clear!! ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編5~clear!! ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編6~今回の種馬 ⇒ ☆☆☆~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編7~☆☆☆洛陽は毎日のように天から降りしきる雨に晒されていた。今まで良く晴れて乾いていた分を取り戻すかのように。そこまで強い雨が降る事はなくとも、同じ雨量で淡々と降り注ぐ。雨季ではあるが、雨の日がここまで続くことも稀ではあった。「やれやれ、天が泣いておるわ」一つ呟いて、雨露を避けるように、張譲は宮内の屋根の下を通り目的の場所を目指していた。雨のせいで随分と遠回りすることになったが、器用に雨水を避けてある建物の中へと入っていく。靴についた水分を入り口で振り払い、幾つかある棚を眺める。ここは、何の変哲もない書庫であった。この書庫は彼が良く使うところである。しかし、張譲がこの書庫に用事があるときは何かを読むためではない。この場所で本を手に取ることは、実に自然であるからに過ぎなかった。一つの棚に近づいて、彼はある本を抜き取って中身を確認する。本の背に書かれた表題は、女体盛りの盛り付け天の巻。こうした本は、余程の者でなければ手に取ることすらないだろう。流れるように開いた本の隙間には、紙が挟まっていた。それを抜き取って、紙に書かれていた内容をその場で確認すると懐に入れて、張譲は本を元の場所に返した。「……張譲殿?」「む?」声をかけられて振り向く。やたら長い髪を髪で縛っている初老の男性が、そこに立っていた。その両の手には、4~5冊ほどの書を抱えている。「段珪か……」「珍しいところに居られますな」「お主もな」「わたくしは、劉協様が読まれた本を返しに参っただけですが」「声が掠れておる。 病を患ったか?」「先日まで寝込んでおりました」言いながら、張譲の脇をすり抜けて本を元に戻し始める。どれも劉協の勉学の為に選んだ物なのだろう。経済や儒教、歴史に関する本ばかりであった。棚を挟んで、本を置いたり抜いたりする音だけが室内に響く。耳朶を打つのは、外で降る雨の音だけだった。全ての本を棚に戻し終わった段珪は、ふと口を開いた。「……趙忠殿」「うん?」「趙忠殿を初めとして、帝には余り会われていないそうですな」「そのようだ」お互いに姿は見えない。背の高い本棚を挟んで、張譲と段珪の声だけが二人の存在を示していた。「帝のことも含めて、果たしてこれは正しいことでしょうか?」「ふむ。 私から言って皆が聞けばよいがな」「十常侍を取り纏める張譲殿ならば可能でしょう」「ふっ、十常侍か」まるで自嘲するように張譲は鼻で笑った。眼を細め眉間を寄せた段珪の表情は、当然見えない。同様に、わずかに口角を吊り上げた張譲の顔も。「段珪」「はい」「十常侍はおそらく、その席が近い内に空く事になる」「……それはどういう意味で?」「そのままの意味だ」「……」段珪は彼の言葉に、一瞬だけとはいえ怒気を孕んだ顔を見せた。すぐに表情は無表情に戻り、一つ喉を鳴らす。言葉をそのまま受け止めれば、十常侍のポストは空くことになると張譲は言っている。そしてそれを段珪に話す意味は一つ。その空いた席に、段珪を推すつもりなのだろう。そこまでは深く考えなくても察しがついたが、それ以上、張譲の考えを読みとる事は叶わなかった。段珪とて、今まで宮内の中で宦官として働いてきた。こうした腹の探りあいが下手な訳でもない。劉協の傍仕えとなってから、しばらく一線からは退いてはいたものの、それまで熾烈な謀の争いを繰り返していたのだ。そんな段珪も、この張譲の言葉に裏があるのかどうかは計れなかった。一つ、確実なのは。張譲は帝を避けている宦官達が居るのを知っていて、それを黙認している事実があるだけ。当然、彼自身が諌めるつもりも無いだろう。そして、帝の代わりに会っているのは天代である。この動きの裏にある思惑は、帝が一刀への悪感情―――この場合は嫉妬を―――募らせる事だと段珪は思っていた。本当に一刀に協力するつもりであるのならば、この動きを抑える必要があるはずだ。それをしないと言うことは、つまり張譲が協力的であるのは裏があると見て然るべきだった。しかし、それはまぁいい。とにかく段珪にとって大切なのは、十常侍になり得る可能性を潰すこと。そして、この場に張譲が居ることは、あの時の段珪の自室に書を送った者は、この男であることを裏付けているのだろう。「……失礼しまする」短く告げて、段珪はゆっくりと書庫から出て行った。一刀から直接頼まれた訳ではない。ただ一刀が気にしているという事で劉協の口から段珪へと零れたのを聞きかじっただけである。そして、上っ面だけでも段珪へ宦官達の動きは黙認すると答えた張譲にとっても、これが痛い話になる事は無いのだろう。そんな考えをして部屋を立ち去った段珪を、扉の開閉する音だけで確認した張譲はゆっくりと段珪の居た本棚の列まで歩く。先ほど段珪が戻したばかりの本を手に取って、開いた。「……未だ帝は動かず。 時間はもう無い」ペラリと紙をめくる音が、雨の音に混じって聞こえた。 ■ 金獅走れば将に当たる「晴れたぁー!」今現在の時刻、おそらく朝八時くらい、多分。体内時計で測った時間を予想しつつ、一刀は窓から久しぶりに差し込む陽の光を浴びて腕を伸ばす。都合2週間も、雨は強く降っていた。今日は久しぶりに雨雲も息切れしたのか、陽光が気持ちよく宮内を照らしている。窓を開けて、景色を眺める。湿った空気が入り込んで、雨の後の独特な匂いを運んできた。宮内は雨露が反射して、キラキラと眩しい。しばし外を眺めていた一刀であったが、ふと視線を机に向ける。昨日はてんこ盛りと言える書簡や竹簡の数も、随分と減って机が何時もより広く見えた。そう、昨日は頑張って消化したのである。どうせ明日にはまた、結構な量になっているのだろうが、それでも。この一時的な机の広さに、一刀は人知れず達成感に満たされていた。「……よし、外に行こう」そうして出た結論は、外に出ることだった。今までの天候のせいで、碌に外へ出ていない。桃香と剣を振り合ったり、例の授業で離宮から出ることはもちろんあった。しかし、やはり二週間以上も缶詰であったのだ。外に出てお日様の元で過ごしたいと思うのは、自然なことだろう。まぁ、おかげさまで色々と溜まっていた考え事に耽る時間も持てたのだが。まず、一番大きなところでは徐州の黄巾党が駆逐こそしていないものの、落ち着きを見せた。袁術から七乃の文字で、とりあえずは平定できたという報告が届いている。放棄された城砦に追い詰めた賊軍を、大量の衝車でどーんっ! らしい。