■ この道が最後の戦でも一人落ち着かない様子を見せて、天幕の中をうろつく男が一人。その顔は下唇を噛み締めており、悔しさ、或いは怒りを滲ませていた。黄巾党を率いる波才その人であった。この胸中に渦巻く原因。それは千載一遇の好機を逸した事にある。相手の総大将が、わざわざ劣勢の最中に中央へ突出した。何としても首を取ると突撃したのはいい者の、何進の首は取れずにあわや敵将に矢を射られて絶命するところであった。「くそっ!」激情収まらぬ感情を吐き出すように一つ叫ぶと、彼は卓に置かれた盃を乱暴に叩き割った。あんな好機は二度と訪れないかもしれない。敵の兵数はこちらと比べれば寡兵だ。孔明や士元の言ったとおり、初戦は野戦を挑んでこちらの士気を挫こうと官軍は動いた。その力と力のぶつかりあいを制したのは我が黄巾党である。これが逆ならば、総大将を討ち取れる機もあるかもしれないがこの状況になれば官軍が陣を空けて出てくる道理はない。「あの牛婆が邪魔をしなければ……」すべてはもう、たら、ればである。何進を打ち倒せていれば。黄蓋が邪魔をしなければ。両翼がきちんと抑えていれば。あの時、あの時、あの場所、あそこで。激烈な後悔と共に苛立ちを募らせていた波才の元に、孔明が訪れたのはその時だった。「おきてますか」「起きてる、なんだ!」激情で持って返答を返すと、静かに孔明は天幕の中へと滑るように入り込んだ。能面の無表情を作り、見上げる孔明。その様子がまた、波才を苛立たせる。「なんだ、こんな夜中に、犯されにでも来たのか!?」「冗談はやめてください。 官軍の夜襲に備えるべきだと忠告へ来ました」「夜襲?」肩眉を吊り上げて、波才は孔明を見た。相変わらず無表情のまま頷く。波才はそんな彼女の提案を笑った。「ははは、何を言うかと思えば、馬鹿を言うな。 今日一日、兵は駆けずり回って疲れているのだぞ。 劣勢であった奴らならばなお更、そんな事はしない」「そこが相手の狙いです。 大軍であればあるほど、気は大きくなります。 仮に夜襲が無くても、この規模ならば休息を交代で取らせ警戒することで夜襲の可能性を潰せます」「もっともらしい事を言うが、それは―――」孔明から面倒臭そうに顔を逸らした波才の言葉を遮って彼女は更に言を重ねた。「それに、雲の流れを見れば夜襲の警戒も2,3日ですむと思います。 夜襲には混乱を煽るために火を用いるのが常道ですが、雨が降ればそれも叶いませ―――」最後まで言い切ることは出来なかった。それまで大人しく聞いていた様子であった波才が、急激に視界の中でぶれて消え次の瞬間にはその腕で、孔明の胸倉を掴んで持ち上げて、そのまま天幕に配置された棚へと叩きつけたのだ。短く、肺に溜まった息を吐き出す。「かっ……」「なぁ、お前はどっちの味方なんだ? 官軍が突出した時、右翼の指揮を放棄したよなぁ! しっかりと両翼を押さえていれば、総大将は討ち取れたんじゃあないか!?」「っ……あぅ」それは波才の本心であった。官軍の中央と、黄巾党の中央でぶつかり合えば一気に押しつぶせた筈だ。それだけの数の差があったし、総大将を討ち取れる機であることは自分よりも賢いであろう孔明には分かっていたはずである。敵の将が中央に寄ってきたのは、両翼が中央へと群がったせいだ。襟首を持たれ、息を止められて、言葉にする事が出来ず孔明は呻いた。波才の腕に込める力は、自身の発した言葉に呼応するかのようにどんどん強まる。顔色を青くさせて、必死に身をよじっても孔明の持つ膂力では波才の腕を掴むことだけしか出来なかった。「次はなんだ? 俺達を疲れさせるための提案にでも来たか? 適当な事を言って、官軍に利を持たせようとしているんじゃないのか!? どうなんだ、ああっ!?」もはや、孔明に出きる返答は眼だけで波才を睨みつけることだけだった。青筋立てて怒鳴り散らす波才から、しかし決して眼だけは逸らさずに。そこで初めて、この天幕に入って表情が色ついたことに波才は気付く。放り投げるようにして孔明を地に投げ捨てる。運動神経が良い訳でもない彼女は、地面に背中から落ちて激しく咳き込んだ。「まぁいい。 夜襲の警戒はすることにしよう。 だがな、諸葛亮……」言葉を区切って、孔明の下までゆっくりと近づき屈みこむと波才はねめつけるように孔明を睨み、そして底冷えのする声で言った。「もし夜襲がなければ、鳳統を殺すぞ」「―――っ! 波才さアぐっ!」必死に行っていた呼吸を咄嗟に止め、言い募ろうとした孔明であったが突然視界に星がちらついた。鈍い音が響いて視界が明滅する。尻餅をついたような状態で暫し放心し、ややあって目の前の男に殴打されたことに気がついた。「お前が言ったんだろう。 数日後が楽しみだな、おい」「っ……」この孔明の案、結果的には採用されて夜襲に備えた黄巾党が荒野を警戒しうろつき始めたのだった。天幕を出て、彼女は熱を持った頬を押さえながら拳を握って自分を奮う。目尻から毀れそうになる涙を必死にせき止めて、それを抑えることに成功した。泣きたくなかった。総大将である波才にも疑われているとは思わなかったが、むしろ今、この場でその事実に気がつけたのはある意味で貴重な情報であった。まさしく、一人での戦になる。ともすれば、俯きそうになる顔を無理やり上げて前を見据え、彼女は歩いた。その一部始終の様子を、同じように夜襲の警戒を促しに来た鳳統が天幕の外で目撃していたのであった。「朱里ちゃん……」「おい、早く歩け」「うっ……」黄巾の兵に背中を押され、あわや倒れそうになるが、何とかバランスを取ると彼女は視線だけを朱里の方へ向けて歩き、やがて波才の天幕の中へと姿を消した。・夏候惇と共に帰陣した一刀は、天幕に居ない事を知った諸侯から怒られた。そりゃあそうだ。一人で総大将が荒野へ飛び出すなど、常識を疑われて仕方ないだろう。が、そんな説教も、一刀は話半分にしか聞いておらず集中が出来なかった。頭が痛かったのだ。夏候惇と出会って一刀の気持ちが固まってから、酷い頭痛がずっと続いていた。寝不足とか、疲れのせいとかじゃない。脳の中が騒いでいたからでもない。もっと別の、そう。北郷 一刀の奥にある芯の部分で吐き気を催すほどの頭痛が響いてきているのだ。一刀の出した結論は、夜襲、朝駆けの却下であった。夏候惇、ひいては曹操の援軍の到着を知ったときは、確かに手札が増えたことに喜んで夜襲や朝駆けの案も押せるのではないかと思えた。しかし、それはやはり駄目だ。相手はあの三国志で最も名高い知名度を誇る策士、諸葛孔明と鳳士元なのだ。官軍が黄巾党の数を少しでも減らしたいと思うのは分かっているはずであった。そして、野戦で押し負けた以上はこちらは策で持って相手にぶち当たるしかない。その内の一つに、夜襲や朝駆けがあるがとても成功するとは思えなかった。と、すれば唯でさえ数で負けている官軍は急激に打てる手がなくなってしまう。野戦は駄目だ、数差を武将の有能さで埋めるにも敵の数が多すぎて殆ど五分。奇襲も難しい、特に相手が一流の軍師であるならば。あの諸葛亮や鳳統に果たして、策が通じるかどうか。一刀の最後の矢も、諸葛孔明なら簡単に見破られてしまうかも知れない。勝つためには、何でもいいからこれらの要素を覆さなくてはならない。