clear!! ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編4~clear!! ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編5~今回の種馬 ⇒ ☆☆☆~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編6~☆☆☆ ■ 未知のエリア歩きながら、渡された書簡に目を通しつつ話す。隣を歩くのは共に支えようと言ってくれた宦官の張譲である。殆ど毎朝の日課となっている帝との散歩の後、相談したい政があると言われて共に宮内を歩いていたのだ。何かと思った一刀だが、なんてことはない。以前、一刀が話の中で漏らした、街と宮内での清潔感の差に突っ込んだことであった。いちおう、正式な書類としてだしてもいた。街の人々に有償で働いてもらい、街のゴミを片付けてしまおうという物だ。先ごろ行われたようで、その報告が舞い込んできたのである。「へぇ、万を越える人が……」「最初は3000人の予定でしたが、周りの者の行為に触発されたようで」「最終的にはその数字になったと」「はい、ゴミを片付けるだけで飯の種にもありつけますからな」話を聞くに、仕事にあぶれて手に職を持たない人や普段の生活の中で働き口が少ない女子供がこぞって参加したようである。評判を聞くに、かなり好評であった。それはまぁ、そうだろう。自分達の住む町を綺麗にして、なおかつ金が入る。またやって欲しいという民の声は、まさしく素直な気持ちなのだろう。「それと、天代様が仰られた……ああ、これです」「これは?」竹簡をもう一つ受け取り、中身を覗く。「洛陽でも主要な大通りに、灯りを3倍設置いたしました」「ああ、街灯だね」そう、これも一刀が洛陽の街で運送しながら思っていた事の一つである。電気の無いこの世界では、とにかく夜中が暗い。夜の暗闇は、何が起こっても気付きにくいものだ。それが強盗であれ、空き巣であれ、レイプであれ……殺人であろうと。勿論、街を巡回している警邏隊は居るのだが、警邏の数にも限りはあるし暗くて見逃すこともあるだろう。町の隅々まで見回らせることも、中々に難しい。そんな訳で、夜でも明るくなればそうした犯罪は減るし、結果的には警邏隊のコストも落とせるのではないかと提案したところ実行に移してくれたようである。報告では、確かに犯罪の件数は減ったと書かれていたが……「しかし、馬鹿にならない金銭が飛んでいきます」「うん、確かに……蝋燭もただじゃあ無いしね……警邏の数は?」「当面、減らせないでしょう」「だよなぁ……うーん」今、効果が出ているのは従来の警邏隊の数に、街灯の設置があって初めて生まれている。これで人数のほうを減らしてしまうと、元に戻ってしまう可能性もある。それに、人を減らせばその分、雇用の問題だって生まれてくるのだ。人間は慣れる生き物だ。街灯がしっかりと設置されて明るい環境があっても犯罪が無くならない事は、一刀の世界で証明されている。一番望ましいのは、このままの状態を維持しつつ、コストをどれだけ下げられるか。「何処に行っても金は付きまとうか」「愚痴を言っても始まりませんが、確かにそうですな」不正を行った官僚達から押収した、民から搾り取った財を吐き出して、今の政策を実行しているがそれもいつまで持つか。何より、未だに賄賂が後を絶たないし、地方の税率は異常に高い。不正だって、見えないところだ。行われているのは想像に難くない。この辺の問題も早急に処理しなければならない。とは、脳内の自分達の談ではあるのだが、なかなか妙案は生まれそうも無い。今の体制のまま、漢王朝を盛り立てて行くのはやはり難しいとしか言えなかった。と、なれば話は王朝を支える者達の選別となるのだが、これは挿げ替えることで生まれる反発が怖い。黄巾の乱を抱える今の王朝で、新たな火種を生み出すことが得策と言えるのかどうか。暫く張譲と共に難しい話をして頭を捻っていると、一刀と張譲に声をかける者が居た。何進だった。「ここに居られましたか、一刀殿」「ああ、何進さん、何か?」「実は西園八校尉に関しての事なのだが、時間をよろしいか」一刀は張譲へと視線を向けると、彼は頷いた。一刀に預けていた竹簡を受け取って、何進が現れた方とは逆方向に向かい歩き始める。そんな張譲を何となく見送っていた一刀であったが、何進の声で視線を戻した。「どうやら……」「?」「どうやら、張譲殿も本気のようですな」「へぇ……どうして?」一刀が興味深そうに聞くと、何進は顔を綻ばして語った。宦官の中でも筆頭に上げられる張譲が、どういうことか他の宦官達からやにわに避けられ始めているという。中には、張譲を仰いで付き従っていた者ですら離反が始まっているらしい。そのあぶれた者の多くは、蹇碩の元へと舞い込んでいるそうだ。「一刀殿と仲が良いことに、我慢ならないのでしょう」「そう……苦労してそうだね、張譲さん」「しかし、張譲殿が天代である一刀殿と仲が良いという事実は、彼らにとって良い傾向だろう」ここ最近、何進の機嫌が良いのは、今の言葉に尽きた。十常侍筆頭と呼ばれるくらいだ。張譲は確かに、今の宦官たちにとって大きな影響力を持っている。そんな彼が、一刀の元についたと捉えられているということだ。それは、傍から見れば贈り物をしてきた高官達の思惑と大差ないのかもしれない。しかし張譲に関しては、それ以上の何かが宦官たちの間であるのだろう。「張譲殿と一刀殿の仲が良ければ、漢王朝も安泰です。 このまま仲良くしてやってくだされ」「……ええ、俺も仲が悪いよりは、良い方がいいですから」「うむ……さて、では本題と行きましょう」「分かった、ちょっと中に入って話そうか」近くにあった宮に入り込み、何進と設立されたばかりの軍においての役割を大まかに話し合っていると最近知り合ったばかりの曹騰が顔を出した。どうやら一刀を探していたらしい。目尻は垂れ、鷲鼻というのだろうか。やたら高い鼻をすんすんと鳴らし、薄い眉におでこが丸見えになるくらいまで後退している髪は金。過去、事故の為に口元が曲がってしまい戻らないという特徴的な口から、彼の用件は飛び出した。「おう、天代殿ここに居たか。 探してしまったぞ」「こんにちは、曹騰さん」「いや、なに、前に言った人らの予定が空いているということでな」「ああ、話がついたのですか」「違う違う、わしが話をつけたのよ」「あはは、それはお手数かけました」ニヤリと笑って不細工にウィンク。口が曲がっているせいなのか、片目ではなく両目でバチコーンと言った様子だ。ひょうきんなお爺さんという言葉が似合うだろうか。明るく笑う曹騰に釣られるように、一刀と何進も思わず笑顔になる。「おう、それでこれがそいつらの居る場所だよ」「あ、どうも……此処は街の中かな?」「うむ、竇武(とうぶ)と陳蕃(ちんはん)という漢たちでな。 党錮の禁により遠ざけられていた」一刀は頭を捻る。誰なのか全くと言って良いほど思い出せない。首を傾げ、唸り始めた一刀に、何進が説明してくれた。なんでも、党錮の禁というものは1度だけでなく2度行われているようで詳しい話は省くが、第二次とも言える党錮の禁が発令された時に反発したのが竇武と陳蕃だそうである。公式的にはこの二人は劉宏を帝の座から引きずり落とそうとしていると、濡れ衣を着せられて乱を起こそうとした大罪人となっている。事実は、汚職を繰り返す宦官を排除しようと決起しようとした清廉な人たちであったそうだ。どうして一刀が、曹騰に人を紹介してくれと頼んだかは、地方に眼を向ける人が欲しかったからだ。実際に、使うかどうかは別として、知り合いになっておくことは悪くない。これも脳内の皆からの意見を取り入れて、頼んでいたことであった。「そうですか、是非会いたいですね」「そうか、下話したら向こうも会いたいと言ってくれた。 時間の出来たときにでも気が向いたら行くと良い」「ええ、そうします」「しかし曹騰殿。 竇武殿や陳蕃殿が天代と会うことを知れば周囲は騒ぐでしょう?」「騒ぐなぁ……恐らく、帝にも話は通る可能性はある。 だがまぁ、すぐに如何こうと言う事にはならんと思うがなぁ……」言葉尻を濁した曹騰には、もちろん根拠があった。と、いうのも、この話が何処から漏れたのかは知らないが、竇武達と一刀が会うかも知れない事を張譲が知っていたのである。彼から、それは是非会わせるべきだと声を掛けられ、曹騰は張譲と互いに牽制しまくった。ファーストランナーに5回は牽制球を投げるくらいに。帝は、大罪人である竇武や陳蕃と一刀が会う事に良い顔はしないだろう。彼らが生きていることを知っている者も僅かではあるが、居るには居る。状況によって帝に話が通る可能性もありうるのだ。そうなれば、一刀の立場は不利に傾く。張譲の狙いが其処にあるとしても、正直この手は分かり易すぎた。こんな安直な手に、一刀を乗せるとは思えないのだ。それが裏をかいている可能性もあるが、言い始めたら切りがなくなってしまう。竇武と陳蕃へ会うかどうかは、ぶっちゃけたところ一刀の判断に任せることにした曹騰である。もちろん、一刀が二人に会ったとして、その後にまつわる張譲の動きには警戒すべきだとは考えていたし話しても居る。「そういうことならば、是非会った方が良いですな。 私も会った事は無いが、清廉さは宮内において響き渡った者だ」「ええ、早速今日行って見るつもりです」「そうか、行くのか……じゃあ頼んだ、気をつけてな」「え?」