clear!! ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編6~clear!! ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編7~今回の種馬 ⇒ ☆☆☆~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編8~☆☆☆ ■ 向かう道を思う空を見上げれば快晴が広がる。雲ひとつ無い青空に、暑く照らす太陽の日差しが差し込んでくる。このまま降り続け、晴れることは無いのではないかと思うほどの雨雲もようやくなりを潜め。もう完全に長袖では暑くて居られないほどだ。傷の具合はそろそろかと言うくらいには良くなっているが、それでもまだ夜中は疼いていた。この長袖を着ないで済む頃には、日本で言うところの本格的な夏を迎えることだろう。洛陽の夏は暑いのだろうか。一刀がこの大陸に落ちたのは、約9ヶ月前のことだ。日本と季節の巡りが変わらなければ、初秋の頃にこちらへ来た事になる。まぁ、一言に暑いと言っても大陸は広いので、場所によっては寒いところもあるのかも知れないが。「……ふぅむ」政務の傍ら、一刀はそんな事を考えながら落ち着かない様子で椅子の上に座っていた。ここ最近、一刀は宮内の中でもしっかりと、その立ち位置を自分の中で把握でき始めていた。天代としての自分にも馴染んできたと言えるだろう。政に関して、本体は自分の脳内の話を聞くだけに終始していたのだがここ最近では自分の考えも、拙いながら述べる事ができる様になって来ている。調教先生として教鞭を奮うことは、一刀にとっても勉強になる良い出来事と言えた。まぁ、役職名を気にしなければだが。そして、実際に洛陽の街では、一刀の提案から行われている政策がちらほらと散見された。始まったばかりで、評判が上がるほどの声は届いていないけれどいずれ目に見える形で結果は分かることだろう。今日の一刀の大きな課題、それはつい最近までの降雨で治水に関しての不安が大きく、その対策に頭を捻っていた。『治水かぁ』『治水ねぇ』(良い案はあるかなー……)一人机の前で腕を組み、首を傾げる一刀だが大きな方針は決まっている。治水のことではなく、一刀のことだ。頻繁に交わされる自分との会議に、今後の方針は定まった。今頃、と思われるかも知れないが、本体が天代としての生活に慣れて落ち着くまでこの位の期間が必要不可欠だったとも言えよう。脳内に住む一刀達は、一度この大陸で大きな事を為し遂げて来た。しかし本体はさ迷い、巻き込まれ、その上で今の地位と役職が転がり込んできている。その上、この地位に立ってからは多くの問題が山積みだった。主に戦の後始末が。それらもひと段落し、ようやく生活の流れを掴んで落ち着きを見せてそこで初めて、一刀はゆっくりと自分の事だけを考える時間ができたのだ。そんな一刀が定めた自分の道。まずは劉協との約束、そして桃香達にも自らが宣言したように危難の位置に居る漢王朝を何とか立て直す。劉協と約束した時から、自然とそれを目指してきたが、今一度振り返った時に実際に立て直せるのか。立て直すとして、どうすればいいのかを相談した。歴史の流れに逆らうことは、不味いのではないかと脳内からの忠告が何人かからあった。しかし、これが成功した時のメリットはとてつもなく魅力的だ。本体、脳内共に一刀にとっての一番は、戦争が起こらない―――乱世の時代に突入しない事である。各人、各陣営に強く想う人が居る。乱世に突入すれば、戦争が起これば、そこには勝敗以上の怨嗟と悲しみが溢れ出す。それを止めるには、今の王朝を存続させるのが最も効率的であり、幸いにも政に口を出せる立ち位置についていた。多くの一刀は、大陸に落ちた際に学んだことがある。言葉は悪いが、多くの場合にとって利用できるものを放棄するという選択肢は下策なのだ。それが道具であれ、人であれ、お金だろうと権力、名声だろうと使えそうな物は使うべきである。故に、一刀は選ぶ。漢王朝を存続させるという道を。問題はその方法だ。今の漢王朝の現状を知る事が出来たのは、張譲や何進が見せる様々な資料が無ければ不可能だったろう。それらを一つ一つ、纏めていくと、やはり問題は官僚の腐敗と重税による不満が一番に上がる。この問題、手っ取り早く解決するには国の頭を挿げ替えるのが最も早い。何度かの顔合わせから信頼できそうな竇武や陳蕃と結託し、地方を彼らに中央を一刀が押さえる。民の目線で事を見れば、税の取立てを緩くして農民の不満を抑える為にも農地の安定が最優先だろう。また、教義においても触れを出す必要がある。民衆が儒教から離れる動きが張角―――もちろん、張角自身が発したものではないが―――の大平道などの新興宗教が台等することでそこかしこに散見されるようになったからだ。実際に見たわけではなく、調教先生として教壇に立った際に諸侯から漏れた話から得た情報だ。あの場所で嘘をつく必要がある者は居ないだろうから、信じて良い情報だった。教義を縛らず、民が好きな物を選んで良いと大々的に喧伝すべきだ。それを相談した際に、何進や盧植から黄巾党の勢いが増してしまうのでは無いかという危惧が上がっている。大平道に関しては、少なくとも黄巾の乱が終わるまでは認めてはならないという意見が大半だ。そんな感じで、一刀も突っ込んだり突っ込まれたりしながら何とか漢とか立て直せない物かと今の日々を送っている。とりあえず、焦ってしまえば一刀の目的も目標も約束も、守れない。目先の事を一つずつこなしていくしかない。つまり、今は治水の事を考えねばならないのだ。治水は重要だ。先に挙げた農地の安定にも繋がる重要な部分。洛陽の北を走る黄河、それはこの時代に多くの恵みと災害を齎している。既に分流の措置を取っている現状、即効的かつ有用な対策は無いと思われた。ダムのように貯水地点を作ることも考えたが、実行するには大規模すぎるし知識も乏しい。今の漢王朝にはそれを支えるだけのお金も、平和も足りないので頭の痛い問題ではあった。お金の問題はもう、本当、どうすればいいのだ、何とかしてくれと丸投げしたくなる位に苦しい。何を行うにもお金は必要であり、戦が起きれば国庫は飛ぶ。漢に属さない異民族との付き合い、要するに外交でも必要になってくるだろうし民の不満が爆発している現状で、税も引き下げなければならない。今まさに考えている治水に関しても、金はかかる。出るばかりで収入が少なく、それでも多くの問題には金が必要と来たもんだ。いっそ南蛮やヨーロッパ、中東目指して貿易に手を出そうかとも一瞬、考えが飛躍したこともある。それをするには、一刀自身に知識が少なすぎて、実行に移す以前の問題だった。脳内も経験こそあるが、その段取りは丸投げしていたので自信がいまひとつ無い様子である。この世界の大陸では問題なかったが、言葉の壁もあるかもしれないし、難しいのは難しいだろう。頭の中で二転三転する話に、一刀の筆は完全に止まっていた。次第に、一刀の身近な問題の話に思考は切り替わっていった。というか、金の問題から眼を遠ざけた。身近なところを言えば、宦官や官僚からの贈り物攻勢も、ようやく勢いを落としてきている。張譲や曹騰との関係も良好だ。逆に、蹇碩を筆頭にした宦官達とは仲が悪いし、話しかけてもそっけなく対応されてしまうが。邪険にされているとは感じても、国政に纏わる話ならば対応してくれている。完全に無視されている訳では無いので、その内認めてくれるだろうとは思っているが、何時になるだろうか。漢王朝を支える人の選別という物を、一刀はしたくない。出来れば彼らとも、仲良く盛り立てていければ良いのだが。