巾の一人をその手に持つ矢で貫いた。一方で、走り出した一刀は天幕へと赴いていた。そう、袁紹の為に造られた天幕である。ようやく目的地へとたどり着いた一刀は一目散へと天幕の中に入った。「袁紹さん!」「……あら、天代様。 まぁ……随分と男ぶりを上げていらっしゃって」突然入り込んできた泥だらけの一刀を見て、袁紹はのほほんと口に手を当ててそう返した。そんな彼女の後ろでは、侍女だろうか。脳内の彼らが言ったように、自分だけ優雅にお茶を楽しみつつ数人の女性が袁紹のボリュームある髪をくしで梳いている。『『『『流石、三国志でも存在感のある袁紹だ。 この状況で動じていない』』』』『麗羽マジ麗羽』『はは、なんか、ごめん皆』「って、こんな事してる場合じゃないですって! 陣の防衛には袁紹さんも参加してもらわないと!」「そんな怒鳴らなくても分かっておりますわ。 少し汚れを落としていただけですのに」「……汚れはいつでも落とせますよ」はいはい、とでも言うように片手を挙げてそう返答をした袁紹に、一刀は声のトーンを下げて言った。皆が死力を尽くして陣の防衛に躍起になっているのに、彼女は少し汚れたくらいで自分の天幕へと戻って身だしなみを整えているのだ。いくら何でも協調性が無さすぎる。そんな本体の怒りの感情をいち早く察知した脳内は、“袁の”が一刀の体をスッと乗っ取った。本体の怒気に任せて、諸侯との間、或いは一刀との間で亀裂を生むわけにはいかないからだ。(おいっ!)「えっと、だから、れい……袁紹さん、俺と一緒に指揮を執りましょう。 俺は他のどんな人より、袁紹さんの指揮する姿が一番美しくて華麗だと思ってるんですから」「おほほほほ、そんな事実を仰らなくても宜しいですわよ」「分かってくれて嬉しいよ、ほら、行きましょう」袁紹が頬に当てた手を取って、一刀は袁紹を笑顔で促した。瞬間、椅子に腰掛けていた彼女の身体がビクリと震えた。そして一刀の顔を見上げて、奮える声で言ったのである。「―――え? かずと……さん……?」「……え?」『『『『『『……え?』』』』』』(袁紹さん?)思わず触れていた手が離れる。お互い、戦の最中だというのに、視線を絡めて離せなかった。じっと見つめあう一刀と袁紹。そんな二人の異様な雰囲気に、どうすればいいのか分からずおろおろとしたのは袁紹の髪を梳いていた数人の侍女であった。いきなり目と目で通じ合った自分の使える主君と、天の御使いが見詰め合って動かない。この場を外した方がいいのかとも思うのだが、下手に動くとこの雰囲気が崩れそうで動くに動けない彼女達であった。そんな一種、異様な空間を作り上げたこの天幕も、4度目となる門を突く轟音が響くことで終わりを告げる。ドンッっと大地を震わす重音に、時間が再び動き出したかのように一刀と袁紹は互いに身を引いた。「ま、まぁ天代様がそう仰るのならば、頑張らせていただきますわっ!」「あ、あぁ、うん……」髪をまとめなおして、鎧をもう一度着込むと、袁紹は一刀から逃げるようにして天幕の出口へと向かった。そんな彼女を呆っと見ていた一刀であったが、その時になってようやく声が出る。「袁紹さん、今、俺のこと……」「なななな、何のことですの? ぼやっとしている暇は無いですわよわよ!」呂律の回らない声でそう言いながら、袁紹は天幕の外へと飛び出した。一刀は、そして脳内はそんな今のやり取りに首を捻っているとふと自分に突き刺さる視線を感じて顔を上げた。侍女にガン見されているのに気がついて、一刀は気まずい思いに駆られた。「あーっと、俺も行かないと……」言い訳するように言葉を残して、一刀も袁紹の天幕を後にした。彼が去ると、残された侍女達はきゃいきゃいと今の出来事を振り返って黄色い声をあげたという。