言うなり背を向けて、手を振りながら立ち去っていく。曹操の祖父だというのに、随分と性格が違うものだ。下らないことも言うし、時に下品だと思うことすら遠慮もせずに言ってくるのだ。嵐のように来て去っていった曹騰が残した言葉が嫌に頭残った一刀は、何進に向けて口を開いた。「気をつけるってどういうことだろう?」「ふむ……気に入られるように頑張れという事では」「そうなのかな……張譲さんのことかな?」「ふーむ……分かりませんが、しかし会うのは会うのでしょう?」「その、つもりだけどさ」若干不安になった一刀である。―――昼食を軽めに取った一刀。今日は兼ねてからの約束で、夕食は街で食べ歩く事になっているので余り食べなかった。おかげで腹の虫が抗議しているが、気合で無視する。先ほどの話から、先に竇武と陳蕃という人に会いに行こうと思い立った一刀は離宮を離れて街へ向かい始めた。街へと出る門に差し掛かった頃、珍しいところで段珪とすれ違う。「あ、段珪さん」「……ああ、一刀殿でしたか」「大丈夫ですか、顔が青いですけど」「情けないことに風邪を引いてしまいました」そう伝えるなり、喉が絡むのか咳き込む。胸に手を当てて青い顔をしている段珪は、本当に苦しそうであった。「今日はもう、お休みにしては」「……そうですな。 劉協様にお伝えしてから休ませて戴きます」「そうしてください。 その、色々忙しい思いをさせちゃってすみません」「気にしないでくだされ……」力ない様子でそう言って、口を押さえて咳き込む段珪は離宮の方へと向かって歩き始める。心配そうな顔を向けて見送った一刀だった。劉協の世話、桃香の問題集を作り、恋の動物の世話、無限に送られてくる贈り物に対処し離宮の食事の手配や家具雑貨の購入、加えて宦官達の相手もこなして簡単な政務も行う。ちなみに、今これだけ挙げた以外にも仕事があるそうだ。ここ最近の段珪は、誰がどう見てもオーバーワーク気味であったのだ。夜、部屋の明かりが無いのでしっかりと眠っていると思えば、部屋に居なかったことなどザラである。とはいえ、宦官を離宮へ補充することは出来ない。段珪には承知して貰っていることではあるが、朱里と雛里の眼が存在することを知られてはまずい。彼一人では持たないし、何とかしなければならないだろう。出来る限り、段珪の負担を減らすようにと桃香に頼んではいるが……「たまに、仕事を増やしてるみたいだしな、桃香……」『一所懸命にやった結果増えるから、桃香を怒れないだろうしね』『音々音は?』「うん……ねねにもお願いしてみようか」過労で死なれてしまっては、目覚めが悪いどころの話ではない。出来る限り彼をサポートしてあげるべきだろう。自分達の生活は、多分に段珪に支えて貰っている。そんな事を心で決めつつ、一刀は門を潜って街へと繰り出した。久しぶりに出る洛陽の町。今までの暮らしが宮内の中で完結していたせいか、周囲の喧騒が懐かしくもあり楽しくもある。しばらく、町並みをにっこりしながら立っていた一刀だったが。「あーーーーっ!」悲鳴のような声が上がって、思わず首を巡らすと、妙な体勢で指をこちらへ向けている少女が一人。確か、彼女は文醜。正直、指差されて大声を出される理由など心当たりがなかった。驚いたような、不思議そうな顔を文醜へと向けていると、彼女は頭を掻きながら近づいてくる。「姫も大概だけど、天代様も相当だよなー。 また一人で飛び出してるし、この泥棒猫っ」「うっ、そうだね……確かに、一人でうろついてたのは迂闊だったかも……泥棒猫って?」「ったく、しゃーない。 あたいが付いて行くよ。 何かあっても姫が困るだろうしさー」「袁紹さんが……? まぁいいや、それより良いのかい? 予定があるんじゃないの?」「大ぁーい丈夫! もう負けたとこだからっ!」「……うん?」色々と、文醜の投げかける声には、結構な疑問が沸き起こる一刀であったが何となく培ってきた危険センサーが反応して、華麗に流すことに成功する。どうやら、文醜は既に螻蛄になって戻ってきたところらしい。博打好きとは聞いていたが、真昼間から街で賭け事とは筋金入りのようだ。「あ、その目はなにさ。 一応、今日は休み貰ってるんだから」「ああ、そうか、うん、そうだよな」「はぁぁぁあぁ……皆、そういう目で見るんだもんなぁ……文ちゃん悲しい」「……普段の素行のせいじゃない?」「あー! 天代までそう言うんだ。 傷つくー」「う、ごめんよ」「あーうん、別にいいけどね、事実だし」「事実かよっ!?」「あははははー、直そうとは思ってるけど、やっぱ無理なんだよねー」「……」斗詩から時たま文醜や袁紹に対しての愚痴を良く聞くはずだという言葉を、一刀は必死に飲み込んだ。しかしなんだろうか。文醜のこのお気楽さは、数ある諸侯の中で出会った中でも随一だろう。何より、一刀に対して変に斜に構えていないので、とても好感を持ってしまう。一応、役職で呼ばれているが立場から考えれば様が抜けているのは破格であろう。礼儀のなっていない者とも受け取れるかも知れないが、少なくとも一刀はそんな事は気にしなかった。街を二人で歩く。話題は当然、袁紹達の話となった。曹騰から貰った地図を片手に、右に曲がり、左に曲がり、時に店を覗いたりしながら。「んでまー、姫がすたんぷって奴におおはしゃぎでさ」「喜んでもらえたなら、考えた甲斐はあったけどね」「あたいは一個しかないけどね」「文醜さんには講義の内容が合わなかったかな」「うん、すげー退屈だった」「ひでぇ……」今の話題は、一刀が調教先生として教鞭を奮う際にペタンと押す判子の事だ。第一回の講義の後に思いついたことで、出席した者に押してあげていた。諸侯同士の話し合いに誘導する方法が功を奏して、一刀が教鞭を取ることは余り苦労していない。というか、ぶっちゃけると丸投げしてるような物なので楽だった。そんな一刀の講義に、今まで一度も欠席していない皆勤賞を取っている者は一刀の元に居る桃香と、そして文醜の主である袁紹だけだ。二人共、諸侯との話し合いとなると付いていけない部分があるようで最近では熱心に勉強に取り組んでいる様なのである。まぁ、桃香の場合は強制的にとも言えるが。他にも、郭図という人物が袁紹へ臣下の礼を取ったという話もあって、一瞬考え込む一刀である。そんな世間話が続いたが、ふと目を向けた文醜が立ち止まる。あわせて一刀も同じように立ち止まった。「あ、ここの甘味おいしいんだ。 知ってた?」「いや、街には最近出ていなかったから」「へぇー、なんで?」「まぁ色々あってさ。 ほんの数ヶ月前だっていうのに、随分と街の様子も変わったね」そう、一刀が街に住んでいた頃から比べると、町並みは随分変わっていた。勿論、元から帝の居る洛陽である。その規模は大陸の中でも有数、町も活発であったのだが、以前よりも更に活気を増しているように思えた。人も随分増えているようだ。「そっかぁ、街に出れないのも大変だねぇ……ところでお腹すかない?」「なぁ、それ絶対自分が食べたいだけだろ」「てへ、ばれた?」「博打で負けた人が白々しく言えば、流石に気がつくよ」「わーすごい! じゃあ天代様の驕りということで、注文してもいい?」「今の話の流れでどうしてそうなるっ!」結局、粘り勝ちをされて甘菓子をご馳走することになってしまう一刀である。ちゃんと段珪から、お小遣いは貰っているので大したダメージにはならなかったが。これ以上町をゆっくり見回っていると、文醜から毟り取られそうな直感が働いて、一刀は目的の場所までとっとと向かうことにした。「あ、まだ食べてるのに……」「ほらほら、早く付いてこないと置いてくよ。 護衛してくれてるんだろ?」「もう、器量が狭いとこは姫そっくりなんだから」「……マジで置いてくぞ」「マジ?」「マジ」「マジ……? 魚?」意味を教えてあげても良かったが、意地悪して教えないことにした一刀である。大した金額ではないとはいえ、奢ってあげたのだからこの位の仕返しは良いだろう。首を捻って後ろを付いてくる文醜を尻目に、一刀はようやく目的の場所へたどり着いた。そこは、何かの店のようであったが、店頭には何もなく、扉が一枚あるだけだ。一見すれば、普通の家と変わりない。小さく扉に立てられた看板が、そこが店であることを主張していた。文醜が屈みこんで、看板の文字を読み上げる。「えーと、なになに……おとめかん?」『おとめ……かん?』『ゲホッ! ゲホッゴホッ!』『やだ、こあい……なにここ、こあい』『え?』『え?』「変な店だなー、本当に此処なの? って凄い顔してるよ天代様!?」別に本体はどうって事のない名前だったのだが、一部脳内の強い拒否感情から凄まじい渋面を作ってしまったようだ。取り繕うように無理やり笑みを作り、一刀は大丈夫だと告げた。物凄く疑わしい眼差しを突き刺され、居心地が悪かったが、実際脳内が騒いでいるだけなので一刀に実害など無いのは事実だった。「とにかく、地図では此処に竇武さん達が居るみたいだから入ってみよう」「だなー、どんな店なんだろ」そして扉を開ける一刀。「どんぶらこっこー! どんぶらこっこー!」「ハァー! ヒィー! フゥー!」瞬間、熱気のような物が室内から吐き出され、湯気のような物が開けられた扉から飛び出た。弾け飛ぶ汗。瑞々しい肌。踊る肉体は紐のパンツや黒いマント、蝶ネクタイなどで着飾っている。熊ですら逃げ出しそうな程の野太い声。筋肉モリモリマッチョマンの宴が、そこで繰り広げられていた。音が街中に響くくらい、思い切り開けた扉を閉める一刀と文醜。瞬間、手が触れて文醜は何故か急に胸の鼓動が早くなった。しかも、良く分からない暖かい気持ちが心に広がる。