とはいえ、そうした宦官や官僚も、やにわに混迷している気配があるのだ。十常侍筆頭である張譲が、一刀を認めているからであろう。曹騰や脳内の自分達には、気を許すなと口を酸っぱくして言われているが、少なくとも傍から見れば認められていると言って良い。ここ、洛陽の宮内での一刀の地位は、確固たるものとして確立し始めている。張譲本人の口から、一緒に漢王朝を支えようと言ってくれたのは一刀にとっても嬉しい言葉であり感情では疑うことをしたく無いという本音も混じっているかもしれない。まぁ、なんにせよ。現状は概ね、良い関係を築けているし漢王朝も少し元気を取り戻し始めている様に感じる。そんな手応えが、一刀には有った。「むむぅ」そして、それは歓迎すべきことだ。脳内に居る自分達には大切な人達が居て、その多くは諸侯を代表する袁紹や董卓などの著名人だ。仮に一刀が漢王朝を立て直すことに失敗すれば、多くの人が死ぬことになる。それは脳内しか知らない大切な人もそうだし、本体が知っている桃香や恋、そして音々音も巻き込まれないとは言えない。この世界が自分の知る三国志の歴史を辿るのかどうかは、正直言って自信は無い。自分が天代という身分に着いたことを踏まえても、同じような歴史になるとは思えない。だが、不安や恐怖はある。こと、自分の大切だと思う人たちの生死に関わる未来だ。手応えがあるからといって、慢心してはいけない。今後も現状と同じように、順調に王朝の舵を取っていければきっと、皆が笑い会えることになる。その為の努力を怠ってはいけないし、忘れるつもりも無い。「……」難しい事を考えて落ち着かせようという目的は、失敗に終わった。一刀の両足はついに、そわそわと揺れ始めた。心なしか目の前の机にとんとんと指を叩き始めて、室内に響かせる。一刀が落ち着かない理由。それは、劉協のことであった。つい先日の話だが、劉協は13の頃を迎えた。一刀は実年齢をその時初めて知ったのだが、容姿も含めて言われれば納得できる歳の頃である。その13歳になった劉協であるが、今日、帝に呼び出されている。呼び出された理由は、もちろん一刀も知っている。帝である劉宏は最近になってまた、体調も崩れ始めているせいか後継者について考え始めたそうなのだ。宦官が帝に対してそっけない態度をとる為、そうした相談が一刀の元に舞い込んできた。既に、一刀は後継者が劉弁であることを告げられて知っている。ただ、劉弁は話や噂を聞くに、あまり聡明では無いらしい。実際、帝である劉宏がそう言うくらいなのだ、事実なのだろう。そんな劉弁も、来年の始めあたりに17歳を迎えようかという若さだった。それだけならば、劉協が呼ばれる理由は無いように思うかもしれないが、帝位を継承するのは意外と大変なことだ。次の皇帝はお前だ! と言われ、了承すれば終わりという訳ではない。本人の意思もさることながら、帝位を移した際に生じる人事において様々な事を細心の注意を払って行われなければならない筈で、今後の漢王朝の為にも大きな大きな一事となることは疑い様が無い。何かの間違いがあっては、大変な事になる。或いは、大変な事になる可能性が生まれてしまう。恐らく今日は下話だけで終わるだろうし、劉協も劉弁のことを兄として慕っては居るので早々妙な話にはならないだろうが、心配なのは心配だった。 ■ 劉備立つ「一刀様、居ますか?」「うん? ああ、開いてるよ」半ば上の空で机に向かっていた一刀も、朱里の声で現実に戻ってくる。中に入ってきた朱里の手には、竹簡がいくつか握られていた。それを見て、そういえば治水の事に関してはまったく進んでいない事に気がつく。慌てて筆を取りながら、一刀は尋ねた。「どうしたの?」「えっと、段珪様に頼まれて、持って来ました」朱里から竹簡を受け取って、一刀は飲みかけの茶を含みながら中身を覗いた。そして内容を追っていく内に、飲み込みかけていた茶が逆流して吹き出た。そこには金額らしき数字と商品名が羅列されていたのだが、とてつもない額である。商品は料理や酒が中心だったが、これだけ飲み食いして無駄遣いした覚えは全く無かった。「な、なんだこれっ!?」「はぁ、何でも張遼という方からお店の方に、天代様の名で請求してくれと言う話でしたけど」「……」「張遼さんって誰なんですか?」「……ううん、いや、うん。 まぁいいや」なるほど、と一刀は内心で得心しながら流すことにした。あの時、やたらと上手い酒で食も進むし飲みまくった原因の一端が、ここに転がっている気がした。確認しなかった一刀も悪い。段珪がこちらにお鉢を回してきたということは、この料金は一刀が払えということなのだろう。一度のお小遣いで支払える額ではないので、暫くツケにしなくてはならない。突然訪れたお寒い情報に、一刀はやや肩を落とした。そんな彼に不思議そうな顔を向けつつ、朱里はもう一つある竹簡を渡してくる。「これは?」「一刀様が注文なされた服が、届いたそうですよ」「! 来たかっ!」瞬間、ガタッっと椅子から立ち上がり、覇気に満ちる一刀。先ほどまで頭を捻っていたり、肩を落としていたりした一刀の背後に、大蛇が見えゆる。心なしか、彼の顔に微笑が張り付いて。その突然の変化に、朱里は驚いて一歩後ずさった。そんな彼女に近づいて、竹簡を仕草で要求する一刀に手渡すと先ほどまでとは打って変わってバサリと勢い良く、豪快に竹簡を広げる。「……あの」「なんだ、請求額か……で、服は何処に届いたの?」「はぁ、桃香様が持って行きましたけど……」「桃香が?」丁度、一刀の注文していた服を受け取る場面に、桃香と朱里の二人は居合わせたそうだ。何かに気がついたように品物を受け取ると、桃香はパッと顔を輝かせて自室へ戻っていったらしい。桃香も、今日は用事があるということで街に出ていたそうだがもう終わったのか、随分と早く戻ってきたようだ。「俺のなんだけどな……まぁ、でも、いいか」「良いんですか? もし必要なら預かって来ますけど」「うん、大丈夫。 俺が着る服でもないしね」「……?」謎かけのような言葉に、朱里は顎に手を当てて考え始める。やがて理解に至ったのか、そうでないのかは定かでは無いが、考えることを止めた様で一刀の執務机に椅子を引き寄せると、手近にある竹簡を手に取って、崩す作業を手伝ってくれると申し出てくれた。一瞬悩んだ一刀ではあるが、目の前に居る少女が諸葛孔明であることを思い出して受け入れる。一刀も良く、彼女がはわはわ言ってる場面に出くわすのでうっかりすると忘れてしまうのだがこの子は大陸有数の稀有な頭脳の持ち主であるのだ。何より、治水に関して妙案が全く思い浮かばないので渡りに船でもあった。「今日は少ないんですね」「ああ、思ったよりもね。 朱里が手伝ってくれるなら早く終わりそうで助かるよ」「本当は、あんまり手伝うなって言われてるんですよ?」「え? そうなの? 誰に?」「ねねちゃんです」クスリと笑って朱里は硯に墨を垂らし、すり始める。自分の手伝う分が無くなってしまうから、と止められているんですと笑う朱里。そんな彼女を見て、一刀も笑みを浮かべながら椅子に座りなおし、手近な書簡を一つ掴む。先ほど、メイド服が届いた事に我を忘れて脱走しかけたが、考えてみれば今は仕事中である。午後には張譲や何進、蹇碩との話合いがあるので自分の趣味に走るのは夜になるまでお預けだ。それに、劉協もまだ帝の元へ出たきり戻ってきていない。地味に全員分の衣装を用意してある一刀である。夜に思う存分に楽しむことが出来れば、まったく問題はないのだ。今、焦る必要は何処にも無かった。墨を作る音や、筆が撫でる音が室内に響く。しばし机に向かい合った一刀と朱里だが、ふと筆を置いた一刀は口を開いて尋ねた。「みんなは何してるの?」「雛里ちゃんは、ねねちゃんと軍盤を囲んでます。 