・黄巾党本陣に遠まわりするようにして逃げ帰った孔明は、ようやく人心地ついて周囲を見回した。詰めていなければならないはずの本陣に、余りにも人が居ない。どうやら、総大将の波才ですら敵の策にどっぷりと嵌って突撃したようである。確かに、敵の中央が突出したのを崩し、総大将を討ち果たすことが出来れば黄巾党の勝利には違いない。しかし、官軍の右翼、左翼はどちらも崩れていたとはいえ、仕掛けるには早すぎた。両翼をしっかりと押さえて、初めて中央が裸になるのだ。中途半端で両翼の押さえを外してしまうならば、最初から攻撃を仕掛けないほうがマシである。変に策など用いずに、ただ数で敵を圧倒した方が絶対的に早い。まぁ、それも今更なのだが。視線を戦場に戻せば、官軍が陣に篭ったのだろう。一箇所に集まって攻め寄せる黄巾党の黄色い帯が、荒野に生え揃っていた。迂回して洛陽を目指してしまえば、官軍は陣から飛び出すというのにそれに気がつきもしない。これは、天の御使いの思惑通りになったことだろう。当然、迂回を選択すれば、それ相応の対策で持って迎え撃たれるだろうし後詰めも詰めているはずだが強固な陣を相手に群がるなど、暴挙もいい所である。如何に数の差があれど、兵数差は陣という盾によって埋められている。消耗戦に持ち込まれてることすら、戦をしている当人達は気付いていないに違いない。自分の指示がしっかりと聞いてもらえれば、こんな無様な戦になどならない筈なのに。「……こんなんじゃ、勝てるわけがないよ」孔明が呟くと、カタン、と天幕の中から音が聞こえてきた。明らかに、自分の声を聞いての物音だ。誰かに聞かれたということに驚くよりも、孔明は誰が居るのかを先に確認した。そこに居たのは、呆けたように自分を見つめる鳳士元であった。「雛里ちゃん……」「……あ」「そっか……雛里ちゃんも同じだったんだね」「朱里ちゃん……」戦略も戦術も考えず、目の前の餌を追って本能のまま動いた黄巾党に軍師である自分が何か出きる余地など残されていない。自分と同じように敗走して逃げてきたのだと、孔明は考えた。姉妹のように育った士元に、暗い顔は見せたくない。それだけを考え力の無い笑顔を作って、孔明は士元へ一歩近づいた。その足にあわせて、士元の足も動く。後ろに。「……あ」「……? 雛里ちゃん、どうしたの?」「お、同じじゃないよ……」「え?」「朱里ちゃんと、同じじゃないよ……」士元は帽子を被りなおし、俯いた。そして思う。そう、決して目の前の孔明と自分は同じではないと。彼女がこの場に居ること。それこそが証明しているではないか。官軍に勝たせるために、指揮を放棄してきたのだ。自分のように、どうでも良くなって、途中で諦めて、何もかも投げ捨てて本陣へと戻ってきた自分と自らの意思で指揮を放棄して、官軍を助けるように動いている孔明とは、決して同じではない。こんなんじゃ、勝てるわけが無いと孔明は確かに言った。つまり、黄巾党が勝つ余地は、最初から無いと孔明は判断した。短期的に見れば確かに見える黄巾党の勝算、それは孔明にも見えていただろう。しかし、下した決断は逆。二人の道はこの決断を持ってして違えたのだ。そう思った。「な、なんで? どうしたの雛里ちゃん」「いいの、朱里ちゃん、気にしないで……」「雛里ちゃん!」「……っ」孔明にしては珍しく強い声が出て、腕が伸びる。その声にビクリと肩を震わせて、士元はしかし孔明に黙して帽子を目深にしてしまう。それは拒絶だった。何故なのか、理由は全然分からないが、自分の場所には来ないで欲しいという士元の明確な拒絶の意思。差し伸べた手は、空で停止した。「どうして、分からないよ雛里ちゃん」「……もう、いいから」「よくないよっ! 理由を説明してくれないと、分からないよっ!」