clear!! ~都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編7~clear!! ~頭で撮る記念写真の数々、決めポーズを記憶に残すよ編2~今回の種馬 ⇒ ☆☆☆~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編1~☆☆☆ ■ 洛陽凱旋で絡む糸「うわぁ……」感嘆の声を漏らして、一人の少女は門を通って大通りを歩く官軍を見つめていた。その道は門から大通りを抜けて、宮内にまで伸びている。庶民を入れる訳にもいかないので、官軍だけでなく、諸侯の兵までもが動員されて凱旋となる大通りに、人が入り込まぬよう規制が行われていた。街ならばともかく、宮内にまで軍など入ることは出来ないのだがしかし、今この時に限っては許されていた。それもこれも、天代となった北郷一刀を一目見ようと、近いところでは陳留や長安から遠い場所では幽州まで、多くの人々が駆けつけているのだ。天の御使いの噂、それを聞いた彼女は郷里を飛び出してきた。そういう行動に出た人は、この少女以外にも多い。その上、つい先日の黄巾の乱での活躍は噂に尾ひれが付いて一刀の名を爆発的に押し上げていたのだ。余りにも多くの人々が駆けつけたため、人の流れを規制せねばならなくなったのである。そうした様子は、官軍を率いて洛陽にたどり着いた一刀にも目に映った。洛陽の街、その外まで人々で溢れかえってるのだから気付かないはずがない。そこで一刀は、大勢の人間が駆けつけた事によるパニックが起こるのでは無いかと危惧して何進へと相談した。何進は宮内の許可を得てからの方が良いとして伝令を送り、帝の許可が出たことによってこうして凱旋することとなったのである。そんな中、件の少女は必死に官軍の姿を視界に収めようと悪戦苦闘していた。人垣が出来ていて、なかなかその全容が見れない。踵を上げたり、はたまた跳躍してみたりして、何とかその姿を見ようと多くの人ごみに紛れて、薄桃色の頭を揺らしていた。その跳躍のせいで豊満な胸が揺れて、街の一部の男性の視線を集めてることには全く気がついていない。前髪を真ん中で分けて、白いリボンを左右にくくり、腰まである髪は艶があり瑞々しい。服の背の部分から伸びる白く薄い布地が印象に残る。腰に差した剣は宝剣の類であろうか。 随分と煌びやかな修飾が施されており庶民が持つには些か分不相応にも見えた。そんな彼女は人の波に揺られながら、ここに集まった多くの人々と同じく天の御使いを一目見ようと、人垣の中でぴょんぴょんと跳ねた。「玄徳、相変わらず落ち着きの無い娘だね、まったく」玄徳、そう呼ばれた少女は口をすぼめて隣に佇む美女へと顔を向けた。片メガネに長い亜麻色の髪、ぼうっとした雰囲気を持ち暑くても寒くても毎日身に着けている肩掛けを纏って佇むその姿は、真面目なのか不真面目なのか、良く分からない雰囲気を醸し出している。「だって盧植先生、せっかく洛陽まで来たんですよ。 一目くらい見たいんです!」「気持ちは分かるが……跳ねるのは止めて欲しい、子供だな」「う、また子供扱いするんですからぁ」「ふふふ、教え子とは何時までたってもそういう物だよ、劉備」柔らかく笑みを浮かべて、盧植は劉備を嗜めた。洛陽のすぐ傍で賊徒が暴れている最中、突然来訪した何時かの教え子の訪問には驚いた物だった。久しぶりに会う劉備は、以前からまったく変わらない人柄であった。どこか人を惹きつける、太陽のような笑顔と優しい心根。別れてから久しいが、相変わらず明るく元気に馬鹿をやる彼女に盧植は突然の訪問であるにもかかわらず暖かく劉備を歓迎したのである。彼女が教えてきた人の中でも、下から数えたほうが早いくらいに出来が悪い劉備であったが学ぶと定めた時間を越えても、自ら教えを請い、最後までやり遂げた一所懸命な劉備を盧植は好きだった。出来の悪い子ほど可愛い。その言葉を盧植に教えてくれたのは他でもない、目の前の劉備である。まぁ、本人にそんな事を言えば頬を膨らませて拗ねるのだろうが。「おぉ!」「きゃぁ!」「あ……わぁっ!」そんな事を考えていた盧植は、一際大きい声に柳眉は視線を向けた。彼女の声がきっかけになった訳では無いだろうが、人垣が波打ち大きなどよめきの様な物が上がった。ここに居る多くの人々が、ある男を一目見ようと駆けつけたのだから自然な現象であろう。官軍の中で一際目立つ、金ぴか鎧に金の鬣を持つ馬に跨って門を潜り、彼らを囲む街の人々をぐるりと見回していた。何を隠そう、劉備が洛陽へ訪れたのは天の御使いを一目見るため。人々は次々に立ち上がり、天の御使いの男を歓声で出迎えた。「あれが、天の御使い様かぁ……きゃっ」「あれが天っ、っと……ああ、申し訳ない」劉備と同じように人の垣根を越えて見ようとしていたのだろう。丁度隣あった時に、押し出されるように劉備は突き飛ばされてしまい尻餅をついた。謝りながら手を差し伸べた相手へ顔を向ける。その時、劉備の目に映ったものは今までに見た事も無いような美しい黒髪。頭部の側面で髪を一括りにして、長く垂れた髪は同姓ながら見惚れるものであった。凛とした顔つき、背中には武器が提げられている。大きな偃月刀を携えている事から、武人の類なのだろう。そんな彼女の手を取って、劉備は立ち上がり頭を下げた。「ご、ごめんなさい、私夢中になっちゃって」「いえ、夢中になっていたのは私もですから。 怪我はありませんか?」「う、うん、大丈夫です……えっと……」「私は関羽。 流れの武人です」「これはご丁寧にどうも、私、劉備っていいます、よろしくね関羽さん」お互いに名を交換し、劉備は笑顔を向けてそう言った。関羽は暖かい笑顔を向ける人だな、と場違いな感想を抱いて。過去に類を見ない位、この場所の人口密度は異常だった。押し合いへし合いになることも多く、こうした事象は劉備たちだけではなく他にもちらほらと窺えた。一部では喧嘩のような物も散見されるほどである。お互いに注意不足もあるだろうが、二人が衝突してしまったのは、もう仕方のないことであった。そして、大勢の人が集まったこの場所で悠長に自己紹介しつつ会話をすることなど不可能といって良い。「あの、ひゃあっ!?」「あっ」何かを喋ろうと口を開いた劉備だったが、後ろから押されて素っ頓狂な悲鳴を上げつつ関羽の胸へと飛び込みかけたが、誰かに襟首を持たれてグイっと引っ張られてそれは回避された。盧植が片手で引っ張り倒して、捕まえるように劉備の顎へと腕を回す。目の前の胸に倒れた方が安全だったような気がした劉備である。「あー、関羽殿だったか。 私は盧植。 うちの教え子がすまないね」「あ、いえ……お構いなく……」「せ、せんへぇ……首……くるす……」盧植の腕は劉備首をぐるりと回り、今で言うところのチョークスリーパーが見事に決まっていた。「お目当てである天の御使い様も見れたし、こんな人ごみの中ではこの子が怪我しかねん」「そ、そうですね……あの、腕を緩めたほうが……」「……あぅっ、……かうっ!?」「と、いうわけで関羽殿には悪いが、我々は失礼させてもらおう」「はぁ……あの、腕を……」そういって首根っこを引っつかんだまま、劉備という出会ったばかりの少女は連れ去られてしまった。