clear!! ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編3~clear!! ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編4~今回の種馬 ⇒ ☆☆☆~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編5~☆☆☆ ■ 天代三軍師最近、一刀には悩みがある。それはこの世界に訪れてから約7ヶ月たって、落ち着いた日々を過ごす中でとても気になる物だった。先ごろ、帝へと上奏された西園八校尉なる物の設立が、一刀に相談された事……ではなく下を向くと、視界を塞いでくる憎い奴。そう、前髪が鬱陶しいのだ。物を書くにしても、振り向くにしても、一動作のたびに絡み付いて気持ち悪い。『ほんと、随分伸びたね』『些細な事なんだからイライラするなよ』「このまま伸びたら井戸から出ても違和感なくなりそうだ」『流石にあそこまでは伸びないと思うけど』脳内の突っ込みをスルーしながら、一刀はしばらく机の前に噛り付いていたがついに我慢が出来なくなったのか。髪を切ろうと決めると席を立ち上がって、鋏の様な物は無いかと室内の物色を始めた。台座の前に掲げられている金ぴか鎧を脇にどけて、妙に格好ついた名前の剣を横に置き辺りの物を手当たり次第に見回していくが、何処にも見つからない。一瞬、剣で切ってしまおうかとも考えたが、流石に剣で切るのはちょっと怖かった。しかし確かに置いてあったような気がしたのだが、誰か何かの用事で持ち出したのだろうか。しゃがみ込んで引き出しの中身を覗いていた一刀の目元に、伸びまくった前髪が視界を覆う。「あああああっ、うざったい!」「……一刀、どうしたの?」「おおおっ!?」すわ忍者か! との勢いで一刀はバックステップするように飛びずさった。つい先ほどまで、というか今の今まで誰も居なかったはずなのにいつの間にか一刀の横には恋が不思議そうな顔で突っ立っていた。見事なまでの隠行である。普通に部屋に入ってきたのだが、一刀からすれば音も無く滑り込んできた恋は、瞬間移動したようにしか思えない。鼓動が早まっていることから、相当に驚いたことを自覚した。ぼやーっとしている彼女の視線を受けていると、なんとなく気まずくなって咳払い一つ。誤魔化すように口を開く。「コホン、ああ、恋、この辺で鋏を見なかったかな?」「ん?」首を傾げて数秒。恋は見覚えが無かったのか、首を左右に振った。「そう、桃香か劉協様なら知ってるかな……ありがとうね、恋」「ん」こっくり頷いて、恋はそのまま一刀の寝床まで歩いて行き、そのまま倒れこんだ。どうやら今日のお昼寝は一刀の部屋にするようだ。劉協と一刀の護衛という役も、外出しない日では離宮の中に篭りっきりである。勿論、動物達と戯れる為に外へ出ることもあるが、その動物達も一部屋まるまる使って離宮の中に居るのでよほどの理由が無ければ、外へ出ることは余り無い。ちなみに、世話は忙しい日々を送る一刀以外の皆がしている。何故か一刀に負けないくらい忙しい段珪も、しっかりと劉協から世話をするように言われていた。仕事を増やしてしまった一刀は、彼に頭を下げたのだが、段珪は笑って衝撃的だが動物の世話も悪くないと言ってくれた。宮内に動物園が出来たのだから、それは衝撃的だったことだろう。今のところ、周りにはバレては居ないようだが、獣臭が結構するので時間の問題だとも思う。窓から毀れる日差しを受けて、気持ち良さそうに眠り始めた恋を見ながら一刀は呟いた。「何か良い考えある?」『『『無い』』』にべもなかった。この件に関しては黙っておいて、ばれたら開き直ることくらいしか出来ないだろう。ふと考えに没頭していた自分に気がつく。そうだ。とにかく今は、鋏を探さなくては。自室を出て何時も食事を取る部屋へ。ここはリビングのような場所で、日常的に使うところなので期待できそうだ。しばらく棚や台座をひっくり返して探したが、何処にも見えない。一体どこへ行ったのか。「あ、一刀」「やぁ」「何か探しているのか?」「鋏だよ。 自分の部屋にも無かったんだ」「ふぅん……」あちらこちらへ、きょろきょろと視線をさ迷わす一刀に声をかけたのは劉協であった。しばらく、一刀を視線で追って、ついでに鋏があるか周囲を探してみたが彼女の視界にも鋏は見当たらなかった。とりあえず一刀の事は置いといて、自分の喉の渇きを潤す作業に戻る劉協である。今日の彼女は、今で言うところの体育の授業のような物をしていた。ようするに、運動する日であった。この暑さの中、よく動いたのであろう。夜になればまだ冷えるこの時期に、随分と薄着な姿であった。ほどよく汗ばんだ白い肌が、チラリと裾から垣間見える。水を容器に注ぎ、喉を鳴らして水分を補給する劉協に視線が向いて、一刀の動いていた目と手が止まる。「……」「ぷはっ……ん? なんだ一刀。 飲みたいのか?」「えあ、ああ。 じゃあちょっと貰おうかな」「分かった、ちょっと待て」別に喉は渇いていなかった一刀だが、せっかくだし貰うことにした。何故か劉協がそう言ってくれて安堵した一刀である。水を入れてくれたコップを受け取って、そして気付く。コレは今、彼女が口を付けた物ではなかったか。受け取った姿勢のまま、一刀は視線を容器へと注ぎ止まった。「どうしたんだ、早く飲んでくれ。 私ももう少し飲みたいんだ」『そうだ、早く飲め、いいから飲め!』『何を考えている、ハリーハリー!』『GOGOGOGO!』『ムーブ!ムーブっ!』(どこぞの軍隊かお前らっ!)茶化された勢いもあってか、一刀は一気に仰いで器に満たされた水を飲み干した。若干、口元から水が毀れて飛沫を上げ、床を濡らす。豪快とも言えるその飲み方に引いたのは、劉協の方であった。「あ、うん。 そんなに喉が渇いていたなら、もう一杯先に飲んで良いぞ」「……いや、大丈夫、ありがとう」「そうか……」一刀は何となく居づらくなって、仕方なしに別の場所を探すことにした。そんな別の部屋に向かう彼を見送った劉協は、容器に視線を戻し「……成功はしたんだが、これは……」そう呟いた後に、器を変えてもう一度水を飲み込み、自室へと戻っていった劉協である。・「ぐむむ……」「はわわ……」「あわわ……」ああ、鋏よ、いずこへ~消えた。内心で謎の歌を唄いながら邪魔な前髪を掻き揚げつつ、音々音の部屋に一刀が訪れるとちびっ子三人が盤を挟んで相対し唸りを上げていた。いや、上げていたのは音々音のみで朱里と雛里は戸惑っているような声だったが。鋏を探して入り込んだ一刀であったが、何となく興味を引かれて三人が見つめている盤を覗き込む。それは、軍将棋であった。朱里と雛里の二人は、この離宮の中でも音々音の部屋と一刀の部屋、そして卓のある場所にしか動けないのである。少しでも暇を紛らわせたらと、桃香と二人でプレゼントした物であった。三人ともに真剣なのか、一刀に気がついた様子は微塵も無い。唸っている音々音が不利なのか、相対して慌てふためいている雛里が不利なのか。盤上を覗き見た一刀だが、本体は駒の動き方くらいしか知らないので判断つかなかった。『ねね、随分押し込まれてるな』『補給断ち切られて孤軍になってるね』『総崩れ間近だ』脳内の声から、どうやら随分と音々音が不利らしい事を知る。パチリという音がして、盤上に雛里の軍が全体を押し上げた。ビクリと震える音々音の肩。しばし眺め、大きく肩を落として音々音はうな垂れた。どうやら決着がついたようだ。「暇は潰せているかい?」「うあっ! か、一刀殿!?」「はわわ! か、一刀様っ!」「あわわわわわ」優しく声をかけたのに、三人共に物凄い勢いで後退る。誰かの足か手が引っかかったのか、けたたましい音を立てて盤はひっくり返り、駒は宙に浮き、縺れるように一刀から身を引いていく。声をかけた一刀の方が驚く有様である。というか、ここまで見事に逃げられると悲しくなるくらいだった。「ど、どうしたの、皆」「急に現れて声をかけてくるからで、ですぞ!」「……」「……」音々音の非難に一刀は謝った。