clear!! ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編8~clear!! ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編9~今回の種馬 ⇒ ☆☆☆~「ひとよ」の交叉に薄影の果てぬ夢を見て、種馬は駆け抜けるよ編1~☆☆☆その日は、とても暑い日であった。今年は猛暑となっているのか、強い陽射しが洛陽を照らして雲の無い空を覗ける日が常となっている。ついこの間まで、長い雨季を迎えていたとは思えない程に晴れ渡っている。そんな暑い日々を迎えた洛陽の街中の一角に、曹騰は居た。もう間もなく、曹操も陳留を離れることを知って蹇碩への一手がひと段落した為兼ねてより気になっていた彫師の事を調べ始めたのである。何かの果物だろうか、水気のある食物を丸かじりしながら、まるで一市民であるかのように町並みを眺めながら歩いていた。着ている服も、宦官を示すような物ではなく何処でも見られそうな質素な物であった。実際、曹騰は街中の雰囲気から浮いていない。何人かの共も同じような服装に身を包み、彼の回りを一緒になって歩いていた。「ここかい? ずいぶん遠かったな」「は、ここです」そんな彼らが目指した目的地は、洛陽の街の中でも裕福とは言えそうに無い区画の一部。あばら屋のような、お世辞にも良い家とは言えない家屋が並ぶ一角であった。例の殺害された彫師が見つかった場所は、仕事を行う為だけの様な場所であったという。実際に寝食していたのも向こうだったのだろうし、彫師本人の私物もあちらで殆ど確認された。ただ、あの場所で同じように殺害された家族は住んでいる訳ではなく、今訪れた家で暮らしていたようなのだ。そんな情報を得て、曹騰は足を運んだのである。周囲の住人は、この家に人が居なくなったことに気がついているのか居ないのか。その辺の事実関係を含めて調査するように共の者に言い渡すと、曹騰自身は家の中へと入り込んだ。見えた景色は最低限、暮らしが成立するような家具や調度類ばかり。一見するだけで、あまり裕福ではない家庭であったことが分かる。水瓶を覗き込むと、その水から立ち上る臭気はやや臭い。少なくとも雨季の頃には、この家で水を使うようなことは無かったのだろう。顔を顰めて、水瓶の蓋を閉じる。その一動作だけでも埃が舞い上がり、所々に開く壁の間から差し込む陽射しに照らされていた。「……随分、居なかったみてぇだな」「曹騰様」「おう、どうだった」「それが、近所の者は全く気付かなかったと」「全員が言ってたか?」「はい」「……なるほど」この近辺、何処までが範囲か知らないが、口裏を合わせるように金を渡された可能性がある。懐に手を突っ込んで、袋のようなものから金銭を取り出して共の者に押し付けた。貧しい一帯であることは、町を歩く時に確認している。金を差し出せば、口裏を合わせていても容易く割ることだろう。「早くな」「分かりました」家から飛び出す男を見送り、曹騰は再びぐるりと周囲を見渡した。僅かに引き出しが開いた箪笥に近づいて手をかけると、一気に中身を引き出す。いつか見た、ヒャクエンダマのような大きさ、円形になっている木片が大量に現れた。何個か手に取って、裏表を鑑定士のように眺める。そして、曹騰は動きを止めることになった。無作為に手に取った幾つもの円形の木片、そこには一文字ずつ彫られている。見つけた文字は『受』『命』『晶』。曹騰の手元にあった同じように彫られた文字は『天』と『永』。その幾つかの文字に、ある関連性を見出してしまった曹騰はしばしの硬直の後引き出しの中身を全てぶちまけるように箪笥から出して、床にばら撒いた。けたたましい音が響き、外に居た何人かの男達が家の中に入ってくる。そして、散らばった木片はちょうど陽光が差し込んだ場所に転がって停止した。於、受、既の文字を示して。「そ、曹騰様、いかがなされましたか」「……玉璽」「は?」呆ける男を無視して、曹騰は思考した。これらの文字、見つけた順序こそ違えど一度だけ見たことのある玉璽に刻まれた文字と同じであった。記憶違いなどではない。確かに、玉璽には 「受命於天 既寿永昌」 と刻印されていたのを覚えている。その玉璽に刻まれた文字を、一つ一つ彫る意味はなんだ。思い出されるのは、雨が続く雨季の頃、偶然見かけた張譲と彫師の接触。あの時渡していたのが、もしかして完成された玉璽なのではないか。ヒャクエンダマは確かに素晴らしい造詣であったし、嗜好品として楽しむには十分な出来栄えだっただろう。受け渡しの際に差し出したのは玉璽であり、ヒャクエンダマは単なる隠れ蓑だったのではないか。張譲が隠したかったのは、この玉璽を作ったことと見て間違いないかも知れない。曹騰が記憶している限りでは、帝の元から紛失して久しい。どういう経緯で失ったのか、何故玉璽が無くなったのかを彼は知らない。そして、何故今更に彫師に命じて作らせたのかも分からなかった。ただ、あるとすれば……それはきっと、必要になったからに他ならない。なんにせよ、曹騰はこの事実を胸に隠すことにした。玉璽を作り出したことは、間違いなく張譲の独断であろう。ともすれば、張譲の致命を握りこむ可能性があり得る事実は、手札として残しておくべきだろうと考えたのだ。「曹騰様、口を割りました」「……ああ、それで、どうなんだい」「いつかは忘れてしまったそうですが、何人かに案内されて何処かへ向かってから帰ってきてないそうです。 その中には、彫師の男も居たようで」「口封じだな。 犯人の足取りを追うのは無理だろう」「でしょう」「……これだけじゃ、何を考えているのかは分からんな」そう言って曹騰は踵を返して家から立ち去った。これ以上、この場に留まる理由は無かったから。ただ、ここに来て一つだけ確信できたことがある。『彫り物に凝り始めた』というのは、玉璽であろう物を作るための方便に過ぎず少なくとも、天代の前でそう公言している事実は、彼に協力的でないことを示しているに他ならない。天代に対しての顔は、そう。嘘なのだろう。―――劉宏が意識を取り戻し、孫家が洛陽から出立してから三日が経つ。この三日間で変わったことは、劇的に仕事量が減ったことだ。