「え! へ? 何!? 何で!?」トキメク彼女の傍らで、一刀はやや前傾姿勢になり、首を振りながら目を擦っていた。「今のは……一体……」『筋肉が居た』『ああ、筋肉が居た』『身体から湯気出してた』『後、ハゲも居た』『いや、ハゲはいねぇよ』『いや、居たよ。 俺も見たもん』「待って、ここは竇武さん達が居るって話だよね?」『そうだけど、あれなの?』『ぇー……』『貂蝉かと思った……心臓に悪いよ』『いや、あれでも十分心臓に悪い』一刀も文醜も、二人して混乱の真っ只中だ。町の片隅、おとめかんと呼ばれる店の前で一刀と文醜の胸の鼓動が高鳴っていく。別に良い雰囲気など欠片も無い。「と、とにかくもう一度確認を……」「あ、ちょっとアニキ、待って―――」言って一刀の肩を掴む文醜だったが、一刀の方が一手行動が早かった。開け放たれる扉。「せぇーやさぁっ! よぉーやさぁっ!」「ムゥー! メェー! モォー!」同時に、先ほどと同じように唸り声と湯気が街中に放出される。見えた景色は、全く持って変わらなかった。紐のパンツとネクタイを締め、長い髪をリボンらしき布でまとめた変態、一匹。細いふんどしを巻いてマントを着込んだ、頭髪の寂しいハゲの変態、一匹。一刀に再び触れたせいで胸が高鳴る文醜の視線は変態達へ向かっている。そして、やはり何処かで見たような気がする姿形に硬直する脳内。そんな止まった時を動かしたのは、遂に耐え切れず叫び声を挙げた文醜であった。「いーやーだー! あたいの趣味はこんなのじゃないもん! 嘘だぁぁぁぁぁ!」「む! 何奴!」「ちょっ、文……しゅ……首、くびゅ」「ぬぅぅ! いきなり現れていちゃつくとは、下品な奴らよ!」「ドキドキなんかしてないっ! ドキドキなんかしてないもんっ!」肩に手をかけた一刀に、そのままの体勢から見事な締め技に変化させる文醜。一刀にしっかり極めて抱え左右に揺さぶり、暴れまわるものの鼓動の高鳴りは未だに収まらない。おかしい。なんでこんな変態に胸をときめかせなければならないのだろう。視界に映る怪物に、文醜のトキメキは留まることがなかった。それでも在り得ないと必死に否定する感情はしかし、一刀に触る事によって中和、逆転していく。もはや文醜は、泥沼に陥っていた。「むむ! 良く見れば良い男ではないか!」「おお、確かにそうだな、竇武!」「……し……死ぬから助けっ……」「よぉぉぉし! いいぞ娘! そのまま締め落としてしまえ!」「合法的に唇を奪えるわっ!」「寄るな! 来るな! 近づくなぁぁぁぁぁ!」文醜は普段の得物を振り回すように、一刀を持ちあげて凪いだ。流石に歴史に轟く武将である。その膂力は、成人男性一人を軽々と持ち上げていた。やがて一刀の頭を掴んでいた文醜の手がすっぽ抜ける。髪の毛が無くなって坊主頭になっていたせいだろう。最早抵抗する力も残されていなかった一刀はそのまま、竇武と陳蕃の元へ飛び込んでいった。「おほっお!」良く分からない歓喜の叫びを上げて、竇武の胸に飛び込んだ一刀。受け止めるかと思われた彼も、一緒になって吹き飛ばされて室内の奥に転がっていく。その衝撃に、一刀は普通に意識を落とした。ついでに、竇武も口から泡を吹いて倒れこんでいる。「ああああ……て、て、天代投げちゃったー!?」「竇武、無事か! お、おのれ小娘、何をするかぁ」「ひぃぃぃぃぃ! ご、ごめんなさいー!」自分の仕出かしたことがどういうことか、文醜も理解に至ったのだろう。僅かに取り戻した冷静さで、投げ飛ばした一刀の無事を確かめようとしたのだが陳蕃がずいっと一歩近寄ることで、即座に断念。悲鳴を上げて部屋から飛び出して逃げ出した。「うぬ……素晴らしい逃げ足……」そんな文醜を眺め、陳蕃は感嘆の息を漏らしていた。逃げ出した文醜は、止まる事なく宮内へ戻って斗詩を見つけるとそのままの勢いで突っ込み、彼女の胸の中でわんわんと泣き始めた。意味も分からず、泣きじゃくる文醜を嗜めつつ、何があったと聞こうとするが胸が筋肉にドキドキするとか、変態パンツにときめいたとか、天代一本投げとか、どうにも要領を得ない。「ぶ、文ちゃん……あの、頭は平気?」「ふえええ、斗詩ぃー、本当なんだよー!」「あ、うん……えーっと、どうしよう」小一時間ほど錯乱していた文醜から、ようやく事の経緯を知った斗詩は顔を真っ青にして未だに泣きじゃくる文醜を引き摺りつつ、田豊の元に走った。 ■ 心の刀気がつくと、一刀は家の外……丁度門の前の辺りに居た。其処はいやに見覚えがある。そう、この家は……一刀にとって思い出深い場所であった。『爺ちゃんの家……? どうして?』聖フランチェスカへと入学する前。一刀はこの家で過ごしていた。見慣れた門を開けて、狐につままれたような表情で石で敷き慣らされた道を歩く。ぐるりとそこで見回せば、子供の頃から何度も何度も見てきた景色が広がる。匂いも、風も、目に映る景色さえも全く記憶と変わらない。『か、帰ってきたのか……?』突いて出た言葉は、震えていた。信じられないという気持ちと、何故か胸の奥に焦りを感じる。玄関を開けてみれば、やはりそこは一刀の住んでいた家だった。渡り廊下が広がって、リビングが奥に広がる。床が少し軋みを上げるのも、全く変わらない。やや奥に抜ければ、廊下は続いてそして……縁側に出た。『……誰か、居るのか?』この奥には道場がある。そこは、自分が剣道を始める切っ掛けとなった原点。爺ちゃんから、戦国時代に生み出された剣術の指南を受けた場所。果たしてそれは、本当に戦国時代の剣術なのか疑わしかったが、少なくとも一刀はそう聞いていた。なんでも、先祖は武士として大成したという話だが。祖父から習った剣術は、本当に触りだけ。懐かしさが一刀の胸に広がって、そのまま道場へ続く扉を開けた。途端、一刀の耳朶に聞こえる竹刀の打ち響く音。ハッとしたように視線を向けると、自らの祖父が子供を相手に竹刀を奮っていた。子供の足元には、今しがた打ち落とされたのだろう。祖父のよりも一回り小さい竹刀が、コロリと転がっていた。一瞬、何をしているのかと声をかけようとして、止まる。あの子供は―――俺だった。「一刀、しっかり構えておれと言っただろう」「でも爺ちゃんは大人だから、勝てないよ」「はっはっは、うむ、まぁそれはそうだが……最初から諦めてはいかんぞ」「でも……」「出来た妹を守るんだろう。 ほら、もう一度持ちなさい」一刀にはこんな記憶はなかった。確かに祖父と竹刀を交えていた記憶はあったが、こんな会話はしただろうか。もしかしてこれは、脳内の誰かの記憶ではないのだろうか……呆然と様子を眺めていた一刀だったが、二人の姿が突然消えた。今の今まで、視界に捉えていたというのに何処へ消えたのか。首を巡らしていた一刀は、中庭で聞こえる話し声に、道場から飛び出した。あれは、父と母だ。生まれたばかりの妹を抱えて、一刀は中庭で竹刀を奮って見せていた。微笑ましく見守る父と、妹を抱え優しく笑う母。「一刀、爺ちゃんに何を教えてもらったんだ」「心の刀!」「心の刀ってなぁに?」「どんな名刀でも折れるけど、絶対折れない刀は心に在るんだって!」「はっはっは、難しいこというな、父さんも」「格好良いわね」「ほんと! 母さん、俺かっこいい!?」微笑ましく見守る父と母の姿に、一刀は子供の自分の頃を思って恥ずかしくなるよりももう二度と会えないと思っていた両親を何時までも眺めていた。やがて消えるだろう、その時まで。そして、一刀の予想通り消えていく両親と妹。これは。これは夢だ。『辞めてくれよ……今頃』「一刀! どうして闇雲に振るうんだ!」「俺だけ遊べないんだ! 爺ちゃんとの稽古があるから!」「今日は稽古の日だと約束していただろう」「でも、今日は遊びたかったんだもん! 稽古なんて後ですればいいのに」「兄ちゃん、怒らないで、私もつきあうから」「なんだ、一刀。 お兄ちゃんが駄々を捏ねていたんじゃ格好がつかないぞ」「うふふ、しょうがないわよ。 一刀だって友達と遊ぶ方が楽しい時なんだから」家族総出で、爺ちゃんの稽古を受け始める。流石にこの場面は、一刀にも見覚えのあるシーンであった。確かそう、妹がやってるんだからと竹刀を手に取って。「じゃあ今日はやる、明日休んで良い!?」「まったく……ああ、良いぞ。 さぁ、竹刀を握れ」「わかった……」一刀は眺めていた。家族の団欒が多かった、一刀が子供の頃の記憶を。夢の中であるとはわかっている。今の自分は、決して此処に帰ってこれないという事も。望郷の念が胸の内に広がる。けれど……今すぐここに帰りたくなった訳でもない。そんな自分の心情に驚きながらも理解する。帰るには少し、積み重なった荷物が重かったのだ。音々音のこと、劉協のこと。今の自分が生きている、大陸の漢王朝のこと。捨てるには重過ぎるし、失くすには惜しい物が沢山ある。だから、この夢は意味を持たないのだ。決して届かぬ言葉を、伝えること以外に、意味は無い。『……さよなら』「心の刀!」いつの間にか、呟いた一刀の胸に拳を当てるように、子供の自分が腕を突き出していた。その手には、自分の名札の付いた竹刀が握られている。驚いた一刀であったが、夢の中だ。これはきっと、自分への叱咤激励なのだろう。『ああ、折れない刀は心の中に、だろ』言って一刀はその竹刀を受け取った。そして、視界は白く染まっていく。ああ、この夢はここで終わりなのだ。自分自身の笑顔が、最後に見えた気がした――――――「う……」「おう、竇武。 目が覚めたようだぞ」「おお、気がついたか北郷殿」目を覚ました一刀は、思わず目を細めた。