つい先ほど、恋に対して同様の想いを抱いていたことから、彼女達の心境が良く分かったのである。まぁそれでも、飛び退るように逃げるのはどうかと思ったが。考えてみれば、自分も恋に対して同じ事をしていた気がする。後で謝っておこう、と思っていると音々音の声がして顔を向けた。「ところで一刀殿は、何かご用でしたか」「ああ、いや、鋏を見なかった?」未だに頬を赤らめて固まっている朱里と雛里を無視して音々音が訪ねると、一刀は前髪をつまみながら答えた。それだけで、何をしようとしているのか全員理解できたのだろう。相変わらず二人は固まったまま一刀を見つめて動かないが、音々音は首を振って無い事を伝えた。「そう、いい加減邪魔だから切りたいんだけどなぁ」「あ、ありましゅ! あるよね、雛里ちゃん!」「あ、うん……確か……」朱里が再起動を果たし、慌てた様子で一刀へと声を上げた。彼女の言葉に、雛里も控えめに同意を返して荷物の中を漁り始める。かくして出てきたのは、少し刃渡りが長いものの、鋏であるようだった。一方が長く、鋏にもカミソリにも使えそうな代物である。一刀はそれに喜んで受け取ろうとしたが、すいっと手を引っ込められてしまう。「あの、一刀様……」「えと、その、もしよろしければ切るのを手伝いますけどっ!」「んっ、はい、はい」予想だにしない朱里の提案に追随するように、雛里も頷く。隣に居る音々音の眦が僅かに下がった。一刀は一瞬考えたが、自分で切るよりは見た目も良くなるだろう事から頷いた。「うん、じゃあ切ってもらおうかな」「あっ、それじゃあ―――」「そこまでなのですぞっ!」「はわわっ!」「あわわっ!」一喝が響いて、全員の視線が驚きと共に音々音に集まった。彼女は手を突き出した状態で静止しており、その表情は酷く真剣だった。全員の視線が集まった事を確認して、音々音はつかつかと歩いて雛里の手に持つ鋏を手に取った。そして、その鋏を閉じたり開いたりしながら独特の音を響かせつつ朱里と雛里に相対した。「一刀殿の髪の毛は、ねねが切るのです」「そ、そんな、それは横暴ですよっ」「鋏とはいえ、刃物に違いはないのです! 間違いがあったら大変なのです」「あわ、そ、そんなことはしません……」「これは私の提案ですっ、横取りするなんて……」「うっ、ね、ねねも思いついていたのを先に言われただけなのですっ!」「でも、客観的に見ればそれは横取りと大差ないかと。 ねねさん、ずるいです」「うん、ずるいっ!」「うぬぬ、だまらっしゃい!」いきなり話に置いてかれた一刀は、しばし一連の流れを見守っていた。というか、何でいきなり全員が自分の髪を切ることに白熱したのか良く分からなかったので脳内に対応の是非を尋ねていたのだ。『こういう時は、全員に任せるのが角が立たなくて良い』『『『一票』』』『むしろとっとと座って、早く切ってくれないかな~待ってますよ~? オーラを出すべき』『オーラとかでねぇし』『雰囲気だよ、雰囲気』との結論から、一刀は手近にあった椅子を引いて其処に座った。いざ、全員に頼もうと口を開きかけたその時。三人の間で決着がついてしまったようである。「あのさ、皆に―――」「ならば、軍盤で決着をつけるのです!」「望むところですっ!」「ま、負けないもん」「……」一刀の事で話が盛り上がっているというのに、当の本人を置かれてバタバタとひっくり返された盤上を起こし始める。散らばった駒をかき集め、テキパキと準備を始めた彼女達に、一刀は声をかけることを諦めた。そして、総当りでの軍将棋大会が開かれることになった。長引けば1時間を越える勝負になるこの将棋。三人での総当りなので、計数は3本。最大まで長引けば、3時間以上もの間差し続ける事になる。正直、たかが前髪を切るだけで3時間も待ってはいられないのだが、盤を挟んでにらみ合いを始めた三人の様子を見るにあ、やっぱり自分で切るから構わないよ♪ とか言えなかった。「審判は、一刀殿にお願いするのです」「え、あ、うん」勢いに押されて、一刀は頷き審判をすることになってしまった。もはや、一刀はこの勝負が一刻も早く終結し、角が立たずに終わることを願うことしか出来ない。準備が終わり、勝負は始まった。それまで随分と騒がしかった室内が、いきなり沈黙に支配される。(こと一刀殿に関しては、ねねは無敵なのです、ここは譲れないのです)(雛里ちゃんとねねちゃんの傾向は把握してるし、勝算は大きいはず……)(効率的な運用を好むねねちゃんには奇策、考え込む朱里ちゃんには正面からぶつかって……)三者の鋭い視線が絡み合う。黄巾とぶつかった時のように……いや、それ以上に三者から気炎が上がり独特の空気を作り出す。(とはいえ、朱里殿も雛里殿も傑物なのです。 今までとは違う戦法を試すべきかも……)(先ほどまでの遊戯とは雰囲気が全然違う……ねねちゃん、本気だ……油断できない)(ううん、変に固執せず、その場で対応すべきかも……きっと朱里ちゃんもねねちゃんも得意な形に持っていく気がする)「えー、それじゃあ、はじめ」黙り込んで忙しなく盤上へと視線を注ぎ、知、溢れる三人の頭脳が働き始めた時そんな熾烈な脳内の計算からかけ離れた男のスタートを知らせる声が響く。先番である音々音の手が、盤上にひらめいた。―――勝負はめちゃくちゃ長引いた。具体的に言うと、体感で2時間半くらい。本体としては、一手一手が遅く、とても焦れる戦いではあったのだが脳内の白熱した実況に暇を感じることは無かった。というか、本当に素晴らしい名勝負だったくさい。結局、勝利をもぎ取ったのは雛里である。そんな訳で、一刀は部屋を移して雛里の手で髪を梳かれている最中であった。「くすぐったくないですか?」「大丈夫だよ、気持ち良いくらい」「あ、良かった……じゃあ、切り始めましゅ……あぅ」「ははは、うん、お願いね雛里」髪をつままれる僅かな違和感を感じると同時に、刃が擦れる音が響いてハラリと落ちる。落ちた髪が鼻をくすぐって、むず痒さを感じた。最初こそ、おそるおそると言った様子で髪を切り始めた雛里であったがしばし行い慣れてきたのか、だんだんと軽快な音を鳴らし始めてペースが上がった。「すごい勝負だったね」「あ、はい……朱里ちゃんもねねちゃんも、凄く強かったです」それは謙遜でも何でもなく、雛里の本心であった。先に行われた朱里との一戦で敗北を喫した音々音は、雛里との戦いで驚異的な粘りを見せていた。盤の上で翻る駒それぞれに、ちゃんとした意味が伏せられており雛里の目を持ってして一つ二つ、見抜けなかった策が存在していたのだ。結果的には雛里の戦線を僅かに崩しただけで終わったのだが、布石までが見事であったと言う外無かった。負けてしまうのでは無いかと肝を冷やした場面も一度や二度ではない。朱里との戦いも、何時ものこととは言え辛勝で終わっている。正直言って、二人の策を防げたのは偶然の要素も混じっており、勝利を拾えたのは運が良かったと言っても良い。髪を切り、襟足を揃え終わった雛里は、ふと自分だけがペラペラと喋っていることに気がつく。「あ、私ばっかり喋ってて……」「ううん、楽しいから気にしないよ」「あわわ……」「ふあぁ……そろそろ前髪の方切ってもらっても良いかな」「あ、すぐに切りますっ」声に慌てて、一刀の前まで急いで回り込むと、ちょうどバッチリと眼が合ってしまう。髪を切られている間に眠くなってしまったのか、少し瞼の下がった一刀の瞳に見つめられ瞬間、雛里は目線を俯くようにして逸らした。恐らく顔は火が吹き上がってるように赤くなっていることだろう。それが自覚できて、彼女は顔をあげることが出来なかった。更に、髪を切らなくてはという思いも重なり、彼女の鋏を持った手は一刀の前髪に突き入れられた。ざっくりと言う表現が正しいだろうか。丁度額の中央から、右側頭部にかけて豪快に切り取ってしまった。バラバラ落ちていく、一刀の前髪。その音の違和感に一番最初に気がついたのは、鋏を手に持った雛里であった。「あ、あわ……あわわわわ」「ん? どうしたの?」「な、なんでもにゃいでしゅ!」「……そう? 何か眠くなってきたしちょっと寝ようかな……終わったら起こしてくれる?」