回復したと言っても、床に伏せているのは変わらないというのに、あの仕事量の差は一体何だったのかと首を傾げてしまう。落ち着きを見せ始めた宮内を汗だくで歩きながら、一刀は荷物を纏めていた。離宮へ、戻るためだ。僅か半月程度とはいえ、押し込められて使っていた部屋の荷物は中々に多かった。桃香や恋のお手伝いの申し出を断った一刀だったが、些か早まったかと半ば後悔する。周りを見る余裕が戻ったせいか、一刀の脳内もいっそう騒がしくなっており、後悔は加速した。きっかけは、“白の”と“董の”の『やっぱりおかしい』の声だった。劉協と共に訪れた際に宦官の一人が言った会いたくないという言葉。帝が伏せていた時と今の仕事量が劇的に変わっていること。“白の”“董の”の二人はこの2点において、非常に疑念を抱いていた。確信に至らないのは、これら二点が偶然である可能性を捨てきれないせいだった。あくまでも、ちょっと怪しいというレベルであり言及するのも難しい。『でもさ、“白の”や“董の”が言う事が正しいとすると、張譲さんもって事だろ』『というか、奴が一番怪しい気がするんだけどな……』『……帝が倒れた日、遅れてきたのも気になるね』『あれは所用で出先だったから劉宏様が倒れた事を知るのに遅れたらしいけど』『信じられる?』『あー……いや。 でもさ、足取り追うの?』とまぁ、何か落ち着かない雰囲気を感じているのか、或いは忙しさから解放されて議論することしかやる事が無いからか、同じような、答えの出ない話を重ねていた。終始黙して、その話を聞きながら荷造りをしていた本体の手がハタと止まる。ここ最近の忙しさからすっかり忘れていた、ある事に気がついたから。「……そういや、董卓さんってもう長安の方に戻っちゃったっけ?」『うん? どうだったかな?』『月達は近々出るって挨拶に来てから、話を聞いてないね』『なにかあったの?』「墓参り忘れてた」『『『ああ……』』』言われて全員が思い出す。董卓、そして恋と丁原の墓参りに向かうことを約していたことを。まだ居るのかな、と思いつつ荷造りをようやく終えた一刀は一つ息を吐く。左腕の怪我は痛むことも少なくなり、忙しさのせいか気がついたら治ってたという感じにまで落ち着いたがそれでも痛々しく残る傷を隠すために、長袖を着ている。おかげさまで、滅茶苦茶暑い。もちろん、冷房のような便利な現代の利器があるはずも無く。この大陸に来てから初めて迎える夏の暑さに、一刀はやや辟易していた。『なぁ、そろそろ言及しておこうぜ』『そうだな』『豚汁食ったの本体だけだよな』『ああ、そういえばそうだ。 ずるいぞ』『俺も食いたかったなー』「……」真面目な話から如何でも良いような話題にシフトした、脳内が本体を責める声を無視して一刀は作ったばかりの荷物を抱えて離宮を目指す。脳内の言う、怪しさと言う物を考えながら。黙って聞いていたのは、別に無視していた訳ではない。基本的に行動の指針は本体に委ねられており、フォローするような形で脳内の皆が動いてくれることを知っている。こうして折り合いをつけて居られるのも、今の状態が如何にベストであるのかハッキリと分かっているからだ。脳内の自分達が見せる想いの発露を、当然ながら本体も見てきている。『天代』として成れたのは、運が良かったと言えよう。自分も、脳内の自分達も、満足がいく役職というのは、今になって考えてみると此処しか無かったような気もするのだ。劉協との関係を築き、諸侯と手を取り合えて、帝を支えることが出来る、この役職が。三国志という物を一刀達の中でも一番詳しい本体は、漢王朝を牛耳る官僚や宦官達に人一倍警戒を払ってきたと言っても良い。何か妖しいのではと感じれば、信頼できる音々音へと相談したことも頻りだ。まぁ、脳内の何人かは、その歴史の中の出来事よりも自身の積み重ねてきた経験から判断している節がある。そこはやはり、一度目があったという奇天烈な経緯からだろう。帝が言ったかもしれない『会いたくない』という言葉の引っかかり。伏した時、爆発的に膨れ上がった仕事量の違和感。先人の教えは馬鹿に出来ない、とも言えるし、少し様子を探ってみるべきだろうか。幸いにも、そろそろ竇武や陳蕃から紹介のあった書士を紹介してもらう段取りがつき始めている。何度かの話し合いの場を持った一刀は、竇武達に一定の信頼を置けるようになっていた。漢王朝の官僚として働いてもらう際、何人かを一刀の手元に残して裏を探ってもらうのは、良い考えであるように思える。ただ、張譲や趙忠などの宦官達と良好な関係を築き始めてる一刀には、多少躊躇いが生まれてしまうのだが。「あんまり、人を疑うような事はしたくないなぁ」『うん? 大丈夫だよ、ちゃんと本体の豚汁の分は残しとくから』『俺達、信用ないな……』『卑しいぞ、本体』「いや、そうじゃなくて……」「天代様」そんな独り言をして―――るように見える―――一刀が外へ出た時、聞きなれない声がかかった。振り向いた先には、つい先ほど約束を思い出したばかりの董卓の姿。どうやらまだ、洛陽を出ておらず内心で安堵の息を吐きながら一刀は口を開いた。「どうも、董卓さん」「お久しぶりです」ペコリと頭を下げた彼女の後ろには、軍師である賈駆の姿も見えた。二人とも夏であるからだろう、涼しげな軽装であり白い肌が陽光に反射して眩しい。ある意味で夏を楽しむ要素の一つだと思いつつ、一刀はどうしたのか尋ねると今日、ついに長安へと出立するのだそうだ。「天代様にも、挨拶をしておこうと思いまして」「そうなんだ……ああ、董卓さん、出立までの時間はあるのかな?」「え? ええ、えーと……」ここで一刀は、時間があるのならば恋を誘って墓参りに行ってしまおうと考えた。もしも駄目ならば、約束した手前、いつか必ずと再度約するためにも。そうして尋ねた結果、董卓は僅かに悩んで賈駆へと視線を向けた。両肩を挙げて手をやや持ち上げる動作をして、賈駆はコクリと頷く。一刀から見て後姿だから気付かなかったが、董卓は嬉しそうに微笑んで振り向いた。今の所作だけで意志の疎通が通っていることを見ても、彼女達の信頼や仲の良さが窺えた一刀である。「その表情を見るに、OKってことでいいのかな?」「おーけー?」「ああ、いや……大丈夫かなってことだよ。 じゃあ墓参りに行こうか?」「あ、はい。 大丈夫です。 