別に目の前に広がる竇武と陳蕃の肉体が、テカっていて眩しかった訳ではない。彼らはしっかりと服に袖を通していた。年がら年中、あのような肉体を曝け出すような男達ではなかったようである。ここは寝室だろうか。気絶した自分を、しっかりと安静な場所へと移して置いてくれたらしい。「すみません、気を失って……」「こちらこそ、先ほどは失礼した。 曹騰殿からの話をすっかり忘れておったのだ」「我が名は竇武。 こっちの男は陳蕃だ」「……北郷一刀です」なんでも、彼らはある者に命を救われて以来、ああして自らの肉体を磨き上げてきた。竇武と陳蕃は、二度目の党錮の禁の際に死を覚悟するほど追い詰められたという。完全に兵に包囲され、自死すら覚悟した彼らであったが半裸というよりも、全裸手前の漢女と呼ばれる種族に助けられた。あの格好をしていたのは、その人たちに肖ってということらしい。命を救われた際に、憧れの人となったのだそうだ。実際、筋肉はついたものの、化け物染みた強さは身に着かなかったそうだが。「まぁ、最近ではあの姿も慣れてしまったので恥ずかしくはないのだが」「うむ、むしろ気持ちよくなって来たと言うか」「それは何と言うか……」何もいえなかった一刀である。脳内も揃って呻き、彼らを助けたのは“肉の”に縁深い奴等なのだろう。この世界にも、存在自体が犯罪っぽいアイツが居るらしい。“肉の”が起きていたら興奮して、イメージを発信しかねなかったので未だに反応のない彼には悪いが、全員が安堵の溜息を零していた。色々と間に挟まったが、ようやく落ち着いた一刀は二人との顔合わせに訪れた事に気がついた。元々、外威として権限を得て、紆余曲折を経た末に追放された二人ではあるがこうして洛陽の街で同じく追い出された党員達と共に、隠れて活動しているらしい。いわば、地下組織のような物だろうか。いずれも潔白の身を貶められ、宦官達に排除された者同士で独自のネットワークを形成しているのだそうだ。名を連ねた血判状もあるそうで、それを見せてもらう事になった。陳蕃が桐の箱を大切そうに抱えて持ってきて広げ始める。その数、なんと300人を越えていた。これを見れば分かる。見た目と違って、竇武と陳蕃の二人は至って真面目に活動をしてきたことが。一刀は、曹騰が二人を選んで紹介し、会わせた理由を理解した。300人以上という数から、それは確信に至る。「なるほど……つまり、洛陽以外の場所へと言うことですね」「そうだ。 天代なる北郷殿には出来ると思うが、どうだろうか」ここ洛陽、そして洛陽に近い長安や陳留などの場所では汚職をする官吏は少ない。見えないところで行っている者も居るだろうし、十常侍の中にも居るだろう。それでもやはり、地方に比べれば少ないと断じるしかないのが現状なのだ。見えぬ場所には、神ならぬ一刀では取り締まることなど出来ない。それこそ、信頼できる人を派遣するしか無いのである。その人員として、自分達を抜擢してくれと竇武と陳蕃は頼んでいるのである。一刀は考えた。地方の問題は、一刀もちょうど、頭を悩ませていたことだったのだ。特に、黄巾党が激しく活動を繰り返している徐州や華北では、早急に賊と官吏の繋がりを断ちたかったのが本音である。徐州は黄巾党の活動が激しく、袁術から増援の要請が出ている程である。それもこれも、袁術の行ってきた政が一つの原因であり自業自得とも取れるのではあるが、何とかしてあげたい。勿論、脳内の受け売りだ。民を思えば、早急に諸侯の軍勢を派遣して黄巾党を叩き潰すべきだ。それは当然ながら一刀もそう思っているのだが、余りにも諸侯を目立たせてしまうと王朝の権威が翳ってしまう。官吏を挿げ替え、官軍と諸侯が手を取り合って打倒するのがベストであった。少なくとも、漢王朝にとっては諸侯に力を持たせすぎるのを避けたかった。何度も同じ問題を一刀達全員で話し合って、導き出した答えの一つ。今まで実行できなかったのは、単純に官職を持つ者で信頼できる人々が少なかったからであった。竇武と陳蕃は、ここに滑り込んで一刀を支えると言っている。正直言って、この話は渡りに船だ。とはいえ……ここですぐさま是を返せば、官僚達の心象は思わしくないだろう。竇武達の願いは、人事に大きく関わることであり、一刀の一存で決めることも出来ない。気持ちは二人の協力を仰ぐことに傾いてはいるが、グッと我慢して一刀は口を開いた。「……分かりました。 ですが、答えは少し待ってください」「そうか……仕方ない、期待して待たせてもらうとする」「我々は、腐った宦官を排除しようと動いたときに謀略がばれて失敗した。 同じ過ちをおかすほど愚かでは無いつもりだ。 茶を飲みながら待たせてもらうとしよう」「分かってます、この事は誰にも話しません。 約束しますよ」一刀はそう言って、竇武に手を差し伸べた。しっかりと握り、握手する。離そうと一刀が手を引くと、何故か竇武は離すこと許さず、そのまま空いている手を重ねて擦り始めた。まるで、一刀の手を合わせてゴマをする様にモミモミと。手の大きさもさることながら、肉体も一刀より一回り大きい竇武である。奴を目指していたということもあり、見た目の筋肉もモリモリだ。その姿はなんというか、気持ちが悪いと言えた。「……え、あの竇武さん」「あ、いや、すまない。 つい何時もの癖で」「……では北郷殿、改めて宜しくお願いする」「……」「北郷殿、手を」「は、はい……」竇武と同じような肉を持つ陳蕃へ、警戒するように差し出した手は普通の握手ですんだ。ようやく一刀はおとめかんから町に出る。色々とあった気がしたが、既に陽は傾き始めていた。そろそろ、音々音達と食事に行く約束の時間が迫っているのだろう。「おのれ竇武! 一人だけ良い思いをしおって!」「ふん、馬鹿めっ! 先手必勝よ!」何やら叫び始め騒々しくなった『おとめかん』を後にして、一刀は小走りで離宮へと向かった。文醜が何処へ行ったのかも気になったが、『おとめかん』が何を売って商売しているのかも気になった。余り考えると、碌な推測が出そうになかったので早々に切り上げたが。こうして一刀は宦官によって追放された外威であった者達との関係を持つことになった。何進のように一個人ではなく、一度宮廷に勤めたことのある清廉な人物を大量に確保できつつあったのである。この事実は、何故か数日の間に宮内にも流れて、多くの官僚や宦官に危機感を持たせるに至った。 ■ 志在に仕える神将「う~っ! 早く行きたいなぁー!」「もう、桃香殿ははしゃぎ過ぎなのです!」「だってだって、久しぶりの洛陽の街! 勉強しなくても良いところ! 最高だよぉ~!」「そんなに喜ばれると、その……」「あの、勉強、楽しくなかったですか……?」「あ、そんなこと無いけど、でもほら、やっぱり、ね?」今、部屋には桃香と音々音、恋が着替えをしており、外出の為のおめかしをしていた。久しぶりに洛陽の街へ出て、一刀と共に夕食をとる。ただそれだけの話ではあったのが、自然と着ていく服選びにも力が入るというものだ。朱里、雛里と劉協は、宮内から出るわけにもいかないので、残念ながらお留守番だ。楽しそうに服を選ぶ桃香と、文句を言いながら着付け始めた音々音を羨ましそうに見送りながら一緒に着ていく服を選んであげていた。「一刀様は、あまり派手な服は好みませんから落ち着いた色合いの方が……」「でも、桃香様には暖色系が似合いますし……」「いい加減、早く決めて欲しいのです」桃香へと服をあてがったり、山の中から取り合ったりしながら話し合う。朱里と雛里は、桃香預かりということになっている。形の上では、一刀や劉協に仕えている訳でもなく、桃香が面倒をみてあげているような物になっていた。と、いうのも、彼女達はいずれ最前線へ送られる定めとなっているからだ。目の容態が落ち着いた時に黄巾平定の為に。そういう名目になっている。今はまだ、洛陽に留まっては居るものの何時かは別れのときが来るのだ。それを知っているから、此度の街に繰り出す者達が羨ましくなる二人であった。当然、そんな様子はおくびにも見せないが。既に音々音と恋は着替えが終わっており、残すところは桃香のみ。早くしろとせっついては居るが、つい先ほどまで音々音も一緒に頭を捻って服を手に取っては戻していた。恋に至っては30秒で着替え終わり、今は座ってボーっと皆の様子を眺めている。半裸の桃香が、服を一つ、帯を一つとって胸元に持ってくる。「この赤い帯はどうかな?」「胸元にですか?」「少し、派手なような気もしますけど」「皆、そろそろ準備は終わったかな?」そんな折、離宮へと戻ってきた一刀が劉協から話を聞いてこの部屋の扉を開いた。自然な様子で室内の扉を開き、一歩前に進んでそのまま動かなくなる。丁度部屋の真ん中、朱里と雛里の前で服を持つ桃香へと視線を向けて。当然、部屋の中に居る者は全員、そんな一刀に視線を向けていた。「あ、一刀様、ごめんなさい。 もう少し待っててください」「うっ、あっ、すまん!」極自然に振舞い、頭を下げる桃香。一刀はそこで今の状態に気がついて、慌てるように部屋の外へと戻っていった。そして今度は、桃香へと視線が集まることになった。流石に雰囲気が変わったことに気がついた桃香が首を傾げる。「あれ? 皆どうしたの?」「ど、どうしたのって、桃香様見られて恥ずかしくなかったんですかっ!?」「そ、そうです、見てました、一刀様」「えー? でもちゃんと服で隠してたし、きっと一刀様にも見えてないよ」「むむ、まさかこの動揺の少なさは、桃香殿の作戦……」一拍遅れて全員がわいわいと騒ぎ出す。