数を減らしたいがそれは難しい。と、なれば相手の将を削るのが常道だ。つまり、結論は変わらなかった。諸葛孔明と、鳳士元を討つしかなかったのだ。それから、一刀は頭痛に悩まされている。原因は、多分とか恐らくとか、そういう曖昧な物じゃない。この頭の痛みは、初めてこの世界に降り立った時に感じた物と同一の物。のた打ち回るほど酷い物ではないが、無視できるほどの物でもない。そんな嫌な痛みに顔を顰めている一刀の横で、ねねは心配そうに見上げてからこの陣へ来たばかりの夏候惇へと顔を向けた。今、この場に居るのは音々音、孫策、顔良、皇甫嵩、華雄である。他のものは夜番を行っているか、明日の為に対策を話し合っているか、眠っているかだ。「長い行軍、それもこれほどの速さで来てくれるとは。 本当にありがたいのです、夏候惇殿」「私は華琳様の言った通りに動いただけだ。 そういうことは我が主に言ってくれ、陳宮殿」「分かりました、そうするのです」「それにしても……まさかこの貧相なのが天の御使いだとは思わなかったぞ。 本当にこの者が総大将なのか?」「か、夏候惇さん……」「まぁ、気持ちは分かるけど」夏候惇へ同意を返した孫策に最早定型になりつつあるフォローを顔良が返した。音々音のこめかみには、ピシリと青い筋が立っている。条件反射で声を上げそうになるのを必死に自制するねねである。官軍総大将を相手にして、しかもそれを聞かされたというのに、わりと失礼極まりない言葉を言い放った夏候惇だが曹操という稀代の傑物を普段から眼にしている彼女からすればこの言葉が突いて出てくるのはある意味仕方が無いというものだ。夏候惇だって、お馬鹿だが馬鹿じゃない。矛盾しているが、お馬鹿であっても天の御使いである目の前の男が“天代”という奇天烈な称号を貰った、目上の人間であることは理解している。そんな彼女に、一刀は苦笑した。自分でも、総大将が似合っているとは思っていない。似合ってるとすれば、分不相応に金ピカな鎧だけだろう。「とりあえず、夏候惇さん。 兵糧の件ですが、こちらは了解しました。 それより、増援に赴いた数が随分と少ないようですが……」そう、彼女達がこちらの増援に赴く数は5000余と記載されていた。しかし、夏候惇から曹操の援軍の数の詳細を聞くと、なんと半分以下。2000を下回る数であるのだから、何かがあったのかと一刀は思ったのだ。ところが、夏候惇の口から飛び出したのは常識外れの答えであった。「なに、行軍を進める最中に訓練を積んで、腑抜けが脱落しただけだ。 この程度の強行軍に着いて来れぬものは、我が曹操軍に必要ないのでな」「んなっ!」「……そうですか」尋常でない速さで官軍への増援に来れた理由はこれか、と一刀は思った。隣で非常識な行軍に眼を剥いた諸侯も、それがどれほど異常な事なのかに気がついた。行軍をしながら兵を調練するなど、やる意味を見出せない。それでもやる理由があるとすれば、曹操軍の兵士は新兵、戦を経験した事の無い者達の集団。頭の中で手早く情報を纏めるとこうなってしまう。だからこそ、音々音は言いにくい事ではあるのだが、言うしかなかった。「一刀殿、曹操殿の2000が軍列に参加したところで焼け石に水なのです。 それならば、見えない手札として控えて置くほうが良いのではとねねは思うです」「それは、そうかもしれない……」「です」一刀はしばし腕を組んで黙考し悩んだ。行軍しながら調練してきたとなると、それは想像を絶する強行軍だったのだろう。曹操の兵が使い物にならないとは思えないが―――ここに居る黄巾党は戦を経験している。ただの一度のぶつかり合いとはいえ、確かに死と意志が渦巻く戦乱に身を置いた。これは何度調練しても得られない、確かな経験値だろう。「錬度の低い部隊は逆に邪魔よ」「孫策殿の意見は厳しいものだが、彼女の言う通りでもありますな」「ふん、私の部隊の錬度が低いと言うか?」挑発的に笑って顎を上げる夏候惇。孫策と皇甫嵩はそんな不敵な様子に面白そうに笑い返した。一刀も二人に似た感情を持っているだろう。自信あり。それだけは夏候惇の態度から、しっかりと伝わってきた。「夏候惇さん、兵糧を受け取って、曹操さんの元へ戻ってください。 それから曹操さんには10里ほど進んでそこで待機して貰うよう伝えて下さい」「なに、援軍に赴いた我らを陣ではなく外で待機させるというのか」「はい、作戦の内の一つ……そう言えば曹操さんなら分かるかも知れません」陣に入らずそのままそこで待機せよ、という言葉のみで作戦の全貌がバレるとは思わないがそれでも何かしらの意図があることを曹操なら察してのけるはずだ。全部察せたら、それはもう恐怖でしか無いのだが。“魏の”の曹操に対する評価は決して過大な評価ではない。脳内に居る誰もが“魏の曹操”という存在には高い壁として苦渋を舐めさせられてきた。この世界でも、王者にふさわしい風格を持っていることは、実際に会って知っている。そうして一刀は夏候惇に説明したのだが、彼女は是を返さずに追いすがってきたのである。「天の御使いの指示は分かった。 しかし、私は賊共をなぎ払う為に突撃しに来たのだぞ 首級を一つも挙げずに、兵糧だけを受け取って帰るなど出来ぬわ」「うむ、武人としては夏候惇殿と共に一度戦場を走ってみたいものだな」「ほう、話が分かる奴も居るじゃないか」「陳留に居る曹操の大剣と呼ばれているそうじゃないか、夏候元譲! 一度武を争ってみたいものだな!」「貴様、名は」「華雄!」「覚えておこう、華雄。 貴様も我が名をしっかりと覚えておくことだ」「ふっふっふっふ」「はっはっはっは」「いいだろう、天代殿! 私は夏候惇殿と轡を並べて突撃したい、なんとかできぬか」「そうだ、私にも突撃させろ、けちんぼ」頭の痛みが二重に響いてきた一刀である。いや、一刀だけではない、音々音や皇甫嵩も頭を抑えて被りを振っていた。「まぁ、気持ちは分かるけどさぁ」「文ちゃんが増えたみたい……」詰め寄る夏候惇と華雄から何とか体を逃がすと、その隙を音々音が見逃さずにつつつっ、と体を寄せて一刀の耳元にささやいた。「一刀殿、是非ともこの猪は曹操殿の元に戻しておくべきなのです」 いきなり猪扱いされてしまった夏候惇だが、“魏の”はこれが正常運転だと保証してくれた。余り嬉しくない保証だった。夏候惇の名は曹操が治める陳留を中心にしてそれなりに広まっている。華雄が知っていたことが証拠になるだろう。彼女が夏候の旗を掲げて突撃してしまえば、曹操の率いる本隊が何処かに居ることもバレてしまう事は想像できる。一刀としても、武将の希望にはできるだけ添えてあげたかったが、今回は諦めてもらうほか無かった。15分ばかり、一刀は夏候惇と華雄からのお願いおねだり攻撃を断り続けてようやく、しぶしぶと言った様子で夏候惇は兵糧を手勢に持たせると曹操の下へと戻っていった。それを見送って、一刀は何時寝れるのかな、と思いながらも口を開く。「孫策さん、周瑜さんを呼んできてください。 華雄さんも賈駆さんを。 顔良さんは田豊さんを。 なるべく早くお願いします」一刀の声に、顔を見合わせた三人はややあって了承を返してその場を立ち去る。残された皇甫嵩は、一刀の傍まで近寄ると水を差し出した。