■ 好(はお)消えた一刀を叫ぶように呼んだ音々音は、ひりつく様な喉の痛みに激しく咽た。幼さすら見える体躯で、昼から今に至るまで何も口にせず走り回っていたのだ。特に、書庫から此処に至るまでは全力疾走。途中から恋に抱えられていたとはいえ、音々音の体力は限界に近かった。元より体力に自信があるわけではない。胸を抱くように咳き込んだ音々音の様子を見て、彼女を抱えたまま恋は水のある場所を目指した。一刀を追っていたのは間違いないが、恋は何故、音々音がここまで焦って彼を追うのかを知らなかった。故に、優先したのは急変したように思えた音々音の容態の為に行動することだった。荒く息を吐き出す音々音が水を飲み込めたのは、ようやく息が整ってきたばかりの時。差し出された容器を、差し出した恋から奪うようにして飲み干す。「ねね、へいき?」「はぁっ……れ、恋殿……一刀殿を追わねば」「分かった」言われずとも、彼女の容態が悪化しなければそのまま突っ込むつもりだった恋は再び音々音を抱くように片手で持ち上げると、もう一方の手で振り落とされないよう固定しながら先ほど一刀が中に入った建物めがけて、一直線に走った。その足は、一歩遅かった。けたたましい音を立てながら扉を破るように開き、視界に捉えるはまたも一刀が通路の奥へと消える瞬間。彼の特徴的な白い、この時期では暑いだけである長袖の服が、一瞬だけ垣間見えて過ぎ去っていく。パっと見ただけでも十数人の官僚と宦官を伴って。夜の帳が落ちたこの時間帯、そしてこの場所に集うには些か多すぎる。姿が見えないまでも、声は届く筈―――そう判断するや、音々音の肺から声が迸り「かず―――」「おいっ! なんだ貴様らはっ!」「待て、こいつら天代様の……」入り口付近に居る、男達の声の険しい声に遮られた。そこで初めて、目の前に官僚の男が居ることに気がついた音々音はトン、と恋の肩を一つ叩きそれを合図にするかのように頷くと、恋の腕の中から滑り降りて官僚の男と相対した。その顔は、見覚えのあるものだった。直接の面識は無いが、一刀と共に居るところを良く見かけた者達だった。「火急故、帝との面会を求めるのです!」「今日は帝から、天代様以外はお通しするなと言われている。 即立ち去られよ」「勅が出ているのだ、すまんが、例え天代様の傍付きであろうと入れることは出来ぬ」「勅……?」音々音は、この僅かな会話一つで躊躇いが生まれた。ぐるり顔ぶれを見回せば、どの人物も一度や二度、どこかで見覚えの在る顔ばかりだった。それは宮内で劉協の居る離宮で暮らしていれば、おかしくない事かもしれないが基本的に音々音が見る官僚や宦官の顔というのは、一刀と共に居るところを目撃した場面が多い。一刀からの信頼が厚い音々音には都度、信頼できそうな人だ、とか、何か腹にありそうだ、とかそんな所感を彼から聞く事も多かった。それは勿論、一刀個人からの主観的な物から判断される。だから、鵜呑みにしているわけでもないし、今この時に置いて考えるような事ではない。しかし。全てを覚えている訳ではないにしろ、印象に残った顔は音々音の記憶の中にも在ったのだ。ああ、あの人か……というように、一刀の話から思い出される顔も多かった。そして、今在る顔の中に、一刀が信頼できそうだと言った者の姿も在る。音々音が躊躇った原因に、これが在った。彼らが陰謀そのものに関連していないという可能性があるのではないか、と。つまり、張譲だろう者の謀り―――そのものを知らないという事は、彼らにとって勅で動いていることに他ならずここで押し入ってしまっては、味方かも知れない者達を自ら捨ててしまう行為なのではと思い至ったからだった。時間にしては僅かな時だ。だが、言葉を僅かな時間失った音々音に顔を見合わせて、男達は一歩彼女へと近づいた。「み、帝の勅令だという証拠はあるのですか」「……在るとも」「国家を左右する、重要な案件だという話だ。 慎重に慎重を期するつもりであろう」一番近くに居る官僚の男が一つ仕草で促すと、その隣に居た者が懐から書状を取り出して音々音や恋にハッキリと見えるように広げてみせる。そこには確かに帝の勅を示す玉璽の印が押され、外からの立ち入りを禁じるように書かれていた。しかし、玉璽印が押されていることに何の意味があるだろうか。既に、一刀が返還した玉璽とは違う、新たな玉璽が生まれている可能性を知った音々音にとって甚だ疑わしい代物以外の何物でもない。とはいえ、それを示す目の前の彼らにとっては唯一の物と捉えているかも知れないし、その可能性は高い。この建物には一刀や音々音が入ってきた正面以外にも入り口はあるが、何処から向かっても同じように対応されるだろう。何より、何処から入るにしても今は一刻の猶予すらないのだ。時間が惜しい。ここでも、音々音は今日何度目かになるか分からない、答えの見えない最初で最後の選択を迫られることになった。目の前の男達が共謀しているか、或いは何も知らないかで取るべき応手が変わってくる。共謀しているのなら、悩む事はない。このまま突き進んで一刀の元に一直線へ向かえば良い。音々音一人ならばともかく、今は隣に大陸を揺るがした武勇を誇る恋が居るのだ。だが、逆に何も知らないのならば一刀と連絡を取る別の手段を取らねばならないだろう。もしくは、謀りと知った彼らに協力を仰ぐのも良いだろう。どちらにしても、音々音は彼らが“どちらなのか”を引き出す為、会話を仕掛ける瞬間は此処しかないのだ。しかし、その瞬間の判断に音々音が動いたのは無意識だろう、一歩前に足を踏み出すことだった。それは思考とは別の、一刀へと向かう想いが胸を突く感情からか。或いは紙片に書かれた『最後』という文字に突き動かされたのかもしれない。理由は分からないが、彼女の一歩はこの場で変化を迎えるに当たって十分な働きを示したのだ。「書が見えなかったのか! 行ってはならぬぞ!」「っ!」音々音が気がついた時には、目の前の男が彼女の腕を掴んで声を挙げていた。その剣幕か、或いは無意識の自身の行動に驚いたのか、音々音には分からないことではあったが掴まれた拍子に短く声を詰まらせると、他の誰よりもいち早く行動を起こした者が居た。一連の流れから険しい顔で周囲を警戒するように、音々音の隣で佇んでいた恋が閃光のように音々音と男の間に割り込んで、一呼吸あったか分からぬ次の瞬間には腕を捻りあげていたのだ。「ぐっ、ぐあああぁっ」「なっ、貴様ら! 何をしているのか分かっているのか!」「ここを押し入るつもりか! どういうことになるのか分かっているのだろうな!」「誰か兵を呼んでこいっ!」「ねねっ、行く!」身構えて叫ぶ周囲をまるで無視して、音々音へと顔を向けて力強く言い放った。きっと、恋は全てを理解しているわけではないだろう。それでも、音々音の様子と一刀にまつわる事であることだけは分かっている。それだけで、恋が動くにはきっと十分すぎる理由だった。一方、恋に水を向けられた音々音はその視線を受けて走り出す―――ことは無かった。目の前の男達の緊迫が、余りにも迫真に過ぎてどちらとも判断が付かなかったせいだ。謀り故の緊迫か、知らぬせいか。なんにせよ、恋の行動は彼らに敵意を抱かせるのに十分な行為であるのは間違いない。無意識で動いてしまった足は、最後の選択肢すらも潰してしまった。文字通り、自らの一歩で。故に、音々音は声をあげることしか出来なかった。この宮内に、部屋の隅々、どこまでも、天辺まで届けと割れんばかりに。「一刀殿ーーーーーーーーーーーーっ!」「うっ、口を押さえろ!」「恋殿! 手をあげては駄目むっ―――」「ねねっ!」そこからの展開は速かった。やや掠れた高い声が、この場に居る全員の耳朶を強く響かせると、一番近くに居た男が何かを喋る音々音の口を塞ぎその塞いだ男の足が高速で飛来した何かに払われて瞬間宙に浮くと、解放された音々音を恋が抱き上げる。誰かが呼んできた兵であろう、足音が宮内の入り口を響かせ始めると同時。恋に何事かを囁いた音々音に従うように、二人は逃げるように宮内を飛び出して行った。