「はははははは、はいっ」動揺に噛みまくっている雛里に、一瞬だけ一刀は怪訝な視線を向けたがまぁ照れ屋だし、と深く考えずに瞼を閉じる。時置かずして、一刀はすやすやと寝息を立て始めた。やたらと震える雛里の手に気がついていれば違う結果もあったかもしれない。とにかく、結構取り返しのつかない勢いで切り裂いてしまった前髪は丁度軽い剃り込みが入ったかのように、見事に斜め上に切られていた。切り込まれた場所が、額の中央であったことは幸いだった。同じように左側も切れば大丈夫。雛里はそう判断して、軽快だった手の動きは最初の頃のように怯えが混じり、鋏を突き入れた。途中、斜めになったり浅かったりしたが、何度か突き入れる内にどうにか左側も同じように切れた。が。「あわわわわ、今度は右側が少し……」一人であたふたしながら、右側の側頭部に鋏を入れる。すると、当然ながら整えていた左側とバランスがおかしくなってしまった。右に行ったり左へきたり。小動物のように一刀の周りをぐるぐる回って、どうにか完全にバランスを保った頃には耳の先までしっかりと剃り込みのラインが一本、走ってしまった。剃りだけ見れば、どこぞのヤンキーと取れなくも無い。とりあえず左右のバランスは取れたのだから、大丈夫だと思って雛里は数歩下がった。「あわわーーーーーー!?」悲鳴にも似た叫び声。流石に一刀が眠っているので、声量は抑えているが、一刀の頭部の全体を見て声を上げずには居られなかった。額から走った剃りこみは、一本の線になっている。手が付けられていない頭頂部から垂れる髪によって、少し隠れてはいるがしっかり眼で見て確認できる程だ。つむじのあたりから左右に盛り上がってるそれは、正直なんというか、そう。一刀にまつわる噂の、その一つにあるようなそういう状態だった。慌てて一刀の頭頂部を切ろうと雛里が駆け寄った時、焦れたかのように扉が開いた。恐らく、先ほど挙げた声が原因だろう。「雛里殿、終わったのですか」「雛里ちゃん、入るよー?」「あ、ま、まだだめぇー!」勿論、このような静止で止まる訳が無かった。部屋に入った音々音と、朱里の動きが一刀を―――当然、頭部を見て動きが止まる。雛里も視線だけを音々音達に向けて隠すように両手を挙げた状態で止まっていた。今、この瞬間。全員の時間が止まっていたと言っても良いだろう。時が動き始めたのは、朱里の声からであった。「はわわわわーー!? 雛里ちゃん!? これは酷いよっ!?」「ち、違うの、朱里しゃん!」「雛里殿ー! 一刀殿の頭になんてことをするですかー!」「そうだよっ、幾らなんでも一刀様の頭をそんな卑猥に―――」「わぁぁぁ、わぁぁぁっ!」そして混乱気味に騒ぎ出す三人だが、流石に歴史に残る軍師達というところか。すぐに直面した問題に気がついて、とにかくこの頭部を何とかしなければならないと結論を出した。ただでさえ、一刀には色々と妙な噂がある。それの一助になってしまうかもしれない髪型は、早急に何とかせねばならなかった。疲れているのか。よく眠って動き出さない一刀の周りを、三人で囲んでうんうんと知恵を出し合う。朱里の提案から、頭頂部に鋏を入れて、盛り上がってるところを切ってみたらそこだけ禿げているように見えてしまった。これもまずいと言う事で、再び三人は天から授かった叡智を出し合って前後左右に髪を切っていく。「ねねちゃん、そこは駄目だよ! 変だよ!」「何を言ってるですか! ここを切らないと襟足だけ伸びてて不恰好なのです!」「あの、耳の後ろが妙に飛び出てるから……」「だめー! 雛里ちゃんに鋏を貸したら、一刀様の髪がおかしくなっちゃうよ!」「ひ、酷いよ朱里ちゃんっ!」「ち●こにした雛里殿は信用できないのですっ!」「あうっ、ねねちゃんまでぇ~」「とにかく此処を切れば……ああっ! 一刀殿!?」音々音が鋏を突き入れて、切り始めた瞬間、寝入る一刀の身体がゆらりと動く。後頭部に入れられていた鋏は、一刀の頭部が動くのと同時に滑るようにして切り裂いていく。椅子の上で眠る一刀の首ががくりと動いたせいではあるが、これで後頭部にも見事な剃りこみが広い範囲で入った。「ねねちゃん! 何やってるの!」「ち、違うのですぞ! これは一刀殿がいきなり動くからで―――」「あ、仲間……?」「誰が仲間なのですかっ!」先ほどまでとは別の意味で一刀のことで白熱し始めた三軍師。どんどこ髪を切り取っていき、最終的にはもみ上げだけが残された。「……」「……」「……」三様に黙り込んで、一刀の周りを衛星のように、うろうろとうろつく。坊主である。何処からどういう角度で見ても、もみ上げだけが残った坊主姿。それはもう、何週と一刀の周りをうろつこうとも変えられない事実だった。僅かに主張するモミアゲの毛が、静寂間を醸し出している。「ううん……」「あうっ!」「はわっ!」「あわっ!」小さく呻いた一刀の声に、三人とも同じように身体を震わせた。そもそも、椅子に座っての睡眠だ、眠りは浅くなるだろう。これだけ騒いでいて、今まで起きなかった方が不思議なくらいである。(―――朱里殿!)(ねねちゃん!)眼と目で通じ合い、朱里が持っていた鋏を雛里に手渡した。一拍遅れて、雛里は気がつく。「え、あ、二人共逃げるつもり―――」「では、失礼するのです、雛里殿」「雛里ちゃん、頑張ってっ」軍師であるのに、素晴らしい身体能力を見せて音々音と朱里は部屋の外まで戦略的撤退を行う。その鮮やかさといったらどうだ。雛里が二の句を告げる間もなく、まるで決壊した河川の如く立ち去ってしまった。周囲を慌てふためいて見回し、手に鋏を持ったままどうすれば良いのか迷った雛里は眼を覚ました一刀と再び視線が絡んだ。「ふあぁ、あー……寝たなぁ……」「あわわわわ」「終わったかな、雛里?」「あわわわわあわわわわ」寝る前と同様に、慌てふためく雛里を前にして流石の一刀も様子がおかしいことに気がつく。というか、何か目尻が潤んでいるような気がしないでもない。何をそんなに焦っているのだろうかと雛里を見ながら思いつつ、やたらと涼しい気がする頭部に手を当てた。なにか、細かな筆の上を撫でているような感触。二度、そして三度自らの頭部を撫で回した一刀は、理解にいたる。「な、なんじゃこりゃあああああ!」「ふ、ふわあぁぁぁぁん」「あ、ま、なんじゃこりゃあ、ハハハ、最高に涼しいし、後はその、涼しいぜいやっほー!」即座に言い直し、なんとか取り繕う一刀。切ってくれることを受け入れたのも自分だし、切ってもらって文句を言うのもアレだ。しかし、流石に坊主になっているとは思わなかった。ツルッパゲで無い事をむしろ、喜ぶべきだろうか。何故か盛大に声を上げて首をふりつつ涙を零す雛里を、気にしていないと必死に窘め始めた。「でも、でも、なんじゃこりゃあって言いましたっ……」「いや、あまりに最高すぎてつい思いの丈をぶちまけたというか」「いやっほーが棒読みでした……」「それはね、天界の流儀なんだ。 喜びを棒読みにすることで、自分を戒める自戒の抱負なんだよ」自分でも何を口走ってるのか分からないが、とにかく必死に慰めた事が巧を奏したか。ようやく落ち着きを取り戻した雛里から経緯を説明され、一刀は笑顔で許した。そもそも、坊主頭になるのは久しぶりと言えども初めてという訳ではない。中学時代、もしくはもっと子供の頃に坊主になったことは何度もある。それは家で剣術、学校で剣道を習っていたことも関係していたが、長いよりは短いほうが随分マシだ。ただ、不自然に残ったモミアゲだけは切ることにしたが。何度も謝る雛里に苦笑しつつ、一刀はようやく髪を切る目的を果たして自室へと戻ってきた。都合5時間に渡る、長丁場であった。執務机に座り、来る時よりも溜まっている書簡の塊を見やりながら一人ごちる。「……鋏、買っておくかな」―――翌日。一刀は起きて着替えを行っていると、机の上に乗ったままの鋏に気がつく。昨日、髪を切り終わって戻ってくる時に、そのまま持ってきて返すのを忘れてしまった物だった。これは確か、雛里の物だった筈である。着替えを終えて、一刀は鋏を持つと音々音の部屋に向かった。