良く分からないが兵器を用いて相手の心を折ったとかそんな感じだろう。地方に派遣された官軍も、同じように行軍して攻め立てたらしいが、結局は袁術の軍勢だけで決着をつけてしまったようである。手紙には冗談だろうが、報酬として大量の蜂蜜を要求されていた。そんな大陸で大きな動きを見せている黄巾党も、今は大人しい。このまま黄巾の乱が終わってくれるのを願うだけである。また、涼州で軍備を進める動きが認められる件もある。あれは使者を送ったところ、異民族の動きが活発になってきており、その対応をする為との返答があった。ただ、出てきた名前が『韓遂』の二文字であったため、一刀は油断できないと感じた。歴史を見ると、韓遂という人は中央に反乱を続けて、ついにはそのまま果てたという人物評である。確か黄巾の乱の前後に一度、反乱を起こしている筈だ。近い内に直接赴いて、釘を刺しておいたほうが良いのかもしれない。その時間が取れるかどうかは、甚だ疑問ではあるが……身近なところでは、あの食事会の後で袁紹からは正式に真名を預けられた。告白された事もあって、一刀は最初どうしたものかと悩んでいたのだが向こうから何の反応もないし、会った時に実に今まで通りだったので悩むのをやめた。正直、返答を求められたらどうしようかと随分悩んでたし、今も結局答えは出ていない。酒の席での事だったし、向こうも忘れているのかも知れないと思いながらもずっと放っている形になっていた。あの食事会の日は、桃香にとっても大きな出来事があった。関羽と張飛、二人に出会い礼をとった。桃香も、二人のことが気になるようで雨の中でも傘を差して、時たま食事を兼ねて会っているようである。未だこの離宮には訪れていないが、そろそろ店の方も勤めが終わるようであり段珪に関羽と張飛を離宮へと迎え入れる手配を頼んでおくべきだろう。後もう一つ。忘れてはならないことがある。董卓と劉協が、離宮に訪れた際に出会ったのだ。西園八校尉に選ばれて、離宮へと入る許可を得た彼女は一番最初に訪れてくれた。僅かな時間の邂逅ではあったが、諸侯との繋がりを手に入れた劉協はいたく喜んでいた。その時に、一刀は董卓から宝石のようなペンダントを貰っている。最初は貰うのはまずいと断った一刀であったが、西園八校尉に選んでくれた礼であり、劉協からの薦めもあり。何よりも、この離宮に居る者以外は知らないのだからと言われて、一刀も両手を挙げて降参した。せっかく持ってきてくれた董卓の気持ちを無碍にするようで悪いという罪悪感もあった。何故かその時に、一緒にくっついてきた賈駆に一刀はギロリと睨まれてしまったのだが。睨むくらいならば止めて欲しかった一刀である。「やることは一杯あるけど……」そこで一刀は頭を捻るのをやめた。休日という訳ではないが、せっかく晴れているのだ。外で何をしようかと思考を切り替えた時に、ふと頭に過ぎるのは麗羽から貰った馬のこと。暇が出来た時にちょくちょく顔を出して仲を深めていたが、最近は雨が続いた事もあって任せきりである。今から行って、昼頃に戻ってくれば丁度いいかもしれない。「よし、決まった」今日は、金獅に構ってあげる日になった。ところが、朝食を取った際に桃香に頼まれて一緒に剣を振る事になってしまった。練兵場で振るのかと聞いたところ、外で振りたいとのことだった。結局桃香も、一刀と一緒で外に出たかったのだろう。恋は屋上で二度寝する為に枕を持って向かったという目撃情報もあった。確かに、久しぶりに晴れたのだからみんなの気持ちも分かってしまう。桃香と一緒に剣を奮えば、政務をするのは夕方だけになるだろう。そんな時間まで遊んで、働く気にはならないかも知れない。今日くらいは自主的に休みにしてしまおうかと、流される一刀だった。そんな訳で。今、一刀は練兵場を目指して桃香と二人して歩いていた。それぞれ、刃を潰した剣を二振り持って。久しぶりの陽射しに気分が高揚しているせいか、話かける桃香の声も楽しそうだ。自然と歩調を合わせて、お互いの距離も触れるか触れないかと言ったような微妙な距離を保っていた。「ねーねー、一刀様」「うん?」「一刀様は、髪の長い人と短い人、どっちが好き?」「どうしたの、いきなり」「いーから。 教えてよ」「別に良いけど……まぁ似合ってれば長くても短くても良いと思うけど」「……うーん、微妙」「微妙っ!? なんかいきなり駄目だし食らったんだけど……」一刀の答えは桃香の中で納得の行かないものだったらしい。他にも好きな食べ物とか好きな声色とか、色々と聞いてきて、素直に答えていく。別に答えることが嫌な訳ではないが、だんだん気まずくなってくるのは、桃香の表情がだんだん翳っているからだ。変な答えを返している訳ではないのだが。「あのさ、桃香……」「じゃあっ! その……」「な、何かな?」一刀の声を遮るように、強い調子で言ったにも関わらず、桃香の言葉尻は萎む。一体何を言われるのだろうかと身構える一刀であったが、実際のところ桃香も何を言おうか悩んでいた。一瞬、そのまんまズバリと一刀の女性の好みを聞こうとして思いとどまる。そう、桃香の話の裏には、一刀への思慕が隠れていた。と、いうのも食事会で言われた袁紹の言葉。酒の席で勢いだったのだろう袁紹の告白。自らを含めて、あの場に居る全員が一刀に対して恋慕を抱いていることを桃香は知った。あの日、ずっと胸に突っかかっていた一刀に対する気持ちが言われて初めてハッキリ分かったような気がしたのだ。それから、何気なく過ごした雨の中の日々。袁紹と一刀の関係がどう変わったのか、桃香は知らなかったがその間に彼女の中で導き出された答えが、一つある。袁紹のように告白することは難しいけれど、この気付いた自分の気持ち嘘は付きたくなかった。だから、一刀に振り向いて貰うために、孫氏に習って一刀の情報を集めることにしたのである。今が正に、その大切な情報戦の初戦であるのだが、中々に一刀の防衛網は硬い。あれもこれも好きだという彼に、桃香も焦れてしまったのだ。「ふぅー……急いては事を仕損じる。 待てば海路の日和あり……」「あの、桃香さん?」「何でもないよ? うーん、じゃあ次は、一刀様が好きな服は?」「好きな服?」「そう、女の子の着る服で!」「メイド服」『『『『『『メイド服』』』』』』「……えっとぉ……?」「どうしたの?」「めいど服って、なに?」「実はもう注文してあるんだ。 桃香の分もあるよ」「え?」良く分からないが、既に注文したというメイド服という物はちゃんと着るようにしようと誓った桃香である。打てば響くような即答っぷりだった。余程好きに違いない。このメイド服、誰よりも先に着て一刀の前で見せなければ。何事も最初の一撃が重要なのだ。奇襲において、もっとも重要なのは初撃でどれだけの混乱を敵部隊へと叩き込むか、だ。