あまりに早く流動する場面に、取り残されるようにオロオロと眺めるだけの者や興奮したかのように来たばかりで何も分からない兵に、音々音達を捕らえるように指示する者。或いは、天代の傍付きである彼女達を追わせないよう、止めるように声を張り上げる者など、一瞬にして喧騒に包まれた。そして―――「ねね、どうする?」「恋殿、お願いがあるのです。 ねねをここで降ろして、一刀殿の机を“掃除”してくだされ!」「……?」「徹底的に! 見せる急所は一つだけで十分なのです!」「それが今、恋がやること?」走り続けていた恋は、そこでようやく立ち止まって音々音を降ろし、真正面から相対して尋ねた。未だ大きく呼吸を繰り返す音々音の、思いのほか力強い頷きに恋はしばし考えるかのように音々音を見据えてやがて口を開いた。「分かった」短く了の声を返し、振り返ることなく踵を返して走り出す。それを見送って、音々音は来た道を引き返すように歩き出した。頭の中でぐるぐると、今日一日で掴んだ事実と情報を繰り返し描きながら。これで最後になるはずがない、最後になるような問題にはならない筈なのだ。立場は悪くなろう、不信感も募るかも知れない。しかし、最後になる材料は音々音の眼に見えないのだ。謀りの裏に、活路は必ずある筈だと自分を叱咤して、彼女は唯一と言って良い―――少なくとも、互いの胸の内を知っている―――曹騰と会う為に、すっかり暗くなった夜の宮内の中、足を急がせた。―――「……ねね?」声は確かに、一刀の元へと届いていた。篭るように、遠くに聞こえる掠れた高い声は、しかし、一刀の耳には確かに音々音の声として聞こえていたのだ。それは一刀の胸の内に強い警鐘を確かに齎して、声の聞こえた方向へ首を巡らし、一刀の歩みは止まった。今、この時間、この場所で音々音の切迫したような声が聞こえてくるとは、ただごとでは無い。帝に会いに来たのは自分の意思だというのに、待ち構えていた周囲の宦官や官僚達の不気味さも一刀に大きな戸惑いを抱かせる要因の一つであった。「どうしましたか」「……」『なぁ……』『なんだ』『なんか……』『分かってる。 しかし、戻るわけにも行かないだろ』『……』「天代様?」「……なんでも、ないです」かぶりを振って、それだけを搾り出すように言うと歩を進める。同調するように、周囲の足音が静かな廊下に響いて、それがまた一刀の感じる妙な圧迫感を加速させた。脳内の自分達が言うように、自らの足でここまで進んで来た以上、戻る事はできない。既に待たせている帝を置いて、戻るとなれば非難だけでは済まないだろう。なにより、一刀には玉璽に関する件も含めて劉宏との話し合いをしなければならない理由がある。それは、天代として自分が此処に立つ為に、絶対に必要な一手だ。不審な動きが見え始めた宮内の薄くらい影に、唯一、権力で上に立つ帝との連携をここで深めなければ思わぬ足を掬われかねないからだ。音々音の声に後ろ髪引かれながらも、一刀は帝に会うことを優先した。それはきっと、間違いでは無いはず。間違いではない筈なのに、どうしてこんなにも心が騒ぐのだろうか。脳内の影響かとも考えたが、漏れる意識の声に全員がそうなのかも知れないと思いなおす。何か、そう。自分の考えが根本から間違っているような、言い様の無い焦燥感が一刀の中に渦巻いていた。そしてそれは。「天代様、こちらでございます」「え……?」「帝は、こちらでお待ちしております」「そっちは……玉座ですが」「はい」「……」階段から寝室へ向かう足を止めるように、促された宦官の声で大きく確信に近づいた。『なんで、伏せていて人に会えなかったはずの劉宏様が玉座に居るんだ、おかしいだろ!』『おい、マジで行くの!?』『けど、ここで引き返すのは……』『ちょっと、ちょっと待って。 本体……』「……」ほとんど自分の声を代弁されるような形になりつつ、一刀は黙して促された宦官の後ろを歩いて玉座へ向かった。二つに分かれる道の一つ、玉座に続く回廊がヤケに長く感じた。玉座の間、正面扉の前に、やや開けた空間に差し当たると、響く足音の数が減ったことに一刀は気付いて振り返る。14~5人は居ただろう官の数が半分ほど立ち止まり、頭を下げていた。玉座の間に入る扉の前、僅か数メートルを残して、一刀は耐え切れぬよう沈黙を破って尋ねていた。「……彼らはどうして来ないんですか?」「入室を許可されていない者達でございます」「……なんだって?」「勅令により、玉座に入ることが出来るものは限られておりますので」「何のために!」思いのほか、一刀の声は強く響いて廊下に響いた。前を歩いていた宦官の一人が、ゆっくりとその声に反応するかのように振り向く。その顔は、無表情を貼り付けたかのように能面であった。そして、感情を感じさせない、無機質な低い声で告げたのだ。「それは、私に聞かれましても。 帝に直接聞いてくださいませ」「……っ」答えをはぐらかされた形になった一刀は、強い声を出しそうになるのを寸での所で抑えた。周りに居る者たちが、その真実を知っているのか知らないのかは分からない。実際のところ、知っているに違いないとは思うが、こうした態度を取る以上、答えを得る事は期待できないだろう。しばし……一枚の扉を前に一刀は立ち往生するようにその場に留まり続けた。この扉を開いた先に、会って話さねばならない帝が居るというのに。それをしてはならないという、強い強迫観念が頭の中を渦巻いて止まない。ただ一枚の扉を開くのに、一刀はなかなか覚悟が決まらなかった。焦れたかのように、前に居る『入ることを許された者』が視線を投げかける。伝播するかのように、周囲からも視線が一刀に集まって。『本体……先に言っておく』「何……?」『明らかに謀りがある、と思う。 丁原さんから見える玉璽の一件から雲行きが怪しい。 先手を打て』『“白の”に賛成だ。 発言を許可された時点で先手を打った方が良い』『きっと、帝の周りに居る人が首謀者だよね』『“呉の”、断定できるのか?』『伏せていたはずの帝が玉座に居る時点で、ただごとじゃ無いし……』『やっぱ、そう……なのかな?』『……覚悟が決まってからでいい。 冷静になったら入るんだ』『そうそう、爺ちゃんの言葉は便利だ』『“南の”の言う事はともかく、冷静にはなった方が良いね』「……分かった」「天代様、帝がお待ちですぞ」「少し……待ってくれ」それから、周囲に誰も居ないかのように一刀はたっぷりと時間をかけて呼吸を整えた。焦燥感からやや高鳴っていた心も、しっかりと平常心に戻して。眼を瞑り、自らの集中を高める一刀の姿を見た宦達は、俄かに顔を見合わせていた。そして、覚悟は決まる。「……お待たせしました。 行きましょう」玉座の間は、開かれた。―――玉座。そこに至るまでに歩む一刀は、まるでこの場で西園八校尉の件で上奏した時のようにゆっくりとした物だった。一刀の視界に映るは、玉座に座る青白い顔をして遠くでも分かるほど憔悴した劉宏の姿。その帝の左に控えるは趙忠。彼の後ろには、この宮内で見たことの無い細身の男が控えていた。髭がある―――宦官でないことに、一刀は僅かに眦を下げてそれを認める。視線を右に逸らせば張譲が裾の中で腕を組み、眼を閉じて佇んでいた。その張譲の後ろ。影になってやや見ずらい物の、ハッキリと見覚えの在るそのいでたちに、一刀の口は一瞬だけ戦慄く。『……段珪さん』『ど、どうして……』この事実は、覚悟を決めて玉座に入った一刀の心を、脳内含めて僅かに揺らがせた。一刀が天代になったこと、そして劉協へと仕官した事を含めて、段珪は確かに言った。関与しない、と。しかしこの場に居るという事実に、その言葉が経緯はどうあれ嘘であったことに動揺したのである。何より、宦官の中では最も信頼していたと言って良い男だ。この時点で、一刀は宦官全てが敵かもしれないと心中で認める。そして、この場においては孤立無援であることも、まず間違いないと思われた。更に視線を移せば、確かに玉座に入られる者は制限されているのだろう。