余り急に現れると驚くだろうし、何より三人とも小柄な体躯とはいえ立派な女性。一刀はノックをしてから声をかける。「ねね、起きてる?」「……あ、かずとどのー?」やたらと間を空けて、眠そうな声が返って来た。寝起きなのだろうかと思いつつ、許可を得て中に入ると軍盤を囲んで寄り添うように眠る朱里と雛里。相対するように眠たい眼をこちらへ向けてくる音々音。もしかしてとは思うが、まさか貫徹して差し合っていたのだろうか。夜になっても、駒を差しあう音は聞こえてきたので、熱心にやっているなとは思っていたが。「眠そうだね、ずっと起きてたの?」「かずとどの、盤上を見てくだされ」「うん?」言われて一刀は覗き込んだ。音々音の持つ黒い駒が、白い駒を大きく削り取って王将を倒していた。これは、音々音が勝利したということなのだろう。「一刀殿の軍師は、ねねなのです。 強敵でしたが、二人に勝ったのです!」言いながら一刀に向けて笑顔でVサイン。突っ伏すように眠っている朱里と雛里を一瞥して、一刀は音々音を褒めた。実際のところ、音々音が拾った勝利は最後の一局だけであった。眠気による思考能力の低下と長時間渡る軍将棋の疲れ、言わば朱里と雛里は音々音に根負けしたのである。この長時間に渡る思考能力は、音々音の武器でもあるだろう。黄巾党との戦の時にも、徹夜で戦い、思考を途切れさせずに戦い抜いた。そんな経験が、此度の勝利に結びついたに違いない。勿論、そんなことは知らない一刀ではあったが。「ねね、頑張ったね」「ふぁぁ、一刀殿ー」ふらふらと覚束ない足取りで、一刀の胸へと滑り込むように飛び込んでくる。そんな音々音を支える為に、一刀は腰を降ろして受け止めた。徹夜で一日中、軍略を考えていればこうなっても仕方が無い。今日は無理させずに、このまま眠らせてあげようと一刀が思っていると音々音の顔が突然視界に広がって、唇に柔らかい物が押し付けられた。「ねねへのご褒美はこれでいいのです―――」呆気にとられた一刀に笑顔で言うと同時に、くず折れる様にして支える両腕に体重がかかる。慌てて受け止めて、一刀は音々音の顔を覗きこんだ。幸せそうに眠っている。暫く茫洋と音々音の寝顔を見ていた一刀だが、やがてクスリと笑った。「どっちのご褒美なんだか」なんだか、途端にやる気が出てきた一刀である。今日は音々音の分まで余裕で働けそうだ。雛里と朱里、そして音々音をしっかりと布団に移してから一刀は明かりを消して部屋を出た。「……よし、やるかー!」一つ声を上げて、一刀は揚々と自室に向かった。 ■ 西園八校尉「おのれ……曹操め」日が昇り、今日も暑い気温まで上がる予感をさせる日照り具合を眺めつつ一人の男が、暗い室内をうろうろと落ち着かない様子で歩いていた。名を蹇碩という。帝から貰った大切な銅雀を撫で回しながら、彼は何とか気を落ち着けようと荒い息を吐き出していた。彼が怒っているのは、陳留から流れた一つの噂が原因だった。彼の叔父が、禁令を破った罪で拿捕された上に処刑されたのだ。この話を聞いた蹇碩は、曹操の元に一人で乗り込もうとしたくらいに興奮していた。周りに居る者が止めなければ、今頃は曹操相手に、この胸中渦巻く怒りの感情をぶつけていただろう。この一事に、多くの者は蹇碩の事を親族を想い、激情に駆られてると断じた。しかし、実際のところの彼の怒りは、もっと別のところにあった。叔父が死んだのは、確かに驚くべきことで怒りの感情も沸く。事実確認の為に情報を纏めるところによると、悪いのは禁令がある事を知って強行した叔父の方である。勿論、殺すことは無かったのではないかという感情はあるが親族とはいえ、付き合いは深くない。死んでしまったのならば、それは仕方が無いと割り切れた。しかし、それよりも何よりも、どうしてただの諸侯の一人が、断りもなく十常侍である自分を無視して叔父の処刑を断行したのかの方が、蹇碩にとって重要であった。そして、一つ心当たりがある。何進から聞いた話だが、天代は諸侯を集めて調教先生などと戯けた役職を自ら名乗って、教鞭をとったのだそうだ。それも、一度や二度ではない。既に2~3日に一度、顔ぶれは違えど定期的に行っているらしい。それを考えると、おぼろげに裏が見えてくる。一諸侯に過ぎない曹操が処刑の決断を下したのは、天代という背骨があるからであり十常侍の存在を軽んじたのではないか。現状の権力図を考えれば、十常侍の上に天代が在り、そして帝が居る。北郷一刀の権力は確かに、現時点では十常侍を越えた所に存在しているのだ。「もし多くの者がそうだと認識するならば、由々しき事態であるぞ」一つ吐き出し、ようやく頭に上った血も冷めてきたのを自覚する。十常侍の中であっても、蹇碩の地位は高い。その理由に、軍を統率し反乱を鎮圧したことがあり、武功を挙げていること。宦官の中でも燃やされやすい性格でも、独自の築き上げた勢力の中に蹇碩を仰ぐ者が多い事。何より、帝からの信頼は厚く、裏切った事が一度も無かったことから多くの寵愛を受けていることだ。そんな蹇碩は確かに、朝廷で何度も繰り返される政争の悉くを退けてきて、今の地位についた張譲。そして、帝に我が母とまで呼ばれた趙忠と肩を並べてもおかしくない人物であったのだ。蹇碩は、少なくとも彼らの事は腹を探りあう仲でありつつも認めてはいた。共に政を行い、漢王朝を支える者として不満は無かった。当然ながら、仲が良いという訳ではない。張譲には何度も煮え湯を飲まされているし、趙忠の事は性格的に反りが合わない。だが、何の苦労も無しに突然権力を握った男と比べれば、彼らの方が認めることが出来たのだ。「やはり、権力を握り続ける為には北郷一刀が邪魔だ。 なんとしてでも排除せねば……」そして蹇碩は、帝の為にも今の……いや、今以上に権力を握り続ける必要性があると考えていた。何故ならば、今までの政争の中で帝を護り続けたのは自分達なのだ。この国を動かしてきたのは自分達だという誇りもある。だが。今のところ一刀の立ち回りは上手く、蹇碩が見たところ隙は無い。帝からの信頼も厚く、一刀と楽しそうに話している帝の事を思うと、無碍に追い出す訳にも行かない。良くも悪くも、蹇碩は帝に対しては大きな忠誠心を持っていた。「蹇碩よ、おるか」「む、開いている。 なんだ」扉を開き、入ってきたのは珍しい事に張譲であった。自室に訪れることなど、年に一度あるか無いかという事であるのに珍しいことも在る物だ。まぁ、張譲が訪れた理由は大体想像がついている。大方―――「うむ、落ち着いておるな」「周りの者にせっつかれ覗きに来たか? 相変わらずだな、張譲」「為ん方無い。 立場という物がある」「ふん……しかし、分かっているだろう。 曹操のした事は王朝の根本を揺るがしかねん」「まさしく」互いに気難しい顔をして視線を交わす。どちらも十常侍であり、この地位を得るまでに多くの出来事の渦中に居た。曹操の十常侍を軽んじる態度は、放ってはおけない事だった。その点においては間違いなく、蹇碩も張譲も同じ意見であったのである。「ところで蹇碩よ、西の方の騒ぎに心当たりはあるか」「うん? いや、特に無いが」突然、話題が変わった事に話から逃げたのかとも勘ぐった蹇碩だがそれはおくびにも出さずに話をあわせ、首を捻った。西といえば、涼州の方で俄かに軍備を整える動きがあると聞いたが、異民族との間での事だろうと思っていたのだ。この蹇碩の自然な振る舞いを見て、張譲は一つ首を縦に振る。「そうか」「何かあったのか」「軍備を進めている不穏な動きを見せているらしい。 かの地はどうもきな臭い……ここ数年は特にな」 「うむ、黄巾党の動向を見て様子を窺っている可能性はある」「黄巾党か。 あれも上党の方で血気盛んであるな」「ああ……いや」そこまで話して、蹇碩は突然かぶりを振った。こうした話をするのは一向に構わないが、何も自分の部屋ですることもなかろう。その様子を見て察したのか、張譲は一つ頷いて部屋の出口へと向かった。そのままの流れで、二人は連れあって歩き始め、何処とも無しに宮内を歩き始める。「蹇碩」「なんだ」「天代は諸侯との繋がりを深めつつあるようだ」「ああ、その事か。 