clear!! ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編1~clear!! ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編2~今回の種馬 ⇒ ☆☆☆~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編3~☆☆☆ ■ 陳留騒々それは雲の多い夜の事であった。ここ陳留では現在、夜間の出入りを禁じる令が出されていた。今は洛陽に居る曹操から出された指示の中でも、必ず守るように厳令されていた事だった。理由は、一刀の送った荀彧への手紙に他ならない。あの手紙には曹操から一刻も早く援軍を呼び寄せるために玉璽の印が押されていた。勿論、曹操へ送る援軍の書も同じように玉璽を用いたのであるがこれは唯単に、どちらが届いても伝わるようにとの保険に過ぎなかった。正式な手順を踏まなかった為に生じる、確実性を二枚にすることで増やしたに過ぎない。一刀がこの手紙を出したときの思惑は二つ。一つは今述べた様に、曹操からの援軍を一刻も早く引き出すこと。そして、できるだけ張三姉妹の身の安全を保証することであった。何故曹操の元にだけ、張三姉妹の情報を流したのか。当然理由はある。脳内が駆けた11の外史、その黄巾の乱。彼女達を確保したのは、いずれも曹操の陣営であったからだ。今回もそうであるとは確かに言えないが、高い確率で曹操の元で彼女達の意図しない反乱が起きてしまう事は予測できたのだ。そして、その一刀の判断は正しいと言えた。結果的に、陳留で蜂起した黄巾党の中に張角、張宝、張梁の三人は確かに居た。一刀にとって予想外だったのは、その三人の内で張梁だけが捕まったことだろう。言ってしまえば、張梁だけを捕らえてしまった事が緊張状態を保つ大きな理由になってしまった。黄巾党の盟主、その一人を差し押さえた曹操の陣営は、常に厳戒態勢であったのだ。今のところ大きな動きは無いものの、張梁を生かして捕らえているせいで黄巾党の襲撃が訪れても可笑しくなかったのだ。これが、今の陳留が夜間の出入りを禁ずる事になった経緯である。そんな夜間の警戒に当たっているのは警備隊であり、その警備の長を務めているのは曹操軍に参加したばかりの、楽進であった。共に警備に当たっているのは楽進と同じ街で暮らしていた親友の李典、そして于禁。生真面目な楽進は、厳令ということでずっと門の外で立っているのだが友であるはずの李典と于禁は、警備宿舎の中で話に興じていた。何度か諌めても、逆に一緒に話そうと誘われる始末である。若干の苛立ちを胸に収めて、楽進は陳留の門の前で立ち尽くしていた。数日。厳令が出されてから、夜間の出入りは全くと言って良いほど無い。それを知らぬ商人達が、夜間に訪れた際も否と言えば渋々とはいえ従い、朝になってから検問を抜けて陳留の街へと入っていった。しかし、この日は違った。そろそろ明け方を迎えようかと言う時刻。一体の華美な装飾が施された馬車が、閉まっている門の中へと辿りつくとその馬車の主に仕える従者だろうか。楽進の元へと走り寄ってきた。「急用ゆえ、洛陽へ向かう用事が出来た。 通行の許可を願いたい!」「駄目です。 明け方とはいえ、陽も出ておりません。 厳令が出ておりますので許可することは出来ません」「しかし、一刻も早くとの事なのだ。 この馬車に乗られるお方は 十常侍の蹇碩様、その叔父方である」「たとえそれが何者であろうと夜間の通行を許すなと言われております。 日が昇り、朝を迎えれば許可を出しますのでしばらくお待ち下さい」従者は何度も何度も、楽進へと説得するのだが彼女は決して頷かなかった。次第に語気も荒くなり、最終的には脅すような口調に変わっていったがやはり楽進の首が縦に動くことは無かったのである。そして、ついに痺れを切らしたかのように馬車の中から絢爛な服を着た一人の男が降りた。「おい、何時まで待たせるのだ。 早く門を開けよ」その男は恰幅がよく、一目で凡庸な民草で無い事を知らしめていた。そんな彼を一瞥し、そして楽進は言った。「なりません」「なんだと、私が誰かを知ってそう言っているのか。 親族であり十常侍の蹇碩から至急に呼ばれているのだ。 これを開けねば、それは漢王朝に逆らう事と同じなのだぞ」「例え帝であろうと、通してはならないとお達しが出ています。 それはご存知でしょう」「ええぃ、話にならんわ! 勝手に通らせてもらう、おい、お前! 門番を下せ!」楽進ではどうにもならないと感じたか、男は一人の曹操の兵に恫喝するように声をかけた。躊躇う兵士に、楽進は首を振って下すなと示す。交互に楽進と男を見やり、結局その兵は動くことが出来なかった。「糞! 貴様は自分が何をしているのか分かっているのか!?」「はい」「……ふん、良く躾けられた犬だな」言い捨てるようにして、彼は自らの従者に二、三声を掛けると馬車の中へ戻っていく。その様子を見て、大きく息を吐いた楽進であったが、瞬間悲鳴が上がって振り返る。自分の指揮する兵の一人が、男の従者であろう者に斬られて血を流していた。瞬きする間に状況は変わり、門の番を守っていた兵も同じように斬り捨てられる。「おいっ、やめろ!」「貴様の頭の固さが悪いのだ!」馬車に乗り込んだ男は、自らが御者になって馬を進め門を強行突破し通り抜けようとした。しかし、その試みは無駄に終わった。「はあぁぁぁぁぁっっ!」裂帛の気合と共に放たれた、楽進からの一撃によって馬車の車軸は吹き飛んでバランスを崩す。やがて御者台から投げ捨てられるように、男は飛び出して、馬車は転倒した。流石に今の一撃は轟音が響いたのか、宿舎で休んでいた多くの兵が飛び出してくる。その中には、李典と于禁の姿もあった。「ちょっ、何やっとんの凪!」「もー、うるさいのー!」「門を強行突破しようとした男を、確保しただけだ」そう固い声で話す楽進が指で示した場所を追うと、そこには兵が斬られ倒れている男達が呻きを上げていた。それだけで、李典も于禁も、ここで起きた事の大体が想像ついた。なんて馬鹿な事をするのだろう、と思いつつ李典が馬車から投げ出され、気絶しているのか倒れて動かない男に近づく。「げっ!?」「どうしたのー、真桜ちゃん?」「どうしたもなにも、官僚やん。 まずい事になるんやないの?」「命令は帝であろうと通してはならない。 そう聞いているから問題ない」楽進は李典の横まで来ると、そう言って乱暴に男の腕を掴み立たせる。囚人に嵌められる枷を強引につけて、服の襟を持ってそのまま引っ立てる。そこまでの行動をついつい見守ってしまった李典と于禁であるが、楽進が何をしようとしているかに気がついて慌てて声を上げた。「ちょ、ちょい待ち、凪!」「そうなのー、流石に棒刑を加えたらその人が死んじゃうの!」門、これの突破を試みようとした者は廷杖50回を与えよ。命令された物の中に混ざっていた一文、楽進はこれを実行しようとしているのだ。廷杖とは、棒で大腿部を打ち据える刑罰の事であり、死に至ることもある過酷な刑だった。当然、打ち据える者の力の入れ具合で大分変わってくるのであるが。楽進はその生真面目な性格から、恐らく全力で打つ。確かな武を持ち、気の戦闘を会得している彼女に50回もの廷杖を受ければ普通の人は大抵死ぬだろう。とはいえ、李典も于禁も、ここで楽進を止めるのは困難であった。規律を破って門を突破したのは男の方であり、どう見ても正当性は楽進の方にある。ついでに言えば、ここで彼を見逃してしまえば、門を抜けても大丈夫だという前例を作る事になりこの先も続くであろう夜間での出入りの禁令は、破られてしまうことになるかもしれない。会話を聞いていた訳ではないが、周りの兵士から十常侍という単語も飛び出たという事で李典も于禁も、下手に扱えば大きな問題になってしまうと頭を悩ませた。苦悩する二人の親友を見て、楽進は不満そうに口をすぼませて言った。「私だって、人を殺したい訳じゃないんだぞ」「もう、これはうちらの手に負えないんやないか? 夏候淵様に投げよ?」