「天代……いや、北郷殿、余り無理をなさらずに休息もしっかりと取ってくだされ」「ありがとうございます、皇甫嵩さん……あれ?」「軍師の話に武官は必要ないでしょう。 私も休ませて戴きます」「ええ、あの、皇甫嵩さん。 今俺のこと名前で呼びました?」背中を向けて歩き出した皇甫嵩に、一刀は思わず呼び止めて尋ねた。そう、今まで彼は自分を天代殿としか呼ばなかった。それはきっと、疑われていたから。ここで彼が自分の名を呼んだことに、一刀は驚いたのだ。「両翼を崩され、囮になる為だけに死地となる中央へ赴いた男を疑い続けるなど、失礼というものでしょう」「皇甫嵩さん……」「疑った我が不明は、戦にてお返し致します」「……ありがとう」立ち去る背中に小さく呟いて一刀は礼を言った。なんとなしに、皇甫嵩が立ち去った場所を見つめながら一刀は隣に控える音々音へ声をかけた。「ねね、軍師のみんなには作戦を伝えるけど、良いよね」「曹操殿の援軍が来た、このタイミングなら良いかと思うのです」「後は、丁原さん達次第か」「……きっと上手くいくのです。 一刀殿とねねで一緒に考えたのですから」「そうだね、きっと……」一刀は夜空を見上げた。真上に浮かんでいたはずの月は随分と傾いている。2~3時間もすれば、夜明けを迎えるだろうか。『本体……』(分かってるよ、俺も孔明の立場が音々音だったら同じ思いをするさ。きっと)『……』(でも、でも、俺はまだ見ぬ人より、大切な人を守りたいんだ……)『分かった、これは……本体の外史だもんな』『朱里……雛里……』ズキリズキリと響いていた頭痛が和らいで自嘲するように脳内を震わせた声が、いやに一刀の中で尾を引いて残した。30分ほどして、官軍で知を奮う賈駆、周瑜、田豊の3人が集まった。賈駆と田豊は寝起きの為か、随分と眠そうである。さらに、かなりの不機嫌さをその体全体の仕草から醸し出していた。「疲れているところにすまないね、皆」「いえ、お構いなく」「閨をご希望なんですか?」「はぁ……ようやく寝れたと思えばこれよ、なんなの、私に恨みでもあるの? ああそう、閨ね、いい度胸じゃない、受けて立つわよ、さぁかかってきたらどうなの チンコ引っこ抜いて宦官にしてやるわ」「いや、別にそんなつもりじゃないってっ」思わず前かがみになりそうな底冷えのする声を繰り出す賈駆と小声かつ低い声で身も蓋もない事を言い出す田豊に、一刀は慌てて両手を振って否定した。「なるほど、魅力が無いってことですかぁ。 残念です、胸には自信があるのですが…… 周瑜さんには叶いませんけど」『『『『『『『ほう……』』』』』』』言いつつほよほよと自身の胸を下から掬い上げ揺らした田豊。一刀は脳内の声も手伝って、ついついその様子を視線で追った。瞬間、ズザザザッと地を蹴って遠ざかる賈駆。「け、けだものっ! ついに正体を現したわね! その身の内に潜むチンコが目覚めたわね!」「……」「まぁ、天代殿の視線も今のはいけなかったと思いますが」「それは、謝るけどさ……ん?」ポンと背中を叩かれて振り向けばにっこりと張り付いた笑みを向ける音々音の姿。一刀は素直に謝って事態を収束させる為に必死に全員を宥めた。音々音が怖かったのでそうせざるを得なかった。夜遅くまで今後の戦の趨勢を話し合っていた最中、一刀が陣を飛び出して消えた事に余計な手間を取られた上に、つい今しがた短い睡眠を取る為に眠ったばかりとあっては彼女達の怒りもむべなるかな。閨云々は、二人のちょっとした意趣返しであるのだろう。そうであってくれ。とりあえず騒ぐ二人を無視して、一刀は周瑜と音々音との雑談に暫し興じることにした。全員がしっかりと向き直り、周瑜に何故呼ばれたのかを問われてようやく一刀は本題に入った。というか、入れた。「黄巾党に対する必勝を期すため、皆の意見を聞かせて欲しい」全員の顔つきが変わって、それは、その日の朝方までという長い話となった。その為、殆ど眠らずに兵の指揮を執る軍師陣はヘロヘロであったという。孫堅が 『周瑜が先であったか』、とか微笑ましい物を見る目で呟いていたが彼女には反論する力も無く孫策が凄い顔で周瑜へと視線を向けていたのを一刀は丁度目撃したのだがこの話題に触る勇気は無かったので、そのまま周瑜を見捨てることにした。ちなみに、軍師陣とはうって替わり、一日中元気に走り回る天代が居たと言う。『まぁ、本体が寝ている時はローテーションで俺達が動かせばいい訳で』『俺達、寝ることは出来るけど眠る必要性はあんまりないもんね』『うん……意識だけだから、落ちてない時は平気だしね』『そろそろ替わろうか、“仲の”』『頼んだ“白”タッチ』『その言い方は止めろって言っただろう!』『皆ー、“仲の”が休憩入りまーす』『『『『『把握した』』』』』からくりは、こんなところであったのだが激戦後に徹夜しても余裕で動きまわる一刀を見て、周囲には異常な物として映ってしまっていた。眠い眼をこすりつつ、軍師陣は力なく呟いていた。「ば、化け物だわ、アイツ……」「人ではないかもしれませんねぇ……」「胸だけは、胸だけはどうにもならないのですよぅ……」「陳宮殿、私の胸を見て唸るのは止めていただきたいのだが……」・「そう、北郷一刀は、そう言ったのね」「はい、本当に頭の固い奴です。 まったく、桂花はあんな男の何処がいいのだ」「ふふ、面白い勘違いね」「はい?」「いいのよ、それで兵糧は?」昼になって曹操と合流を果たした夏候惇は一通り報告を済ますと、天の御使いと面識のある桂花を引き合いに出して文句をぶー垂れていた。実は、手紙のやり取りから夏候惇は勘違いをしている。北郷一刀と桂花は、手紙で私信を交し合う親しい仲であると。独り言からその事実に気がついた曹操は、ニヤリと笑ったのである。理由は単純、放っておいたら面白いことになるかも知れないからだ。まぁそれはともかく、兵糧を受け取った事と陣に来るなという事について考えねばならない。黄巾党とは当初の予想を覆して思いのほか激戦となったらしい。しかも、官軍の劣勢で初日の幕を閉じているそうだ。官軍にとって、このタイミングでの援軍は喉から手が出るほど欲しい存在であるはずだ。だというのに、外で待っていろとはどういうことか。「機を計っている……?」馬上で強行軍に着いて来た兵2000弱。それらに兵糧を配る為の指揮をしている夏候惇を眺めながら曹操は考えに耽った。この兵力2000、どう扱うつもりか。普通に考えれば奇襲の一つだろうが、どうもそれだけではない気がする。そうして考えながらややあって気がつく。果たして天の御使いは自分以外に援軍の要請を送らなかっただろうか。それに、ここから10里先での待機……戦場まで20里というのは微妙な距離だ。戦場に近すぎず遠すぎず。敵兵が斥候を出しても、ここまで来る事はないだろう。つまり、北郷一刀の狙いは、曹操の増援という事実を敵に伏せておきたい理由があるわけだ。「なるほど……私は伏せ札扱いか、悪くないわね」満足げに笑うと、曹操は手近な兵に命を出す。7里ほどの間隔で騎馬の伝令を置いて、戦況を知らせる為の駒として走らせた。これで、何時、参戦せよとの命が下っても素早く動けるだろう。曹操が笑った、その理由は一刀から送られた言葉に無いメッセージ。それは、曹操が参戦する為の絶好の機を、作ってみせると伝えていたのだ。