少しは時間がありますから」お誘いをかけたところ、董卓は一も二も無く頷いた。賈駆からの待ったも入らず、実にスムーズに。荷物を離宮に預けて、恋を呼び出す必要がある一刀は少しだけ待って貰うように頼み急ぎ足で離宮へと急いだ。出迎えてくれたのは、音々音であった。「一刀殿、お疲れ様なのです!」「ああ、ねね。 ちょっと用事が出来ちゃって出かける事になったんだ」「あ、そうなのですか?」「うん。 みんなは?」入り口で出迎えてくれた音々音に、軽い荷物だけを預けると歩調を合わせて一刀の部屋に向かう。桃香、愛紗、鈴々の三人は、目隠しをしている朱里と雛里を連れて、盧植と皇甫嵩の元に向かっているそうだ。帝が伏せてから、軍の云々に関しては投げっぱなしにしていた一刀は、そこで初めて話が大分進んでいるなと気がついた。劉協も、段珪と共に劉弁の元に向かっているらしい。その話は一刀も知っていたので、驚くようなことではなかった。「じゃあ、ねねだけになっちゃうのか」「? 恋殿も一緒に連れて行くのですか?」「ああ、董卓さんと約束したんだよ」「あ……丁原殿の……」一刀は部屋に荷物を置きながら音々音の呟きに頷いた。「ねねも一緒に行くかい?」「うーん……ねねは、遠慮するのです」元々、約束を交わしていたのは一刀であるし、丁原と直接の面識を持ったのは僅かな時間だけ。その人と成りを見ることも、会話を重ねた回数も少ない。故人を偲ぶには、知り合ってからの期間が余りにも短かった。それを言えば、一刀も似たような物ではあるが、彼には恋を預けられたという事実がある。加えて、約束をしていることは前々から聞いていた。「そう……じゃあ、行ってくるよ」「恋殿が居るから大丈夫だとは思いますが、気をつけるのですぞ」「はは、分かったよ、恋は何処に?」「多分、下で眠ってると思うのです」「う、寝てるのか……うん、ありがと、ねね」恐らく、董卓を待たせているのだろう。慌しい様子で恋を呼ぶ声をあげながら、部屋を飛び出して階段を下りていく。墓が何処にあるのかは分からないが、洛陽の郊外にあると聞いた事はあった。一刀が洛陽の外へ出て、早く戻ってくることは稀だ。夕食会の時しかり、公孫瓚の時しかり……離宮へと帰ってくる一刀と、久しぶりに一緒に居られるかもと思っていた音々音は肩を透かされた形になってしまった。昨夜のうちに仕事も片付けて待っていたが、一刀の予定が変わったことで本人を目の前に嘆くのも見苦しい。自分にそれを言い聞かせるようにして、一刀の後を追うように階段を下りると背中を向けてある部屋―――段珪の使う執務部屋であった―――恐らく恋の眠っているだろう部屋の中を覗き込むようにして様子を窺う主の姿。微妙に開いた扉から覗こうとしているせいか、その後姿はいやに不審であった。「何をしているのですか?」「……いや、不用意に近づいて斬られない様に、ここから起こそうと」「そういうことなら、ねねに任せるのです」「あ、おい……危ないぞ……」一刀の制止もなんやかや。ズカズカと部屋の中に入り込んで、恋の眠る場所まで近づいたかと思えば恋殿~、と可愛い声を挙げながら頬を右手でペシリペシリとたたき始める。ついでに左手は、恋の頭からぴょっこりと跳ねている髪の毛を強く引っ張っていた。その様子を見ていた一刀の、狼狽する声が響いてくる。「ね、ねねねね、ねねね、ゆ、勇気は凄いけど止めた方がー」「ん……ねね?」「おはようなのです。 恋殿」「って起きた!? 寝起きの悪い恋がたったあれだけで!?」「……一刀?」「恋殿、丁原殿の墓参りに、一刀殿が連れて行ってくださるそうですぞ」「あ……すぐ行く」寝起きからか眠そうに眼を擦っていた恋が、音々音の言葉を受けて覚醒する。満足そうに頷いて、出かける準備からだろうが突拍子もないことに、なんとその場でいそいそと服を脱ぎ始めた。起こしに行った音々音の安否を気遣っていた一刀が、上着を脱ぐために手をかけた恋を見てやや前傾姿勢になったところで部屋の扉がパタリと閉まった。最後に見えた、音々音の微妙な視線を受けながら。「……」―――恋に引き摺られるようにして歩く一刀を段珪の執務部屋の窓から見送りながら、クスリと微笑む。恋の残した寝巻きを拾い上げて、それを畳みながら。ちょっとした仕返しであったのだが、思った以上に上手くいってしまった。実際、恋を起こすことが多い音々音にとって、彼女を起こすという行為に殆ど危険性は感じない。まぁ、一番最初に起こしたときが飛び蹴りを叩き込むという、考えられないような暴挙が在ったせいかもしれないが。恋も音々音の一撃程度ではどうこうなる筈も無く、たとえ全力で体当たりをしても問題の無いある意味で安全に起こせる人の一人であった。この離宮で恋を安全に起こせるのは、後二人居る。言わなくても分かるかもしれないが、朱里と雛里である。董卓の元に向かったのか、或いは先に馬を取りに行くのか。完全に建物の影に隠れて見えなくなってから、ようやく音々音は視線を外した。昨日の内に仕事を終えてしまった為に、時間が空いてしまった。誰かとお茶をしようにも、相手が居ない。これは離宮に長らく住み着き始めてからも、余り覚えの無いことだった。暇であることを自覚すると、途端に後悔の念が湧き出てくる。一刀と共に墓参りに向かうのも良かったのではないか、と。少なくとも、離宮で一人お留守番しているよりはマシだったかも知れない。「……今から追いかけるのも、微妙なのです」ついでに言えば、離宮に誰も居なくなることもちょっと気が引けた。一つかぶりを振って、今日はゆっくり休む日だと気分を変えて部屋を出ようとした際に音々音の視界にハタと過ぎる物が映った。其処に在ったのは幾つかの書籍だ。「劉協様のお勉強ですか……」なんとなしに手に取って、パラパラと捲る。どうやらこの本は、経済についての仕組みを商家の視点から書き出した物であるようだ。音々音も知識には人一倍興味があるだけに、本の中身についつい眼を落として読み耽る。幾つかの頁をめくり、ふと指が引っかかった場所を開いて音々音の動きは止まった。本に挟み込むようにして、小さな紙が入っているのに気がついて。その紙を本から引き抜いて、音々音は視線を落とした。大きさは本そのものよりも少し小さい程度。そこに書かれて文面をなぞるのに、大した時間はいらなかった。