「そうなのー、ちょっと難しすぎるの~」「……分かった、夏候淵様の判断を仰ごう」そうして朝には、夏候淵の元に判断を仰ぐ報が伝えられた。男の身元を調べたところ、確かに十常侍で力を握る蹇碩の叔父であることが分かった。黄巾党の盟主、張梁の捕縛に続いてのこの問題。はっきり言って頭を悩ませるどころの話ではない。夏候淵は、その場で曹操宛てに書を認めると、使者が宮内へ入る為の道具全てを揃えてその日の昼には送り出し、曹操の判断を仰ぐことにしたのである。「しかし、予想はつくが……」自らの主との付き合いが長い、夏候淵にはどういう答えが返ってくるのか予想はついた。自分の判断だけで行っても良かったが、洛陽に滞在する曹操の身に何かあっては後悔しても仕切れないだろう。姉である夏候惇が傍に控えているはずなので、滅多な事にはならないだろう。それに、曹操の知恵袋でもある荀彧も、先ごろ洛陽へ向かって出立している。これが夏候淵の心配のしすぎである事は分かっているのだが。「心配の種は尽きぬな」ふと、自分が今吐いたのは弱音であろうかと考え、クスリと自嘲するように笑った。こうして仕事がたんまりとあるのは、ある意味で僥倖だ。愛する主、そして愛する姉と離れている寂しさを感じる暇が無いのだから。しかしまぁ、荀彧が傍に居てくれればと思わないでもない夏候淵であった。 ■ 設立に至る経緯洛陽―――朝だというのに、室内は暗かった。雨が降っているわけでも、曇りなわけでもない。窓と、遮蔽性の高い布地で部屋を暗くしているだけだ。自らの傍らに灯した火だけが光源となり、周囲を赤く照らす。何進はそんな暗い自室で、目の前の机に置かれた書状を腕を組みながら眺めていた。一方の手は鼻の下に広がる髭を、意味も無く擦っている。眉間には皺がより、口は強く閉じられて。こうした行動を取るのは自身が出世の道を歩み始めた頃からの習慣だった。詳しい経緯は省くが、十常侍とそして異母妹、帝との関係から―――言うなればコネで成り上がったと言える何進は出世街道を驀進したのである。当然、その道の最中は順調であるとは言い難く、色々と嫌がらせを伴った様々なヤッカミがあった。一歩でも踏み外せば、栄達の道から転げ落ち、下手すれば死ぬ。そういう世界で何進という男は生きてきて、今日が在る。そして、朝一番で机の前で唸る事は、何時の頃からか変わらぬ習慣となってしまったのだ。たとえ特に、頭を悩ます事が無かったとしても必ず行っている。いわば、一人朝議である。そんな何進の今日の議題は、先日に趙忠から頼まれた事であった。黄巾の乱は先ごろ自分自身と皇甫嵩将軍と共に、奪われていた宛城の奪還が終わり洛陽を中心とした都周辺はだいぶ落ち着きを取り戻してはいるものの未だその火を燻らせて大陸に広がっている。宦官、趙忠から渡されたこの書の示す思惑は、恐らく爆発的に名の広まった天代を利用することにあるのだろう。眺めるのをやめ、何進が一つ息を吐くと、蝋の火はゆらりと揺れる。「……西園三軍、か」宦官の立場からか、新たなに置かれる事になるだろうこの官職は、大将軍である何進から帝へ上奏をせよとの事であった。この最上位に天代である北郷一刀を置くことから、狙いは一目瞭然である。言わばこれは、帝が兵を持つ事と等しい。その事に関しては、政の側面もあるのだろうし、何進が悩むようなことではなかったのだが。椅子の背もたれに体重を預け、耳障りな軋みを一つ立てた。北郷一刀。彼の存在は、何進にとって複雑な気分を抱かずには居られない人物であった。突如、天の御使いを名乗って現れた青年は、劉宏帝の命を救って信頼を得ると数多の地位官職をすっ飛ばして、いきなり天代なる身分を戴いた男。宦官ともそれなりに関係を持つ何進は、一刀が元々は運搬業の一職人でしかない事実を知っていた。天代に対して黄巾党なのでは無いかという疑いは晴れたが、黄巾くずれの者と親しげに話す様子も見かけたことがある。今も黄巾党の反乱が大陸の各地で起こっている中で軽率が過ぎる。恐らくは天代になる前に付き合いのあった者達なのだろうが、正直苦言を申したくなる行動だ。黄巾、そして世情から一刀に対して思うところが無いかと問われれば、何進は無いと言えなかった。とはいえ。同じ戦場で轡を並べて、黄巾党と槍を交えた今ではある意味で共感も覚えている。何進も同じように、元々はただの屠殺業を営む一市民であったのだ。この辺りの蟠りは、今まで大将軍への出世をしてきた何進にとって理解できると共に一足飛びで大出世を遂げた一刀に嫉妬心も抱いている。もしかしたら、自分の嫉妬心が上奏する事を躊躇う原因かも知れない。書をしっかりと折りたたんで懐にしまいこみ、蝋燭の火を息で吹き消すと何進は立ち上がった窓にかけられた布を取り去った。陽の光が差し込み、僅かに眼を細める。いい天気だ。「知らずして語れず。 天代を知らねばならぬな」黄巾の蜂起が続く、乱れた世情だからこそ。幾つかの荷物を抱えると、何進は自室を出て優先順位を頭の中で組み立てるとまずは宮内の議場へと足を向けた。しばらく歩くと、帝も良く散歩なされる庭園から件の天代、北郷一刀と天医の華佗の姿が見えた。「あ、おはようございます、何進さん」「天代様、華佗殿、おはようございます」「肩の調子はどうですか、何進殿」「おかげさまで調子が良いですぞ。 しかし、華佗殿がまだおられるとは思いませんでした」華佗は肩を一つ竦めて苦笑する。何進は波才から受けた肩の怪我の治療を、華佗に看てもらっていたのである。その為、近い内に洛陽を出ることになる話を、本人から直接聞いていたのだ。この事に何進は残念がっていた。宛城での戦の時にも、医者に看て貰っては居たのだが、華佗と比べてしまうとどうしてもその治療に不満が残ってしまったのだ。既に傷を受けてから一ヶ月が経過している。もう僅かに痛む程度の具合だが、それでもコレだけ早く治ったのは華佗のおかげと言ってよかった。「もし良ければ、今からでもまた診察しますよ」「これは申し訳ない。 是非頼む」「じゃあすぐに看ることにします」「……しかし、天代様とはよろしいので」「俺は構いませんよ。 用事も済みましたし」そう言い残して離宮へと向かう一刀を見送ってから、宮内へと再び戻り宮の入り口近くの空いている小部屋へと入り込む。自室に戻って看てもらうのも良かったが、ハッキリ言って手間になるだけだったのでここで看て貰う事にしたようだ。「では服を」「うむ」袖をまくりあげ、患部が見えるように片側だけはだける。手で触ると熱を持っているのが分かり、むくれた皮が浅く黒く変色していた。一度血を抜いて、消毒する必要があると診断した華佗は、針を肩の周囲に突き刺していく。皮膚を突き破る時に痛みは走るがそれだけだ。呻くほどの痛みは無い。どれだけの研鑽を積めば、これだけの医術を手に入れることが出来るのか。何度見ても感心することしか出来ない華佗の医の腕に内心で絶賛しつつ、何進は口を開いた。「華佗殿は、天代とは古い仲なのですか」「出会ったのは半年ほど前ですよ」「なんと、半年とは。 それでは華佗殿もあまり天代の事は知らぬということですか」「ええ、ねねに出会ったのも、俺とそう変わらない時期だったそうです」「ふむ……」「ちょっと腕を上げてください」腕を上げながら、何進は今の華佗から齎された情報に頭を捻った。宦官の調べた一刀の情報は、陳留から洛陽へ訪れた時の物から前は全く無かった。殆ど一緒に時を過ごす陳宮とも、出会ったのは華佗とそう変わらない時期だったという。天代とて人の子。空から降って沸いて出てきた訳でもあるまい。恐らく、洛陽や陳留などの都からは遠い場所で生まれたのだろう。或いはもしかしたら、異民族である可能性も否めない。字も真名も持たず、ただ珍しい性と名。そんな事を考えている眉間に皺を寄せた何進の服の隙間から、一枚の書が毀れているのを華佗は見た。ちらりと見えた書から、一刀の役職である天代の文字と、軍という文字が垣間見える。華佗は、何進が一刀の事を話題に出したのはこの事かと思い至った。また何か、大きな物に巻き込まれようとしているのでは無いかと心配にもなった。しかし軍の話となれば政の一環の様な物である。