自分が決め手になる。天の御使いは、曹孟徳という女をよく分かっているようだ。「2000弱、数字以上に強いわよ、私の率いた兵は」来るべき戦に心を高鳴らせる曹操の後ろで食事を取っていた兵達は、ひそかに馬上の曹操を見つめ涙していた。大将の様子から、この長く辛い強行軍が終わった事を悟ったのだ。「くそっ……次の移動で曹操様と夏候惇様の馬上で上がる尻も見納めか……」「なんでこんなに早くついてしまったんだ」「馬上で揺れる桃、それだけを求めてついて来た俺達はこの怒りをどうすればいいんだ……」「飯がしょっぺぇよ……」多くの脱落者を伴い、厳しい行軍の最中で塩分が不足していた兵達は弱っていたが官軍からの兵糧配給により何故か塩分も一緒に摂取して元気になったという。類稀な強行軍として、この官軍の増援に用いた曹操の用兵は有名になるのだが後に真実を知った曹操が、用兵書に乗せる書を作る際にこの強行軍の詳細を是非にと願われたものの硬く口を閉ざし、真実は闇に葬られた。・夜が明けると、黄巾党は再び陣へと攻め手を寄せた。二日目となるこの戦い。黄巾党は数に任せた強引な攻め方であり、急遽調達した不細工な丸太の槌で持ってこれまた急造の為に不細工な門を打ち据えようと躍起に突撃した。脆くなった場所は夜の内に修復されて、更に頑強さを増すために幾重にも資材を重ねた門は硬く、黄巾党にとって大きく立ちはだかった。官軍は、前日と同じように孫堅や孫策、華雄、と言った武将を遊撃隊に置き陣に攻め寄せる相手の後ろを脅かし、時に攻め込んだ。火を用いても土砂でかき消され、土砂を駆け上がろうとすれば水が振りかかりぬかるみを作られて動きを制限されてしまう。何度も何度も攻めて行っても、跳ね返される官軍の陣。これに黄巾党は徐々に、しかし確かに苛立ちを募らせていた。更に翌日。ここで波才は、兼ねてから孔明に言われていた、陣を迂回する手段を初めて打つ。一気果敢へと万の軍勢が陣に襲い掛かるそぶりを見せながらも、別働隊が波才の指揮の下7000ほどの兵で陣の左方を駆け抜けたのだ。官軍も、数万に及ぶ軍勢の突撃には眼を背ける事は出来ない。左右に伸びた木柵は、1里も延びていた。ようやくそこで折り返した波才は、皇甫嵩と顔良、文醜が率いる官軍によって受け止められる。顔良、そして文醜という袁家二枚看板の名は初戦の折に名が広まっていた。その為、波才が鼓舞しても士気を奮うことが出来ず、やむなく敗走することになる。肝心の陣の攻略も、2万以上の軍勢を投入したにも関わらず天代が陣頭で指揮を奮い、官軍全体を鼓舞したことで押し返されたのだ。次に波才が打った手は「迂回をするにも、陣から横に長く伸びる木柵が邪魔だ! 夜の内に、あの木柵を撤去してしまうのだ!」孔明、そして士元の反対を押し切り、波才は黄巾全体を左右に割り振って夜中の内に木柵を撤去してしまおうと命を下した。急いで造ったからだろうか。騎馬が飛び越えるには難しいが、それでも背の低い不恰好な木柵は無理やりに組み上げていたせいで、随分と不恰好である。中には斜めに反りたって刺さっている物も折り重なって組まれている物もあった。乱雑とはいえ、黄巾数万を阻むために組まれた木柵だ。意外としっかり大地に根をはっており一晩で撤去するとなれば、多大な労力を強いられる。「木柵を迂回できぬとなれば、相手が次に考えるのは撤去なのです」「いっそ、暫く撤去の作業でも眺めてあげましょう」「良いですね、心に余裕が出来た頃に襲い掛かってあげましょうか」が、この波才の行動は音々音に看破された挙句に賈駆の助言が入って、黄巾党に多くの出血を強いる結果に終わる。ほうほうの体で逃げ帰る自軍の惨状を見て、波才は地団太を踏んだ。初日とは打って変わって、地味な戦となりつつあるこの戦。その戦場に変化が訪れたのは、4日目の夜であった。それは官軍、そして黄巾党へほぼ同じ時刻、同じ頃に総大将の下へと報告が入った。その報告は、確かに大きな変化を見せるに値する、衝撃的な物であったのだ……・荒野を駆ける者達が居た。夜の月明かりだけを頼りに、数千の馬蹄を響かせて突き進む。先頭を取るのは、たった今、夥しい数の人の血を吸った戟を携える赤毛の少女。性を呂、名を布、字を奉先。その天下無双の武を知る者は、今は多くない。この三国一の武が、一軍に匹敵することを知る者となると、この世界には誰も居なかった。ただ一人、天の御使いである北郷一刀を除いて。明日、その事実を知る者が爆発的に増えることになるだろう。騎馬に跨り、風を切って先頭を走る少女はそんな事実など露ほども気にしていなかったが。やがて騎馬の一団、いや真紅の呂旗を掲げた丁原軍3000の兵は荒野に建てられた天幕の前で止まった。呂布一人だけが、天幕の傍まで馬を走らせるとその場で降りて自らの馬を木柵にくくりつけてから、中へと入った。「こほっ……よかった、恋よ。 生きていたか」「ん……終わったから戻ってきた」出陣してから、丁原本人は咳が止まらず、腹を下すなどの症状が出ており、体調を崩してしまっていた。やむを得ず行軍を止めて、この天幕で休んでいたところ長安潼関から洛陽を目指して突き進む賊軍の報告が届いたのである。発生した黄巾党の兵数は3万を越えていたのだ。それを受けて、丁原はこの場に留まり敵増援を迎え撃つことを選択する。洛陽で戦っているはずの味方に、即座に伝令を送って。先手に自軍の兵3000を預けて呂布を置き、後詰めに4000の兵を置いて迎撃陣で迎え撃った。ほぼ絶望的と言っていい兵数差。今の今まで、呂布の姿をその目で見るまでは、丁原は気が気ではなかった。「そうか……今日の戦は終わりか……ケホッ」「大丈夫ですか? 丁原さん……これを」「おお、すまぬな董卓殿。 国家の大事に不甲斐ない」董卓から水を受け取って丁原はそれを飲み込んだ。黄巾党との戦になるとのことで、董卓も丁原の居る後方へと下げられていたのだ。その様子を見ながら、呂布は驚愕の言葉を言い放った。「……ううん、全部倒したから、終わり」「ブーッ! ブエッヘェ、ゲハッゲハッ!」「きゃあっ!」「……原爺、大丈夫?」口に含んだ水を一直線上に放流して、見事な曲線を描き地面を濡らしつつ、丁原は激しくむせ返った。涎をたらし、鼻水が伸び、必死に呼吸を行う姿は滑稽であった。幸いであるのは、目の前の少女は苦しんだ人間を指して笑うことなどしない者であったことだろう。かつて無いほど、咳き込む人間を見て董卓は驚きながらも、必死に丁原の背を擦る。顔を真っ赤にして、驚きにわななきながら彼はもう一度聞いた。「い、今なんと言っひゃのだ恋」「……? 全部、倒し―――「ぶっはっ、ゲホッガハッ!」首を傾げつつ、呂布はもう一度丁原へと報告すると、それを遮って再び激しく咳き込むハメに陥った。全部倒した。それを言葉通りに受け取るのならば、まさしく黄巾党三万余の敵を打ち倒した、或いは追い払ったということだ。ただ一戦、約10倍もの敵兵とぶつかって。事実を述べると、呂布一人で倒した賊の数は3000人を越える人智を越えた戦果であったが全てではない。他のものは、戦っている筈なのに無人の荒野を走るが如くの呂布の武威に恐れをなし心を折られて逃げ帰っただけである。