講義を開いて聞かせているらしいな」蹇碩もその事は知っていたので、素直に同意を返す。例の一刀が教鞭を取った件は、中々に話題になっていた。ただ、張譲が次に発した言葉は初耳であった。「西園八校尉、諸侯が選ばれれば劉協様の居られる離宮に、諸侯が入られることにもなるだろう」「なんだとっ!?」顔を顰めて、ついつい声を荒げる。劉協を隔離している離宮にわざわざ住んでいると思えば、まさかこのような裏があったとは。なるほど、考えてみればあの場所は良い隠れ蓑だ。権力を得た今では、劉協に仰ぐ必要も無いということだろう。「好き放題にやりおって。 どうして動かぬのだ張譲」「動かぬとは?」「分かっているだろう。 忌々しい天代のことだ」「ああ、天代のことならば動く必要が無い。 それだけだ」「……なに?」それまで歩調を合わせて歩いていた宮内の廊下。蹇碩は立ち止まり、険のある声を含んだ物を張譲にぶつけた。今まで、張譲は天代に対しては特に大きな動きは見せていない。むしろ、国政の話だろうと、プライベートの話だろうと普通に交わしている。傍から見れば、仲が良いと言っても過言ではない。蹇碩は、天代に対して攻撃的な姿勢を見せている。勿論、そんな蹇碩を仰ぐ一派も同様に一刀への風当たりは厳しいものだ。そんな蹇碩を筆頭にした宦官達は、宦官を取りまとめる十常侍、その十常侍の長と言っても良い張譲に不満や不審を募らせ始めていた。当然、そんな不信感は蹇碩も持っている。「貴様、天代なる者を認めるというのか」まるで蹇碩の声に合わせるように周囲の音は消えて、銅雀を撫でる音が響いた。そこでようやく張譲も立ち止まり、振り向く。「なぁ蹇碩。 天の知識を聞いたことはあるか」「マジパネェよしか知らん、貴様は何度か天代から教鞭を受けたらしいな」「ああ、その時は工芸品を見せてもらった、ひゃくえんだまと言うものだ」「彫り物か?」蹇碩の声に、張譲は頷く。思い出すように顎に手を当てて、やにわに笑みを作った。張譲は最近、趣味として彫り物に凝り始めている。一刀から見せて貰った百円玉に施された彫刻を見て、感嘆の声を漏らしたのは記憶に遠くない。「うむ、彫り物も勿論そうだが、天の知識も良いぞ。 漢王朝にとって有益だろう物も散見される」「……そんなことはどうでも良い。 貴様は俺の質問に何も答えていないぞ」「何を言うか、最初からちゃんと答えているではないか」 静かに笑みを浮かべ、諭すようにそう言った張譲の目は鋭かった。最初の答え。つまり、動く必要が無いと言っている。受け取り方によっては、天代の存在を認めているとも取れた。蹇碩にとって、その答えは在り得ぬ物だ。もしや、この目の前の十常侍筆頭に挙げられる男は、天の御使いなどという戯けた話を受け入れるというのか。そうだとすれば。「相容れぬぞ、それは」「そうか」是も非も無い。この話に関して張譲の答えが変わる事はありえないと蹇碩は理解した。自分がどう動こうとも構わない傍観の姿勢とも取れる。蹇碩は、そう捉えて張譲を抜き去るように早足ですれ違った。硬い表情を貼り付けて、通路の奥へと消える。足音が完全に聞こえなくなるまで、張譲はそのままの姿勢で眉一つ動かさずに微動だにしなかった。そして、蹇碩の消えた通路の奥を見やり、言った。「……長い付き合いだったな、蹇碩」ころりと一つ、張譲の掌の上で宝玉が転がった。―――自分の部屋の椅子の上で天井を見上げ、起用にその椅子を回してクルクル回っていた。その理由は、帝から西園八校尉なるものを設立したいとの旨を頂いたからである。元々は宦官の草案から話が出たようである。そこから大将軍である何進を経て帝に上奏され、これを受け入れた。そして、相談役のような物をしている一刀にお鉢が回ってきたのである。実はこれは、結構頭を悩ます物の一つだった。史実でも設立された西園三軍。その校尉に選ばれた人物を、一刀は全然覚えていないのである。おぼろげに、なんとなくそんな物があったような気がするなー位にしか知らなかった物だ。ついでに宦官からということで、慎重になってしまう一刀であった。付き合い始めてから分かったが、宦官と一括りに言っても、色んな人が居る。中には一刀が好ましく思う人物も、ちらほらと見えるのだ。勿論、色々と調べると賄賂を受け取ってる者は多いし、どこか人を疑わせる雰囲気も持っている。国政に携わっている人間が汚職を繰り返す事は間違いなく悪い事だ。それは一刀も分かっているが、実際問題、しっかり取り締まる事は難しい。何故ならば、長きに渡って繰り返された悪い事を、悪い事だと分からない者が多いからだ。そうなれば、大きく取り締まる事は反発を招く。改革に反発は付き物とはいえ、現状は大きく動く事は出来ない。下手すれば、混乱を招いたとして自分の立場が危うくなるだろうことは想像に難くない。少々話が逸れたが、結局のところこの西園八校尉なるものは『うん、これは慎重になるべきだね』『軍権の話だからね』『うん』「軍権かぁ……」そういうことだ。洛陽郊外での戦のことも考慮されているのだろう。何進からの話、そしてその書状に書かれている事を纏めるとこうなる。一刀が天使将軍という役職を貰い、帝の身辺或いは軍の統率を行う権限を得るということになる。帝にも、無上将軍という肩書きが付くことになるらしいが、実際に軍として動く時に指揮を奮うのは一刀になるだろう。そして、大将軍である何進、そして宦官でも壮健で知られ帝の信頼が厚い蹇碩。諸侯の中でも権威ある袁紹が一刀の下で組み込まれる事が決定されている。これは何進が上奏した際に帝の方針も加わって出来上がったそうだ。一刀が悩んでいるのは、西園八校尉に誰を選ぶかで悩んでいた。信頼できるのは、間違いなく洛陽郊外で協力して黄巾党を打ち破った面子だ。ただ、余りに一刀の好きな様に任命してしまえば角が立つかもしれない。何よりも気になるのは。『なぁ、この天使将軍ってさ……』『天の御使いからだろうね』『これ何とか変えられないかな』『『『無理だろうなぁ……』』』「それはもう忘れる事にしたから」都合の悪いところはしっかり忘れる特技を、本体は身に着けつつあるようだった。実際、この話を聞いた時に一刀は断ろうとした。それは勿論、軍権を得ることで様々なヤッカミがあることも含まれていたが何よりも警戒しているのは、宦官達に嵌められているのでは無いかという懸念であった。特に、ここ最近では蹇碩を筆頭にして五月蝿い。それは恐らく、例の講義の話からだろう。この西園八校尉に選ばれた人物は、一刀の住む離宮へスムーズな連絡を取るために立ち入ることを許される権限を持つことになるのだ。劉協と、諸侯のパイプを繋げる為には思いもつかず転がり込んできた妙手でもある。机の上で頭を捻っていた一刀であったが、段々と今日の夕食はなんだろうかとかそういえばオーダーメイドで発注した服は何時ごろ受け取れるのかとか真面目な話から益体も無い話にシフトし始めた時に、とたとたと床を叩く音が聞こえてくる。「一刀殿~!」「ねね、どうしたの?」「今度の休日の予定、空きましたぞっ!」「え、本当? じゃあ一緒に行けるね」「行けますぞ」二人が話していたのは、何時かの“金の二重奏”を一緒に食べる約束の事だ。一刀がやたらと忙しかった為に、今まで頭の片隅にはお互い残っていたものの休日が合わなかったり、予定が食い違ったりしてしまって食べに行くことが出来なかった。本当は華佗とも約束していたのだが、彼は残念ながら既に漢中へと旅立ってしまった。「今回は華佗殿が支払うはずでしたのに、上手く逃げたのです」「そう言うなって。 みんなは?」「手の空いてる朱里殿と雛里殿が、桃香殿と劉協様に勉強を教えていますぞ。 恋殿は、屋上で寝てるのです」「ふーん、捗ってる?」「今日はねねは別行動だったので、良く分からないのです」言いつつ、音々音は一刀の隣まで歩いてきて、竹簡を一つ手に取る。最近は音々音の方も若干余裕が出てきたのか。こうして一刀の政務を誰に言われるでもなく手伝い始めているのだ。一時期に比べれば、一刀が処理している問題も随分と少なくなったように思える。まぁ、諸侯との講義の時間などが加わったので、トントンであると言えばそうなのだが。