自分が口を出すようなことではない事と律して、何進へと口を開く。「何進殿」「ん?」「懐に入れた書が、零れ落ちていますよ」「おお、すまん……見られてしまったかな」「まぁ少し」片手で器用に懐へ仕舞い直す何進が問うと、華佗は隠すことなく頷く。華佗は医者としての立場を超えることが無い。それを知っていた何進は、しばし懊悩した後に、書についての気持ちを吐露し始めた。疑いから始まって、駆け抜けてきた戦場。一気に頂点に至った一刀の地位。そのせいで宦官からの媚や嫌がらせと共感できる想いと立場。そして。「この書を帝に上奏することが果たして良い事なのか分からないのだ」そうだった、黄巾の乱が広がり大陸を騒がせている今は、それを鎮圧することを第一にしなくてはならない。そもそも、このような役職をわざわざ与えずとも一刀とは日頃から相談もしているし彼の案を採用することも多々あった。実際に軍を動かすのが何進であるだけで、上奏して余計な手間をかけるだけ無駄な時間になるのでは無いか。そう思わずには居られないという部分もある。当然、政を抜き考えればの話だ。「そうですか……終わりましたよ、何進殿」「うむ、ありがとう」肯定も否定も、特に何かの意見を言うわけでもなく。ただただ何進の話を聞くことだけだった華佗は、治療を終えた事だけを告げる。何進としても華佗から何かを言われたい訳ではなかった。ただ、今の気持ちを吐露することで心を楽にしたかったのだろう。実際、朝から感じていた鬱屈とした気持ちは前に向き始めているのを実感する。「華佗殿は天医の名にふさわしい」「はは、どうしたんですか突然」「褒めているだけだ、他意はないのだぞ」思わず素直な気持ちが出てしまったのだろう。取り繕うように何進はそう言って、部屋から出ようと荷物を纏めると出口へと向かった。入り口である扉の取っ手に手をかけた時、華佗の声が背に響く。「一刀に声をかけておきましょうか?」「……いや、良い」「分かりました」そうして何進は部屋を出た。天代には、今日の自分の話が伝わるだろうか。まぁ、伝わったところで疚しい考えをしている訳ではないし、困る事では無い。この悩みというのは軍権ということで宦官から頼まれたという一点と、一刀に対する自身の嫉妬のような感情が原因。勿論、一刀自身に無関係という訳ではないのだが。今日は朝から頭を捻りすぎだ。元々、学を修めたのは異母妹が宮中へ入って貴人となってから。それほど賢しいという訳でないのは自覚している。改めて議場へと前を向いて歩き出したところで、何進は気がついた。広間、それも宮内にある良く見える場所の前で二人の宦官が何やら騒いでいる。あの部屋は確か……そんな場所の前で周囲を騒がす宦官の顔には見覚えがあった―――蹇碩と、趙忠。二人の背後には張譲の姿も認められた。興を惹かれ、何進は宦官たちに気付かれぬよう少し離れた場所で聞き耳を立てる。「どうしても聞けぬか、趙忠よ」「聞けない相談だね。 蹇碩殿が大人の態度を見せて引けばいいんじゃないかな」「それこそ出来ぬと言うものだ……」二人の表情は険しく、まるでこれから殴り合いの喧嘩でも始まりそうなほど剣呑な雰囲気である。場所が場所だけに、想像を覆されて、思いのほか真剣な様子で向かい合って話す内容に知らず息を潜めた何進である。「……趙忠、最近は理由をつけて帝に会っていないそうだな」「なに、突然」「帝が嘆いておられたぞ」「関係ないでしょ。 蹇碩殿もやたら天代様に突っかかってるみたいじゃん」「ちっ、露骨に話を変えるとは。 よほど後ろ暗いことでもあるのか、趙忠」「そっちこそ……劉宏様の事をこの場で持ち上げるのが不自然すぎるね」蹇碩はやにわに笑みを浮かべ、その手に浮かぶ銅雀を撫で回し始める。対する趙忠も同じように乾いた笑みを貼り付けて、熊を模して作られた人形の頭部の毛を毟り始めた。早い。現代の音楽シーンを彩る、DJスクラッチの佳境の部分であるかのように、銅雀の表面を撫でまわしている。人形も、その毟られ具合は芝刈り機を使われたかのように、周囲へと毛を落とし始めていた。帝から賜った寵愛を示す証が、禿げるのでは無いかと何進が心配する程だ。ふと視線を向けると、張譲もころり、ころりと掌の上で玉を転がして蹇碩と趙忠を凝視していた。張譲に気付かれた様子は無いが、何進はこの音を出す彼が苦手であった。尋常ではない宦官達の行動に、無意識に喉をゴクリと鳴らす。「そうか、引く気は無いようだな趙忠よ」「仕方ないね、手勢令で決めようか」「よかろう……」「恨みっこは無しだ」向かい合った趙忠と蹇碩、彼らから凄みすら見える。二人の背後には龍と虎が対峙していた。まさに竜虎相打つと言った様相である。二人の額から、たらりと汗が滲むのを何進は見ていた。同時に撫で回すのと、毟りまくるのを止めて体が大きく動く。「手掌を以て虎膺とし」「指節を以て松根とし」「「大指を以て蹲鸱とする!」」掛け声と共に、蹇碩と趙忠は両の手を前に突き出す。その合間には、何度も手の形が変えられて素早く動く。手勢令とは、いわば今の世で言うところのじゃんけんである。高度な心理戦を交えた二人の応手。気迫の篭った手勢令を出し合うのを尻目に、それまで動きの無かった張譲がゆっくりと歩み寄った。恐らく、何かの案件で揉めている二人をようやく止めようと動いたのだろう。何進はそう確信したが、意外な事に張譲はそのまま傍に在る部屋の扉に手をかけて開け放つ。「渦中にあらば、気付かぬものよ」「あっ!」「むっ!?」張譲がそう言うなり、二人は動きを止めて張譲が開け放った場所へと注視した。そこは、厠である。確かに、何進もその部屋の用途は知っていたが、余りにも緊迫していた雰囲気にまさか厠を使う順番で争っていたとは思わなかった。張譲に指を刺して驚き固まっている趙忠と、再び高速で銅雀を撫で回し始めた蹇碩に物凄く嬉しそうに、張譲は告げた。その笑みは、滅多に見せることの無い張譲の満面な笑顔であったという。「くっふふ、かつての偉人は言ったそうだぞ。 漁夫の利とな」「うあー! 譲爺ーずーるーいー!」「くっ、張譲め……流石だな……」そして扉は閉まり、消えていく張譲。厠へと、不満を叩き付けるように人形を何度も打ち据え扉に悲鳴を上げさせ叫ぶ趙忠。吐き捨てるように言い捨てて、心持ち早足で別の場所へと移動を開始した蹇碩。それら一連のやや真剣にカオスった流れを見守っていた何進は宦官達は実は何も考えていないのでは無いかと思わずに居られなかった。当人達にとっては大きな問題だったのかも知れないが。懐にある書をそっと手でなぞり、ふと視線を向けた空に、鳥が鳴き声をあげながら建物の影に消えゆくのを見やりながら何進は呟いた。「上奏するか」歴史に西園三軍が生まれることになるだろう瞬間であった。 ■ 『しん』を乗せて告げる名夕方、一刀は離宮へと入るなり盛大に息を吐いて身体を伸ばした。ゴキリ、と嫌な音が身体の奥から響いてくる。今日は一日中、身体を動かすことなく座りっぱなしであった。これが今の仕事なのだし、無駄に豪華な食事をする為の努力なのだから仕方が無いと言えば仕方ないがハッキリ言わせて貰うと、正直辛い。戦の時は体力的にも辛かったが、これはこれで精神的な辛さがある。勿論、立場的な物も含めて。「政務とは血の流れない戦争である」おお、上手いことを言ったな。誰かの名言であっただろうか。どちらにしろ、未来の名言だろう、多分。『あ、それ言ったことある』『俺も』『俺もだよ』「……」何人か先達が居る事が、名言だと思われる言葉を発してから10秒も経たずに判明する。同じ北郷一刀なのだし、一刀が言ったことには違いない。そう結論付けて満足しつつ、一刀は階段を上って自室を目指した。その途中、段珪の部屋の前を通りかかった一刀は何か陶器のような物が割れる音を聞いて僅かに覗ける隙間から様子を窺おうとして、爪先が扉に当たり、開いてしまう。ハッとしたように顔を上げた段珪は、不自然な格好で扉の前に突っ立つ一刀を見上げた。「あ、ごめん段珪殿。 音がしたから何かなと思って」「あ、ああ、そうでしたか。 いや少し手を滑らせて茶器を割っただけで御座います」「あ、うん……大丈夫ですか?」