しばし呆然と見送った関羽は、劉備の顔が赤から青くなるのを目撃して一瞬追いかけようと思ったが、頭を振って立ち止まる。良く聞こえなかったが、先生と呼んでいたっぽいことから、二人は親しい間柄なのだろう。多分あれはそう、じゃれ合いみたいな物だ。ちょっと、心配だったが。「お姉ちゃ~~~~ん!」「鈴々、どうした」「人が多すぎて見過ごしたのだ! 鈴々も御使い様を一目見たかったのにぃ!」そんな関羽の元へと駆け寄ってくる少女。赤い髪短く切り揃えて、虎模様のジャケットにスパッツ。何処からどう見ても元気一杯の女の子と言って差し支えない、幼さを残した鈴々と呼ばれた少女が半泣きのような表情で関羽の元へと飛び込んでくる。何処かの誰かが彼女の持つ蛇矛に当たって吹っ飛んでいったが、それには全く気がついていない。よろよろと立ち上がる吹き飛ばされた人、どうやら無事なようである。短く溜息を吐いて、関羽はとりあえず叱り飛ばすことにした。武器の名で分かる人には分かるだろう。少女の名前は張飛その人であった。「鈴々、人ごみの中で走るなと言っただろう!」「あ、ごめんなのだ……」「まったく……まぁこの人ごみでは、見れなかったのも仕方がない」「あぅー、せっかく見に来たのに」身体全体で残念だと表している張飛はわざわざ高い場所まで上って、噂の天代を見ようとしていた。その分がロスになってしまったのだろう。彼女が見えたのは、金の尻尾を揺らす金獅のみで、肝心の一刀の姿を見逃していた。「それに、私達の目的は天の御使い様を見ることじゃない。 忘れてはいないだろう?」「勿論なのだ! 玄徳って人なのだ!」「うむ、玄徳様という方を探しに洛陽まで来たことを忘れていない鈴々に、少し感動したぞ」「む、それはちょっと鈴々を馬鹿にしすぎなのだ」「くす、そうだな、すまん」一つ笑って、関羽と張飛は人ごみからゆっくりと離れた。勿論、途中で張飛の持つ蛇矛で吹っ飛ばした人の手当をしてから。結構怒りながら、その人は腫れてしまった患部に手を当てていたが張飛の姿を認めるや否や破顔し 「いえ、ご褒美ですから」 と言い残して去ってしまった。それはともかく。先ほどの会話からも分かるように、関羽、そして張飛は天の御使いを見に来た訳ではなかった。幽州を訪れた際に聞いた玄徳という人物の噂を耳にして、遠く洛陽を目指してきたのだ。黄巾の匪賊の動きが活発となり、それらを道すがら退治して旅をしていた関羽と張飛。最初は、個人の武だけを見せ付ければそれで終わる小規模の物ばかりであったが日を追うごとにその規模は膨らみ、その事実に関羽は強い憂いを抱き始めた。来る日も来る日も、黄巾を纏った賊徒共を屠る毎日。10人斬った。次の日はその倍を斬り捨てた。その次の日は、そして翌日は……はっきり言って、精神だけが磨耗していく辛い日々であった。玄徳という人の噂を二人が聞いたのは、そんな人を殺す事が当たり前になっていた時であった。ある邑に立ち寄った時、そこでは今まで訪れた邑とは違い笑顔に溢れていたのだ。今までと違うところは、そこだけ。裕福でも、賊が襲ってきていないわけでもない。しかし、人々は明るく生気に満ち、鬱蒼とした影を落とす人はいなかった。関羽と張飛は、どこか新鮮な気持ちでその邑で一晩を過ごした。翌日、気になって聞いてみると飛び出したのは『玄徳様』という名。何でも、ここ近隣の邑は玄徳が人々の中心に立って協力し合い、賊徒共と戦って追い出したのだという。それから近くの邑を渡り歩いた二人は、たびたび玄徳の噂を聞いた。人を惹きつける求心力を持ち、困っている人を率先して助け決して武に優れている訳でもないのに、剣を取って黄巾の賊へと立ち向かったという。勿論、玄徳の武で追い払ったのではない。邑に住む人々が協力し合い、時には近隣の邑の人までが義狭から立ち上がり、共に手を取り合って賊と立ち向かった。その中心となったのが、玄徳様、と口をそろえて言った。聞いただけでは、その凄さは分からないだろう。しかし、その行動を起こすのに、邑の人々がその勇気を奮い立たすのに一体どれほどの覚悟が必要であろうか。旅を続けて様々な邑の現状を見てきた関羽と張飛だからこそ、分かる物もある。その玄徳というお方は、確かな求心力があり、人々に笑顔を齎すことが出来る人。賊を追い払う事だけならば、関羽でも張飛でも出来ることだ。でも、その後の人々に笑顔を取り戻せたことなど無かった。ある日、張飛は関羽へと言った。「もう、鈴々とお姉ちゃんだけの武じゃ、どうしようもないのだ」関羽は頷いた。漢王朝に舞い降りた天の御使いの話は、関羽も張飛も知っている。しかし、それでこの幽州は何が変わったのか。何も変わっていない。相も変わらず黄巾の賊は幅を効かして、人々を苦しめている。ここに必要なのは遠い英雄の活躍や名高い御使いなどの名声ではないのだ。「玄徳様に会ってみよう」そう結論を出すのに、それほど時間は掛からなかった。翌日には玄徳が住むと言われる邑へと訪れて、彼女達は何処へ居るのかを尋ねた。すると、返って来た言葉は驚くべきものだった。天の御使い様に会いに行くと言って、幽州を飛び出したというのだ。関羽はその話を聞いて強い失望を抱いた。結局、玄徳と言う者も今この場に必要な物が見えない愚者であるのかと。人々の中心となる彼女が居なくなったら。そんな考えを持たず、自らの欲求だけで遥々と洛陽まで向かったのか、と。そうした言葉を漏らした彼女に、邑の住人達は血相を変えて関羽を非難した。終いには、言葉を取り消さなければ追い出すとまで言われて慌てて謝罪することになった。冷静になって話を聞けば、御使い様に会いたがっていた玄徳様を、邑の人々が自ら送り出したという。日ごと、その感情を募らせ、自分達の存在が留まらせている事を察した彼らはそれとなく玄徳様を諭して、洛陽への路銀を集めて送り出したらしい。自らの勘違いに関羽は深く謝罪して、いっそう玄徳様と呼ばれる人が気になった。二人が洛陽を目指すのに、そう時間は掛からなかったのである。「……とはいえ、こうも人が多いのではな」「すぐには見つからないのだ……」路地裏の少し高い段に腰掛けて、二人は遅くなった昼食と呼ぶには寂しすぎる物を取りながら嘆息した。人柄や容姿、雰囲気は聞いているが、実質『玄徳』という名だけしか手がかりは無かった。先ほど出会った少女が、『劉玄徳』と気付くには、先ほどの邂逅は短すぎたのである。なにより元から洛陽へ来るつもりの無かった彼女達には、目先の問題もある。サクっと食べ終わった昼食も終わって、しかし。張飛は地面に寝転がりつつ青空を見上げた。「うあー……愛紗ぁ、鈴々はお腹すいてるのだぁー」「……言うな、私もだ」肉まん一つを半分こ。今日の昼食はこれだけだ。残っている金額は、後何か一つ食べ物を買ってしまえば潰えることだろう。店に入れば拿捕されるくらいしか、懐には残されていない。つまり、早急に金を稼ぐ手立てが無いと、最悪このまま飢えて死ぬ。まずは玄徳という人を捜す前に、彼女達は何処かで日銭を稼ぐ必要があるようだった。―――「随分と人気者になったものだな、天代様は」宮内の一室で、数人の男たちが窓から凱旋する一刀を見届けていた。室内には何かを転がすような音が響いている。窓の外の一刀に唯一人興味を示さずに、手のひらで琥珀色の宝玉をコロリコロリと転がす者が一人。