劉弁の元につめる宦官の内4人。政に携わる高官が数人。十常侍は当然のように左右に居並び、一刀の後を追うように室内に入った、いずれも重要な役職の幹部職である官僚達の姿だけ。玉座の前に置かれている、高級そうな台座は上奏した時には見たことが無い物だ。新しく据え付けられたのだろうか。この場に居る全員が、一刀が天代の仕事に携わる中で顔を突き合わせ話したことのある者達だった。そして、時間をかけて一刀が玉座、そこに至るまでの階段の前で傅くと沈黙は破られた。手を震わせ、その貌を徐々に怒りへと変化させた―――帝の声で。「一刀……何故……」「……」「何故……何故、何故! 何故っ、再三呼んだにも関わらず、姿を見せなかったのだ!」「なっ! 劉宏様は伏せられていると―――」「確かに、伏せては居たっ……! その間、余が……何度呼びだしたことかっ……うぐぐっ!」遠目からでも分かるほど、辛い表情をしていた劉宏は苦しそうに胸を押さえ呻く。帝のすぐ横に控える趙忠と張譲が、支えるようにして一歩前に出る。とても話すことなど出来そうもない状態であった。「劉宏様、大丈夫?」「お熱くなられますな、身体を労わってください……続きは」趙忠に任せるように身振りで示すと、張譲はその言葉尻を強調するように切って、続けた。「私が引き継ぎましょう」劉宏へと一度頭を下げて、顔を上げた時。張譲の視線は壇上を見上げていた一刀の視線と交錯した。眉根に深く皺が寄り、かつて見たことの無い剣幕で睨む一刀とゆっくりと相対する。唇が吐き出される呼吸から僅かに開かれて交錯した視線はどちらも互いに外す事無く。超然と何時ものように表情変え揺ることなく、帝の真横で見下ろす張譲と、壇下で傅く一刀。一拍の呼吸を置いて、先に口を開いたのは一刀の―――いや、“董の”―――方であった。「……この場に呼ばれたのは、漢王朝を左右する重大な案件の為と聞きました」「如何にもその通りです」「劉宏様の具合がこれでは、話し合うことも難しいでしょう」そこで言いながらに一刀は合わしていた両の手を解き、立ち上がった。それまで、安否を気遣う趙忠の声と帝の苦悶の呻き声がほとんどであった玉座にざわりと、周囲の者が狼狽するようなざわめきが室内に広がる。「劉宏様がこのような状態の今に、国の一大事である物事の決議を取るのは無理です。 帰らせて頂きます」今の一刀の言葉も聞いているのか聞いていないのか、その判断すら出来ないほど玉座で荒い息を吐き出す帝。確かに、一刀が言うように漢王朝を左右するとまで言われる重大事に、皇である帝を蔑ろにするように意見を交換することは在り得ないし、在ってはならない事である。この一刀の口上にはまったく、正当性ばかりが認められ、事実として暫しの時間誰に止められることなく玉座へ視線を向けて佇んでいた一刀である。“董の”の土壇場での閃きは、まさしく会心の初手となって、玉座の空気を支配していた。引き止める時間は、十分に与えた筈だ。もしも止められても、一刀がこの場に留まるだけの納得の出来る答えが返ってくる確率は相当に低いという手応えがある。僅かに安堵の息を胸の内で吐き出して、一刀は入ってきた時と打って変わり素早く踵を返すと来た道を戻り始めた。「47」「……?」玉座から離れて歩き出した矢先、壇上から一際高い声が一刀の耳朶を響かせた。肩越しに振り返って視線を向けると、劉宏の居る玉座に肩膝をつき支えながらに一刀を睨む趙忠の姿。“董の”が立ち消えて、変わったのは“仲の”―――「劉宏様が、天代様を呼んだ回数。 47回なんだ。 どうして来なかったの?」「それはこちらの台詞だよ。 どうして追い返したのか? 天代である俺だけじゃない。 劉協様を含めてだ」「そうやって何人騙してきたのかな? 賢しいね」「言いがかりは辞めてくれ―――」『うっ……』『どうした、“魏の”』『あの、張譲の後ろにいる男、笑った……』『え?』『あれは誰なんだ?』『分からない……宮内で見かけたことの無い男だ』『うっ……どうなった?』脳内の言葉が区切りとなったか、“董の”が呻き声を上げながら戻ってくる。「……落ち着け、趙忠。 天代様……趙忠の言うことはまさしく事実。 帝が天代様をお呼びし、趙忠から何度も使者が送られている筈で御座います。 これに応じなかったのは天代であり、帝への心労となっていたのです」「……俺のところには誰も来なかったのです。 何よりも、容態を見ようと通いつめて追い出されたのは俺達の方なんですよ!」「……なるほど。 私自身は断ったとはいえ、一度その現場を見ております。 信じましょう」「ならっ!」「譲爺っ!」一刀と趙忠の声が重なった。その二人の呼びかけるような声を無視するかのように、張譲の口が止まることはなかった。「―――然しながら、この場に居る者たちは趙忠が使者を出していたのを全員が見ております。 帝が勅を出し、さらには病状を押してまでお呼びしたという此度の場で天代様が帰られますと 不本意ながら劉宏様に対して何かを隠している、と周囲に思われるでしょう」馬鹿な話であった。ほぼ謀りであると確信している一刀にとって、この場に居る者たちが趙忠の証人であることが信用という面でどれだけ意味を持つのだろうか。それを恐らく、承知の上だろう。張譲自身は一刀の言い分を認め信じるが、周りの者が納得するかどうかは別の話であると語りかけている。馬鹿な話としか、言いようが無い。無いが……“董の”の一手を覆された瞬間でもあった。いや、まだ一刀の自主性に問いかけている分だけイーブンまで持ち込まれたと言った方が正しい。ここで帰るも帰らぬも自由だが、帰ることを選べばどうなるか。張譲の言葉から生まれた迷いと躊躇いが、僅かな思考の空白を生んでしまいその合間に滑り込んできた趙忠の声から、一刀は選択肢を失うことになってしまった。「もういいよ、帰っちゃえば。 こんな奴が漢に在る天の御使いだなんて、終わりだね」「おい、言葉が過ぎるぞ趙忠殿」「そうだ、帝の前であらせられるぞ」吐き出すように言い捨てた趙忠の言葉を諌めるように、周囲の者達が騒ぎ始めるがこの場から逃げたい一刀にとっては痛恨打となった。それは聞けば、ただの皮肉にしか過ぎないというのに、天の御使いであることを否定されることになれば天代である理由を失うに等しかった。なにより、この場には帝が居る。経緯を確認するまでもなく、一刀は天の御使いを名乗ることによって『帝の代わり』などという在り得ない筈の役職を戴いているのだ。例えソレが、絶対的な要素でなくとも一刀が拘る『天代』である為に、“天の御使い”を否定されてはならない物だった。この時点で、一刀が帰る決断を下すには難しくなった。その上で、やや容態が落ち着いたのか。劉宏の声が響くと、それがトドメとなる。「……よい、騒ぐのはよせ……一刀、この場に呼んだのは余だ。 話をする為に呼んだのだ……こんな状態ではあるが、それは許せ」「……劉宏様が、そう言うなら」『寝ててくれりゃ良かったのに』『おい、不謹慎だろ』『……でも、俺もちょっと思ったよ』帝にこう言われてしまえば、一刀はぐうの音も出せない。最初に相対した時のように、再び傅く。もはや玉座の間から一刀が逃れる術は失われてしまった。―――「いざこざが在りましたが……劉宏様。 私が代っても」「そうだな……余の身体は悪い。 聞き役に徹するとしよう」「では……」言葉を区切る張譲は、最初と同じように帝の前で一度礼を取ると同じように一刀へと相対する。一刀もまた、座ったままでは在るが繰り返すように張譲へと険しい顔を向けていた。「天代様、まずは―――」「張譲殿。 漢王朝を左右する話とはなんですか」「その前に、先ほどの趙忠の呼び出しについてお聞かせ戴こう」「この場は俺を詰問する場所では無かったと思うけれど」「これは異な事を。 私は帝の最初の問いを反芻しているだけで御座います」「……趙忠さんからの使者は現れませんでした。 その逆に、何度かの訪問を断られる形で追い出されております。 