桃香の、日々培っている勉学の効果も発揮して、手に入れた情報から一刀に対しての戦略を練り始める。朱里や雛里がこの事実を知ったら、なんという無駄遣いかと嘆くことだろう。もしかしたら、便乗して更に大きな策を張り巡らすかも知れないが。やがて辿りついた練兵場の裏庭。そこで話は一区切りとなり、一刀は桃香の質問攻めから解放されてほっと一息をついた。―――一刀は公孫瓚に会いに行くという桃香と別れて、金獅を預けている厩舎へ向かって歩き始めた。最初こそ、恋も一緒に一刀達に付いて来ることが多かったのだが、夏候惇や華雄を筆頭に血の気の多い武将達から引っ切り無しに来る仕合いの勧誘が鬱陶しいのか。ここ最近ではあまり来ることも無くなった。勿論、気が向いた時は一緒に来てくれるのだが。そんな恋に突っかかる者達の中でも、孫堅のことは残念だった。今日聞いた話ではあるが、彼女の腕は傷こそ治ったものの肩より上に上がらなくなってしまったようなのだ。利き腕でもあったので、武人としては大きなハンデを背負ってしまった事になったのだろう。孫堅が泣き真似をしながら一刀にそう言った時に、隣に居た黄蓋に歳のせいだと茶化され再びじゃれあいというには危険そうなコミュニケーションが発生したのだが。巻き込まれないように、桃香と一緒に汗を流した。一刀と桃香の剣の稽古が終わってもまだ戦い続けていたので、そのまま放って置いて来たがそれに呆れるよりも、孫堅と黄蓋の異常な体力の方が驚いてしまう。一度だけ、一刀も脳内を動かした後の影響が無いか確認するためにまだ怪我が治っていない孫堅と手合わせをして貰った事があったが、随分と手加減されていたのだと改めて判ってしまう。“馬の”や“白の”は悔しがっていたが、きっと元々が旧ザクとガンダムくらいの性能差があるに違いない。今しがたの出来事を思い返していると、目的地にいつの間にか着いていた。「こんにちは」「ああ、天代様。 久しいですね」「久しぶりに様子を見に来たんだ。 どう?」「ええ、奥に居ますよ」厩舎の管理をしている者と二、三声をかけて、一刀は改めて中に入る。一応、この場所では馬の管理もしっかりと行われており、馬房も分けられていた。金獅の扱いはその中でもトップクラスである。言わずとも分かるだろうが、一刀の役職のせいだった。この場所で金獅は、帝に献上される名馬達と遜色ない扱いをされている。一応軍馬ではあるので、運動はしっかりとしているだろうし、食事も贅沢でそこいらの馬と比べれば、良い暮らしを満喫している筈だった。その筈なのだが。「ブルルッ! ブルッ、ブルッシャアオラッ!」「め、めっちゃ興奮していらっしゃる……」一刀はその豪快な嘶きに、入り口で足を止める事になった。原因は、今来たばかりの一刀には不明だ。しかし辿りついた馬房の奥で、前足をしきりに掻きながら鼻息を荒くして、うろうろと落ち着かない様子で徘徊していた。これでも一応、何度も何度も顔を合わせに来て、時にはその背に跨ることもある一刀である。金獅も一刀のことは覚えているし、今まで嫌われている様子など微塵もなかった。とにかく、このままでは暴れだしそうなほど興奮しているので、止めようと一刀が一歩前に歩き出した時であった。鈍い、木柵の折れる音が響いて、木の片が一刀の顔の真横を通り過ぎる。一拍遅れて、地を伝って足に響く震え。金獅が馬房柵を蹴り上げて一部を破壊していた。自分よりも体重も大きさもでかい金獅が興奮していると、一刀も流石に怖かったのだがこれ以上はまずいと感じて勇気を出して声を出して近づいた。「おまっ……何してんのっ!」「ブフーッ……」そこで初めて一刀に気がついたのだろう。金獅は一瞬だけ動きを止めて、声をかけた一刀へ短く嘶き視線をギロリと向けた。その形相は凄まじいの一言に尽きた。額には血管らしき物が浮かび上がり、眼は見開いている。耳を後ろに伏せて、ピンっと張っていた。上唇からチラリと覗ける白い歯が、今では凶暴な虎のように見えてしまう。慄いた一刀であるが、ここで負けられないという妙な感情が奥底から沸いて来て、キッと睨み返す。そして、硬い声と共に一刀は言った。『あ、本体、これは―――』『ちょっと待った!』「こんなことしちゃ駄目でしょー!」「ブヒヒヒィーン!」一刀が脳内の制止を振り切って、折れた木柵に指を向けて叱り飛ばした直後、金獅は知るかボケ、と言った様子で再び興奮したように嘶いて前足を強い調子で掻き始める。しかも、一刀からふっと視線を横にずらして、そっぽを向いてである。動物のすることとはいえ、ちょっと頭に来てしまった。この木柵も、ただじゃない。これを直す為に余計な経費がかかることも含めて、二度としないようにしっかり躾けなくてはならない。一刀は強い調子で馬房の中に踏み込んで、金獅の轡をぐいっと引っ張る。眼は口ほどに物を言う、と言われている。それは動物でも変わらないだろうと、一刀は真正面に金獅を向けさせるつもりだった。体重差があるので、思い切り引っ張らないとこちらを向かなかったが何とか真正面に金獅の顔を持ってこさせる事に成功する。そして叱り飛ばそうと口を開いた瞬間、金獅の口がガバっと空いて一刀の額と顎を挟んだ。「おま、っほわぁぁああぁぁぁああっ!?」『本体!?』『馬に食われた!』『クロスカウンターだ!』『やめろ馬鹿っ!』金獅の口の中から発せられた、一刀の叫びが馬房に響いた。幸い、そのまま噛み続けることなくすぐに離れたが、ガッツリ噛まれて額から血が滲んだ。そのいきなりの凶行と痛みに蹈鞴を踏んで、尻餅を付く一刀。何か嫌な感触が尻に感じる。余り考えたくないが、鼻腔を付く匂いからして馬糞の上に着地した臭い。そう、臭い。そんな一刀を一瞥し、くっちゃくっちゃと口を動かし、ブフフッと鼻の息を吐き出して再び首を背けて前足を掻き始める金獅。せっかく、せっかく楽しく世話をしてあげようと思ったのにこれは何だろうか。無視されて噛まれて痛い上に臭い。踏んだり蹴ったりもいい所である。怒るよりも、悲しみの感情のほうが強くなってきて、一刀はヨロヨロと馬房から出る。勝手な感傷なのかも知れないが、一刀は何か、大切な物に裏切られた気持ちを抱いた。そんな暗い顔をした一刀に向けて、金獅の一際高い嘶きが響いた。まるで一刀に何かを訴えるかのように。恨めしそうに視線を投げかけた一刀を確認してから、口をくちゃりと動かして再び前足を掻き始める。「ヒーンッ!」「何が言いたいの……俺に何を求めてるのお前は……あぁ、頭と顎が痛い……」『本体、あのな、これは馬の感情表現の一つで―――』情けない事に、泣きそうな声になってしまっている一刀は金獅を一つ見て頭を抑えて跪く。しばし痛みに耐えて、脳内の講釈を聞いているとようやく金獅の行動に納得が行く。前足を掻く動作というのは、馬にとっての感情表現であり何かを欲しがってたりすると地面を掻くそうだ。