ある者は来た道を一直線に、またある者は恐怖のあまりに自ら近くにあった黄河の支流に飛び込んだ。一部、それでもなお波才の率いる黄巾本隊に合流しようと丁原軍を迂回した者も居たのは事実だがその数は余りに少なかった。つまり、黄巾援軍としてたった潼関方面の敵軍を、呂布率いる3000余の軍勢だけで追い払ってしまったのだ。「はぁはぁ……我が目に狂いは無かったか……」恐るべき武才。事実を何度も確認し、ようやく気持ちに整理がついた丁原は呂布の武に再び体を震わせる。目の前で、手を少しあげながら、ちょっと頑張ったとか言っている姿を見ていると、とても想像は出来ないがこの娘の才能が天に愛されていることだけは身に染みて理解できた。だからこそ、だろうか。彼女が生きる、この時代だからこそ天は武才を与えたのだろうか。だとすれば、何と皮肉なことだろう。「セキト……なついてるね」「あっ」董卓の足元でじゃれついていた子犬が、尻尾を振って名を呼んだ呂布の元へ駆けていく。それを胸元に掬い上げると、セキトはペロペロと舌で呂布の鼻の上を舐め始めた。「呂布さんにとても懐いていますね。 可愛いです」「ん……恋でいい、セキトが人に懐くの、珍しいから」「本当ですか? 私の真名は月です。 そう呼んで下さい」「うん……月」「はいっ」この、二人の心優しい少女達にせめて優しい時代が訪れてくれることを丁原は微笑ましく真名を交し合うやり取りを眺めながら、皺のある顔をゆがめて微笑み、そう思った。丁原の天幕を出て、呂布は自分の騎馬に乗り込む間際、ふいに空を見上げた。しばし茫洋と見つめ、そして口を開く。「雨が来る……」この黄巾党3万が、官軍である真紅の呂旗にある一人の武将に蹴散らされた話は敗残兵を通して幅広く伝わり、呂布という名と武は、瞬く間に噂となって広がったのである。まさしく、この報が洛陽で睨み合う官軍、黄巾党に届いた衝撃であった。・長安の援軍、来ることを期待していた波才は事態を今一度冷静に振り返る必要があるとして水の桶を用意するとそこに頭から躊躇いも無く突っ込んでいった。大きな水の音を響かせるが、その音は波才の耳にくぐもった物しか残さなかった。潼関近くから立った黄天の同志は官軍に敗れたという。数の差が4倍以上あったにも関わらず。確かに、立った彼らには自分のような将兵は居なかった。それにしたって、漢王朝に不満を持ち、張角様達の歌でもって新たなる世を夢見て強烈な志で持って立った兵を一夜で破るなど尋常でない事である。とてつもない隠し玉が用意されていたものだ。もしも、潼関への部隊に当たった官軍が、目の前に居る陣を引いて亀のように閉じこもった奴らと合流されることになれば、濃厚な敗北という色が見えてしまう。各地で仲間が立ち、全ての将兵がここに集まれば他の手も見えてくるだろうが、それは無いものねだりに過ぎない。水の中でゆっくりと眼を開ける。樽の底が歪に歪んで視界を歪めた。(決戦を仕掛けるしかない)敵に援軍がある可能性がでてくるとなれば、その前に決着をつけるしかない。この陣と相対してからというもの、中々上手く事が進まないが相手だって苦しい筈なのだ。数に劣り、将兵が自ら前線に立って、陣を盾にすることでようやく五分。その陣の防衛にしたって、資材が無限に沸いてくる訳ではない。3日も4日も攻勢を仕掛けているのだ。そろそろ、手持ちの弓矢、水や木材、つまりは防衛を支えている資材も底を突き始めているはずなのだ。事実、陣からの応戦は緩まりつつあり、遊撃隊として動く将軍が指揮する部隊の攻撃が激しくなっている。流石に息が苦しくなってきて、波才はその顔を一気に持ち上げた。入った時にも同じように拡散した水が、周囲を濡らして音を響かせる。その音は、いやにクリアに聞こえていた。波才は横に置いた戟を持って、天幕の外へと飛び出す。小細工なしの一発勝負。闇夜の中、火による明かりを灯す敵の陣を見つめ、明日の決戦に心を震わせる。「おい!」「はっ! なんでしょうか!」「食料はどれだけ残っているか」「節約して後4日というところです」暫し黙考して、波才は命を出した。今日の夜は豪勢な食事を振る舞い、士気を上げることにしたのだ。夜襲の警戒も、最早続ける必要はないだろう。結局、官軍は夜襲など一度たりとも仕掛けてこなかった。「……あの二人はもう用済みだな」決戦を挑むのだ。陣をすぐに抜けれたのならば、生かしておいても良かったが決戦において不安な要素など必要ない。むしろ、身内を疑い戦う事は集中を欠く要素にしかなり得ない。「おい、お前ら……諸葛孔明と鳳士元を殺して来い」「え、いいのですか」「あの二人は、軍師だと……」手近に居た二人の男を呼んで、殺害を命じた波才に一瞬躊躇いを見せたが二人の男は理由を聞いて頷いた。知を持っているとはいえ、武を持たぬ子供のような孔明と士元ならばあの二人だけでも十分だろう。陣を見つめて、波才は手に持つ戟を一つ振ると、体を休めるために天幕へと戻っていった。一方で、丁原軍が潼関から立った黄巾党の援軍を破ったという報を受けた官軍は沸いていた。敵に対して数倍もの数を蹴散らした報告は、確かに兵にとって嬉しい物であり勇が沸き希望に溢れる話であった。将であっても、笑顔を零すものが居る中でしかし、表情を曇らせた者も居た。「天代殿」「孫堅さん、どうしました」その中の一人、江東の虎である孫堅が一刀の天幕へと訪れていた。椅子に座り、卓の上で戦況図を眺めていた一刀と音々音に手を合わせて一礼し薦められても居ないのに空いた椅子へ座ると口を開いた。「獣を追い詰めてしまったということ、ご理解しておいでか」「戦術的には追い詰められてるのはこちらですよ。 戦況的に追い詰められているのは向こうですが」「そうか……分かっているのならば結構だ。 これも例の作戦への布石か?」孫堅の言葉に、一刀と音々音は顔を見合わせた。一刀の考えた作戦を話したのは数日前、曹操の援軍が辿りついてからだ。しかし、話をしたのはまだ軍師のみである。全員に時が来るまで黙っているようにと釘を刺しておいたので、孫堅が知っている筈は無いのだが嫌に確信めいて頷く姿に、周瑜は孫堅に詳細を話したのではないかと思ったのだ。「周瑜さんから聞きましたか」「ああ、言わねば尻の毛を全て抜くと言ったら、泣きながら聞かせてくれた」「ぶふぉっ」『『『毛抜きプレイだと……』』』「唾を飛ばすな、天代殿……ん? これは唾をつけられているという事か? ふふぅん、私も捨てたもんじゃないな」「……周瑜殿は責めない事に致します」「それは重畳」腕を組み相変わらずの笑顔で頷く孫堅。最近気がついたが、孫堅は別に威嚇とかをしようとして獰猛な笑みを浮かべている訳ではない様だ。笑うとそうなる顔のようで、これは彼女の不幸の一つなのでは無いだろうか。ニヤリと笑ってもわっはっはと笑ってもどこか威圧感があるのだ。この人はそのことで勘違いされることも多いのかも知れない。そんな孫堅に呆れたような視線を向ける一刀と音々音は、一応作戦については諸侯に黙っておいてくれることを約束してくれたので、彼女を信用することにした。音々音に出された茶を一つ含んで、孫堅は真面目な顔で一刀を見た。「追い詰められた獣の出す答えなど一つだ。 