文字の形は流麗としか形容できないほど達筆である。以前に送られてきた、一刀への贈り物や招待状のように、間違いなく普段から文字というものに触れている者の字だった。その内容は―――誰も居ないことが分かっているのに、音々音は室内をぐるりと見回した。元の場所に戻すように、本を畳んで置くと書類だけを懐に納めて部屋を飛び出す。張り付いた表情は何か信じられない物を見てしまったかのように、焦燥が刻まれていた。「一刀殿に、知らせなくては―――」階段を駆け下りて離宮から飛び出したところに、こちらへ向かう一人の宦官が見えた。視界に収めた瞬間に思わず身構える音々音であったが、その人物は音々音も会って話したことがある者だった。あの曹操の祖父であり、宦官の中でも一刀との付き合いがある曹騰であった。「おう、天代のところのちみっこいの」「曹騰殿……」「うん? やおら深刻な顔してるじゃないか。 何かあったか」「それは……」問われ、音々音は言葉を濁した。たった今見つけたばかりである懐におさめた紙片を抱くように、胸元へと無意識に手が伸びる。この仕草を見て、曹騰の眉がピクリと動いていた。無意識であったことを差し引いても、今の音々音の行動は明らかに何かがあったと暗に言っている。それを自分でも分かったのだろう。曹騰から受ける視線を逸らすようにして俯く彼女に、曹騰は口を開く。「……陳宮殿、だったか。 わしがここに来たのは天代と話があったからだ」「か、一刀殿はここには居ないのです」「その様子じゃそうだろうな。 出直してきても良いんだが、それじゃ遅いかも知れん。 お互いに胸の内にあるもん吐き出してみるのはどうだ?」この言葉に、音々音はゆっくりと顔を上げて曹騰を見た。ジリジリと焦りを生む心中を落ち着かせ、曹騰の言葉を噛み砕く。音々音が一番に気になった言葉は、遅いかも知れないという物だった。その一言だけで、彼が何かを掴んで此処に来たということがハッキリと分かる。一方で、音々音は自身の胸の内に尋ねた。目の前の宦官は、一刀と友好な関係を築いているけれども信用できるのかと。音々音が持つ紙片の中身の内容は、離宮の状況を“誰へと”は分からないが、確かに『知られてしまった』ことを確信させる。この離宮には、一刀が絶対に隠さなければならに火種が隠されているからだ。一つは恐らく、知られては居ないだろう波才が率いる黄巾との戦の前に一刀が記した“張三姉妹”のこと。天代という役職に就任して、曹操を除けば音々音にしか“張三姉妹”の事は知られていない。或いは、曹操の近しい側近の者には知られてしまっているかもしれないが、彼女達からそれが語られることはまず無い。何故ならば三姉妹のうちの誰かを捕らえたという事実があるからだ。勿論、一刀や音々音の口から飛び出すこともありえない。これについては、一刀の机の中にある物をすべて見られない限りは知り得る手段は無いはずだ。ただ、もう一つ。諸葛孔明、並びに鳳士元の“あつ眼”を執行したという虚偽がある。彼女達は離宮の中では目隠しなどしていない―――普段の生活に支障が生じるから。離宮に居る全員を説得して、理解を得た一刀の出た、朱里と雛里の眼を生かす賭け。最後の最後まで、劉協が首を縦に振ることを躊躇わせた一刀の唯一と言って良い急所。もしも、音々音が胸に抱く紙片の通り、段珪が行動に出ていたのならばそれは“知られているのだ”何よりも気になるのは、劉協と一刀が何度か足を運んでも決して顔を見せることを由としなかった帝のこと。「……」「……うう」音々音の口は動き、止まり、小さな呻きを持ってまた閉じる。まるで無言の曹騰から上る視線の圧力に押されるかのように、この状況で何を言葉にすればいいのか、躊躇いが生まれていた。一方で、曹騰の方も音々音が掴んだ何かを知りたかった。この小さな軍師が天代の傍に在り、もっとも近い存在の一人として過ごしていたのは今のこの宮内を過ごす人間からすれば、もはや常識となっている。自分が手に入れた“玉璽”の情報だけでは張譲の狙いは透けない。まるで情報の連鎖のように、後を追って芽吹いた天代の傍付きである陳宮の持つ手札が、一つの断片を拾ってきた可能性があるのを知ってしまった。自分の持つ手札だけで分からないのならば、その手札に関連する情報が一つでも欲しかったのだ。こうして積極的に張譲の裏を探る曹騰にも、当然ながら心に一つ持っている物がある。蹇碩の一手は事なきを得るとしても、それを防ぐだけで十常侍に『舐めた態度』を取った曹操を都合よく忘れてくれる筈が無い。それは、十常侍成ってからの張譲を自らの目で見続けた、曹騰の直感であった。自らの孫娘からすれば、過保護に映るだろう行為。しかし、誰に何を言われようとも、曹騰は曹操の器を認めたその日から宮内で巻き起こる闇の露払いをすること。それだけは必ず成し遂げようと決心していたのだ。全ては大器を守る為。故に、曹騰が十常侍筆頭であり謀略に優れる張譲の急所を握りたいと考えるのは当然のことだった。どちらも、お互いに“何か”を握りこんでいることで切り出せない。特に、面識はあれども信用、信頼という面で欠けている両者にとって。お互いにどれだけ相対したか。根負けしたように顔を伏して溜息を漏らしたのは、曹騰の方だった。「黙って視線を交わしててもしゃあねぇわな」「曹騰殿、一刀殿ならばともかく、ねねは……その、まだ信を預けられないのです」「そうか……それは残念だが、陳宮殿の様子じゃあ天代が関わっているんだろうな」「曹騰殿も」「そりゃ最初に言ったからな、勿論天代にも関係があるかも知れない事だ。 ああ、それとな。 わしが漏らしたくない相手は濁流派のみよ。 天代個人は好ましく思っているが、別にいらないなら、いらないで構わん。 勿論、それはお主にも言えることだが」ピクリと、音々音は肩を震わせた。宦官という繋がりから、目の前の男を信じきることが出来なかった音々音の出した答えは黙秘。そんな音々音に返って来たのは、別に拘らないと言う答えだった。そうだ。目の前の人は今、確かに一刀に関わる事であるかも知れないのに、知りたい理由は別の方向に向いている。わざわざその相手を指差すように言って。勿論、これが曹騰の演技である可能性は十分にある。