段珪がそっと懐に何かの書を入れて、床の残骸を片付け始めた。一刀はその様子を不審に思うより、顔色が悪そうに見える段珪を気遣った。と、いうのもここ最近は夜遅くまで部屋に明かりが点いているのを一刀は知っていたからだ。この離宮は禁裏であり、限られた者しか立ち居る事を許されない。劉協、そして天代の役職なる一刀や天医である華佗は問題は無いが、音々音や恋、桃香などは本来許されない。とりあえずは傍仕えということで、彼女達はこの場所に居ることが許されているのだ。許可を得るために奔走したのは段珪である。そして、もともとの役目である劉協の身の回りの世話も怠らず、それに纏わる雑事もこなしている。更に、一刀へと送られてくる贈り物の数は、未だに一向に減らない為、差出人や送られた物などを記帳したり運搬したり。劉協から桃香への問題集を作るように言われて、実際に作ったのも彼である。とにかく上げれば切りが無いほど、彼は忙しい。その忙しさを加速させている要因の一つが自分なのだから、気遣ってしまうのは当然だといえた。「いえ、問題ありません。 華佗殿にも元気になる薬を戴いておりますので」「……元気になる薬?」「はい、これでございます」見せられた瓶のような物を手に取って眺める。蓋の場所に気という文字が書かれており、中身を透かしてみると丸薬らしき物が見えた。滋養強壮薬のような物だろう。一刀は何となく危ない薬ではなかった事に安堵した。どうも薬と訊くと、劇薬が脳裏を過ぎるのは何故だろうか。受け取った薬を段珪へと返し、一刀は口を開いた。「一番の薬は十分な休息を取ることですよ」「分かってはおりますが……」段珪は苦笑しつつ顔を綻ばせた。馬鹿な事を言ったかな、と一刀は思ったが心配であるのに代わりは無い。薬に頼ってまで働くのを見ているだけなのは、少し気が引けたこともあり一刀は何か手伝えないかと申し出た。段珪は、最初こそ渋ってはいたものの結局一つだけ一刀に頼むことになった。それは―――整理である。かつて、恋が掃除という単語から全ての物品を破壊しつくした為、今は整理という言葉が用いられている。紆余曲折あって、その件は音々音の流布した噂により風評操作へと繋がったのだが送った物を全て破壊したという一事は、贈り物を出した者にとっては顔を顰める事件でもあった。実際、明らかに嫌がらせの数は増していた。それは具体例をあげれば、根も葉も無い噂をあげて中傷するものだったり話しかけても無視したりという、子供のイジメのような物ばかりではあったが。特に、十常侍の蹇碩という人からの皮肉は最近激しく、聞き慣れてしまったくらいである。しかしやはり、この身が戴く天代なる分は大きいらしく、めげずに送り届ける者は後を絶たなかった。そんな事件の中心地である室内に、一刀は入ると共に部屋を見渡し、そして溜息。「はぁ……」『どうした』『自分から言いだして後悔したとか?』「いや、そうじゃないんだけどさ……」『うん?』言葉を濁すように言葉尻は消えていく。原因は、帝との会話の中に在ったのだ。最近は宦官があまり帝の傍に寄らないという愚痴を聞いたのである。それまでベッタリとくっ付いていた趙忠も、仕事の合間に様子を見に来ていた張譲も。なにやら急がしそうで引き止めることも憚れ、寂しさを感じているそうだ。逆に、一刀の方は毎日事あるごとに宦官とは顔を突き合わせていた。天代として国政に参加して欲しいという名目で。そう願われれば一刀としても断ることは難しく、出るしかない。そんな事を脳内に相談しつつ、整理に取り掛かる一刀。大き目の壷が邪魔臭いので脇に避ける。『ああ……なんなんだろうな』『帝と本体を引き裂くのなら分かるんだけどね』『うーん……』『得する人間なんて居ないよなぁ』同様に頭を捻り始める脳内達。そう、おおよそ一週間前から―――正確には趙忠と出会ったあの日からだろうか。確信は持てないが、宦官達の動きは帝を自然に避けるように動き始めていた様に見える。目の前には煌びやかな服が、木製で作られた綺麗な衣服掛けにかけられている。丁度胸部に当たる部分に太く逞しさを醸し出す字で、ごんぶと、と書かれていた。多分嫌がらせの類だろう、達筆の無駄遣いである。『俺達の方から、宦官に会うように催促してみるか?』『帝に会ってくれって?』『それ、劉宏様を避ける理由が宦官達にあれば、普通にぼかされると思うよ』『だよなぁ』宦官の思惑が在るかどうかは別にして、本体としては純粋に劉宏様に元気になって貰いたかった。そうでなければ困る。頻繁に呼ばれるのも、会いに行くのも嫌ではないが、その度に愚痴に付き合うのは勘弁してもらいたい。異様に高レベルな品質の服を纏めて置き、やたらと大きく高価そうな調度類に手をかけた時にふと眼に映った書の束に、一刀は視線を向けた。なんとなしに一番上の物を取ると、何かの宴会を知らせる招待状のような物だった。「ほとんど、宴の誘いとかなのかな」殆どが一刀の呟きのように、歓待をするので是非出席してくれないかと言う物であった。勿論、例の嫌がらせのような罵詈雑言が書かれている物もあったのだが。中には意味不明の物も出てくる。「ははっ、こんなのまで」『おー、この時代からあったのか』『なんだか不思議な気分だね』『うんうん』それは一刀の居た時代にもしばしば見られる、文字の切り抜きから作られた脅迫文のような物であった。興を引かれて最後まで読んでしまう。なんてことはない。隣に転がっている遠まわしに一刀へ警告するものと殆ど同じく志貫けばとか終端とか、泡となりてとか、消失とか、その他もろもろ似たような言葉を用いて脅していた。中には直接『死ね』と書かれている豪速球を投げ込む蹇碩殿も居たが。とにかくそれらを要約すると、立場を弁えて大人しくしとけや、という旨の文が書かれていたのだ。一瞬、脳内の誰かから強張った呻き声が聞こえたが、特に気にせず本文を読み進める。一刀はそれをしっかりと読んでから、脇に積んだ書物と一緒に置く。次に手を取った物に、驚きを交えながら。「うお……これは」『荀彧から?』『桂花が?』その書は確かに、差出人の名が荀彧となっている。一刀は知り合いからの、まさかの手紙に自然に頬がほころんだ。正直、これまで何となく読みふけってしまった書に段々と飽きていたところだったのだ。飾られた言葉で美辞麗句や罵詈雑言を並びたてられて居るだけで代わり映えしなかった。わくわくしながら封を空けて、中の手紙を取り出す。そして、たったの二文字が一刀の目に飛び込んでくる。先に見た、ごんぶと、と変わらぬとても強く逞しい達筆な字体で、こう書かれていた。変態「……」『『『『……』』』』一刀は黙ってその紙を戻し、傍らに積み上げた書に重ねる。『まぁ……その、なんだ』『うん、なんだ』『噂のせいかな』『そうそう』『ほら、桂花だし』『しょうがないよ』「……」一刀の気分は高揚から転じて一気に冷めた。適当に書の処理を終えると、整理の続きに戻っていく。期待しただけに、その精神的ダメージは大きく、脳内の慰めも余り効果は無かった。ついでに新たな役職を授かった事を知られた時を考えると、誤解はますます深まりそうである。暫くの間、一刀は無言で整理を行い、それは音々音が夕食を持ち込んでくるまで続いた。―――途中、音々音と華佗が手伝ってくれたおかげで、随分と整理は終盤に近づいた。雑多に積まれた贈り物は、今やきちんと整理されている。これならば相手に突き返す時にも分かりやすいだろう。段珪が記帳した品物の検分を行うのも楽なはずだ。久しぶりに身体を動かしたおかげで、妙に気分がスッキリとしている。ごちゃごちゃに積まれた品物を綺麗に纏められたことも、清清しい気持ちになった。段珪に無理を言って自ら始めたことではあるが、有意義な時間を過ごせたという物だろう。彼の負担が少し減ってくれれば幸いというもの。そろそろ自室に戻ろうかと言う時になって、部屋の扉が開いた。顔を出したのは意外な事に、劉協であった。「あ、一刀か?」「やぁ」一刀が居るとは思って居なかったのか、彼女は驚いたように声を上げた。既に夜は更けている。この場で食事を取った事も重なって、今日は朝から彼女と会っていなかった。