孔明の心からの声は、士元に確かに聞こえているはずだ。だが、彼女は唇を噛み締めて俯くだけ。何で、どうして、何故、親友に拒絶されねばならないのだ。この場所で信じられるのは、最早目の前で俯く少女だけだというのに!何かの理由があるはずだ。それは何だ。答えは、閃きのような物を伴って、孔明の知に降りた。「雛里ちゃん……まさか、味方の兵に殺されそうだったの?」「……」震えた体が僅かに、しかし確かに首を縦に振る。瞬間、孔明は激昂しかけた。自分は確かに、波才の言うように知で持って官軍を追い詰めていたはずだ。何故、雛里が殺されなければならない。一当てで波才は官軍を敗れるとでも思ったのか。最早、こうなってしまっては雛里が孔明を信じることは難しいだろう。疑われている。自分が親友ではなく、国家を取って黄巾党を滅する覚悟を持っているのではと。確かにそれは脳裏に過ぎった。けれども、自分が苦し紛れに出した答えは死に行く漢王朝ではないのだ。まだ飛んでもいない鳳と共に天を駆け抜けること。真実は逆だが、しかし。死に直面した彼女が、孔明を信じることはきっともう出来ない。一番信じて欲しい人に裏切られたような物である。手に持つ羽扇がミシリと、孔明の作った拳で軋みをあげた。「分かったよ……雛里ちゃん」震える声でそう告げて、孔明は天幕から立ち去った。残された士元は、孔明が歩いて去った出口を暫し見つめて深い後悔と最早制御の効かない涙腺を滲ませ蹲ったのである。「ご、ごめんね朱里ちゃん……だって、私……」嫌だった。孔明を信じきれない自分の心が。全部吐き出して、何時もするように、相談していればよかったのに。それが出来ない。話そうとしても、脳裏に銀色の光がちらついて、喉がひりついたように動かなくなる。そんな弱い自分自身に気付いて、更に自己嫌悪に陥る。「最低だよ……私」力の無い言葉にあわせるように、地面へと目尻から毀れた涙の後が、点々と描かれていった。孔明は、忙しく鳴る胸の鼓動を必死に抑え、ようやく自分に冷静さが戻ることを自認すると、再び戦場を見回した。陣に篭る官軍と、外で攻め手を寄せる黄巾党の声がここまで聞こえてくる。今日は、これ以上の進展を見せることは無いだろう。「全部守るよ……私が全部、雛里ちゃんも、自分自身も!」どうせ自分の行く道は、これしかないのだ。血判状は波才の手の内で、官軍とは知でもって激突してしまった。親友である雛里と軍略を相談することさえ難しく今となっては、その雛里も当てにすることは出来ない。本当の意味で、孔明は孤独な戦いになったことを理解して、なお―――その決意だけは揺らがなかった。何時か、龍へと至る為にも。一刀が黄巾党に送った埋伏の毒は、何故か諸葛亮と鳳統の離間の計へといつの間にか化けていたのであった。・「夜襲、朝駆けを提案するのです」攻勢は大分落ち着いたとはいえ、未だ黄巾党が攻め寄せる陣内。交代で敵部隊を陣の前で食い止めており、今は劉表と周瑜が防衛に当たっている。どうやら、このまま今日の戦は終えそうだというところで一刀の隣に控えていた音々音がそう言った。この言葉には、しかし賈駆を先手として待ったが入った。「今日一日、兵は動き回って疲れているのよ、厳しいわ」「しかし、この数の差は如何ともし難いです。 疲れているのは相手も同じはず」「そうですね、陳宮殿の言うように、夜討ちと朝駆けの二段構えならば成功するかもしれませんねぇ」「ちょっとちょっと、二人共待ちなさいよ。 どちらも失敗したら眼も当てられないわよ。 敵の軍師は用兵に富んでいるわ。 こちらの狙いを看破されておかしくない」「士気の差が怖いのです。 長引けば、こちらはズルズルと相手の攻勢に引っ張られるのです」「分かってるわよそんな事は。 