桃香は次の服に手をかけて、朱里と雛里がひそひそと内緒話を交わしあい、音々音が疑わしげな視線を向けて独語する。そんな一部始終を見送って、恋は一つ大きな欠伸をかましていた。一方で、部屋を出た一刀は眼と眼の間を揉み上げていた。昼間に見た筋肉の塊を見た疲れが、一瞬で吹き飛んだような心地である。桃香が言ったように、隠されていたので殆ど彼女の姿は見えなかった。しかし、しかしである。服の合間から見える白い肌と、隙間から覗く白い肌や、狭間から飛び込んでくる白い肌は一刀にとって筋肉の唸りを吹き飛ばすのに十分だった。着替え中の女性の室内に踏み込んで、悲鳴一つ上げられなかったのも合わせて良かった。というか、助かった。「……ふぅ」一つ息を吐いて一刀は精神を落ち着けると、彼女達の準備が終わるまで近くにあった椅子の上でゆっくりと待つ。出てきた彼女達の服装を褒めることも、しっかり忘れずに行う一刀であった。―――ポツリ、ポツリと雨が降ってきた。あいにくの天気になってしまったが、それでも雨足は弱い。傘が無くても十分に動き回れそうだが風邪を引かれても困るからと、傘は持っていくことになった。この時代の傘は、現代の物のように閉じることが出来ない。自然、持って歩くということは、傘を差して歩くことになる。軽い木の素材で作られているので、点々と雨の模様がつくのを楽しむことも出来そうになかった。一刀がそんなある意味で不便でもある傘を差して歩き出すと、その隣に音々音が滑り込んでいく。それを見て、後ろを歩く桃香が感嘆の息を吐いていた。「はぁー、ねねちゃんの分の傘はいらないって、こういうことだったんだねー」「桃香も、入る?」「恋ちゃんのに?」「ん、おいで」「うん、お邪魔ですよ~……って、肩が出ちゃう!?」「ははは、桃香と恋が入るんじゃ少し狭いかもね」外へ出て、門までの道のりの中で傘をさして連れ立って歩く。目的の場所は、洛陽の中央にあるので迷うこともない。ゆっくりと4人で談笑しながら歩いていると、思わずにはいられなかった。「劉協様や朱里と雛里とも、こうして歩きたいね」「うん、本当! 皆で行きたかったよ~」一刀の呟くように言った言葉に、即座に返ってくる桃香の同意。遅れて音々音も頷いていた。最初こそ、音々音は朱里と雛里に対して過剰な警戒を寄せていたのだがここ最近は……というよりも、あの軍盤での一件から二人を認めたようである。まぁ、言い争いになる時も多いようではあるが。劉協のことは、言わずもがな。彼女が宮内の外へ出ることが出来るのは、一体いつになることだろうか。「でも、今日はそういうしがらみはパーっと忘れて楽しむのです」「はは、そうだな。 うん」「そうそう、せっかくの外出なんだから! みんなの分まで楽しんじゃおう?」「おー……」「ちょ、恋ちゃん冷たいっ!」声を上げて腕を持ち上げた恋の掲げる傘の範囲から逃れてしまったのだろう。傘の雨露が桃香の首元から入り込んで、悲鳴を上げる。笑い声をあげながら一刀達は目的地へとついた。あの時は特に気にしていなかった見上げた店の名前は、看板に大きく書かれている。食彩房『馬鈴』というらしい。馬の鈴……バベルか、とか下らない事を考えつつ、一刀はふと思う。街に居た頃は高価に思えた採譜のお品書きも、段珪から貰っているお小遣いで十分足りる。この事からも、官僚と民との間の差が大きいことが窺えた。ふとした瞬間に感じるこういう感覚を、今は一刀も心の奥底に仕舞う。今日は皆と楽しむために来たのだ。桃香を先頭に、音々音の後ろをついて入った一刀を明るい声が出迎えてくれる。「い、いらっしゃいませぇーっ♪」「いらっしゃいなのだー!」「わぁ、かわいいー」視界に飛び込んできたのは、一刀にも見覚えのある衣装を身に纏った女の子達。見覚えのある、と言ったがそれはこの世界での話ではない。そう、一刀が元々居た世界での話だ。黒く美しい艶やかな髪をサイドに纏めた女性は、やたらと丈の短いセーラー服を身に纏い微妙に引きつった笑みを浮かべてお盆を掲げていた。サイズがあっていないせいか、胸の辺りから腹部の上くらいまでしかなく、肌が晒されている。彼女の豊満な胸のせいでも、あるのだろう。その隣で元気一杯の少女が、丈の余った同じセーラー服を身に纏って両手を挙げていた。虎を模したバッチだろうか。それが胸元に付けられ、ただでさえ幼い容姿を前面に引き出している。思いがけず視線に飛び込んだ強力な一撃に、一刀は一歩、自然に後退った。『げぇっ! 関羽!?』『げぇっ! 関羽……あれ?』『張飛……袖余りだと……』『あ、愛紗、なんて格好を……ぐはぁっ!』脳内の声―――呻き声のような物が混じっていたが―――響くと同時に、一刀はよろめいた。愛紗と聞こえた。それは、脳内の誰かの大事な人であったような覚えがある本体である。傍から見て、不自然な行動をした一刀に視線が集まる。「お兄ちゃん、どうしたのだー?」「……うっ」鈴々こと張飛が近づいてきて、音々音の隣に立って一刀の顔を下から覗く。一刀が咄嗟に抑えた口元の手が、僅かに赤い。鼻血である。本体もセーラー服には驚いたものの、彼女達への面識が無かったのでそれなりの衝撃しかなかったが脳内の自分達には別で、結構な衝撃であったようだ。げぇっ、とか聞こえたし。しかし、彼女達が音に聞こえる関羽と張飛とは。女性であることは脳内からと、自らの今までの経験から理解していた一刀ではあったが初対面が店先で給士として働いているところに、セーラー服付きでだとは思いもしなかった。鼻から呼吸が出来ないので、口を開きつつ関羽と張飛なる人に視線をぶつける。「のわわわっ! お兄ちゃん、鼻血が出ているのだ!」「か、一刀殿! 平気ですかっ!? また胸ですかっ!?」「ハァー……ち、違う……ハァー……これは突然……」「息が荒くて説得力がないのですぞっ!」「一刀、好き?」「……あのね、だからね?」「にゃははは、お兄ちゃんって変なのだー」「この服、可愛いなぁー! どこから買ったのかなぁ?」「あ、ちょっと引っ張らないで下さい……その、お店の物なので困ります」混沌とし始めた店内の入り口。とりあえず、店の入り口を陣取ってしまっては迷惑になるからと、やや強引にだが関羽の声で中へ案内される。店に迷惑をかけるつもりもないので、一刀達は素直に従って奥へと歩き出した。前からもそうだったが、今でも中々に繁盛しているようだ。食事を楽しんでいる者に、町の人達が少なく商人などの姿の方が目立った。案内された卓の隣を見やると、今度こそ見覚えのある顔が一刀の視界に飛び込んでくる。「あら?」「あ、こんばんは、一刀さん」「あ、うん、こんばんは」どうやら、曹操と袁紹もここの食事を楽しんでいるようで、曹操の隣には荀彧が。袁紹の隣には斗詩と文醜が料理をつついていた。先ほどのこともあって、地味に心配していた一刀は、自分の卓の椅子を引きながら斗詩に挨拶を返して声をかける。「良かった、さっきぶりだね文醜さん」「っ―――!?」「突然居なくなったから心配してたんだよ。 大丈夫だった?」「て、ててて、天代様こそー!」何故か顔を真っ赤に染めて、焼き鳥を振り回しながら返してくる。微妙にタレが、荀彧の方へ飛んでいき彼女は顔を顰めていた。「袁紹さんも、曹操さんも今日はここでお食事ですか?」「ええ、料理を楽しみに来たというよりは別の事を楽しみにして、だけどね」桃香に問われて曹操はニヤリと笑って視線を関羽へ向けた。採譜を配っている関羽が、丁度一刀へと手渡したところに。それを見て、袁紹もニヤリと笑う。そんな二人に、桃香は釣られて首を向ける。「そうですわね。 華琳さんが特筆することも無い、このお店にしようと言った理由が分かりましたわ」そんな曹操や袁紹の視線には、関羽も気付いているのだろう。袁紹の視線は一刀に向いているのだが、同じ場所に居るのだから変わらない。一つ、曹操と袁紹へ一瞥すると、彼女は自分の仕事を果たすべく無視するように新たな採譜を取り出して傍に座る音々音へと腕を伸ばしていた。「貴女が此処に来た事は丁度いいわ、劉備」「へ? なんのことでしょ?」「関羽殿!」呼ばれて関羽は、採譜を配る手を止めて張飛へと任すと曹操の元まで歩いてくる。名を呼ばれて自分にも関係しそうだけど何のことか分からない桃香であった。そんな曹操へ、関羽は口を開いた。恥ずかしそうに。「そ、曹操様。 今の私はほやりんッ給士、かんかんちゃんです。 そうお呼び戴きたい」「……かんかんちゃん」「はい、ご注文を承ります」「えっと、貴女の探し物が見つかったわよ」華麗にスルーしつつ、曹操は人差し指を桃香へ向けた。指指された桃香は、意味が分からないながらも曹操と関羽へと顔を交互に向ける。関羽の眼差しが桃香に刺さり、彼女は耐え切れなくなって誤魔化すようにニヘラと笑った。桃香もそうだが、関羽も動揺に戸惑っている。「彼女が、“玄徳”なのよ」「え、はぁ……私は確かに玄徳ですけど……」「な、なんと! 貴女様が玄徳様!」関羽の声は、室内に良く響いた。一刀や音々音の注文を受け取っていた張飛も、ピクリと耳を大きくして反応する。当然、張飛へ声をかけていた一刀にも聞こえていた。そういえば、劉備、関羽、張飛の三人がこの場には居るのかと気付く。そして、曹操の言葉を思い返すと一刀の知っている歴史の話を思い出してしまう。有名な関羽千里行である。劉備と固い絆で結ばれた関羽は、曹操の厚遇を蹴ってまで彼の元に向かった。曹操軍の関所を5つも単独で破り、武将との一騎打ちまで繰り広げて、最終的には曹操に見送られるという話だ。形は物凄く変わっているが、ある意味今のこの状況。曹操と劉備が、関羽を取り合っているのだろうか。