音々音が接してきた中でも、最も係り合いの深い段珪が、隠すように所持していた紙片が宦官という役職にある者の狡猾さというのを表して居るではないか。ここで音々音が持つ紙片の中身を見せるのは、曹騰が真実を知った“誰か”と繋がっていれば音々音から一刀へと話が渡る事までも知られてしまう。更に言えば、知らぬだろう曹騰へ朱里と雛里に関しての情報を曝け出すことになる。危険だ、どう考えても。頭の中は、強く警鐘を鳴り響かせているのに拭いきれないもう一つの可能性が怖かった。一度振り切った物が、曹騰の言葉で強くぶり返してしまう。段珪と繋がっているかもしれない誰かが、曹騰にとって関係の無い者である可能性。もしそうならば、“誰か”の意図を掴むことが出来るかも知れない。いや、誰なのかすら暴ける情報かも知れなかった。「……分かった、出直す。 急いでいるところを邪魔したな、陳宮殿」「あ……」その逡巡の間、曹騰は踵を返して言い残し、音々音を無視するように歩き出す。目まぐるしく否定と肯定、逡巡と迷いが交錯する音々音の瞳に、その姿は驚くほどゆっくりと映し出されていた。音々音が見つけた紙片とて、段珪が必ずしも裏切ったと決め付けられる物では無い。ただ、限りなく黒に近いだけであり、ともすれば自爆してしまうかも知れない。鳴り響く警鐘と焦燥の中で、去り行く曹騰の姿を視線で追っていた音々音はしかし。「ま、待つのです!」「……」「……曹騰殿、ねねは一刀殿の目であり口なのです。 話を聞かせて戴きたい」「そりゃ、対価を貰えるのかい?」そう尋ねた曹騰にしっかりと頷いて、音々音は選んだ。疑わしいのは承知の上だ。この自分の判断が、間違いだったと後悔する事になるかもしれない。しかし、曹騰は言ったのだ、手遅れになるかもしれないと。「……分かった、離宮に入る許可を戴けるか」「構わないのです。 今離宮に居るのはねねだけですから」ここで音々音と曹騰は互いの持った手札を明かした。曹騰が持つ彫師と張譲の関係から見つけるに至った“玉璽”のこと。音々音の持つ、段珪から漏れただろう紙片に書かれていた全て。曹騰は、直接的に張譲の急所を握り込めない情報に嘆息を漏らしたが、音々音の方は別であった。玉璽、それは一刀が既に返還したはずのものだ。そこに繋がる張譲であろう者の描く陰。俄かに段珪が“誰か”と繋がっていた線が、朧気ながらも見えてくる。玉璽を新たに作り出す必要性など、ひとっかけらも見出せない。それは劉協を通じて帝に返還し、既に終わったことだからだ。だが、劉協は確かに返還したと口にしたが、それは誰の手から返還されたものだろうか。傍付きである段珪に違いない筈で、その段珪は―――ここにもまた、不穏な影が一つ見えてくる。最後まで焦燥の最中、思考が縺れまくった末の音々音の賭け事は、成功を見せたと言えるだろう。大きく肩で息を吐き出しながら、乾ききった喉を水で潤す。コトリ、と沈黙した音々音の部屋の中、一つ溜息を吐いたのは曹騰であった。「はぁ、わしの方は残念だったが、そんな危険な橋を渡っていたとはな。 迂闊だぞ」「滅多にない一刀殿の我侭だったのです……それよりも、張譲殿ですか」「宦官の中でも一際目立って小賢しいぞ、あれは。 上っ面で読んだ物は悉く外れると思って良い」「……曹騰殿、もしもこの紙片での情報交換が頻繁に交わされていたのなら これを行うのに何処が適するですか?」「そりゃあおめぇ……ああ、木を隠すなら書庫か。 なるほど、もしもそうならば―――」「曹騰殿の欲しい情報も、もしかしたら森の中にあるのかも知れないですぞ」もちろん、音々音が欲しい情報も。二人はその可能性に思い至るや、書庫へ向かうことになった。一口に書庫と言っても、この洛陽の宮内では多くの書が保管されており、また幾つかの場所に別れている。張譲が情報交換の紙片を混ぜている書庫が一体何処で在るのかは、当然知らない。唯一の手がかりになりそうなのは、段珪の部屋で見つけた本の表題だけだ。劉協の勉学の為に選ばれたいくつかの本を手に取って、音々音と張譲は離宮の入り口で分かれて白み潰しで探すように書庫を目指した。「ん……? あれは陳宮殿ではないか」そんな音々音の姿を見かけたのは、皇甫嵩であった。隣には盧植の姿も見える。遠目で見ても、いくつかの本を抱えて慌てている様子が良く分かった。「随分慌てているな。 何かあったのだろうか」「……それよりも義真」「ああ、こっちにも話は来ている。 子幹の方にも届いているなら放っておくわけにはいくまい」音々音と曹騰が、天代に関わるだろう情報を掴んでいた時を同じくしてこの二人の下にも、大きな情報が舞い込んできていた。兼ねてより警戒をしていた上党の黄巾党残党の動きが激しくなっていると。何よりも、大量の糧食が運び込まれていることが分かり、近々大規模な行動にでるのでは無いかと報告があった。実質、西園三軍を率いることになるだろう大将軍である何進と、蹇碩は演習の為、外へ出てしまっている。この二人の下に居る袁紹は、もとより余りやる気を見せていなかった。「孫堅殿は江東に、曹操や董卓も領地に一度戻ることを優先している。 牽制の意味を込めても誰かが行かねばなるまい」「分かっている……ああ、子幹。 お前が行って見るか?」「……まぁ、お前は上司だしな。 行けと言われれば行くが」「冗談だ。 つむじを曲げるなよ」「曲げてなどおらぬぞ」肩を竦めて、皇甫嵩は踵を返した。どちらにしろ官軍を動かすにしても正式な手続きを踏まなければならない。お伺いを立てるならば、一番手っ取り早い相手が居る。背を向けて離宮の方向へ歩き出した皇甫嵩の後を付いて行くように、盧植も追う。前を歩く皇甫嵩を見失わない程度に、ゆっくりと。彼女は普段よりも静かな宮内であることに、しっかりと気付いていた。一見すれば何時もと変わらない。暑い日射しが差し込む、夏の一日であったが明らかに人の―――宦官と、官僚の―――通りが少なかった。何かあるような雰囲気を気色ばんで、その足を進めていた。―――かっぽかっぽと、軽快な蹄の音を荒野に響かせて歩く。ひりつくような暑さの中、金獅を初めとして馬のほうは思いのほか疲れを見せていない。障害物の無い、広い荒野で余計なストレスを感じないせいだろう。「董卓さんは、丁原さんと面識があったんだってね」「はい、子供の頃、両親に連れられて会ってからの付き合いになります」「そうね……」一刀の問いに懐かしむように答えた董卓の言葉を認めるように、賈駆も同意を示して頷いていた。