未だに数の差が二倍近くあるっていうのもね! でも、今日すぐに行うというのはボクは反対する。 敵が警戒していると判っているのに、突っ込みにいくほど馬鹿げた話はないわ」「士気の差ですよねぇ。 そうだ、天代様、兵士全員に頭を下げてきてもらえませんか?」「田豊殿! 一刀殿に失礼ですぞ!」「あぁ、ごめんなさい、つい本音が」会話を聞きながら、一刀は苦笑した。将兵の有能さを当てにした野戦での激突は、敵の軍師による策で塞がれた。この兵数差を縮めるには、確かにどこかで奇襲を行い相手の数を削るしか無いだろう。だが、官軍の頭脳陣が言うように、敵の軍師の存在が奇襲を躊躇わせる。それに今日は、晴れている。昼間こそぐずついた天気を見せていたが、今は雲も引いていて、夕日がしっかりと差し込んでいた。夜討ちも朝駆けも、上手く隠れて移動しなければきっと丸見えだ。黄巾党の軍師が邪魔だ。数の差を埋めたいこちらの思惑、それを防ぐ両翼の手を外したい。敵の情報がほしい、一刻も早く。ふぅ、と焦れる気持ちを落ち着かせるように一刀はため息を吐いた。この戦場で一体自分に何ができる。脳内の自分達であるならばいざ知らず、本体の一刀は戦のいろは等何も知らないのだ。田豊の言うように、士気の為に兵士全員に頭を下げるのも悪くないかもな、と思っていると音々音を中心とした参謀陣が、自嘲している一刀へと視線を向けていたのに気がつく。「決定するのは一刀殿ですな」「そうね……どっちの言い分も分かるから、後は総大将の腹次第よね」「で、どうします?」ここで一刀は汗をかく。途中から全然聞いてなかった。六つの見つめる目に一刀は押し負けて、素直に白状した。「ごめん、もう一度話し合ってもらっていいかな……?」「はぁ?」「聞いてませんでしたね?」「えっと、じゃあ、田豊殿! 一刀殿に失礼ですぞ!」「っ! あぁ、ごめんなさい、つい本音きゃんっ!」「はうっ!?」「真面目にやり直すなっ!」ボケ倒した田豊と音々音に、素晴らしい突っ込みを入れた賈駆であった。「痛いのですっ……」「酷い人です……」「くっ、あんた達ねぇ!」結局、ボケと突っ込みを交えたテイク2を見た一刀は軍師の見解を理解し脳内と相談した結果、今は無理をすることは出来ないという結論に達して夜討ち、朝駆けの案は却下された。ついに夕日が沈んだ頃、黄巾党は陣の攻略を諦めたのかそれとも、これ以上自軍の余計な出血を嫌ったのか。官軍の陣から離れていって戦が始まる前のように対陣へ戻っていった。戦いを始めてからおおよそ8時間。遊撃隊として部隊を動かしていた孫堅と皇甫嵩が帰陣して、戦闘は終了したのである。・夜……月が天空に昇り、星がちらつき漆黒を彩る。数多の死体が折り重なったこの場所は、袁術が包囲されて危地に追いやられた場所であった。雲に隠れていた月明かりが、その場所に差し込んだその時。ムクリと起き上がる、一人の黄巾の男。名前も真名も捨てたという、アニキであった。「……月が真上に昇るとき、だったよな。 よし、行くか」周囲を見回して、動く者が居ないことが確認できてからアニキは移動した。目指すはここから5里東へ向かったところ。そこには何も無い。荒野が広がるだけの場所に、今のアニキは行かなければならない訳があった。月の明かりだけを手がかりに、薄暗い荒野を背を低くして走る。息も乱れてきた頃、目的の場所に辿りつくと数人の騎馬を携えて天の御使いが視界に映る。「何者だ!」近くに居た、長い髪を揺らして一喝する女性の声。御使いを守るように、一歩前へ出てこちらを威圧していた。その様子に、思わずアニキは歩みを止めていた。「黄巾党……?」「ちょっと、これはどういうことなの、天代様」「大丈夫、彼は味方だよ」問い詰める二人の女性。