故に、この件に関しては不幸な入れ違いが在ったと思われ、自分の本意ではないということを断言します」「……」確認するかのように、張譲は玉座へ座る劉宏へと首を向けた。ゆっくりと頷く劉宏に、張譲もまたゆっくりと頷いて、視線を一刀に移す。「次に、これもまた聞かなければなりませぬ」「……」『段珪さんが居る、朱里と雛里の事に突っ込まれるかも知れない』『それは避けられないかも、どっちにしろ玉璽か雛里達の件か、どっちかだ』「玉璽に関して、天代様には覚えがありますかな」眼を瞑って、左右に歩き出した張譲の声に一刀はやはり―――と密かに呟いた。「黄巾党がここ、洛陽へと攻め上った際に火急故、使用しました。 その時、発見に至ったのは洛陽の街中であり、宮中へ上がる前に偶然発見したものです」「なるほど、虚偽ではないですな」「疑われること事態が心外です。 また、玉璽は劉協様から言われて返還したことも併せて言わせてもらいます」「うむ……天代の申したことは理解した。 では、私がこの質問を天代にした意図を話すと致します。 ここに、段珪殿より戻ってきた玉璽がございます」言いながら懐から取り出して、良く見えるように近くに在る台座へと玉璽をコトリ、と置く。それは確かに玉璽であった。一刀も実際に二度、三度、策の実行の為に手を取って押捺したのだから記憶に新しい。段珪の手から、という言葉から考えて、一刀が劉協に預けた元から戻ったことは間違いない。それらを見届けた一刀は、同じように張譲の懐から取り出された物に驚愕し眼を見開くことになった。形や大きさ、意匠はかなり似せられているそれ。色合いが妙に新しく、張譲の手によって台座に並べられた玉璽と“何か”はともすれば新しい物と古い物が並べられた、そう言って良い景色であった。「そして、おかしな事にこちらにも玉璽が」『馬鹿な! 玉璽が二つだって!?』『―――あっ……まさか……』『“呉の”、何がだよ!?』「玉璽が二つ在るのは一体どういうことなのか、皆に良く聞いて貰いたい。 まず、先に取り出したこちらは、帝である劉宏様自身に確認を済ませており 長年、劉宏様以前の帝もご使用されていた物であるのは間違いない。 これは、先の通り段珪殿の手から戻ってきた。 そして、新しく作られたとしか思えない玉璽は―――先ごろ、天代からという触れで同じように、段珪殿から返還された物だ」「違う! 嘘だそれは―――っ!」「天代様、発言は今しばらく控えてくれないか!」「張譲殿! 続きを!」一刀が感情のまま叫ぶのを遮るかのように、十常侍である男の大きな声が飛んでくる。躊躇いの無いその大声は、まるで打ち合わせしたかのように滑らかだ。決定的だ。証拠なんて必要ない。今この瞬間、一刀は張譲の謀略の最中に居る。「……この一件に気がついたのは、諸侯の声からで御座いました。 漢王朝に尽くして長い、亡くなられた丁原殿から私の元に手紙が送られてきたのです。 この、新たに作り出されただろう玉璽印を用いた書状と共に」「馬鹿なことを! 俺が使った玉璽は―――」『本体! 待ってくれ! 今、麗羽の、斗詩の事を言うつもりだったんじゃないか!』『“袁の”、やめろよ!』「なんですかな?」(良いだろ! 俺は事実を言うだけだ!)『麗羽を巻き込むないでくれ! 頼むよっ!』『けど、けど、ここで否定しないと―――帝も居るんだぞ!』『分かってるけど、判るだろ! お前らなら!』『それは我がままだ!』『冷静になれよ! 俺は“袁の”の意見に付く。 同情心じゃなく、どう転ぶか判らない以上……いや、悪転するだろう今、誰かを不用意に巻き込むべきじゃないだろ』『それこそ同情のような物だろ! 今の立場を失ったらどうなるか知っている筈だ!』『それは―――、けどっ』(お前ら好き勝手言いやがって! 言わないでどうしろっていうんだよ!)「続けますぞ。 この一事を知った私は、これが何処で作られたのかを調べました。 その結果、これを彫っただろう人物と所縁のある者と接触に成功し、その者をこの場に呼んでおります」一刀が誰に悟られることなく心中で口論をしている間にも、話は進んでいき張譲の言葉尻に反応するように前へ出たのは、趙忠の後ろに控えた見覚えの無い男。目つき鋭く、もともとが縮れているのだろうか、細かなウェーブを描きながら一見すれば不潔にも見える荒い黒髪。その相貌に似合わぬ豪華な意匠が施された帽子を被り、口元に生えた髭は顎まで生えて長かった。男は張譲に習うよう、発言前に玉座の前に出て一礼すると口を開いた。「一介の庶民であった私がこの場での発言を許されますよう。 私は洛陽で彫師をして生計を営む李儒と申します。 私の師である彫師が、この玉璽を手がけたことを、この場でハッキリと証言致します」『李儒……!? か、髪と髭が……まさか!』「り、李儒……だって?」「おや? 天代様。 知己でございますか?」『名前は知ってるけど、誰なんだ、“董の”!』「し、知らない……」知っていた。知らないのに、知っていた―――知識が在るから。その本体から漏れた言葉は、しかしこの場では漏らしてはいけないことだった。僅かにでも、この張譲と共謀しているだろう李儒に対して反応を示せば“玉璽を生んだ彫師”との繋がりを仄めかしてしまうからだ。しかし、時はさかしまには還らない。一刀が驚くように李儒の名を呟いたことは、この玉座に居る全員へと聞こえたのである。それを切っ掛けに、大きなどよめきが玉座に巻き起こる。同時に、劉宏の眉間に苦悶とは無縁の皺が刻まれたが、それは誰一人として気がついた者は居なかった。この一刀の失態を見逃す張譲では無かった。さかしまに還らぬ時は進む。「……この新しい玉璽には、何度か押印された形跡が見られます。 丁原殿の遺書とも言えそうなこの手紙には、玉璽に従い戦へ赴いたと確かな筆跡が残っておられます。 帝への無断での使用。 天代という名で浮かれておられたか、諸侯を勝手に動かし軍権を濫用した事実。 なによりも、今の反応から李儒殿を知っておられる様子の天代様には言わずとも判るでしょう」(言うぞ! もう待てない!)『待てよっ!』『“袁の”っ!』『本体、俺は―――っ』「っっ待ってくれ! 黄巾党の対処には丁原さんを初めとする諸侯の援軍がなければ洛陽は攻め込まれていたかも知れない! 玉璽も古い物を使った! 長らく使って草臥れた紋印を確認すれば、俺が本物の玉璽を―――っ」(おい、ふざけんなっ! 勝手なことをしないでくれよっ! 黙ってろよっ!)『―――っ!』『あ……』一刀の反論は、口論を繰り返す誰よりも先に咄嗟に入れ替わった“白の”の意識が途切れるその瞬間までだった。主導権を取り戻した一刀は、一つ大きく息を吐き出した。急に室内の気温が上がったように思える。じんわりと額から汗が滲み出て、息苦しく、感覚が身体の奥底から沸いてくるように何時かにある頭痛がぶり返した。口の中の唾液が乾き、視界に居並ぶ周囲の者達の視線が居心地の悪さに拍車がかかる。それはこの玉座に訪れてから、一刀が常に感じていた物ではあった。ここに来て、その感覚が増大し自身を大きく圧迫して始めていることに気が付くと同時に悟る。声が無い。今の今まで、この場で騒ぎ続けていた頭の中が、忘れて久しいほどクリアだ。頭を鈍器で打つような、痛みを除けば。不自然に論を止めた一刀に確認するように、張譲の声が飛んできたのは脳内の声が止んだことに気が付いた直後であった。「天代様、どうなされた」「う……あ、紋印の、その……手紙と、玉璽の紋印を確認すれば……」大きな動揺を抱えつつ、一刀は“白の”の言葉を引き継ぐように震える声で言った。その言葉を受けて、しばし一刀の様子を観察するように見やった張譲は、李儒と呼ばれる男に視線を向けて頷いた。李儒は一刀と張譲を一瞥してから懐に手を伸ばして、やや草臥れた様子の書を取り出す。それは壇下に居る一刀の目にも装丁から大きさまで、一刀が丁原へと出した物と一致しているように見える。静々と歩き出し、張譲へと手渡すと礼を一つ、頭を下げて李儒は止まった。その、いやに緩慢な動きが一刀の精神を圧迫していく。