この場合、正面に回った一刀の顔を餌と勘違いしたのだろう。馬の視野は広いが、真正面は見づらく、真後ろは死角になっている。恐らく、正面に回った一刀の顔はモザイクが掛かったかのようにぼやけていたに違いない。つまり、金獅の行動は最初から一貫して、飯をくれと要求していたのだ。「あぁっ!? これは……って天代様っ!?」ようやく合点がいった一刀は、脳内の講釈が終わると同時に響く声に振り向いた。そこに立っていたのはセルフモザイクが掛かっているせいで一瞬誰だか分からなかったが声から公孫瓚だと理解した。恐らく、先ほどあげた一刀の情けない悲鳴に様子を見に来たとかそんな感じだろう。公孫瓚が見た場面は、荒れた馬房の中で血を垂れ流し、馬糞に塗れながら蹲る天代とそんな一刀の前で必死に前足を掻いてHEY! 飯カモン! 飯カモン! と要求する金獅の姿であった。概ねその様子から、公孫瓚は理解する。一刀が、馬に関して素人であることと、この行動の意味が分からず無茶な事をしたのだと。とりあえず怪我をしているのだ、大事になっていないか確認をしようと近寄って、額を抑えて涙目になっている一刀の手に触れる。「天代様、怪我は大丈夫……えっ、あれっ!?」「だ、大丈夫だよ、一瞬だったから……痛いけど」「……いや、え……へ?」一刀の手を取って、覗き込むように額へと視線を向けたまま公孫瓚は流れ込む不可思議な感情に、頬を紅く染めてそのまま混乱し始めた。俯いていた一刀は、公孫瓚のその様子には気付かなかった。額と顎に走る疼くような痛みもあったが、丁度しゃがみ込んだ公孫瓚のスカートの中身がチラリチラリと微妙に動いてるせいで、隠れたり見えたり出たり入ったりしていたせいで意識が脳内含めてそっちに向かった一刀は、徐々に悲しみが中和されて精神が回復していく。手当てしに近づいた事も忘れて一刀の手を握り続け、一人で慌てて挙動不審になった公孫瓚。頭も上下させはじめ、前足を掻く速度がいよいよトップスピードになって藁の無くなった地面をコツコツ叩く金獅。手詰まり感溢れる馬房の空気を切り裂いたのは、公孫瓚を探しにやってきた桃香の声だった。「あぁー! 仲良しぃーっ!」瞬間、公孫瓚は震えさっと一刀の手を離してその場から飛びのく。そこでようやく、一刀も額に手を当てて呻き始める。微妙に事の次第を見ていた桃香は、そんな一刀にジロリと恨めしそうな顔を向けていた。「と、と、桃香!?」「一刀様って、気が多いんですね! たった数刻見ないだけで!」「あ、桃香……あのな、私は手当てをしていただけで……」「白蓮ちゃん、見つめてるだけじゃ手当てにならないよ?」「うっ、そ、それはそうなんだけど」「それに、顔が赤いし、怪しい!」「んなっ!? こ、これは暑かったんだ、そう、そうほら、久しぶりに晴れたし」「ぶー……お暑いですね、確かにぃー」何故かしどろもどろに弁解を始めた公孫瓚のおかげというべきか、せいでと言うべきか。見事に矛先は一刀から公孫瓚へと移り、放置されてしまった。自分も関わっていそうな話でもあるので、話の輪の中に飛び込む勇気はない。一刀はとりあえず、甘えることは止めて自分で手当てをしようと立ち上がり、動き出す。ついでに、金獅の食事もあれば持って来るべきだろう。桃香と公孫瓚の喧騒の横で、疲れてきたのか若干ペースを落とした金獅の高速前足掻きを見つつ一刀は馬房を後にした。「ちょっと待て、いくら何でも絡みすぎだ、もしかして桃香って天代様のこと好き―――」「わぁぁっ! わぁぁーーっ!」「っ! や、やっぱり!」「やめてよ白蓮ちゃん! そんな大声で言わないでよっ!」『なんか聞こえてるぞ、本体』『むふっ』『“蜀の”、変な笑い声を出すなよ……気持ちは分かるけど、うふっ』『“袁の”も“蜀の”もうぜぇから』そんな二人の喧騒をしっかりと聞きながら、脳内の雑談を無視して。―――「それで、あの場合を考えると金獅が飼葉を欲しがっている、ということになるんです」「あ、うん……」ここは洛陽から少し離れた場所。荒野の中を気持ち良さそうに歩く金獅の背に跨って、一刀は町から離れたこの場所で突然に始まった公孫瓚の授業を聞くことになってしまった。あの後、しっかりと自分で怪我の手当てをした後に金獅の食事を持っていくと流石に桃香も公孫瓚も平静を取り戻していた。やっと来たかと食事を物凄い勢いで取り始めた金獅の横で、公孫瓚と桃香から今日の予定を聞かれた。素直に、金獅に構ってやるつもりだと告げると、公孫瓚から愛馬のストレス発散の為の遠乗りに誘われた。少し前に文醜から、一人でふらついているのを咎められ、それを頭の片隅に残していた一刀は躊躇したが公孫瓚が護衛も兼ねて付いていくと言ってくれたので、それならまぁ良いかと頷く。桃香も同じように来ると言ったのだが、彼女には馬が無かった。紆余曲折を経て一刀の背に乗ってついてくる事になったのだが、洛陽を出る最中に音々音に捕まっている。今日はきっと、一刀と同じように自主的な休みということにしていたのだろう。肩を落として離宮に連れ戻される桃香は、ねねよりも幼いのでは無いかと思うほど情けない声を残しながら去って言った。「それと~これは知っておいた方が良いと思うんだけど、馬は感情を耳や眼でよく表すんだ」『さっき聞いた内容と同じ話なんだけど』『そりゃ、俺だって白蓮からの受け売りだし』『俺も翠や蒲公英の受け売りだしな』そんな訳で、一刀にとっては二度目となる馬の習性についての授業を受けているのだ。まぁ、それを知らずして怪我をした一刀なのだから嫌だとは言えない。こうして話してくれているのも、純粋に公孫瓚からの好意だろうことも分かっていた。しばし熱心に話してくれる公孫瓚の言葉に耳を傾け、相槌を打っていた一刀であったが何もしてないのに金獅が速度を上げて駆け足をし始めた。「あっ、っと……おい、どうした」「ははは、馬は走る生き物だからね。 気分が良くて走り始めたんですよ、きっと」「そっか……よし、ちょっと走ろうか」「お付き合いしますよ」そんな突然の走り始めた金獅に、さくっと対応して後をついてくる公孫瓚の声が後ろから飛んでくる。彼女が跨ってる馬は白馬ではなく、立派な鹿毛を持った、顔に流星が一本走る凛々しい顔つきの馬であった。それに一刀は白馬では無いのかと尋ねたところ、確かに白馬の愛馬は居たようである。その白馬は客将として公孫瓚の元に居る趙雲に、譲ったという話だ。実は、公孫瓚にとっては実に身を切るような思いで手放したらしい。「本当は、譲りたくなかったんだけど頑張ってくれてるから、しょうがないかなって」「そう……苦労してるね」「ふふ、その慰めだけでもありがたいです」実際、頑張っているからというよりは、趙雲に出て行って欲しくないというのが本音のところだった。自らが生まれた頃から育てた白馬を譲ることで、趙雲は大きな恩義を感じることだろうという打算も勿論、公孫瓚は含めて手渡したのだ。