大きく歴史が歪む瞬間を、一刀は見ようとしているのではないかと自然に汗が出る。何故汗が出るのかは、良く分からないが。「あそこに居られるのは、天代様ですか……」「あ、ねぇ、かんかんちゃん。 あたい、シュウマイ追加で」「ちょっと空気を読みなさいよ馬鹿じゃないの馬鹿」「うっわ、彧ちゃんひっどっ! 聞いたか斗詩!?」「う、うん、聞いたよ。 でもその、確かに今のは文ちゃんが空気読めてない気が……」「うう、今日は皆が虐める……もういい、こうなったらヤケ食いだぁー!」そんな文醜たちの声も今は遠いのか、桃香へと視線を投げかけていた関羽は一つ眼を瞑る。『玄徳』という者は、天の御使いたる天代の元へ赴き、そしてこうして一緒に居ることから出会ったのだろう。曹操や袁紹とも知り合いであることから、宮内の中で暮らしているという事も理解できた。やがて、関羽は桃香から視線を外す。聞きたい事、話し合いたい事は山ほどあるが、今は自分の仕事がある。そんな関羽の、桃香から溜息のような物を吐き出して逸らした視線を見て、曹操は薄く笑った。「シュウマイ一つ、追加でよろしいですか」「ハフハフッ、ハッ、え? あ、うん……聞いてくれてたんだ」文醜へと向き直り、硬くなった声が店内に響いた。凛とした声は、思いのほか遠くまで聞こえていたようである。騒がしかった店内の喧騒が、一瞬やんだ。距離の離れた卓に、料理を運んでいた店員から、そんな関羽を嗜める声が飛んでくる。「かんかんちゃーん! 暗いよ、暗いっ! 明るく楽しくっ!」「あ、は、はーい! シュウマイ一つ、入りまぁーすっ♪」取り繕うようにパタパタと慌しく上ずった声を上げて立ち去る関羽。取り残された桃香は、一体なんの話だったのかとしばし首を捻ったが、やがて一刀の卓に料理が運ばれてくると気にしない事にしたようで、談笑に耽りはじめた。結局、袁紹のお誘いでせっかく一緒の場に立ち会ったのだからと卓を繋げる事になり、大所帯での食事と相成った。例の『金の二重奏』をおいしそうに食べる音々音に微笑む一刀を見て、曹操と荀彧が険しい顔をして耳打ちしていた。恋と文醜で、大食いが始まったり、それを給士であるはずの張飛が間近で覗き込んで参戦しそうになったり関羽が慌ててそれを止めていたりして、色々と騒がしくなった食事会も、概ね問題なく終盤を迎える。程よくお酒が入り、全員に笑い声が絶えない中、気持ち良さそうな袁紹の声が響いた。「おーっほっほっほっほ、こうして笑い合えるのはとても素晴らしい事ですわね」「ふふっ、そうね」「本当ですね、袁紹さんの言う通りですよ~」関羽の様子から見て、自分のところに転がり込むのではないかと上機嫌であった曹操が袁紹に同意を返しその後をすぐに桃香が頷く。一刀も、彼女達の声には同意見なのか一人首を縦に振っていた。この周囲の同意に気を良くしたのか、更に袁紹が夢心地で声を上げた。「きっと、わたくしや華琳さんを初めとして、全員が天代様に惚れているからでしょう!」「ブバッ!」「そんなこと、天地がひっくり返っても在り得ないわよっっっ!」爆弾だった。麺の汁を啜っていた一刀が、ノズルから噴射されるスプレーのように見事な汁の噴射を見せると同時に荀彧が勢いよく立ち上がり袁紹の声を完全否定する。が、袁紹の声に反応したのは、この二人だけであった。曹操は、突然告白したに等しい袁紹に唖然とした視線を向けていた。自分が含まれているという事実を、この瞬間だけは袁紹の突然の暴挙に彼女も見逃してしまった。音々音を初めとして桃香や斗詩、恋や文醜も、一刀に視線を向けて頬を染めていた。一部、何故顔が暑くなるのか分からない者も居たが。「……あ、えーっと……」「あら、みなさんどうしましたの? 固まってしまって……」「ひ、姫……一刀様、此処に居ますよ……」「おーっほっほっほ、斗詩さん、何をあたり……まえのこと……」自分の言ってしまった事に、袁紹も気がついたのだろう。顔色が酒の入った赤みを帯びたものから、青く変わっていくのが全員にはっきりと伝わっていく。そんな中、ようやく自分を取り戻した曹操が声をあげる。「……えっと、一応言っておくわ。 私は別に、惚れているわけじゃないからね」視線を袁紹と一刀からそらして、明後日の方向に向けていかにも興味ないから、と否定した曹操。しかし、彼女にも十分酒が入っていたせいで、頬は紅潮していた。それが、全員に誤解させてしまう。今の否定の言葉も、曹操の様子から一種の照れ隠しに見えてしまったのだ。勿論、普段から一緒に居る荀彧が誤解することは無かったが。「……えーっと、の、飲もうか皆!」「あ、うん! そうしましょうよ、皆さん! こうパーッと飲んじゃいましょう!」気を取り直すかのように、やたらと明るい声で一刀が促し、桃香がそれに便乗する。時間の止まった時が動き出すかのように、皆が今の一連の話を忘れようとして動き始めた矢先だった。ずずいっと袁紹が、覚悟を決めたかのような面持ちで一刀の前まで近づいてきたのは。「て、て、天代様! もうこうなったら、開き直るまでですわ!」「あ、うん! な、何かな!?」「愛してますっ!」『麗羽……!』その時、一刀が動いた。袁紹の超ど真ん中剛速球が、一刀の胸を打ったのである。思わず、彼は袁紹の肩を両手で掴んだ。熱い視線を交し合う一刀と袁紹。トクトクと、高鳴る心臓の音が自らを打つのを自覚した。微妙に二人の距離も、近づいているような気がしないでもないような気がしない。周囲は完全に、二人の作り出した空間に再び時間が凍り付いていた。いや、恋だけはもくもくと食事を呵責していたが。「麗羽……」「あぁ、てn……一刀様……」約7秒間だった。真名までどさくさに紛れて呼んだ一刀は、我を取り戻したかのように袁紹の肩から手を離すと同時に音々音が動く。こういう時、いの一番に制止の声が入るのはやはり彼女だった。「そこまでなのですっ!」「そ、そうです! そこまでですっ!」音々音の割り込むように身体が入ると、桃香の声も飛んできて、二人の距離は離された。ふらり、と言った様子で袁紹が自分の椅子に倒れこむように座る。隣に居た斗詩と文醜が、しっかりと転ばないように支えて。「ひ、姫、平気ですか?」「あぁ……ま、真名……真名を呼ばれてしまいましたわ……はふぅ」「そ、それは良かったですねっ!」「……華琳様、帰りましょう。 わわわ、私の頭が溶けそうです」「そ、そうね……付き合いきれないわね……麗羽、良かったじゃない、うん」微妙に祝いの言葉を述べて、音々音や桃香に責められる一刀を尻目に曹操達は中座した。この場に居ると、袁紹から始まった一連の話に無理やり巻き込まれることも恐ろしかった。何よりも、荀彧は真名をもう一度一刀に呼ばれたくなかった。今までの会話の中から、彼は”袁紹さん”としか呼んでいなかったのに、油断するとすぐこれだ。勝手に真名を呼ぶ男は、数ヶ月たった今でも健在であったのだ。隠れるように逃げ出した曹操達に一刀達は気付く様子もなく。腰砕けになった袁紹を抱えて斗詩と文醜も曹操に遅れること数分、退散する。袁紹が復活して自分の気持ちを暴露されては溜まらない、そういう思いを持つ斗詩の声がきっかけだった。何より、自分の主である袁紹を始め、侯である曹操や一刀の傍に仕える音々音を差し置いて懸想している事が判れば目を付けられることになるだろう事は想像に難くない。斗詩の声は、文醜にとってもなんとなく理解が出来る話だったので、それは見事な連携で未だに現実に帰ってこない袁紹を抱えて店から立ち去っていった。ようやく落ち着きを取り戻した一刀達は、気がつくと皆が居ないことに呆然とする。ついでに、袁紹も曹操も会計が終わっていない事を知って一刀達は呻く事になった。「う、上手く逃げられたっ!?」「むむむ、なんという策略……流石のねねも見抜けないのです」「ははは、もういいよ、どうでも」桃香と音々音の驚くような声に、一刀は涙が混じった声で投げやりにそう言った。そして、カランと響く皿とスプーンのかち合う音。持っていた布で口元を拭い、恋は静かに、そして満足そうに笑みを浮かべて言った。「ん、満足した」一刀のお小遣いは、こうして一夜で消え去っていった。―――そんな喧騒の一部始終を、仕事をしながら眺めていた少女がいる。どちらも丈の合わない、店で支給された服を纏って一人はよだれを垂らしながら。もう一人は、桃香へと鋭い視線を向けて。随分と盛り上がっていたのだろうが、そろそろ帰られる頃合のようだ。曹操がこっそりと共を連れて出て行く際に、バッチリ視線を投げかけられた関羽である。ついでに、荀彧からも殺意の篭った視線を投げかけられたが、あれは何だったのだろうか。「鈴々。 天代様方の会計が済んだら、私は後を追う」「はにゃ? 天ぷら買いの刑なのだ?」「……まかない、先に食べてていいから」「ほんとなのだ!? わー、愛紗大好き!」「ええいっ、くっつくな鈴々、鬱陶しいっ!」「かんかんちゃん、笑顔を忘れちゃ駄目なのだ! にゃははー」「うっ……にや、にゃははん~」そうそう、その調子とからかう張飛に、青筋を浮かべながら関羽は笑っていた。やがて、一刀達も席を立ち、荷物を整理しはじめる様子が窺えた。店長に断って時間を貰い、関羽は裏口に向かって荷物を引っつかむと、急いで着替える。目線だけで店内をサッと見て、一刀達が居なくなった事を確認してから、関羽は裏から飛び出して行った。飛び出した瞬間に、関羽の身体に水が滴る。雨足は一刀達が店に訪れたころと比べても、随分と強くなっていた。そんな雨も、関羽は気にせずにひた走った。どうしても聞きたかった。