桃香様はさっき言った通りです。 恋さんはちょっと分からないんですけど……」「多分お昼寝?」「はい、多分」書簡や竹簡に眼を落として、一刀の方を見ずに取り組んでいる朱里を眺める。速い。何が早いって、読むのも然ることながら、殆ど思考する時間もなく案件を処理していく。ちゃんと一刀の質問に対応しながらだ。一刀がこうして筆を置いて手を止めたのは考える為である。どんな演算能力をしていれば、このように案件をさっさと処理できるのだろう。「朱里って、頭良いよなぁ」「はわ、どうしたんですか突然……」「だってほら、俺がこうして筆を置いてる時間の間にも、一つ二つ、処理が終わってるし」「これは、その、ただの案だけですから」言って一つの竹簡を渡されて眺める。朱里がしていることは、そんな一刀への提案を書きとめ纏めているに過ぎなかった。当然と言えば当然だろう。これは国政に関わる物なのだ。採決を下すのは、一刀が認めてからということだ。一刀預かりの桃香、その桃香の預かりになっている朱里と雛里が勝手に判断して良い物では無かった。とはいえ、一刀から見れば朱里の残してくれた提案は、丸々採用しても良いくらいに纏まっている物だった。「一刀様の参考になるような事を、ちょっと書いてるだけなんです」「いやその……俺はこのままでもいいんだけど」「え?」驚くように、朱里は首を傾げて一刀を見た。まさか、これ以上の案を出せと暗に迫っているのだろうか。自慢じゃないが、天下の諸葛孔明の案よりも妙案が出てくるとは思えない一刀である。微妙に室内を包み始める沈黙に、何となく気まずくなった。「あー、何と言うか、別にさぼりたいから言ってる訳じゃなくて。 こういう国政を扱う問題って朱里と違って俺はどうしても躊躇っちゃうというか」ベラベラ言い繕い始めた一刀を、朱里は見ていた。そんな視線と沈黙が、ますます一刀を無駄に饒舌にさせているのだが。政には慎重にならざるを得ないとか、激流に身を任せられないとか同情するなら金を出せとか言い出し始めた一刀に、朱里は俯いた。その顔には微笑が浮かんでいたが、一刀の視点からは顔が見えなかった。おかげさまで、一刀はうっと呻くことになる。「はは、呆れたかな……本当は分からない事が多くて机に向かってても悩む時間の方が長いんだ」「呆れませんよ、一刀様」「そう? そう言ってくれると助かるけれど」「悩んで、当然ですから」言って朱里は、一刀へと顔を向けた。きょとんとした顔をする一刀の視線にしっかりと合わせて、朱里は口を開いた。「国という大きな物に、どう動いていこうか悩むのは当然なんです。 むしろ、私欲な考えや我の強い政策を押し出したりする方が怖いですから。 一つ一つ、じっくりと考えて答えを導き出すべき物。 それが、人の上に立って民を導いていく方に一番求められるものだと私は思います」「うん……そうだね」「一刀様は、筆を置く時間が長くても、しっかり考えて答えを出しています。 そんな一刀様がやり易い様に、考え易いように働くのがねねちゃんや桃香様の役目なんだと思いますよ」そこで朱里は、一刀から視線を外して乾き始めた筆の先に墨をつける。竹簡の山から一つ手に取って開く彼女を見て、一刀は頭を掻きながら今しがた眼を通していた自分の竹簡に視線を落とした。そんな時だった。朱里の声が、もう一度一刀の耳朶を打ったのだ。「その役目は、私がしたかったです……」彼女の声は小さかった。もしかしたら、一刀に聞こえないようにと呟いた物かも知れない。実際、黄巾党の事が……波才と居たあの邑に立ち寄る事がなければと朱里は何度思ったか分からない。過ぎたる事を言い募るのは見苦しいし、下を向くよりも前を向きたい彼女は今まで誰にもその気持ちを漏らした事は無かった。当然、自分の親友である雛里も同じような感情を抱えていることだろう。確認はしていないが、手に取るように分かる。同じ立場に立たされているのだから。最初はただの興味本位だった。戦の最中では波才に捕らわれた切っ掛けとも言える天の御使いを、北郷一刀を身勝手な理由で恨んだ事もあった。ただ、実際こうして共に暮らしていく中で分かる。一刀は間違いなく、王の器を持っている。雛里と共に水鏡先生の下を飛び出したのは、確かに一刀を見てみたかったからという野次馬的な軽挙が一番にある。しかし、その奥底に志が根付いていたのは間違いない。混乱極まる大陸の情勢に、自らが心から仕える主を探していた。生まれてからこれまで、毎日のように勉学に励んだのは平和を齎してくれる主が現れる事を期待してだ。今となっては、その大望も叶わぬ事になるかも知れないが、しかし。天代、北郷一刀を支える者になってみたかった。それは今までも、これからも、決して朱里が口にする事は無いだろう。黄巾党の波才に捕らわれていなければ、もしかしたら一刀の隣に立っていたのは音々音ではなく。「……朱里」「あ、はい?」「前に、志を知ってるって言っただろ」一瞬考えて、即座に思い出す。洛陽での戦が終わって、賊将として捕らわれた翌日の明け方の話だと。あの時、確かに一刀は牢の中に居る朱里と雛里に向けて、志を知っていると言っていた。思い出して、朱里は一刀へと顔を上げた。そんな一刀は、先ほどまで見ていたような竹簡ではなく、机の中から本のような物を取り出して眺めていた。この本は全ての頁が白紙であった。いわば、自由帳に近いノートの様な役割をしている。ちょっとした考えを纏める時や、今後の方針を書き出して確認する為に使う、個人的な物だった。「今のままじゃ、朱里や雛里の志を貫くことは出来ない」「はい……」「けど、君達は功を挙げる機会に恵まれる筈だろ」「……あ」それだけで概ね、一刀の描いた絵図を朱里は把握した。つまり、一刀はこう言っている。賊将として敗れ、あつ眼の刑罰を受けた事になっている朱里と雛里。対外的には、黄巾党の暴れる最前線へと送り込み、死罪よりも苦しい生を与えるという刑罰になっている。しかし、彼女達が活躍し、その黄巾党を駆逐する働きを見せればどうだろうか。歴史に置いて、功を挙げた者がそれまでの罪を許されて迎え入れてくれる事は枚挙に暇が無い。それは言いすぎかもしれないが、許されることは多々あるのだ。そして、彼女達にとって救われる事はその事実だけではなかった。「俺は天の御使いで、天代なんだ。 功を挙げて帰って来た朱里と雛里を迎え入れることだってきっと出来る」そうだ。朱里と雛里が黄巾党に参加した本当の真実を知る一刀が、天代という身分なのだ。先に述べたように、一刀は天代という今の自分を利用し尽くす事を考えている。それは実際に一刀の行動や話から感じ取れるものでもあった。まぁ、偉ぶったりなどという分かりやすい事は性格からする事はないけれど。とにかく、一刀の声を聞いて自然と朱里の身体は震えた、無意識に。牢の中で聞いた、何とかしてみせるという言葉。最初から最後まで、目の前に居る人は本当になんとかしてしまった。勿論、それは最前線に出て功を立てなければならないし、自分達の言葉を受け入れてくれる官軍に恵まれなければ頓挫することになるかも知れない、皮算用でもある。しかし、確かに朱里と雛里の大望へと歩ける道は一本、繋がっていた。その再起の道を繋げてくれた一刀の為にも、朱里と雛里は官軍の信頼を得て奮起しなければならないだろう。「……一刀様、ありがとうございましゅ……」「戻ってきたら、きっと未だに筆を置いて唸っている俺を助けてくれよ」「うぅ、私、一刀様に会ってから涙もろくなっちゃった……」「はは、その嬉し涙は戻ってきた時に取って置いてくれよ……約束するから」「はい……」声を殺して涙する朱里の頭に優しく手を置いて、一刀は笑った。その笑いには、どこか安堵めいた物も混じって。