宦官の中でも最高位を示す章を付け、目鼻立ちがくっきりとした細い目を向けて他人の会話を無視しながら、自らの手に転がる琥珀の宝玉を眺めていた。纏う雰囲気は風の無い湖面のように静謐であり、白くなった髭と見せかけていたマフラーの様な物は首元まで伸びている。もみあげだけ、クルクルと円を描いているのが印象的だった。「功を挙げて、ますます増長するぞ、あの男は」「調べはついているのだ。 あれはただの運送屋で働いていた庶人よ。 よくもまぁ、ここまで上手く成り上がったものだと感心するな」「まったくだ……面の皮が厚いにも程があるな」窓から眺めて、不満のような物をぶつける男たちを一瞥して宝玉を相変わらず手の中で転がしながら、スクリと立ち上がった。未だ益体の無い話を繰り返す同じ宦官の男たちを残し、ゆっくりと中座して部屋を出る。部屋を出た直後、横合いから声が飛んできて振りかえる。「張譲殿」やや肥えて弛んだ頬、口元が厚ぼったく、髪は薄くなって久しい。何時もその手に抱いている銅雀をなでぇなでぇ……しながら胡乱な目を向ける皺の多くなった顔の男を見て、張譲は口を開いた。「……蹇碩(けんせき)殿か」「大丈夫なのか、随分と人気者になったじゃないか、天代様は」「何の心配をしている」「此度の乱の功績には、帝も随分気を良くしているぞ」「名声、風評、勲功、上げるだけ上げれば良い」「なに?」片眉を上げた蹇碩に、張譲はニタリと笑みを向け、手に持つ宝玉を転がし始めた。ころり、ころりと。そして何も答えずに踵を返す。廊下を進む張譲を眺め、蹇碩はやがてそっぽを向いて疲れたように息を吐く。その時、やや離れた場所から何かが落ちて割れる音が聞こえた。蹇碩は視線を張譲へと戻した。先ほどの音は、彼の足元に落ちた宝玉が硬い廊下の床とぶつかって割れたのだろう。彼らがその手に持ち歩いているのは帝からの寵愛の証。それは十常侍である宦官にのみ、帝から直接手渡される、宦官の最高位にある何よりの証だ。その証の宝玉を落とし割った。やや重い沈黙が降りて、やがて張譲は口を開いた。「……天代様が居ても、まったく困らん、違うか」「……? 意味がわからんぞ、張譲殿」「まずはマジパネェヨと祝っておくとしようではないか、蹇碩殿」それはどういう意味かを蹇碩は問いただしかったが、張譲は足元に落とした宝玉の欠片を律儀に拾い集めると、それきり歩き去ってしまった。蹇碩の知る限り、宦官の中でも特に恐ろしい謀略を振るう張譲がはっきり言って宦官にとって邪魔者以外の何者でもない天代、北郷一刀に何も考えていない訳が無いのだ。無いのだが……「読めん、何を考えておるのか……」ついでに、張譲が持ち歩いている宝玉を落としたのか、それとも落ちちゃったのかも気になった。帝からの信頼の証である大事な銅雀の表面をなでぇなでぇ……しながら渋面を作った蹇碩の額に嫌な汗が自然、つぅと流れた。 ■ 噂走れば天代が泣く帝から庶人まで。大陸を最も騒がしている一刀は部屋で一人、空を見上げていた。都、洛陽の街へ戻って既に三日。一刀を取り巻く環境は驚くほど変わっていた。自分を見れば何か途轍もないご利益が齎されると思っているのかマジパネェよ! とか言われつつ頭を下げられたり手を握られたり。中にはお守りとして陰毛が欲しいとか言い出したり。それこそ時の権力者である宦官から庶民から、皆が揃って同じような反応を示しているのだ。正直、戸惑っている。まぁ、それは良いのだ。天の御使いを名乗った事や、天代という身分を与えられた事。黄巾の乱をいち早く見破ったし、実際に蜂起した賊の乱を七日で鎮めたのも事実。それらを考えれば、確かに今の自分を持て囃す現状はおかしいとは思わなかった。迷信深いと言われる三国志の時代だ。分かる話。……話が分からないのは、瞬く間に大陸へと今も広がっている一刀の『ある噂』の方だ。殆どの噂は概ね他愛の無い話である。「天の御使い様は戦に出れば3回に5回勝利する」「天の御使いが戦場で武を奮うだけで、賊軍は膝をついた」「天代が武を奮えば、天に虹がかかる」「幼女虐待趣味がある」「武器を使わず無手でも敵将の首を刎ねれる」「戦場でも余裕で閨に誘って4人同時にまぐわった後、陣頭で一日中指揮を執った」「天の御使いに触ると、病気にならなくなり健康でいられる」「天の御使いは、戦の勝利を祝うとき、マジパネェよ! と連呼する」「天代の罠は108通りある」「劉協様を狙っているらしい」「帝は天代に、自らの信頼の証を渡し厚遇している」などなど。自らを称える人々の話に、一刀は苦笑で返すことしか出来なかったが。しかし、どうしてもこの噂の中で容認できない物がある。空を、一羽の鷲が太陽の光を遮って一瞬の影を一刀に落とし甲高い鳴き声を上げながら空へと向かっていく。それを眺めて一刀は言った。「どうして幼女を虐める趣味がある、だなんて噂が流れるんだ……」そう、これだ。この噂は、一刀としては決して容認できない物であった。しかも最悪な事に、音々音に確認を取ったところ、これらの噂は市井に出回ってしまっているそうなのだ。天の御使いと言う虚仮は、大陸全土に走ったという。漢王朝が治める大陸にとって、天の御使いが現れたという情報はすさまじい衝撃を与えたのだろう。そんな天の御使いの事を、きっと人々はどんな者なのだろうかと知ろうとする筈だ。他人事だったならば、自分も進んで天の御使いにまつわる噂話をしている輪に加わった事だろう。そして聞くのだ。「天の御使いは幼女を虐待するそうじゃ、本命は帝の娘様らしいぞ」と。大陸に住む全国民……いや、全幼女が震えるに違いない。無いとは思うが、天の御使いを妄信してしまった人が、幼女を虐待したりするかもしれない。どうやらこの噂は脳内の自分達にも相当な衝撃を与えたようで、憤慨した。そんな訳で、窓に寄りかかりながら一刀は空を見上げているのだ。怒った顔が戻らないのである。『一体どんな尾ひれがついたらそんな噂になるんだか』『なんでだろうねぇ……』『こんなんで、季衣達に嫌われたら泣くぞ、俺は』『ああ、小蓮にも心証は良くないだろうな……』『あああ、違うんだ鈴々、俺は違うんだよ、そんな目で蛇矛を振り回さないでくれ』人は怒りが冷めると、虚しさを覚える物らしい。だんだんと怒りが冷めてきた一刀は、今度は悲しくなって顔を歪めた。この虚しさ、今は他の一刀と感情が一致していることもあって、何倍にも膨れ上がった。自然、頬を伝う涙。その内に今度は自嘲したように笑ったり、突然恐慌したり、そしてやっぱり笑ったりと一人百面相が続いて暫く空を見上げる事しか出来ない一刀であった。とにかく、こうして沈んでいても広まった噂が無くなるなんて事は無い。なんと言われようがそんな趣味は無い! と毅然な態度で接すれば、出会った人はああ、この人は違う、普通の人だ……と分かってくれる筈だ。噂は淘汰されるもの。半ば開き直ることで復活をしようとしている一刀。そんな窓辺へ腰掛ける彼を見ながら、考え込むように座る一人の少女。一刀に虐待できるチャンスを窺われていると噂になっている劉協様である。黄巾の乱は官軍の勝利に終わった。その決着は、とても信じられないような奇跡のような話である。敵が掲げる黄天が群雲から顔を覗ける時、虹をかけて覆った瞬間に首を跳ね飛ばしたと。誰に聞いても従軍した物は、一様にその有様を興奮して語った事からそれは事実なのだろう。