その二人とは、顔良と孫策であった。一刀は、二人を制止するように前へ騎馬を進めて、アニキに近寄る。同じく、黄巾の証である黄色い布を頭から外して、アニキも一刀の元へと歩いた。「……ちょっと禿げてるわねアイツ」「しっ! そういうこと言っちゃだめなんですよ、孫策さん」この場所で、戦の初日の夜。御使いと会うことは前もって約束してあったのだ。一刀はアニキ達に、黄巾党の内部を調査……つまりは埋伏の毒となることを頼んでいた。「あまり時間を取れない、聞きたいことだけ聞くね。 敵の首領と、軍師の存在を聞かせてくれ」「総大将は、馬元義と仲の良かった波才という奴です。 若い奴の中でもかなり上の地位に居まして、個人の武も黄巾党の中じゃ上の方だともっぱら噂です。 求心力っつーんですかね、そういう物もあって波才についていく奴は多いですぜ。 俺とおんなじ、天和ちゃんに熱狂してるんで、その辺は好感の持てる奴かと。 軍師はその波才が道中で拾ってきた娘っ子二人でして。 一人の名前はおうとう、と言うそうですが、もう一人は分かりません」「軍師について、出身とかは分かる?」「すいやせん、軍師については名前くらいしか……後は特徴的な帽子を被ってたくらいでして」コクリと頷く一刀。どうやら、何進の報告に挙がってきた名と一致したみたいだ。これで間違いない。敵の総大将は波才、軍師二人を携えて官軍とぶつかった今もなお4万を越える黄巾党を率いる男。『おうとう』という名前に一刀は心当たりが無い。三国志に出てくる登場人物を全て覚えている訳でもないが、有名どころなら本体は大体知っている。つまり、それほど能力が秀でている訳ではないのだろう。当然、この世界でどれだけ自分の知識が一致するのかは分からないが少なくとも目安にはなるはずだ。恐らく、この考え方は間違っていない。脳内で自分の知り合いが居ないことに、安堵を覚えたため息を聞きながら、一刀はアニキへと口を開いた。「分かった、夜の内にまた敵の陣へと戻ってくれ。 例の作戦は、時期が来たら実行に移すから。 合図は覚えてるよね。 それと、敵の軍師のことだけど―――」「それなんですが、殺してしまった方が早くないですかね……俺はそう思うんすけど」一刀は一瞬、アニキの言葉に驚いたが、すぐに真顔を取り繕った。疑うような視線を投げかけていた孫策は、ピクリと今の言葉に反応する。「討てるの?」「機会が一度でもあれば、ほぼ確実に」「……天代様、良い機じゃない? もしも彼が軍師を殺して、戦術を相手が失ったなら黄巾党と繋がっている疑いも晴れるわよ。 そして、私達は獣相手ならば負けることは無い」「孫策さん、天代様は彼を隠密で使って―――」「どうかしら。 私達が居るから本当のところは話せないんじゃないの? それに、例の作戦っていうのも、私達に隠しているのはどうして? 悪いけど、私はこの現場を見てしまった以上、天代様を信じることは出来ないわ」「そ、それは……」それは顔良も同じ気持ちであった。本当に作戦であるというのならば、黄巾党とぶち当たったこのタイミングで一刀が作戦を味方に隠す理由が無いはずだから。一刀も、それは気がついていた。監視の名目でこっそりと陣を出た自分にくっついてきた二人。まず間違いなく、疑われることになるだろうなと。それでも、彼は今日アニキと会わなくてはならない理由があったのだ。アニキの生存を確かめるためにも。「天代様、黄巾党と繋がってないなら軍師を排除できるわよね」「孫策さんの勘は何て言ってるの?」「……」人の命を、自分の疑いの為に人の命を奪う行為を執拗に促す彼女に、一刀は強張った声でそう返してしまった。勿論、怒ったわけじゃない。現代人である一刀の倫理観に触れて嫌悪からつい声に出てしまっただけのことだ。