正直なところ、閃いた時は一刀も上手く行くかどうか分からなかったのだ。あの頃はまだ、自分も天代としての立ち位置がふらついていて、自らを振り返る余裕など全く無く、張譲などの宦官との面識もほとんど無かった。宮内での暮らしの中、自分なりに頑張ってきたこの数ヶ月。ようやく手応えを掴めた今だからこそ、朱里に話せたことである。そして、一刀は本に視線を落とす。閃きから繋がったこの話も、そろそろするべきである、と。そんな二人の耳に突然、ドタドタっという慌しい足音が聞こえた。かと思えば、いきなり一刀の部屋の扉が開かれる。「じゃぁーんっ♪ 一刀様! ほらぁ、めいど服ですよぉー!」そして飛び込んできた桃香は、興奮したような高いテンションで一刀に見せびらかすようにメイド服姿でスカートの部分を摘んでくるりと華麗に一回転。頭に載せたレース付きのようなカチューシャに抑えられて、流麗に桃香の長い髪が流れていく。再び真正面を向くと同時に人差し指を頬の近くに持っていき、首は斜め45度で見事なポーズを決めて「めいどの桃香ちゃんですっ!」場違いな程の明るい声が、一刀の部屋に響いた。そして無言の時が過ぎていく。桃香の額から、やんわりと汗が滲んでくる。正直、一刀も朱里も、突然すぎて桃香のテンションについていけなかった。むしろ、いきなり何やってるんだろう、という感情の方が先立った。所謂ひとつの、滑った、という奴である。これが平時であったならば、一刀も桃香の愛らしいメイド姿に胸をトキめかして居たかも知れない。だが、事ここに至ってはタイミングが悪かった。『うわぁあ”あぁあぁ”あーーー!』『“蜀の”!?』『“蜀の”の気が……消えた……!?』脳内の一人は、見事に轟沈したようだが。そんな事はともかく、遂に空気に居た堪れなくなった桃香は、こみ上げる恥ずかしさも重なって一刀に感情をぶつけた。「ひっどい! 一刀様がまた嘘ついたー!」「え、えええ? ちょっと待ってくれ、桃香。 どうしてそうなる」「めいど服が好きって言ったのに!」「いや、メイド服は好きだけど……」「練習もしたのに!」「あぁ……うん、バッチリ決まってたよ」「うぅぅぅ、なんか疑わしいよぅ」顔を真っ赤にしてポカポカと一刀の胸板を叩く。一刀は困った。桃香が持って行ったということから、彼女が着るつもりだろう事は知っていたがメイド服の楽しみは夜中に回すと、先ほど決定していた一刀である。こんなサプライズを空気を読まずに起こされても、素直に楽しめない。そんな桃香の様子にようやく再起動を果たした朱里が、やにわにフォローする。「あ、こ、これが一刀様の言ってた服なんですね、可愛いです、桃香様も」「朱里ちゃん! 奇襲は初撃でどれだけ混乱させられるかって教えてくれたよね!」「え? ええ、えーっと」「失敗した時はどうすればいいの!?」「それはその、状況を見て戦略的撤退を―――」「一刀様っ! 失礼しましたっ!」「あ、桃香待って―――」引き止める間も無く、鮮やかに一刀の部屋を物凄い勢いで飛び出していく桃香。残された二人は、一体どうすればいいのかと暫し固まった。「一刀様……」「なに?」「ああいう服が、好きなんですか?」「うん……まぁ」結局、一刀と朱里の二人は今の一連の出来事を華麗に流すことにした。というか、扉の外から妙な唸り声も聞こえてくるし、余り刺激しない方が良いだろうと一刀と朱里は視線だけで理解しあったのだ。落ち着きを取り戻した桃香が、再び一刀の部屋に訪れるまでには実に約20分もの時間をかけた後の事だった。―――落ち着いた桃香が、相変わらずメイド服を着たまま一刀の部屋に入ってくる。自然を装いつつ、一刀は密かに愛らしい桃香の姿を楽しんでいた。入れ替わるようにお茶を淹れて来ると席を立った朱里が、部屋の外で短い悲鳴をあげる。外ではわわ、と口走ってるあたり、余程驚くことがあったようだ。一刀は視線だけで桃香に何かと尋ねると、思い出すよう口を開く。「あー、そうだ。 愛紗ちゃん達が来たことを話すのが本題だったの忘れてたよー」「え、関羽さんが来たの?」「うん、そうだよ。 鈴々ちゃんも一緒」「そんな大切な事を……」思わず一刀は呟いて、桃香のジト眼に晒されることになった。しかし、しょうがないではないか。メイド服よりも、関羽や張飛が来たことを告げる方が普通は先だろう。まぁ、一刀が桃香にそれを突っ込む勇気は無かったので、甘んじて視線を受け入れてはいたが。そんなやり取りをしていると、入り口の喧騒も止んで関羽と張飛がひそひそと何やら話ながら入ってくる。一刀を見て、しっかりと礼をとりながら。「きっと愛紗の顔が怖かったのだ」「そ、そんな筈は……」何故かショックを受けている関羽に、桃香が近づいた。一刀も、正式な紹介をされるだろうと思い、立ち上がる。「愛紗ちゃん、鈴々ちゃん、こっち座って」「は、はい……」「分かったのだ」桃香に促されて、桃香、関羽、張飛の三人が一つの長椅子に座り込んだ。立っているのは一刀だけである。ちょうど面向かいになるようにして座り込んでいるので、自然の三人の視線は一刀に突き刺さった。一刀は微妙に身じろいだ。「……」「……」「……」「……」全員の沈黙がしばし続き、我慢比べに負けたのは一刀の方だった。「あの、桃香。 紹介してくれないかな……」「あっ! そういえば愛紗ちゃんと鈴々ちゃんは初めて!?」「ハッ、そういえば……確かに店先では出会っていますが」「でもお兄ちゃんの名前は、鈴々知っているのだ」初っ端から微妙にすれ違ってしまったが、桃香が先導して自己紹介を無事に終えることが出来た。実は、こうして関羽や張飛が訪れた時に会わせてくれと頼んでいたのは一刀の方からである。ここでしっかりと確認しておかなければならない事があるからだ。「それで、話とはなんでしょうか」お茶を淹れて来た朱里に、雛里を呼んでくるように頼んで、それを待ってから話は始まった。再び全員の自己紹介をし、暫しの歓談を楽しんだところで関羽が切り出した。桃香が仕える天代様ならば、と既に関羽と張飛から真名は預かっている。それを聞かれて、一刀はふぅっと一つ息を吐いた。手の中には、本が見開きで開かれている。「……愛紗と鈴々が洛陽まで桃香を追いかけた理由は、聞いた」「はぁ」「そこから考えた勝手な推論だけど、愛紗と鈴々は目に見える人を救いたい」「はい、そうです」「でも二人だけじゃ無理だから、こうして洛陽まで来たのだ」そんな鈴々の言葉尻を掴んで、愛紗が説明を続けた。平和な世を作るために、自分が出来ることは武を奮うことくらいであったと。それだけでは、最早苦しむ人々を救うことが出来なくなってしまったのを感じ国そのものを立て直すという桃香の志に感じ入り、臣下の礼を取ったこと。そして、今。こうして天代の居る宮内にまで足を運んだ事を、順序だてて分かり易く説明してくれた。一刀はしばし聞き役に徹していたが、愛紗の言葉が切れたところに口を開いた。「分かった。 じゃあ愛紗と鈴々には桃香の元で思う存分に武を奮ってもらおう」この発言によって、愛紗と鈴々の二人は天代に仕える桃香の部下という事になった。一刀は朱里と雛里に首を向けた。雛里はその視線の意味が分からずに、首だけを傾げたが朱里は理解した。「あ、もしかして……」「愛紗と鈴々は、朱里と雛里を見たことはあるかい?」「……はい。 賊将として市中を引き回された者だったかと」「そういえば、どうして眼があるのだ?」「あわ、そ、それはその」鈴々が無邪気に尋ねたその疑問は、愛紗も同じく感じていたことだった。もちろん、その疑問は予想され得る事だったので今度は一刀が朱里と雛里の事を、順序立てて説明した。途中、朱里達本人や桃香からの証言も交えて。