一刀が成し遂げた事は、とても大きな事だ。宮内で開かれた宴の話を聞いた時に感じた不安感など、吹き飛ばしてしまうくらいに。一刀の立場は確たる物となった事だろう。帝に呼び出され、勝利の報を直接伝えて勲功として銀で作られた篭手を直接その手で授かっている。劉協を……そして十常侍ですら飛び越え帝の隣に立つ地位を手に入れたのだ。この一事を持って、一刀へとへりくだり始めた宦官の数は多い。もしかしたら、このまま良い方向に向かうのでは、という期待感が劉協の胸を弾ませている。だが、不安も勿論ある。それが、敵の捕虜であるという少女を二人、生かして連れ返った事だ。何故斬らないのかを聞くと、助けてあげたい、と彼は答えた。そんな事は無理な話だ。漢王朝に弓を引き、多くの兵を、そして仲間を失った官軍の怒りは大きい。天代としての確固なる地位を手に入れ、人々の上に立つ者となった一刀は断固たる姿勢を見せねばならない。そんな事を必死に諭したのだが、一刀は首を縦には振らなかった。賊の将であった少女を匿う事、それは一刀の弱点になってしまうのに。自分が気付いていることだ。恐らく、一刀も気がついている。劉協は一刀が洛陽へと戻ってから、その事に頭を悩まし続けていた。「一刀……」「ん、何?」振り返った一刀は少し首を傾げて劉協を見やった。優しい人だと思う。だからだろう、容姿が自分よりも幼い少女達だ。同情する気持ちも分からないではないが、やはり処さねばならないのだ。そうでなければ、近い内にもっと大きな問題を抱えてしまうかも知れない。こう見えて頑固である一刀の首を縦に振らす為に、何とかしなければ。劉協はよし、と一つ気合を入れるように大きく息を吐いて口を開いた。「話がある」 ■ 墓穴を掘りつつ恋揚々「はぁ……」一つ大きな息を吐いて、茶の入った容器を指でなぞる。飽きたかのように手を戻すと容器を持ち上げ茶を一飲み。椅子に腰掛けて、容器を置きながら窓から外を見やる。しばらくして、手持ち無沙汰から再び容器に指をつつつっと滑らせた。「なぁー、斗詩ぃ、なんか姫が気持ち悪いんだけど……」「うーん……あんまり見ないよねぇ、たそがれている麗羽さまって」「ぜぇぇぇったい、何か変だって」「やっぱ、あれなのかなぁ」ひそひそとわざわざ部屋の隅っこまで移動して会話を交わす顔良と文醜。そんな二人を他所に、心ここに在らずといった面持ちで唸ったり首を捻ったりしている袁紹。少し主である袁紹から離れた卓で、茶を楽しんでいた田豊の器がコトリと音を立てて置かれた。「麗羽様」「あら……なんですの、田豊さん」「恋わずらいですか」「ブフッ!」「きゃっ、ちょっと文ちゃん、やめてよ」田豊の声に反応を返したのは文醜であり、顔を寄せて話し合っていた顔良の顔に唾液が飛沫する。しかし、彼女を責めることは出来ないだろう。我が道を、行けよ行け! とばかりに奔放であった袁紹である。こう言っては失礼だが、袁紹に付いていける男性は当分現れないのではと文醜は思っていたのだ。「ここ数日、失礼ながら観察させて貰いました。 麗羽様は懸想しておられますね?」「……そうですわね、まぁ隠すほどの事でもないですし」「えぇー、ほんとに!? うっそだぁー!」「ぶ、文ちゃんっ」「相手は誰なんですか?」「そ、そうそう、姫が懸想しているのって誰なんです?」そこで初めて、袁紹は室内にいる三人を見渡して何度か頷くと何時もの調子を取り戻したかのように片手を頬にあてながら「おーっほっほっほ、まぁ? この袁本初にふさわしい相手がどれだけ居るのかを考えれば すぐに答えは出ますわよね」「なるほど、天代様ですか」「えぇーーーー!?」「やっぱり……」どこか溜息のような物と共にそう言った顔良に、目ざとく田豊は気がついていたが驚き固まっている文醜も同じく無視して袁紹へと声をかける。「つまり、悩みは天代様にどうやって近づこうかということですか」「む……ま、まぁ平たく言えばそうなりますわね」高笑いをやめた袁紹は、やや頬を染めて素直に頷いた。天代、つまりは一刀のことだが、彼は諸侯達が居る場所には普段居ない。劉協が居る禁裏である離宮へと居を構えているので、皇室と、それに近しい関係を築いている者しか入れない。つまり、袁紹は昼間に出歩いている所で一刀と偶然出会うくらいしか無いのである。勿論、特別な理由があれば別だろうが、そんな物は考え付かなかった。なので、無意味に溜息を吐き出していたりするしか無かったのである。袁紹としては、自分の気持ちに気付いてからこっち、とにかく逢瀬を重ねる事がまず第一歩と考えた。というか、それしか考えていなかった。それは間違いではなく、確かに会わない事にはどうにもならない。一方で田豊は、天代である北郷一刀の顔を思い出していた。主に戦場でしか見ていないが、まぁ顔は悪くなかったように思えるし性格も素直だ。加えてあの一騎打ちを見れば、袁紹の好む華麗さや優雅さと言った物はあるかもしれない。袁紹が天代に懸想する要因は確かに転がっていた。そんな分析を一瞬で終えた彼女は、次に自らの仕えている主と天代が交際を持つ事に頭を巡らした。一刀の今の立場は、帝と殆ど対等だ。勿論、帝から役職を貰っているという点では下になるのかもしれないが天の御使いという名が広まっているので、言わば漢王朝の客将と言ってもいいかもしれない。実際に恋仲になるかどうかは別として、関係を持つのは悪くないように思える。この件について、田豊は袁紹をその気にさせる事を一瞬の打算で決めた。「どうにか会う方法はありませんこと?」「残念ですけど、いくら袁家であっても天代様のおられる離宮には入れませんよ」「そうですわよねぇ……はぁ、もどかしい」「ですけどほら、麗羽様の友人に宦官の祖父様を持つお方が居たような気はしますよ」「……背に腹は変えられませんわね」「いや、そこは麗羽様が気付かないといけないんじゃないかなー……」「曹操さんの事が、頭から抜けてるってことだもんねぇ」好き勝手に言い合う文醜と顔良に、チロリと目を向けて袁紹はしかし、ぐっと堪えた。彼女とて、曹操に協力を求めるかどうかは悩んでいたのだ。しかし彼女は恋敵でもある。一番最初の第一歩から、曹操の手を借りようとするのは気が引けていたのだ。とはいえ、このままでは仲を深める以前に会えないという落ちで終わってしまいそうだった。「仕方がありませんわ、華琳さんのところへ行くわよ!」バッっと立ち上がった袁紹に、三人の声が重なる。「あ、いってらっしゃい」「いってらっしゃいませ」「……い、いってらっしゃ~い」「こらっ、私一人で行かせる気ですの!?」「だって、私達別に関係ないじゃないですか姫」「あー、私は曹操さんと会うのはちょっと……」頬を掻いて言い繕う文醜と茶を飲みながら気が進まない様子でやんわりと断る田豊。どうも行く気が全く無い二人の様子に、袁紹はすいっと顔良へ視線を向ける。そんな視線を向けられた顔良は、両手の指先を合わせつつ曖昧な顔を向けていた。正直なところ、袁紹が一刀へと好意を寄せているのに気がついていたのは彼女が最初だった。一刀に対しての袁紹の様子を察したというのも大きいが、一番は顔良も一刀へと懸想している気がしたからだ。自分の気持ちに自信が持てず、ハッキリとは言えないが袁紹が一刀に気持ちを向けている事を知ってから、胸に燻る強いモヤモヤは大きくなっていった。