それはともかく、次の一刀の休みは久しぶりに音々音と一緒に洛陽の街に出ることになる。ここ最近はずっと宮内で過ごしていたので、良い気分転換にもなるだろう。同じようにずっと宮内に居る、桃香や恋を誘うのも良いかもしれない。「せっかく街に出るんだから、皆も一緒に誘おうか?」「え?」「え?」「う、その、みんなも?」「あ……駄目かな?」「あ、いや、別に……」それきり、妙な沈黙が室内に走った。何か、今までに経験した事の無い不思議な重圧を感じる。ついでに、明らかに目に見えてテンションが落ちた音々音の様子に一刀はうろたえた。なんとか形成された空気を打破しようと、口を開いて。「……あ、じゃあねねとだけ―――」「構わないのですぞ、みんなにも話を通しておくのです」途中で遮られた。「あ、ねね―――」「朱里殿と雛里殿には、留守番していて貰う事になるでしょうけど仕方ないのです」一刀が言葉を繰り出すたびに遮られ、そのまま踵を返して音々音は立ち去っていく。声をかけた時に挙げた手は、宙を泳いで行き場所を失った。音々音が開いた竹簡はそのまま、途中まで書かれて止まっていた。不自然な体勢で固まった一刀は、扉が閉められた場所を見つめることしか出来なかった。自分の考えが足りなかったといえば、そうかもしれない。あのテンションの下がり具合を鑑みるに、きっと二人だけで行きたかったのだろう。それは途中で、一刀も気付いたが時既に遅しである。溜息を吐き出して、一刀は椅子に座ると再び天井を仰ぐことになった。「ああ、もぅ……失敗した……」『本体、ほら手が止まってる』『こういう時は仕事に打ち込むことが落ち込まないコツだよ』「さようで……」脳内の助言を受けて、一刀は一心不乱に仕事に打ち込んだ。おかげさまで、件の西園八校尉に関する案件も処理が終わった。ぶっちゃけ選ばれた人物なんて覚えていないし音々音の事もあるしで、半ばヤケクソ気味に決定したのだが。途中、脳内からこの際軍権をしっかり握ってしまうのはどうかという案に議論が巻き起こったが翌日、無事に西園八校尉の書状は無事に出来上がった。―――西園八校尉。一応、軍の設立ということで正式な手続きを踏む必要があるので、上奏するという形になる。本来、上奏には多くの時間がかけられて、すぐさま行われる事は無いのだが一刀は別であった。何進へ打診したところ、その日の昼には行われることになったのだ。正装、それもしっかりと長袖を着込んでから一刀は書を持って昼ごろに離宮を離れた。帝である劉宏とはほとんど毎日、顔を突き合わせていたが、こうして仰々しく帝の前に出るのは初めてである。色々と順序があべこべなんじゃないかとも思うが、それはまぁ規格外を地で行っている一刀である。今更だった。上奏の場では、多くの者が一様に集まっていた。その中央の道を、一刀は書状を持って歩いていた。官僚も、宦官も、時の権力者が一同に集まって一刀へと視線を突き刺す。どこまで歩いて近づけば良いのか分からず、そのまま壇上に上がりかけた一刀は慌てて蕎麦の兵士に止められて周囲に嘲笑のような、普通の笑いのような、微妙な声が響いた。無くなった頭髪のせいでは無いと思いたい一刀である。そんな中、帝の元までたどり着いて、ようやく一刀は頭を垂れた。「では一刀よ、申してみよ」「は」劉宏の声に短く答え、一刀は書状を広げた。一つ間を置いてから読み上げる。無上将軍、劉宏帝。天使将軍、北郷一刀。天使将軍の直轄に蹇碩、何進、そして袁紹が続く。その下には洛陽郊外の戦から功のあった曹操、孫堅、そして董卓や袁術など、順に名が記載されている。淳于瓊などの、一刀が覚えの在る名前も地味に名を連ねていた。殆どが洛陽郊外での戦で活躍した者達が挙げられている。一刀個人との関係も、諸侯の中では一際太い者達でもあった。読み上げが終わり、一刀は劉宏へと視線を向けた。視線を向けられた劉宏は、何度か頷くと言った。「うむ、全て一刀の言う通りにしよう……任せたぞ」「御意」これが実際に動き始めるのは、諸侯へと正式な任命を終えてからになるだろう。一刀は来た時と同じように頭を下げると、そのまま道を戻って立ち去った。―――「くそったれがっ!」上奏の場から離れると、開口一番に蹇碩の口から罵声が飛び出した。蹴り上げた雑草が、空中に舞ってやがて落ちる。ついに北郷一刀は、軍権までも手に入れた。上奏の場でその事を声高に指摘したかったが、帝の口ぶりから一刀への信頼が見えてあの場で遮れば気分を悪くしたに違いなかった。完全に、一刀へ全幅の信頼を寄せているのだ。選ばれた校尉の名を見れば、軍を天代のその手に治める意図が丸見えだというのにそれを黙って見守ることしか出来ない自分にも腹が立つ。曹操が叔父を処断したと聞いた時よりも、蹇碩の腸は煮えくり返って燃えそうであった。そんな近づき難い雰囲気を周囲に振りまく蹇碩に、物怖じ一つせずに近づく人形を抱えた宦官が一人。「蹇碩さん」「……趙忠」「ねぇ、譲爺の話聞いた?」「知らん、何かあったのか」コクリと頷く趙忠。普段からは見えない、真面目な顔をして人形をぶら下げている。どうやら余程の話であるようだ。「何があった」「共に漢王朝を支えましょう。 何進の叔父さんと天代と三人の話の間で、聞こえてきたんだよね」「張譲がか、やつめ劉宏様を見限ったか?」「許されないよね、殺しちゃおうよ、あんな老いぼれ」「……」まるで明日の天気を話すかのように、趙忠は蹇碩へと共謀の誘いをしている。蹇碩はそんな趙忠に眼を細めた。彼の知る限り、趙忠は張譲と仲が良い。それも当然の話だろう、趙忠を拾ったのは殺そうと言った張譲なのだから。まだ右も左も分からぬ子供であった頃に一物を抜かれ、10に満たない歳で宦官へと上がった。全て張譲が手配したもので、この宮内の中でも筋金入りの宦官の一人ということになるだろう。いわば、張譲とは名を呼び捨てに出来るほどの仲であり、親子と言っても過言では無いかもしれない。「それよりも、天代を排除した方が話は早い」「そう? じゃあ僕も手伝うよ。 譲爺はその後だね」「そうだな……長い付き合いだったな、張譲」その趙忠にこう言われるとは、道を誤ったとしか思えない。若い頃から時に激突し、時に協力しあった張譲を思うと、選んだ道がすれ違う定めであったことに自然と納得がいく。結局、最後の最後ですれ違う運命であったようだ。窓から見える景色を眺め言って、蹇碩はそのまま趙忠を見ずに立ち去った。残された趙忠も、同じように肩を一つ竦めると歩き出す。西園八校尉は、ここに設立されることが決定した日であった。 ■ まっかっかかっ朝。残念ながら、今日は曇りであった。そんな少し暗い日の光の中、桃香は一人離宮の傍で靖王伝家を振るっていた。ここ最近、勉強漬けの毎日であり身体が鈍ってしまっていたので早くも吐き出す息は荒い。それでもこうして剣を振るうのは気持ちが良かった。なんせ、桃香の一日は勉強に始まって勉強に終わる。見てくれる人が音々音だけだった頃ならばとにかく、今では朱里と雛里まで居るのだから溜まらない。習う勉強も、日に日に難易度は増していくし量も増えている。しかし、明日は別だ。明日はみんなで食事をしに、街まで繰り出す事になっている。一刀の休みに合わせて、雛里と朱里、劉協を除く全員でのお食事会だ。「楽しみだなぁー、っていっ!」靖王伝家が重い音と共に空気を切り裂く。一応、闇雲に降っているわけではなく不恰好ながらも型に反った物では合った。桃香は確かに、武の才は乏しいものの全く無いという訳ではない。これでも幽州で邑の中心となって賊と戦って剣を振るったのである。勿論、一騎打ちのようなことはしなかったし、桃香自身も人の命を奪った事は無いが賊の槍から逃れるために打ち合ったことは何度かあった。怖かったが。「せいっ! やぁっ!」一つ振る度に、気の入った声が響く。まだ早朝も早い時間なので、誰に聞かれることも無い。そろそろ切り上げようかと桃香が思った時に、離宮から一刀と恋が連れ立って出てきた。「あ、桃香……」「え? あ、本当だ。 おはよう」「おはようございます、一刀様、恋ちゃん」「何処に行っちゃったのかってずっと思ってたんだ。 