その話を全て聞いた鈴々は、波才に対して憤慨していたが、愛紗の方は何処か疑わし気な眼で朱里と雛里を見ていた。その視線に、彼女達は居ずらそうに顔を伏せた。この愛紗の厳しい視線にフォローを入れることは出来ない。二人の境遇を聞かされても、今までは散々、黄巾党に与した賊将と認識しているのだ。一刀の言葉を妄信して受け取る愛紗ではなかった。そんな彼女からの信頼を朱里と雛里が勝ち取るのは、二人のこれからの頑張り次第であるから。何より、ここで一刀が口を出しても真の信頼を得ることは難しいだろう。「……それを踏まえてね、桃香」「は、はい」一つ言葉を区切って、一刀は続けた。真面目な話であるので、流石に桃香の声も堅くなっている。次の言葉を言うには、一刀も少し躊躇してしまう。それは、この暖かい日々を自ら捨てる事になるかも知れないから。けれど、一刀は思いついてからこっち、この日が来る可能性を知っていた。覚悟は足りなかったかも知れないが、どちらにしろ近い内に切り出すつもりではあった。こうして手札が揃ったからには、切らなくてはならない。朱里と雛里との約束もあるし、全員が納得してくれるならこれが最善の道だと思っていることもある。一刀のそんな雰囲気を感じ取っているのか。この場に居る者は誰もが次に続く一刀の言葉を待ち……そして、彼の口は動く。「……朱里と雛里の二人を預けるのは桃香だ。 一軍を率いて最前線へ赴き、武功を上げてくる様に、天代として命ずるよ」「っ!」「ま、まさか!」もちろん、今すぐにという話ではない。まだ正式な書類も整っていないし、官軍を動かすことになる話だ。この後に何進や蹇碩とも会う予定なので、今日訪れてくれたのはタイミング的にはベストでは無いだろうか。しかし、黄巾党も長らく反乱を起こし続けて息切れしたのか、ここ最近は落ち着きを見せている。勿論、至るところで略奪や乱は小規模ながら続いてはいるだろうが。そんな黄巾党の動きを、終息したと捉える者も居る。仮に黄巾党に今後大規模な乱が無くとも、再び決起してこないとは限らない。涼州で不穏な動きを見せているという報告が入っている『韓遂』の事もある。戦が起こる可能性は決して低くない。もしも起これば、桃香が立つのは、その時になるだろう。勿論、乱が起こらなくても黄巾残党を駆逐するための出兵の予定はある。その時もいち早く桃香に立ってもらい、朱里と雛里に功をあげる機を授けるつもりだ。少なくとも、そうすれば桃香に一刀の意思は伝わるはずだった。「朱里と雛里の二人は、確実に何処かの戦場に送らなくてはならないだろ。 そんな時、二人を預ける人は信頼できる人、使ってくれる人じゃないと功をあげるのは難しいはずだ。 桃香が率いてくれれば、二人も安心して戦場を俯瞰できるだろうし、俺も安心できる」「……う、うん」「やってくれるかい?」一刀の言葉に、少しだけ逡巡した後に桃香は頷いた。二人の為に何かを考えていることは、刑罰執行の前後から薄々と感じていたが、自分が官軍の一軍を預けられて戦場に飛び出すことになるとは思っても居なかったからこその逡巡だった。しかし、迷う必要は無かった。勿論、朱里と雛里を助けるためにという物があったが何よりも。乱を起こしている賊と戦う力が無くて、どうすればいいのかと一刀に泣きついたのは桃香の方だ。戦う力を与えてくれる。その代価に、人助けをして欲しいと、桃香は単純に捉えることでストンと自分の気持ちに納得できたのだ。そして、そんな桃香の意思の篭った視線に頷いた一刀は、愛紗と鈴々に眼を向けた。「今の話を全部聞いても、二人とも桃香に付いて行く気はあるかい?」「勿論なのだ!」問われた愛紗と鈴々は、双方共に即座に了承を返していた。愛紗は力強く頷き、鈴々は声に出して。「本当に良いんだね? 朱里と雛里のことを知られたからと言っても、俺は君たちが断るならそれで良いと思ってる。 桃香を支える武人に当てはあるから、決して二人の歩く道の邪魔をしない事も誓うよ」「そうなんですか?」「ああ」嘘だった。諸侯から武将を貸してなどとは言えない。言ったところで断られるのが関の山だろう。そもそも、軍として行動する以上、武のある将が必須という訳ではない。皇甫嵩や朱儁のように、用兵に優れていれば十分戦うだけの力はあるのだ。まぁ、10倍の戦力差を野戦で追い払ったという恋は別としてもだ。そんな一刀の嘘は、愛紗と鈴々の意志を強制させない為の嘘である。それは、先ごろあった朝帰りの言い訳のような嘘ではなく、まさに渾身の一撃。この場に居る誰に嘘であると気付かれることもなく、しかし愛紗と鈴々はそんな一刀にくどいと言う様に首を振った。「天代様。 私は桃香様に臣下の礼を取りました。 たとえ何があろうとも、桃香様が志を忘れぬ限りは、共に歩む道から外れることは在り得ません」「鈴々は、愛紗と桃香に付いて行くって決めてるのだ」その答えを聞いて、ようやく一刀は微笑んだ。急に笑みを浮かべた一刀に、怪訝な顔を向ける愛紗達であったが、そのまま一刀の頭が垂れたことで驚きに変わる。深く深く、頭を下げた一刀に愛紗は狼狽した。「桃香、それと朱里と雛里をよろしく頼む」「なっ、頭を上げてくださいませ! 天代様ともあろうお方が、私のような者に頭を下げてはなりません!」「それでも、人として誠意を見せなければならない時に、頭の一つも下げられないようじゃ駄目だと思うから」「う……」頭を上げた一刀にそう言われて、今度こそ愛紗は二の句を告げずに黙ってしまいそして、いつか桃香に礼を取った時と同じように息を吐いて口を開く。「かないませんね、天代様にも……」「愛紗の負けっ! お兄ちゃんの想いはちゃんと伝わってきたのだ! 孔明と士元の事は、鈴々にどーんとお任せなのだ」「ああ、鈴々、頼むよ」「にゃははは!」鈴々の笑い声を切っ掛けに、桃香も明るい声を出して一緒に頑張ろうと盛り上げ始める。先ほど、朱里が流したように雛里も感じ入ったのか、声を殺して涙していた。そんな雛里を、一刀が自身にしてくれたように優しく撫でる朱里は、少しお姉さんっぷりを発揮していて一刀を含めて微笑ましい気分にさせていた。昼食の時間が近いということで呼びに来た音々音に、自然、一刀の部屋から人の波が引く。最後に退室した愛紗が、一刀へ向けて一つ頭を下げると、一刀は笑って手を振り答える。そうして、自分だけが残された部屋。酷くさびしく見えた気がしたが、一刀が自分で考えて決めた事なのだ。そんな自分の想いに、全員が納得して頷いてくれた。これ以上、何を望むか。「……それでも、寂しくなるのは間違いない、けど」机の上に乗った竹簡の山は、結局半分も崩せなかったし治水の事も放りっぱなしだ。しかも、この竹簡の山は殆ど朱里が崩した物である。既に眼を通し終わった竹簡の一つを手に取って、開いて見る。多少マシになったとはいえ、宮内では下手な一刀の字とは違う。しっかりとした流麗な朱里の書いた文字が、提案として竹簡の端に書かれていた。「次にこの字を見る時は、きっと」そこで言葉を切って、一刀も先に昼食を取りに向かった皆に追いつくために部屋の出口へ向かって歩き始めた。そう。きっと、皆が笑い合いながらこの部屋で竹簡の山を崩せると信じて。 ■ 渦の中の人は気が付かずそれは、バッタリという表現が正しいだろうか。この広い宮内の中で、その姿を見かけることはあっても、こうしてすれ違うことはそう無い。そもそも、こうして会わない様にその姿が東へ向かえば西へ。北へ向かえば南へと、彼女は足を向けていた。それらが功を奏したか、今の今まで出会うことは無かったのに遂にと言うべきか。その時が訪れてしまった。「あ、荀彧」「っ……」そう、彼女が会ってしまったのは宮内を歩く一刀だった。荀彧が一刀に会いたく無かった理由は個人的な物から世間的な物まで、実に多岐に及んでいた。一つ。