だからこそ、彼女は一刀に会う為に袁紹が向かうのに付いていくのは憚られたのである。顔良も一刀には会いたい。しかし、尽くしている主が懸想した相手ならば身を引くのも吝かではない。そもそも、まだ恋心なのかどうか、あやふやな物だからというのも在る。しかし、会えるのならば会いたいのは事実だった。そんな思いが複雑に絡み合って、彼女は結局身を引いた訳なのだが。「斗詩さん、斗詩さんは来ますわよね?」「は、はぁ……」「返事!」「はいぃー!」その主にこうして呼ばれるのならば仕方ない。そんな事を思いつつ、思いのほか軽い足取りで袁紹の後ろをくっ付いて行く顔良を文醜と田豊は見送りながら茶を入れていた。パタリ、と戸が閉まり。新たに淹れた茶を文醜へと注ぎ、自分の容器にも満たす。「ありがと、田ちゃん」「いえー」「ところでさー、どうして曹操に会いたくないの?」「洛陽へ戻る途中に勧誘されちゃいましたから」「え、そうなの?」「そうなの」困ったと言いながら頬に手を当て、にこやかに首を傾げる田豊。余り困ったようには見えなかったが、文醜は納得することにした。卓に並べられてあるお菓子を手にとって文醜が口に放り込み、茶を口に含む。田豊は彼女の一連の行動を見届けてから、ふと思いついたように口を開き、そして言った。「あれは、斗詩さんも惚れてますねー多分」「ブバッ!?」「……ふっ、我が策、なれり」ちょっとした悪戯が成功して薄く笑った田豊は、文醜が怒涛の勢いで近づいたと思うと笑っていられる余裕は一瞬で無くなった。両肩をがっしりと捕まれて、激しく上下左右に揺さぶられたのである。「ええ、やだ、斗詩が取られちゃうなんて、そんなの嫌だぁー!」「ま、ままま、ま、ちょ、っやめ、んっは!?」「でもなんか最近変だとは思ってたんだ、話してても上の空の時があったし、どうしよう田ちゃん!」「ふあっ、あっ、あうう……っ」文醜の膂力は強い。田豊では振りほどく事も出来ずに、なすがままに頭を揺らされて彼女の唯一の武器である思考能力をこそぎ落としていった。ついには、田豊の様子に気付くこともなく錯乱してシェイクを止めなかった文醜にこれからは、もう少し自分に被害のない様に悪戯をしよう、それだけを固く心に決意して田豊は現実から目を離す事にした。要するに自ら意識を手放した。動かなくなった田豊を、死体に鞭打つかのように、しばらく揺すぶり続けてからその様子に気がついた文醜は白目で力なくダラリと身体を落とした彼女に、死んだのではないかと焦りもう一度混乱に陥っていた。―――その日、曹操は朝から眉根を顰める事になった。原因は自分の目の前にある一枚の竹巻のせいである。洛陽で起きた黄巾党の乱、その増援として曹操は陳留を飛び出した翌々日に陳留でも黄巾を巻いた賊軍の一斉蜂起があったらしい。その規模は2万を超えたものであり、曹操の私軍は兵糧を潰すことによって勝利を得たという。そんなことが、目の前の竹簡に書かれていたのだ。この勝利、おそらく陳留で立った黄巾党に波才のような将は居なかっただろう。戦で最も気をつけなければならない兵站を断たれるなど、軍略のぐの字も知らないに違いない。曹操にとっては幸いであったが、一歩間違えば宛城に続き陳留を落としていた事態も在り得ただろう。一つ嫌な予感が走った。此度の洛陽での乱、ただのきっかけに過ぎないのではないのか。黄巾を率いた大将、波才が立ち上がり、それに呼応するかのように宛城を攻められ長安・潼関からも黄巾党は現れた。そして、自分の治めている土地である陳留からも。歪な円を描き、その輪は広がりを続けているのでは無いか。「一番最初に頭を潰したか……」波才の建てた計画、それは洛陽の奪取に違いない。内と外で呼応し、時期を定めての一斉蜂起。既に処刑されたという、内応した宦官と共に洛陽を落とし中央を麻痺させようとした。そして殆ど時間差なく立ち上がる黄巾党を持って諸侯を牽制。洛陽には空白の時間が出来る。それを使って内部を把握し、一気に漢王朝を滅する考えだったのだろう。これを食い止めたのが、馬元義という黄巾党の密会に居合わせた北郷一刀。果たして未来の知識からか、それとも偶然か……曹操は今後も黄巾党は各地で蜂起を行うだろうが、波才という頭を潰した以上その内に落ち着きを見せるだろうと予測していた。まぁ、陳留も無事だったようなので、後は各地の乱を鎮めていけば良いだけだ。この報告についてはそこで考えを止めて、曹操は気分転換に『楽しく学ぼう房中術・位編~体位の秘密~』を手に取り椅子を倒してゆっくりと腰掛け、パラリと頁を捲った時だった。扉の外から声がかかり、許可を得て一人の文官が中に入り、曹操へと二、三報告をすると竹簡を渡して恭しく退出した。片手だけで器用に竹簡を開いて、桂花の文字であろう文章を追っていくうちに曹操の眉間に深く皺を寄せることになった。「……これは」黄巾党の首魁の一人、張梁を捕らえた。その一文を目にして、曹操は先ほどの考えが間違いであったことを悟る。波才は黄巾党の一将にしか過ぎなかった。波才を操り、裏で漢王朝簒奪を描いた黒幕がいる。先ほど手に取った書物を投げ捨て、焦れたように両手で竹簡を全て開く。黄巾党の賊も張梁自身も自供はしなかったにも関わらず何故、張梁という人物が黄巾党の首魁であるかを特定できたか、その理由が書かれていた。その理由、玉璽を用いて届いた荀彧への手紙に記されていたというのだ。視線で続きを貪るように追う。北郷一刀からの手紙から判明した黄巾党の首魁は3人。それぞれ張角、張宝、そして曹操軍が拿捕した張梁の名が記されているという。北郷一刀は、これを見かけたら殺さずに捕らえたままにしておいて欲しいと言ってるそうだ。その為、曹操の判断を仰ぎたいという一文で締めくくられていた。ついでに、隅の方に小さく、荀彧の字で曹操に会いたいのでそっちに行きたいとも追記されていた。「……」竹簡を巻いて、卓へと置いた曹操は自分が自然と立ち上がっていることに気がついた。やはり、北郷一刀は未来が見えている。そうでなければ、黄巾党の首魁の名を知る事など不可能だろう。誰がどう見たって、洛陽へと攻め上がった波才がそうであると思ってしまう状況だ。何より、張角や張宝などという名にはとんと覚えがない。諸侯に尋ねて回っても、その名を知っている者など恐らく居ないだろう。そして、黄巾党の首魁が見つかれば、殺すなとは。「北郷一刀……貴方には何が見えているの?」殺してはまずいのか、それとも殺したくないのか。諸葛亮と鳳統という捕虜に接した態度から、殺したくないと言うのは想像できない。殺せば未来が変わるからか?何にせよ、一度本人に確認を取るべきだろう。「桂花にも来て貰おうかしら……」荀彧の知は本物だ。こっちに来たがってる旨を書の端にしたためる位だし、曹操も弄りたくある。勿論、今後の対応を検討するのに、彼女が居たほうが心強いというのもあるが。陳留へ送り返す返書をしたため始めた曹操は、ふと、一刀が送った空箱に書いてあった文を思い出した。魏の王、その王佐の才と。確かに、そうかも知れないなと苦笑して、曹操は文官へと返書を預けると暫しその場で黙考していたが、今度こそ『楽しく学ぼう房中術・位編~体位の秘密~』を読もうと床に手を伸ばして……「華琳さん! ちょっとお話がありますわ!」