まぁ、未だに客将のままでもあるので趙雲が出て行ってしまう可能性もある。そうした場合に未練が残らないかどうかは、正直言って怪しいところであった。そんな話を馬上でしていると、徐々にだが金獅の速度が上がっていく。次第に会話をするには辛くなり、一刀も公孫瓚も、ただ馬を走らせる作業に没頭していった。馬に乗ることは、何度かあったとは言え、決して一刀は上手い訳ではない。脳内の自分達は別としても、全速力で走る馬の上など、馬上で手綱を握るだけで精一杯だ。集中しないとすぐに落馬しそうになる。ただ、金獅は図体も大きく走り方も人を乗せるのに慣れているのか、多少の揺れでバランスを崩しても意外と落ちないで済むのだが。そんな金獅も、やがて全速力で走る事には飽きたのか、徐々に速度も落ちてようやく一刀は景色を見回すことが出来た。流れる景色は、荒野から次第に岩肌の見える丘へと移り変わっていった。遠くに見える大きな岩山の頭に、雲がゆっくりとかかっていく。一刀が周囲を見回せるほどゆっくりと走るこの金獅の背中は、結構気持ちよかった。思わず、一刀は眼を瞑って進路を金獅に任せる。ぶつかる風が気持ちよく、やにわに震う振動が心地良い。耳を打つ軽快な蹄の音が、真下とそのすぐ後ろから聞こえてくる。身体にかかる負荷から、今は坂を登っているところなのだろう。そんな時だった。後ろから、切迫した様子で公孫瓚の声が飛んできたのは。「天代様!」「っ!?」眼を開いた一刀の視界に広がったのは、ちょうど坂の頂上に居て死角となっていた人馬であった。思わず手綱を引いて、その動きにしっかりと反応して無軌道に動く金獅。グリンっといきなり反転した金獅の動きに、一刀の方がついていけなかった。一瞬の浮遊感。自分が落馬したことにいち早く気がついた一刀は、ついで来るだろう衝撃に硬く眼を瞑る。そして、感じた衝撃は随分と柔らかく受け止められた。「大丈夫ですか、天代様」おそるおそる眼を開けた一刀は、すぐ後ろを走っていた公孫瓚に受け止められた事に気がつく。器用に足だけで進行方向を操った彼女は、その両手で一刀を引き寄せていた。縺れた体勢に、公孫瓚の愛馬も走りづらいのか、自然と動きを止めていく。「ごめん、ありがとう、助かった」「いえ、その、気にしないで下さい。 一応、護衛もかねておりますから」公孫瓚に捕まっていた一刀は、彼女が下馬すると同時に手を離す。一瞬の出来事とはいえ、こんなただっ広い荒野の真ん中ですっ転ぶことになりそうであった。しばし距離の離れたところに居た人馬も、一刀と公孫瓚に向かって近寄ってくる。金獅はどこか明後日の方向に向かって走っていた。「平気なんー?」「ああ、ビックリさせてごめん、こっちは平気だよ」そう言って、改めて一刀は荒野の真ん中で衝突しそうになるという、在り得ない確率を達成しかけた人を見る。一番最初に向かった視線は、胸部だった。サラシという奴だろうか。豊かな胸をそれだけで隠し、羽織るように着ているマントと袴。露出度だけならば呉の皆様に引けを取らない、豪快な衣装に身を包んだ女性だった。そこでようやく、一刀は視線を顔に向ける。紫がかかった髪を縛って、垂らした前髪から覗く翠色の目が一刀に強く印象を残した。『霞だ……』(知ってる人か……)脳内から漏れた呟きに、なんとなく身構えて一刀は口を開いた。「そっちは平気だった?」「ウチは別に。 器用に避けてくれよったしな」「ああ、良かった。 後ろからだと交錯したように見えたから」そんな女性の声に、安堵する一刀と公孫瓚。特に、公孫瓚にとっては肝を冷やした時であっただろう。「ところでー……さっき天代様とかなんとか言ってへんかった?」「あ、ああ。 俺は北郷一刀。 こっちは護衛で付いてきてくれた公孫瓚さん」「公孫瓚だ」「北郷って……確か、えぇー! 本物!?」軽く会釈した公孫瓚と紹介した一刀に、女性の目がまん丸に見開かれる。随分と驚いたようだ。まぁ、そりゃあそうだろう。普通の人から見れば、公孫瓚は幽州の太守であり、一刀は言わずもがな。指を差して驚く彼女には悪いが、せっかくなのだから名前くらいは教えて欲しい。いや、脳内の皆様は知ってらっしゃるようではあるが。「あっ……これは失礼しました。 うちは姓は張、名を遼。 字を文遠いいます。 こんな場所でお偉いさんに会うとは思わず」「硬くならなくていいよ。 気にしないから……張遼さん」「あ、ほんま? 良かったー、堅苦しいの苦手だったんよ」「って、変わり身早すぎないか!?」これが張遼。そんな事を心で思いながら一刀が言うと、すぐさま言葉遣いが変化した張遼に公孫瓚の鋭い突込みが入る。とりあえず悪いのはぶつかりそうになった一刀なので、それは謝っておく。この場に天代と諸侯が二人だけで居るというのも気になるだろうから、経緯を添えて。当然、それを説明すれば馬上で目を瞑っていた一刀の事も分かる。「えぇぇ……失礼かも知らんけど、あほやん、自分」「うっ……否定できん」「張遼、ちょっと不敬じゃないか?」「ああ、いいって別に、俺は気にしないから」呆れられるのも突っ込まれるのも、一刀は覚悟の上だったのでムッとした様子の公孫瓚を抑える。それに良く見れば、彼女の顔はちょっと赤い。腰にはまだ、中身が入ってそうな徳利らしき物がぶら下げられていた。つまりはまぁ、そういうことなのだろう。「で、張遼さんは一人酒だったのかな?」「うん、せやでー! 洛陽に寄った際に奮発して、たっかい老酒を買うたんや。 これがまー、美味いったらっ!」酒の話になった途端、パッと顔に花が咲く。なんでも彼女は洛陽へ寄った後に長安を目指して向かう最中であったそうだ。この先に見えた岩山に立つ桃の木の下で、景色と酒を楽しむ予定だったらしい。ところが、我慢できずに老酒を空けてしまい、あの場で一人酒をはじめてしまったという訳だ。その酒の味と景色に文字通り酔っていたところに、一刀が突っ込んできたようである。「そやぁー! なんだったら、これから出会った縁っちゅうことで酒盛りでもせぇへん?」如何にも良いことを思いつきましたと言った様子で両の手を叩き、明るい調子で誘われた。確かに、一刀はこれからの予定は何もない。というか、今日は休みだ。本当は休みじゃないんだけど。しかし、音々音や段珪達が働いている筈であるこの昼間っから酒盛りというのも気が引けた。「う、う~ん……」「ええやん、ちょっとだけ。 な? 一人酒も寂しいんよ」「けどなぁ……どうしようか?」「え、そこで私に振るの? ……まぁ、私はこの後は用事もないし、天代様が行くって言うなら護衛を兼ねて付き合うけど」「う、うぅーむ……」断る理由はない。強いてあるとすれば、一刀が感じるちょっとした罪悪感だけだ。それに、彼女はあの張遼である。知り合いになっておくのは、悪い選択肢では無いはずだ。