北郷一刀は、数ヶ月見ない間に天代という高い身分になっており、話しかけられて無視するのは彼女の吟所に反する上に曹操の顔に泥を塗ることになりかねない、世間的な意味で。加えて自らの主である曹操が、調教先生という身の毛のよだつ役職を濫用して行っている目の前の男の卑猥な講義に何故か出席することが多く、それなりに一刀を認めているという認め難い事実がある。故に、主の為を思えば、荀彧は一刀に対して機嫌を損ねないように注意を払わなければならない。一つ。北郷一刀を見て、荀彧は野生の勘は働かなくても理性の警報が働く。この男は噂を含めてとにかく危険だ。 勿論、全身精液的な意味だ。一つ。他人の真名を許可無く連呼するような無礼で傲慢で腐った人間に近寄りたくない。概ね、荀彧が一刀に会いたくない理由はこの三つだ。こうして顔を合わせてしまえば、一刀は間違いなく荀彧に絡んでくる。現に、名を呼ばれてこちらを見ている。おぞましい事実である。「なんだか、宮内に居るのに全然会わなかったね」「急いでますので」大陸でも有数の知を持つ彼女の導き出した答えは、流すことであった。やにわに慌ててる様子を見せて、一刀の横をすり抜けてそのまま去っていく。それは上手くいったのか、一刀の声が追いかけてくることは無かった。―――それは、バッタリという表現が正しいだろうか。何の因果か、本日二度目の邂逅である。用事を済ませて曹操の元に報告の為に戻ろうと足を向けた先、宮内の中の廊下の曲がり角だった。皇甫嵩と盧植を後ろに従え、竹簡を眺めていた視線が、その時になって何故か顔を上げて荀彧へと突き刺さる。一刀が二人と出会っていたのは、黄巾党の動きを探っていた草から重大な情報が持ち帰られたという事があってだ。上党を騒がしていた黄巾党に、波才のような賊を引っ張る人物が居るかも知れないという話だ。皇甫嵩に持ち帰られたこの情報は、相談という形で盧植の元に訪れ最終的には一刀にも知らせるべきとして、彼は呼ばれる形で二人の下に訪れていた。そんな重大な情報が満載に乗っている竹簡を眺めているときのことであった。「あ、荀彧」「……」もちろん、荀彧にとってそれは今はまだ知らぬ話。ただ、そこには天代である北郷一刀がいたと言う事実だけ。先ほど急いでいるという話をした直後だ。ここでまた、急いでいるという理由を述べれば白々しい上に分かり易すぎる。別の案を出さねばならない。そうだ、自分はつい先ほど、主である曹操に報告しようと思っていた。敬愛して止まない、女神のような主君を引き合いに出すのは憚られたがこの男から逃れる為だ、仕方ない。一刀が荀彧の名を呼んだ次に口を開く数瞬の間で、驚くべき思考力を発揮した荀彧だった。「あの―――」「か……曹操様に呼ばれておりますので」断腸の思いで首を僅かに一刀へと下げて、荀彧は早足で彼の横をすり抜けた。一刀の挙げた手が、中空でさ迷う結果になったが、当然そんなことはどうでもいい荀彧である。無事に切り抜けられた喜びの方が勝り、僅かに笑みを浮かべていた。そんな笑顔を、後ろに居た皇甫嵩は見ていた。「ふむ、あの子は確か荀家の荀彧殿でしたか」「あー、ええ。 まぁ嫌われちゃってるみたいですけど」「しかし、微笑んでおりましたぞ」盧植と一刀の会話に滑り込むように、皇甫嵩が話の輪に入る。「笑ってた?」「間違いなく。 察するに、彼女は奥手なのでしょう」「ふふっ、天代様は羨ましいほど女性から好意を戴きますね」「そ、そんなこと無いですよ。 しかし、そうか……」皇甫嵩の情報に、一刀は盧植の声を否定しながら安堵していた。嫌われていると思っていたが、笑ってるということは悪い印象を抱かれていないかもしれない。曹操にくっ付いて、荀彧も自分の講義に顔を出すことは多い。そうした物が積み重なって、自分の事を認めてくれたのかも知れないと考えると一刀もやにわに嬉しくなってくる。「おや、満更でもなさそうだ」「若くて宜しい、天代様」「もうっ、二人とも茶化さないでくださいよ!」「はっはっはっは、これは失礼した」「そうだぞ、はっはっは、失礼ですぞ、盧植殿」「皇甫嵩殿も」そんな笑い声は、基本的に静かな宮内では良く響いた。廊下の終わる先、階段を下り始めていた荀彧の元にまで届いて。「ぷっ、私に無視されて周りの人に笑われてるのね、良い気味だわ」―――それは、バッタリという表現が正しいだろうか。二度目の邂逅から暫し、曹操へ報告してお茶を楽しんだ後だった。今度は厠の目の前である。正確には、荀彧が催して入った厠から出るときに開いた扉に、一刀がぶち当たった。鼻っ面を当てられて荀彧の前でしゃがみ込み、僅かに震えている一刀を一瞥。「っ……精液は死ねばいいと思うの」「は、まっ」氷のように冷たい声をボソリと呟き、蛆虫を間近で見てしまった時のように顔を歪めた彼女は駆け足で一刀の横を通り過ぎた。痛みに苦しんでいた一刀は、そんな素早く通り抜ける荀彧に声をかけることすら間々ならず。しかして不名誉な事実に捻じ曲げられそうだった一刀は、思わず咄嗟に彼女の腕を引いた。「きゃっ、ちょっと触らないでよ! 変態が伝染るでしょ!?」鼻ッ柱をしこたま強打された一刀は、そこまでが限界であった。腕を引かれて縺れるように、一刀と接触した荀彧は奇妙な感情が襲い掛かる前に逃れることに成功する。パタパタと走って視界から消えていく彼女に弁明すら出来ず、見送ることしか出来ない一刀である。これでまた嫌われたかもとか、変な噂が増えるかも知れないと恐れながら、とぼとぼと歩き始めた。今日三度も出会っているのに、荀彧との会話は総計5秒に満たないだろう。しかし、一刀も荀彧ばかりに構っている余裕は無い。今日は一刀も忙しいのだ。これから帝の元に赴いて劉協や劉弁に纏わる後継問題の相談があり公孫瓚からの強い要請で時間を割くことになり、劉弁を支える宦官と初めての顔合わせも控えてその上で劉協に渡す荷物を段珪の変わりに受け取りに行くなど、予定が詰まっている。ちょっとだけ時間を割いて追いかけようかとも思ったが、厠の前でバッタリ出会った直後だ。しかも、痛くて良く分からなかったが、強打された直後には冷たい声をかけられた気がする。『変態は死ね』『あ、要約するとこう言ってたって事ね』『実際には、もう少し酷かった』『まぁ、挨拶みたいなものだよ』(……)『“魏の”は重症だから気にするな』どちらにしても今追いかけたところで、脈は無さそうだ。むしろ彼女の誤解が加速しそうな気がするので、一刀は素直に諦めた。……そんな様子を遠めから見ていたのは、孫策と周瑜の二人であった。孫堅との話を終えて部屋から出てきた彼女達は、もつれ合う一刀と荀彧をしっかりと目撃していた。「あの子、曹操のところの軍師じゃなかったっけ?」「ああ、荀彧という名前だったはずだ」「ふーん……こんな昼間から抱き合うなんて、見せ付けてくれるわね」「噂も色々とある。 いずれかは真実なのかも知れんぞ」「噂は噂でしょ? なんとなく殆ど当たってないような気がするわ」「天代様が気になるから、そう思うだけじゃないのか雪蓮」「あ、冥琳やきもちー?」「さて、どうかな?」力なく立ち去る一刀を眺めながら、そんな話をしながら二人は歩き出す。軍師として、曹操の陣営の知者と天代が仲を深めていることに、当然ながら周瑜はその情報を頭の中に入れておく。孫策も、別の意味で頭の中に入れているようだが。諸侯との結びつきを深めている一刀に、おぼろげながら裏に意図があるように感じていた周瑜である。まぁ、それを感じても話すことは無いだろう。中央の泥臭い事情に首を突っ込むのは、主である孫堅に不利が被ってくる可能性もある。内情を良く知らずにわざわざ首を突っ込むことなど無い。ただ、練兵場に赴く黄蓋から華雄経由の情報で、董卓も天代へと係わりを深めているそうだ。