何故、たかが書物を受け渡す為だけにこれだけの時間をかけるのだ。丁原の手紙をこの場に用意していたのなら、こんな時間をかける必要は無いのではないか。今までの流れから確実に張譲と李儒は共謀していると言える。あれは似ているだけで―――丁原の手紙ではないのでは?「……み、みんな……」口が僅かに開かれただけにしか見えない程の小さな呟き。一刀の声に、誰かの答えが返ってくることは無かった。書を受け取った張譲は、一刀に確認させる為だろう。何時もと代わらぬ歩調で階段を降りはじめ、その度に僅かなどよめきだけを残す玉座にコツリ、コツリと足音を響かせて近づいてくる。知らず喉を鳴らし、見上げる一刀の視界の端で、未だ頭を下げたままの李儒の口元に弧が描かれるのを見た気がした。刹那、感情が迸る。「ま……待てっ!」「……?」その制止の声は、思いのほか大きく玉座に響き渡った。自身の声に押されるように一刀は立ち上がり、階段の途中で歩みを止めた張譲へと手を向ける。「そ、それは本当に俺が出した物か!?」「天代様、それこそご自身で確認されては如何でしょう」「だ、だけど……」それが罠なんじゃないか。喚きたくてたまらない感情を押し殺して、一刀は口ごもった。相手が堂々と、お前の出した物ならば自分で確認しろと言っているのに、一刀が渋っていては矛盾した話になる。判っていても、歪んだ口元が脳裏に走り、張譲が持つ一枚の紙が一刀に久しく忘れた強い恐怖を与えていた。一つ首を振って、張譲は階段を一つ降りる。その一歩に気圧されるように一刀の身体が、僅かに身を引くように下がる。「……よい」互いの距離は、それ以上に近づくことは無かった。張譲の声から始まった一連の流れに、黙していた玉座の主、劉宏の声が一つ飛んできて。「もう、よい。 互いの様子を見れば余にも判る……張譲。 話を先に進めよ」「ち、違う、劉宏様……これは……」「だ、黙れ! これだけでは、これだけでは無いのだろうっ! 張譲から、全て、全て、聞いておるっ、話してやれ!」吐き捨てるように言い終わる直後、激しく咳き込みながらも帝は立ち上がった。つれて、趙忠が肩を貸して支えながら。張譲はその場から動かず、顔を巡らして段珪を一瞥すると、帝の声に命ぜられるまま口を開く。「……段珪殿から、天代の虚偽が発覚しております。 先の黄巾の反乱に加わった諸葛孔明、鳳士元の二人に対して与えられた刑罰が完全に履行されていないこと。 劉協様の居られる離宮にて、二人の罪人の眼が存在すると」「……」「これに対して、天代様から何か申し開きはあられるか」「……そ……それ……それは…………」申し開くことなどない。これだけは一刀の―――脳内共に併せた願いからとはいえ、自身も認めている―――我侭から、行ったことである。意味の無い言葉を繰り返すことしかできない。それを見ながら張譲は丁原からの手紙かも知れない書を懐に収めつつ、帝の横に戻るように階段を上がりながら声を響かせる。「―――、あの刑罰の内容は全て天代が独断で決められたことを、大将軍である何進殿から聞きだしております。 加えて、今では天医として名高い華佗殿と懇意である天代は、彼にもこの話を通していたことと思われまする。 ここで一つ、私にはまさかと思いながらも捨てきれぬ考えが思い浮かんでしまった」言葉を区切り「天代様は―――」片手を一刀へと指し示し「漢王朝、その帝位を簒奪する気ではないかと!」今までに無いくらい、語気を強めて凛とした声を響かせた。この暴論とも思える張譲の言葉に、一刀の感情は爆発した。圧されるように身を引いていた身体が前に、身を震わせて声を荒げる。ガンガンと響く頭が痛い。「妄言を言うな! 俺は一度もそんな事を考えたことは無いっ!」「西園三軍! 帝、ひいては漢王朝を守る為の盾として作られた筈の軍権はいずれも天代との繋がりの強い諸侯だけで構成されておりますな! 頂点に劉宏様の名はあれど、事実上、軍として機能するのは天代の下まで! どう考えても軍権を牛耳る為に名を連ねたようにしか思えぬ有様だ!」「さ、先の黄巾の乱で信頼できる人物を選んだに過ぎない! そんなつもりは欠片も―――」「加えて!」一刀の大声を遮るように、張譲の険しい声が覆いかぶさる。「段珪殿から、そして私自身も天代様から聞かされたもので、言い逃れ出来ぬものが在る! 天代は個人的理由から劉協様の下に外戚を集め、これに一軍を与えるという挙に出ようとしているのだ! “死ぬことよりも苦しい罰”という名目で先ほどの諸葛孔明、鳳士元を放り出し自分の部下に一軍を与えて 虚偽の報告を見破られぬよう逃がそうとしているのではないか!? 更に言えば、自身の保身の他に『黄巾党の幹部』であった両名を外へ泳がすことによって、何かしらの陰謀がある 可能性すら浮かんでくる。 玉璽を無断で使用し、軍権を牛耳り、帝を蔑ろにするばかりか虚偽を連ねる天代に、帝位を簒奪する気が無いと誰がいえるか! 違う―――そう言うのならば、納得できるだけの反論をこの場で聞かせて戴こう!」「張譲―――貴様っ……っ!」揺ぎ無い眼で、見下ろす張譲を一刀は射殺すように睨んで、言葉が出たのは怨嗟の声だけだった。一刀が張譲に詰められた問いは、真実が紛れ込んでいる分だけ反論が出来なかった。たとえ否定を返したところで、朱里や雛里の件にかこつけて突きこまれるのは明白でありそうなれば、彼女達は今度こそ生きていられなくなる。このまま黙っていても同じことかもしれないが。どちらにしろ、一刀は張譲の言葉を覆すだけの弁を持ち得なかった。自然、視線は泳ぎ顔を玉座から逸らして黙する一刀に―――決定打となる声は響き渡る。「協は……協も全て知っているのか」「……劉宏様。 劉協様は知っておられても、全てを天代から話されている訳ではございません。 この段珪、身命を賭して劉協様は天代に、その賢しい言で誑かされていたと証言致します」「っ……よくも、余を裏切ってくれたものだ……天代として……いや、天の御使いと聞いて、余はどれだけお前に……一刀っ……!」その劉宏の声もまた、大きく震えていた。病を押して、この場に居ることだけが原因ではない―――明らかな失望と怒りが覗ける声色であった。「こ、殺せ……」「りゅ、劉宏様……っ!」頭痛が止まない一刀に、その声は大きく響いて心身に衝撃を与えた。「殺せ! 貌も見たくないわっ!」一刀へ手を振り上げて、ハッキリと断言して病に犯されているとは思えない程、大きな声が玉座に響く。官僚の一人が、帝の声に反応し、慌てた様子で室内に設置された銅鑼を鳴り響かせた。詰めていたのだろう。殆ど間を置かずして玉座にある幾つかの入り口から、槍や刀剣を持った兵達が扉を開け放ち、走りこんでくる。おそらく理由や経緯は知らぬであろう、帝の近衛として控えていた兵達は、玉座の間に居る人物を慌しげに見回しながら何事かと尋ねてきた。「一体何が!」「どうされましたか!」「天代様、いや北郷一刀をこの場で殺せと、帝の命だ!」「早く殺せ!」何人かの声が切っ掛けに、部屋の中央に居る一刀を取り囲むようにして銀の刃が向けられる。その間も、一刀はずっと張譲を睨み続けていた。金属と金属が打ち鳴らされ、響いた高い音にようやく、一刀は自分が周囲を刃に取り囲まれていることに気が付く。怒りからか、それとも恐れからか。一刀は歯の根を震わして周囲の兵達をぐるり見回した。「なんでだ、早く何か言えよ」「……?」「……だ、誰か、居るだろ……」「なんだ?」「て、天代様?」「誰か、居るだろ! 答えろよっ!」自分自身に問う一刀の声は、徐々に語気を強めて周囲を動揺させた。また、兵の者達に、今の今まで天代として敬われていた一刀へと刃を向けること。その事実そのものに抵抗のある者が多かったのも原因の一つだった。そんな周囲を他所に、一刀は自身へ向けて声を荒げた。今の一刀に出来るのは、窮地にあって自分自身に縋ることであった。その声に、反応する者は居ない。「殺せっ!」命ずる声に、兵の全員が一瞬だけ顔を合わせて、そして―――「何で誰も居なくなるんだぁぁぁあーーーーーー!」