「ああ、もしかしてこの後忙しい?」「……分かった、じゃあ少し付き合うよ」「おーっ! ほんまか、絶対無理と思ったけど、言うてみるもんやなー」結局、一刀は出会ったばかりの張遼の提案に付き合うことにした。公孫瓚の馬に二人で乗って、金獅を探してから。暫し探すと、雑草を黙々と食い始めながら糞を垂らしている金獅を捕まえることが出来た。久しぶりに外を思う存分駆けずり回ったせいだろうか。やけに機嫌が良さそうな金獅の背に跨って、一刀達は桃の木が生えそろうという丘へ向かった。流石に三人で飲むんじゃ酒が足らないということで、金獅を探している間に買ってくると言い残した張遼なのだが一刀達が到着する頃には既に先に着いており、酒盛りを始めていた。神速の無駄遣いとは、一刀の言だ。「綺麗だなぁ……」公孫瓚から漏れた言葉に、一刀は言葉無く頷いて同意した。残念ながら、花はつけていなかったが実を成し始めようとしているのか。白い薄皮に包まれつつある桃の木達は一刀達を陽射しの中で迎えてくれていた。桃園というには少し寂しいが、それでも十分、美しい景色といえた。そんな桃の木達が出迎えてくれている足元で、張遼は酒を片手に料理を並べている。その姿は、一刀から見ても言い知れない温かみを感じた。簡単に言えば、絵になっている、という所か。一足先を歩いていた公孫瓚が、そんな張遼を手伝い始めるのを見ながら一刀はしばし、張遼と公孫瓚が桃の木の下で料理を並べるのを見届けていた。酒だけかと思ったら異常な量の食事もあるというのだから驚きだ。「遅かったやん、二人共」「ごめん、急いでたんだけど」一刀と公孫瓚に気がついた張遼から声が掛かる。もしかしたら、案外と金獅を探していた時間は長かったのかも知れない。時計の無いこの世界では、感覚だけが頼りだ。最近では少し、その感覚も掴めて来たと思ったがまだまだのようである。実際のところは、一刀が速く馬を走らせることが出来ないので時間がかかっただけであった。張遼が持ってきた酒は、どれも舌滑りが良く癖が無くて飲み易い。最初こそ、当たり障りの無い話に終始したものの、酒が回ると元々の性格のせいもあってか張遼の竹を割ったような快活さに引きづられるように、一刀達は次第に打ち解け始めた。楽しくなれば、酒が進むもの。おかげさまで、酔っ払いが3人出来上がることになってしまった。かくして、一刀が言うちょっとだけの酒盛りは異様に盛り上がりを見せ始めた。「ほな! うちの一発芸、見せたるでぇー!」「おーやれやれ!」「やんや、やんや!」「この何の変哲もない桃の木が、薪に化けよります!」言うなり、彼女は自らの獲物を振って硬いと言われる桃の木を切り刻む。丁度、彼女の身長くらいの木が倒れこみ、危ないと思った瞬間には上空に蹴り上げられていた。それを追いかけて、ぶれる張遼の身体。瞬間、小気味良い木の音が連続して、一刀達の背後に響く。振り返った先には、確かに桃の木が薪に化けていた。形はヨレヨレだし、長かったり短かったりするのだが、そんなことは関係ない。「SUGEEEEEEEEE!」「おぉぉぉぉ!」「おおきにー! おおきにー!」諸手を上げて絶賛する一刀達に、張遼は照れるように両手を振って答えていた。それは確かに、凄いことではあるので絶賛するのは間違いではない。「さすが未来の遼来々なだけはある! 遼来々! 遼来々!」「遼来々! 遼来々! 私の陣営に遼来々しないか遼来々!」「にゃはははー! そんなに褒められると照れるやんかー!」興奮したように囃し立て、地味に未来知識を披露した一刀の言葉尻を捉えて公孫瓚が武の片鱗を見せ付けた張遼を仕切りに陣営に来ないか、さり気無く誘い始める。彼女も随分とお酒が回っているようだ。勿論、同じように酒が回っててそんな事に気付かない張遼は、高いテンションのまま薪に火を点ける芸を見せ付けて夕刻に差し掛かったことも相まって、そのままキャンプファイヤーへと突入し始めた。その最中、公孫瓚は突然、真剣な顔を一刀に向けてその肩を両手で叩く。触れるのではないかと言うほど一刀の顔に近づいて、そして口を開いた。「天代様あ! 私は白蓮ですう!」「そうか! 白蓮か! はっはっはっは!」突然、自らの真名を告げる彼女に、一刀は馬鹿受けした。何故かよく分からないが、公孫瓚の真面目な顔と繰りでた声がツボに入ったのである。そんな自分の真名を告げて、思い切り笑い飛ばされた公孫瓚も、ニヤァと不気味に笑っていた。失礼極まりない一刀の態度に腹は立たない。むしろ、こうして触れ合っていると異様なほど落ち着く温かい気持ちになるのだから怒りなど沸き様が無かった。無視されたような形の張遼は二人の間に体を割り込ませると、座って爆笑している一刀の肩膝にぴったりとくっ付くように座る。「ずるいー、うちも混ぜてーなー」「張遼ぉー! 私のところに来てくれぇぇぇー」「あっはっはっはっは! はっはっは、はひぃ」笑いすぎて息苦しく、飲んだ物が吐き出そうになった一刀は、身を捩って二人から逃げるように動き出す。ところが、一刀の上に乗っている張遼が白蓮に押し倒されて覆いかぶさっていた。おかげさまで逃げることが出来ない。一刀は苦しいし、柔らかいし、気持ち良くて気持ち悪いという妙な感覚に現を抜かしかける。「天代様触ってると、良い気分になってなんか気持ちえーなぁ……」「あー、私も触るー」「ひひひぃ、おま、やめ、あぁ」張遼と白蓮の手が、一刀の身体にぺたりと、時にもみもみと触れ始める。情けない悲鳴のような、喘ぎ声のような物を上げながら一刀はモゾモゾと蠢くことしか出来なかった。「天代さまぁ、うちに名前呼ばせて!」「良い、良いよ、良いからちょっとどいて、どけて」「ほんまかぁー! うちは霞や! 霞って呼んでな一刀ー♪」「私は白蓮だー!」「うちは霞やー!」立ち上がって火の着いた松明を持って振り回し、自分の真名を連呼し始めた彼女達に、一刀はようやく解放されて一息つく。一刀も立ち上がって、よろめきながら視界に映った徳利を見やると口を開いた。真名の無い一刀は、彼女達の話に参加できなかった。こうなったら飲むしかない。酒の回った朦朧とする頭で、謎の結論を導き出して一刀は徳利を引っつかんで飲み始める。三人だけの宴は、この様に留まることを知らなかった。―――次に一刀が意識を取り戻した時は、金獅の背に跨っている時だった。まだ薄暗く、今が明け方であることを知る。明け方。ハッとしたように、一刀は起き上がって周囲を見回した。見える景色は、洛陽の街の大通りであった。当然、隣には同じように馬に乗る公孫瓚が、フラフラと頭を揺らしている。「……うっ」「あー……起きましたか、天代様」「ここは……俺は……?」「今は宮内に戻っている途中で……酔いつぶれた天代様を送っている最中です」それは分かる。それは分かるのだが、回りがやたらと薄暗いではないか。