朝食、取り置いてあるからね」「あ、もうそんな時間だったんですね」「おいしかった……」「宮内の料理はおいしいし、量も多いです」どうやら一刀は恋と共に何進と皇甫嵩の元に赴くらしい。軍事的な話になるのだろう。やがて話の内容は、桃香の今しがた行っていた事について変わっていった。「そう、うーん……じゃあさ、今日の昼過ぎに一緒に稽古しようか」「え、本当ですか?」「うん、俺もちょっと最近は椅子に座ることばっかりだったから」「わぁー、一刀様に武の方も鍛えてもらえるなんて、嬉しいです」『本体、丁度良いし本体が相手すれば?』『ああ、そうだよ。 俺達の反動あっても動けるように鍛えなよ』『いいね』『傷が開かないように気をつけろよ』『あ、左腕使えないのか』『さり気無く補佐してやる』(忘れてたけど、そうだね……体力つけないとな)一刀と桃香は、そのままの流れで昼過ぎに練兵場で落ち合う事を約束した。きっと、一刀にとっても桃香にとっても、有益な時間になることだろう。「ん……恋も付き合う」「え"?」「へ?」「ん!」ぐっと力瘤を作る恋。確かに、武に関して呂布を越える者はそうは居ないだろう。一人で黄巾党3万を追っ払った飛将である。きっと一緒に学べば、多くのものを得られるはずだ。訓練で死ななければ。「……恋、手加減できる?」「がんばる」「いや、頑張るというか、出来ないと死ねるかもしれないんだけど」「うんうん、恋ちゃんの攻撃受けたら死んじゃうよ~」「……」一刀と桃香の声に一つ唸って、恋は自分の手をじっと見やった。開いたり閉じたりして、後にこくりと一つ頷く。「大丈夫、なんとか」「……うん、じゃあ恋も一緒にやろうか」「一刀様……」「恋を信じよう」若干の不安を残しつつ、一刀はそう言って桃香と別れた。雑巾を引き千切った膂力を見ていたこともあり、本当に手加減できるのかどうか分からないが恋は優しい。きっと、こちらのレベルに合わせてくれることだろう。あわせられなかったら、きっとそれは一刀や桃香のレベルが低すぎるだけなのだ。「ほんと、すごいよな恋は」「? ……すごい?」「ああ、すごい」「褒められた」口元が緩み、僅かに照れて笑う恋に一刀は微笑ましく見守った。誰よりも強いのに、こうして話していると可愛らしい少女だ。丁原が一刀へと後事を託したのも、きっとこの少女の性格故に心配だったからだろう。劉協と、恋と。この洛陽で積み重ねている日々の中で、失いたくない物がどんどん増えていく。その為にも、一刀は頑張らなければならない。史実で漢王朝が滅んでいることを知っているのだ。宦官の中でも筆頭に上げられる張譲は、共に漢王朝を盛り立てて行くことを約束してくれた。口約束を何処まで信じられるかと脳内は言うけれど、約束した時に見えた笑顔を思い出すと嘘を言ってるようには思えない。曹操の祖父である曹騰とも、ついにと言うべきだろうか……先ごろ出会うことが出来た一刀である。曹操から色々と話を聞いていたのだろう。人の良い笑顔を見せて、話し合った印象はとても良い。張譲の事が話題になると、気を許さないほうが良いだろうと脳内と同じ意見をくれたが。「……皆が仲良くできるのには、どうすればいいのかな」「一刀?」「ああ、いや……恋、丁原さんの墓参り、今度行こうな」「……原爺のお墓、早く行きたい」「うん、そろそろ俺の方も落ち着いてきたし、近い内に一緒に行こう」「月も、一緒」「ああ、董卓さんも一緒に」そんな会話をしているうちに、一刀は皇甫嵩と出会った。恋の役目は、一刀の護衛である。しばし一刀と皇甫嵩の会話に耳を傾けていたが、あまり面白そうな内容でもないので恋は一人、中空に向かって手を降り始めた。早い。常人では全く手元を見ることが出来ない。話が一段落した一刀は、そんな彼女の不思議な様子に気がついた。「何してるの?」「……手加減の……練習」「……頑張って」「ん」―――練兵場に訪れた一刀は、周囲を見回して桃香がまだ来ていないことを知る。恋は、方天画戟を持ってきてしまったので、刃を潰した練習用の戟を持ってくるようにと言いつけてある。ただでさえ、恋と相対することは躊躇うというのに刃がキラリと光る、真剣を持って相対したら、呂布だぁー! とか言いながら逃げる自信が一刀にはあった。恐らく桃香も、同様の意見であろう。何故か予感ではなく、確信が得られる辺り、彼女の武の凄まじさが窺える。「ん、そこに居るのはもしや天代だろうか?」「おう、随分とサッパリして良い男になったではないか」声に気がついて振り返ると、それぞれの得物を担いで歩く二人の姿。孫堅と黄蓋であった。お互いに武器を携えていることから、恐らく練兵場で身体を動かしにきたのだろう。まぁ、それは良いのだけれど。「孫堅さん、腕は平気なのですか?」そう、彼女の腕は、先の黄巾との戦の折に千切れるのではないかと思うほどの怪我を負っていた。今は事情があって、一刀も腕の傷があるので余り人の事は言えないのだが。「うん? はっはっは、安心しろ、余り良くはないぞ」「え、駄目じゃないですか」「それでも身体が鈍ってしまうよりはな、動かない訳では無いし」「堅殿は言い出したら聞かぬしな。 己が平気だというのならば付き合ってやろうという事になった」「そうですか……」逆に彼女達からは何故ここに居るのかを問われた一刀は、隠す必要もないので素直に答えた。桃香と恋と身体を動かしに来た、と。この言葉に武人である二人は当然反応する。勿論、恋の名の方だ。「ほう、呂布!」「ふぅむ、機会があれば打ち合ってみたいのぅ」「祭、先に私にやらせてみないか」「けが人が何を言う。 わしが先に打ち合うわ」「けちんぼー」「誰がけちんぼじゃっ!」二人の様子を眺めていると、一刀は孫策と周瑜の二人を思い出す。孫家の将達は傍から見ていても、団結力というものが在りそうに見えるがこの二人の仲は特に良い。それこそ、先にあげた孫策と周瑜の関係に近い気がした。そういえば、脳内の“呉の”が言うに、孫堅と孫策は似ているという話を聞いたと言っていたが。「まぁ、そういうわけで呂布が来たら聞いておいてくれ」「良いですけど、孫堅さんは駄目です。 怪我してるんですから」「そうじゃそうじゃ」「何よ二人して、か弱い乙女を虐めて楽しいのか?」「乙女……?」「……俺は何も言わないことにします、言ったら怖いので」「ふっ、良い覚悟だ、二人共」なんとなく、三人連れ立って練兵場の中にくだらない話をしながら入っていく。一刀は一瞬、桃香や恋を待とうかとも考えたが、中で待っていても外で待っていても同じことだろうと結論付けならば孫堅と黄蓋の立会いを見るのも良いだろうと思ったのだ。ところが、中に入ると既に剣戟を交えている音が聞こえてくる。白熱しているのか、裂帛の気合が篭った声が飛びかい、そして甲高い音が響いた。「この声は……夏候惇と華雄かな?」「ふむ、あの二人も飽きないのぅ」「夏候惇さんと、華雄さんは良く仕合っているんですか?」「うむ、よく見るな」黄蓋の声に、一刀は自然音の鳴るほうへと首を向ける。華雄の戦斧と、夏候惇の大剣がかち合い火花を散らした。「くっ! 相変わらずやるな、夏候元譲!」「ふっ、この程度で感心されては困るな、華雄! ハァァァァ!」「減らず口を! オォォォォォ!」互いに勝負に出たのか。一際大きな声が上がると共に、今までの甲高い音から一際鈍い音が練兵場に響いて華雄の戦斧が空へと飛んだ。どうやら軍配は、夏候惇にあがったらしい。「はーっはっはっはっは! 力比べは私の勝ちだな!」「ちっ! 今のは少し油断しただけだからな、本当だぞ」「なに、私など実は半分以上の力しか出していなかったんだぞ」「馬鹿め、私なんか小指を一本外して奮っておったわ」「いや、間違えた。 半分以下しか出していなかった」「私も、実は打ち合う瞬間しか力をこめてなかった」「嘘だな、華雄」「嘘じゃないし、本当だし」なんだか低レベルな言い争いが始まっていた。そんな二人の会話は良くあることなのか。孫堅と黄蓋の二人は、共に準備体操や柔軟体操を始めていた。ぐっっと身体が沈みこみ、零れ落ちるのではないかという程に胸が揺れる。