先ほどまでの様子を見るに、ただ天代を中心に楽しんでいる姿だけが視界に映った。彼女の噂は、噂であり―――自分の目に映った彼女は、自分と同じ志を抱いていた人とはどうしても思えなかった。こうして慣れない働きで日銭を稼いで、日々を暮らしている関羽の心中は内心で穏やかではなかったのだ。洛陽での乱から数えて随分日が立つが、町で暮らしている中で聞こえてくる民の悲鳴は変わらずに在る。洛陽がここ最近迎えている活気は、裏を返せば他の場所から逃げ出してきた民の悲鳴。“玄徳”なる者は、現状に満足して動く事はないのか。彼女の噂を追ってきた自分は、間違っていたのか。そうであるならば、曹操や孫堅に声をかけられているのだ。平和を願う以上、自分の志を貫く以上、個人で出来ることは限られている事に気付いている。自分の志すらも飲み込んで、平和を齎す人の下で力を奮うことも考えていた。そして。出来れば、腐りきった大陸、漢王朝。漢王朝でそうした世を作ることが出来るのならば、余計な混乱が少なくて一番良い。そうした思いや考えが自分の中に密かにあることを、関羽は自覚していた。勿論、それは彼女の理想であり、漢王朝に変わる新たな王朝が出来ても平和に暮らせる世の中であればそれで良い。今、この大陸に求められているのは何よりも人と人が手を取り合って暮らせる日々。それだけなのだ。「天代様っ!」関羽が想いに突き動かされるように走った視界に、傘を差して歩く天代と“玄徳”である桃香が映る。その声に振り向く、一刀と桃香。雨に濡れ、しかし、店に居た者と同一人物だとは思えないほど、凛としている。一刀は、それだけで関羽が何をしに来たのか。おぼろげに判った。そも、桃香と出会い劉協の元に突き合わせたのは一刀である。本来ならば、関羽という目の前の少女と先に出会って志を共にしたかもしれない桃香だ。こうして店を飛び出してまで来る関羽を見ていると、彼女の話とは。それはきっと。「……大切な話だね?」「はい」頷いて、関羽は桃香を見やる。水を向けられた桃香は、一刀へ首を向けた。一刀はしばし黙して考えていたが、やがて一つ頷いて口を開いた。「……恋、傘に入れてくれないかな。 桃香、先に行ってるから」「え? いや……あの……?」無理やりに自分の持っている傘を桃香へと手渡して、恋の持つ傘の中に音々音と共に入っていく。一刀の不思議な行動に狼狽する桃香は、視線を関羽へと向けると関羽は一刀に向かって頭をしっかりと下げていた。本来、ただの民草の一人である彼女が天代という身分に願うことなど出来るはずもない。彼女の声をかけた目的を知らずして、こうして傍に仕える桃香との時間を設けることなど頭ごなしに拒否されても文句は言えなかった。だからこそ、関羽は一刀へと深々と頭を下げたのだ。頭を下げられた一刀が気付いているのか、居ないのか。彼は桃香を置いていくようにして、言葉無く恋や音々音と共に立ち去っていく。残されたのは、雨に打たれ頭を下げる関羽と、その前に傘を持って立ち尽くす桃香。「……かんかんちゃん」「うっ、いや、私の名は関羽といいます。 字は雲長です」「あ、ごめんね。 かんかんちゃんしか知らなかったから……うん、私は劉備、字は玄徳です」ようやく顔を上げた関羽に一つ謝りつつ、桃香はにっこり笑って名を告げた。そんな桃香の笑顔に、関羽は一瞬だけ顔を綻ばした。よく見れば、彼女はあの時、天代を見るために集まった観衆の中に居た女性ではなかったか。顔を突き合わして会話した今になって初めて気がつく。あいにくと桃香の方は、関羽のことを覚えていないようだが。「……玄徳殿、幽州で、貴女の噂を聞き参じました。 それを追って、私はここに居ます」「うん、あ、そうなんだ」関羽の洛陽にいたる、今までの経緯を彼女は静かに話し始めた。真剣な様子で話す彼女の言葉に、桃香も向き合って聞き役に徹する。桃香はそんな関羽の話す様子に、自らの志を思い返していた。自分が天代に会いたかった理由を。眼を瞑って、関羽の言葉に頷き返していると、彼女の言葉がふいに止んだ。「……関羽さん?」「玄徳殿、お聞きしたいことがあります」「なにかな?」「貴女は今、何をしておられるか」彼女が問うているのは、今の自分は前と同じ所に居るのかという事だろう。そう、志在って郷里を飛び出した自分が居るのかと。答えは決まっている。いや、正確には答えは一刀を初めとした勉強を見てくれている全員から教えてもらっている。それは言葉にせずとも、ハッキリと判る問題の数々で。「うん……」小さく頷いた桃香に、関羽は息を呑む。「国をね、立て直すためのお勉強だよ」そう、今何をして居るかなど、これしか答えることなど無い。桃香のしている勉強は、間違いなく国に関する政であった。それは経済から軍に至るまで、事細かに状況も詳しく並べられた、市井には全く出回ることの無い問題集から見て取れる。何故、自分にこんなことを教えるのかを考えたとき、そこには劉協の姿があった。彼女を支える為の知識を、蓄えさせている。一刀が教えている物の中には、別の思惑も含まれていたのだが、間違いでもない。段珪や朱里、雛里や音々音の作る問題を見ればその意図が見え隠れしているのは桃香でも気がつくことが出来ていた。彼女の答えに、関羽はふいに視線を外した。「……今の世は、乱れております」「うん、この場所で見えないところで、今もきっと苦しんでいる人が沢山いるよ」「私は、とてもこの国が立ち直ることなど想像できない」「きっと難しいね」「天代様や、玄徳様なら、それが出来るのですかっ!」自分が思うよりも、大きな声となってしまった。叫ぶようにそう言った関羽は、言葉にしてからも信じられない事だと実感していた。一方で、吐き出すように自分の気持ちを吐露する関羽は、まるで映し鏡のようであったと感じる桃香だ。ついこの間まで、彼女と同じ苦しみを胸の内に抱いていたのである。今の世の中の乱れを身近に感じて、何かをしたいと思った。何かしなければと、自分で出来ることをして、そして打ちのめされた。桃香とは違い、武に誇りある関羽であっても、こうして何をすればいいのか判らなくなって曇ってしまう。関羽の叫びを聞いて、共感を覚えた桃香は、語り始めた。それこそ、関羽が洛陽に至るまでの事を聞かされた時のように、自らのことを。気がつけば、雨の音は止んでいる。離宮を出たばかりの、ポツリと振ってくる弱い雨。「……関羽さん。 漢王朝を照らす天はね、まだ晴れないんだ」「玄徳様……」「でも、晴れれば良いと思って頑張ってる人が居る」「……しかし、できないかもしれない」「駄目だよ、それじゃ。 広がる先が見えなくても、後ろを向いてちゃ何も見えないよ。 大切なのはね、関羽さん」そこで桃香は関羽へと近づいて傘を差す。もう止んでしまっていると言って過言ではないが、しかし。「笑って過ごせる日が来るって頑張る人を笑わずに、自分も頑張ることなんだよ」桃香の視線が、関羽の視線と絡み合う。言っている事は、子供でも理解できるような事だ。そんな簡単で単純なこと、しかしそれは確かに関羽の胸を打った。確かに、関羽は後ろ向きに物事を捉え始めていたかもしれない。賊の横行から人を斬り始めた。このままではいけないと、立ち上がる人を探した。そんな中で、漢王朝は終わった物として捉えていたかもしれなかった。何故ならば、先ほど内心で強く思った自分の願いの中に、漢王朝が在るまま平和にならないかと考えていたからだ。それは、本来ならば考えに昇ってはいけないことなのかもしれない。漢王朝を立て直す、という選択肢が、一番最初に想いに浮かばなければならないのでは無いか。確かに、王朝の腐敗や不満から、民の暴動という形で黄巾の乱が起こったのは大陸において間違いない事実でもある。そんな中で、王朝に居る者全員が腐っていると断じるのは、早計に過ぎないだろうか。一歩でも間違えればきっと、乱世となる。まるで薄い氷の上を歩いているような、今の漢王朝を支えて照らそうとする者達が確かに居る。関羽の目の前にも、一人。同じような想いを持ち、同じように志を持った、そんな自分と似た少女が選んだ道。「……玄徳様に、会えてよかった」「そう? 私も会えて良かったよー、こうやって皆が繋がっていくのが、一番素敵だよね」そう言ってやはり、最初にあった時と同じように、今度は関羽の手を取って微笑む。その笑顔に、今度こそ関羽は息を吐いて破顔した。人々に平和を齎せる人。それはきっと、力のある諸侯でも出来る。しかし、その平和の上に笑顔を溢れさせる人は居ないだろう。だが、劉玄徳。彼女ならば、もしかしたら。「かないませんね。 貴女には」武、そして将器や容姿を買われて請われた諸侯の声よりも。同じ志を持つ芯を持った少女の想い。関羽は、自然に両の手を合わせて礼を取っていた。「わわっ、困るよ! 私も劉協様と天代様に仕えてるんだから」「それでも、私は貴女に仕えると今の話で決めたのです。 私の真名を受け取ってください」「うー、いいのかなぁ……うーん」結局、桃香は関羽の真名を受け取ることになった。勤めている店への事もあるので、実際に仕え始めることになるのは店を出た後になるそうだ。その時、同じように給士をしていた張飛も、一緒に紹介することを約束した。翌日、その事を一刀へと相談した桃香は、この離宮へと案内するように指示される。そして、この一事が一刀のある考えを決定付けた。桃香の元に、関羽と張飛が来たることになる。前から考えてはいたが、それでも踏ん切りが付かなかったことが出来る様になってしまった。桃香が部屋を出た後、一刀は一人呟いた。