決戦を仕掛けてくるぞ」「はい」「そうですな」丁度、そのことで一刀は音々音と共に話を詰めていたところだった。明日は敵も意気を上げて、この陣を貫こうと決戦を挑むだろうと。このタイミングで決戦に挑まれるのは、実はかなり間の悪いところであったのだ。波才の考えるように、物資は当初に比べて随分少なくなっていた。ここ数日の攻勢で、陣そのものにもダメージが大きい。できる限り修復を行っているとはいえ、それにも限界はある。「抜けそうなところをわざと見せ、そこを狙わせるのはどうでしょう、一刀殿」「うん……実際には一番強固なところを脆く見せるのはいい考えだ」「一度火をかけて、炭だらけになった部分を見える場所に配置するのです。 見た目はボロボロになりますから、誘導するには丁度いいのです」「話を遮ってすまぬが、周瑜が一度野に出て押し返す必要があると思うと言っていた 正直、私もそう考えている」孫堅の言葉に、音々音は頷いた。賈駆と田豊からも同じ事を提案されていたのだ。「相手が決戦を仕掛けるならば、陣に篭り切っていては駄目だとねねも思うです。 ただし、初戦のように最初から野戦を挑むには数の差と士気に差があります」「だから、最低でも一度、できれば二度の攻勢を防いでから、出陣という形を取ります」そこまで話したところで、一刀の天幕に皇甫嵩が訪れた。彼の用件は、何進大将軍と朱儁将軍の不在に気がついたことであった。もちろん、彼らに付き従う兵士5000ほども、一緒に陣から立ち去っている。その事を尋ねに来たのであった。「お二人は怪我をしていましたので、洛陽へ戻ってもらいました」「何進大将軍には、もう一つ、別の事を頼んでいるのです」この言葉に、孫堅と皇甫嵩は眉を顰めた。ただでさえ数の差があるというのに、この時期に何進大将軍の兵5000を失うのは痛い。実質的には、一万余の兵力で相手を押し返さなければいけなくなるのだ。怪我をしているのは分かる。陣があり、防衛には有利な地の利であることも。それでも、やはり、長期間に渡る陣の防衛で疲れ始めている兵の士気や相手との数の差を考えると、この決断は孫堅と皇甫嵩にとって危ういものに思えたのだ。それを話そうと孫堅は口を開いたが、皇甫嵩に遮られてつぐむことになった。「別の事とは、何を頼まれたのですか?」「勝つための、一手を」短く答えた一刀の隣で、音々音もゆっくりと頷いた。顔を見合わせた孫堅と皇甫嵩は、しばし沈黙した後、不敵に笑いあった。目の前の二人は、どうやら何かの悪巧みの最中らしい。興味はもちろん惹かれる物の、自らの口で喋らないのならば現状、武将である自分達に話す必要は無いと言ってるに等しいのだ。「興味のある話だ。 それを見るために、精々武を奮うとしよう」「驚かせてくれる事を期待しましょうか、孫堅殿」それだけを言い残して、二人は一刀の天幕を立ち去った。卓におかれた凸の置石。それを眺めてから一刀は眼を瞑りった。曹操の敵に知られていない援軍、呂布の武の噂。最後の一手が間に合わずに黄巾の決戦をこのタイミングで決意させてしまったが準備は明日、終わるだろう。一刀の原案に音々音が修正を加え、そして賈駆、周瑜、田豊と言った三国志でも有名な軍師達の意見を取り入れて完成が見えたこの策。明日の黄巾との決戦に敗れれば、全ては夢想を描いたに過ぎなくなる。追い詰められたのは間違いなくこちらだ。ゆっくりと眼を開けて、一刀は呟いた。「正念場だ」・孔明は、波才に呼び出されて陣内でも人気のない場所を一人歩いていた。相変わらず、能面のような無表情を顔に張りつけていたが目的地へ到着すると、その顔も一瞬強張って表情を彩る。そこには決別と決意の日から顔を合わせていない鳳統が、一人で立っていたからだ。何か違和感を感じつつ、孔明は一つ唾を飲み込んで自分に気付いていない様子の鳳統の下へ歩み寄った。「雛里ちゃん」「あ……朱里ちゃん」「なんか、久しぶり……だね」「うん、そう、だね」黄巾党に拿捕され、血判状を押したあの日からこうして二人きりで会話することなど殆ど無かった。いつも何処かに、黄巾党の兵が控えており、内緒話など絶対に出来ぬようにされていたのだ。こんな間近で、お互いの顔を見るのは本当に久しぶりであった。今更、こうして二人で話し合う機会を設けるとは。違和感が徐々に確信に近づいていたのを、孔明と士元は気がついていたがそれは敢えて無視していた。「朱里ちゃん、その顔……」「あ、これは……」丁度頬骨の辺りだろうか。孔明の顔に青い痣がついているのに士元は気がついた。月明かりの元でハッキリと確認できるソレ。陽の出ている時間に見れば、おそらく痛々しい傷跡が刻まれているのだろう。誰がやったかなど、聞かなくても分かる。「大丈夫だよ、ちょっと、痛かったけど……」「朱里ちゃん、あのね……私も……」「いいよ、分かってる。 多分そうだと思ってたから、いいんだよ」自らの服をたくし上げ、何かを見せようとしていた士元を遮って孔明は顔を歪ませつつ首を振って士元の手を取り止めさせた。作戦が失敗する度に、孔明は波才に天幕へ来るようにと呼び出されていた。彼の八つ当たりに付き合うのが日課のような物になっている。日が進むごと冷静さを失う波才は、最早孔明や士元の言などしっかり取り合う気もないのだろう。孔明から見れば、機を逃し続ける波才は愚かに映る。だが、自分は策を練り、考え、伝えなければならなかった。暴力を奮われようと、それが鳳統にまで及んでいようと、二人で生きる為に。実際のところ、孔明は波才から聞かされていたのだ。だから、分かっていた。「あ、あの、あいつが来たら言っておくね、雛里ちゃんにはもう手を出さないようにって―――」「朱里ちゃん」俯きながら、士元は孔明の名を呼んだ。その声には確かな意志が込められている。一つ俯き、自分の言葉を整理するかのように何度か頷いた士元は顔を上げて孔明と向き合った。「もう、もう止めよう? こんなのもう、やだよ」「雛里ちゃん……」「だって、おかしいもん。 私、朱里ちゃんが大切だから 大好きだから、だから、頑張ってる朱里ちゃんを見てるのが辛いよ! 一人で戦ってるのを、もう見たくないよ!」「……っ」それは、鳳統にとっては稀有である激情の発露であった。自らの命、そして親友の命を守る為に、黄巾党に与した事は否定しないし出来ない。官軍にぶつかって、もう引けない場所にあるのはその通りだ。孔明は、龍として天を翔けるために黄巾党へと孤独な戦いを挑んでいる。過程はどうあれ、同じ立場であったとはいえ……いや、だからこそ孔明の立場を見るのは鳳統にとって胸を痛ませていた。もしも、何かが違えば孔明の立つ位置は自分であったかも知れなかったから。策を献ずれば否を返され、無謀を諌めても付き合わされて。戦を終えるたびに波才の天幕から親友のくぐもった声が響いてきて。そう、彼女は常に孔明の後に呼ばれ、親友の声にならない悲鳴を聞かされていた。「だから……」雛里の懇願のような声に下唇を噛んで、孔明は潤む目元を必死に押さえていた。口の端から、僅かに赤い血を滲ませる。泣いては駄目だ。泣けば、雛里は生きることを諦めてしまう。官軍か、波才か、どちらかに殺されることを是としてしまう。「雛里ちゃん、だってもう戦っちゃったんだよ…… 官軍と、私達戦っちゃったんだよ!」