袁紹、そして曹操の動きも一刀との関係を深めてる。そうした動きの裏には、宮内で確固な立場を確立しつつある一刀を見ての判断だろう。そろそろ本格的に、孫策との関係から孫家も一刀との結びつきを強めた方が良いのかもしれない。周瑜はそんな事を頭の中で考えながら、孫策の話に適当な相槌を返していた。―――もう夕刻に差し掛かった時である。一刀はようやく全ての用事を消化して、公孫瓚が金獅にと一刀へ贈った鞍を付け替える為に、馬房へ向かった時だった。そして、荀彧は曹騰から書簡を受け取って蹇碩に対する一手を練り上げ終わり荀攸とお茶を楽しんだ帰りだった。この、広い宮内。曹操陣営がよく使う宮の入り口付近で、まさかの4度目だ。「あ、荀彧」いかにも、偶然だなぁ、という様子で話しかける一刀。実際、全ての邂逅が偶然なので彼のこの感想は正しい。しかし、流石に我慢強くて曹操の第一の家臣であり、聡明で知的と自称して憚らない荀彧もこの偶然の連続には我慢の限界だったようだ。「あ、あんたね……あんたねぇ……私の事を尾けているでしょお!」「なっ! なんだよ、人聞きの悪いことを言うなぁ」「じゃあ何でこんな広い場所でこんな時間にこんな風に何度も会わなくちゃならないのよっ!」「珍しいこともあるもんだよな」「尾行でもしてなきゃ、在りえる訳無いでしょ!?」「いやでも、実際起きてるし……」「じゃあ何!? 私が間違ってるって言うの!?」「そうだと思う」「くあああっ、もうっ!」言った瞬間、唸り声を上げて彼女の足が動き、庭師が丹念に刈り上げて綺麗にした草木が蹴り上げられた。草木の悲鳴が聞こえてきそうな、実に良い前蹴りであった。そんな事を考えていた一刀は、荀彧の蹴りが夕日で映し出される一刀の影の股間に突き刺さっていた事には気づかない。荀彧の、せめてもの抵抗であるようだった。大きく息を吸い込んで深呼吸。不審な荀彧であったが、やがて落ち着いたのか素っ気無い声を出した。「で、何の用ですか? これ以上に付き纏われても鬱陶しいから、ここで聞いてあげるわよ」「別に俺は用なんて無いけど……?」「はぁ? ……あ、分かったわ、別のところ……人目の付かない所というわけね。 知らないみたいだから教えてあげるけど、いくら小さいからって、私はもう成人してるわよ」「荀彧は何を言いたいんだ?」あまりの話の繋がりの無さに、一刀は素で聞き返してしまった。「そんな怪しげな物を抱えてるあんたの考えることなんて、分かりきってるの!」「これ?」そう言って一刀は手に抱えた馬鞍を少しだけ持ち上げた。馬の鞍にしてはちょっと重いし、装飾として鉄で作られ色付けがされた輪や鎖などが金属的な音を立てて耳に響く。馬鞍事態にも、鉄が中に入っているようで軍馬用に作られた物だろう。抱え続けるには重いので、早いところ金獅の馬房に向かいたい一刀である。怪しいと言われても、ちょっと派手な馬の鞍にしか見えないし。「何に見えたの?」「拘束具でしょ! 調教先生の異名を取るだけはあるわね、北郷一刀!」「ブッっ! あほかーーーーっ!」「なっ、阿呆ですって!?」「これは馬の鞍だよっ! 何処をどう見れば馬鞍が拘束具に見えるんだ!」「なっ、嘘よ! 知ってるんだから、その鎖や輪で縛って木馬の上にまたが―――」「へ、変態だーーーー!」「人の用を覗いて孕ませようとする全身精液変態趣味男に変態なんて言われたくないわよっ!」「そんな事で孕む訳ないだろ!?」「都合よく厠の前に立っている男なんて居ないでしょーがっ、覗く以外に考えられないわよっ煩悩頭っ!」「馬の鞍見て拘束具と思い込む変態に煩悩がどうとかって言われたくねーよっ!」「やっぱりねっ! 覗いてることを否定しないのは認めてるわけねっ!」「それ以前に突っ込むところが多すぎるんだよっ!」広い宮内、人足の途絶えかけた一角でぎゃあぎゃあと騒ぎ出す。一人は帝に認められて権力の最高位を掴んだ男、北郷一刀。一人は英雄に認められて絶大な信頼を預けられている軍師、荀文若。そんな市井の者とは一線を画す地位に居るはずの二人が互いに一歩も引かず拘束具とか変態とか厠とか精液とか、宮内に轟かせるには少々配慮に欠けた言葉が飛び交う。実際に、一刀にとって噂というのは結構重要だ。この天代という立場は噂一つ流れるだけで、風評に繋がってしまうからである。その辺は、音々音や朱里にも口を酸っぱくして変な噂が広がらないように気をつけてくださいと言われていた。例えば、荀彧がこのまま真に受け取って、少女の用を足す風景を眺めるのが好きな男という風評が広がるとする。或いは拘束具を常に持ち歩く男であるという噂だ。それが原因の一役を担って、漢王朝が滅びる。そして歴史に残るのだ。もちろん、極端ではあるし仮の話だ。一刀が居なくても漢王朝は勝手に立て直るかも知れないし、そんな風評が原因で失脚することも多分無いだろう。しかし、どんなものにも可能性は転がっている。そんな事で漢王朝が滅びるとしたら由々しき事態である。一刀にとって。だからこそ、荀彧との口論には熱が入ってしまった。一方で、荀彧の方も止まることは出来なかった。恥ずかしさのせいである。確かに、一刀の持っていたのは馬の鞍であることを彼女は知っていた。しかし、その、何と言うか、そういう時に使うように改造された馬鞍も見たことが在り、知っている。今までの北郷一刀を見てきて、或いは一刀の周りで騒がれる噂を耳にすれば荀彧が達した結論が拘束具として、頭に電球が光ってしまうのも無理は無い。この場合の不幸は、荀彧が物知りであり拘束具として使われる同じような物を知っていたことであった。荀家は名家であり、しっかりと教養を積んできた彼女は桃香や劉協と事情が違い調教の二文字をしっかり認識していたせいでもある。一刀の持ち歩いていた物が、ただの馬の鞍と知った瞬間から、彼女が止まることは許されなくなった。なんせ、確信を持って言った言が、変態というオマケまでついて返されたのだ。言い返されたら譲れない。軍師として、女として。「そもそも、そんなややこしい物を持ち歩くのがいけないのよ!」「馬の鞍を持ってちゃ駄目なのか!?」「自分につければいいじゃない、種馬なんだからっ!」「たねっ、お前、こんな公衆の面前で堂々と恥ずかしい事をよくもまぁ……」「あんたが言わせたんでしょうがぁー!」「お前が勝手に言ったんだろっ」「事実じゃないの!」「捏造された物は事実とは言わねーからっ!」「ふん、ムキになって否定してるところが怪しいわね」「怪しいのはお前の方だろ、普通間違えないし……ん?」「何よ」「まさか、使ったことが……」「きゃああ! やめてっ! 虫のような気持ち悪い視線で私を犯さないでよっ!」どちらも公衆の面前でと言えば、低次元な争いに突入してること事態が恥ずかしい。そんな騒ぎにいち早く気付いたのは、夏候惇である。彼女もまた、練兵場で一汗流してきたばかりであり、宮内に戻ろうとしている所だった。荀彧の特徴的な猫耳が揺れるのを見て、声をあげかけた彼女であったが即座に噤んだ。隣で言い争うように声を挙げている男が眼に入ったからである。「あれは、天代ではないか」そんな夏候惇が、微妙に建物の影から覗きつつ二人の争いは未だに止む気配を見せなかった。「くっ、いい加減にそれを使って私を狙っていた事を認めなさいよ! 何度も何度も私と会って、今更に言い訳なんて見苦しいわよ!」「その時点で話がおかしーの! 何回も会ったのは偶然だろ!」「どこがおかしいのよっ、種馬の癖に!」「どこもかしこも種馬ってのもおかしいだろっ」「きゃああ、寄らないでよ! 妊娠しちゃうでしょ!?」「……付き合ってられん」「ああっ、図星を突かれて逃げる気ねっ!」「ああああっ、もう、どうしろっていうんだよ!?」「死ねば?」