黙した孫策に、一刀はかぶりを振った。何よりも、今は相手の軍師をどうするかだ。これだけ自信満々に殺せると言っているのだ。武を持つような者ではないのだろう。元々が黄巾党として活動してきたアニキだ。即座に見破られることは無いだろうが、可能性はある。黄巾の軍師が彼をスパイに使っている事実に気がつく前に、排除したほうが確かに作戦の勝算は高い。この作戦というのは、一刀が洛陽に居る間に放った最後の矢であり、切り札だ。機を見計らって使わねばならないが、決まれば効果は絶大だ。それこそ、今の劣勢に立たされた官軍が勝利を呼び込むくらいに。だからこそ、全ての条件が揃う時まで、誰にも話したくなかった。この作戦、アニキを含む3人の黄巾党が最低でも二人居なければ成立しない。バレてしまう可能性があるのならば、彼や孫策が言うように殺したほうが手っ取り早い。謀殺という形になるが、これは戦争だ。一刀は自分の命令で人の命を奪うことに、僅かに心を痛めたが勝利のため、そして音々音を守る為だと自分を叱咤して、言った。結局、孫策の言う通りこれが最善であった。「アニキさん、その軍師は邪魔です。 出来れば二人共に排除してください ……自分の立場が危うそうだったら、無理はしないでください」顔良、孫策が見つめる中、アニキは深く頷いて黄巾党軍師を葬る事を確約したのである。・陣内に戻ると、一刀は一も二も無く天幕へと向かい厳しい視線を向ける孫策と、やや心配そうな顔をする顔良を無視するようにして天幕の中にあつらえた寝台に寝転んだ。大事である初戦を落としてしまった。黄巾党、官軍、共に兵の数は減少したが、それではいけないのだ。最悪、自分の最後の矢は的を逸れてしまうことにも成りかねない。どちらにも転ぶ可能性はある。それに、袁紹。彼女は確かに自分の名を呼んだ。それまで天代としか言わなかったのに、急に下の名を呼ぶなんて。あれは何なのか……孫策も今日の黄巾党との密会を母親……孫堅には言っていることだろう。疑われるのは承知の上だとしても、気分の良い物であるはずがない。短い間とはいえ、一緒に過ごした相手ならなおさらだ。目を瞑ると、どうしても不安感ばかりが募る。思わず、口をついてボヤキが出てしまう。「……しんどいなぁ」『本体、もう寝とこう。 起きてると余計なこと考えるから』『そうそう』「そうだね……」脳内の自分の声に頷いて、一刀はだんだんと、意識が遠くなっていく。自分の天幕の周りで、周囲がざわめいたような気がして、それが遠いのか近いのかも分からない。そんな奇妙な感覚が纏わりついて、一度体を震わせると一刀はハっと意識を戻した。うたた寝をしていたようで、寝汗を掻いていたがそれを無視して近くにある水筒を引っつかんだ。喉が非常に渇いていた。真っ逆さまに落ちてくる水を、喉を鳴らして飲み込んでいく。「天代様ー、まだ起きてますかー」敬っているのか、投げやりなような声をあげて、一刀の天幕へと入ってきたのは文醜であった。何となく罰の悪そうな顔を向けている。「文醜さん……どうしたの」「いえー、あの、それよりちょっと夜番の為に寝ちゃってて報告が遅れたんすよー」ばつの悪そうな顔はそれか、と一刀は苦笑した。別に気にしてないよ、とフォローを入れて、一刀は文醜の報告を聞いた。軍師、その姿を戦場で見たという。その最初の一言で、一刀は眠い目を擦っていた手を止めた。一気に覚醒したのを自覚して、文醜へと対面する。紅のベレー帽。手に持つ羽扇。淡いクリーム色の髪の色でショートにまとめて。背には背嚢のようなものを背負っており、その体躯は小柄。報告を聞いていくうちに、一刀……本体の表情は変わらなかったが。その脳内は酷いざわめきを見せていた。