寂しくなる、と。 ■ 目を西へ多くの山と丘で、平地が見えないこの場所は上党、壺関の近くである。この場所では、黄巾党の動きが特に活発であった。原因は、陳留で曹操軍とぶつかり合って、何とか逃げることの出来た張角と張宝の二人が落ち延びた場所。それがこの場所であったのだから、分かる話だという者だろう。黄巾を仰いだ者たちが、一心に仕える二人を迎え入れて奮闘しないわけがない。おかげさまで、この地方の黄巾党たちは盛んに動き目立つことになっているのだが。そんな張角と張宝の二人の表情は暗い。曹操軍により二人の妹である張梁が捕らわれたせいである。元々、彼女達は旅芸人であり、その歌で大陸を取ることを目標に歩いてきていた。ところがどうだ。自らの歌が原因となり、一部の黄巾党が暴走を始めてしまい、朝廷と完全に敵対することになってしまった。張三姉妹からすれば、正に青天の霹靂な現実が突然降りかかってしまったのだ。この、朝廷に反旗を翻した首魁と成り果てた事も、重い気持ちを抱える一つではあるが何よりも。寝食を今まで共にし、辛いときも苦しい時も一緒に大陸を歩いてきた張梁が居ない。それが、彼女達にとって最も落ち込む原因であったのだ。「あ、ほら天和姉さん。 今日は真鯛だって、一緒に食べよう?」「うん……ちぃちゃん先に食べてていーよ?」「何言ってるの、この前もそう言って結局食べなかったじゃん。 死んじゃうよ」「あはは、それは困るね……うん、じゃあ私も食べるよ」張角に至っては、食事の量も減り、目に見えて元気がない。張宝はそんな姉を励まそうとしているのか、明るく振舞ってはいるが、こちらも空元気であった。そんな風に、気丈に振舞う張宝が、モソモソ食べ始める姉を見てから食事を取り始めると部屋の扉が開かれる。現れたのは、この地に辿りついてから甲斐甲斐しく二人の世話をしていた、裴元紹(はいげんしょう)という男。人受けの良さそうな笑みを作って、小柄な体躯に猿と言えそうな顔付き。やたらと長いコック帽の様なものを被り、二人へと礼をする。噂では、その頭髪はちょっぴりさびしんぼであるという話だが、真偽は定かでは無い。張角達が摂っている料理の乗っている卓の傍まで、帽子の先が上下していた。「朗報ですって、お二人とも。 張梁様の生存が、今しがた確認できましたぞ!」「え! 本当!?」「れんほーちゃん生きてるの!?」裴元紹の言葉に、張角と張宝は勢い良く立ち上がった。食事の椀が零れ落ち、床にぶちまけられたが、それすらも気にせず視線を裴元紹へと送る。陳留で捕らわれたという話を聞いて以来、張梁の生死は不確かだった。洛陽で行われた戦のせいで、きっと処刑されている。陳留へと密偵を送っても、誰一人として報告を持ち返る事無く行方が知れなくなった事もあり言葉にせずともそう思っていた二人にとって、裴元紹の口から齎された報告は確かに朗報であった。「どうして分かったの?」「ええ、ええ、親友の周倉が一晩でやってくれました。 陳留に居る張梁様と話す事は叶わなかったそうですが 御身が無事であることはしっかりと確認したと」「そうなんだ……良かったよぉ~」泣き始めるのではないかと言うほど、顔を歪ませて安堵した張角ににっこりと笑う。裴元紹は、落ち着き始めた二人に向かって、張梁を救出する方法があるかもしれないと口を開く。独断ではあるが、張梁が生きていた時の事を考えて西の方に手紙を送っていたそうだ。宛てた先は、騎馬民族で知られる羌族。漢王朝の統制の中にあらず、異民族と呼ばれる者達へと宛てたものだ。「ええ、ええ、既に、軍備を整え始めていることが分かっておりまさぁ。 近い内に、我々の要請に答えて動き始める筈。 そうなれば、王朝の目は見える反乱となる西に向かうって事になりまして、ええ」そう、主だった涼州でも力のある人物へ、手当たり次第に書簡を送り続けていた。そうして西に眼が向いた時、張角と張宝の為に考えた作戦を実行に移せるのだ。すなわち、陳留で捕らわれの身である張梁を助け出す為に反乱を起こす機であると。「で、でも……乱を起こしたら」「天和姉さんっ! もう私達、普通に反乱軍の首魁ってことになってるかも知れないんだよ。 だったら、もう……人和を助けて、大陸から逃げたほうが……」勢いよく話始めた張宝であるが、言葉尻は窄んだ。今、彼女が言った事は自らの夢を放棄することに等しかった。大陸で、自分達の歌を聞いて幸せになってもらいたい。そんな、何処にでも転がっているような、それでも大きな大きな大望。それを諦める。とはいえ、他に張梁を取り戻す手立てなどない。少なくとも、張角も張宝も、そんな妙手は思いつかなかった。「……れんほーちゃんの為、だもんね」「そうだよ……人和が居ないなんて、そんなの嫌だもん……」「うん……諦め、つくよね」「うん」「こっそり、救えないのかなぁ?」面を上げて、そう言った張角へ裴元紹は首を横に振った。こっそり救えるのならば、とっくに救っているということだ。張角は、あまり期待はしていなかったが、この答えに肩を落とした。乱が起きてしまう、張梁を救う為に。この事実に、張角の気持ちはまたも沈みそうなってしまった。慌てて張宝が姉を慰め、力ない笑みを浮かべて大丈夫だと答える。陳留は平時であるにも関わらず、すぐさま一軍を持ってぶつかれるような非常体勢を維持していた。正直、その物々しさは下手に武装した砦を攻めるよりも恐ろしかった。張梁を取り返すには、どうしたって一軍をぶつけて中へ救出隊を送る方法しか思い浮かばなかったのである。裴元紹がどれだけ頭を捻っても、これしかなかった。二人の間で結論が出たのか、張宝は裴元紹へと向かい合って頷いた。それを受けて、裴元紹は首を縦に振り力強い足取りで踵を返す。自らが仕える主が、自身の提案に是を返した。これ以上話をする必要は、裴元紹にとって無かったのだ。話よりも、張梁を救う方法に全精力を傾けねばならない。張角、張宝の部屋を離れて、自室には戻らずに少し離れた小屋まで歩を進め中に入る。そこでは、件の策を進める、書簡の作成が行われていた。中に居る人物は一様に、官吏の服を着込んでいる。上党の壺関へと勤めていた者達であった。ここを制圧した際に、文字を書けるからと取り立てており、妻子を人質にして強制的に働かせているのだ。勿論、黄巾党の為に。「おうおう、韓遂とか馬騰にもう一度書いてくれ。 贈り物もちゃんと送ってな」「い、いつまでこんな事をさせるのだ。 も、もう何枚も、か、書いたではないか」「いや、いや、そんな事は俺に聞かないでくれって。 あちらさんが動いてくれるまでは何度もだ」そこで言葉を切り、裴元紹は一つ懐から巾着のような袋を取り出す。その中に入っていた小さな物を手に取って、男へと手渡した。「ほら、これを最後に使ってくれよ」「こ、これは……馬鹿な、何故こんなものをお前が……」途端、動揺に震え目を向く男に向かって、裴元紹は相変わらず人受けの良い笑みを浮かべていた。歯の根が合わず、首を振る男の肩を抱くように、手を載せて耳元で囁く。それは男にとって、裴元紹の声が死神の足音に聞こえるようであった。「俺達はもう仲間、仲間じゃないか。 なぁ?」「あぁ……なんということだ……」「書けよ、もう遅いんだから。 二度も三度も四度も、同じことだろう? なぁ」「……」生気の無い目を向けて、男はしばし裴元紹を見やったが、やがて頭を垂れて墨に筆をつける。その様子をしっかりと確認してから、部屋の扉を開けて外へ出た。洛陽の失敗は、在り得る事だと彼は考えていた。波才や馬元義と直接顔を合わした際に、彼らの顔つきと目を見てそう感じていたのだ。力や知は、己よりもあるかもしれない。馬の扱い方も長けているし、若さから発せられる意気が妙な求心力も生んでいた気もする。だが、彼らは若さ故だろうか。愚直でもあり性急でもあった。馬元義から洛陽を落とす手順を聞いた時、裴元紹も行けるのではないかと思ったがしかし。彼に二の足を踏ませたのは彼らの作戦ではなく、若さのせいだった。そんな彼が、失敗した時の事を考えなかった筈が無い。張三姉妹を熱狂的に支える一人の男として、馬元義や波才に神輿にされた三人の安全の為に陳留から官渡、そして上党への道を黄巾の者たちへ指示し、確保していた。張角と張宝が曹操軍から逃げ切れたのは、決して偶然ではないのだ。三人揃っていれば、用意していた幽州から北へと向かう道に案内したのだが、そうは問屋が下さなかった。張角と張宝を迎え入れた裴元紹は、当然ならが一人足りないことに気がつく。もちろん、これも予想され得る事態ではあったので裴元紹はすぐに二人を確保して安静にさせた後に行動を起こした。それが、直接反乱を起こした黄巾党に向かう王朝の目を、他所へと向けさせる事だった。つまり、この場合は涼州へと。「若者の尻拭いをするのが、大人の務めってやつだがねぇ……」傾き始めた陽に目を細め、視線を西へ投げかける。既に涼州では軍備を進めているという情報は確かな筋から入手しているのだ。乱を起こす機を窺っていると見て、まず間違いない。今度の書で動かなかったとなれば、涼州の動きは変を待つという行動方針が透けて見える。その場合は、陳留以外の場所に一度、黄巾党が動く必要があるのかもしれない。「……どっちにしろ賭け事になるって。 なぁ。 まったく、足りない頭を動かしたら熱がでちまうよ」一人ごちるように言って、裴元紹は自室へと向かった。晴れる日よりも雨の日の方が多い、洛陽の雨季の頃であった…… ■ 外史終了 ■・脳内恋姫絵巻いらっしゃいませっミ☆~ほやりんッ給士かんかんちゃん~(愛紗・鈴々)