戦いを放棄することを選択するには、今は遅すぎた。多くの人々を命の天秤にかけて、雛里を選んでしまった、今は。顔を歪ませ、自分の胸を抱きながら叫ぶようにそう言った孔明に士元は優しく覆いかぶさって、抱いた。「ねぇ朱里ちゃん……?」「雛……里ちゃん?」「志に縛られないでよ……私達、きっと間違ってるもん……」「……うん……そう、だよね」肩で支えあうように抱き合っていた二人は、そこで体をやや離してお互いの顔を見た。口が上ずり、涙を零す鳳統。眼を細めて口を真一文字にして震える諸葛亮。「馬鹿だね、私達……」「うん……馬鹿だよ」孔明の手から、握り締めていた羽扇が落ちた。重なるように横並びに座り夜空を見上げる。既に波才に呼び出された刻限を過ぎていた。ここに彼が来ない理由はもう分かった。官軍の増援が来る可能性があることを、今日の夕刻知った。当てにしていた長安、潼関の増援が打ち破られた波才が取る手段は数を任せて陣を貫く、愚直なまでの突撃策しかないだろう。つまり、決戦を行う腹積もりであることは容易に想像がついた。その決戦を前にして不確定な要素……つまり、自分達を排除しようという考えだ。星のきらめきが、二人を包むように広がっていた。これだけ綺麗な、これだけの星を瞬かせる天はどのような場所なのだろうか。「天の御使い様に、会いたかったね」「うん、最後に一目見たいね、朱里ちゃん」「ここから、見えないかなぁ?」「流石に無理だよぉ」手を傘にして遠くを見るように孔明が首を伸ばした、その時だった。ガサリと近くの藪から三人の黄巾党が現れたのは。ああ、これで終わりかぁと思いつつ、孔明はしかし夜空を見上げ続けていた。自分も死ねば、あの星の瞬きのどこかが落ちてゆくのだろうか。将でもない自分では、落ちる事はないのかな、と。「へっへっへ、ようやく二人同時に殺せる時が来たぜ……ってなぁ、おい、こら」「なんすか、アニキ」「この場合どうすりゃいいんだ?」「む、難しい問題なんだな」死の覚悟を決めて、完全無視を決め込んでいた孔明と士元だったがどうも様子がおかしい会話に、そこで初めて黄巾党の姿を認めた。何故か、仲間である黄巾党の首を二つぶら下げて、三人の男達は会話を重ねている。仲間割れとも、少し違うような気がする。「だぁ、くそっ。 こんな話聞いたらお前おい、約束を違うじゃねーか! あの桃色頭に御使い様が疑われ続けちまうぞ」「いいじゃねーすか、殺さなくて済むんすから。 殺すのも犯すのも、後が大変になるだけですし……桃色頭ってなんすか?」「五月蝿ぇよ。 じゃあお前、ちょっと前までの俺のこの、とてつもない意気込みは何処にぶつけたらいいんだ、えぇ?」「アニキ、お、俺の腹を使ってもいいんだな」「おーし、よく言った、俺の刀の錆びにしてやんよ」「か、刀は無理なんだな! ひぃー、アニキ、ごめんよー!」「待ちやがれっ!」呆気に取られて、孔明も士元も呆けてしまった。暫くして、ようやく自分を取り戻すと孔明はどういうことなのかを聞こうとして逆に意見の纏まった三人組の一人、アニキと呼ばれた男がずいっと前に出て尋ねられたのだ。「で、波才と官軍、オメーラどっちなんよ?」「え?」「だぁら、どっちだって聞いてんすよ! それを聞かない事にはアニキも動くに動けないんす!」「あ、あわ、あの……前に私を殺そうとした人……」「あー、あん時は波才の奴と繋がってると思ってたんでな、わりぃ。 とにかく、このまま二人を殺すかどうかを決めなきゃいけないんで、早く教えてください」間抜けなことを白状しながら、アニキは孔明と士元へ率直に。それはもう率直に尋ねたのであった。波才、と答えると必ず死ぬことになるようなので、孔明も士元も官軍に与すると即座に答えた。無論、先ほどまでならいざ知らず、憑き物が落ちたような二人にとってこの答えは生死を問われずとも、官軍と答えたことだろう。この返答に、アニキは先ほど二人が話していた 「天の御使いと会いたい」 という状況も加味して考えて孔明と士元が波才の元で黄天を仰いでいないと判断する事にしたのである。鳳統の元で、官軍右翼と戦っていたアニキは、目の前の少女が自分には及びも着かない知を持っている事を知っていた。そこで、アニキは北郷一刀の最後の矢。その作戦を二人に話すことにしたのである。それを聞いた孔明と士元は殆ど同時に頷いて、アニキへ刀を構えてくれと要求した。首を傾げながら、アニキは言われた通りに刀を構えるとそこに向けて孔明は自らの腕を差し出して、切り裂くという暴挙に及んだ。「ちょ、何してんだお前!?」動揺するアニキを無視して、噴出した血を自分の髪に塗りたくると孔明はそのままアニキの刀へ向かって、自分の髪の毛を持って切り裂く。コクリと頷いた孔明に、鳳統は頷き返して同じように刀で血を塗り髪を切り裂いた。「おいおい……」「アニキさん、言葉だけで殺したと言っても波才は信じません。 この髪と、血のついた刀を持って、私達を切った証拠にしてください」「お、おう……」孔明と士元はお互いに顔を見て笑った。やや不恰好になった髪型。 血の跡を残す顔や髪。その醜くなった姿が、波才との別れを告げたようで妙に心がスッキリしていた。「朱里ちゃん……」「雛里ちゃん」「最後の戦でも、いいよね?」「うん! 一緒に頑張ろう、雛里ちゃん!」声を掛け合い、孔明はふと視線の先に落ちる物に気がついてそれを拾った。落ちたはずの羽扇は、孔明の手元に再び納まったのである。グッと力を握り締めて、眼を瞑る孔明を見てアニキは薄く笑った。「……へへ、おいチビ、おめぇこれ波才に渡してこいよ」「げぇ、俺っすかぁ? っと、あーあー、血がついちまった」「デクじゃ上手く口がまわらねぇだろ。 ほら、行け」「ったく、人使い荒いんすから……」(……まぁ、御使い様も軍師を殺すのに悩んでたみたいだし、これでよかったよなぁ)一人心の中で呟いて、アニキは天を見上げた。数多ある星のひとつが、強く光っていたような気がした。・天代 北郷一刀が官の軍勢を率いてはや4,5日は経とうか。昨日、黄巾党本隊と激突した旨の報を受けてから、何をしていてもその事ばかりを考えてしまう。明日の朝には、新たな報が入ることだろう。初日を劣勢で終えた官軍は、陣に篭り戦い続け、今はこう着状態であるという。月が天の真上に浮かぶ時間に目を覚ましてしまった劉協は喉の渇きを感じてムクリと起き上がる。水を求めて、寝室から出ると卓に座る段珪が一人、椅子に座ってうな垂れていた。卓上には劉協の求めた水が置かれている。「段珪、水を貰ってもよろしいですか」「あ、ああ、劉協様……これは失礼いたしました」段珪の言葉から、僅かに漂う酒精の匂い。それを感じて彼女は僅かに眉を顰めた。「これはお酒ですか?」「いえ、それは水ですよ……さきほどまで、帝が快方されたことを祝う盛大な宴がありまして それに出席しておりました」「盛大な宴……?」水と聞いた劉協は、近くに置かれた盃に注ぎ水を飲み込むと段珪へと向き直った。確かに父である劉宏が快方したことを祝う催しがあることは知っていたが宴を開くとは聞いていない。そもそも、華佗から暴飲暴食、酒や女性との性交は禁じられていたはずだ。何より、今は黄巾党と呼ばれる叛徒達が起こした乱の最中。