『……特徴は一致する』『嘘だ! そんなはずない!』『悪いけど、俺も間違いないと思う』『おうとう、はアニキさんの聞き間違えだな……』『ああ、きっとそうだね、おうとうじゃない……鳳統だ』『黄巾党の軍師は―――』「諸葛孔明……鳳士元、か」「へ?」『『ふざけんな! そんな事あるかぁっー!』』意識体の二人が、大きく叫んだ。それは、今までに無いほどの激情。発露となって本体に伝わったそれは、本体の顔を彩らせた。―――憤怒。その形相は肝が太いと自他共に認める文醜をして、身を引くほどの貌であった。「て、天代……様?」「……ごめん、用事ができたよ」「あ、ちょっと! 護衛付けないとあたいが怒られるんだけどー!?」一刀はその場に文醜を残して、天幕を走って飛び出した。なんと皮肉なことか。軍師は、三国一の有名人、諸葛孔明。そして、その親友であるという鳳士元だった。脳内の俺の、大事な人だった。アニキ達とは最早、連絡を取ることは出来ない。どんなに急いでも明日の夜までは。もう少し、もう少し文醜の報告が早ければこんな事にはならなかったのに。八つ当たりだと分かっていても、“蜀の”も“無の”も思わずにはいられなかった。「ハッ……ハッ……ケホッ」『あいつら、勝手に本体動かしやがって』『仕方ない、気持ちは分かるよ……』『がむしゃらに走ったところで、本体が疲れるだけだってのにさ 陣まで飛び出して、絶対怒られるよ』『憤るなよ“南の”……とにかく、対策を考えよう』『“蜀の”も“無の”も、意識が落ちてる。 今のうちに纏めておこう』『何ができるんだよ』『何がって……思いつかないけど、考えるしかないよ』『……ねねが、夜討ち、朝駆けを提案してたよな』『ああ』『それしかないか』『良いのかよ、兵に無茶させるぞ』『俺達の都合で、兵の皆を犠牲にしろっていうのか?』『分かってる、でも他にあるかよ!?』『……けど』(……)脳内に響くざわめきに、本体は息を整えて顔を上げる。ふいに、自分に影が落ちた気がして視線を上に投げると、そこには大剣を携えた一人の女性が黒い髪を揺らして堂々たる威風を携えて一刀を見ていた。後方に控える、おそらく彼女の率いている兵であろう。その数は僅かに100に届くか届かないか。不思議なことに、その場に居る兵全員が服は縺れ鎧が激しく傷ついて泥まみれであった。汚れていないところを見つけ出すほうが難しい有様である。武将である彼女すら顔に泥をつけていたのだ。それは、戦をしてきたばかりの集団のようにも見えた。明らかに武将然としたその女性、数多の戦場で“魏の”の記憶に眩しく映るその人はゆっくりと一刀に近寄ると、覇気のある声で言ったのであった。「官軍の者だな。 我が名は夏候元譲! 天の御使いの要請により曹操様からの命で取り急ぎの援軍へ参った! 曹操様が率いる援軍本隊は後方30里の場所で待機しておる。 我らを陣の中に案内して欲しい……ん? どうした、呆けていて。 私の顔に何かついているか?」『春蘭……』「夏候惇……」月明かりがさしこむ荒野の中。曹操の援軍到着をいち早く知ったのは、伝令でも雑兵でもない。天代、北郷一刀であった。 そして、一刀が夏候惇と出会っていた丁度その時。諸葛亮は波才の天幕へと訪れていた。洛陽の戦いはまだ、初日を終えたばかりである。 ■ 外史終了 ■官軍総大将 北郷一刀 参謀 陳宮 本陣 何進 皇甫嵩 孫堅 黄蓋 :兵数15000→10300 右翼 劉表 袁術 張勲 華雄 賈駆 :兵数8000→2700 左翼 袁紹 顔良 文醜 田豊 孫策 周瑜 :兵数10000→6500総兵数 35000→約19500官軍援軍曹操・夏候惇 :兵数5500丁原・呂布 :兵数7000黄巾党総大将 波才 参謀 諸葛亮 鳳統兵数57000→約43000