並ぶように歩く一刀と董卓を先頭に、賈駆と恋が続く。建てられた墓は、荒野から森、森から川へと続くように作られた道に沿って在るらしい。気がつけば荒野から段々と生い茂ってきた緑の景色に踏み入れていた。「原爺は、最初あまり良い人じゃなかった」今まで沈黙を保っていた恋が、墓が近いことを直感的に感じているのか。少しトーンを落とした声でそう言った。「恋ちゃん……」「まぁ、呂布殿が言っていることは正しいわ。 病を患って屋敷に篭るまでは、結構あくどい事をしてたみたいよ」「人を脅したり、殺したりしてた」「へぇ……」「と言っても、悪い事をしていたという訳ではないけれど……諸侯の一人として厳しいところは厳しかったわ 時にやり過ぎてしまうことも在った様ね」恋の端的な言葉を補足するように、賈駆が口を開く。戦の凱旋の前の天幕の中、そして恋を預けられた日を除けば丁原の過去を知らない。歴史の中を掘り起こしても、恋に殺されたという情報しか出てこない。その短い触れ合いの中で抱いた印象は、どうも穏やかになった丁原の人となりのようだ。ただ、今際に残した恋への想いは、確かな物であると一刀は感じている。もしかしたら、丁原の心が穏やかになったのは恋が原因ではないだろうか。「……一刀、なに?」「ううん……」向けた視線に気がついたのか、首を傾げる恋に一つ笑顔を向けて首を振る。勝手な憶測だが、そう思うことにした一刀であった。「もともと、持病持ちだったのかい?」「確か山賊か何かの討伐行がきっかけで、よく伏せるようになったって聞きましたけど……」「怪我したって言ってたわ。 大きい怪我では無かったらしいけど、それが逆にいけなかったのね」「碌に治療もせず、討伐を進めたそうなんです……その怪我が切っ掛けになって病を患ったって」尋ねる一刀に董卓と賈駆が中心になって、時に恋の声が飛んできて故人を偲ぶ。そんな、やや独特の空気は目的地付近に至るまで、途切れることなく続いていた。川につきあたり、先頭を入れ替わって馬を歩かせていた賈駆が懐から地図を取り出す。しばし地図と周囲を交互に見やって、手だけで方向を指し示し馬を歩かせ始めた。「大分近づいたみたいだね」「そうですね」木々が適度に影を作ってくれているせいか、荒野を歩いてた時と比べて随分と涼しい。差し込んでくる木漏れ日と、時に吹いてくる風が運んでくる木々の音色。沈黙が支配した一刀達には、金獅を初めとする馬の闊歩する蹄の音しか聞こえない。ふと、一刀が視線を向けたすぐ近くに流れている川の水がパシャリと跳ねた。「ここから……1里ほど先に、開けた場所があるそうよ」「そこに?」「ええ」「……静か」「うん、恋ちゃんの言う通り、ここなら丁原殿もゆっくり出来そうですね」董卓の声に、恋と同じく一刀も頷いた。自然豊かで、それで鬱蒼と草木が生えている訳でもない。適度に開けた空間が覗けて、とても良い場所だと思えた。一刀はそう言おうかと口を開こうとして、止めた。隣で馬を合わせている恋も、地を見るように顔を伏せて前を行く賈駆も。そして、見えぬ墓を見るように、遠くを見つめている董卓の顔に気がついて。みな、一刀とは違い少なからず思い出のある人の墓参だ。もちろん一刀も、丁原との思い出が無いとは言わないが、此処に居る者達の中では一番付き合いが浅いのは事実だ。更に言えば、こうして遅れて参ることになったのも一刀が原因の一つにある。恋と董卓だけならば、もう少し早く来ることが出来たかも知れないから。「……」そっと、一刀は恋の顔を覗き見た。何か物思いに耽っている様子だった彼女も、そんな一刀に気がついて視線を返す。泣いているのではないかと不安になった一刀の行動だったが、恋には確かに、小さな微笑が称えられていた。「ん?」「ううん……何でもないよ」ちょうど木々の切れ目に在る、草木が程よく生い茂った小高い丘の中央に、積み上げられた石が見えてくる。前を歩く賈駆が気がついたのだろう。僅かに一刀や董卓を肩ごしに見て、一つ頷いた。「あそこのようね」「……行こうか」そして……そして、墓の全てが見えたところで、一刀達は凍りつくことになった。「ちょっと! 何よこれ!」「ああっ……ひどいっ!」丘を登る前、見上げるような形になっていたせいか全く気付かなかった。墓石だろう、積み上げられた石は特に弄られた様子は全く無い。それは雨季の頃にこびり付いたと思われる、苔が見えることから想像がつく。ただ、その墓石の周囲に約1メートルあるか無いかの縦穴が四辺2Mくらいの範囲で掘られていた。「墓荒らしか?」「……遺体はあるわ。 月……ちょっと離れてた方が」「大丈夫だよ詠ちゃん……何か取られてるのかな……?」「それは今から調べるから、待ってて」「俺も手伝うよ」金獅から下馬して、ザックリと掘られた穴の中でも一番緩い傾斜の場所に足をかける。この場所から見たところ、墓の中には丁原本人と思われる遺体―――すでに皮膚は溶け始めているようで識別は出来ない―――と埋葬する時に一緒に入れられただろう供物が多く見受けられる。『しかし、パッと見たところ金や銀も取られてないようだな』『この供物は一体どこから?』『普通に考えれば、丁原さんの軍の上層部の人達が入れたと思うけど』『私物も混じってるね……』掘り方はずいぶんと適当だったようで、深いところでは2メートルにも及びそうであった。その為、一刀は足を滑らせて落ちないように、ゆっくりと足元に注意して降りていく。「天代様」一刀とは反対の場所から降りてきていたのだろう。ようやく地に足をつけた一刀に向かい合うようにして、賈駆が声をかけてくる。その声に一つ頷いて、一刀は丁原の遺体の周りを調べ始めた。一つ顔を顰めてから、賈駆も同じように身の回りに在る供物を手に取る。こうした墓荒らしは、少なくないことを一刀は聞き及んでいる。飢えた人や、盗賊が、美味しい物が転がっていないかと墓を荒らすことは珍しくないのだ。ところが、この中は驚くほど供物が多い。普通、墓荒らしにあった時は根こそぎ売れそうな物を持ってかれてしまうのだ。『“白の”?』『すまん、ちょっと変わってくれ』(え、おい……)「董卓さん、周囲に掘り起こした土がありますか?」