「お待ちくだされっ!」一刀の叫びに負けぬくらいに、劉宏の、そして兵の動きを制止するよう大きな声を発したのは張譲であった。―――槍の穂先が炎に照らされ赤い光を反射し、一刀に刃が突きつけられている最中。張譲が言ったことは、ここで天代を亡き者にすることは、大きな失態となることを指摘していた。一刀がこの漢王朝に現れ、天の御使いを名乗り始めてからおおよそ半年以上。その間、一刀は黄巾党の目に見える侵略を戦で叩き潰し、新たな政策―――天の政策として―――王朝に深く関わってきていた。その築き上げてきた民達からの信頼と、風評はとてつもなく大きな物である。多くの出来事は偶然の流れかも知れないが、民から信望される一刀を外様から見て無意味に処断することは漢王朝、或いは帝である劉宏に非難が集まることに繋がりかねない。故に、張譲が帝へ進言したのは、身分役職全てを取り上げた上での一刀の追放であった。興奮していた帝は、これに最初首を振っていたが、周りの官僚や十常侍たちも張譲の言が理に適っている為か強行しようとする帝を諌めるようにして、最終的には縦に頷くこととなった。帝は、これに頷いてすぐに部屋へ戻ることを告げて、いきり立つように趙忠に支えながらも自らの足で歩き、玉座から立ち去った……結局、一刀に言い渡された追放の処分には皮肉にも朱里や雛里に告げた物と同種の物だった。帝の代わりでもある“天代”になってからの積み重なる虚偽は許されざることであり外とは違う形で、内から漢王朝に大きな危機を齎したとされ、未だ不安定な大陸の情勢を治めるよう僅か兵3000を伴って黄巾党残党を狩るよう言い渡されたのである。当然ながら、漢王朝からの補給は見込めない。この3000という数字に、一刀は思い当たる節がある。洛陽郊外へ演習をしに行った何進と蹇碩の二人が、“天の御使い”の名で集った人数。その中で、演習の関係上、洛陽に留まっているはずの数字と一緒であった。これは、一刀を慕って集まった民を、同時に放り出すことを意味していたのだと処分を俯きながら聞かされた一刀が思い至ったことである。信者、という訳ではないが、天代を慕う者はいらないという事なのだろう。自棄になってその兵を用い、漢王朝に刃を向ければ張譲達から言えばしめたものだ。そういう考えが透けて見えてしまった。「劉協様の居られる離宮には近づかないで貰いたい」「段珪殿がおっしゃる不安も良くわかる。 牢に入れてしまうか」「ばか者が。 牢に入れれば何事かと周囲が騒ぐわ」「天代という者の厄介さが、改めて分かるな……ふんっ」 「どちらにしろ、この宮内の一室に閉じ込めて置くほうが良い」終始無言で、一刀はそうした話し合いを聞き流して、やがて意見が纏まったのか。一人の男が刃を向ける兵の垣根を割って、現れる。段珪であった。「北郷一刀」「……」顔を上げた一刀は、胡乱な眼を向けて段珪と相対した。その貌には、常では在り得ないほど、無感動な表情を張り付かせて。「ついて参られよ。 漢王朝を出るまで過ごす部屋へ、案内しよう」「……」幾人かの兵を連れ立って、一刀は段珪の後を追うように退室した。この宮内の中には、一刀が一時的に忙殺された為に誂えた緊急の執務室がある。その場所が、事実上軟禁されることになる場所と決まったようであった。短い期間に何度も何度も往復した道を辿って、段珪の後を追う。途中、汗をかいて大きな息を吐き出す曹騰とすれ違ったが、両者とも何を話すわけでもなく僅かに視線を交わしただけであった。一刀の使っていた執務室の扉に手をかけて、段珪はそこで初めて一刀に対して口を開いた。「恨まれますか」「……」「覚悟の上でございます。 劉協様にとって、一刀様は居ない方が良い」「……何故」「あなたが甘いからだ。 諸葛亮と鳳統は、生かすべきでは無かった」「本当に……それだけなのか……あなたは……」「……入りなさい。 明日か、明後日か。 出立がいつかは判らぬが、覚悟を決めることだ」今朝、荷物を纏めたばかりの部屋の中は、幾つかの大きな家具や元からこの場所に在った小道具だけ。がらんどうとした室内は、夏だというのにうすら寒く感じた。一刀が中に入ったことを確認して、段珪が扉をパタリと閉める。やがて、外で何事かを話し合い、離れていく多くの足音。足音が消えれば衣擦れ一つしないシンとした静寂が包むことから、見張りすらつけなかったようだ。確かに、逃げてしまえば自分の非を認めるような形になり、大手を振って天代の目論みは帝位の簒奪だったと言える口実を与える。逃げたいのならばご自由に、という所なのだろう。部屋の中央で、何をするでもなく立ち尽くす一刀の心中は、酷く荒んでいた。たった今起きた、玉座の出来事を反芻して、後悔の念ばかりが心に刻まれていく。何よりも。『……っ』『おい……此処は何処だ』響く頭痛の中、謀ったかのように帰ってきた自分の声に深い苛立ちを感じて。『なぁ……本体、どうしてこんな所に居るんだよ』『玉座の間に居たはずだろ……』『説明してくれ!』喚くように、一刀の中で声が吹き荒れる。勝手じゃないか。自分があれだけ呼んでいたのに、どうして今更になって戻ってくるのだ。誰もかれも、一番苦しい時に黙り込んで、まるで見捨てられたような気持ちだった。『本体―――』「黙れよっ!」一喝するような鋭い声が、一刀の口から吐き出された。ああ、確かに願ったかもしれない。袁紹の事を槍玉に挙げて、矛を逸らそうとしたのは認めよう。その後にフォローすれば、あの場を切り抜ければ、袁紹も自分が守ってあげられると思ったからだ。だが、自分の中に住んでいる意識が、自分のことでもあるというのにまるで人事であるかのように呼びかけても答えず、勝手に口を動かすとはどういう了見なのだ。『……な、なんだよ』『本体……まさか、殺されるのか?』「五月蝿いって言っているだろ! 見てきたお前らなら、判っているくせに!」『何を熱くなってるんだよ!』『俺、気がついたら玉座の間からこの部屋に居たんだ! 教えてくれ、どう―――』「ふざけんなぁぁぁぁあ―ーーー!」一刀は、手近にあった椅子を蹴飛ばしながら怒りに任せて叫び散らした。木材の硬い音が、壁に跳ね返って響く。突然の凶行と、否定するように声を荒げる本体に、脳内の声も調子が強くなる。『おい! やめろよ!』『何してるんだ!』「何で! 何で! 何で俺がこんな目にあわなくちゃならないんだ! 俺が何度呼びかけたって、何にも言わなかったくせに! どうして! 何でだよ! 畜生! くそっ、クソぉぉお!」壁に跳ね返り戻ってきた椅子の足を持ち、叩き付けるように机とぶつける。4つ在る足の一本と背もたれが砕け散って、周囲に僅かな埃を巻き上げて散らばった。そのまま、机の上に在る道具も凪ぎ飛ばすように水平に叩き付け、その衝撃でグラリと一刀に向かって倒れこんできた机を足で押し出すように蹴り出す。『おい! 代わっちまえ!』『やめろよ! 訳わかんねーよ!』『早く誰か止めろよ!』『―――なんで! 本体が動かせない!』『やってるよ! でも本体が―――』「うわああああああああっ!」結局、脳内の誰もが本体と入れ替わることは出来なかった。引き出しは割れ、机の表面には無数の細かい傷がついて、上に乗っていた道具は全て床へと散らばった。唯一、取り付けられた窓にも皹が入って、ようやく荒い息を吐き出しながら一刀の動きは止まった。こうなってしまっては、一刀が天代で在ることは難しい。天代でなければ、一刀は何も出来なくなる。劉協と真名を預けられるほどの信頼と共に交わした約束も。朱里と雛里にあれだけ偉そうに道を示して、交わした約束も。劉協に仕えている音々音も、一刀を追う事は、出来ないし、漢王朝から追放される自分に付いてこさせてはいけない。まるで、今まで築き上げて見えゆる視界が薄く翳るように。すべて、全部、何もかも、泡沫の夢となって失ったのだ。頭が痛い。「ははっ……自分に裏切られるって、こういうことなんだな」『お前、俺達は何もわからないのに一人で結論付けるなよ!』