そんな大事に国の上に立つ者が、暢気に酒を飲んでいることなど考えられなかった彼女はしかし段珪の続く言葉に否定された。「事実でございます。 一足先に、私は席を辞してきたので今も続いているかは分かりませんが恐らくは」「……規模はどの程度なのです」「宮内全てを巻き込んでおります。 離宮におらせられる劉協様には、黙って置くようにとの話もありました」「なんということ……」劉協は椅子を引いて腰掛けたると再び注いだ水を見つめて唸った。戦というのは、とにかくお金がかかる。その位は劉協も分かっている。湯水のように消えていく金は、漢王朝という物に大きな負債を積もらせていく。税の取立てはきっと、今よりも厳しくなるだろう。それに民は更に朝廷への信を失っていくことになる。此度の乱は、何故起きたのか。それを考えれば、如何に帝が快方したことが目出度いとしても大きな宴を開いて金を掛けるという判断はしない筈だ。ただでさえ、不満を抱えて起きた此度の黄巾党を裏で援護射撃しているようなものだ。この一事、今行われている戦に勝たねば色々な意味で致命になり得るかも知れなかった。既に起きたことは、どうにもならない。劉協は一つ息を吐き出して窓へと視線を向けた。空は、雲が広がり黒く歪んで薄暗い。まるで、今の漢を表しているかの天候ではないか。振り出した豪雨は、少しばかり勢いを弱めてはいるものの、未だ止みそうもない。この雨は果たして、どちらの軍に利を齎しているのだろうか。「一刀……勝って下さい……」今の劉協に出来る事は祈ることだけ。きゅっと胸元で握った手が、少女の服に皺を残した。・薄く雲が広がり、陽の光は霞んでいた。雲の流れが速く、暗雲が空に立ち込めている。空を見上げた波才は、火を用いることが難しい事に気がつく。雨が降れば、地面はぬかるみ機動力を削がれてしまう。決戦を行うに当たって、この天候の変化は歓迎しがたい物であった。とはいえ、今更中止にすることなどは出来ない。官軍の陣をまさしく力で貫くしかないだろう。自らの腕に巻いた黄巾を手で掴み、握り締めた。現王朝を打倒するべく立ち上がり、新たな世の礎になる為に死をも辞さない覚悟で持って此度の決戦に踏み込んだのだ。そんな激烈な覚悟を自分の胸に歌で持って刻みつけた張本人は、黄巾党が立った理由など知りもしないだろう。黄天の下で大地を踏みしめて、根付いた人々が国と成る。多分に意訳を挟んでいるが、決して間違った解釈でもないだろう。農民であった自分はその歌の内容を耳朶に響かせた瞬間に、自然頭を垂れていた。重税にあえぐ現実を忘れ、彼女達の歌に陶酔していた。最初はそれだけで、十分だった。しかし気がついてしまった。今の世が間違っていると思い始めてしまったのだ。それが何時だったのかは、最早分からない。周囲で叫び、自分と同じように歓声をあげて張三姉妹の歌声に体を揺らす中。ふと、気がついたのだ。ここで現実を忘れて浸っているだけでは何も変わらない事に。変えるにはどうすればいいのか。それを必死に考えて、何も思い浮かばずにドツボに嵌った。結局、張角達の歌う公演会は、夢を見るだけの場所で現実は何も変わらない。大きな都に在れば見えないだろう。しかし、少しでも中心から逸れれば嫌でも目に入ってくるのだ。匪賊が増え、田畑は荒れて、税は重く、苦しく辛い。ただ生きることすら諦めたくなるくらいに、歯を食いしばって日々を過ごす人々が。助けを求めても、余裕のある者など隣には存在せず、飢餓を迎えては隣人が消える。そして、人が人を食すのだ。地に立てた鍬は折れ、干ばつに水も無くなって悲鳴を上げた者が居る。病が流行って、邑の住人が一夜で消えるような死を見てきた者が居る。この黄巾を巻くもの全てが、自分と同じような日々を歩んできているのだ。国が民というのならば、この黄天を夢見る我らが国であるべきではないか。歌で大陸を取る、とそう言った張角に波才は黄天の世を垣間見た。これこそ、悩み苦しんでいた自分の求めていた答えであり天下万民における正答。今日で足踏みも最後としなければならない。これは、この世を変える最初の一足になるのだから。握り締めた黄巾を自らの腕から引き千切るように引っ張る。悪鬼と呼ばれても良い、修羅に落ちても良い。この道の先が、たとえ惨たらしい自分の死であろうとも、ただ一人の農民であった自分が漢王朝を崩して黄天の世の礎になるのであれば本望!解れた布を頭に巻き、波才は馬上で叫んだ。「貫くぞ!」たった一言。その、一言に全ての激情を込めて波才は馬を走らせる。この道が、黄巾を纏って立ち上がった全ての者の道しるべとなることを信じて。・黄巾党3万を超える大群は、陣に篭る官軍へと殺到した。対陣から雪崩のように荒野を埋めて襲い掛かる黄の波。修復の手も加えられるだけ加えて、当初の様相から随分と姿を変えた官軍の盾。此度の決戦、遊撃隊を置く事も兵数の関係で出来ない。間違いなく、今までの防衛の中で最も苦しくなるだろう。門の上に立ち、全軍に見える位置で一刀はその様子を見た。ここからは全てが見える。この戦場に立つ者の顔、黄巾党も官軍も、その全てが見える。眼を閉じれば、この場に立つことになった原因。馬元義と徐奉と鉢合わせたあの蔵が、瞼の裏に映り込む。あの時、あの場で馬元義を名乗った。それが、帝への毒となり、黄巾の蜂起を引き起こした全ての原因。諸葛亮が、鳳統が、黄巾党に参加しているのもきっと。『空が……』ポツリ、と鼻の頭に雫が垂れるのを感じた。弱く、微弱に、だが、確かに雨が降り出した。『火は使えないな。 僥倖だ』『俺達には嬉しい天気になったな』『ああ』(……ここで、負けたくない)責任を取るなどと、そんな事は言わない。遅かれ早かれ、乱は起きていた。切っ掛けになってしまった事は悔やむほか無いが、それでも何時かはこうなったはずだ。乱の中心に居ることには、想像すらしていなかったし、納得は行かなかったが、しかし。理不尽に対してぼやくのは全て終わった後でいい。生き抜かなければ、それも出来ないのだから。だから、せめて。だんだんと強くなっていく地響きと雨。傍に控える音々音の、かすかに息を吐くのが感じられた。群れをなして襲い掛かる黄巾を見つめながらも、音々音を横目で一瞥して……それから、一刀は腰に刺した剣を引き抜いた。本来ならば、何進が行う陣頭の鼓舞。この、戦の前の檄を飛ばすにふさわしい地位を持つ者は、怪我で退陣した何進を除けば一刀しか居なかった。一つ、深呼吸して息を吐き出すと、剣を掲げた。全員に、しっかりとその剣が見えるように。高く、高く。限界まで肺に空気を吸い込んで、一言だけを発した。爆発的に肺から押し上げられた空気が振動を伝え、音となって陣へと木霊した。「守り抜くぞ!」「オオオオオオォォォォオォオォォオォォ!」両軍から気炎が上がり、戦いは6日目を迎えた。 ■ 外史終了 ■■官軍総大将 北郷一刀(天の御使い・天代・チンコ) 参謀 陳宮 本陣 皇甫嵩 孫堅 黄蓋 劉表 袁術 張勲 華雄 賈駆 袁紹 顔良 文醜 田豊 孫策 周瑜 曹操 夏候惇何進 朱儁 兵5000 OUT曹操 夏候惇 兵2000 IN総兵数 19500→13500官軍援軍丁原・呂布 :兵数6500▼黄巾党総大将 波才 参謀 諸葛亮 鳳統兵数43000→32500