「え……? いえ……草木の少ない小高い山はありますけど……」突然入れ替わった“白の”は、穴の上で待つ董卓へと声をかけた。やや戸惑ったように返って来たのは、そんな答え。『そうか……本体、草木が生い茂るくらいには掘り起こされてから時間が経ってるみたいだな』(なるほど……)『なぁ……』『どうした、“呉の”』『恋を呼んで私物があるか聞いてくれ』「分かった……恋! ちょっと来てくれないか!」一刀に呼ばれた恋は、その表情に険を携えて顔を見せた。相当に怒っていることを一刀達は理解しつつ、確認するために降りてきて貰うよう頼むとそのまま飛び降りて、一刀の真横にしっかりと着地する。「っと、危ないわね、もうっ」「一刀……これやった奴、判った?」「恋、落ち着いて―――っ」そこで“白の”の時間切れとなった。本体が戻るよりも先に、入れ替わるようにして“呉の”が入り込むとやや俯いた姿勢から口を開く。この中に、丁原の私物は全て入っているのかと。しばし一刀の声に何の反応も示さなかった恋であったが、やがて自分を落ち着かせるかのように大きく一つ息を吐くと周囲をキョロキョロと見回し始めた。その間、“呉の”は一刀達に向けて幾つかの言葉を投げかけて意識を落とす。それらは意識を保てる時間の制限があるせいか、殆ど単語だけになってしまったが簡潔に要点を示していたので、一刀達は“呉の”が何を言いたいのかすぐに分かった。『……あの時の手紙だ』『ああ、俺達が丁原さんに援軍を頼む時に渡した奴か』『けど、それが盗まれてたと考えて、何かまずいことってある?』『うーん……“呉の”は何か気付いたのかな?』(……手紙だけ盗んだ?)『っつ、どうなった?』『おかえり、“白の”』『ああ、“呉の”が丁原さんに送った手紙を探せって』『手紙? 手紙……あっ、玉璽印……か?』『玉璽?』『駄目だ、意味わかんないや』援軍を請う時に出した手紙に玉璽印を押したのは、確かにそうだ。ただ、一緒に埋葬されただろう玉璽を用いた手紙が無いことの、何を気にかけているのかが一刀達は分からなかった。一方で、しばしの間を空けて返って来た“白の”は疑わしげに幾つか唸った後に自信無さそうに告げた。『返した玉璽が、返ってない可能性だ』『……え?』『そ、そうか、分かった気がする』『“董の”……』『本体が劉協様に返した玉璽は、帝に返っている物だと思い込んでたけど違うかも知れない』『ああ、劉協様のとこでストップしているのは考えられない。 段珪さんも同じだ』『段珪さんが、誰に玉璽を返したのかが問題ってこと?』『そう、もしも段珪さんが“誰かに”手渡したところで玉璽の行方が止まっていたら、俺達は無断で玉璽を使用して諸侯を動かしたって事になっちまう』『って、でもあの時は……』『そうだよ、しょうがなく使おうって言ってたじゃないか』『あの時は、時間が惜しかったし最初から帝へ返すことを視野に入れてただろ』『そうだけど……』『玉璽を返還したのは随分前だ。 もしかしたら只の勘違いかも知れないけど、この墓荒らされたのは結構前だろ?』『時期が合うってこと?』『ちょっと待ってくれ、それじゃ帝の会いたくないって言うのってそれが分かったからか?』『それは分からないけど……』『そもそも、手紙もこの中に入れていたのか分からないじゃないか』『丁原さんがちゃんと燃やして処理してるかも』『まぁ、それなら杞憂に終わるんだけどさ……』途中から“呉の”も混じって加わった話を聞きつつ、身体の制御権の戻った本体は供物の中から一刀の送った手紙が出てこないか注意して探す。あの中に書かれた内容は、今となっては周知の事実となった呂布の天下無双の武について言及している。一刀との短い邂逅の中、一刀が未来を知ることを察した様子である丁原が、あの手紙を放って置く事は考えずらい。火にかけたりして、手紙そのものを処理しているのならば一刀達が言う可能性は脳内のみんなが話していた通り杞憂に終わるが、しかし。「全部、ある」供物を手に取り眺めていた動きを止めて言った恋のこの言葉と手紙が何処を探しても墓の中から見つからない事実は、一刀に言い様の無い焦燥を与えた。―――掘り起こされてしまっていた土を、手持ちの道具で出来る限り埋め戻し墓石をもう一度しっかりと並べ直して、ようやく一心地つく。せっかく気分の良い墓参であったのに、大きなケチがついてしまった。明らかに不機嫌な様子を見せる恋に、俯いてしまう事の方が多くなってしまった董卓を賈駆と共に見る。隣に立って深く溜息を吐きながら、賈駆は一刀へと尋ねた。「……で、一所懸命何かを探していたみたいだけど?」「ああ……」「最近会ってなかったから状況は良く分からないけど、何かまずいことでもあったの?」「やっぱ分かるかな?」「顔に出てる」「はは、そっか……分からないんだ、まずいのかどうか」実際、手紙と玉璽の一件を突っ込まれることよりも朱里や雛里の件を突っ込まれた方が一気に立場は悪くなる。それに黄巾党が一気果敢に攻め上っていた時期が時期だ。仮に玉璽の無断使用という一件で問い詰められても、最悪は認めてしまって良い。この墓荒らしの一件。加えて、墓参前に話し合っていた『会いたくない』という言葉と、露骨に増えた仕事の量。竇武や陳蕃に協力してもらおうかと悩んでいた一刀だったが、この時に腹は決まった。『ついでに言えば、帝の周りに居るやつは全員怪しい』誰だったか、脳内の声がそう言っていたことを考えると張譲や趙忠の笑顔も途端に胡散臭く見えてくる。それらを踏まえて、帝の元に強引にでも押しかけて顔を見せるべきだろう。現時点で、一刀は天代として漢王朝の中でも最も地位の高い場所に在る。しかし、漢王朝の帝は劉宏なのだ。それはこの大陸に住む全ての人間が、不満があろうとも認めざるを得ない、頂点。元を辿れば、一刀が劉宏を救ったのは人道的な面も多分にあるが自分が救われたいという保身的な面も少なからずある。結果的には毒の魔手から華佗が救いあげて、“天の御使い”となったあの日からその目論見は成功していると言っていい。そうした事実を見つめなおせば、一刀はあくまでも帝が居るから天代として在れた。そして、今を見れば。劉協が泣きながら真名を預けてくれたあの日の約束。そして、朱里や雛里が正しい道に戻るためにも。天代で在り続ける必要が、一刀にはある。