『はっ……なるほど』『なんだよ、“白の”』『簡単な話じゃないか。 確かに俺達は本体を動かせるんだろう。 じゃあ、俺達が出来て本体に出来ないって話があるか? 今、必死に止めようと入ろうとして拒否されたのが何よりも明確に示してるじゃないか』「何が言いたいんだよ、お前!」『本体自身が、俺達のことを追い出したんだろ? 自分自身に裏切られた? そんなの俺にだって言える』『“白の”! いいすぎだ!』『悪い、俺も“白の”の言うことが言いすぎだとは思えない。 自分で追い出しておきながら、今更泣き言を言うなんてみっともないね』『おい! “無の”!』「好き勝手に言いやがって……っ、誰が苦労してると思ってるんだ!」頭が痛い。『苦労してるのはお互い様だろ! 熱くなるなよ皆!』『俺達が居なかったら、お前どうしてたんだよ!』『やめろよっ! 本体、玉座の間での出来事を話してくれ!』『“蜀の”も“董の”もいい加減に判れよ! 俺達が、どういう思いで本体の中に居るのかを知っているだろうがっ!』『本体の外史になんで付き合わなくちゃならないんだって話だ!』『今更それを言ってどうするんだよ! みんなで協力してやってきたじゃないかっ!』『皆我慢してんだ! 勝手な理屈で切れられて、居場所まで否定されるなら、俺はこんなところ御免だね!』 「なんだ! 今まで嫌々に付き合ってきたのかよお前ら! は、ハハハッ、笑えない冗談だ! 俺は、お前達の為にも、って、ずっと思ってきたのに、お前らはそうだったんだな! 最低だ!」『それを言ったら俺達だってそうだったんだよ!』『てめぇら五月蝿ぇんだよ! ゴチャゴチャと、少しくらい落ち着いて話せ!』『“馬の”、お前にそっくりそのまま返すわ。 正直言って話し合いにもならないね、こんな状態じゃ』『一番に我侭を言い始めた“袁の”に言われたくないけどな』『なんだよ!?』『何が!』「……もういい、五月蝿い……消えろよお前ら―――ぐ!?」頭が、痛かった。周囲の音や声が、何も聞こえないくらいに―――酷く。「あ"あ"あ"あああ"ああ"ああ"ぁぁ"ぁ"ぁあ"あ"ぁぁあ"あぁ"ああ"あ"ああ"あ"あ!!!!!!」激烈な痛みに、一刀は獣のような呻き声をあげて蹲る。世界がひっくり返ったかのように、自分の立って居る場所が覚束ない。グルリグルリと回る視界に耐えかねて、頭と目頭を押さえて倒れこむ。頭が割れそうだった。このまま、死んでしまうかも―――いや、いっその事死んでしまった方が楽になれるのではないか。そう思ってしまうほどに、一刀はどうしようもない痛みに耐えかねて、地ベタを這いずっていた。そんな一刀の異常にいち早く気が付いて駆けつけるのは、何時だって彼女であった。―――「か……一刀殿」呻き声をあげることだけしか出来なかった一刀は、滑り込むように飛んできたその声に俯いた身体を起こして生気の欠ける目で見やる。扉を開いて、一刀の異常な状態を呆然と見ていたのは、音々音。呆けるように周囲を見回して、惨状となった室内に一歩踏み入れた足元から、ガラスのような物を踏みしめてパキリと軽い音が鳴った。誰かが暴れたとしか思えない部屋。音々音はもう一度一刀へと視線を向けて、口を開いた。「こ、これは……」「……ねね」明かりも無い室内は、扉から差し込む光と、僅かな月の光だけが光源であり呟きと共に、頭を抑えて立ち上がる一刀は、その貌も相まって幽鬼染みていた。「うっ……」「一刀殿!」鳴り止まぬ鈍痛に、一刀は一つ呻くと扉を閉めて一刀へと駆け寄り、蹲った彼の様子を窺うように覗き込む。音々音の気配が真横に近づいて、一刀は隠れるように顔を俯かせた。「……嫌われなきゃ」背中に触れた音々音の手の体温に、一刀は小さく何かを呟いた。その声は、やはり誰にも聞こえず、一刀以外に判るはずもない声量であった。「一刀殿……あっ!?」声なく、一刀が音々音の腕を引き込むように手繰り寄せると、まるで互いの頭がぶつかるようにして抱き寄せられる。突然の一刀の行為に、抵抗する間も無く音々音は抱き上げられた。感じる重力と、引っ張られる空気に、自分が抱えられて移動していることが判る。瞬間、衝撃。背中を打つような衝撃は、地面にしては事のほか柔らかく受け止められた。軋みを上げて揺れる床。そこは、一刀の為に誂えられた仮眠用の寝床であった。飛び込むようにして床へ押し付けられた衝撃から、音々音の被る帽子はコロリと転がって、地に落ちた。連れられるように抱き上げられたせいか、紐で止めていた赤い宝石を誂えた髪留めも、何時の間にか解けて翡翠に近い色合いの髪が揺れて、広がる。「か、一刀殿、何を―――」「……っ……うっ……」「か……一刀殿」見上げる音々音の視界に広がるのは、歯を食いしばって苦痛に耐える一刀の姿であった。驚き、呆けた音々音はそれだけを呟くことしか出来なかった。一刀と出会ってから、きっと今まで一番長く傍に在った彼女でも、こうした顔を見るのは初めてだった。まるで今にも泣きながら消えていきそうな、辛く重い貌。何に巻き込まれても、弱音を吐いても、決して見せなかった歪な表情。何が在って、どういう経緯でこうなったか等、話を聞くまでも無く理解できる。だって、苦しくても辛くても駆け続けたのは、目の前の男の為なのだ。その余りに痛々しい一刀の様子に、音々音は思わず顔に手を伸ばし―――その手を一刀に叩かれる。「痛っ―――!」打ち据えられた痛みに短く苦悶の声をあげると、外套として常に身を纏う黒色のマントが翻った。糸が張力に耐え切れぬよう、ブツリという音と共にかけられたボタンは弾け飛び薄い、白色の上着とカットジーンズのような短いパンツだけになる。「か―――んむっ!?」何事かを話そうと口を開いた音々音の口内を蹂躙するように、一刀は唇を合わせた。一刀の口の中は果たして、切れていたのか。鈍い鉄の味がじわりと舌を伝わせ音々音の中に入ってくる。もともと、息の荒かった一刀の鼻から吹き付けられる空気が、耳朶を響かせて。自身の身に纏う物が、衣を力任せに引き裂かれる音だけで剥ぎ取られていくのが良くわかる。もともとが暑さから薄着である。時間かけず、胸部は晒されて、その白い肢体を暗闇の中で映えさせていた。一刀の腰と太腿に抱えられるようにして飛び出した足がピクリと、跳ねる。口内を舐る一刀の舌は、悲しいくらいに強く、音々音の唇の端を切る程に強くて。他の誰でもない。強姦そのものの突然の行為の裏に、吹き荒れる熱情を確かに、彼女は感じていた。長く続いた強いキスは、やがて離れ、赤と白の線を描いて垂れる。ようやく離れた時、目端に涙を浮かべていたのは一刀ではなく、音々音の方であった。一刀からの声は、行為を通じて確かに胸を打って届いていた。きっと、もう会えなくなるから。そんな確信が、音々音の中でストンと落ちてきた時には、もうどうにも出来なかった。鼻の頭がツンとするような、熱を持って目端に零れる涙を止めることは出来なかったのだ。「……あぁ」身を引いて、音々音の涙を見た一刀の漏らすように出た声と共に動きが止まる。月明かりに照らされて、赤い線が至るところに見える白い肌と、横向き流れる雫に鳴り止まない激烈な頭痛すらも忘れて、その姿に見入ってしまった。乱れた髪の端を伝って、結わえていた赤い宝玉が音々音の髪から滑り落ちるように晒された胸元に落ちていく。コロリと転がって、それは腹部から逸れて寝床に落ちた。宝玉に映り込む、自身の貌に一刀の表情は歪む。なんという憔悴した貌か。まるで、病状に伏せていた劉宏のように、生気の無い顔であった。「……あああ……」目を瞑り、僅かに奮え、耐えるように涙を流す音々音に、一刀は泣き声のような声しか出せなかった。一緒に入れないから、嫌われなくちゃいけないから、あとくされの無い一番の方法だと思うことを実行しただけなのにたった一粒の涙で、もう音々音に対して何かをするなんてことは出来なくなってしまった。同時、こんなにも中途半端で終わらせようとする自身が酷く醜かった。未練がましく、服を引き千切り、犯そうとした自分をまだ、庇おうとしていると。