「ここに居たのか」「何か用事だった?」「いや……用事は無い」「そう? ならいいんだけど」まだ此処に居るのか、と問われて一刀はそろそろ戻るつもりであることを告げた。一度頷いた劉協は、チラリと部屋の奥の方へ視線を向けて。「えーっと、何か用事があるの?」「……まぁ、一刀ならば良いか」「何?」怪訝な表情を向ける一刀に、劉協は部屋の奥へと進んで行き何かを探すように柱を点々と覗き込んでは歩いていく。なんとなく無言で後を付き添った一刀は、無言に耐え切れず口を開いた。「何か探し物かい?」「探し物……うん、まぁ似たようなものだ」「良いよ、一緒に探そう。 何を探してるの?」「想い出だ」気楽に尋ねたことであったが、劉協から返って来た言葉は予想外の物であった。ある柱の前で歩みを止めると、彼女の視線に合わせるように柱を見つめる。暫くの間、一刀へと送られてくる贈り物に隠れていたであろうその場所。やにわに積もった埃を手で拭き取ると、柱には小さな傷が見えた。「これは、私」「……」「そして、少し高いところにある傷が、弁兄様のだ」「身長かい?」コクリと頷く劉協。劉弁の事は、一刀も何度か宮内で見かけたことがあった。父親の面影を残す目鼻立ちに、少し太った少年。宦官と連れ添って歩いていた所を、何度か声をかけられて話し合ったこともある。抱いた印象は、あまり良くは無かった。「もう暫く会っていない……」「そうなのか」兄妹が一緒に居られない環境というのはどういうものだろうか。自分には妹が居た。元の世界では、時に邪魔に思う事はあれど大切な家族。帝を含めて、家族と共に過ごせない心境というのは今だからこそ理解できる。この世界に落ちた、一刀ならば理解できた。「さきほど、ふと思い出してな……ここで遊んだ時に背比べをしたのを」「そうか……それじゃあ大切な物だね」「ああ、数少ない親族の想い出だ」そう言って柱に手を伸ばして傷をなぞると、彼女は目を瞑って佇んだ。どうしてこの部屋に、自らが確認に訪れたのかが分かった気がした。こういう物は、自分が来なければきっと意味がない。一刀もそんな彼女の行動から、残してきた家族や友人を思い起こしていた。もしかしたらきっと、二度と会えないかも知れない。こんな時代に居るのだ。会えない確率のがきっと高い。戻るにはもう、この世界に長く留まりすぎた様な気もする。どれだけ互いにそうしていたか。やがて、劉協の口から想い出に耽る時間は終わりを告げた。「一刀……少し痩せたな」「ん? どうだろうな……分からないけど」「ずっと言おうと思ってた事があるんだ」眼を瞑ったままで問いかけられた一刀は、柱から視線を逸らして劉協へと首をめぐらした。薄く眼を開けた彼女は、一つ喉を鳴らして口を開く。「本当はもっと早く言うつもりだったのだけど、怖くて言えなかった」「良いよ、なんだい?」「……お前は、このままでよいのか」言葉を選ぶかのように、ゆっくりと話す彼女の言う所はこうだった。劉協へと協力を仰いだのは、元は馬元義を名乗った自分の身の安全から庇護を得たいと考えて転がり込んだ一刀である。その疑いは晴れ、天代としての地位を得た一刀を縛る物は無くなったといえた。正直な話、このまま劉協を無視して宮内で権力を奮う事も出来るのだ。勿論、一刀と共に暮らしていく中で、そんな行動を取るとは思わなかった劉協ではある。ただ、不安は募った。現状、一刀が居なければ劉協は結局何の力も持っていないに等しい。もしも此処で一刀が劉協の元から去るような事になれば、彼女は一刀と出会う前となんら変わらなくなってしまうのだ。「それは悔しいけど……事実でもある」「……ああ」「でも、一刀。 私はお前の真実を知っている」一刀が元々は、ただ密会の現場に居合わせた庶人であることを。疑いが深まる諸侯と折り合いを欠く事無く、反乱に当たって打ち破った。天代として帝に重用される中で、一刀に向けられる羨望と嫉妬。それは、一刀を見るものは大出世として捉えてしまうのも無理はない。事実、客観的に見て残るのはそうした彼の輝かしい栄達だけだ。劉協は一刀が苦悩している場面を何度も見ている。朝の朝食の時に、夕食の時に、こうして日常生活を共に営む中で、何度もだ。正直なところ、波才率いる黄巾党とぶつかった後も暫くは、それが当然の事だと思っていた。だが、桃香が劉協と一刀に仕えるようになってから気付いた事がある。「一刀が、音々音が私に仕えてくれたのは、状況が許さなかったのではないかと」桃香へと、君の意志を尊重すると一刀が投げかけた言葉。その場では気がつかなかったが、切っ掛けになって二人を迎え入れた状況を振り返った時に劉協は一刀と音々音の状況や意志を無視したのではないかと愕然とした。「……劉協」「……」劉協はそこでようやく真面目な顔で立っている一刀へと向き直った。彼女に仕えたのはあくまで一時的な物に過ぎないのではないか。それは黄巾の乱の中心になってしまった時から、そうだったのかも知れない。そして、一刀は戦に打ち勝って、天代の身分は確たる自由の羽となり、手に入れたとも。桃香との会話から気がついた、そんな一刀の状況の変化から彼が此処から離れる事になるかも知れないと思うと、劉協は怖くなってしまった。自分を捨てて、何処かに行くのではないかと不安だった。何故ならば、彼女は漢王朝の先を憂いて行動した結果、爪弾きにされてしまったから。一刀は何処か人と違うと思っていても、染み付いた疑念は消えなかった。例え一刀が目の前から居なくなったとしても、自分の志はくじけない。そう思っても、不安は消えなかった。だからこそ。「一刀、お前に問う。 理不尽な状況に流された一刀には、もう一度問うべきだろう」「……」たとえここで、望む答えが得られなかったとしても。一刀がこのまま、自分の元から離れたとしても。固く握られた拳を震わし、落ち着かせるように大きく深呼吸を何度か繰り返してから「このまま私に仕えてくれるのか、一刀」劉協の震えた言葉が室内を震わせて、沈黙が落ちる。お互いに見詰め合って数瞬。一刀は一つ息を吐くように笑うと、口を開いた。「ありがとう」「え?」一刀から返って来たのは彼女に頷くのでも否定をするのでもなく、礼であった。理不尽な状況に流されてきた事に気がついてくれたのは、素直に嬉しい。誰しも当たり前のように、一刀の事を天代と呼ぶのだ。勿論、音々音や華佗は自分を見てくれているが、多くの者は天代という名を無視できないのだ。自分はそんな大層な人間ではないと思っているから、何処かで気付いてほしかったのかもしれない。天代というのはただの役職で、北郷一刀を見てくれと。「……そっか、やっと分かった気がする」「一刀?」「天の御使いなんて、大仰過ぎるけれど……」「え?」一刀はこの世界に放り出されて、一人だった。脳内の自分達に支えられて、くじけそうになりながらも人々の触れ合いを求めた。それは、今までの人生の中で生きるのに嫌になってしまうくらい、苦しい時間でもあった。今でこそ北郷一刀には音々音が傍に居てくれるし、掛け替えの無い友人も出来た。一緒に居てくれる人が居る。それは、血は繋がっていなくても家族のように暖かかった。この世界で、本当に自分が立って来られたのは音々音や華佗のおかげだ。そして。目の前の少女は。家族と一緒に、仲良く暮らしたい。そして、乱れる大陸で生まれてしまうだろう多くの家族と人々を救いたい。それだけを願って、誰も頼れる人が居ない中で立ち上がっている。家族すら手を差し伸べてくれない状況で、それでも諦めず。強い。感心を通り越して、尊敬するくらいに。もしかしたら、自分がこの世界に来たのは―――彼女の為なのかも知れない。脳内に居る、多くの自分達がそうだったように。諸侯達の下に降りた自分達が、天の御使いとしての役目を背負っていたのだとしたら。自分は、きっと。「一人で頑張るなんて無理だろ。 俺も君も、同じ人間なんだから」「……か、一刀」「君を助けたい。 あの時、桃香に言った言葉は嘘なんかじゃない」「う……ふっ……」群雲が抜けて、月の姿を天に描き出して月明かりが差し込む。視線が交わり、劉協の目元を震わした。そんな彼女の頭へ、一刀は自然と手を優しく置いた。