一刀は視線を孫堅と黄蓋から僅かに外して、しかし、チラリと横目で見ながら何食わぬ顔で見届けていた。とりあえず、自分も身体を解しておこうかと首を回したり肩を回したりしてみた。ぶっちゃけ、落ち着かなかったのである。屈伸を行ってしゃがみ込んだときに、ふいに影が落ちて見上げた。褐色の肌に、大きな胸と笑顔が飛び込んでくる。「おう、天代様。 柔軟に付き合ってくれるか」「え、俺?」「他に誰がおるのだ」「……いいですけど、孫堅さんは?」「堅殿は怪我しておるからな」そういうことなら、と一刀は納得して髪を掻き揚げて屈んだ黄蓋の背中に手を当てる。グッっと押し込むと、一刀の指に食い込む肌の柔らかさにも驚いたが、それよりも何よりも押した分だけ沈んでいく黄蓋の身体のしなやかさに驚いた。思わず感嘆して、手が止まる。「ん? どうした?」「あ、いや……凄い柔らかくてビックリして……」「……ふむ、助平じゃな」「違います! 凄いのは身体の方です!」「ほう、わしの身体が凄いと」「ちげーよ!」思い切り否定した一刀に、片眉が上がった。「いや、ちがくないけど違うのっ! 黄蓋さんの身体が凄いっていうのは、つまり―――」必死に言い繕った一刀に、黄蓋はしばし伏せていた顔を上げて大きく笑い声を上げた。からかわれた事に気がついた一刀は、勘弁してくれと言う様子で首を振る。どうしてこう、孫家の皆様はからかうのが上手いのだろうか。まぁ、その。身体に興味があるのはどっちの意味でも間違いではないと言えば間違いではないのだが。「あんまりからかうと、手伝いませんからね」「だから謝っておるではないか」「はぁ……じゃあ、もう少し押しますよ」「お主も動くのだろう? わしが手伝ってやる」振り向いて笑いかける黄蓋に、一刀はせっかくだし自分も柔軟体操をしておこうと思い股を広げて座り込む。彼女の手が、一刀の背に触れて「せぇーの」「じゃあお願いしまっただっだっだいだだだだだ、痛い、痛いよ黄蓋さんっ!」一気に押し込まれて、一刀は言葉尻が悲鳴に変わって行った。家でも、部活でも身体を動かす関係上、身体が硬い方ではなかったがそれでも180度曲げることなど出来ないし、ぐいぐいと押されれば痛い。一刀が間抜けな悲鳴を上げている最中、桃香と恋が途中で出会ったのか連れ立って練兵場に顔を出した。「おお! 呂布!」「……ん?」「何! 呂布だと!?」「ほう、あれは確かに呂布」孫堅の声をきっかけに、夏候惇と華雄も言い争いをやめて恋へと視線を向けた。向けられた当人は不思議そうにきょろきょろと見やっている。黄蓋の手も緩んで、ようやく地獄の痛みから解放された一刀は、涙目になりながら彼女の押し込みが再開されないように、さっと立ち上がった。股が痛い。「お待たせしました、一刀様」「……いでぇ……」「へ?」「いや、ううん。 準備できたら早く始めよう、桃香……」「はいっ!」逃げるように一刀が桃香と連れ立って歩いていくのを尻目に、黄蓋は肩を竦めた。先ほど、孫堅と共に身体を解していた最中、じっとり胸へと視線を感じていたのに気がついていたのだ。ちょっとした悪戯でこの件を許してあげようとも思ったのである。桃香と呼ばれた少女の胸も、これまたでかい。やはり、天代は胸が好きなようである。黄蓋は確信した。「さて……では、わしも呂布殿に一手願うとするか!」孫堅、そして夏候惇と華雄に相手を頼まれて恋は困った顔をした。一刀と桃香の練習に付き合うのが、今日の目的だ。確かに、大陸でも一なのではないかと噂される呂布の武を確かめたいのは武人の本能というべきものなのだろう。あの孫堅でさえも、一手願っているのだから間違いない。一刀は周囲の喧騒を眺めながらそんな事を思っていた。「さっき負けたのだから、ここは私に譲れ!」「断る! それにさっきのは負けた訳じゃないし、油断しただけだ!」「くうう! ああいえばこう言う!」「事実を言ってるまでよ!」「ならば、もう一度決着をつけるか!」「良いだろう! 勝ったほうが呂布と勝負だ!」夏候惇と華雄は、お互いに煽りあって自ら自滅していた。本人の許可を得た訳でもないのに、白熱して打ち合い始める。その間、困った視線を向けていた恋に、一刀は小さく苦笑して頷いた。孫堅へと向き直り、恋は小さく顎を引いて一手あわせることに承諾する。途端に笑顔が咲く孫堅。その肩を叩く黄蓋。あっちでもこっちでも言い争いが始まってしまった。「……すごい人気ですね、恋ちゃん」「まぁ、呂布だしねぇ……」至ってマイペースに体操を終えた桃香が、武器を持って降り始める。それに付き合うように、一刀も持ってきた訓練用の剣を振るった。「ふ、華雄……お前もなかなか骨のあるやつだ。 よし、私の真名を預けるぞ!」「ま、真名だとっ!?」「我が真名は春蘭! しっかりと覚えておけ! 華雄、貴様の真名は!」剣戟を交えながら、互いに口を開いている。その交えている剣も、躊躇や遠慮など一切無く、一般兵ならば何度吹き飛んでもおかしくない程だ。そもそも、動き自体が常人の外にあった。「ま、真名……ま、あ、ま」「なんだ! 聞こえぬぞ! はっきり喋れ!」「まっ、かっかかっ、かゆう!」「なるほど! 貴様はまっかっかかっ華雄という真名……なにぃ!?」「す、隙ありーーっ!!!」バコンと一際大きな殴打の音が鳴り響いて、驚き止った夏候惇の額へと華雄の柄が突き刺さった。盛大に吹き飛んで、一刀の真横、桃香の真後ろを滑って転がっていく。無事とは思えない速度で突っ込んできた夏候惇へと視線を向ける一刀と桃香。おでこに真っ赤な後を残し、それでもムクリと起き上がった夏候惇は驚いたように華雄へと視線を向ける。まったくもって無事である彼女は、身体が鉄で出来ているのでは無いかと疑う一刀達であった。それはともかく、夏候惇の衝撃は続いていた。「お、お前は……最初から、最初から真名を預けていたというのか!」「あ、その、うん、なんだ……えーっとまぁ、そうというか何というかだな……」「くっ! ならば早く言え! 私はずっとお前に真名を預けずに……くそっ!」何故か悪態をついて、己を悔やみ始める夏候惇。やたらと動揺して、落ち着かないまっかっかかっ華雄。距離を開けた向こうの方では、孫堅と黄蓋がガチのバトルを繰り広げ、それをボーっと見ている恋が見えた。「……一刀様、私……なんか最初から無かった自信が零になってきました」「大丈夫、俺も最初から自信なんて無いから。 俺達は俺達のペースでやろう」「あの、ペースって?」「ああ、進行の速度みたいな感じかな、そういう意味だよ」「へぇ……私達のぺーすで?」「そうそう、俺達のペースで」くすりと互いに笑みを交わして、一刀と桃香は剣を打ち合った。それは、周りのレベルから比べれば随分とお粗末な動きであり、子供の遊戯と笑われても否定できなかったかも知れない。それでも、打ち込む剣は、弾く剣は真剣そのもの。互いに自分達のペースで、ゆっくりと武の道を歩いていく。一刀は脳内の声に指導されながら、桃香はそんな一刀に習いながら。周囲の喧騒を、BGMに二人は打ち合っていた。「堅殿! いい加減諦めなされ!」「聞けないわよ! 祭こそ歳なんだから止めておきなよ!」「堅殿が歳を言うかぁー!」「わわわっ、ちょっと本気で気を込めないでよっ! 床が抜けたじゃない!」「いーや、今のは本気の半分も出しとらんわ、怪我人に無茶など出来ぬし」「うそねー、本気も本気だったし」「分かった、じゃあ8分目くらいじゃ」「それもうそー!」「そうか、まっかっきゃ華雄、まっかかっゆ、ええい言いにくい! 華雄でいいか!」「う、うむ、そうだ、ああ、ああ! 華雄でいいぞ!」「おう、心得たぞ、華雄!」「はっはっは、そうか、心得たか! 良かった、本当……」結局、恋は誰とも戦うことなく、最終的には一刀と桃香と一緒に訓練をすることになった。一度、加減を間違えて桃香の修練剣を真っ二つにし、床をぶち抜き、地面すら割れて桃香が泣いてしまうという事件もあったが概ね予定通りの練習が出来たと言って良いだろう。帰り際、桃香が機会があればまたやろうと言っていたので、概ね満足してもらえたようだった。本格的な暑さを前に、雨季を迎え始めた洛陽の頃であった。 ■ 外史終了 ■