それに、張遼はどうしたのだろう。公孫瓚から話を聞くと、張遼は既に別れて長安に向かったらしい。酒の席がやたらと盛り上がって、一刀達は一晩あの場で越したということだ。薪に火を点けたあたりまでは一刀も覚えているが、そこから先がどうにも曖昧だった。真名を預けられた気もするが、定かではない。公孫瓚も同じようで、天代から一刀という名前を呼んでも良いと許可を貰った気がするようなしないようなと話していた。口ぶりから察するに、記憶が飛ぶまで飲んでしまったようである。公孫瓚も、飲みすぎたせいで二日酔いらしく、言葉には力が無かった。まぁ、それもいい。それも良いのだが、明け方である。「な、なんたることだ」思わず時代劇の役者のように、一刀は深刻に呟いた。心なしか、一刀の顔に深い陰影が刻まれる。大通りを抜けて、金獅と共に宮内に入ると、公孫瓚に礼を言って彼女とはそこで別れた。ゆらゆら揺れる頭を見て、公孫瓚の宿酔いは随分と激しそうである。途中でぶっ倒れないか心配しつつも、自分の心配もしなくてはならなかった。一刀は覚醒した意識で離宮へと向かう前にみんなに何と弁明しようか、金獅に跨ったまま馬上で言い訳を考え始めた。幸い、先に酔い潰れただろう一刀は二日酔いにはなっていない。別に悪いことをした訳では無いのだが、自分の身分を考えると素直に経緯を説明するのは憚られた。なんか、妙な罪悪感もあるし。正常に回る頭で、上手い言い訳は無いものかと頭を捻る。「一番良い言い訳を頼む」『①金獅に跨った』『②虎に襲われた』『③酔拳で倒した』『完璧だな』「いや、真面目に聞いてるんだ、ほんとう」『俺は至福を感じたから、何でも良いよ』『“白の”や“魏の”や“董の”はな……地味に入れ替わってたしな』『羨ましい』『妬ましい』『で、本体は誰に知られたくないんだ?』「それはその……」図星をつかれて、本体は狼狽する。本音で言ってしまうと、一刀は朝帰りしたという事実を問い詰められたくなかった。公孫瓚と共に出かけたことは、桃香が見ている。つまり、離宮に居る者は全員その事実を知っているはずだ。そして、一刀は鈍い方ではあるが脳内のおかげで自覚できている。音々音を初めとして、離宮では自分を好いてくれている子が多いという事実に、気付いてはいた。それは、一刀が触れた事によって彼女達の何かの感情のスイッチが入ったせいだ。脳内の大切な人との記憶なのではないかと本体は推測しているのだが、直接聞くわけにも行かないので実際のところは謎である。ただ、何かしら感情に働きかけていることは確かだ。その事実があるからこそ、一刀は他人の感情を弄くるような気がして出来るだけ触れないように心がけている。勿論、咄嗟に触ってしまうことはあるけれども、それでも一応は気をつけているのだ。話は逸れたが、とにかく一刀は公孫瓚と朝帰りした事実を知られたくなかった。誰かと言われれば、それは、そんな借り物の感情ではないだろう自分を見てくれる人になる。「……自分に隠しててもしょうがないよな」『そうだ、言ってしまえ』『ネタは上がってるんだ!』『カツ丼は出ないが』『カツ丼かぁ、食べたいね』『『『うん、随分食べてないなぁ』』』『で、誰なんだ』恐らく、これは脳内の皆も気になっていることなのだろう。何せ、彼らの大事な人と本体の想い人が被っていたら大事だ。培ってきた自分への信頼関係が崩れ去る可能性すらある。「誰かって言えば、それはまぁ―――」―――そんな一刀が呟く姿を、一人の少女が見ていた。正確には、宮内に入る門で見かけて覗いていた。彼女の名は陳宮。 真名を音々音という。一刀が予想したとおり、桃香から公孫瓚と出かけたという事実を聞いていた。夜になっても帰ってこない一刀に心配したが、それでも諸侯との付き合いもあるのだろうと半ば無理やりに忘れて眠った。そして先ほど起きて、一刀の部屋を確認しても姿が無い事から彼女は遂にいてもたっても居られなくなり離宮から飛び出した。何処へ向かったのかも分からないので、仕方なく門の前で網を張っていたのである。そして掛かった。一刀は公孫瓚と共に、袁紹から貰った金獅という馬に跨って彼女と別れるところだった。一体、一晩かけて一刀は何をしていたのだろう。公孫瓚と共に、何をしていたのか。何故、こんな時間まで帰ってこなかったのか。彼女の明晰な頭脳は、ある一つの結論をババーンと提示していたのだがそれは首を振ったり手を振ったりして結論の枠組みから必死に外す。とはいえ、気の多い部分がある一刀である。ひょっとしたら、一刀は公孫瓚のような地味な感じの女性が好きなのかもしれない。一刀だって男だ。男は、そう、なんというか、女を見ると隠された獣が剥き出しになると言う話をどこかで聞いた。桃香の胸だって見るし、恋の胸だって見てるし、この前は食事会の店員を見て鼻血出してたし。だがしかし。いや、しかし。そんな考えがグルグルと回り、一人芝居をしていた音々音だったが、ふと独語をし始めた一刀に気付いてずずいっと隠れている建物を伝って一刀の声が聞こえる場所まで身を移し神経を耳に、聴覚に傾ける。「―――その、ねねが一番だけど」途中の独語は聞こえなかったが、それだけはハッキリと音々音の耳朶を打った。微妙に何か照れていたような気もするが、とにかく間違いなく自分の真名を呼んでそう言ったのが聞こえた。瞬間、彼女の顔は緩んだ。なんとなく、朝帰りした一刀にモヤモヤする感情が何処かに消えてしまった気がした。ねねが一番だと言った。その後も暫く、一刀がブツブツと一人呟いている言葉を聞いていたがなんでも何処かで飲んでそのまま意識を失い、朝帰りとなった事は言葉の断片から予測がついた。金獅に跨った一刀が、うんうん唸る姿が途端に可愛く見えてくる。そしてまた、音々音の顔は緩んで不気味な笑みを浮かべ始めた。「……ていっ!」短く呟いて、一刀の頭にチョップする振りをした音々音。そんな届くはずの無い手刀は、もちろん何も無い空を打つ。「ねねを心配させた罰は、これで許してあげるのです、一刀殿」「ブルッ……」まったく怒ってない、柔らかい声をあげて、そして踵を返す。そんな彼女の耳に最後に聞こえたのは、やれやれと言いたそうな金獅の短い嘶きだった。軽い足取りで離宮へと戻った音々音に遅れること、約30分。一刀は離宮へと戻ってきた。「ただいまぁ……」「一刀様、白蓮ちゃんと朝帰って来たの?!」「はわわ! な、なんか疲れた顔してます……雛里ちゃん、やっぱり昨日は……」「そ、そうだよ……あわわわ、一刀様、大人だよぉ~」「一刀、立場を分かっているのかお前は」「心配した……」短く告げた一刀に、おかえりの挨拶が返ってくることもなく集中砲火が打たれていく。誰も居なければ、もう少し考えを纏める時間が取れたのだが朝も早いというのに皆起きているし、勢ぞろいだ。恋の小さな呟きが、地味に心を抉る。