「一緒に天を晴らしてみたいって、思ってるよ」「うあっ、うぅ……」そのまま劉協は俯いて、声を殺して呻いた。今まで手に入れる事が叶わなかった信頼は、長い時間をかけてようやく掴むことが出来た。それと同時に、暖かい気持ちが流れ込んでくるのが頭に置かれた掌から伝わる。どれだけの長い暗闇の中に身を置いていたのだろう。父からも、兄からも信頼を失い、共に居ることを拒まれ離宮へと移された。宦官の讒言に惑わされたとしても、官僚による腐敗から生まれたにしても一緒に居て欲しかったのが、奥底にずっと在った想いの叫びだった。誰からも避けられ、遠ざけられ、上辺だけで手を取り合い、心の中で吐き捨てられていた。「ずっ……か、一刀、晴れるのかなぁ」「……ああ、きっと……頑張ろう」「はっ……うん、晴らそう、きっと」ずっと声を殺して涙する劉協を包むように、頭を撫でながら一刀は窓から見える空へと視線を向けた。満点の星空の海の中、雲が自由に泳いでいる。浮かぶ月と、星空を見上げながら。一刀は誰かに別れを告げるように呟いた。決して届かないと、知っていても。「さよなら、元気で……」それでも確かに、言葉に想いを乗せて。そんな一刀の様子に、劉協がふいに顔を上げた。「一刀、今のは……?」「俺はここに居るって決めたから」「そう、か……一刀、私の真名を」「ああ」「……」一刀から視線を外して、濡れた頬を擦る。先ほど、一刀に居てくれるのか聞いた時と同じくらい緊張していた。何せ、親兄弟を除けば、彼女が真名を預けるのはこれが始めての事であったからだ。信を、預ける人が居なかったから。「私の、私の真名は―――」この日、一刀は劉協の真名を受け取った。初めての、他人。劉協の強い要望から、二人だけで居るときにだけ呼ぶことが許されたものであった。音々音達がこの事実を知るのは、随分と後のこととなる。 ■ 志在を託して「うあー……」情けない声をあげながら、桃香は思わず天井を仰ぐ。そのまま天井のシミを数えるという現実逃避に入りかけて、気がついたかのように首を左右へ振るともう一度机にかじりついた。「だぅー……」そして数分持たず、今度は机に突っ伏す。手に持った毛筆を転がしつつ、或いは鼻と口で挟んだり墨を拭ってくるりと回したり。暫くして、大きく息を吹くと姿勢を正して座りなおし、硯に墨を垂らして擦り始めた。そうして筆を持ち、机に向かい―――そして「うぅぅ……」桃香のここ最近の日課であった。朝起きてから、一刀が帰ってくるまでに終わらせておかなければならないのだ。それは“蜀の”と“無の”が中心となり、眠っている本体の身体を使って作成した問題集のようなもの。簡単に言うと、ただの宿題である。これが中々に難しい。特に、桃香にとっては盧植から物を学び始めてから久しく始める勉強だ。その盧植から学んだ物が余り生かせない時点で唸る事になるのは仕方がないのだろう。正直、行動指針を決定するための選択肢問題とか、この時に在る兵の不満とは何かとかそういう変わった問題も多くて手が付けられないのだ。ただ、この一刀が作った物は、出来ても出来なくても怒られるような事は無い。何故分からなかったのかを聞かれ、素直に言うと一刀は嫌な顔一つせずに教えてくれるからだ。しかし、桃香は幸か不幸か。劉協にやたらと気に入られて、何故か帝としての教養を育むための彼女の勉強と同じような問題集が作られて宿題が出始めた。ついでに、一刀を一緒に支える仲間となったのだから、と陳宮からも宿題が出た。要するに、ここ数日は部屋の中で缶詰なのである。劉協様と、一刀様に仕えることになったのだから頑張らなくては!そう気合を入れて机に向かうも数分後には撃沈してしまう。不甲斐ないと思うと同時に、分からない物は分からないと開き直りそうになる。分からないのならば、聞くしかないのだが。「……うう、またねねちゃんにキツイ視線を投げられそうだよぉー」そうなのである。既に分からない問題にぶち当たった時に、音々音の元まで訪ねて訊いているのだ。何度も。最初の方こそ、にこやかに対応してくれたのだが3回目を超えた辺りから音々音の眦が危険な方向へと傾き始めた。7回目を越えると、顔は笑っているのだが眼が笑っていない。都合11回目に、ようやくこめかみに走る青筋に気がつきそして桃香は音々音の元へ行くのを断念したのである。これが約一時間前の出来事であった。少し外に出て休憩をしようか。いやいや、一問も解かずに外へ出れば遊んでるとしか思われないでは無いか。でも、こう詰まってしまったら気分転換は必要だろうし精神的に良くない。それは分かるが、このままでは問題集を作ってくれた劉協様や一刀様に申し訳ない。うんうんと唸る桃香の頭の中で、繰り広げられる会議は一つの結論を導き出した。一問解いたらちょっと気分転換しに行こう。そう、一問だけ解いたら。心の中で決めてしまうと、やたらやる気が沸いてくる。桃香はとりあえず、簡単に解けそうな物を机にどっちゃり詰まれた問題集の中から探すことにした。―――ある扉がやにわに開き、軋みを上げて廊下に響く。顔だけだして左右を確認、周囲を見渡して何も無いのを知ると、そろりと足を出す。つい先ほど、一問解いて外に飛び出そうとしている桃香である。心理的に気まずいせいか、忍び足で廊下の前を歩き出した。きょろきょろと視線をめまぐるしく移動させ、僅かに屈みながらソロリと歩き出す様は傍から見ればただの不審者だ。そうして彼女は音々音の居る部屋を通り抜け、恋の眠る部屋を通り抜け最後に一刀の部屋を通った時に、物音が聞こえてビクリと身を震わした。何事かと興味に引かれて扉の前で息を潜める。何かが動く……衣擦れのような音は聞こえているのだが、声はしない。もしかして、盗人か何かが入り込んだのでは無いか。桃香はおそるおそる扉の取っ手に手をかけて、僅かに開いた。その瞬間だった。「う!? あいだだだっだだだ!」「む、ちょっと浅かったか」「わああっ!?」悲鳴のような声があがって、それに驚いて桃香は尻餅をつく。どんな力がかかったのか、扉は音を立てて開かれてしまった。慌てて彼女が室内に眼を向けると、しかし、部屋の中に居た一刀と華佗は気付いた様子もなく。不審に思ってよく見れば、一刀の左腕から夥しい数の針が生えていた。もはや腕よりも、針の方が目立つその姿は痛々しい。眼を剥いて驚いた桃香は、黙っていることなど出来なかった。「ああっ! 一刀様の腕が剣山にぃー!」「うおっ!」「うわ、ビックリした!」そこでようやく、二人は桃香の存在に気がついた。驚く二人へとズカズカ近寄り、顔を顰めて一刀の腕に生えた針の山を一瞥した後華佗へと視線を向ける。「これ、治療なんですか?」「いや、治療じゃないんだが」「あー、強いて言えば練習かな?」「練習?」一刀は不審な目を桃香から向けられ、困った顔の華佗の為に横から説明する。華佗の麻酔技術がどの位のレベルに達しているのかテストしているのだ。この左腕に突き刺さった針の山は、見た目は痛々しいが急所はしっかり外されていた。当然、皮膚などには痛みが走るし、痛覚も刺激しているので痛い。麻酔の効果は肘から先だけで、二の腕を試してみたところ激痛が走って声をあげてしまったのだ。桃香はその話を聞いても訝しかんだのだが、華佗に試してみるかと問われて慌てて首を振った。彼女の反応は仕方のない部分もある。この時代に麻酔技術など無かったからだ。たとえ、痛みは少ないと聞いても一刀のように腕に剣山を生やす事などしたくない。そも、桃香も乙女である。やたらと肌を傷つけるのはご遠慮願いたい事だろう。「うぅーん、医の道は厳しいんですね」苦笑しながら桃香の言葉を聞き流し、華佗は一本ずつ一刀の腕から針を抜いていく。おなじく一刀も、今は確認しなければならない事があった。「で、どうかな」「まぁ結局のところは程度によるんだが、力は尽くすつもりだ」「そっか……自分から考えた事とはいえ気が滅入るよ」「動かなくなるという事は無いだろう、それと此処は何度も言うように、絶対当てちゃ駄目だ」「分かった、一応だけど印もつけているから多分大丈夫だ」真剣に話し合う二人の様子に邪魔するのも悪い。