「すいませぇん……失礼しますぅ……」「……」何の前触れもなく扉が壊れるのではないかという勢いで開け放った袁紹が現れ、そのまま手を引っ込めた。後ろには袁紹の将である顔良の姿も見える。「……何かしら、麗羽」「私、天代様に会う用事がございますの、なんとかなさい」「……随分ね、けど丁度いいわ。 私もどうにか会えないかと考えていたところよ」「! やはり、華琳さんもそうですのね」「麗羽も気がついているの?」「当然ですわ、何としても会わねばならない……あら?」ずかずか歩いてきた袁紹は、曹操の目の前で停止すると、何かを踏んだ感触に口を噤んだ。自然、彼女は目を落とす。そして曹操は目を逸らした。「なんですのこれ……なっ! これは艶本!?」「ちょっと暇だったから読んでいただけよ、いいじゃないの」目を逸らし、顔を背けた曹操の頬はやや朱が差していた。なんとも気の早い話だろうかと、袁紹は思った。この女、既に天代とまぐわう事を想定しているのである。そんなこと、今の今まで袁紹は思いもしていなかった。「か、華琳さん……貴女……」「な、何よ」「ハッ……いえ、コホン、まぁ、いいですわ」その事を問い詰めてやろうとした袁紹だが、ハッと気がつく。一刀と会うのが主目的であり、今は曹操の膨らんだ妄想に構っている場合ではないと。それは、袁紹にしては珍しく衝動的行動を自制した瞬間であった。サラリと流した袁紹に、ちょっとだけ感謝した曹操である。「華琳さん、ちょっと愛する天代様と上手く会う方法はあるかしら」「……え、何? ちょっと待ってちょうだい。 もう一回言ってくれる?」「「はぁ? 良く聞いてなさいな。 華琳さん、ちょっと愛する天代様と上手く会う方法はあるかしら」「もしかして麗羽……」「なんですの?」「北郷一刀に懸想しているの?」「何を今更。 そんなの知っていたでしょうに」曹操は突然、袁紹が恋心を暴露したことに珍しく混乱した。この女、成長したなと見直した先からコレである。確かに今までよりは大分マシではあるが、相変わらず素っ頓狂なのは変わらないようだ。恐らく、袁紹の思考はこうである。天代様は張角とか張宝とか、誰も掴んでいない情報まで手に入れていた。なんとも華麗に優雅な手回し。 天代という身分も十分に釣り合うし顔も悪くない。名門袁家にふさわしいですわ、おーっほっほっほっほっほっほ!と言ったような感じだろう。長年友人として付き合ってきたのだから手に取るように分かる。未来を知っていることなど知らないだろうし、曹操と同じ情報を得たのならば、その勘違いも確かにあり得る。確かに彼には天運があるだろう、未来を知っていても一騎打ちの勝利に虹を描くことなど万に一つ。いや、もはや奇跡と言っても過言では無いかもしれない。そんな眩しい輝きを放つ男を、この派手好きな旧友が見逃すはずは無かった。一つ一つを考えてみると、凄く自然な流れのような気がしてきた曹操である。一瞬、惚れたという言葉に呆れたが、すぐに思い直す。天の御使いである北郷一刀を手に入れる事は、何かしらの打算を含んでいるのかもしれない。今の一刀の立場は名声も権力もある。少なくとも惚れている事を伝えれば、男である以上は袁紹に悪い印象を持つまい。なるほど、良く考えれば奇手ではあるが効果的でもある、侮れない。「ま、まぁいいわ。 ちょっと驚いたけれど……それで、何の話だっけ」「ですから、何度も言ったように天代様と会うのにどうしようかという話ですわ」「ああ……そうだったわね……とりあえず、お祝いの品を渡すということで口実を作ればいいんじゃない?」「ふむ……なるほど、こちらから行けないのならば、呼び出せば良いという事ですわね」それは確かに手っ取り早いのだが、彼が贈呈された贈り物に気がつくかどうかは分からない。何故ならば、帝から直接手渡された玉のせいで、宦官達の動きが慌しいと曹操は祖父から聞いていた。今頃、贈り物で窒息しそうな量が贈られている事だろう。後は一刀が出歩いているところや、祖父に頼んで一刀の住む離宮へと入れてもらう事だがそもそも一刀の住んでいる離宮は禁裏である。いかに祖父が宦官であり、権力を持っているとはいえ許可が出るとは考えにくい。「何かありますかしら」「武器はどうでしょう?」「うーん、なんだか、ありきたりの様な気もしますわね」「でも、お菓子とかはきっと取り上げられちゃいますよ。 この前の毒騒ぎもありましたし」「やっぱり、武器がよろしいのかしら斗詩さん」「そうですねぇ……鎧や馬に比べて天代様の武器は地味ですから、それが無難で良いと思いますよ」そして曹操を無視して一刀の贈り物に悩み始める袁紹と顔良。曹操は自分の部屋で雑談に興じ始めた二人を追い出そうと口を開き「では、華琳さんも一緒に参りましょう?」「そうですね、曹操さんも一緒にどうですか?」「……うーん」ここで曹操は唸った。正直、袁紹の恋路云々はどうでもいいし、袁紹が打ったこの手について考えたいとも思うのだがここ最近は終ぞ買い物に市井へ出ることなどなかった曹操である。洛陽へ来るのも久しぶりだし、買い物ということならば付き合ってやっても良いかなと思ったのだ。買い物を楽しみながら、考えることも出来るだろうし。艶本を読む気分でもなくなってしまったし。「ま、付き合ってあげてもいいわよ」肩を竦めてそう言って買い物の準備を始めた曹操を眺め、袁紹と顔良は生暖かい視線を送りつつ小声で囁きあった。「曹操さんも、結構意地っ張りなところがあるんですね……麗羽様」「恋は乙女を変える、ということですわね、斗詩さん」二人のすれ違いは未だに続いていた。 ■ 子供のように泣きじゃくり一刀は音々音を伴い、宮内の中を歩いていた。と、いうのも在る場所へと向かっているからである。正直、こうして外に出てこれた事は助かった一刀である。「さ、流石に今回はしつこかったな、劉協様」「仕方のない事なのです。 正直、ねねも諸葛亮と鳳統に関しては劉協様と同意見なのですぞ、一刀殿」「う、いやまぁそうだけどさ……あの剣幕は焦ったよ」「それについては同意なのです……」「華佗が来てくれて助かったのが本音だなぁ」一刀も言われずとも、理屈の上で劉協と音々音の言葉が正しい事はわかる。黄巾党に参加して、知を奮い、官軍を苦しめた事実があるせいで、覆すのは難しい。脳内の自分からは、諸葛亮と鳳統は波才によって選択の自由は無かったと言うが客観的に見れば彼女達は朝敵なのである。かといって、本体も見殺しにはしたくなかった。彼女達と僅かとはいえ話したことで、情のような物もあるし、その人柄は確かに脳内の保証通りであったからだ。何とかしたいが、どうにも出来ない。一刀はそんなジレンマを抱えていた。今のところ、帝からも逆賊の将についての処置は一任するとの旨を貰っているのですぐさま誰かが文句を言うこともないだろうが、このまま無為に時間を過ごせば早く処罰しろとせっつかれる事だろう。「うーむ、どうしたものか」「ねねは一刀殿の判断に従うだけなのです」「うん、ありがとう……ついでに、牢に入れられた彼女達が不当な扱いを受けていないかも調べておいて」「……一刀殿は少し優しすぎると思うのです、相手は漢王朝に弓引いた賊なのですぞ」「うん、でも調べてくれるだろ?」