きっと、彼女達は一刀を心配していた。そして、一刀は脳内と共に練り上げた言い訳を繰り出した。「すまん! 気がついたら金獅がいきなり渡河し始めて帰れなくなったんだ!」「嘘ですっ!」「それは嘘です……渡河できたのなら」 「うん、嘘だよぉ……戻れるもん」「嘘だ!」「……嘘?」全員から異口同音に、マッハで看破される。朱里と雛里からは、具体的に指摘もされて。確かに図星なのだが、一刀も嘘をついた手前、後にはもう引けなかった。即座に脳内からのフォローが入る。『本体、下手な嘘は即座に看破されるな』『ああ、ここは一つ、真実を交えた嘘をつこうじゃないか』『落馬が使えそうだね』『いいな、落馬して意識を失ってた……だけじゃちょっと弱いか?』『頭を打ったから、念のため一日様子を見たとか』『それだっ!』(それはいいんだけど、さっきからねねの反応が無いんだけど)『生きろ』『頑張れ』『諦めるな』『死ぬな』「いや、お前ら頼むよマジで! あ……」思わず声を荒げ、室内に響く一刀の声。こちらを突き刺す視線は、やたら厳しいものだった。一人、それまで黙して卓の前で茶を飲んで、一刀を見ていた音々音が仕草を交えて呟くように言った。「えいっ」そんな空を打つ手刀と声に、音々音に全員が不思議そうな顔を向ける。注目を集めた音々音は、もう一度空に向かって手を縦に振ると「ねねはこれで終わりなのです」とだけ言って、ずずっと目の前にある茶を啜る。しばし全員が―――一刀を含めて―――首を傾げていたが、桃香が得心したかのように握った片手を掌に乗せた。音々音は実際に、これで終わりにしたのだが桃香にはハッキリと伝わらなかったせいで意図が曲解される。「分かった! ねねちゃんの下した刑は、手刀一発だね!」「な、なるほど……」「そうか……よし、一刀、こっちに来い!」「いやその……実は落馬して頭を打って……」「それも嘘?」「うっ……」「まったく、良いから早く頭を出せ」追い詰められた一刀は、仕方なく劉協の前まで歩く。そのまま立っていると無理だと言われて、しょうがないのでしゃがみ込んだ。ベシリと頭を叩かれて、一刀は許された。どうやらもう、何を言っても嘘だと思われそうだし下手な弁明をするのは止めた方が良さそうだ。何より、音々音が怒った様子もないし、これで済むなら御の字だろうか。「……心配かけてごめん」「次は私の番!」同じように桃香や朱里達に叩かれて、そして……「心配した……」「れ、恋……そうか、恋が居たのか……」「最初から、居た」「あ、いや、うん……その、頼む……手加減してくれ」「ん、分かった。 手加減は練習した」鈍い音が室内に響いて、一刀は白目を剥いて昏倒することになったという。 ■ ヒャクエンダマの裏やにわに宮内で、天代が諸侯である公孫瓚と一日外出したという噂が流れた。それに纏わる動きが、色々と動いていたが今のところ自分には全く関係が無い。良く分からない鼻歌を歌いながら、曹騰は竹簡を開きながら茶を楽しんでいた。「天代に関わっちゃあ、公孫瓚も大変だろうに」曲がった口で一つ啜り、竹簡を読み終わると隣に置いて筆を持つ。今、曹騰が取り組んでいる問題の一つ。曹操が陳留の禁令を断行し、蹇碩の叔父を殺してしまったという物についてだ。曹操からは余計なことはしなくても良いとは言われているが、可愛い孫娘のことだ。動くなと言われても動いてしまうのも、分かる話だろう。曹操の行動は、間違った物ではないが十常侍を蔑ろにしていると思われて仕方ない行動でもある。蹇碩は、帝に所縁ある者を動かして、同じように処罰をさせようと考えているそうだが張譲にも何か考えがあるらしく、下手を打てば自分の行動が曹操を追い詰める可能性もある。誰に言われた訳でもないが、曹騰とて長く宮内に身を置いた宦官である。そうした策謀が動けば、肌でも匂いでも、宮内の様子からでも感じることが出来た。こと、曹操に関わる話であれば尚更気がつくというものだ。「蹇碩の方はこれでどうにかなるとして、問題は張譲よなぁ」軽快に動いていた筆を置いて、腕を組み天井を見上げる。天代に協力的な姿勢を見せているのも然ることながら、ここ最近の張譲の動きはどうにも胡散臭い。何よりも、天代が現れてからの張譲の動きは、余りにも静かにすぎた。一つ頭を掻いて、曹騰は窓の外を見やる。雨季であるから仕方ないのだが、晴れ間が覗いたのは約3日だけ。昨日から、また鬱陶しい雨が降り始めている。何となしに、そんな風景を眺めていた曹騰だったが、ふと視線に動く人影を見つけた。「うん? ありゃあ張譲か」雨に濡れない様にだろう。建物の屋根を伝って、目立たないように移動している。「……」曹騰は無言で立ち上がり、張譲が向かうであろう方向を確認してから後を追った。追いかけて数分経たず、足を止めて誰かと話合う張譲の声が聞こえてくる。隠れているために、張譲の姿は見えないが話をしている者は市井の者だった。仕切り張譲へと頭をさげて、ニヤニヤと笑っている。やがて話は終わったのか、張譲は別れ、市井だろう人間が曹騰の方へと近寄ってきた。「……おい」「うわっ!」「驚かせてわりぃなぁ。 今の人と何を話していたんだい?」「これはこれは、えっと……」「わしは曹騰よ。 今の話、ちょっと聞かせてもらっていいかねぇ?」そう軽い調子で聞く曹騰の眼は、笑っていなかった。突然現れた曹騰に対して緊張しているのか、その男は得心したかのように頷いた。「ええ、構いませんよ。 張譲様にはこれを届けに来たのです」言って腕の裾から取り出されたのは、サクラの彫刻が施された木の円盤であった。この彫刻には見覚えがある。天代が持っている天の硬貨、ヒャクエンダマと言う物に施されたものだ。洛陽へ天代が現れてから凝り始めたという、張譲の趣味から頼まれていた物なのだろう。素人が片手間で彫り込むには、些か難しい彫刻であることは曹騰にも分かる。「分かった、ありがとな」「へぇ……ああ、もし曹騰様もご興味がおありでしたら声をかけてくださいませ」「ああ、彫り物を頼むときはお前さんにお願いするとしよう」「ありがとうございます、それでは……」お近づきの印として、そのヒャクエンダマの贋作を手で転がしながら曹騰は男の立ち去った方角に目を向け続けていた。「……彫師か。 何かあるかもしれねぇな」天代が来てから始めたという彫り物の趣味。そして、直接面識のある彫刻の職人。根拠など何も無い。しかし、長年培ってきた曹騰の勘は、そんな一連の流れに不自然さを感じ取っていた。親指で木で作られたヒャクエンダマの硬貨を弾き飛ばして、空中でその手に掴む。開いた手の中のヒャクエンダマは、彫られていない裏面が出ていた。「探ってみるか」言い残して曹騰は立ち去った。洛陽の雨季が、もうそろそろ終わろうかという頃であった…… ■ 外史終了 ■脳内恋姫絵巻・桃の木の下の宴前(張遼・公孫瓚)