「おい……不敬罪にすんぞ」どうやら、荀彧が突っかかって天代の足を止めているようである。夏候惇から自然にそう見える形、しかも会話の内容がちょっとアレな感じだ。断片しか夏候惇は捉えることが出来なかったが、それでも十分に内容が予測できた。すなわち。「何と言う話か、華琳様に報告しなければなるまい」夏候惇は再び歩き出し、速度を速めて宮内へと向かった。自身の主の知恵袋が天代と逢引を繰り返している上に、胤とか妊娠とか言ってる。これは余程、天代に懸想しているに違いない。手紙とかもわざわざ書いて送ってたし。夏候惇にとって、荀彧の残していく状況証拠は間違いない物として示されていた。今も、立ち去ろうとした一刀を必死に引き止めている荀彧の姿が見えているのだ、確定しても良いだろう。やや駆け足になりながら歩く夏候惇は、ちょうど入り口に彼女の武器である七星餓狼が引っかかって金属のぶつかり合う音を響かせた。その音は、近くで騒いでいた一刀と荀彧にもしっかりと聞こえていたようだ。言い争いを止めて、音の出た方向、夏候惇へと視線が向く。曹操へ今しがた手に入った情報を報告する事しか頭に無い彼女は、そんな一刀達の様子に全く気付いておらず宮内の奥へとその姿をけして行く。「春蘭……?」「夏候惇さん……ああ、なぁ荀彧」「何よ」「もう止めないか」「……そうね」二人共、夏候惇の姿が見えたのを切っ掛けに熱が冷めたのか。口撃の矛を降ろすことになった。今立っているこの場所は宮中であり、こうして言い争う利が何処にも無いことに気がついた故だった。一刀にとっては諸侯との関係が拗れているように見えるし、こんな人目のつきそうな場所ではよくない噂が会話の断片を聞いた者から、勝手に一人歩きしてしまう可能性もある。荀彧も同じように、天代という身分にある一刀と争うのはまずいと思い出して同意した。しかし、ただ一つ。この話に決着をつけるためにも、お互いに確認しなければならない事がある。「今日、出会ったことは忘れましょう。 全て無かった事に。 異論はないでしょ?」「うん……そうだな」互いにこうして口裏を合わせることで、不名誉を受ける恐れを回避しなければならない。一刀は風評に繋がる不穏な噂を。荀彧も自分自身、そして曹操の風評に繋がりかねない噂を。それだけを二人は確約し、何事も無かったかのように別れた。この日、一日。本人達の与り知らぬ所で、二人の仲は非常に良好である印象を周囲に振りまいていた。 ■ 強風来る「なんだと? もう一度言ってみろ、ああ、いや、待て」それは、ある日の夕刻にさしかかった刻だった。曹騰は、報告に上がってきた部下に向かって思わず確認を取ろうと口にしたが思いとどまる。張譲に裏があるかも知れないと、つい最近に出会った彫師を探るように命じていた。そして今、手元に転がり込んだ報告は穏やかな物では無かった。彫師である男、そして、その彫師の家族が死んでいた。家の中は争った様子も無く、首の無い死体となって。殆ど血もついていないことから、外で殺されたのではないかという話である。周囲に住む町の人々に聞いても、喧騒の様な物は聞こえてこなかったという。曹騰は一つ被りを振って、明日にでも時間を作って現場を見に行く事を伝えた。男の家に残されていた、遺品を手に取って眺める。それは、上質な木に彫りかけの文字であるようだった。どちらも同じような大きさで、「永」という文字と「天」という文字が彫りこまれている。木には市井の物にしては些か分不相応な、高級そうな紐が括られていた。「……やっぱ何かありやがる」そう確信した。恐らく、彫師は張譲の手によって葬り去られたのだ。宮内で見かけたとき、彫師は何かを張譲に渡していた。それはきっと、受け取った直後から張譲にとっては仕事が終わって用済みになったからだろう。そうでなければ、彫師の男が殺される理由など無いはずだ。この一事で、彫り物を趣味にしていると言う張譲の言が、嘘であることも間違いないと思われる。そして、彫師は知っていてはまずい事を知らずに仕事をこなし、殺された。死人に口なしだ。すなわち、彫師が知っていて、他人に知られてはまずいことを張譲は隠したと言える。逆に言えば。今まで、沈黙を貫き通してきた張譲が遂に動きを見せた。この事件を切っ掛けに、奴の裏を暴けないかと考えた曹騰は危険かも知れないが、張譲との関係が疎遠になっている趙忠に宛てる為に筆を取った。趙忠のここ最近は、天代や張譲に敵対している動きを見せていたからだ。ならば蹇碩でも良いでは無いかと思われるが、蹇碩は天代に風向きが向かい偏っている。蹇碩よりも都合のいい趙忠に動いてもらい、張譲の目をそちらに向けてから曹騰は事件を追うことにしたのである。下手に食いつくのを狙った罠である可能性も否定できないからだ。宛てる手紙の内容は簡単だ。協力したい、と簡潔に声をかけるだけでいい。性格から考えて、趙忠は動きを見せなかった曹騰に対して疑念と確認に接触する動きを見せる筈である。それを張譲に確認してもらえば、それだけで趙忠に対して眼を配らせ始める筈だ。勿論、自分自身が趙忠に会うつもりは無い。会うのは、自身が信頼できる部下だけ。あくまでも、張譲には趙忠が自ら自分へ接触しようと図っているように見せなければ余計な疑念を自分に向けてしまうだけだからだ。「天に、永か……」筆をいったん置いて、横目だけで見るその彫られた文字の意味を考えていた曹騰であったが部屋を叩くノック音に、首を向けた。入ってきたのは陳留へと向かわせていた一人の男。「曹騰様、蹇碩の手の者が動き出しました」「間のわりぃ事だ」「は?」「いや、こっちの話だ、気にすんな」手だけで分かったと合図して、曹騰は書いていた書簡を机の中に仕舞うと立ち上がる。この件と殆ど同時に飛び込んでくるとは、間が悪いと言っても仕方が無いだろう。急に忙しくなった、と思いつつ曹騰は準備を整えると曹操の居る宮に向かって歩き始めた。宮内から外にでた曹騰に、強い風が吹き付けてきた。顔を顰めて空を仰ぐ。随分と強い風なのか、雲の動きは早い。生暖かく強い風に、不快感を覚えながら歩き始めてしばし。前に見知った男が、駆け足で通り過ぎるのを目撃した。「天代っ!」「え!? ああっ、曹騰さん!」「どうした、急いでてよ」「つい先ほど劉宏様が倒れられたそうなんだ! 曹騰さんも!?」「いや、こっちは別件だが……帝がだとっ?」「容態が分からないから、確認に向かうところなんです!」「ちっ、分かった。 わしも付き合うぞ!」一刀が頷いて走り出すと、その後ろを追いかけて曹騰も追従する。流れる景色の中、良く見れば多くの人が落ち着かない様子で居るのを眼に映す。確かに、ここ最近の帝の体調が優れていないことは聞いていたし、後継者問題に取り組み始めたことから予感のような物は感じていたが、しかし。急に倒れるとは何かあったのか。今までの緩やかに流れていた時間が、慌しく動き始めたのを感じる。前を走る一刀へ、曹騰は走って乱れる息のまま口を開く。「なぁ、おい!」「はい!?」「ハッハッ、張譲が動いてるぞ! この先、奴の動きには十分に気をつけろよ! フッフッ……」「……今は、帝の元に行くのが先です!」そして一刀は帝の居る宮へと辿りつく。いや、一刀達だけではない。つい先ほどの事だからか、未だに多いとは言えないが集まった高官や宦官たちも大勢居る。蹇碩は鼻息を荒くし落ち着かない様子で、趙忠も人形を抱えたまま動かない。外戚の者では、何進が慌てた様子で入り込むのが見て取れる。そして張譲は、彼らより数十分遅れて静々と入ってきていた。洛陽に猛暑を知らせるように、強い陽射し風が差し込み始めた頃であった…… ■ 外史終了 ■・かずと は あらたな 称号を てにいれたぞ!種馬全身精液変態趣味男