「うっ、そそ、それは、勿論調べるのです……」苦笑を、しかし視線はしっかりと音々音を捕らえた一刀に音々音は仕方が無いと言う様に息を吐き出しながらも了承を返した。少し照れながらなのは、突然向けられた視線のせいだった。「あ、あの……天代様、ですよね」一刀と音々音がひそひそ顔を近づけて話し合っていると、恐る恐る声をかける女性の声。振り向けば“董の”の記憶に眩しい、董卓の姿が認められた。軍議の場で一度見ているが、彼女は参加こそしていたものの、話していたのは賈駆である。その後は賈駆の執拗な個人マークにあい、一刀は董卓本人と会話する機会に恵まれなかったのだ。細い眉に柔らかそうな髪質の薄い藍色の髪を揺らして佇む彼女は儚い印象を一刀に抱かせた。小柄な体躯に華美な服。地位としては、諸侯の中でも何進や袁紹に比べれば少し落ちるが、それでも高い方である。『月……変わらないな……』『『ああ、変わらないね……』』「えっと、何か用かな?」「呂将軍の変わりに来たんです。 案内役として」そう、一刀が離宮を離れる切っ掛けは、劉協の怒涛の言葉攻めに耐えていた一刀へ空気を読まずに華佗が話しかけたことであった。なんでも、行軍から体調を崩してしまった丁原の具合が宜しくないらしい。一刀は、丁原の見舞いに向かうと劉協に断って彼女から抜け出せたのである。説得に失敗した劉協はなにやら気を落としていたが、諸葛亮と鳳統は脳内の自分の大事な人でもある。首を縦には降れない以上、この話に限って劉協とは平行線を辿るのだ。勿論、その為だけに抜け出したわけではない。もともと一刀の応援に答えて出陣した丁原を見舞いに行こうとは思っていたのだ。華佗からの伝言では呂布が迎えに来ることになっていたが、どうやら董卓が迎えに来てくれたらしい。「ああ、わざわざありがとう」「いえ、こちらへどうぞ」ペコリとお辞儀して、董卓は静々と歩き始めた。その様子に思わずほっこりする“董の”他数名。本体は釣られてほっこりすると、音々音にジト眼で見られてしまった。取り繕ったように咳払いをかまして、一刀は董卓の後を付いていった。三人で、宮内の中を練り歩く。ふと顔を向ければ、整えられた草木に花。ゴミも掃除する人間がいるのでゼロという訳ではないが目立たない。洛陽の街を駆けずり回っていた一刀から見ると、この場所は随分と衛生面に気を配っている。大陸の首都なのだから当然だとも思う一方、街中の様子を知っている一刀は複雑な感情を抱いた。この場所に居る人たちだけ、恵まれている。それは時代、そして身分や王朝という制度から考えて仕方のないことなのかも知れない。しかし、一刀は現代の町並みをなまじ知っている分、やるせない思いを抱いた。もっと暮らしが豊かになれば良いのに、と。「天代様、足元を」「あ、ごめん、ありがとう」「一刀殿、余所見は危ないですぞ」董卓に言われて、段差に差し掛かった事に気がついて一刀は礼を言った。確かに余所見をして歩くのは辞めた方が良さそうだ。暫く歩いて、ある宮内の中へと入る。中へ入って階段を登り、ある部屋の前でようやく董卓は歩を止めて振り向いた。「こちらになります」「ありがとう……それと、そんなに畏まらなくても良いよ」「えっと……その……」董卓はそう言われて困ってしまった。目上の人にそう言われても、彼女としては性格的に考えても困るだけである。礼儀や礼節というものを彼女はしっかりと弁えているのだ。一人でわたわたと落ち着かない様子を見せ始めた董卓に、一刀は苦笑して「ごめん、いきなりは無理だよな。 でも少しずつで良いから慣れてくれると嬉しい。 あんまり畏まれるのって慣れてないからさ」「は、はい、頑張ります……」そう言って董卓は一つ頷いて俯いてしまう。慌てる董卓は見ていて和むのだが、心なしか怯えているようにも見えてしまう。仲良くなるには、少し時間が必要なようだ。『……この場に詠が居れば、少しは会話も弾んだかな……』『『『『無いものねだりだね』』』』『分かってるよ、ちぇ』「……ゆっくりでいいから、うん」「ゆっくり……」自分の脳内にも言い聞かせるように呟いた本体の言葉を、反芻しつつ董卓はチラリと一刀の顔を垣間見た。頬を掻いていた一刀の視線と、董卓の視線がバッチリと合ってしまう。途端、董卓は両手で自らの頬を押さえ、言った。「へぅ……」『『『へぅ……きた!』』』『うるせぇ! 月を茶化すなっ!』『いいじゃん、可愛いよ』『あ、だろ? 可愛いよな』「……中に入ろうか」「ぐむむ、鼻が伸びているのです……」慣れた脳内の騒ぐ声、そして何か振り向きたくなくなる音々音の声をスルーしつつ、一刀は頷いた董卓と共に室内へと入った。―――出迎えてくれたのは、床について青白い顔をした老人と介護をしているのだろう、濡らした布を持った赤毛の触覚を生やした女性であった。一刀が入ると、赤毛の女性……洛陽へ戻る際に見かけたことがある呂布が一瞥し、再び濡れた布を眺める。丁原本人は、眠っているのか。僅かに胸を上下させており、静かに寝息を立てているだけであった。「呂布さん、だよね」「……ん、天代様」「うん……具合はどう?」「あまり、良くないって、お医者さんが言ってた」「丁原殿はさっき眠ったばかりなんです」「そっか、それじゃあ起こすのは悪いね」そして流れる沈黙。外で鳥の鳴き声だろうか。特徴的なキィーキィーという声が、静かな室内に響いていた。一刀は静かに佇み、暫くの間その場に居たのだが、ふと気がつく。濡れた布を持ったまま、呂布が動かないのだ。「呂布殿、その布はなんなのですか?」同じ事を思ったのか、隣で同じように所在なさげに立っていた音々音が彼女へと声をかけた。ゆっくりと振り向いた呂布の顔は、かなり困っている顔に見える。まさかとは思うが。「もしかして、どうすればいいのか分からない?」「……」コクリと頷く呂布。戦場では万夫不当の実力を持つ彼女も、この場では実に無力であった。董卓も呂布の頷きでようやく得心がいったのか、彼女に近寄ってひそりと声をかけた。「恋さん、絞ればいいんですよ。 そのままだと水気が多すぎますから」「ん」董卓に何事かを囁かれた彼女は、一つ頷いたかと思うと布の両端を持って捻った。瞬間、何かが割かれる音が響き渡り真っ二つに割れる。両手に残る布。「……ちぎれた」「……そ、そんなに力を入れなくても良いんですよ」「そ、そうですぞ。 ただ水気を取るだけなのですぞ」「董卓さんがやった方が早いんじゃ……」「て、天代様っ!」一刀が思わず呟いた言葉に、董卓は慌てて人差し指を口元に当てた。その様子から、呂布では無く董卓が迎えに来た訳、そして今彼女が行おうとしている行為に呂布の気持ちが分かった。彼女は丁原を自分の手で看病したかったのだろう。そう考えると自分の言った言葉は正に余計な一言だった。そんな時だった。丁原が一つ唸ると、眼を開きムクリと身体を起こしたのである。「原爺、平気?」「丁原殿……起こしてしまいましたか?」「おお……すまんな二人共。 いやなに、大丈夫じゃ……む?」丁原は一つ礼を言うと、部屋の奥に居る一刀へと首を巡らして、その存在に気がついた。驚くような表情を見せる彼に、一刀は一つ会釈をかます。音々音も一刀に釣られたのか、同じように軽く頭を下げた。「これは、天代様ではないですか、医者の手配をして戴き嬉しく思いますぞ」「いえ、俺の無茶な要請で体調を崩してしまったんです。 