その上で、自分を好いて貰えるのでは無いかと。情けなさと醜さに、自棄になってまた、醜態を晒して強く想う人を泣かせている。目を強く瞑って、一刀は続けるかどうかを自問した。声は上がらない。強い頭痛がまた、ぶり返して、ともすればこのまま全てを忘れて倒れてしまいたい誘惑に駆られてしまう。音々音の太腿の間から、僅かに鳴動する呼吸の音を感じて、うっすらと瞼を上げれば交叉する視線。目端に浮かべた涙を拭うこともせず、ただ、ただ一刀を見上げ両の手を一刀の腕に置く音々音の顔。その目には、諦めも、絶望も無く。強く称えられた紅を思わせる瞳が真っ直ぐ一刀に向けられて、揺らぐだけであった。この自分の愚かな行為を、彼女は何を思って受け入れたのか。ああ。愛しい。こんなにも誰かを想うことなど、在り得ないと思っていた。ほんの数時間前まで、芽吹いていた感情の花はこの瞬間に開ききった。離れたくない。目の前の女(ひと)と、片時も。そう思える、初めての彼女に、これ以上に我を通して悲しませることなんてしたくない。なんて、馬鹿なのだろう……後悔に押しつぶされそうになりながらも、絞るように一刀はねねへと口を開いた。「……ねね、ごめん」「……あ」身を引いて、彼女の手をほどきながら起き上がろうとした一刀だが、離れることは叶わなかった。それどころか、一刀の拘束が緩んで、身体を引いた瞬間。逆に、一刀を押し倒すように身を起こして音々音は被さった。一刀の背に柔らかい弾力が感じられて、ぐるり回った視界に驚きながらも、その眼は音々音を捉えていた。そして額に走る衝撃に、一瞬だけ目を瞑る。再び開けた視界には、音々音が手を広げて、一刀の頭へと突き出すようにしている姿。音々音に軽く殴打され、呆けた視線を向けてしまう。「……今回は、これだけじゃ許さないのです」「……ねね」「一刀殿……一刀殿が墓参に行ってから、ねねの方では大事件があったのですぞ」「……ああ、俺も……あったよ……」「それはきっと、もしかしたら、一刀殿が危なくて、死んじゃうかも知れなくて……」涙声の音々音の声は、鈍く走る痛みを忘れるくらいにしっかりと、一刀の頭の中へ入ってくる。宮内に響いた音々音の声は、幻聴なんかじゃない。きっと最後の瞬間まで、一刀を追って来たのだ。詳しい経緯など聞くまでもなく、それだけはこの場に音々音が居ることで確信できた。「いっぱい、いっぱい走ったのです。 もう、疲れて死んじゃうくらいに―――」「ああ……」「ねねの事件は、これで……一刀殿の方は、後で聞かせてもらうのです」「ねね……俺は……俺―――」ベシリッ、と額に走る衝撃を感じて、一刀の声は詰まった。「一刀殿、後にしないとねねは許さないのです」「今日は厳しいな……」視界に映る音々音は泣いている。泣いているのに、笑顔であった。「一刀……お慕いしてるのです」「あぁ……っ」「だから……だから、ねねを優しく愛してくだされ」「ねね……っ!」もう言葉は要らなかった。強く抱きとめる腕の中、互いの息遣いと優しく包む体温に身を委ねて。お互いに、何があったのかすら話していないというのに、結果を知っている。それだけで十分だった。今はただ。この腕の中に居る愛しい人に、好である感情をぶつけるだけ。惨状と化した部屋の隅、差し込む月明かりに照らされて。薄影の果てぬ夢の中、一刀と音々音は「ひとよ」の交叉に互いの身を委ねた……―――幾度、二人で紡いだだろう。この時間を何時までも共有したい。そんな想いを抱えて、一刀はゆっくりと起き上がった。まだ、朝日が昇る前の暁の頃、空は白染んで、星と月が天を彩っていた。一刀がこの大陸に訪れてから抱える、殆どの柵は音々音の胸の内に息づくことだろう。自分の中に自分が在ること。そんな自分達が、何度も別の大陸で天の御使いとなったこと。大きな歴史と、漢王朝そのものの行く末。同じように、音々音からも段珪が裏切るようにしてあの場に玉座に居た理由が判る。勝手な憶測だが、音々音が持っていた紙片に書かれていた人物は、段珪の子なのだろうと一刀は思った。いつか、劉協の元を離れて共に暮らすのだと、笑って話したあの時。彼の笑顔に、一刀は理不尽な物を感じながらも劉協へと仕えることに承諾したような気がする。劉協にとって自分が居ない方が良いと言ったのも、一刀自身がこうなってしまっては本音であったのだろう。彼は、劉協のことも我が子のように想っていると話していた。言うなれば、愛しい子を想う親心を利用されたにすぎないのだ。音々音に置き換えてしまえば、今の一刀には十分に過ぎる理由だった。許せることではないが、判ってしまう。皮肉な話だな、と一刀は一人ごちた。もう、洛陽に居ることのできる時間は無い。この場で出来ないことを、追い出されることになった自分が何を出来るのか。きっとまたゼロからのスタートだ。この大陸に落ちた時と違うのは、自らの胸に吹き荒れる確かな決意。なにが在っても、いつか必ずこの場所に戻ってくる―――自分を含めた、愛する人の為に。ああ、そうか。一刀は一人納得した。驚くほど痛みの残っていない頭痛の原因は、自分の心の弱さが原因であったのか。あの絶望感に立ち向かう勇気を、自分以外の北郷一刀は持っていたという事、だろう。普段のように、脳内の自分達が居ることを、何時もよりも強く実感できた。自然、口を開いて問いかける。「みんな、居るのか?」『……昨夜はお楽しみでしたね』『ぶっ、言いやがった!』『言わせろ言わせろ、俺達追い出して一人でハッスルダンスしやがって』『どんだけ引っ張るんだよっ!』『ハハハハッ』「ははっ……みんな、ごめん。 昨日はどうかしてたみたいだ」『まったくだ……まぁ、俺達もだけど……』『……本体、すまなかった』『ごめん』「いいんだ……それより、全部話すよ。 これからどうすれば良いのか、みんなの意見を聞きたい」『『『『『『ああ』』』』』』「一刀殿……?」一刀が自分との会話をしている声からか、寝床からムクリと起き上がる音々音。目の端を手で拭い、眠たいだろう瞼を持ち上げて一刀を呼んだ。そんな声に振り返って、一刀は笑顔を向けて「ねね、おはよう」「……お、おひょうなのでう」「あははっ、まだ眠いのかい?」「うっ、ち、違うのですぞ。 今のは、その……」音々音は一つ言葉を切って、恥ずかしそうに俯くとモゴモゴと口ごもった。そんな彼女の仕草が一刀の強い決意を塗り固めていく。ずっと向けられた視線に耐えかねたか、やがて彼女は諦めるかのように声をあげた。「その、昨日よりもずっと、一刀殿が格好良く見えたから……」「……ああ、当たり前だろう。 こんなにも良い女が、傍に居るんだから格好よくもなるさ」「なぁっ―――……まったく、一刀殿はそうやってすぐ口説くのですから……」クスリと茶化すように浮かべた音々音の笑顔は、朝日に照らされて良く映えた。そんな音々音が引き裂かれた服の中でも、唯一と言って良い無事な外套を羽織るように身に纏い不器用に立ち上がると、コロリコロリと赤い宝玉が一刀の足元まで転がってきた。音々音の髪留めに誂えた物であった。一刀も音々音も、互いに音の鳴る宝玉を眺めて、口を開いたのは一刀であった。「……ねね、これ、貰ってもいいかい?」「え? 別にいいですけど……」「紐も」一刀の足に当たり、ようやく止まった宝玉を拾い上げて、一刀は僅かに空いた穴に紐を通した。それを手近にあった紐に繋げて、しっかりと結束して首にぶら下げる。一刀の行動を見て音々音も、もう片方ある髪留めを見やって暫し考え込んでから同じように髪留めを首飾りに変えて身に着けた。「……ねね、必ずまた」「……ねねは、今は劉協様にお仕えしております。 だから一刀殿」「ああ」「ねねは厳しいですから、覚悟するのです」「判ってる。 絶対、なんとかしてみるさ」「一刀殿ならば、きっと……信じているのです」やがて迎えた朝日が洛陽を照らした頃。音々音は劉協の居る離宮へと帰り、一刀はそれを見送った。窓から覗ける宮内と、洛陽の街の姿は今まで見ていた物とは少し違う印象を与えて、一刀の視界に広がっていた…… ■ 外史終了 ■