「可能性は潰しておかないと」「え?」「賈駆さん、俺と恋は、このままの足で洛陽へ戻ります」「ちょ、ちょっと」「詠ちゃん!」「うっ……そ、そうね。 私達も長安に向かわないといけないし……」実際、賈駆は一刀の態度から少しどころか大いに気を揉んでいた。それは余り認めたくはないのだが、彼女が仕える主、董卓が少なからず天代を気にしてることに加えて『天代』の名を持つ彼が、宮内にあるだろう水面下でのイザコザに巻き込まれていることが容易に想像がついたからだ。自身の主が高官でもあるせいで、何度か巻き込まれた覚えの在る宮内の―――言ってしまえば面倒なこと。もちろん、董卓を巻き込むつもりは賈駆には無いし、天代が何に巻き込まれているのかを知りたいのは単なる興味に過ぎないことも承知していた。「……月に迷惑かけないでよ?」「ああ、もちろん誰にも迷惑なんてかけたくない」「……はぁ、ま、頑張りなさい。 応援してあげるから」「天代様……」「董卓さん、ごめん。 俺が付き合えるのはここまでだ」「いえ、その……ありがとうございました」頭を下げて礼を言う董卓に苦笑するように微笑んで、一刀は恋に仕草で行くと伝えてから金獅に跨った。来る時とは違い、その腹を蹴って速度を上げて戻っていく。「月、またね」「うん……恋ちゃん、またね」「大丈夫。 ちゃんと、犯人は見つける」「うん、気をつけて」短く交わした言葉に、多くの想いを込めて頷くと、恋は軽快に馬上に戻って一刀の背を追った。慌しく去っていった一刀と恋の後姿を、最後まで見送っていた董卓はやがて丁原の墓に一つ視線を向けると口を開く。「詠ちゃん……帰ろう?」「うん……」なんとも後味の悪い別れになってしまった。胸の内で納得のいかない物を何とか噛み砕いて董卓は、その肩を大きく落として洛陽を去ることとなったのである。―――ある書庫の一室。洛陽を射していた陽もようやく陰りを見せて、夜の帳が落ち始めていた頃。薄暗くなった室内の一角、本棚が多く立ち並ぶその隅っこで大きく息を乱しながら音々音は新たな紙片を見つけていた。見つけていたが、視線を落としたまま動くことが出来なかった。余りにも端的に書かれたその内容に、俄かに思考が追いつかなかったせいだ。曹騰と手分けして探し始めてから、書庫から書庫へと飲まず食わずで駆けずり回った。結局、見つけたのは離宮から最も遠い場所である最後に訪れたこの書庫だけ。そこには、音々音が最初に見つけた紙片の文面とは違い、端的に短く書かれているに過ぎなかった。段珪の部屋から音々音が見つけた紙片には、恐らく張譲だろう者と繋がるよう強制を求める文面であった。すなわち、段珪に関わる“誰か”を示唆するような名前や居場所が連ねてありその生活に関する詳細までハッキリと書かれていた。それが誰なのかは音々音にも分からないし、それだけならば親しい人の住所を控えたとか、個人的な暮らしの支援をする為とか色々と思い当たるだろう。こうして危機感を煽られるようなことは無かった。問題は、直後に書かれていた『天代の身の回りにある変化の報告』という一文だ。音々音が最初に見つけた紙片に書かれていた事は、これが全てだ。これだけで、段珪が見てきた全てが、この手紙で段珪を脅迫し“誰か”、恐らく張譲へと伝わっている可能性がある。当然、朱里や雛里のことも知られているだろう。一日中駆けずり回り、書庫にある本を片っ端から開き見た音々音がようやく掴んだ紙片の一つ。そこに書かれた物を見て、それの意味する所を信じられず、彼女は固まってしまっていたのだ。ようやく思考が追いついたのか。一つ、喉を鳴らして震える手で、何度見直したか分からない新たな手がかり。その紙片に書かれている文字を、その眼に映す。間違いなく、何度見返しても、そこに書かれている文字が変わることはない。―――帝の元にお呼びして最後だ、と。「―――っ一刀殿!」その一文が伝えるのは、相手の準備が終わったことを示していた。最後と書くのだ。まず間違いなく、これで終わると相手は確信に抱くほどの一刀の急所を見極めたに違いない。そして、帝に会おうとしていた一刀は、誰かに呼ばれれば嬉々として会いに行ってしまうことだろう。新たに見つけた紙片も、音々音は懐に入れて、それまで時が止まったかのように動きを止めていたのが嘘であったかのように弾丸の如く書庫を飛び出した。気が急いて、ともすれば縺れて転びそうになりながらも離宮へ一直線に目指す。そんな音々音の視界に、見覚えのある顔が見えたのは離宮へと戻るところであった恋だった。眉根を寄せて顔を顰める彼女を見て、音々音は一刀が洛陽へと戻ってきたことを知る。「恋殿ぉーーー!」「……あ」「けほっ……ハァッ……恋っ殿! 一刀殿はっ!」「ねね……一刀は、劉宏様に会いに―――」「―――まずいのですっ!」最後まで聞き終えることなく、酸素を求めるように大きく息を吸い込むと音々音は帝の伏せていた宮を目指して再び走り出した。その足取りは重い。肩で息を繰り返し、重い足を必死に動かして走る音々音は、恋から見ても異常に思えた。思わず、彼女は音々音へ向かって駆け出して、その身を抱える。「あっ! 恋、殿っ、はぁっ、は、離すのです!」「一刀、追いかける?」「あ……」「抱える。 喋らないほうが良い」それだけだった。ただ一刀を目指して向かう音々音の異常に、敏感に反応して、両者の目線が合った時には恋は理解していた。とても、急がなければならない、重要な事だと。恋に抱かれて、一刀の後ろを追う速度は一変した。音々音を抱えているというのに、まるでその場に居ないかのように走る。地を踏みしめて強く蹴りだし、ストライドも大きく、まるで一匹の獣が野に放たれたかのように。やや人とは思えない速度で劉宏の伏せた宮の建物へ辿りついた時、音々音の探していた人は建物の中へと入り込んだところであった。瞬間、自らでも経験したことの無いような叫びが宮内に木霊する。「一刀殿ぉぉぉぉぉーーーーーーーっ!」この音々音の声が、一刀へ届くことは無かった。まるで一刀を待ち受けるかのように、顔をそろえていた多くの官僚と宦官が取り囲み一斉に声をあげたせいで。その異様な光景と、押し入ることも辞さない覚悟で乗り込んだ一刀を驚かせる内容に一刀は戸惑ってしまった。「天代様、帝がお呼びで御座います」 ■ 外史終了 ■