医者の手配をするのは当然の事ですよ」「これは老骨には勿体無いお言葉ですな」思いのほかハキハキと喋る丁原に、一刀は内心で安堵の溜息を吐いた。顔色と、そして華佗の言う『良くない』という言葉に、一刀はこのまま息を引き取ってしまうのでは無いかと思ったのだ。しかし聞く限り、快方に向かうのでは無いかとさえ思えるくらい彼の声には張りがあった。横に居る音々音も、一刀へ予想よりも体調が良さそうなのです、と耳打ちしていた。頷いて一刀は丁原の近くに寄る。「もっと早く来ようと思ったのですが、なかなか時間が取れなくて申し訳ありませんでした」「天代様ともあろうお方がわしの様な物に頭を下げないで下され。 それに、礼を言いたいのはこちらの方ですぞ。 一度、天代様とは直接会ってお話したかったのだ」「そうですか、そう言ってくれれば楽になります」頭を掻いてそう言った一刀に、ニコリと笑顔を向けた丁原。その笑みは、温かみのある物であり、一刀も思わず笑みを零した。しばし呂布や董卓、そして音々音を交えた雑談に興じた一刀は、そろそろ暇をしようかという時になって丁原に止められた。そして、人払いを求められたのである。「天代様、お話がありまする」陽が傾き始めた頃であった。窓の外へと視線を向けた丁原の横顔を見ながら、一刀は何の話だろうかと首を捻っていた。何となく、あまり聞きたくないと思った。「こうして最後に天代様と話が出来たこと、天命なのでしょう」「丁原さん、最後だなんて―――」「わしの体はもう持たないでしょう。 最後の刻が近づいて来るのを、ヒシヒシと感じております」「……」一刀は何とも言えなかった。だって、こうして目の前で普通に話しているのだ。もう身体は持たないなどと言われても、少し顔が青いのを見ていても、俄かには信じ難い。「天代様の人柄に触れ、信用できると判断しました。 曇りながらも人を50年以上見てきたわしの目は、狂っていないと信じたい」「丁原殿、一体何を……」「恋の事ですじゃ……あの子を引き取ってやってくれまいか」『呂布を?』『恋を……』「……突然ですね、しかし呂布殿は丁原殿の臣下なのでは。 横から奪うような真似は、いくら権力があってもしたくないです」一刀の地位ならば、帝の許可さえあれば何をしても誰も文句を言えないくらいなのだ。極端な話、一刀は豪遊しようと思えばいくらでも出来る。男にとっての夢、酒池肉林を強制的に行うことだってやろうと思えば可能だろう。だからこそ、一刀はこの権力の行使というものについて余り奮わないように心がけている。人は慣れる物。一度でも今の地位に甘んじてしまえば、自分を見失うことになりかねないと自戒しているのだ。当然、本体が間違えれば脳内が諌めるだろう。そうなってもすぐに戻れる保険はあるのだが、一刀自身、自分が持つことになった権力に溺れたくなかった。溺れてしまえば、きっとそれは無様だ。「恋は客将の扱いじゃ。 丁原軍に居ることを示すのは名前が載っているだけの書が一つあるだけ。 燃せばそれで終わりじゃ……あれはわしが拾った物じゃが、使おうとは思わなかった……」丁原は、何処か遠い眼をして優しい表情でそう言った。そして続く。呂布という者を見つけた時の話を。人を斬り、日銭を稼ぎ、そして沢山の動物達と食事を取って眠る。これが丁原が拾う前に営んでいた呂布の生活であった。金の為に人を殺していた呂布は、それこそ善人だろうと悪人だろうと同様に斬ってきた。その武を利用した者が、呂布を恐れて罠に嵌めたこともあった。しかし、呂布は全てその罠を粉砕した。己の武、それだけで。それがまた、評判を呼んで殺す為に利用される。与えられるは僅かな金銭、動物達の世話をすれば一日で消し飛ぶような小金で。良いように、利を求める者達にその武を使われていたのだ。ある役人が斬り殺された事件で呂布を知った丁原は、呂布の人となりを調べているうちに真実を知る。最初は人を斬る事に抵抗の無い、鬼のような者だと思ったが仕事の時以外で殺害したことが無い事を知ると、丁原は意を決して呂布の元へ直接赴いたそうだ。そして、武を奮い続けた呂布は丁原の元で安息を得た。利用され続ける運命の輪から解き放ったのは、目の前に居る年老いた男。「あの子は、この大陸でも一番純粋な者だとわしは思う……誰かの為に殺せと言われれば、その通りにしてしまう。 幸せにしてあげたい、そう思ってしまうのだ」「……そうですね、分かります」調子を合わせるように頷いた一刀であったが、その声には実感を伴った色が篭っていた。呂布。脳内の彼らは敵であれ、味方であれ、その正体を知っている。本体はともかく、脳内の皆は丁原の言葉には強く頷けるだけの事実がある。一刀の声色を聞いて、丁原はようやく窓を眺めるのをやめて一刀の顔へと視線を向けた。「ああ、やはり天代様に任せることが出来れば安心だ。 恋は天代様が使ってやってくださらぬか」「……」『本体、丁原殿の死に際の遺言だよ』(まだ、死ぬって決まった訳じゃないだろ……)『そうだな、でも、彼はもう決めてしまっている』『決めちゃってるね……』(……分かってる、俺もわかってるよ……ただ、なんか……)そんな一刀の葛藤を分かったかのように丁原はやや顔をふせて笑った。俯いた一刀は、彼の笑い声に顔を上げる。「はっはっは……天代様は、お優しいですな」「分かりました……呂布殿が納得するのならば、約束しますよ」「ああ、良かった。 これで心残りは無くなりましたぞ」一刀はスクリと立ち上がり、丁原へ一つ頭を下げると踵を返した。いざ部屋を出ようと扉の取っ手に手をかけた時、丁原の声が一刀の耳朶を打つ。「未来は……」驚くように振り向いた一刀へ、彼は柔らかい笑みを向けながら尋ねた。「漢王朝の未来は、明るいですか、天代様」一刀は雷に打たれたかのように驚き、動きを止めた。丁原は自分がおぼろげながらも先を知っている自分に気がついていたのか。彼の質問に口を開こうか逡巡している内に、丁原は一つ頷いた後に床に手を付いて深く頭を下げたのだ。「呂布のことを、お願い致します、天代様」「……はい、お任せ下さい」―――翌日。深夜に容態が悪化した丁原は、華佗の治療の甲斐なく天に昇った。死に際は笑顔であったと華佗は悔やみながら話してくれた。一刀が去った後に、呂布とは話をしていたのだろう。離宮であり禁裏である筈の一刀の部屋まで一人で乗り込んできて、呂布は濡らした瞳を携えて一刀の前に現れたのだ。そして言った。「……原爺が、ここに居ろって」「ああ、此処に居ていいよ」「……セキトとか、動物達も」「分かってる、手配しておくよ」「……」それは劉協にもまだ、許可を得ていない話であったが、一刀は約束した。その約束に、コクリと言葉無く頷いた呂布は、そのまま俯いて唇を震わす。一刀は、呂布へとゆっくりと近づいて、懐から取り出した布を顔へと宛てた。僅かに顔を上げた呂布へ、一刀は笑って言った。「泣いてもいいんだよ」言葉と共に、静かに抱擁すると呂布は一瞬身体を震わせて―――子供のように泣きじゃくった。声を出して、下唇を噛み、途切れる事無く両の目から雫を垂らした。泣き止むまでずっと、胸を貸して一刀は呂布をその腕に抱いていた。こうして天代、北郷一刀の元に、飛将は舞い込んできたのである。まだ少し肌寒い、洛陽の春の頃であった。 ■ 外史終了 ■