かといって、針を抜いて血を引く一刀の腕を眺めているのも嫌だったので勝手悪いとは思ったが、卓に置かれた茶葉を手に取り作り始める。さり気に一刀と華佗の分もしっかりと作って、横に置いておく。やがて話の方はひと段落したのか、一刀は自然に手を伸ばし器を手に取って「あれ? ああ、桃香が淹れてくれたの?」「へ? まぁその、暇だったので……」「ああ、そうか。 何か用事だった?」「ううん、全然用事は無かったよー」音を立てて茶を啜りながら、一刀は密かに感心していた。桃香に与えられた宿題、それは結構な問題集の束になっていたと思ったが、もう終わったのかと。これも、盧植という人が教えた下地があるからだろうか。「凄いね、もう終わったんだ」「へ? いや、えーと、まぁ、えへへへ?」なんとなくまったりとした時間が流れているのも手伝って、一刀は世間話に興じることにした。この後、諸葛亮と鳳統に会いに行くことになっているが、時間が余っているのだ。それに、桃香がこの部屋に来てくれたのは都合が良かった。「そういえばさ、盧植さんの話聞いた?」「盧先生の話ですか? なんだろ」「皇甫嵩さんの話に頷いたって。 近い内に宮内に参じるみたいだよ」「え、本当ですか!? わぁー、嬉しいな」手を叩いて嬉しそうに笑う桃香に、華佗の鋭い突込みが入る。「桃香は勉強のせいで外に出れないんじゃないか?」「はうっ!」「まぁ、ずっと休みなしで勉強してろって訳でもないし。 会いに行くくらいの時間もあるでしょ」「さっすが一刀様、話が分かりますね」「ははは、俺も公孫瓚さんには会いたいから。 紹介してよ」一刀が公孫瓚と会いたい理由は簡単だ。随分前の話になるが、一刀が結構ありえない大怪我を負った時に、安静に休める場所を手配してくれた者が居る。その時の怪我は音々音が呼んだ華佗のおかげで、一刀は一命を取り留めたのであるがあの場から静かに休める場所を提供してくれた公孫瓚に、兼ねてから礼を言いたいと思っていたのだ。桃香はしっかりと紹介することを約束してくれた。一頻りの談笑を終えて、一刀は窓の外を見る。陽はずいぶんと落ちた。そろそろ、頃合だろうか。「さて、と……じゃあ華佗、明後日までに頼むよ」「ああ、手配しておく」「桃香って今は暇?」「えーっと、暇というか何と言うか。 どちらかと言えば暇じゃないけど暇のような」「そっか、じゃあ一緒に来てくれないかな」暫しの逡巡の後、彼女は一刀と共に行く事にした。僅かに意識に残っていた、たんまりと机の上に乗っている宿題の事は、とりあえず忘れることにしたようである。―――夕刻に差し掛かった。陽の光が赤く色づき始めて、洛陽の宮内を照らし始めた時間を選んで牢に訪れたのには訳がある。この時間が最も、牢の周りをうろつくのに目立たないからであった。朝早く、夜遅くになると、逆に目立ってしまうのだ。昼間でも構わないのだが、基本的には仕事に慌しく、見に来ても話をすることは僅かにしか出来ない。故に、自然と牢屋へ足を運ぶ時間帯は夕刻が多くなっている。おかげさまで、牢番を勤める兵士達も今では、一刀が来れば鍵を開けてくれるのだ。「あ」「あれ?」「天代様じゃねぇっすか!」「アニキさん、どうしたんですか!」諸葛亮、そして鳳統が繋がれている牢の扉の前。そこに官軍の武具を装備して突っ立って居た男達の中に混じって、見覚えのある顔が声をかけてきた。黄巾党の乱、そこで一刀の為に働いてくれたアニキである。戦場から姿を眩ましていた為、一刀がアニキと再会したのは戦の時以来だ。「久しぶり、ここで働いてるんだね」「へへ、まぁ結局こういう事しか出来ねーんで」「そんなことないよ。 でも、そっか……」アニキが再出発に選んだ道は、兵となることであったようだ。話を聞くと、先の宛城にも出征し歩兵として黄巾党とぶつかったらしい。チビは、一刀との繋がりが在ったからか、前に一刀が務めていた運送屋で働き始めているそうだ。兵になるのは、怖くて出来なかったという。「デクは故郷に帰りやした。 いつか採った魚を天代様に届けるって伝言を頼まれてます」「それは楽しみだよ」「……ところで、今日はどうしてこんな臭ぇ所に来たんですかい?」「あの子達の様子を見に来たんだ」それだけで、アニキは諸葛亮と鳳統のことであると気がついた。一瞬、まだ生きてたんですか? と聞きそうになったが、それは辛うじて口を噤む事に成功する。頭を掻いて、それからアニキは腰から牢の鍵らしきものを取り出し一刀に手渡した。「あんま長い時間居ると、匂いが映っちまいますぜ」「ありがとう、恩に着るよ」「あのぉ?」「大丈夫、行こう」牢の中の誰かに会いに行く。それは流石に桃香も分かったが、正直牢屋の中に入るというのは予想の外の事だったので躊躇ってしまう。ぶっちゃけると、勉強ずくめで部屋に押し込まれていた彼女は、やっと少し外で遊べるのではと期待していた分だけちょっと落胆したのが本音だ。そも、一緒に行こうと誘ったのは一刀なのだ。女性を誘って一番最初に訪れた場所が牢屋である。不満といえば不満だが、至極真面目な様子で話を進めている一刀を見ているとこれも仕事の一つなのかな、と割り切ることにして、彼の後に続くように牢の中に入った。入った途端、むせ返るような匂いが、ツンと鼻腔を刺激する。牢屋に入っているのだ。当然、身を清めることも出来ないだろうし排泄物などは一箇所に置かれているだけだろう。桃香は自然、眉根を顰めてしまう。匂いが身体につかないだろうか、そんな心配事をしながら歩くこと暫し。ようやく目的の場所に着いたのか、一刀は立ち止まった。「元気かい?」「あ……」「天代様……」二人で一緒に、丸くなって眠っていたのだろうか。眼を擦る様な仕草をしながら、二人の少女は顔を上げて一刀と桃香を見上げた。そんな二人を見て、桃香は驚き固まっていた。こんな幼い少女が、一体何をすればこの牢に閉じ込められる事になるのだろうかと。「食事はちゃんと貰っているの?」「はい、その、手配してもらってますので」「大丈夫、です……あの」鳳統の視線が、桃香へと突き刺さるのを見て、彼女は薄く笑った。その笑顔に、思わず俯いて顔を隠す鳳統。何気ない仕草であったが、桃香は自分の笑顔から逃げられた事にショックを受けた。「この人は最近知り合った劉備さんだよ。 俺の仲間だ」「劉玄徳、私の名前です、よろしくね」「はわわ、私は諸葛孔明です」「あわ、ご丁寧にどうも……鳳士元、です」洛陽、その牢屋越しに大徳の劉備、それを支える伏竜鳳雛の出会い。自分が居なければもっと違った形で3人は出会っていたのだろう。一刀はそんな、益体も無いことを考えながら諸葛亮と鳳統を気遣うように体調の確認や、近況を聞いていた。そして、自分の身の回りに起きた変遍、出来事、そして時には悩みを二人に話していた。これは訪れた時に何時も行うことだった。今日は桃香も交えての話だったせいか、最初こそ桃香との会話に躊躇いを見せていたが元から持っている彼女の雰囲気が、二人の緊張をすぐに解いたのか。思いのほか、会話は長く続いていた。それは楽しいひと時ではあったが。そろそろ伝えなくてはならない。二人の処遇が決まった事を。「……二人共、良く聞いて欲しい」一刀の態度、そして硬い声から察したか。ピクリと身を震わせて孔明と士元は一刀へと顔を向けた。一人、首を傾げる桃香。「君達の処遇が決まった……読み上げるよ」一刀は懐から書を取り出して、それを広げる。諸葛孔明、鳳士元。黄巾党の乱に加わり、現王朝に刃向かった以下の二名には、その両目を刳り貫く『あつ眼』の刑を与える。混乱を加速させた責を加え、刑の執行後は大陸の乱の平定の為、官軍に尽力することを強制する。黄巾の乱が終わるまで、常に前線へ赴きその知を奮う事とする。要約してしまえば、一刀が孔明と士元に読み上げたのはこういう意味になる。両目を失くした軍師が、一体戦場に行き何をすればいいのか。文字も読めない。戦況図も見れない。戦場も見渡せない。敗戦となれば、逃げることすら出来ない。なにより、賊将であった自分を助ける官軍など存在しないだろう。眼を失った軍師の助言が果たして、聞き入れてくれるのかどうかは甚だ疑問だ。囮として最前線に放り投げたほうが、まだ官軍にとって役に立つかもしれない。言わば、一刀が告げた刑の内容は死ねと言ってるに等しい。二人は、一刀が刑の内容を話している最中も俯いていたが。やがて顔を上げてはにかんだ。「天代様、ありがとうございます……」「分かって、ましたから」それでも、彼が自分達の為に色々と方策を練っていたのは知っていた。だからこそ、孔明も士元もまだ笑うことが出来た。そんな彼女達を一瞥して、一刀は淡々と続きを読み上げる。「刑の執行は二日後に決まった。 直接、俺が執り行う」「はい、天代様ならば覚悟もつきます」「……こく」そして二人の両目に落ちる雫。牢屋を挟むこの場所では、それを拭う事は出来ない。一刀は書を仕舞いこむと、二日後に、とだけ言い残して踵を返した。余りに衝撃的だったのか。桃香はしばし呆けた様子で孔明と士元に眼を向けていたが、気がついたかのように一刀の後を追った。牢に入れられた少女達は世を乱す黄巾党だった。そして、彼女達は自らの罪を認めるように一刀の告げた刑を受け入れた。しかし―――何故だ。桃香の心の中で、何故か納得できない不満が彼女を突き動かしていた。ようやく見えた一刀は、牢である建物を出て離宮へと向かう背中。桃香は走って一刀の前に回りこむと、息を切らしながらも口を開いた。「ハッ……はっ……ま、待って、一刀様!」「……桃香、どうしたの?」「だって、あんなのあんまりです! 何とか、何とかできないんですか!?」「……」『桃香……』知らなければ、知らなければこんな風には言わなかったかもしれない。何より一刀は今、仕えるべき主だ。しかし、諸葛亮と鳳統。二人を知ってしまった今では、一刀の告げた決定に頷ける物では無くなってしまった。そんな桃香に答えず、一刀はただ悲しげな眼で見つめた。そして、首を振る。「一刀様っ―――あっ!?」胸に突き上げる感情から、桃香は一刀の肩を持って何かを言おうとして突き上げるように膨らむ何かの激情が、口を噤ませた。肩から離れた手が、桃香自身の胸に向かい、服に皺を作らせた。そんな桃香の手の上に、一刀は右手の掌を乗せて。「な、うそ、ご主人……様?」「桃香、何とかするためにこの刑を選んだんだよ」「え、あ、だって、でも―――っ!」彼女の前に掲げられた左腕。長い袖から捲くれて見える、赤くなった腕の模様。それを見て、桃香はハッと気がついた。先に見た、あの針で埋まった左腕は麻酔というもので痛みが無かったと言っていた。そして、二人を助けるつもりだという一刀の意図が薄ら見えてしまった。「……」「彼女達は、刑が終わればしばらく、離宮に隔離することになる。 誰の目にも触れられないように、刑が嘘であることを知られないように。 だから、俺が諸葛亮と鳳統を守ることは出来ない」それは天代という立場が許さない。そして、刑の中に在る最前線を渡り歩かねばならないという罰。その裏の意図を桃香は察して、一刀がこの場所に二人を残さない事に決めたのだと知った。「孔明と士元を守るのは、桃香」「……」「君で……在って欲しいんだ」桃香は、何も言葉に出来なかった。一刀の覚悟と想い、そして自分にやたらと多くの不思議な問題を出したこと。盧植から学んだ事が生かせないというのは、それが純粋に学問であったからだ。実際に軍を率いて歩く術など、学ぶことなど無かった。全ては、二人を救うための道。そして溢るる、一刀に対しての暖かい不思議な気持ち。「……嫌かい?」「嫌じゃ、無いです……」笑って話す一刀に、桃香は力なく震えた言葉でそう答えて、首を振った。桃香の感情の昂ぶりも落ち着いてきたのを見計らって、一刀は離れると踵を返して離宮へと歩き出す。桃香もその後ろを付き従って、歩き始める。一刀が桃香に望んでいること、それを知った今。桃香はその思いを含めて自分の心を噛み砕いている最中だろう。『“蜀の”も“無の”も、大概自分勝手だね』『……ああ、でも』『うん』『劉備、だもんな』「やります……私」脳内の言葉に追従するように、桃香の声が一刀の耳朶を響かせる。振り向くことなく、一刀は頭だけで頷いて。本体が閃いた時、一番の懸念であったのは桃香の意志を無視してしまう事だった。“蜀の”や“無の”の押し付けになってしまうかも知れない。脳内の皆に諭されても、彼らは本体が見つけ出した道に願った。だが、それに頷けなかったのが本体であった。自分のように、流されて歩く道を桃香に強要したくなかったのだ。そうした一刀の配慮から、敢えて桃香を連れ立って牢へと赴き、孔明と士元に刑を告げた。黄巾党に加わっていた事を、刑を告げた時に桃香は知ったはずだ。更に、孔明と士元はそれを聞いて素直に受け入れた。これだけの状況が揃っていれば、まず助けてやれなどと普通は言えない。それでも追いすがってくるのならば。そして、桃香は答えを出した。意識を落とした二人が彼女の答えを聞く事は無かったけれども。“蜀の”も“無の”も分かっていた―――かも知れない。そして。離宮へと戻った一刀と桃香だが、まだ一問しか解いていない問題集が音々音に見つかってしまい彼女は大目玉を貰う事になった。夕食抜きの刑も追撃で降りかかった。その最中。青い顔で一刀を見やった桃香の気まずそうな顔に、一刀は腹の底から盛大に笑ってしまった。何せ、全て問題を終えていたと勘違いした一刀である。自分の勘違いとあいまって、それはそれは、久しぶりに声を上げ腹を抱えて笑った。頬を膨らませて腹の虫を鳴らしつつ拗ねた桃香の勉強にその日は音々音と共に一日中付き合った一刀であった。 ■ 涼の州、煽られて涼州。西方に位置するこの場所で、ある男が荒野を駆け抜けていた。今で言うところのモヒカン頭に長いお下げを後ろに靡かせている。モミアゲも肩に付きそうなくらい長く、眉は太い。面は、はっきり言って四角と言ってもいい位に角ばっていた。広い荒野をただの一人で馬を駆り、目指しているのは名高い女性の下。目的地に到着するなり、馬から飛び降りて中へと潜ると、一人の女性が寝そべるように腰掛けて書を眺めていた。火を燃やしているのか。室内は随分と暖かく、焦げた匂いが彼の鼻腔を突いた。誰かが来たことに気がついたのか。女性は僅かに身を起こして男を見やる。ざっくばらんに切られている長い赤い髪は、見た目よりも艶やかであった。厚ぼったい唇が妖艶な雰囲気を醸し出しているが、仕草は随分と荒く容姿の艶やかさはそんな荒っぽさに隠れて見えなくなってしまっている。そんな彼女の名は。「韓遂、お前のところに、来たか?」「ん? ああ、辺章か」「俺のところも来た、見ろ」投げ捨てられるように韓遂の元へと書が転がり込む。辺章と呼ばれた男の元に訪れた書は、字体こそ違う物の明らかに韓遂と同じ内容が記されていた。「どう思う」「ははっ、こりゃあ相当中央も乱れてるねぇ」「やはりそう思うか」「思わないかよ、辺章。 ここに記されているのが事実なら中央を攻めろってあるんだぜ」そう、確かに韓遂と辺章の元に届いた書には、中央へ攻め寄せろとの旨が書かれていた。反乱を起こせ、と。では一体、このような不穏な書を寄越したのは誰なのかという事になる。「……官僚か?」「だろうよ、無駄に達筆だ。 西方の連中は字に気を使わないしな」「……」「立つのか、辺章」「分からん、まだ怖い」「ハッ、しかし……面白い事になるかも知れねぇな、この書は」そこでようやく身体を完全に起こして座り、韓遂は投げられた書を同じように辺章へ投げ返す。大きな音を響かせて受け取った辺章は、そんな韓遂を見つめた。辺章はどうするか悩んだとき、人を見つめる癖があった。「おう、一応動く用意だけはさしとくかい?」「分かった、そうする」話は終わった。そう示すように大仰な動きで踵を返した辺章は、再び彼女の元から飛び出すと馬へ乗って駆け出していく。広い広い、涼州の荒野へと。「上手く利用すりゃ、力を伸ばせる良い機になりそうだぜ」その場から動かずに、書を細い指でなぞっていた韓遂は呟くようにそう言ってから書を掴んで投げ捨てる。燃え盛る火の中に飛び込んだ反乱を煽る書は、やがて引火し、灰となって消えていった。洛陽から肌寒さの消えた、木々に緑が生ゆる頃であった。 ■ 外史終了 ■